2008年06月30日(月)  『蘇る玉虫厨子』洞爺湖サミットへ!

わたしを大興奮させた平成プロジェクト制作のドキュメンタリー映画『蘇る玉虫厨子』のその後。名古屋での劇場公開が連日超満員で、日に日に人が増え、劇場側からの要望で7月12日から8月1日まで名演小劇場にて1日3回上映のアンコールロードショーが決定。さらに8月30日から9月12日までは静岡のシネギャラリーにて上映。北海道、金沢、高山でも上映を予定しているとのこと。さらに、「洞爺湖サミットで英語版("The Jewel Beetle Shrine Resurrected")公式上映」のニュース。6月末まで法隆寺の秘宝殿で展示されていた「平成の玉虫厨子」も洞爺湖サミットのゲストハウス・ゼロエミッションハウスにて展示されるそう。これを記念して東京での追加上映会が決定……という興奮づくしな案内メールがプロデューサーの益田祐美子さんから届いた。

会う人ことに「玉虫」をすすめているわたしとしては、ぜひ案内せねば、と思っているところに、大阪に住む母から夕刻届いた手紙は、これまた玉虫の話題。27日に法隆寺へ玉虫厨子を見に行った報告が綴られていた。母がバス停で一緒になった白ブラウスの女性は名古屋から。小学校の頃に呼んだ玉虫厨子の話が印象深く、映画があると聞いて初日に見に行き、職人さんたちの舞台挨拶も聞き、どうしても展示期間の6月中にと駆けつけられたのだとか。秘宝殿まで来てみると、黒ブラウスの女性が一人で見に来ていて、彼女も名古屋で映画を観てたことがわかり、白ブラウスと黒ブラウスのお二人は映画と目の前の玉虫厨子を重ねて鑑賞。そこに夫婦らしき二人が現れ、またもや「映画を観て名古屋から」。名古屋組は母が一巡して戻ってきてもまだ映画話に花を咲かせていたという。これだけ人を動かしてしまう映画をぜひ観たい、と母は興味をそそられたようだった。そういえば、一緒に映画を観たアサミちゃんとわたしも相次いで法隆寺へ向かった。1300年の時を越えて平成職人が飛鳥職人と魂の対話をする『蘇る玉虫厨子』は、余韻のスケールも桁が違う。洞爺湖サミットのゲストの目を見開かせるインパクトは十分にある。登場する職人の技と心意気も、蘇った玉虫厨子の見事な出来映えも、私財を投じた中田金太さんの生き方も、この貴重な出来事を映画という形に残そうとした益田さんも、三國連太郎さんの語りの味わいも、記録に感動を織り込んだ乾弘明監督の演出も、この一本の映画には日本の宝が詰まっている。

『蘇る玉虫厨子』洞爺湖サミット公式上映決定 記念上映会

上映日時 7月2日(水)
1回目:開場15:00/上映開始15:30(上映時間64分)
2回目:開場18:30/上映開始19:00(上映時間64分)
会費:1000円
会場:文化シャッター BXホール
 文京区西片1-17-3 TEL:03-5844-7700
 都営地下鉄三田線春日駅A6出口から徒歩3分>>>地図


2008年06月12日(木)  中田金太さんの置き土産『玉虫厨子』と対面
2008年03月27日(木) ブラボー!『蘇る玉虫厨子〜時空を超えた技の継承〜』

日本の宝といえば、益田さんの紹介で親しくさせていただいている素敵な素敵な田邊のおじさま、田邊勉さんが応援されている下垣真希さんの東京でのリサイタルの案内が、これまた申し合わせたように今日届いた。田邊さんにぜひにとすすめられ、歌と語りと人柄に聞き惚れたのが3年前(>>>2005年08月06日(土)  下垣真希 平和のリサイタル『命かがやいて』)。歌うように語り、語るように歌う、その声にゆたかな包容力とたしかな説得力があり、聴いていると心がほどけていく。この人が歌うほど、世の中が平和になって行きそうな気がする。

平和のリサイタル2008 『命の賛歌』
2008年8月3日(日) 14時開演(13時半開場)
浜離宮朝日ホール(大江戸線築地市場A2出口すぐ)
5000円(全指定席) 2000円(当日学生)
下垣真希(歌・語り)
ジャー・パンファン(二胡)
崎山弥生(ヴァイオリン)
北川美晃(ピアノ)
お申込み・お問合せ クレッシェンド企画 0120-208314

2006年06月30日(金)  中国語版『子ぎつねヘレンの10のおくりもの』
2002年06月30日(日)  FM COCOLOで『パコダテ人』宣伝
2001年06月30日(土)  2001年6月のおきらくレシピ
2000年06月30日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/28)


2008年06月29日(日)  マタニティオレンジ304 「たらちねの母」と「たらちねの女」

国文学者の中西進さんが新聞に「たらちねの母」と「たらちねの女」のことを書かれている記事を面白く読んだ。豊乳の美女が体型が崩れるのを恐れて授乳を怠った結果、乳腺炎と思われる症状に苦しんだ逸話がはるか昔の書物に残っているという話を引き合いに出し、乳の形を優先させて「女」として生きるか、乳の中身を役立てて「母」として生きるかが論じられている。

「たらちね」には無縁だったわたしは、妊娠出産で「たらちね」を体験したのだが、飲ませなければ泣き止まないし、こっちも乳腺炎で泣きを見るので、「たらちねの女」になる選択肢はなかった。わたしのオリジナル体型を知る人は、「お!」という反応を見せてくれたけれど、「たらちね」のおかげでモテることはなかった。やはり美女とセットでなくてはダメか。


わが「たらちね」はずいぶんしょんぼりしてきたけれど、娘のたまは二才を前にしても卒乳の気配を見せず、いまだに「たらちねの母」を引退できない。どこで覚えたのか、自分で編み出したのか、ボールをシャツの中に入れて「おっぱい!」とおどけていたたまは、最近ではぬいぐるみに授乳するようになった。だっこもさまになり、「たらちねの母」になりきっている。

2007年06月29日(金)  マタニティオレンジ137 おっぱいより朝ごはん
2002年06月29日(土)  パコダテ人大阪初日
2000年06月29日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/28)


2008年06月28日(土)  読んで満腹『おとなの味』(平松洋子)

フードジャーナリストの平松洋子さんが書かれた『おとなの味』を読む。「わたしの味」にはじまり「締めくくりの味」まで、「味」でまとめた65タイトルのエッセイ。「もうしわけない味」「奢った味」「男の味 女の味」「匂いの味」……。目移りしてしまうお品書きのように、簡潔だけれど想像力をかきたてるメニューが並んでいる。この人の書いたものを読むのは初めてだったけれど、食べることが本当に好きで、食べることと生きることがしっかり結びついている人という印象を受けた。おいしいものを食べると幸せな気持ちになるけれど、平松さんが綴るおいしいものの話を読むと、彼女の中に広がった幸せまでお裾分けされたような気分を味わえる。食べものの描写が活き活きと感覚に訴えるというのもあるけれど、平松さんの文章が、わたしの中にある幸せな食べもの体験を呼び起こすからなのだ、と気づいた。ある食べものを口に含んだとき、その味や香りと結びついた記憶が呼び覚まされる。それと同じことを、この本に書かれた「味」たちがやってくれたのだった。

娘の十一才の誕生日に、平松さんはお気に入りのレストランへ連れて行った。「贅沢を味わわせてやろうというのではない。かけがえのない贈りものを手渡してやりたかった。それも『もの』や『かたち』ではなく、精神の血肉を育てる真に豊かな味」。そう考えて導いた答えが、その店の味だった。そこで口にした生まれてはじめてのひと皿の味を娘は「わたしのたからもの」だと言い、「その夜着ていた服も履いていた靴も、座った席も、流れていた空気も、忘れられないという」。大人の椅子にぴんと背筋を伸ばして掛けている十一才の女の子を思い浮かべつつ、「忘れられない味」に出会った十二才の夏を思い出した。

その味は、初めての海外旅行で訪れた東ドイツのレストランで食べたコースのランチ。
ハンバーグステーキ以上の西洋料理を口にしたことがなかった中学一年生には、出てくるひと皿ひと皿が目新しく、口に運べば、未知なる味わいに陶然となり、この世にこんなおいしいものがあったのかと目を見張った。ところが、最後のデザートに出たパフェの生クリームに、あろうことかハエが着地した。わたしも焦ったけれど、ドイツのハエも焦ったようで、足をばたつかせるほどにクリームがからみついて体が沈んでいった。結局そのパフェを食べたのだったか、あきらめたのだったか。デザートのアクシデントも含めて忘れがたい食事となったその店の内装やテーブルの形や自分が座った場所まで、四半世紀以上前のことなのに、妙にありありと覚えている。味の記憶は思い出と強く結びつき、そのとき見た風景ごと保存されるのだ。

東ドイツにわたしと妹を連れて行ったとき、母は親戚から借金をしたと聞く。スーパーでは値引きシールのついたものを狙うくせに、外食や旅行には思い切ったお金の使い方をした。その大胆なメリハリのおかげで、わたしには「上等な味」や「めずらしい味」の記憶がたくさん残っている。そして、季節行事や誕生日などの祝い事に食事をからめてエンターテイメントにすることにも、今井家は積極的だった。父の厄よけに大量のぜんざいを作り、道行く人を呼び止めて食べてもらった(関西の風習らしい)日、漬け物がぜんざいの甘みを引き立てることを覚えた。

「雅子ちゃん、一年に晩ご飯は365回しかないから、一食一食を大切にしなさい」
大学一年生のときに下宿した家のダンナさんにそう言われたことも、本を読んでいて思い出した。何を食べるか、誰と食べるか、その一食一食があなたという人間を作るんだよと教えられた。同じ頃、大阪に帰省した折に母は「つきあいの金はけちったらあかん」と言われた。その結果、エンゲル係数の高い学生になったが、おいしいものを求めて京都の町を自転車で走り回り、出会ったあの味この味が学生時代の思い出を彩っている。

就職した広告会社には、わたし以上に食べることが好きな人が集まっていた。脚本の仕事をはじめ、知り合いがふえると、おいしいもの情報網が広がった。年齢とともに舌は肥えていく一方、高級店の一流の味でなくても、気の利いた会話があれば食事はごちそうになることを覚えた。

「すっかり忘れていること。忘れていることさえ気づかなかったこと。うっかり記憶の外に放り投げられていること。じつは、それらもまた、ひとりひとりを支えている。いやむしろ、覚えていること、知っていることなんかほんのわずかなのだ。知っていることに比べたら」というくだりが本文中にある。その「記憶の外」にあるもののいくつかをたぐり寄せ、あれをもう一度食べたいなあと舌なめずりしたり、一緒に食べた人の顔をひさしぶりに思い出したりし、自分がいかに食べものの幸せな記憶を持っているかということに気づいた。親に贈られた味。人生の先輩に教わった味。好きな人と見つけた味。わたしをつくってくれた、たくさんの味に感謝。

2006年06月28日(水)  ロナウジーニョとロナウドは別人?
2002年06月28日(金)  シンデレラが出会った魔女の靴


2008年06月27日(金)  マタニティオレンジ303 幻の一発芸、体文字の「TAMA」

「えむ(M)」に続いて「えー(A)」を体と言葉で表現することを覚えた娘のたまに、「てぃー(T)」を教えた。両手を左右に伸ばすポーズで、難易度はやさしく、すぐに「てぃー」と真似てくれたが、「T・A・M・A たま!」と続けてやらせようとすると、これが難しい。「T」の後はいきなり「たま!」の決めポーズ(顔の下に両手を持って来て、ぶりっこスマイル)でニッコリ。ところが、今朝、ダンナに「たまがTを覚えたよ」と伝え、「たま、パパにT見せてあげて」と言うと、「T・A・M・A たま!」と一気に続けてみせた。「ついにTAMA完成!」と喜んだが、幻の一回こっきりで、後は何度やっても「T」止まりだったり「A」はじまりだったり、「T」の後に「M」に飛んだり。

「TAMA」より簡単な「MAMA」はどうだろう、と応用編の「M・A・M・A ママ!」を教えてみたけれど、「ママ!」のポーズが決まるだけ。「MAMA」だけはずるい、とダンナから不満の声が上がったので、「PAPA」を教えたら、体の左側で丸を作る「P」のポーズを気に入り、うれしそうに「ぴー」を連発。体を張って表現しているのに、まったく「P」に見えないところが何ともおかしい。「MAMA」」「PAPA」が完成したら、今度はダンナの両親から「JIJIとBABAはないのか?」と催促されそうだが、「I」は気をつけのポーズでいいとして、「J」と「B」はどうしよう。

2007年06月27日(水)  中国経絡気功整体の大先生
2002年06月27日(木)  泉北コミュニティ


2008年06月26日(木)  知らなかった、大坂夏の陣『戦国のゲルニカ』 

友人でNHKディレクターの城光一君から昨夜「これから僕の作った番組やるんで観てください」と電話があり、『その時歴史が動いた』を観た。タイトルは『戦国のゲルニカ〜大坂夏の陣、惨劇はなぜ起きたのか』。電話で城君が「大坂夏の陣に一般市民がだいぶ巻き込まれてたことがわかってきて、屏風絵にも残っているんですよ」と話してくれたのだが、通常は主君の活躍を描いて後世に遺すことを目的とする屏風絵に、市民が犠牲になった惨劇が克明に描き記されている。戦争への悔恨が過ちを繰り返さないための教訓として描かせたのだろうか。戦争映画を作る動機にも似ている。

この屏風絵を大阪城天守閣に所蔵するにあたって働きかけた当時の天守閣主任、岡本良一さんが「この絵を見ていると、当時の市民の怒りや悲しみの声が聞こえてくるような気がする。この絵はまさにわが国の元和版ゲルニカと言ってよいかもしれない」と語ったのに由来して、番組では「戦国のゲルニカ」と呼んでいたのだが、血を流し、逃げ惑う民衆の叫びがブラウン管を通しても伝わってくるようだった。これが絵画ではなく史実の記録であることの重みを感じる。そこに描かれているのは、わが故郷、大阪に暮らしていた名もなき人たちだ。

学生時代は歴史にあまり興味が持てず、過ぎたことを学んで何になろうという気持ちもあり、授業で習ったはずの大坂夏の陣についても名称以上のことを覚えていない。年を重ねてから歴史を面白く感じるのは、過去は変えられないけれど、目の前にある未来は変えられることを身をもって体験し、歴史を学ぶのではなく、歴史から学ぶのだと知るからだろうか。番組を観終わってから、「案内してくれてありがとう。戦国のゲルニカのこと、知れてよかった」と城君に電話した。

2007年06月26日(火)  マタニティオレンジ136 サロン井戸端
2004年06月26日(土)  映画『マチコのかたち』


2008年06月25日(水)  整骨院のウキちゃん7 赤道ぐらい知ってますよ編

最近忙しくてなかなか行けない整骨院で、ひさびさにウキちゃんネタを収穫。

院長とウキちゃんの知り合いに「奇数と偶数がわからない」人がいて、「1、3、5、7.9は奇数」と教えたら、「32は3がついているから奇数」と言い出し、「2、4、6、8.0は偶数だろ」と正すと、今度は「45は4がついてるから偶数」と言うような人であったという。「ウキちゃんは、彼女には勝ったって思ってたみたいなんですけど、ウキちゃんの場合、地理に強いって豪語しちゃってるとこが弱みだったりするんですよ」と院長。名門男子高校に通う患者の男の子と昨日交わされた会話を紹介してくれた。

スポーツクラブに通い、TARZANのグラビアを飾るような体型を目指しているウキちゃん、目下の関心事は体重管理。「赤道の上で体重を量ると、軽くなるんですよ」と秀才君に言われて、食いついた。「でも、なんで軽くなるの?」「地球の自転の関係で遠心力が働くので……」。自転? 遠心力? 頭の中にかえってハテナが増えてしまったものの、「ははーん」とレベルを合わせて知ったかぶりするウキちゃん。「じゃあ飛行機で赤道まで行って、飛行機の中で体重量るんだ?」と意味不明な発言。「なんでも、昔飛行機に乗ったときに、今から赤道を越えますっていう機内アナウンスがあったらしく、赤道は空中にあって飛行機で越えるもんだって思い込んじゃってるらしいんですよ」と院長はわたしに報告しながら思い出し笑い。「赤道って何かわかってる?」と院長に突っ込まれたウキちゃん、「知ってますよ! 赤い線って書くあれでしょ!」。ウキちゃん、それはアカセンです。

飛行機に乗らなくても赤道の上で体重を量れることを説明するために、院長はネットで「赤道」を検索。「赤道はこっち」とスペイン語で書いてあるエクアドルの赤道付近の画像がヒットした。それを見たウキちゃん、「エクアドルってスペインにあるんですか?」。ウキちゃん、エクアドルは国名だし、赤道はスペインを通ってません!

やっぱりウキちゃんの地理ネタは面白い、とひとしきり笑わせてもらった後で、「ところで、ウキちゃん、赤道を越えるって言われたの、どこ行きの飛行機だったの?」とわたしが聞くと、「サンフランシスコです」。東京からサンフランシスコへ向かうのに赤道はまたがないのでは……。「もしかして、日付変更線?」「あ、それだ!」。日付変更線なら、東京とサンフランシスコの間にある。赤道と同じく、こちらも目に見えない線であることは、ウキちゃん、知ってるかしら。

ちなみに、家に帰って「赤道」を調べたら、道路法の認定外道路(農道、路地など)を指す赤道(あかみち)なる言葉があることを知った。赤く着色して表示されるからこの名がついたそうで、「赤線」とも呼ばれるとか。赤道と赤線はまったくの他人ではなかったのだ。「東京の首都は新宿?」といい、ウキちゃんネタには意外な真理が潜んでいて、侮れない。

2008年3月24日(月)整骨院のウキちゃん6 ナターシャは白いごはんが大好き
2008年3月19日(水) 整骨院のウキちゃん5 東京の首都は?
2008年2月20日(水) 整骨院のウキちゃん4 「ティ」ってどうやって打つの?
2008年2月8日(火) 整骨院のウキちゃん3 となりのトトロ
2008年1月8日(火) 整骨院のウキちゃん2 首都得意なんです
2007年11月06日(火) 整骨院のウキちゃん1

◆NEWS!!『ブレスト』ケータイ配信開始◆
本日より「ケータイ読書館」にて『ブレーン・ストーミング・ティーン(Brain Storming Teens)』(いまいまさこ著)配信開始。1ダウンロード300円で読めます。

2007年06月25日(月)  割に合わない仕事
2005年06月25日(土)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学最終日
2002年06月25日(火)  ギュッ(hug)ギュッ(Snuggle)
2000年06月25日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/28)


2008年06月24日(火)  カレーとコーヒーとチョコレート

カレーとコーヒーとチョコレートは合うと常々思っている。チョコレートやコーヒーはカレーの隠し味になるし、コーヒーにチョコレートを足らすこともチョコレートにコーヒーを混ぜることもよくあるし、種子に凝縮された味や香りを挽いて引き出すもの同士、いろんな形で相性の良さは証明されている。そして、カレーを食べた後にはコーヒーを飲みたくなり、コーヒーのおともにはチョコレートが欲しくなる。


今日のランチはその理想をかなえるもので、先日ディナーで連れて行ってもらって気に入った八重洲の南インド料理店ダバインディアのランチでカレーを食し、道を隔てた明治製菓の100%チョコレートカフェでコーヒーとチョコレートを味わうコース。ダバインディアのランチは1200円でカレー3種類を堪能。かなりの量なのに、お皿が光るほどカレーをナンでぬぐいつくして平らげてしまった。ずっと気になりながらはじめて訪ねた100%チョコレートカフェにも感激。板チョコを模した天井、壁一面のカカオ、ロゴ入りの食器、飲み物に添えられた一口の「その日のチョコレート」、見事に100%チョコレートに徹している。スイーツは好みのフレッシュチョコレート(日替わりで4種類)をその場で詰めてくれる。今日はショコラブッセにキャラメルクリームという組み合わせを選んだけれど、コルネ(チョコルネ)やラスク(ショコラスク)も気になる。カフェラテがことのほかおいしく感じられたのは、チョコが引き立てたせいかも。

ランチをご一緒したのは、「大阪出身でコピーライター出身」という経歴がわたしと似ている劇作家で脚本家で作家の川上徹也さん。「人生のすべてをエンタテインメントに!」というキャッチコピーを掲げ、どんな仕事も面白くしてしまう企画魂の持ち主。「こんなん出ました」と案内してくれたのは、『司法書士がズバリ解決! ドラマでわかる身近なお金のトラブル』という東京司法書士会との共著。ハウツーものの編集をやったんですかと聞いたら、「もとは戯曲なんですよ」。司法書士有志の劇団「リーガル☆スター」用に書いた舞台『ボケてても、好きな人』をノベライズして解説を加えたものだそう。川上さんの手にかかれば、難しい法律用語もお金のゴタゴタもエンタテインメントになる。

2007年06月24日(日)  マタニティオレンジ135 うっかりケーキでたま10/12才
2005年06月24日(金)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学7日目
2004年06月24日(木)  東京ディズニーランド『バズ・ライトイヤー夏の大作戦』
2000年06月24日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/27)


2008年06月23日(月)  念ずれば、柿の葉寿司 

奈良に住んでいる高校時代の同級生、ユミちゃんが先日、大阪帰省の折に5年ぶりに再会したとき、「本場の柿の葉寿司をぜひ食べてもらいたいから送るわ」と約束してくれた。ちょうど万葉ラブストーリーの審査で奈良に縁が出来て、審査員の上野誠先生から「奈良の名産といえば柿の葉寿司ですよ。おいしいとこのは、ほんとにおいしいです」なんて話を聞いたりして興味しんしんだったので、念ずれば何とやら、とグルメ仲間の以心伝心にうれしくなった。

その約束の品が昨日届いた。「ゐざさ寿司」というお店の詰め合わせで、柿の葉寿司の他に笹でくるんだゐざさ寿司、桜の葉でくるんだ桜寿司、山菜巻が個装ではなく折詰にぎゅっと詰めてあり、その日のうちにお召し上がりくださいという新鮮なもの。奈良のできたてを東京で頬張る贅沢。口に入れた瞬間にほろりとほどける握り具合が絶妙で、米とネタの引き立て合いも葉っぱの香りも心憎い塩梅。「ぜひ食べて」と力を込めて言っていたユミちゃんの顔を思い出しながら、太鼓判を押すのもわかるわと納得しつつ、ひとつ、またひとつ。娘のたまも、大人に負けじと手を伸ばし、喜々として葉っぱをむく。おもちゃにして終わるのかと思ったら、「おいしいねえ」としっかり味わっていた。

2007年06月23日(土)  「イラン・ジョーク集」のモクタリさんと鎌倉ナイト
2005年06月23日(木)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学6日目
2000年06月23日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/27)


2008年06月22日(日)  マタニティオレンジ302 英語も飛び出す、たま1才10か月

2006年8月22日生まれの娘のたまは、今日で1才10か月。オギャーと生まれた瞬間、助産師さんがおなかにのっけてくれた重みとやわらかみを振り返りながら、「ずいぶんたくましくなったなあ」としみじみしてしまう。「こわれもの注意」な危なっかしさはなくなり、本人自らが破壊者となりつつある今日この頃。元気すぎるのが悩みというのは、ありがたいことだと思う。

「おっぱいを飲んで、気体と液体と固体に分ける」ことができる乳飲み子に感嘆する短歌に出会ったことがある。それ以外は泣くこと、手足をほよほよと動かすこと、手をにぎることぐらいしかできなかったところからスタートして、ずいぶんたくさんのことができるようになった。とくに1才過ぎてからの吸収力には目を見張るものがある。歩く、指を使う、言葉を発するなどは持って生まれた能力だけど、歩いてどこへ向かうか、指で何をするか、言葉で何を伝えるかはまわりの人たちからの影響を大きく受ける。鍵を開ける動きも、傘を差す動きも、人がやるのを見て、真似て、覚えた。口癖なんか、すぐにうつってしまう。わたしが連発する「待っててね」を覚えて、わたしを残して他の部屋に物を取りに行くときなどに「まててねー」と声をかけるようになったが、その言い方がやさしい感じだったので、ほっとした。

わが家の場合、保育園で過ごす時間が長いので、親が知らないところでネタを仕入れてくることも多い。ある日突然「バナナがいっぽんありました」と歌い出し、「ママいっぽん!」とすんなり発音できたのは、この応用だったのかと納得した。覚えた単語を組み合わせて使うようになり、表現がずいぶん豊かになってきた。魚の「ほね」を教えると、食べるときに「ほね なあい」(骨取って、の意味)と催促したり、「キヤキヤ なあい」と言ってお星さまの絵本を探したり。保育園で覚えた「じじ かく」(お絵描き)も大好きで、「あま かいて」と似顔絵をねだる。かわいく書いてあげると「あま」とご満悦になるけれど、不細工に書き上がると「ママ」などと他人扱い。

わたしが昨日仕事だったので、昨夜はダンナとともにダンナの実家に泊まりに行ったのだが、「たまちゃん、英語しゃべってたわよ」とダンナ母が驚いたという。Barneyビデオに出てくる歌を口ずさんでいたのだろうか。ビデオの中でマザーグースが歌う一節「I've been around for many many years for very very very long time」に合わせて「メニメニ ベリベリ」と歌っていたりする。アルファベットは「M」に続いて「A」を覚えた。両手を頭の上でぱちんと合わせる動きが気に入った様子。あとは「T」を覚えたら、体文字で「TAMA」を表現できる。

24時間ぶりに再会したたまは、「ママ ママ ママ いい! パパ パパ パパ マメ!」(タ行が弱いので、「ダメ」と言えず、「マメ」になる)と、ママべったりになってしまった。「なんだよ、ママがいないときはパパ、パパって甘えてたのに」とダンナは不服そうだったけれど、ボール遊びなどをするうちに、「パパ いい」となり、トイレへ向かうパパを追いかけて、「たまもいく!」。いつの間にか、片言が流暢な日本語になっている。「たま語銀行」への貯蓄も、ひと月でどっと増えた。

2007年06月22日(金)  マタニティオレンジ134 わが家語
2005年06月22日(水)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学5日目
2004年06月22日(火)  はちみつ・亜紀子のお菓子教室
2003年06月22日(日)  不思議なふしぎなミラクルリーフ
2002年06月22日(土)  木村崇人「木もれ陽プロジェクト」
2000年06月22日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1998年06月22日(月)  カンヌ98 3日目 いざCMの嵐!


2008年06月21日(土)  親目線で観た劇場版『相棒』

世間のブームからずいぶん遅れて、テレビシリーズ『相棒』に出会ったのは、去年の暮れ。『アテンションプリーズ スペシャル』の本作りの追い込みで深夜に帰宅したときに再放送していたのを偶然観て、一話で寝よう、二話で寝ようと見続けているうちに四話分観て明け方になった。10年ほど前にも同じようなことがあり、そのときはNHKで『Mr.ビーン』をまとめて放送していた。あれも年末だった気がする。

『相棒』再放送は、ゴールデンウィーク公開の映画版の予告も兼ねていて、シーズン6までどっさりあるテレビシリーズをじゃんじゃん再放送しつつ、映画の告知をし、古くからのファンやわたしのような新規ファンに動員をかけていたのだった。封切られた最初の週末にて丸の内TOEIに駆けつけたら「夜まで立ち見です」と言われ、機会を逃しているうちにひと月半あまり経ってしまったけれど、まだまだロングラン上映中。穴場を狙ってJR王子駅近くにある王子シネマへ行くと、場所柄か、上映8週目だからか、余裕で席に着けた。

映画本編は犯人からの犯行予告を読み解く鍵がチェスになっていて、よくぞこれだけチェスネタを捻ったものだと感心する。チェスを少しでもかじっていれば、より楽しめたと思う。東京ビッグシティマラソンが標的にされるところは、計測チップの使い方など、東京マラソン2008に出場した親近感から興味深く観た。世論という見えない暴力への挑戦は面白いが、数年前に実際に起きた出来事と重ねて観てしまうと、そのモデルに感情移入できるかどうかで作品への評価は分かれるだろう。個人的には、世間がなんと言おうとわが子を守りたいという親の心情に乗っかれた。

子どもは生まれた瞬間から自立に向かって歩み出すのに対し、親の人生は子どもが生まれることによって子ども中心に回り出し、手にかけた分だけ、親の中で子どもの存在感は増していく。子どもが成人しても自立しても、親はいつまでも親で、子どもの人生を背負い続け、世界を敵に回しても子を守り抜こうとする。その切なさを思った。そして、世間を騒がせた当事者の親や家族までが不特定多数からの攻撃にさらされるのは、日本以外の国でもあることなのだろうか、日本的な現象なのだろうか、などと考えた。子どもが生まれて以来、映画を観る目線が「子」から「親」へ変換したのを感じる。

親子といえば、一緒に観に行ったダンナが「ここ、もしかしたら……」と場内を見回し、「初めて映画を観に来た映画館かも」と言い出した。幼稚園の頃、『やさしいライオン』という作品を母親と弟とともに観に来たという。娘はTOHOシネマズのママズシアターで映画館デビューは果たしているけれど、自分が楽しむ作品という意味では、はじめての映画はこれからのお楽しみ。何十年も先に思い出せるような作品を見せてあげられるかなあとダンナの実家で留守番をしている娘の話をしながら帰り道についた。

2007年06月21日(木)  マタニティオレンジ133 おおらかがいっぱい
2005年06月21日(火)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学4日目
2002年06月21日(金)  JUDY AND MARY
1998年06月21日(日)  カンヌ98 2日目 ニース→エズ→カンヌ広告祭エントリー


2008年06月20日(金)  マタニティオレンジ301 太ももで豆腐うらごし

昨日、夕食の支度をしていたときのこと。待たせるとおなかが持たないと思い、「たま、これ食べててね」とごはんと豆腐を混ぜたものを先に与えた。ぎこちないながらもスプーンを操れるようになったので、たまがごはんと格闘している間におかずを作ろうという魂胆。テーブルに背を向けて包丁をトントンやっていると、たまはおとなしく食事をしてくれている。おとなしく……おとなしすぎやしないか? 不吉な予感に振り返った瞬間、目に飛び込んだ光景に唖然となった。ごはんと豆腐を小さな手でねちょねちょとこねたものを、ズボンを履いた太ももにこすりつけているのである。どういうきっかけではじめたのかわからないが、皿の中身は残り少なくなっていて、ピンクのズボンはセメントを塗りたくったように白くなり、顔や髪にも白いものがへばりつき、床には鳩の糞のごとく白い残骸が点々と落ちていた。

これが「食べ物で遊ぶ」ってやつだろうか。それとも、何か不満でもあるのだろうか。延長保育でいつもより一時間長く保育園に預けたので、淋しかったとか? ごはんと豆腐に混ぜたあのちりめんじゃこ、小海老入りで高かったのに……などといろいろ考えをめぐらせつつ、あまりのことに、しかることも忘れて、しばらく呆然と見てしまった。たまはすさまじい集中力で太ももをこすり、わたしが見ていることにも気づかない。

ようやく顔を上げて目が合ったので、「たま、ダメでしょう。食べ物をおもちゃにしたら。たまが食べるために用意したんだよ。ごめんなさいしなさい」と言うと、「メンメン」と人を食ったような「ごめんなさい」が返ってきた。片付けようにもどこから手をつけていいかわからない有様で、床に這いつくばって白い点々を回収しながら、もうこりごりと思ったのに、たまは今朝再びごはんと豆腐が食卓に上ったのを見て、「昨日あそんだやつ!」とでも訴えるように、うれしそうに太ももをこする仕草をして見せた。まったく反省してない! 「魔の2歳児」まで、あと2か月。

2005年06月20日(月)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学3日目
2004年06月20日(日)  日本一おしゃべりな幼なじみのヨシカのこと
1998年06月20日(土)  カンヌ98 1日目 はじめてのカンヌ広告祭へ 


2008年06月19日(木)  「第2回万葉ラブストーリー」受賞作発表

第1回に続けて審査員を務めた「第2回万葉ラブストーリー」募集の受賞作が発表された。受賞した脚本3本は奈良ロケを行い、各10分のドラマとなって今秋お披露目される予定。賞を授けるだけで終わる脚本コンクールも多い中で、形にして世に送り出すところまでやるのが、このコンクールの魅力。受賞者にとっては、賞金以上に作品化が何よりのご褒美になると思う。昨年は、授賞式を兼ねたイベントで完成試写の後、NHKの奈良ローカルと関西ローカルに次いで全国放送された。

10年前はコンクールに応募して、中間報告や結果発表に一喜一憂していたのが審査される側から審査する側に回ったので、審査しながら、「わたしの作品もこんな風に選ばれたのかな、落とされたのかな」と想像してしまう。たくさんの応募作の中から審査を勝ち上がり、受賞を勝ち取るには、他の作品の中から「わたしはここよ」と訴えかけるような、きらりと光る何かがなくてはならない。書き手のひらめきはもちろん、時の運のようなものもあると思う。審査員の構成が変われば、選ばれる作品だって変わってくるだろうし、めぐりあわせの要素も大きい。よく受賞の言葉で「もう書くのをやめようかと思っていたけれど、これからも書き続ける勇気と自信をもらった」といったコメントを見かけるけれど、わたしもコンクールの受賞に力づけられながら書き続けてきた。実力という必然に加えて、運という偶然をも味方につけた受賞者の三人の皆さん、おめでとうございます。

2007年06月19日(火)  父イマセン、ピースボートに乗る。
2005年06月19日(日)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学2日目
2004年06月19日(土)  既刊本 出会ったときが 新刊本
2003年06月19日(木)  真夜中のアイスクリーム


2008年06月18日(水)  堺名産 小島屋の『けし餅』

東京から持って行くのは、ベルンのミルフィーユ、大阪から持ち帰るのは、551の蓬莱の豚まんと、むか新の『むらしぐれ』と、小島屋のけし餅。というのがこの頃のお土産の定番になりつつあり、今回の大阪帰省もこのパターンだった。

けし餅は、小豆のこしあんを餅皮で包んだものにけしの実をまぶしたもので、けしの香ばしさがたまらない。日経新聞の「日経プラスワン」の「もらってうれしいお土産」ランキングで上位に選ばれていたのを、「これ、いつも雅子が買ってくるやつ」とダンナ父がうれしそうに見つけてくれたが、どこにでもあるようでないものらしい。

ときどき食べると、「うむ、やはりおいしい」と唸らされるそのけし餅を、月曜日から食べ続けている。月曜日に予定されていた打ち合わせが延期になり、お土産に買ってきた10個入りが行き場をなくしてしまったのだ。独自の製法ゆえに和菓子にしては日持ちがするのだけれど、それでも次回打ち合わせまでは持たないし、日に日に風味も落ちるだろうから早めに食べたほうがいい。そう思って箱を開け、手をつけると、困ったことに一つ二つではおさまらない。むしろ加速がつく感じで、「いかんいかん、一気に食べるものではない」といさめつつ今日まで持たせたのだけれど、3日間で一箱平らげてしまった。今日は続けて四個食べたのだけれど、四個目でもおいしさは衰えず、さすが堺名産。ケーキバイキングで鳴らした自分の胃袋が案外衰えていないことも確認したのだった。

2007年06月18日(月)  マタニティオレンジ132 たま300日
2005年06月18日(土)  『子ぎつねヘレン』あっという間の見学1日目
2000年06月18日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2008年06月17日(火)  マタニティオレンジ301 苦心作のアルバムが届いて、「おひまい」

Macで苦労して作った「たまアルバム」が届く。表紙は一歳のバースデーケーキ。早速、「これ、なあに?」と興味津々のたま。「これはね、たまのお誕生日の絵本だよ」とページを開いて読み聞かせると、生まれたばかりの自分が体重計に乗せられている写真を指差し、「あま!」(たま)と興奮。ちゃんと自分だとわかっている。1/12才の誕生日。たまは小さかったね。2/12才の誕生日。たまはケーキの前ですやすや寝てたね……。途中までふむふむと見ていたたまは、半分ほどまで来たところで、「おひまい」(おしまい)とアルバムを閉じてしまった。わたしがつい見入ってしまって読み聞かせがお留守になり、つまらなくなったらしい。「たま、これからがいいとこなんだけど」「おひまい」。親の心、子知らず。

2005年06月17日(金)  『子ぎつねヘレン』ロケ地網走は歓迎ムード
2000年06月17日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2008年06月16日(月)  「SKIPシティ Dシネマ映画祭」で審査員やります

はじめて映画祭の審査員を務めることになった。『風の絨毯』プロデューサーの益田祐美子さんから「今井さんも一度会っているトヤマさんって男の人から連絡が行くから」と電話があり、トヤマさんからの電話で「知人がスタッフをやっている映画祭の審査員をお願いしたいとのことで、連絡先を伝えていいですか」と言われ、事務局の木村さんという女性にたどり着いて正式な依頼となった。木村さんとわたしが同い年であることが、二人とも生年月日を携帯メールアドレスにしていることから発覚。わたし以外に生年まで入れている人に初めて会った。同世代の親しみも加わり、初対面から話は弾んで、よろこんで受けさせていただいた。

映画祭の名はSKIPシティ国際Dシネマ映画祭(7/19〜27)。不勉強で知らなかったのだが、SKIPシティとは埼玉県川口市の広大な土地を舞台に、埼玉県が中心になって進められている「中小企業の振興と次世代映像産業の導入・集積並びに国際競争力を備えた人材育成」の一大プロジェクト。映画祭もその一環として開催されているそう。

先週11日に都内で記者発表があり、わたしを含め長編コンペティション部門の5人の国際審査員が発表された。審査委員長はオーストリアのプロデューサー、審査委員は韓国の監督、アルゼンチンの撮影監督、日本のプロデューサー(甘本ノリオ氏)、日本の脚本家(わたし)という構成。長編国際コンペティション部門はグランプリの賞金が1000万円! 「長編映画制作3本以下 70分以上のデジタル作品」の募集に、今年は75以上の国と地域から693本の応募があり、12本のノミネート作品に絞られたという。一週間で12本の長編を見て審査をする、ずいぶんハードなスケジュールになりそうだけど、はじめての経験、どんな出会いが待ち受けているか楽しみ。会期中は足しげく埼玉に通うことになると思うので、映画祭を見に来る皆さん、見かけたら声をかけてくださいね。

2007年06月16日(土)  お宅の近くまでうかがいますの法則
2005年06月16日(木)  Hidden Detailのチョコ名刺
2002年06月16日(日)  一人暮らしをしていた町・鷺沼
2000年06月16日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2008年06月15日(日)  マタニティオレンジ300 3か月でこんなに変わる 

小石川植物園で保育園のクラス会。3月下旬に同じ場所で開いたのだけど、たった3か月でずいぶん変わるなあと驚いた。親べったり率がぐんと減って、子ども同士で走り回ったりボール遊びやしゃぼん玉遊びをしたり。転がっているボールを以前は独り占めしておしまいdったのが、誰かに投げたり転がしたりするようになっている。しゃぼん玉は一才児だけではうまく飛ばせないのだけど、お兄ちゃんお姉ちゃんに手伝ってもらってフーッと吹いている。きらきらのしゃぼん玉は、植物園の緑によく映えて、子どもも大人も見とれてしまう。「一緒にやる」ということを覚えてきたんだなあ。好奇心が旺盛で、人がやっていることを真似したい時期だから、輪の中に入っていこうとするのかもしれない。

人の真似といえば、ピクニックシートのまわりに脱ぎ置かれたパパやママの靴を履こうとする子が続出。ママのスニーカーよりパパの革靴が人気。アンディ・ウォーホルの絵にあるような格好で、足を引きずりながら歩くさまがおかしかった。

それにしても、子どもたちの身につけているものといい、持ち物といい、おもちゃといい、アンパンマンつき率の高いこと! これだけ子どもの心をとらえる秘密は何なのだろう。家では教えていないのに、たまもやっぱり「アンマン」が大好き。

2007年06月15日(金)  マタニティオレンジ131 映画『それでも生きる子どもたちへ』を観て
2005年06月15日(水)  『秘すれば花』『ストーリーテラーズ』
2002年06月15日(土)  『アクアリウムの夜』収録
2000年06月15日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2008年06月14日(土)  高校生だった三人が母になって

関西空港から東京へ帰る前に、高校時代の友人テルちゃんの家を訪ねる。わたしが留学して一年留年した後の学年の同級生で、同じクラスになったことはなかったけれど、体操部で一緒だった。『アテンションプリーズ スペシャル』放送の案内をメールしたとき、「今度大阪帰ってくるとき教えてね」と返信があり、「じゃあ6月に帰るから、そのときに会おう」となったのだった。体育祭の応援団で意気投合したユミちゃんにも声をかけ、5年前の高校卒業15周年の学年同窓会ぶりの再会となった。

テルちゃん、ユミちゃん、わたしを結びつけたのは、「おいしいもの好き」という共通点。応援団関係で仲良くなった食いしんぼの男の子四人を合わせた男女七人で、「グルメの会」というそのものずばりなネーミングの食べ歩き仲間を結成して、地元堺やちょっと足を伸ばしてミナミ(難波)のおいしいものを食べ歩いた。男の子も含めて全員が1リットルパフェを平らげられるほどの甘いもの好きでもあった。和菓子処の『かん袋』でしか食べられない「くるみ餅」のかき氷を食べに自転車を走らせたり、今はなくなってしまったレストラン『菊一堂』のコース料理を学校帰りに制服姿で食べたり、一年の半分ほどをイタリア旅行に費やす夫妻の手づくりピザの店を訪ねたり、『自由軒』のカレーの後に法善寺横町の『夫婦善哉』という「織田作之助」コースを楽しんだり。お小遣いの少ない高校生にしては、贅沢なことをしていた。7人のうち誰が抜けたのだったか、2チームに分かれて高校生クイズの予選に挑戦して、第一問で敗れたのもいい思い出。夏の暑い日に文化祭の演劇で使った衣装で仮装し、わたしは紫のロングドレスを着ていた。ユミちゃんとは3年のときに同じクラスになったのだけど、クラスでの出来事よりも、どこで何を食べたということばかり思い出してしまう。食べ物の記憶って、強い。

5年前の同窓会の前に3人が集まったのはユミちゃんの結婚式で、わたしは『ぱこだて人』の脚本の授賞式を終えて函館の映画祭から向かった。99年のことだから、9年前になる。同窓会は人がいっぱいだったし、結婚式は主役を独り占めできなかったし、3人でじっくりと話すのは、思い出せないぐらい久しぶりのことなのだった。5年会わないうちに、テルちゃんは二児の母になり、ユミちゃんとわたしも一児の母になり、第二世代の4人の娘が加わっての3人娘ミニ同窓会となった。3人集まると気分は高校生の頃に戻ってしまうのだけど、目の前には子どもたちがいて、なんだか不思議。思い出話と子育て話が混じり合い、ブランクはあっという間に埋まって、先週も会ってたような気持ちになる。

3人ともあいかわらずおいしいものが好きで、甘いものも大好きで、食べるとますますおしゃべりになるところも変わってない。テルちゃんのいとこがやっているという近所のパン屋さんのフィナンシェを夢中で頬張り、「このお店、今度連れて行って!」と話す。昨年末に建てたばかりという自慢の新居をくまなく案内してもらい、北欧インテリアが好きという共通点も見つかって、「わたしたちって、やっぱり気が合うんだ!」と再発見。離れていても、会えばあっという間にあの頃に戻れる同級生がいる幸せを味わい、娘たちもそんな友だちに恵まれるといいな、娘たち同士もいい友だちになれるといいなと思った。

2007年06月14日(木)  『坊ちゃん』衝撃の結末
2002年06月14日(金)  タクシー


2008年06月13日(金)  マタニティオレンジ299 おもちゃ電車→たま駅長→いちご電車


数週間前、「いちご電車」というタイトルの浮かれたメールが届いた。ご近所仲間で鉄道ファンのT氏がはるばる和歌山に出かけ、いちご尽くしの電車に乗っている実況を四十代とは思えない無邪気さで送ってきてくれたのだった。さらに一時間後には「おもちゃ電車」というメールが画像つきで届いた。「いちご電車」「おもちゃ電車」はJR和歌山駅から延びている和歌山電鉄貴志川線という私鉄ローカル線の車両で、終点の貴志駅にはニュースですっかりなじみになった猫の「たま駅長」がいるというではないか。たま駅長のことは気になっていて、わが娘・たまと会わせたいと思っていた。ちょうど関西行きを控えていたので、T氏からのメールが後押しとなって「わたしも行こう!」と決めたのだった。

たまと父イマセンとともに阪和線紀州路快速で終点和歌山へ向かい、T氏のアドバイス通り一日乗車券(650円)を買って乗り込んだのは、おもちゃ電車(愛称OMODEN)。おもちゃが並ぶ棚にはアンパンマン! たまは早速駆け寄り、興味しんしん。木のつり革も積み木みたいで愛らしい。


10台あるガチャガチャは本物。たまはお金を入れずにハンドルをガチャガチャ。


床は木で、座席にはチェックの座布団。あたたかみがあって、絵本に出てくる子ども部屋みたい。ねずみ(MOUSE)、うさぎ(RABBIT)、犬(DOG)の形の背もたれには、さりげなく「M」「R」「D」とイニシャルがあしらわれている。「おもちゃ電車」という名前からデパートの屋上のようなにぎにぎしさを想像したのだけど、甘くなりすぎない大人っぽいテイストに感心。中吊りなどの印刷物のデザインも洒落ていて、アイデアだけでなくクリエイティブのセンスも光っている。

終点の貴志駅で降りると、駅長帽をかぶったたま駅長がお出迎え。駅長室には、もう2匹の猫がいて、こちらは「助役」とのこと。人間の駅員はおらず、猫のみという無人・有猫駅。たま駅長、帽子が重いのか、すぐに落としてしまうのだけど、帽子がないとただの猫になってしまう。うちのたまとの対面は、お互い関心なさそうで、そっぽを向いたツーショットしか撮れなかった。

駅舎にはつばめの巣があり、親鳥がかいがいしく子どもたちに餌を運ぶ姿が乗客を和ませていたのだが、その巣の真下で、父はいつの間にか買ってきたたこ焼きを一人で頬張っていた。ほんと、この人の頭の中は食べることでいっぱいで、ある意味1才児のたま以上に子どもっぽい。

帰りは普通車両で大山遊園駅まで行き、下車して散歩。本当は交通公園まで行きたかったのだけど、たまが両替機で遊びたがり、百円玉を二枚両替したところで「他の人の分がなくなるからやめようね」と言った途端に床に転がって泣き出したので、手前で降りた。池をのぞむ広々した公園(これが遊園?)があり、そこのすべり台で遊ぶうちに機嫌は直った。


大山遊園からでいちご電車を待ち受け、乗り込む。保育園でいちご組のたまは、「ご!」を連発しながら車両のあちこちに配されたいちごを指差し、おもちゃ電車以上に興奮。


座席と座布団は、どこか懐かしさを感じさせるいちご柄生地。小さなテーブルもあり、地元の高校生がお昼ごはんを頬張っていた。「何もないのが魅力です」とT氏は語っていたけれど、窓の外ののどかな風景がかわいい電車とよく合っていた。乗り物の形の色とりどりの遊具がひしめく交通公園で下車してたまを遊ばせたかったけれど、「和歌山まで行ってお昼食べよう」と父が言うので、終点和歌山まで乗り続けるうちに、たまは眠りに落ちた。

2007年06月13日(水)  「事実は小説より奇なり」な映画『主人公は僕だった』
2005年06月13日(月)  『猟奇的な彼女』と『ペイ・フォワード』
2004年06月13日(日)  映画『ヒバクシャ 世界の終わりに』


2008年06月12日(木)  中田金太さんの置き土産『玉虫厨子』と対面

映画を見るとロケ地を訪れたくなる。千三百年前の飛鳥の時代に造られた法隆寺の国宝「玉虫厨子」に平成の職人たちが挑むドキュメンタリー映画『蘇る玉虫厨子〜時空を超えた技の継承〜』(>>>2008年03月27日(木)の日記)に酔ったわたしとアサミちゃんは、「実物の玉虫厨子を見ねば!」となった。中田金太さんが私財を投じて平成職人に腕をふるわせて再現された「玉虫厨子」と、さらに遊び心を加えた「平成版・玉虫厨子」が6月いっぱいまで法隆寺の秘宝展で公開されているという。再現版は法隆寺に奉納されたのだけど、平成版は秘宝展が終わると高山のまつりミュージアムで展示されることになっている。二台を並べて見られるのは最初で最後のチャンスかもしれない。先週アサミちゃんはダンナさんとともに奈良を訪ね、「見て来たよ〜。良かったぁ」と伝えてきた。ちょうど大阪に帰省する機会を得たわたしも今日、奈良へ向かった。

JRの法隆寺駅から法隆寺まで歩いて20分。拝観券売り場を求めて広い境内をさ迷い、秘宝展が行われている秘宝殿へ直接行けば良いと教えられ、たどり着くまでにさらに10分。駆け足での鑑賞となり、飛鳥時代版の本家(こちらも並べて展示されているのを期待していたら、本堂に置かれているとのこと)を拝む時間はなかったけれど、金太さんの置き土産二台に対面することができた。

ちょうど小学校の遠足の団体と鉢合わせ、「これやこれ! 玉虫!」と担任らしき女の先生が興奮した声で指差すと、「どれどれ?」と元気のいい小学生がガラスケースの前に集まってきた。これがこないだやってた玉虫のん?」と先生に聞いている。授業で取り上げたのだろうか。映画に出ていた金太さんや職人の話も紹介されたのだろうか。再現版よりも色鮮やかな平成版に人気は集中し、「これ、玉虫の羽なん?」「すげー」「すごすぎ」と心からの感嘆の声が上がる。この光景、金太さんに見せたかった。「造るより遺すことのほうが難しい」と話していた金太さん。あなたが遺してくれたものは、平成の子どもたちに、この国の美しく力強い財産をしっかり伝えていますよ。

玉虫厨子と背中合わせに置かれているのは釈迦如来像。「仏さん、皿乗ってんで」「食べられるん?」「かもな」と子どもたち。玉虫厨子の蒔絵の原案になったお釈迦様の絵を前にした女の子は、「虎のこどもがおなか空かせてて、身投げして食べさせたってんて」「私やったらせえへんなあ」などと話している。 近頃の子どもたちはゲームばっかりして感動したり感激したりする力が弱っているのではと心配していたのだけど、展示物を見て感じたことを口にする子どもたちの言葉は生き生きとしていて、好もしかった。

NHK奈良の「万葉ラブストーリー募集」が縁で、子ども時代に親しんだ奈良にまた足を運ぶ機会ができたのだけど、京都とはまた違った古都の魅力があって、小旅行気分を楽しんでいる。奈良公園には鹿がわがもの顔で歩いていて、『鹿男あおによし』を思い出した。明日香村も訪ねたいし、古い町並みが残っているという「今井町」も気になる。

近鉄奈良近くの商店街を歩いていて、奈良遷都キャラクターの「まんとくん」「せんとくん」が並んでいるシャッターを発見。公式キャラの「せんとくん」が発表された後に自主提案の形で開発され、ネット投票で選ばれたのが「まんとくん」という経緯を新聞記事で読んだばかり。強烈キャラの兄と愛されキャラの弟という感じであまりにキャラが違うので、こんな風に並んで「どっちが好き?」と話題を提供するのもいいかもしれない。

2007年06月12日(火)  想像力という酵母が働くとき
2005年06月12日(日)  惜しい映画『フォーガットン』


2008年06月11日(水)  大学ノート80冊分の日記

関西での仕事のため、娘を連れて大阪へ。実家に帰ったら、やりたいことがあった。子どもの頃に書いた小説を発掘して、パソコンに打ち込もうという計画。そのノートを求めて「雅子」と書かれた段ボールを開けたら、大学ノートがどっさり出て来た。小学校から高校時代にかけて書きまくった日記と交換日記。数えてみると、80冊を超えている。

交換日記は相手と二人がかりでノートを埋めるから半分で計算しなきゃと思いきや、「かわりばんこにノートを買い、買ったほうが書き終えたノートを引き取る」仕組みになっていた。ということは、これだけの分量のノートを自分の文字で埋めたことになる。しばしあっけに取られた後、一冊ずつ中身を確かめて、「日記」「交 のんのん」などと日付を添えてマジックで書きつつ分類する作業に取りかかった。懐かしさについページをめくってしまい、作業は止まってばかり。結局夜中までかかった。

今の中学生にはケータイという便利なものがあって、気になる子とはあっという間にメル友になっちゃうのだろうけれど、わたしが中学生の頃は、男女が交換日記をするというのは「つきあう」と同義語で事件だった。交換日記をはじめたカップルのノートを買いにいくのにクラスメートが集団でつきあったり、「彼氏が他の女の子と交換日記してる」ことが大問題になって揉めたり。微笑ましいというか歯がゆいというか、信じられないほどウブだった。「『スピード』でストレス発散」とあるスピードは、ヤバいクスリではなくトランプだし、友人がわたしのファッションを見て褒めた言葉は「ナウい」だし、中学卒業のときに髪を切った美容院の名前は『チャーミング』。十年ひと昔というけれど、四半世紀以上前だと日記もすでに古典。

自分では忘れていたこともたくさん出て来た。PL学園で活躍していたナマの桑田選手と清原選手を目当てに甲子園まで行ったこと。嘉門達夫の番組にハガキ書いていたこと。金沢嘉一さんという作家に手紙を書いて返事をもらったこと。三年前に小中学校時代の同窓会をやったとき、「この子、亡くなったんだっけ」と同級生と話した子のことも日記には書かれていた。入退院を繰り返していた彼女は白血病で亡くなったのだった。友人たちと線香を上げに行ったけれど、家の人には会えなかった。その帰り道、「生きる期間に差があるなんて、おかしい」と話し、「私が死んだら、一時はワーッとないてほしいけど、いつまでもしずまないでほしい。いつも、私のことを思い出したり話したりして、ぜったいに忘れないでほしい」と日記に遺言していた。

日記を読み返すと、「変わってないなあ」と思う部分もあれば、「同じ自分が書いたのか」と驚く部分もある。小学校のときから「私は私」と主張し、「人生を面白くするのは自分次第」なんてことを言ってる。負けず嫌いなのも感動体質なのも変わっていない。へこんでいる友人を励ます言葉はやたら熱くて、「どんなクラスにいようと同じように好きにならないと。もどれない所にもどろうとするとよけいくるしいでしょ」「希望を信じたければ、現実を半分だけ信じとけばいい」などと芝居がかっている。

意志の強さは昔からだけど、今よりもずっと頑固で融通がきかなくて、あきれるほど正義感が強くて、毎日のように日記で怒っている。掃除をさぼる男子に怒り、点字ブロックが市役所の手前で切れていることに怒り、友人を嘘つき呼ばわりしたクラスメートに怒り……読んでいて疲れるほど怒っている。中学一年の最初の頃に担任の吉田恵子先生に日記を見せていたけれど、そのノートの角で頭をコツンとされた(たぶん先生は親しみを込めてふざけたのだと思う)ことに怒って、日記を見せるのをやめてしまった。

クラスの女子がみんな泣く場面では意地でも泣かないくせに、学習教材のセールスマンが置いていったアンケートをなくして平然としている妹と、それに対して「別にええやん」と言った母には涙の抗議。われながらついて行けない感情の起伏の持ち主だったくせに、自分のことを「さめた少女」と分析していたりして、昔のわたしは相当屈折していたのだろうか。

吉田先生が中学一年生の終わりにわたしに贈った言葉も出て来た。「今井はよい意味でかわってるよ。あまりお目にはかからないタイプですね。底抜けに明るくて活発ですごく大胆で、そのくせデリケートで傷つきやすかったり…。そして何よりも温かい心の持ち主で…。どんな大人になっていくのかとても楽しみです。教師になりませんか?」とある。

先生は、わたしが日記を見せなくなったことをずっと気にかけていてくださった。つまらない意地を張った中学一年生の自分には、今とは違うプライドがあったのだろう。吉田先生に見せなくなった日記に、わたしは先生のことを「あのせんせー、わりとよくやすむなぁー。強がる人って案外よわいんだ。私も人のこといえないけど」と書いている。似た者同士だったのかもしれない。

肝心の小説も見つかった。鏡の国に迷い込む少女の話で、中学一年のときに書いたものだとわかった。わたしはそれが最初の小説だと思っていたのだけれど、それよりも前、小学時代に書いた小説らしいものもいくつか出て来た。それより驚いたのは、小学6年のときの交換日記に書いてあった『ブランコ』というラジオドラマ。ラジオで聞いて感動したストーリーを紹介しているのだけれど、台詞やト書きが再現されていて、ほぼ脚本の形になっている。

やっぱりこの80冊の延長線上にわたしはいるんだなあと感じた。

2007年06月11日(月)  茨木のり子さんの言葉の力
2005年06月11日(土)  東京大学奇術愛好会のマジックショー
2002年06月11日(火)  『風の絨毯』同窓会
2000年06月11日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2008年06月08日(日)  マタニティオレンジ298 「m」とフライング父の日

娘のたまが「m」を覚えた。わが家のあちこちに飾ってあるm&mコレクションを指差して「これ、なあに?」と聞くので、「mだよ」と教え、ついでに両手でハートを描くようにして頭のてっぺんで指先を合流させる仕草で「m」を表現すると、「エム!」と瞬時に会得。お猿さん風のポーズが何とも言えずおかしい。いつもは「もっぺん」とせがまれる側のわたしとダンナが「もういっぺんやって」を連発し、たまは「エム!」を繰り返した。

お猿さんといえば、午後から雨が上がって、遊びに来たダンナ父と近所の神社に出かけたら、ちょうど猿回しが来ていて、生のお猿さんを目の前で見たたまは大興奮だったという。「お猿さん何やってたの?」と聞くと、たまはおじぎを再現。短い足でガニ股気味のおじぎは猿感がよく出ていて、木戸銭を投げたくなる。「おじぎしかしてなかったの?」と聞くと、「ちょうど終わったとこだったんだ」とダンナ父。

ダンナ母も加わり、父の日祝いのケーキを分けた。じいじばあばの前でも、たまは「エム!」を披露。孫と過ごす時間が何よりのプレゼントだろう。ところが、後になって、父の日が一週間後であることに気づいた。ダンナ母は「今日父の日なの? うっかりして忘れてた」と言っていたのだけど、うっかりしていたのは、こちらのほうだった。ダンナに「今日が父の日じゃなかったって知ってた?」と聞くと、「君が言うからそうなのかなと思ったけど、どこにも出てないから、ひっそりやってるんだなあと思ってた」という返事。プレートを書いたケーキ屋さんからも突っ込みはなかった。来週祝えない事情があると思われたのだろうか。

お祝いのケーキをもうひとつ。友人のげっしー&いとう夫妻のところのちいたまちゃんが1才になり、同じ月生まれのお友だちと合同誕生会を開催。子どもたちの名前が並んだプレートがかわいい。「子どもたちはこの日のことを覚えてなくても、記念日を刻むことは親が前へ進むパワーをくれる」とげっしー。

2007年06月08日(金)  マタニティオレンジ128 モラルない親
2005年06月08日(水)  歩いた、遊んだ、愛知万博の12時間
2002年06月08日(土)  P地下
2000年06月08日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2008年06月07日(土)  高島屋ミヤケマイ個展『ココでないドコか』で乾杯

昨日の日記で同タイトルの作品集を紹介したミヤケマイ個展『ココでないドコか』目当てに新宿高島屋画廊へ。5時からのオープニングに間に合うように到着し、ミヤケマイに挨拶すると、乾杯の音頭をお願いされる。突然のことで何をしゃべろうかと迷ったけれど「今井ちゃんが寄稿してくれた作品集の宣伝をしてくれればいいから」と言われ、「作品集も作品展も人気が出ますように」といったことをつっかえつっかえ話し、「皆さん一人一人の心にある『ココでないドコか』を思い浮かべてグラスを掲げていただきたく思います」に続けて「乾杯」と締めた。

『ココでないドコか』を『ココにないドコか』と言ってしまった気もするし、「個展」と呼ぶべきところを作品展」と呼んでいた。「昔はミヤケマイで検索すると、わたしのサイトが上位にヒットしたけれど、今はたくさんの人がミヤケマイのことを書いていて、わたしのサイトが埋もれるようになり、人気が出たことを感じる」という話もした。ミヤケマイの反応は「ひととおり網羅してたよ」。

子どもの頃から「百貨店といえば高島屋」で、5才まで暮らした家は堺高島屋、高校生まで過ごした街は泉北高島屋のお膝元だった。高校時代は難波高島屋、大学時代は京都高島屋、就職して上京してからは玉川高島屋を贔屓にしてきたのだけど、高島屋でマイクを握る日が来るとは思っていなかった。皆さんの手にグラスがそろうまでの間にそんな話もしたら、乾杯の後に新宿高島屋の支店長さんが声をかけてくださり、名刺をいただいた。個展と作品集、二つの『ココでないドコか』がたくさんの人に届きますように。

肝心の個展はじっくり見る時間がなかったので後日出直すつもり。幸い期間はたっぷり。皆さんもぜひ。
ミヤケマイ個展「ココでないドコか」高島屋 2008
◆6月4日(水)〜6月17日(火)高島屋新宿店10階美術画廊
◆6月25日(水)〜7月1日(火)高島屋東京店6階美術画廊
◆7月9日(水)〜7月15日(火)高島屋京都店6階美術画廊
◆8月13日(水)〜8月19日(火)高島屋横浜店7階美術画廊

2007年06月07日(木)  誰かにしゃべりたくなる映画『しゃべれどもしゃべれども』
2005年06月07日(火)  友を訪ねて名古屋へ
2004年06月07日(月)  絨毯ひろげて岐阜県人会
2002年06月07日(金)  ドキドキの顔合わせ


2008年06月06日(金)  ミヤケマイ作品集『ココでないドコか』に寄稿

友人の絵師(イラストレーターというよりこっちの表現のほうがしっくりくる)ミヤケマイの作品集第2弾『ココでないドコか-forget me not-』が届く。最初の作品集は購入したのだけど、今回はコメントを寄せたので一冊贈呈してもらえることになった。わたしが以前ミヤケマイのサイトに寄せた文章を本人が気に入ってくれ、「ぜひ書いてぇ」と指名してくれたのだが、ご一緒させてもらえる機会はあるのかしらんと活躍を眩しく眺めていたミヤケマイの作品集にのっかれるなんてと一も二もなく引き受けた。レイアウトを手がけたのはミヤケマイとの共通の友人、名久井直子で、これまたうれしい顔合わせ。

わたしが寄せたコメント(タイトルは『マイルーム願望』)には英訳がつき、見開きで掲載。そうそうたる顔ぶれの寄稿者の中に作家の角田光代さんがいて、目次ではわたしの名前と並ぶ形になっているのがこれまたうれしい。角田さんの小説を映画化するという企画に関わって以来ファンになって、ミヤケマイが表紙を手がけた対談集『酔って言いたい夜もある』も自分がその場にいるみたいに楽しく読んだ。映画は残念ながら成立しなかったけれど、こんなところで遭遇できた。もちろん角田さんのコメントは真っ先に読んだ。ミヤケマイの作品をよく知る人が読めば、こんな例え方があったのかと新鮮に映り、まだ知らない人が読めば、知りたくてたまらなくなる。そんな力を持ったコメントに、さすがと唸った。

作品集は4日から新宿高島屋を皮切りに4つの高島屋をめぐる同タイトルのミヤケマイ個展にあわせて発売(税込み8888円)。もちろん個展会場でも買い求められる。さらに、付録つきもあって、こちらは16800円。2倍近くするだけあって、付録は豪華3点。『異界万華鏡』『困ったときの紙だのみ』(カードが運勢を決めてくれる代物らしい)『錦小風呂敷』といかにもミヤケマイらしいセンスの名前がついている。額入りのミヤケマイ作品にはなかなか手が出ないという人にも、おすすめ。こちらは今月下旬発売(ただいま予約受付中)とのことで、わたしもまだ実物を見ていないのだけど、作品展会場で見本が展示されるとのこと。

ミヤケマイ個展「ココでないドコか」高島屋 2008
◆6月4日(水)〜6月17日(火)高島屋新宿店10階美術画廊
◆6月25日(水)〜7月1日(火)高島屋東京店6階美術画廊
◆7月9日(水)〜7月15日(火)高島屋京都店6階美術画廊
◆8月13日(水)〜8月19日(火)高島屋横浜店7階美術画廊

2007年06月06日(水)  わたし好みだらけの『そのときは彼によろしく』
2005年06月06日(月)  ニューオーガニックレストラン『orto』
2004年06月06日(日)  レーガン元大統領、逝去。
2002年06月06日(木)  同窓会の縁


2008年06月05日(木)  マタニティオレンジ297 Macで『たまアルバム』作り 

この1週間、仕事の合間に悪戦苦闘していたのがMacのiphotoという機能を使った『たまアルバム』作り。デザインを選び、雛形に好きな写真とコメントをはめ込むだけの作業なのだけど、Macらしいスマートゆえに不親切な説明に試行錯誤を迫られた。先日、Macユーザーの先輩である友人のセピー君が鎌倉で一緒に過ごした一日をアルバムにして贈ってくれたのだけど、今さらながらこんな面倒なことをよくやってくれたなあと頭が下がる。自分の子どものためじゃなかったら、途中で投げ出すところだった。それでも何とか要領を覚え、ダンナに書かせた「たまへの手紙」も入れ込み、無事完成。あとは製本されて届くのを待つばかり。

実は、たまの一才の誕生日に手づくりのアルバムを贈る計画はあった。スクラップブックに初挑戦するという意気込みは時間が経つうちにしぼみ、手づくりはやっぱり無理だと諦めたものの代案はなく、Macに乗り換えたのを機会に「これなら簡単に作れるかも」と思ったものの、エンジンがかかるまでに1か月、製作に1週間。2週間ほどでアルバムが届く頃には、たまは1才10か月。10か月も遅れ、もはや「2才の誕生日に1才の誕生日プレゼントを贈る」状態だけど、結婚式の写真の整理がまだのわたしにしては、仕事が早い。かわいいわが子のことだから、優先順位が上がったのだ。

すんなり進まなかった分、つまずくたびに「わたし、いま、親らしいことしてるぞ」という気持ちになれた。自分のことで手一杯で、保育園の先生にもお医者さんにも「お母さん、しっかりしてください」としかられっぱなし。定刻に登園すると拍手され、毎度のように忘れ物をし、今朝なんかジーンズのファスナーを閉め忘れていた。鏡を見るのを忘れるので、たまがふざけて貼り付けたシール(「会議」と書いてあった)をおでこの真ん中につけたままだった日も。考え事をしながらスナップボタンを留めて、肉(皮膚)を挟んでしまったことは数知れず。それでも「ママ、きー!」(ママ大好き)と抱きついてくれる娘に、少しは母親らしいことをしなくては。

2007年06月05日(火)  『風の絨毯』の中田金太さん逝く
2005年06月05日(日)  2人×2組の恋の映画『クローサー』
2004年06月05日(土)  『ジェニファ 涙石の恋』初日
2002年06月05日(水)  シンクロ週間


2008年06月04日(水)  死ぬということへの悪あがき

幼なじみのお父さんが亡くなられた。幼なじみからの電話を自宅で受け、いつも通り話した直後に倒れ、あっという間のまさに突然過ぎる死だったという。最後に会ってから十年ではきかないから記憶の中のおじさんはずいぶん若く、なおのこと驚いて呆然となった。知らせてくれたのは母親で、いつもは当たり前だと思っている母の声がなんだかありがたく思えた。自分の両親は元気でまだまだ長生きしてくれそうだとすっかり油断しているけれど、年齢の分だけ不意打ちに遭う確率は高くなる。だけど心積もりはまだしたくない。

わたしは昔から死というものを受け入れるのが下手で、今自分を囲んでいるメンバーがそのまま年を重ねて持ち上がっても欠けることはない、と意地を張って信じているようなところがある。自分も含めて全員がいつかは舞台を降りる宿命にあることを認めるのが怖くて、そのことを想像するだけで息苦しくなって思考停止してしまう。四年前に亡くなった幼なじみのヨシカは、留学先のベルリンに行ったままだと錯覚しているようなところがある。お墓を訪ねても、やっぱり実感はわかなくて、何かの冗談のように思えてしまう。

夏目漱石の小説だったか、亡くなった師匠の元へ駆けつけた弟子たち一人一人の様子を綴った短編があった。師匠との思い出を語る者、早すぎる死を悔やむ者、感謝を述べる者……悲しみとある種の興奮に包まれたその部屋で、「自分もいつかは死ぬのか」と静かに怯えている男がいて、この気持ちわかる、と思った。その後で、「だけど、その人もやっぱり死んでしまったんだなあ」と怖くなった。読んだのは二十年以上前、高校生の頃だと記憶しているけれど、死ぬことへのじたばた具合はその頃から改善されていない。子ども向けの絵本の奥付にある著者紹介を見て、「これを書いた人は、今はもういないんだ」と淋しくなったりする。わたしの場合、自分が消えることを恐れる気持ちが、形になるものを残したいという衝動をかき立て、書くことに向かわせているようにも思う。あの短編の著者も、そういう人だったのかもしれない。

2007年06月04日(月)  黒澤明映画『生きる』
2002年06月04日(火)  回文ぐるぐる「サッカー勝つさ」
2000年06月04日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2008年06月03日(火)  「夜は街より家にいたい」「予定はなるべく入れないで」という感覚

図書館の「今日返された本」コーナーで見つけた『40代のひとり暮らし』(岸本葉子)と目が合って、手に取った。「質感はだいじ」など、自分のこだわりについて綴った短いエッセイが40本ほど。子どもという同居人がふえて3人暮らしの身だけれど、あと2年で40代という同世代感からか、誰と暮らそうと自分の色に染めてしまう性格ゆえか、自分と重ねて読めるところが多かった。「愛のない(なくなった)人の分の家事労働ほど、負担に感じるものはない」なんて指摘にドキッとし、この負担が大きくなるとコンビ解消してひとり暮らしになるんだろうなあと想像する。とくに共感したのが、「夜は街より家にいたい」と「予定はなるべく入れないで」と題するエッセイ。20代の頃、一人で家で過ごす夜はもったいなく感じられたけれど、今は勝手知ったるわが家のくつろぎを贅沢だと思える。そして、20代はスケジュール帳を予定で埋めよう埋めようとしていたけれど、今はスケジュールの白い部分を守ろうとする。打ち合わせがなくなったとき、20代のわたしなら誰かを誘って穴を埋めたのだけれど、今は一人でゆっくりお茶を飲む時間ができたと考える。週の何日かは何にも予定がない日を確保しておきたいという著者の感覚に、わかるわかると膝を打ち、これが年を重ねて落ち着くってやつかしらと思った。余白を空しいと取るか、余裕と受け止めるか、やりたい放題を尽くして体力が落ちてきた三十代半ばあたりがその分岐点になるのだろうか。「でかけない度」と「予定あけとく度」が急に高まったのは、予測不能な幼子を抱えたせいかと思っていたけれど、40代突入の予兆的な変化だったのかもしれない。


2007年06月03日(日)  マタニティオレンジ127 0歳児時代は子どもより自分優先!?
2005年06月03日(金)  劇団浪漫狂『ピカレスクpp行進曲』
2003年06月03日(火)  海南鶏飯食堂(はいなんじーふぁんしょくどう)
2002年06月03日(月)  きる ふぇ ぼん
2000年06月03日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月03日(日)  4年2組日記 先生の家


2008年06月02日(月)  マタニティオレンジ296  「ママ いっぽん!」「もっかい もーむー」 

打ち合わせが長引いたので、ダンナの実家に預けている娘のたまをダンナが迎えに行ってくれた。「パパ!」と抱きついて甘えるたまにデレデレしつつ、「ママがいるときは、ママいっぽんのくせに」とダンナが言うと、すかさず「ママ いっぽん!」とすばらしい発音でリピート。その話を家に帰ったダンナがわたしに報告しているそばで、たまは「ママ いっぽん!」を連発。いつの間にか、人差し指を立てる「いっぽん」の仕草も加わったが、「パパ いっぽん!」「じいじ いっぽん!」「ばあば いっぽん!」と応用を効かせはじめた。「一本」の意味がわからず使っているところが子どもだなあ。

外国語を覚えるときにも勘違いはつきものだけど、たまが日本語を覚えていく過程にも思い違い、思い込みが現れるようになった。絵本を読んであげると、「もっかい もーむー」(もう一回読む)と言って、同じ本を何度も読んでほしがるのだけど、だっこをしても、おんぶをしても、すべり台であそんでも、「もっかい もーむー」。どうやら、たま語では「もむ」は「読む」にとどまらず、「do」を意味するらしい。自分が家に帰ったときに「かえいー」(お帰り)と言うのも微笑ましい。

子守話21 ぞうのせんたくやさん

ぞうがせんたくやさんをはじめました。
ながいはなに せんたくものをたくさん まきつけて
かわまではこんでくると
せんたくものをはなでつまんで
かわのみずで ざぶざぶ ざぶざぶ
がんこなよごれは みずにたたきつけて ばんばん ばんばん
よごれがおちたら ぶんぶんふって みずをきり
おひさまと かぜが よくあたる たかい きのうえに ひっかけて
せんたくものが よくかわいたら はなをじょうずにつかって おりたたみ
アイロンがわりに あしをどんとふみつけて しわをのばせば できあがり。
おおきなあしあとがついている シャツをみかけたら
それは ぞうのせんたくやさんが あらったしるし。

2007年06月02日(土)  『ベンディングマシンレッド』発進
2002年06月02日(日)  お宅訪問
2000年06月02日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月02日(土)  4年2組日記 バレーボール


2008年06月01日(日)  出張いまいまさこカフェ8杯目『企画という恋が終わるとき』

池袋シネマ振興会のフリーペーパーbukuに連載しているエッセイ『出張いまいまさこカフェ』の原稿を書く。6月下旬発行予定の次号で8杯目。3か月に一度の刊行だから、連載開始から24か月、2年になる。

8杯目のタイトルは『企画という恋が終わるとき』。恋愛のゴールが結婚だとしたら、企画のゴールは撮影、公開(放映)。テレビの場合、脚本家のところに話が来る頃には放映日やキャストなどが固まっている場合が多いので企画が流れることは少ないけれど、ホンづくりから出発する映画の場合は、もろもろの理由でゴールまでたどり着けないことが多い。わが本棚に並んだ脚本を眺めていると、熱い恋に落ちながら泣く泣く終止符を打った企画がコレクションのごとく居並び、よくこれだけボツになったものだ、と呆然としてしまう。過ぎ去った恋への懐古も込めて原稿を書いた。

ただならぬ失恋の数を見ても、企画という恋に関しては、わたしは恋多き女。「恋をして恋を得るのは一番目にすばらしいこと、恋をして恋を失うのは二番目にすばらしいこと」なんて格言があるけれど、恋をしたからには実らせたいもの。過ぎ去った恋も、いつか焼け木杭に火がついたりしないだろうか、と思ってしまう。

2007年06月01日(金)  「いしぶみ」という恋文
2005年06月01日(水)  映画『子ぎつねヘレン』撮影中
2004年06月01日(火)  歌人デビュー本『短歌があるじゃないか。』
2002年06月01日(土)  フリマ
2000年06月01日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月01日(金)  4年2組日記 日記のざいりょう

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