2007年06月01日(金)  「いしぶみ」という恋文

向田邦子さんの短編とエッセイを集めた『男どき女どき』を読んでいて「いしぶみ」という言葉を知った。「昔、人がまだ文字を知らなかったころ、遠くにいる恋人へ気持ちを伝えるのに石を使った、と聞いたことがある」とある。

石に思いを託すためには、思いにぴったり合う石を探さなくてはならない。中途半端な石で妥協すると、受け取った相手に読み間違えされて、思わぬ誤解を呼ぶかもしれない。相手の顔や好みを思い浮かべながら便箋を選ぶよりも、もっと真剣で慎重な作業が必要になる。その分、今のこの気持ちを表わすためだけにあるような石に遭遇したときの喜びは大きいだろう。地べたに転がっている石ころを手紙という目で見たら、ひとつひとつが違って見えたり、物言わぬ塊が語りかけてくるように感じられたりするかもしれない。今度やってみよう。

「いしぶみ」に想を得て、こんな話を考えてみた。

いしころかぐや姫

その昔、文字をしたためた手紙ではなく、旅先で拾った石を届けて遠くにいる恋人に気持ちを伝える「石文(いしぶみ)」というものがあった。時は流れ、メールで手軽に気持ちを伝え合える21世紀、由緒正しい家柄の跡取り娘、しかも超美人という現代版かぐや姫が結婚相手を決めるにあたって出したお題が「石文」。最も彼女の心をゆさぶった石文の送り主が選ばれるとあって日本中からこれはどうだ、という石が続々と献上された。

中の空洞に水がたまって音がするアンデスの珍しい石、うけ狙いで漬物石、「あなたと食べる一生分のサラダのために」の願いを込めた岩塩……だが、姫のハートを射止める石は現れない。姫は芸術が好き、という噂が流れると、精巧な彫刻をこらした石や石のオブジェといった作品が届くようになる。それでも反応がないとみると、気持ちというのは結局金ではないか、という憶測が流れ、特大ダイヤモンドや世界にひとつしかないレアな宝石が競い合った。

脱落していく者が続出し、いつしか五年の歳月が過ぎ、石文合戦のことを世間が忘れた頃、ようやく姫の結婚相手が決まった。お披露目に現れたのは、貧弱な冴えない男。一体どんな石文で彼女を口説き落としたのかといえば、送ったのは、どこにでもあるような石ころだという。だが、一個ではない。お披露目の会場となったのは、小石が敷き詰められた庭。その庭を満たすだけの石を、五年の歳月をかけて送り続けた誠意が通じたのだった。


いしぶみについて触れた同じエッセイの中に、もうひとつ、印象的なエピソードが紹介されていた。向田さんが忘れられない手紙として挙げた、「○と×だけの手紙」の話。学童疎開へ向かう向田さんの妹に、父は自分宛の宛名だけを書いたハガキの束を渡し、「元気な時は大きなマルを書いて一日一通必ず出すように」と伝えて送り出した。最初はハガキからはみ出さんばかりだったマルがだんだん小さくなり、細っていき、やがてバツになり、ついにはハガキが来なくなった。疎開先で、妹は百日咳で寝込んでしまっていたのだという。それを読んで、『レ・ミゼラブル』の初版売れ行きを心配したビクトル・ユーゴーと出版社との世界一短い往復書簡「?」「!」や、南極観測隊の夫に日本で留守を守る妻があてたたった三文字の電報「あなた」を思い出した。手紙というのは言葉を費やせばいいというものではなく、端的な表現に思いがぎゅっと詰まったエネルギー効率の高いもののほうが心を打つけれど、発散させるよりも凝縮させるほうが高度な技を要する。沈黙の中に思いを込めるいしぶみは究極の離れ業だといえる。

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