2007年06月29日(金)  マタニティオレンジ137 おっぱいより朝ごはん

保育園の連絡帳に「たまちゃんが毎朝おなかをすかせて泣いています。おっぱいはしっかり飲んでいますか」と保育士さんからコメントがあり、そこから矢印が引っ張られて、「というより、しっかり朝ごはんを食べさせましょう」と栄養士さんからのコメントが書き添えられていた。ひと月ほど前に「そろそろ3回食にしましょう」と栄養士さんから指導があり、保育園で午前食と午後食の二回離乳食が出るので、夕食を家で食べさせるようにしていたのだけれど、「午後食はおやつと考え、朝も食事をさせてください」とのこと。知らなかった。「たまちゃん、午前中が待ちきれなくて、マンママンマって急かすんですよ」「他の子が先に食事していると、ほしがるんですよ」と保育士さんに言われて「元気で利発な子に育っている」と喜んでいたのだけれど、単純に飢えていたらしい。今日からは朝おかゆを炊いて、しらすやかつおぶしや野菜を適当にのっけて、腹ごしらえさせてから送り出すことにする。

朝ごはんを食べるようになると、「目覚めの一杯」の出番がなくなるかな、と思ったけれど、母乳はあいかわらずほしがるので与えている。たまにとっても、エネルギー源というよりママに甘える口実のよう。こうしていると落ち着くの、そんな顔をして飲んでいる。「湯上がりの一杯」は飲んでいるうちに眠り、寝息を立てながらもチュパチュパと口を動かし、「エアおっぱい」している。夢の中でも飲んでいたいほどおいしいのかな、といとおしくなる。「おっぱいをあげるときは赤ちゃんの目を見ましょう、なんて当然のことを話し合うのに税金を使わないでほしい」といった趣旨の投書を先日新聞で読んだけれど、会議で議論して提言にまとめるまでもなく、場数を踏めば、おっぱいコミュニケーションはうまくいく。わたしの中の奥のほうで何十年も眠ったままだった母性らしきものを、おっぱいと一緒にたまが吸い出してくれている。

同じぐらいの月齢の子を持つお母さんとは、卒乳の話題が出るようになった。子どもよりも母親のほうが乳離れできない、というケースが多い。本当はしたくないんだけど……と保育園に子どもを預けるタイミングで卒乳するお母さんは多い。子どもと離れている間におっぱいが張ってくると仕事の合間に搾乳しなくてはならないし、ほうっておくと乳腺炎になってしまう。幸いわたしの母乳工場は「発注があれば生産」するようにできていて、なんとか留乳(いま作った言葉)できている。とはいえ、省エネモード程度にはラインが稼動するので、ときどき貯蔵タンクがいっぱいになって、打ち合わせの最中に「漏れてる!」と焦ることはあるけれど、案外気づかれていない。母乳が漏れ出すものだとは、わたしも身をもって体験するまで知らなかった。たった一人のために運営中の母乳工場、リクエストがある限り、閉鎖したくないと思っている。

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2002年06月29日(土)  パコダテ人大阪初日
2000年06月29日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/28)


2007年06月27日(水)  中国経絡気功整体の大先生

産後の腰痛がひどくて、遠赤外線で治す民間療法やら痛くない鍼やらを試してそれなりに効果はあったけれど決定打に欠け、そうこうしているうちにますます痛みが募ってきたところに、新聞チラシで「中国経絡気功整体」という効きそうな名前を見つけた。2000円割引チケットがついていたこともあり、早速行ってみると、いかにも本場っぽい大柄で日本語がたどたどしい先生が白衣でお出迎え。体格から想像した通りの太い指に体重をかけてぐいぐいと押してくれ、痛気持ちいい。しかし、経絡気功整体ともったいぶって名乗る割には、ただもんでいるだけという気がする。。「コッテマスネ」「カタイデスネ」などと言いながら手当たり次第に硬いところをもみほぐしている感じで、台湾や中国やタイの旅先で受けたマッサージと大差はない。

チラシには「何度か通えば治る」ようなことを書いてあったけれど、治療のような計画性は感じられない。「治りますか」と聞いたら、「ソウネエ。バランスガワルイデスネ」とはぐらかす大先生。それでも施術後の気持ちよさの余韻でつい5回券を買ってしまったけれど、2、3日もすると、いや、早ければその日のうちにもみ返しが来て腰痛がぶり返すので、5回で見切りをつけた。結局、大先生に力自慢のマッサージ師以上の腕を見出すことはできなかったけれど、一度だけ、先生が自信満々に「診断」してくれたことがあって、
「ココ、ヒジョウニカタクテ デッパッテマスネ」と右足の外反母趾を指先でなぞって言った。もともとあったものが産後にいっそうひどくなったので、先生でなくても、靴の上から見てもわかるほどに飛び出している。
「治りますか」とためしに聞いてみたら、
「ヒラベッタイ タカクナイ クツヲ ハイテクダサイ」と言われた。大先生の日本語が最も流暢だった瞬間だった。この話はけっこう受けるので、ちょっぴり元を取った気になる。

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2002年06月27日(木)  泉北コミュニティ


2007年06月26日(火)  マタニティオレンジ136 サロン井戸端

保育園の園長先生の提案で、意見交換会なるものが開かれた。クラスごとの保護者会を園全体規模にしたようなもので、参加は自由。第一回目の今回はテーマをとくに設けず、一時間の中で参加者が一人一言発言すること、会に名前をつけることが目標となった。わたしが10分ほど遅れて席(子ども用の小さな椅子)に着いたときには、3歳児クラスのお母さんがトイレトレーニングについての武勇伝で和やかな笑いを誘っていた。「保育園を良くしていくために何が必要か、考えて行き着いたのは、コミュニケーションだったんです」と保育士さん。日頃から保護者と園が話せる関係を作っておけば、問題が起こったときに知恵を出しやすいし、つまらないことで衝突することも少なくなる。

コミュニケーションにちなんで、わたしは「挨拶」と「連絡帳」について話した。子どもを産むといろんなものをあきらめなくちゃならないと思い込んで「産まず嫌い」だったけれど、産んでみたら世界が広がった。とくに保育園に預けるようになってからは、みんなの中で自分も子どもも成長させてもらっている。朝いろんな人に「おはよう」と声をかけることもこれまではなかったし、連絡帳でのやりとりは交換日記のようで楽しい。そんなことを話した。子どもとコミュニケーションを取る大切さは口すっぱく言われるけれど、子どもを抱えた親こそコミュニケーションに飢えている気がする。少なくともわたしは、「今日のたまちゃん、ごきげんでしたよ」「うちの子と遊んでましたよ」と教えてくれる人がいることに、居場所を用意されたような心地よさと心強さを感じる。

きょうだいが他の園に通っているお母さんによると、「こんなに先生たちが笑っている園は珍しい」のだそう。3才児まで50人ちょっとの小さな園だからこそ先生方にも余裕があり、行き届いた保育ができる。「保育はサービスではなく善意。してあげるのではなく、こうなるといいなという気持ちで動くことが大事」と保育士さん。育児はあくまで親がするものであり、手助けが必要なところに手を差し伸べるだけ。けれど、その手がいつでも出せるように、見守る目は休んでいない。とてもあたたかい雰囲気の園なので、転園すると、子どもよりも親が「帰りたい」となってしまうのだとか。4、5才児クラスがない園なので、3才児クラスを終えると、他の園に移ることになる。「転園すると、すでにいる人たちの関係が出来上がっていて、後から入り辛いという話をよく聞くけど」「シャッター閉めているのは本人のほうかも。声をかけられるのを待つのではなく、自分から声をかけたら、それでも無視されることはないはず」「声をかけあうこの園の良さを、みんなが転園先に持っていけばいいんじゃない?」「やっぱり行き着くところはコミュニケーション」などとサロン感覚でくつろぎながら井戸端会議のにぎやかさ。会の名前は「サロン井戸端」となった。

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2004年06月26日(土)  映画『マチコのかたち』


2007年06月25日(月)  割に合わない仕事

「はっきり言って、割に合わないんですよね」。何度目かの直しを依頼する電話をかけてきた相手にそう告げた瞬間、自分の言葉に驚いた。今井雅子、ついにそういうことを言うようになったか。電話の相手も面食らった様子で、「ギャラがご不満でしたら、上に相談してみまして……」「いえ、お金的には最初から割に合ってないんですが」ますますわたしはすごいことを言う。だったら何が気に入らないのか、うまく説明できない。電話を切ってから、「そうか。自分の期待に釣り合っていないんだ」と気づいた。先週引き受けたその仕事は、まだわたしがあまり実績のないジャンルのもので、ギャラよりも作品を形にできることに惹かれて受けた。けれど、蓋を開けてみると、わたしに求められているのは、クライアントの要求を器用にまとめて形にする作業だった。読みが甘かったのだ。

もやもや感のくすぶりに既視感を覚えて、思い出した。広告会社でコピーライターをしながら脚本を書いていた頃、早く家に帰って脚本を書きたいのに、理不尽な直しが後から後から入ってきて、「こんなことやってる場合じゃない!」と苛立った、あのもどかしさに似ている。コピーライターの名は広告にクレジットされないけれど、世に出すからには、わたしが書きました、と誇れるものにしたかった。書きたいものと求められているものの折り合いを必死で探っていた。会社でわたしが重宝されたのは、いいコピーを書くからではなく、得意先が欲しがるコピーを書けるからだった。自分の考えた言い回しと宣伝担当者が発明した言い回しのパッチワークをこなれたコピーに仕立て直す、そんなことばかりうまくなっていた。早くて便利なコピーライター。コンビニと同じでお客さんはひっきりなしに来るけれど、大切なものを頼むときはよそへ行ってしまうだろう。そんな怖さがよぎって、自分の名前で勝負しようと思い立ったのが、大好きな会社を飛び出してフリーランスの脚本家に転じた動機だった。

好き勝手に書かせてほしいのではない。直すのが嫌なのではない。誰がやっても同じ仕事をしたくない、それだけだ。「わたしがやらなくてもいい仕事」にかける時間と労力があったら、「わたしがやるべき仕事」に注ぎたい。それが「割に合わない」の内訳だった。恋愛と同じで、違和感をはっきりと自覚しながらつきあいを続けるのは、しんどい。けれど、引き受けた仕事を投げ出すことは許されない。「仕事のせいにするんじゃなくて、割に合う仕事にするのは自分次第なんじゃないの」ともう一人の自分が囁く。たとえ仕入れにコストをかけすぎて原価割れしても、コンビニではなく専門店の仕事をするのだ。名前を出すからには、ギャラではなくプライドに見合った仕事をするのだ。フリーランスの意地だ。気を取り直してパソコンに向かい、ファイルを開き、もうひと粘りすることにした。電話の相手に投げつけた「割に合わない」は結局、自分を奮い立たせる言葉だったのかもしれない。

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2005年06月25日(土)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学最終日
2002年06月25日(火)  ギュッ(hug)ギュッ(Snuggle)
2000年06月25日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/28)


2007年06月24日(日)  マタニティオレンジ135 うっかりケーキでたま10/12才

更新が滞っている14回分をすっ飛ばしてマタニティオレンジ135回目は、8月22日生まれの娘のたまの10/12才会。今月のゲストは、ダンナが東京国際マラソンを一緒に走った、わたしたち夫婦より少し若い三十代前半のU君、O君、M君の三人組。事前にわたしの日記を読んで研究してくれたらしく、お楽しみのケーキも前日から気合を入れて予約。すべり出しは絶好調だったのだけど、当日になってブレーキ。店にケーキを取りに行ったM君から「ちょっとトラブルがありまして、いま、後楽園から池袋に向かっているので遅れます」と連絡があった。電話を受けたダンナと「なぜ、ケーキのトラブルで後楽園から池袋へ?」と首をかしげているところにU君とO君が到着し、「M君、ケーキを電車の中に忘れちゃったらしいです」。網棚の上に置いたまま後楽園で電車を降りて気づき、血相を変えて池袋の忘れ物センターへ取りに向かったのだった。「M君ならありうる」「いつものことながら、おいしい」とわたし以外の三人がうなずきあうのを見て、会う前から「うっかりM君」のキャラクター設定は出来上がった。

2才の女の子がいるU君ばかりか独身のO君とM君も子ども好きなのには驚いた。親バカのダンナを筆頭に男四人で「いないいないばあ」の大合唱。パパが4倍に増えたようなにぎやかさに、緊張気味だったたまも自分からすりすりするまでに。たまはこの一か月でつかまり立ちの安定感がさらに増し、片手で軽く支えるだけで直立できるようになった。ときどきその片手も離してバランスを崩し、本人も親をヒヤリとなる。歯は上2本下4本。わたしを見て、はっきりと「ママ」と呼ぶ。保育士さんを「センセ」と呼ぶこともあるとか、離乳食がなくなると「ナイ!」と訴えるとか、保育園の日誌で報告は受けるけれど、まだライブで確認はしていない。

マラソンの打ち上げを兼ねての誕生会ということで、「たまちゃんかわいい」「たまちゃん面白い」に大会の武勇伝がサンドイッチされる。ここでもM君は「仲間うちでただ一人、時間切れで関門に引っかかり完走できなかった」というおいしい位置づけ。関門でテレビ局のインタビューを受け、「コンビニで買い物してたら遅くなっちゃいました」とコメントしたのが放送で使われたとか。ポケットに忍ばせた2000円で飢えを凌いだのだった。お金を持ち合わせていなかった他の三人は、ありあまるほど用意されると聞いていた差し入れが、自分たちが通過する前に食い荒らされて何も残っていなかったことを嘆きあう。「でも、アミノバイタルのドリンクはありましたよね」「あったあった」という話になると、「僕のときは、紙コップだけ散らばってました」とM君。つくづくおいしい。「バナナは皮ごと渡してほしかったのに、皮をむく間待つのがまどろっこしかった」「でも、走りながら皮をむくとゴミになるからダメなのでは」「いや滑るからでは」などという妙に細かい話も拾えて面白かった。

「M君の真似じゃないけど、わが家もハプニングがありまして」。食欲旺盛なアスリートの胃袋に応えて手料理をふるまうつもりが、予定外の鎌倉セピー邸宿泊で作戦変更。昨夜テソン君が腕をふるった晩ごはんが大移動してわが家のテーブルに並んだ。チリビーンズ、韓国風ゆで豚、テソン君のオモニが仕込んだキムチ、テスン君に調味料をまるごと分けてもらって作った蛸のサラダ、どれも好評で、鎌倉出発前に仕込んでおいたものの何がしたいんだかわからなくなってしまった初挑戦の野菜のテリーヌの痛々しさをカバーしてくれた。定番のステーキとガーリックライスは焼き加減、味加減ともにいい感じで成功。


宴もたけなわ、後楽園から池袋忘れ物センターを旅したバースデーケーキは原型をとどめているのやら、ドキドキしながら箱を開けると、箱に激突して一部崩れているものの「セーフ!」。丸の内オアゾに入っているSOMETHING ROUGEというお店のデコレーションケーキで、名前からして苺のケーキの専門店らしい。「苺だけだと淋しいかなと思って、ブルーベリーも足してもらったんです」とM君。ホワイトチョコレートのプレートもかわいらしくて、これは電車に忘れちゃったからといって、そこらのお店で代わりはきかない。「見つかってよかったよかった」と幸運を噛み締めていただく。スポンジを積み重ねるのではなく、縦置きのロールケーキになっているのが特長。クリームもスポンジもふわふわの口どけ、M君のうっかりハプニングのおいしさに負けていなかった。

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2005年06月24日(金)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学7日目
2004年06月24日(木)  東京ディズニーランド『バズ・ライトイヤー夏の大作戦』
2000年06月24日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/27)


2007年06月23日(土)  「イラン・ジョーク集」のモクタリさんと鎌倉ナイト

京都時代の知り合いのツキハラさんが来るから遊びに来ない?と鎌倉のセピー君からお誘い。明日のたまの10/12才誕生会の準備があるからどうしよう、と迷ったら、「今井さんが前に日記に書いてたイラン・ジョーク集の人も来るよ」とのこと。さらに、4月にセピー邸で大人の休日を一緒に過ごしたテスン君とユキコさんのカップルも集まるということで、準備は何とかなる、と見切って鎌倉へ向かった。

「イラン・ジョーク集の人」とは2004年の秋に益田祐美子さんからもらった『イラン・ジョーク集〜笑いは世界をつなぐ』の著者、モクタリ・ダヴィッドさんのこと。益田さんが『風の絨毯』の次の作品として準備を進めていた『パルナシウス』という長編映画のペルシャ語訳を手伝っていた人で、その縁で彼の本を大量に買った益田さんが一冊分けてくれたのだった。

この爆笑本、日記でも口コミでも相当たくさんの人にすすめたのだけど、著者のモクタリさんのユーモアセンスにも興味が湧いて、日記の最後に「近いうちに会えそうな気がする」と書いた。それが3年足らずで現実になった。セピー君とはモクタリさんが来日して間もない頃からの二十年来の友人なのだという。『風の絨毯』の脚本に関わることになったとき、真っ先にわたしが話を聞いたのがセピー君だったけれど、彼とモクタリさんをつなげたことはなかった。わたしも『パルナシウス』の企画にちょこっと関わっていたので、「ちょうちょと焼きいもの話」(この二つが登場する映画だった)をモクタリさんと懐かしんだ。

ちょうど刊行されたばかりという『世界の困った人ジョーク集』をサイン入りで贈呈され、早速読み始めると、これまた面白い。シモネタが元気だったイラン人・ジョーク集がピンクなら、政治ネタや宗教ネタがふえた第2弾はブラック。

わたしが思わず声を上げて笑ったのは、「アインシュタインとピカソとブッシュ大統領が天国の入口で中に入れてもらえるよう交渉」するジョーク。天国の門番に「お前たちが本物だということを証明しなさい」と言われ、アインシュタインは相対性理論を書き、ピカソはゲルニカを描き、無事本物であることが認められて中に入れてもらう。最後に「アインシュタインやピカソと同じように自分がブッシュ大統領であることを証明したまえ」と門番に言われたブッシュ氏、「すみません。アインシュタインとピカソって誰ですか?」。この質問で、晴れて大統領本人だと証明された……という内容。

他にも「パラシュートと間違えてランドセルを背負って飛び降りる」などブッシュ大統領はジョークの世界ではモテモテ。ユダヤ人のケチぶりをネタにしたジョークでは、旅先で出会った旅人に「互いを忘れないように」と指輪の交換を提案されたユダヤ人が、相手が差し出した指輪を受け取りながら「私を思い出したくなったら、指輪を上げなかったことを思い出してください」とオチがつく。

ジョークの合間に添えられたモクタリさんのコメントからは「世の中いろんな人がいるから楽しいよね」という気分が伝わってきて、みんながこの本のジョークで笑い合えれば世界はもう少し平和になれるんじゃないか、と思ってしまう。ワハハ度もフムフム度も昨年読んだバカ売れ本『世界の日本人ジョーク集』(早坂隆)に引けをとらないけれど、売れ行きだけは天と地の差。「こっちは宣伝してないからね。どうやってみんなこの本見つけてくるんだろね」とモクタリさん。

本の内容以上に著者本人が「ジョーク集」のような人で、「昼食べてないからおなか空いた〜」「朝から何にも食べてない」と一同が言い合っているところに「ボクなんか、朝から朝と昼しか食べてないよ!」とボケをかまし、「こんなに飲んで明日の朝起きられるかなあ」と酒のペースを落とそうものなら「ボクなんか、あさって仕事だよ!」と言い放ち(「あさっては月曜日だから、みんなそうだよ!」と突っ込みの嵐!)、実に打ちやすい球をこれでもかと投げてくる。早坂隆さんと先日「ジョーク集著者対談」をしたそうだけど、爆笑対談だったのではないだろうか。隣で聞いてみたかった。

2日後に控えたユキコさんの誕生日祝いも兼ねて、テーブルにはテスン君が腕をふるった愛情料理が並んだ。チリビーンズ、韓国風ゆで豚、蛸とネギときゅうりのコチジャンサラダ、テスン君のオモニが漬けたキムチ、ブイヤベース……。どれもおいしく、お酒がすすむ。モクタリさんの爆笑トーク、ネパール研究者のツキハラさんの含蓄のある言葉、共通の友人の思い出話……尽きない会話も味わい深い。帰るのが惜しくなって終電を諦め、明日のことは明日考えることに。

腹ごなしに夜の砂浜を裸足で散歩。たまをだっこして重かったけれど、東京の生活にはない波の音や潮風を10か月児なりに味わっている様子だった。たまは「こんなに楽しいんですもの、寝てたまるものですか」とばかりに日付が変わっても目がらんらん。6時起き昼寝抜きのわたしが先にばてて、たまを寝かしつけるのを口実に布団へ。

夜中の2時過ぎに目が覚めると、隣室のテーブルは大盛り上がりで、タクシーについて同時多発的にしゃべる6人の声が聞こえてきた。「おつり投げるってのは許せないでしょう!」「国会議事堂に案内してくれって言ったら、そっち方面詳しくないんでって言われて」「規制緩和の弊害だ!」「こっちは客だぞ!」みんな好き好きしゃべって、聞き役がいない状況。それから一時間ぐらいして、「ユキコは完璧だ!」と叫ぶテスン君の熱い声でまた目が覚めた。「そう思いませんか!」と同意を求めるテスン君に答えて、「前から思ってたんだけど、北海道の女性っていいよね」とはぐらかすモクタリさんの声が聞こえた。

2004年10月10日 爆笑!『イラン・ジョーク集〜笑いは世界をつなぐ』

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2005年06月23日(木)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学6日目
2000年06月23日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/27)


2007年06月22日(金)  マタニティオレンジ134 わが家語

小学校一、二年の頃だっただろうか、夜中に父と母が隣室で「サラ金」の話をしているのを布団の中で聞いた。「サラ金」の事件がニュースを騒がせていた折で、「お父さんとお母さんが危ないことに手を出してる!」と不安になったのだが、父と母は「さらっぴん(大阪弁でまっさらのこと)のお金」を縮めて「さら金」と呼んでいたとわかり、胸をなでおろした。両親は笑いながら「よそで言いなや」と言ったけれど、他の家では通じない「わが家語」の存在が、「自分は他でもないここの家の子なんだ」と意識させてくれた。毎週のように行く「菊一堂のモーニング」を「菊モー」と略し、子どもがおとなしく食べなくてはならないかしこまった和食屋「山里波(さんりば)」を「しずか」と名づけた。

大人になって家庭を持ったけれど、わが家語のボキャブラリーがにわかに増えたのは、娘のたまが生まれてからだ。母乳を「ぼにゅぼにゅ」、授乳を「じゅにゅじゅにゅ」、ガーゼを「ガゼガゼ」、よだれかけを「よだれだれ」と繰り返し語がまずブームになった。わたしの言葉にダンナがつられ、わが家を訪ねたダンナ母や友人にもうつった。ウンチに親しみを込めて「ウンチョス」と名づけた応用で、たまを「タマチョス」と呼ぶようになった。「チョス」の響きがいたずらっ子っぽいおちゃめさをうまく出していて気に入り、「オムチョス替えるチョス」などとチョス語が幅をきかせるようになった。わたしやダンナがチョスチョス言うものだから、客人までが「タバチョスしてきます」とタバコ片手にベランダに消えるようになった。「冬はロシア人風にタマチョフってどう?」と友人のはちみつ・亜紀子ちゃんに言われて、「タマホフもいいかも」とわたし。「ダスティン・ホフマン」をもじって「タマティン・ホフマン」と呼ぶのを「よくわかんない」と突っ込むダンナは、「メタボリック症候群」をもじって「メチャカワイコック症候群」。これではわが家語ではなく俺語。ところで、シャバシャバからドロドロを経てネットリへと粘度を増してきたウンチョスが、今週あたりからコロコロになった。オムツからすとんとトイレに転げ落とせる固体ウンチョスを見ながら、「ウンコスになったねえ」とダンナ。子どもの成長とともに、わが家語も進化する。

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2005年06月22日(水)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学5日目
2004年06月22日(火)  はちみつ・亜紀子のお菓子教室
2003年06月22日(日)  不思議なふしぎなミラクルリーフ
2002年06月22日(土)  木村崇人「木もれ陽プロジェクト」
2000年06月22日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1998年06月22日(月)  カンヌ98 3日目 いざCMの嵐!


2007年06月21日(木)  マタニティオレンジ133 おおらかがいっぱい

6月16日の読売新聞夕刊に「知恩院のウグイス 声失う」という記事を見つけた。「鴬張りの廊下」を修復して釘を固定するため、緩んだ釘が床板の留具にこすれて発する「鶯の鳴き声」が聞かれなくなるという。「50年、100年が過ぎれば再び鳴き声が聞こえるようになるはず。それまでご辛抱を」という寺のコメントがいい。江戸初期の再建からもすでに370年経つというから、時間のとらえ方が実に大きい。おおらかだなあ、とうれしくなった。

子育てをするようになって、「おおらか」であることを大切に思う気持ちが強くなった。大阪に住む妹の純子から贈られた『おおらかがいっぱい 途上国を見てきた保育者からのメッセージ』(編集:青年海外協力隊幼児教育ネットワーク 発行:社団法人 青年海外協力協会)には、おおらかの見本市のような体験談がたくさん紹介されていて、「こんな育児(保育)もあるのか」という驚きもあって、夢中で読んだ。

幼稚園教諭あるいは保育士として派遣された日本人協力隊員は、一年から二年という活動期間の間に結果を残そうと意気込むが、現地の人たちののんびりぶりに出鼻をくじかれる。大事な会議の前でも一人ひとりの挨拶が延々と続き、やっと議題に入るかと思ったら、終了時間だけはきっちり守り、何も審議されない。約束も締め切りも守られない。日本では一週間でできることに二年かかる……。

自分だけが突っ走って誰もついてこないような歯がゆさを感じながらも、少しずつ現地の感覚を受け入れていき、やがてドタキャンされてもイライラしなくなり、雨が降れば仕事が休みかなと思うようになる。派遣先はさまざまでも、そのような変化は多くの隊員の報告記に共通していて、「みんなの時計に合わせる」ことが常識とされる日本的生き方とは違う「自分の時計に合わせる」生き方が見えてくる。

時間という「物差し」がゆるやかなのだと思う。いつまでに、何分以内に、という区切りに縛られることなく、ゴムのように伸び縮みする時の流れの中で生活をしている印象がある。

人の子であっても自分の子であっても分け隔てなく面倒を見る、叱る。赤ちゃんであれお年寄りであれ障害者であれ、手助けが必要な人には自然と手が差し出される。そんな報告にも線引きのない自由を感じた。

細かいこと、小さなことにとらわれないおおらかさは大目に見るということでもあり、大雑把さやいい加減さにもつながるから、いいことばかりではない。正確さが求められる社会では、おおらかよりもきっちりが歓迎される。

けれど、時計もカレンダーも関係なしの子どもを相手にする子育て期間中は、こちらもおおらかに構えていたいと思う。何か月には歩いて、何才までにおむつを外して、という標準をなるべく意識せず、うちの子が基準であればいい。

名前を知らず、色や形だけで物を見分ける時期、文字を知らず、絵だけで物語を味わえる時期、何かができるようになるまでの今しかない「できない時期」を一緒にじっくり楽しみたい。

おおらかといえば、先月ダンナが「小児科の先生に90か月検診はどうしますかって聞かれたけど、そんな先のことまで考えているんだねえ」としみじみと感心していたので、「90じゃなくて9・10か月だよ」と訂正し、二人で大笑いになった。

今月9日に受けた検診で、娘のたまの体重は8730グラム、慎重は67.1センチ。横は大きめ、縦は寸詰まり気味のようだけど、好き嫌いなくよく食べ、転んでも笑い、シャワーが顔にかかってもぐずらず、おおらかな子に育っているように見える。



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2005年06月21日(火)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学4日目
2002年06月21日(金)  JUDY AND MARY
1998年06月21日(日)  カンヌ98 2日目 ニース→エズ→カンヌ広告祭エントリー


2007年06月19日(火)  父イマセン、ピースボートに乗る。

今月3日、大阪に住む父イマセンが神戸港からピースボートに乗り込み、103日の船旅に出た。「庭の水やりがあるから」という理由で母は同行しなかったが、家族でも我慢ならない地響きのようないびきに恐縮して一人部屋にしたという。割高にはなったが、「割り当てられた部屋が三人部屋でな、ロッカーも三人分あるねん」とちゃっかりしている。

今日、シンガポールに上陸し、海外でも使えるようにした携帯から電話をかけてきた。当たり前だけど、海の上では電波は届かないので、寄港したときしかつながらない。電話の目的は、旅の便りではなく、自分のサイト『イマセン高校』の25000人目の教え子(カウンターで25000を踏んだ人)への記念品をよろしく頼むという念押しだった。わたしの著書を贈ることになっているのだが、どの本にするかの希望とあて先を聞いて郵送してくれ、と海を超えてもよく響く大声で伝えてきた。あいかわらずだなあと苦笑し、元気だなあと感心。この分だと途中で下船(体調を崩したりすると、最寄の港から飛行機で戻ることになる)する心配もなさそうだ。

船の上は毎日夜遅くまでイベント続きで、退屈する暇がないそう。19日は船の上でアウンサースーチーさんの誕生日を祝ったというのが、いかにもピースボートらしい。明日シンガポールを発ち、インドに向かうという。

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2005年06月19日(日)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学2日目
2004年06月19日(土)  既刊本 出会ったときが 新刊本
2003年06月19日(木)  真夜中のアイスクリーム


2007年06月18日(月)  マタニティオレンジ132 たま300日

小児科の待合室で「たまちゃん、今日で300日よ」メールが届く。誕生日が一日違いのミューちゃんのお母さん、トモミさんから。「ミューが明日だから、一日引いて今日」だと知らせてくれた。娘のたまは、風邪を引いた上に転んで軽い打ち身になって満身創痍。体調も機嫌もすこぶる悪く、ご機嫌取りに必死のわたしまで泣きたくなっていたが、そっか、もう300日か、と少し気分が明るくなった。

たまの風邪は週末からで、土曜日にはダンナが小児科に連れて行った。そのときの笑い話。帰ってきたダンナが「90か月検診はどうされますかって聞かれたけど、90か月っていったら7歳だよな」。ずいぶん先の話をするんだねと感心していたが、90か月ではなく、「9・10か月」である。


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2005年06月18日(土)  『子ぎつねヘレン』あっという間の見学1日目
2000年06月18日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月16日(土)  お宅の近くまでうかがいますの法則

4日前(12日)のできごと。仕事をしているプロデューサーから「今日お時間ありますか」と突然電話があり、「お宅の近くまでうかがいます」と言われる。少し前にも同じようなことがあり、また来たか、と心の準備をして駅前の喫茶店で落ち合うと、予想した通り、「実は……」と切り出された。

進めている企画が立ち消えるとき、あるいは企画は残っても脚本家が立ち去らなくてはならないとき、電話でも言いにくいことを、会いに来て告げる。待ち合わせの電話の時点で予感はしてしまうけれど、それでも、足を運び、顔を見せてくれる誠意に、不幸中の幸いのように救われた気持ちになり、沸点すれすれだった不満や怒りや悔しさも温度を下げる。プロデューサーだって悔しい、口惜しいと顔を見ればわかる。電話だったら好き勝手文句を言えても、その顔を見たら何も言えない。「お疲れさまでした」「ありがとうございました」と労いの言葉が自然に出て、「今回は残念でしたけれど、また機会があれば」と素直に言える。

以前、取材を受けたものがなかなか上がってこないので、どうしたのかなと気になった頃に、「あれはボツになりました」という旨のメールが送られてきたことがあった。最初に取材を依頼してきた人ではなく、取材に立ち会った人でもなく、前任者から引き継いだらしい会ったことのない人からの事務連絡のようなメールが一通。わたしは、そのメールに返信をしなかった。返信をしないことでささやかな抵抗を試みたつもりだったけれど、相手にとってはメールを送信完了した時点で用は済んでいたのだろう。

翻って、自分が誰かに何かを断るとき、逃げ腰になってはいないかとわが身を振り返る。言いにくいことを告げるときほど逃げてはいけない。また仕事なくなっちゃうのかと残念に思いつつも、プロデューサーの姿勢に大切なことを教えられた気持ちになった。

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2005年06月16日(木)  Hidden Detailのチョコ名刺
2002年06月16日(日)  一人暮らしをしていた町・鷺沼
2000年06月16日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月15日(金)  マタニティオレンジ131 映画『それでも生きる子どもたちへ』を観て

ご近所仲間のT氏に熱烈に勧められた映画『それでも生きる子どもたちへ』を観る。かつて子どもだった7つの国の監督が綴るオムニバス作品。貧困、エイズ、人身売買、地雷……生きることさえ困難な絶望的な状況に置かれた子どもたちが、それでも生きる、目を力いっぱい輝かせて。その姿は、人間の底知らずのたくましさを感じさせる。脚本があり役者が演じているとは思えない、ドキュメンタリーを観ているようなリアリティーに引き込まれ、地球のどこかで今もこの子たちはこの続きを生きているという気にさせられた。

当たり前のように蛇口をひねれば(最近では手を差し出すだけで)水が出て、スイッチを押せば電気がつき、あたたかい食事と寝床が確保されている生活に慣れきったわたしは、こういう映画に出会うと、殴られたような衝撃を受ける。その衝撃も、ぬるま湯生活にひたるうちにほどなく薄れてしまうのだが、映画でも見せつけられないと、「当たり前が当たり前じゃない世界」があることに思いを馳せることすら忘れてしまう。

子どもが生まれてからは、子どもが出てくる映画を見ると、わが子と重ねてしまうのだが、この作品では「重ねる」ことは難しかった。日本という恵まれた国に生まれたわが子と、その日を生きるので精一杯の国に生まれた子どもとでは、望むものも大きく違うだろう。もしかしたら、わが娘がすでに手にしている普通は、ある国の子どもにとっては、すべてなのかもしれない。
作品につけられた「地球の希望は、子供たちだ」というキャッチコピーに共感しつつ、子供たちが地球の希望であり続けるために何をすべきなのかを考えさせられた。「それでも生きる子どもたち」が年を重ね、社会が見えてくるようになり、どんなにがんばっても人生には限界があると知ったとき、希望は絶望に変わってしまう。

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2005年06月15日(水)  『秘すれば花』『ストーリーテラーズ』
2002年06月15日(土)  『アクアリウムの夜』収録
2000年06月15日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月14日(木)  『坊ちゃん』衝撃の結末

まだ読んでなかったの、と呆れられそうだけど、ついにと言おうか今さらと言おうか夏目漱石の『坊っちゃん』を読んだ。国語便覧などで登場人物やあらすじは頭に叩き込まれて、すっかり読んだ気になっていたものの、本文を通して読んでみると、はじめて聞く話のような印象を持った。わたしの思い描いていた坊っちゃんはやんちゃな新米教師で、やる気が空回りしているところはあるもの、夢と希望にあふれた熱い青年だった。ところが、ページの中にいた坊っちゃんは、いつも何かに対して怒り、苛立ち、毒づき、ぼやき続けている不満の塊のような人物で、職員室の敵ばかりか生徒や下宿の大家や田舎町や何もかもが気に入らない。江戸っ子気質と正義感を燃料に暴走する型破りな教師なのだけれど、校長に噛みつき生徒に喧嘩を挑む破天荒ぶりが面白いからこそ今日まで読み継がれているのだろう。一ページに何箇所も注釈の番号がついているほど聞き慣れない言い回しや今はもう見かけない物が登場するのだけれど、古びた感じがしない。『ホトトギス』に発表されたのが1906年だそうで、書かれて百年あまりになるが、感情を爆発させる坊っちゃんには、古文になってたまるかという勢いがある。

『坊っちゃん』どころか『吾輩は猫である』も未読で、教科書や便覧に載っている作品しか読んでいないくせして、夏目漱石には注目してきた。というのは、幼い頃、母に「あんたは夏目漱石とおんなじ二月九日生まれやから、文才があるはずや」と言われたからだ。誕生日占いを人一倍信じていたこともあり、同じ誕生日ならわたしも文豪になれるかもしれない、と素直に思い込み、日記や感想文や作文を張りきって書いた。それが今の職業につながっていることは間違いない。今回読んだ角川書店の改訂版の文庫本には「注釈」「解説(作者について、と作品について)」のほかに「あらすじ」(本文の前にあらすじがついているのは珍しい。読書感想文を書こうとする学生向けのサービスだろうか)さらには「年譜」がついている。

年譜の冒頭を読んで、「あ」と思わず声を上げた。「慶応三年(1867年)一月五日」生まれとある。月も日もまったく違うではないか。母の暗示に乗せられて、四半世紀あまり。書くこと好きが高じて新井一先生が雑誌で連載していたシナリオ講座に原稿を送ったら「才能がある」と返事が来て、調子に乗って脚本家デビューに至ったが、ほめられたと思ったのは勘違いだった。それ以前に壮大な思い違いがあったとは……。いやはや思い込みって恐ろしい。傑作の名高い本文よりもおまけに衝撃を受けていると、「一月五日は陰暦で、今の暦でいえば、二月九日で合っているのでは」と教えてくれる人があった。調べてみると、そのように書いているサイトもあり、「夏目漱石と同じ誕生日」はデマではなかったようで安心する。

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2002年06月14日(金)  タクシー


2007年06月13日(水)  「事実は小説より奇なり」な映画『主人公は僕だった』

仏頂面の主人公(ウィル・フェレル)が突っ立っている新聞広告にはあまり心惹かれなかったのだけど、何人か「面白かった」と言う人がいて、『主人公は僕だった』を観た。原題は『Stranger than Fiction』、直訳すると「事実は小説より奇なり」。平凡で面白みのない毎日の繰り返しを生きている男・ハロルドの耳に、自分の行動を描写する女の声が聞こえるようになる。小説を読み上げるようなその声の主はスランプの小説家であり、彼女が七転八倒しながら書いている新作の主人公がハロルドであると明かされていくのだけれど、『主人公は僕だった』という邦題が先に結果を明かしているので、驚きは半減する。

実在する人物と小説の登場人物がシンクロするという設定は奇想天外なようでいて、あっても不思議ではない気もする。「小説家は創造者ではなく、すでにある物語の発見者」といったことを小川洋子さんがインタビューで語っていたけれど、小説家が創造する以上の物語が現実には存在する。ハロルドの人生を小説がなぞっているようにも、小説に書かれた通りにハロルドの人生が進行しているようにも中盤までは見えていたけれど、ハロルドの人生に小説が先回りし、主人公の死という未来を告げられたところから、ハロルドの人生は一変する。小説の筋書きを軌道修正して自分の人生の筋書きを変えようと悪戦苦闘するのだが、時間をつぶすように生きていた主人公が、命のカウントダウンが見えた途端に残された時間を惜しむように生きるようになるさまは、先日観た『生きる』に通じるものがある。そういえば、ハロルドが恋をするパン屋のアン(マギー・ギレンホール)と『生きる』で小田切ミキさんが演じたヒロインは、美人というより茶目っ気のあるぽっちゃり顔(ふくれっ面がチャーミング)といい、言いたいことをはっきり言う威勢のよさといい、よく似ている。ハロルドを敵視していたパン屋娘が手作りのクッキーに気持ちを託して距離を近づけていく展開がとても微笑ましくて、わたし好み。ラブストーリーとしても楽しめる映画だった。

「事実は小説より奇なり」といえば、最近読んだ『数学的にありえない』()は、「確率的にありえないことが、偶然の連鎖によって現実となる」ことをエンターテイメントに仕立てていたが、下巻の最後にあった著者あとがきにも、ドラマがあった。著者はこの本がデビュー作だったのだが、「小説の執筆はこれまでにぼくがやったどんなことよりも共同作業が必要だった。さまざまな段階で、つねに誰かが手を貸してくれた。以下に挙げたどの一人が欠けていても、本書が出版にこぎつけることはなかっただろう」という書き出しに続けて、彼の最初の原稿を面白がってくれた人、出版エージェントにつなげてくれた人、出版を決めてくれた人、改訂を手伝ってくれた人、心の支えになってくれた人、おいしいものを食べさせてくれた人などへの感謝の言葉が続く。一冊の本が生まれる過程もまた偶然の積み重ねの結果なのだ、としみじみ思い、この本が生まれたドラマの末端に読者のわたしもいるのだ、とうれしくなり、その事実の不思議が小説本編より面白かった。

そもそも今自分がここに生きているという事実が奇なりで、少し前に読んだ『きいろいゾウ』(西加奈子)に「男の人と女の人が愛し合って、生まれた男の人と女の人がまた愛し合って、そういうことが延々と繰り返された逆三角形の頂点に自分がいる」「その三角形の中の一人でも欠けていたら、自分は存在しなかった」といったことが書かれてあり、ほんとにそうだ、と膝を打った。映画の邦題に話はもどるけれど、『主人公は僕だった』って、人生の主人公は自分だったと気づく、という意味もこめられているのだろうか。だとしたら深い。

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2005年06月13日(月)  『猟奇的な彼女』と『ペイ・フォワード』
2004年06月13日(日)  映画『ヒバクシャ 世界の終わりに』


2007年06月12日(火)  想像力という酵母が働くとき

昨日の日記の続きになるが、茨城のり子さんの詩を読んで、「文字数があればいいってもんじゃない」とつくづく感じた。映画一本、本一冊を費やさなくても、研ぎ澄まされた言葉が数行あれば、心を揺さぶることができる。単語ひとつ、数文字だって、名文句になり得る。それで思い出したのは、南極観測隊員にあてた妻からの電報。当人だけでなくまわりの隊員たちも深く感じ入ったというメッセージは、たった三文字。「あなた」とあった。電報が一文字何千円もした頃、後に続けたいたくさんの言葉を飲み込んで、南極に届いた最初の三文字。そのエピソードを新聞のコラムで読んだとき、電報をのぞきこむそれぞれの隊員にも「あなた」と呼びかけが聞こえ、その響きに応えるように、それぞれの胸で続きが綴られたのだろうと想像して、わたしの目にも涙がにじんだ。

最近パンを焼くので思うことだけれど、言葉を小麦粉にたとえると、力のある言葉は想像力という酵母を元気にし、その何倍もの大きさに膨らむ。それは、人を傷つける言葉のときにもあてはまる。そう思うのは、数日前に言われた言葉の傷跡が癒えないからだ。殴られたような衝撃と痛みに、そのときはわあわあ泣いた。それで洗い流せたかと思ったら、一日経っても二日経っても、不意にその言葉を思い出しては、どうしてあんなことを言えるのだろう、あの発言は本心なんだろうか、などと考えてはメソメソし、ポタポタと涙を落とし、メソポタを繰り返している。チグリス川とユーフラテス川の間に発達したメソポタミア文明のメソポタミアとは「川のあいだ」という意味だと習ったが、わたしの両目も二つの川になってしまっている。書くことを生業にしているわたしは、酵母が多めでいつでも発酵状態のようなところがあるから、「あなた」の電報から一本の脚本を思い描いてしまうけれど、たった七文字の棘からも悲劇を描き出してしまう。寝不足と腰背筋痛が慢性化していて、それでも子育てのはりあいが体と気持ちを支えている今のわたしにとっては、致命的な一撃だった。痛烈な刺激が酵母を過剰反応させ、過発酵を引き起こしている。

そんな矢先、生協のレジに並んでいたら、前に並んでいる若いお母さんがわたしのほうを振り返る感じで、ガンを飛ばしてきた。と思ったら、わたしの後方にいるランドセルを背負った女の子に指示を出していた。娘と思われる女の子に「そこにあるでしょ!」と商品を持って来させようとしているのだが、彼女はキョロキョロするばかり。遠隔操作がうまくいかないうちにレジの順番が回ってきて、苛立ちが頂点に達したお母さんは、「もういい!」と言うなり、わたしの背中を突っ切って、わたしのすぐ後ろの棚にある紙パック入りのりんごジュースを手に取った。一本抜き取った勢いで、六本入りのダンボールごと持ち上がるほど、全身に怒りがみなぎっていた。その後、レジを済ませたお母さんが怒った顔で買い物カゴの中身をビニール袋に空ける間、女の子は「ごめんなさい」と謝り続けた。「もういい!」とお母さんはまた言い、早足で店を出た。その後を「ごめんなさい」とすがるように言いながら、女の子が追いかけた。

その光景を見て以来、自分のメソポタを一休みして、その女の子のことを考えている。彼女は家に着くまで「ごめんなさい」を繰り返したのだろうか。家に着く頃にはお母さんの機嫌は直っただろうか。レジの順番が迫って焦ってなければ、あんな言葉にも、あんな言い方にもならなかったのだろうか。「もういい!」はりんごジュースのことだけを指していたのだろうか。女の子には「あんたなんか、もういい!」と聞こえなかっただろうか。彼女の目に悲しみと諦めが宿っているように見えたのは、センチメンタルになっているわたしの錯覚だろうか。身近で信頼している人からの不意打ちの鋭い一言は、深い傷を負わせる。殴られるのと同じで、至近距離からの一撃は、こたえる。自分が娘の親になったばかりということもあり、生協での母娘の姿に自分の未来を重ねたり、母の何気ない言葉に傷ついてさめざめと泣いた過去を思い出したりした。やわらかい言葉であれ、棘のある言葉であれ、それを受け止める側の想像力と掛け合わされて、言葉はさらなる力を持ってしまう。ビルの上から落としたパチンコ玉が、加速するうちに人を貫くほどの力を帯びてしまうように。そのことに思いを馳せて言葉を解き放たなくては、とわが身を振り返っている。

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2005年06月12日(日)  惜しい映画『フォーガットン』


2007年06月11日(月)  茨木のり子さんの言葉の力

茨木のり子という詩人の名前を意識するようになったのは、昨年二月に彼女が亡くなったときの追悼記事ではなかったかと記憶している。できあいの思想にも宗教にも学問にもいかなる権威にも倚りかかりたくない、と言い切った上で「倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ」と締めくくる『倚りかからず』や「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」と突き放す『自分の感受性くらい』、「わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた」と戦争時代にあった青春を語り、「だから決めた できれば長生きすることに」と告げる『わたしが一番きれいだったとき』など、紹介されている詩がどれも強烈な引力を放っていた。詩集を読んでみたい、と思ったまま手に取る機会を逃していたら、先日、図書館で「茨木のり子」の背表紙が目に飛び込んできた。あなた、忘れてるでしょ、と言わんばかりに。

出会ったのは、『茨木のり子集 言の葉3』という本。ひとつひとつの詩が、わたしが思っているけれど言葉に出来なかったことをぴしゃりと言い当てていて、うなずき、膝を打ち、舌を巻きながら読む。たとえば、「ええと」という題の作品は、「『あの人は世に出た』私はこの言いかたが気に入らない」とはじまり、「フギャア! と一声泣いたとき 人はみな この世に出たと思うのだ」と続く。「ええと」は「あのう」に近い物申すニュアンスなのだろう。とても強気な口調なのに、品を感じる。背筋を伸ばして書いたような凛とした緊張感がある。

「ある工場」という作品は、「地の下にはとても大きな匂いの工場が 在ると 思うな」という書き出しに引き込まれる。「世界中の花々に 漏れなく 遅配なく 馥郁の香気を送る」その工場では「年老いた技師や背高のっぽの研究生ら」が働いている。「小瓶に詰めず定価も貼らず惜しげなく ただ 春の大気に放散する 彼らの仕事の すがすがしさ」と作者はたたえる。春には春の花の香りがすることから地下の工場を思い浮かべる、そのたくましい想像力。年譜によると茨木さんは薬学の勉強をされていたそうで、そんな背景から工場や白衣の研究者のイメージが自然に湧いたのかもしれない。

「夏の空に」という作品は、星座の物語と重ねて夏の夜空に輝く星々を描写する前半も素晴しいが、「屑の星 粒の星 名のない星々 うつくしい者たちよ わたくしが地上の宝石を欲しがらないのは すでに あなた達を視てしまったからなのだ」という最後の五行に打ちのめされた。「こどもたちは こんがり焼けた プチ・パンになって 熱い竈をとびだしてゆく」に続けて「思えば幼い頃の宿題はやさしかった 人生の宿題の 重たさにくらべたら」と締めくくる「九月のうた」にも、なんてうまく言葉にするんだろうと感心させられた。

この詩集でいちばん心を揺さぶられたのは、「足跡」という作品。「青森県六ヶ所村出土 縄文時代後期」の「博物館のガラス越しに見る 粘土に押しつけられた小さな足形」を見て、「子どもはギャアと泣いたかしら にこにこ笑っていたかしら」と当時に思いを馳せ、「むかしむかしの親たちも 愛らしい子の足形をとっておきたかったのだ」と思いを寄せる。自分が親になった今だから、いっそう感じ入ってしまうのかもしれないが、そのとき博物館にいた茨木さんも「なぜかじわりと濡れてくる まぶたの裏」となった。ちょうど気持ちが落ち込んでいたときの訪問だったが、「小さな足はポンと蹴ってくれた わたしのなかの硬くしこったものを」。写真で見たこともない茨木さんの沈んだ表情と晴れた表情のビフォアアフターまで目に浮かびそうな描写に唸った。そして、詩は「それにしても おまえは何処へ行ってしまったのだろう 三千年前の足跡を ついきのうのことのように 残して」と結ばれる。足跡ひとつからこれだけの物語を膨らませてしまう表現力に、嫉妬と羨望を覚える。

心に刺さった言葉を書き出していくと、丸写しになってしまいそうだけど、自作の詩のほかに、韓国の詩人の作品を翻訳したものとエッセイが納められていて、エッセイもまた写経したくなるほど名言の宝庫。一語一語が的確に選ばれ、配置されているような美しく整った文章の中に、思いがしっかりと込められている。読めば読むほど、この人と会ってお話ししたい、という気持ちになる。声が聴きたくなる。それが叶わないのが惜しまれる。

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2005年06月11日(土)  東京大学奇術愛好会のマジックショー
2002年06月11日(火)  『風の絨毯』同窓会
2000年06月11日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月10日(日)  マタニティオレンジ130 親が子にできるのはほんの少しばかりのこと

保育園ではじまった「親向け文庫」で『親が子にできるのは「ほんの少しばかり」のこと』を手に取る。著者は脚本家の山田太一氏。子育ての本を書かれているとは知らなかったが、三児の父であるらしい。

目次を見渡して、まず唸った。わたしが感じていたものの言葉になっていなかったことをずばり言い当てたような明快な見出しが並ぶ。「子どもは自分の成熟する場所」「人間は汚れを抱えている」「理想型にとらわれる無意味」「心の傷も栄養になる」などなど。とくに、「子どもは自分の成熟する場所」というのはうまい表現だなあと膝を打つ。子育てと言いつつ、わたしは子どもに教えられることばかり。「育児についての情報は溢れています。しかし、わが子についての情報はない」と本文にあるように、育児書を読んでもネットで引いてもわからない育児というものを実践で学ばせてもらっている。「あなたもこんな風に育ったのよ」という自分の記憶が及ばない昔のことを身を持って思い知らされ、わが身の来し方行く末を考えさせられ、感謝の気持ちも呼び起こされ、子どもが生まれてからというもの(あるいはおなかに宿った日から)、人生でまだ知らないことがこんなにあったのかと驚かされてばかりいる。

とはいえ、今は子どもを食べさせて大きくすることに専念し、風邪や事故に気をつけていればいいのだが、そのうち子どもの性格や生き方に悩まされる日が来るらしい。そのときこそ、本当に「成熟」の機会となるようだ。子どもは親の思い通りにはならない。そこに葛藤が生まれるわけだけれど、子どもには子どもの人生があり、それを生きて行くしかない。そして、親は自分にできる「ほんの少しばかり」のことをやるしかない。この「ほんの少しばかり」は、あきらめでも悲観でもなく、気持ちを軽くする言葉として響く。全部を背負わなくていいんですよ、やろうったって無理ですよ、と最初からわかっていれば気が楽になるし、ほんの少しなら自分にもできそうな気がする。

わが子をあるがままに受け止めようというメッセージを全編から受け取ったが、わが子だけでなく、自分の人生や人間というものを見つめる目にも懐の広さを感じた。「清潔で明るいところばかりになると、心の中に抑圧をためてしまう人が出て来る」といった指摘にはっとする。わが子にはきれいなものだけを見せたいと親は考えてしまうけれど、それは世界の半分にふたをすることになるのかもしれないなどと考えさせられた。

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2005年06月10日(金)  『メゾン・ド・ウメモト上海』の蟹味噌チャーハン
2004年06月10日(木)  「きれいなコーヒー」と「クロネコメール便」
2002年06月10日(月)  軌道修正
2000年06月10日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月09日(土)  マタニティオレンジ129 梅酒を作りながら夫婦とはを考えた

誰が言い出したのか定かではないが、娘が生まれた最初の年に梅酒を漬けるものらしい。イベント好きのわが家でも、やってみることにした。娘がお酒を飲める年になったら、琥珀色に熟成された梅酒を一緒に飲むなんて、オツではないか。そんな記念のお酒を漬け込むからには材料にもこだわりたいところだが、こだわり農家の今年の梅の予約は終了。サイトのセンスから想像するにひと粒ひと粒丁寧に育ててそうな梅の月向農園のレシピだけ参考にさせていただき、材料は生協にある普通の梅と普通のホワイトリカーと普通の氷砂糖を調達することにした。

夕食の後に仕込む予定でいたら、その前に、ちょっとした夫婦喧嘩になった。きっかけは些細なこと。食べ終わるとさっさとテーブルから離れてテレビへ向かうダンナの背中に、「お皿ぐらい下げてよ」とな声をかけたついでに、「わたしがお皿洗う係じゃないんだから」となじった。一緒に暮らしはじめたとき、洗いものはダンナが担当するという、なんとなくの家事分担を決めた。といっても洗濯はわたしで、食器と風呂を洗うだけ。最初のうちはやってくれていたのか、記憶が定かではないけれど、わたしが会社を辞めて家で仕事をするようになって完全に崩れた。いつの間にか洗いものもわたしの担当となり、たまにダンナがやってくれたときはわたしがありがとうと言う。逆じゃないのと思いつつも、ま、いっかと流されて今日まで来たのだけれど、わたしが締め切り前で洗いものどころじゃないときに「洗ったら?」
なんて言われると、「そういうあんたが洗ってよ」と言いたくなる。

洗いものだけじゃない。家事全般にわたって、わたしがやるものだと思われている。やって当たり前、手を抜くと文句を言われる。「シャンプーがないよ」「ティッシュがないよ」と言われるたびに、自分で買ってくればいいのにと思う。日用品の買い足しなんて、気がついたほうがやればいい。会社を辞めて浮いた時間と労力はあるわけだから、それを家事にあてるのはまあいい。子どもが生まれるまではそうだった。だが、仕事に育児が加わった今、家事分担率を見直してくれてもいいんじゃないの、というのがわたしの言い分。「だって、君は一日中家にいるじゃないか」と言われた日には、「だったら事務所借りればいいのか!」と開き直りたくもなる。

そんな恨みつらみが売り言葉に買い言葉で飛び出して、言うつもりのないことまで言ってしまい、言葉もきつくなり、娘のための梅酒作りとはほど遠い雰囲気となってしまった。だが、梅は新鮮なうちに漬けたほうがいいし、すでに水に放ってアク抜きをしている。「今夜中に漬けるべきなので、決行します」と事務口調で宣言し、作業にとりかかる。「記録を取っておこう」とダンナも事務口調でビデオを構え、ふくれっ面のわたしをとらえた。

「まず、水気を拭き取ります」。わたしの指示にダンナは無言で従い、梅をボウルからひと粒ずつ引き上げ、黙々とキッチンペーパーで磨くように拭く。単純なその作業を並んでやっているうちに、肩の力が抜け(おそらくこわばっていた顔の力も抜け)、笑いたいようなおかしな気分になった。なんだ、わたしがしたかったこと、ダンナに望んでいたことは、これじゃないか、と気づいたのだ。

これはあなたの仕事、これはわたしの仕事じゃない。そんな風に割り切ったり押しつけ合ったりするのがさびしかったのだ。夫婦なんだから、家族なんだから、一緒にやればいいじゃない。皿洗いは、わたしも好きじゃないけど、ダンナも好きじゃない。だったら、二人でやっつければいい。洗うのはわたしでも、シンクまで運んでくれたら助かる。お皿をリレーするときに、よろしくね、まかせてよ、と声をかけあえたら、気持ちも軽くなる。面倒だと思って相手に押しつけた瞬間、重荷はもっと重くなるのだ。梅酒を作るのだって、一人で取りかかると大変だけど、二人がかりならお祭りになるのだ。一緒にやれば、楽しい。そんな単純なことをうまく伝えられなくて、わたしはダンナに苛立っていたのだった。

梅酒が完成する頃にはわたしの機嫌も直り、何も言わなくてもダンナはそれを察し、なんとなくいつもの二人に戻っていた。娘と飲める日が来たら、梅酒を漬ける前は喧嘩していたんだけど……と昔話をしてみよう。喧嘩の中身が溶けた梅酒、どんな味がするのかな。


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2005年06月09日(木)  ついに『あつた蓬莱軒』のひつまぶし!
2002年06月09日(日)  日本VSロシア戦
2000年06月09日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月08日(金)  マタニティオレンジ128 モラルない親

朝日新聞に載っていた「モラルない親」についての記事を読んでいて、「え!」となった。「仕事が休みなのに子どもを預ける親」がモラルに欠けるとして紹介されていたのだ。娘のたまを預けている公立保育園の園長先生は「仕事が休みでも預けてくださっていいですよ」と言ってくださっている。家のことをしたり、自分のことをしたりする時間も必要でしょうからと。そのかわり、いつもより少し早めにお迎えに来れるといいですねと。その言葉に甘えて、仕事がなくても用がある日には保育園のお世話になっている。それが、モラルない親になるのか……。記事の前で、はあとため息をついてしまった。

わたしのようなフリーランスの場合、仕事が「ある」と「ない」の境目はあいまいで、打ち合わせも締め切りもなくても、観ておいたほうがいい映画や読んでおいたほうがいい本が常にあり、そういう芸の肥やしを仕込むのも仕事の一部だったりするのだが、平日の昼間に映画や芝居を観ると、「子どもを保育園に預けて遊んでいる」ことになるのだろうか。これまで、後ろめたさを感じていなかったことが、記事を読んで、そういう見方もあるのかと知ると、居心地の悪さを感じてしまった。記事で槍玉に挙がった親は「今日、お仕事お休みですよね」と保育士に言われて、「お金払ってるんだから、いいでしょ」と開き直ったという。その言い方や態度に「モラルがない」と評価を下すのは理解できるけれど、「仕事がないのに子どもを預ける」行為そのものが「モラルかない」とひとくくりにされるのは複雑だ。

その記事が出た数日後、反響をまとめた追っかけ記事が載った。わたしのように戸惑いや反感を抱いた人からの反論がいくつか紹介され、しめくくりに有識者のコメントがあった。内容はうろ覚えだが、「保育園は保育に欠ける状態を手助けするものであるので、保育に欠けないときに利用するのはルール違反である」「子どもは少しでも親と過ごしたいものなので、自分のことは後回しにしても一緒の時間をつくってあげるべき」といったことが書かれているのを読んで、わたしは再度首をかしげることになった。記事では「母親」と明記していなかったように思うが、そこで言われている親は「母親」を指していると思われ、「お母さんは子どもと一緒に過ごすもの」という前提に立っている印象を受けたのだ。

母親にしかできないこともあるとは思うけれど、育児の責任を母親に押しつけられると、働く母親は責任放棄している格好になり、いたたまれない。子どもを預かってもらえるかどうかという物理的な問題よりも、子どもを預けることへの偏見や無理解が、働きながらの子育てを難しくしている気がする。一日中子どもと過ごしている専業主婦のお母さんたちもまた、長い時間をどう過ごすかという問題や(「間延びする」「ネタ切れ」「体力が持たない」という声はよく聞く)、自分のことが何もできないという悩みを抱えている。もっと子どもと過ごす時間をというのなら、お父さんたちの残業や休日出社を減らすことに国を挙げて取り組むべきなのではないのだろうか。お父さんは働くもの、お母さんは育てるもの、という単純な図式に窮屈な思いをしているのは、わたしだけではないと思う。

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2005年06月08日(水)  歩いた、遊んだ、愛知万博の12時間
2002年06月08日(土)  P地下
2000年06月08日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月07日(木)  誰かにしゃべりたくなる映画『しゃべれどもしゃべれども』

シネスイッチ銀座にて『しゃべれどもしゃべれども』を観る。落語に通じる語り口のうまさと絶妙な間と粋を感じさせる作品。二つ目の落語家・三つ葉(国分太一)の元に、無愛想で口下手の美人・五月(香里奈)、関西から転校してきたばかりの少年・村林(森永悠希)、解説の下手な元ブロ野球選手・湯河原(松重豊)という一筋縄ではいかない教え子が集まってくる。
ひとくせもふたくせもあるある登場人物たちの愛すべき人間臭さがおかしみを誘い、話し方教室でのやりとりそのものが落語のよう。

鑑賞に先立って、いまいまさこカフェの談話室(掲示板)で常連さんたちが「三つ葉は指導らしい指導をしていないのでは」と話題にしていたので、その部分を注意しながら観たのだが、「落語」という題材の向こうにある「人との関わり方」を三つ葉も一緒になって探っていく、そんな印象を受けた。シナリオを教えたときに、講師であるわたし自身も学ぶことが多かったので、教える立場の者が成長できるというのは、その教室が「学ぶ場」になっているひとつの証ではないかと思う。作品の中で三つ葉も教え子たちも成長するのだが、その伸び具合が劇的ではないところにリアリティと好感をおぼえた。

わたしはもともと「しゃべり好き」(「しゃべり過ぎ」?)だけど、拙くても、たどたどしくても、自分の言葉で思いを伝えること、言葉と言葉でぶつかりあうことの大切さをあらためて感じた。そして、江戸言葉あり関西弁あり古典ありという日本語の豊かさと奥深さにしみじみと感じ入り、その言葉を使える身であることをうれしく思った。その勢いで誰かにしゃべってすすめたくなる。寄席に行きたい、佐藤多佳子さんの原作を読みたい、さらには野球解説にもじっくり耳を傾けたくなった。DVD発売の折には劇中落語の完全版が収録されることを希望したい。湯河原の野球解説も、というのは欲張りすぎだろうか。

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2005年06月07日(火)  友を訪ねて名古屋へ
2004年06月07日(月)  絨毯ひろげて岐阜県人会
2002年06月07日(金)  ドキドキの顔合わせ


2007年06月06日(水)  わたし好みだらけの『そのときは彼によろしく』

『ジェニファ 涙石の恋』で隆志を演じた山田孝之さんが主人公で、その少年時代を『子ぎつねヘレン』の太一役だった深澤嵐くんが演じている『そのときは彼によろしく』を、これは観ないわけにはいかない、と観る。劇場は、「出張いまいまさこカフェ」を連載中のフリーペーパーbukuを置いている池袋のシアトルダイヤ。さらに本編にはアクアプランツ、秘密基地、プリズム、チョコレートデニッシュ、バースデーケーキ……とわたし好みのものが次々と登場。懐かしさと切なさをかきたてるモチーフをこれでもかと持ち出すのは、『いま、会いにいきます』と同じく原作の市川拓司さんのテイストなのかもしれない。

中でも、森の中に打ち捨てられたバスの秘密基地には、解体した家を基地にして遊んだことがあった子ども時代を思い出して、わくわくした。そこは大人の世界と切り離されたルールがあり、大人の時間とは違う時が流れた世界で、そういう場所を持っていることに得意になっていた。自分たちにしかわからない宝物があり、ずっと友だちでいられることを願って「永遠」なんて大人びた言葉を口にし、はるか未来に思えた十年二十年先の約束を交わしたりした。いちばんよく遊んだ同い年で隣の家の女の子・佳夏は、今はもういないから再会することは叶わないけれど、「物理学の教科書にも載っていない強い力」が存在し、会いたいと強く願った相手には会える、というメッセージはしっかりと心に届いた。

少年時代の深澤嵐くんと青年時代の山田孝之さんのつながりを見るのもうれしかった。水中の森が地上の森にシンクロする美しいオープニングも、真っ白な病室に祈りのように増えていくアクアプランツのガラスボトルも、奇跡を信じさせてくれるようなストーリー展開もわたし好みだったけれど、息もつかせず立て続けに好きなものを並べられると、張り切って食べ過ぎたビュッフェのようになってしまい、余韻を味わうよりもおなかいっぱいになってしまった。映画はさじ加減が難しい。

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2005年06月06日(月)  ニューオーガニックレストラン『orto』
2004年06月06日(日)  レーガン元大統領、逝去。
2002年06月06日(木)  同窓会の縁


2007年06月05日(火)  『風の絨毯』の中田金太さん逝く

朝早く、映画『風の絨緞』のプロデューサー・益田祐美子さんから電話があった。この人の電話の第一声はいつも「今井さん、元気?」で、それにわたしは「元気よ。益田さんは?」と応じる。すると、「元気、元気」と帰ってくるのが合言葉のようになっているのだけれど、今朝は「元気じゃない」と沈んだ声の変化球を返してきて、「金太さん、亡くなっちゃったの」と続けた。『風の絨毯』で三國連太郎さんが演じた、「平成の祭屋台」の制作に情熱を注ぐ高山の名士、中田金太さんが一日に逝去されたという。わたしは一瞬絶句して、「ああ、とうとう」と答えた。ついに、その日が来てしまったか、と。具合が良くないという話は聞いていた。わたしが執筆協力した金太さんの一代記『わしゃ、世界の金太! 平成の大成功者と五人の父』の出版記念パーティに、金太さんが入院先の病院から外出する形で現れたのは昨年9月。わたしは出席が叶わなかったのだけれど、自身が主役のパーティという気の張りがようやくのことで体を支えているようだった、と居合わせた人から聞いた。小柄だけれど顔色がよくバイタリティにあふれた金太さんがしぼんでしまった姿を想像して、わたしも胸をふさがれた。それから8か月余り。結局、公式の場に金太さんが姿を見せたのは、出版記念パーティが最後になったという。

岐阜新聞の記事「祭り屋台新造に情熱注ぐ 中田金太さん死去」に益田さんのコメントが紹介されているが、『風の絨毯』の実現にあたり、金太さんは節目節目で力を授けてくれた。そもそも同郷である金太さんの出会いから、絨緞屋だった益田さんがインスピレーションを得て「故郷の祭屋台にペルシャ絨緞をかけたら面白い」というところから物語が膨らんだ。劇中に登場する祭屋台の貸し出し、金太さんが運営するまつりの森でのロケ、さらには製作資金……。金太さんの粋な旦那魂が、『風の絨緞』を世に送り出す大きな追い風となったが、金太さんの存在は精神的にもスタッフや作品を支えてくれた。同時多発テロでロケが延期になり、製作が頓挫しかけたとき、「人間は誰でもつまづく時があるが、それは恥ずかしいことではない。つまづいた時、起き上がれないことが恥ずかしいこと」という言葉が益田さんを奮い立たせ、結果的には中東情勢が落ち着くまでの時間を無駄に捨てるのではなく、作品をより良くするための熟成期間にあてることができた。

わたしは2002年3月の『風の絨緞』高山ロケの際に金太さんに紹介されたけれど、たくさんの人が行き交う現場のあわただしさのなかで、あまりゆっくり話すことはできなかった。その後、金太さんと秀子夫人が上京される折に益田さんにくっついて食事をご一緒する機会に何度か恵まれ、高山の成功者となるまでの道のりの一部を聞かせていただいたりもした。丁稚奉公をたらい回しにされた苦労話をするときも、三本ボウリング工事したら三本とも温泉を掘り当てた幸運話をするときも、同じようににこにこと話され、聞いているほうも、山の話と同じくらい谷の話に引き込まれた。金太さんの生い立ちのおすそ分けをいただいた体験が、『わしゃ、世界の金太!』の執筆協力で活きた。

生きることは出会った人の心に種を蒔くことに似ている、とわたしは思う。金太さんの人生は、祭屋台をはじめ大きな花を生前から咲かせていたけれど、わたしには、「このお寿司、おいしいから食べなさい」と買ってきてくれた折詰や、「金太さんが今井さんによろしくって言ってたよ」という益田さんからの伝言といった、ささやかだけれどやさしい香りのする花を遺してくれた。益田さんとやりとりしながら金太本の原稿を準備していたとき、金太さんが「益田さんと今井さんを伊豆の温泉に招待したい」と申し出てくれたことがあった。まだわたしが会社勤めしていた頃で、残念ながら都合がつかず、「お気持ちだけいただきます。また、いつの日か」とお返事した。それから二年、いつの日かのお楽しみの温泉旅行は叶わない夢となった。金太さんが亡くなる前の数年間、短いながらも忘れがたいつながりを持てたことに感謝したい。

2006年9月29日 金太本、ついに出版。

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2005年06月05日(日)  2人×2組の恋の映画『クローサー』
2004年06月05日(土)  『ジェニファ 涙石の恋』初日
2002年06月05日(水)  シンクロ週間


2007年06月04日(月)  黒澤明映画『生きる』

家のテレビで『生きる』を観たのは、中学生のときだっただろうか、高校生のときだっただろうか。「生きることと死ぬこと」を自分の問題として意識し始めた頃だったと思うから、中学生だったかもしれない。癌に侵された主人公の抱える焦燥に胸がひりひりしたことと、彼が公園のブランコで「命みじかし」と歌う場面の記憶は残っているけれど、細かい流れはよく覚えていなくい。シナリオの打ち合わせでも「黒澤の『生きる』みたいに」とよく引き合いに出されるので、あらためて見ておかなくてはと思っている矢先に、テアトル新宿の「黒澤明特集」でかかることを知った。

満席の客席には年配の方が目立ち、1952年の公開時にスクリーンで観てもう一度、という方もおられるのかもしれないと想像した。余命あとわずかと宣告されたとき、残りの時間をどう生きるか。それだけでも身につまされるスリルとサスペンスがあるのだけれど、その時間に起こる主人公の心境や行動の変化は、病のことを知らされない周囲の者にとってはまたサスペンスの対象になる。物語の中で主人公はできるだけ最後まで生かしておくものだけれど、主人公が去った後、葬式の場面で生前の主人公を振り返るという構成の大胆さに、さすがと脱帽。プロデューサーたちが言う「『生きる』みたいに」とは、こういうことだったのか、と思い至る。思っていることをうまく言葉にできない口下手な主人公に苛立ったヒロインが思わず放つ「ぽつりぽつり雨だれみたいにしゃべらないで」など、台詞もとても生きていて、テレビで見慣れない顔なので役者名よりも役名が頭に入るせいかもしれないけれど、役者が演じているのではなく登場人物が映画の中の時間を生きているように見えた。終映後、息を詰めて見守っていた客席から、感嘆のため息とともに拍手が起こった。「あらためて、いい作品だ」と称えるような拍手の響きに加わりながら、いくつもの才能が出会ってこの作品が生まれ、今日に遺されたことに感謝したくなった。

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2002年06月04日(火)  回文ぐるぐる「サッカー勝つさ」
2000年06月04日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月03日(日)  マタニティオレンジ127 0歳児時代は子どもより自分優先!?

数日前、変な夢を見た。わたしはどうしてもSMAPのコンサートに行きたいのだけれど(なぜSMAPなのか。追っかけでときどき上京する京都のメグさんの影響かもしれない)、子守を頼んでいた大阪の母が「わたしは文楽に行く」と言い張り(これはありうる)、ならば子連れで会場に入ろうとすると渋られ、会場近くの託児所へ行くと、いかにも信用の置けなさそうなスキンヘッドにタトゥーのゲイが出てきて「まかせて」とウィンクするのだけれど、まかせられずに引き返し、コンサートをあきらめた。

そんな夢を見たのは、少し前に読んだ保育園の園便りの影響だと思う。「身近なお出かけスポット」について各クラスから一人ずつ寄稿することになり、0歳児クラスではわたしに声がかかった。わたしはお散歩コースにあるおいしいイタリアンとパティスリーと、子連れで映画を楽しめるママズクラブシアターについて書いたのだが、他のクラスの保護者の方のコメントを読んで、あることに気づいて愕然となった。1歳児クラスのお父さんは「子どもと一緒に遊べる公園」を、2歳児クラスのお母さんは「子どもとじっくり絵本を選べる神保町の本屋さん」を、3歳児クラスのお母さんは「子どもが大好きなコミュニティバスのお出かけコース」を紹介している。わたしのコメントとの明らかな違いは、「自分が楽しむことありき」か「子どもが楽しむことありき」かだ。わたしが紹介したスポットは「自分が楽しいところに子どもをつきあわせる」という発想になっている。この寄稿文に限らず、「子どもと一緒に楽しめる」というとき、自分に子どもをつきあわせているのではないか、と思い至って愕然とした。

そのことが引っかかって夢にも出てきたのだろう。夢の中でもやっぱりわたしは自分の都合に子どもを合わせようとしているのだった。なんとなく後ろめたさを抱えていたので、金曜日に保育園のお迎えの帰りがけに園長先生から「園便りへの寄稿、ありがとうございました」と声をかけられたときに、「わたしだけ、親が楽しむことばかり書いてしまって」と恐縮すると、「いいんですよ。0歳のうちは」と言ってくださる。「まず、親が楽しくあること、それもとても大切なことです」。力強い言葉に、罪悪感がずいぶんぬぐわれ、気持ちが軽くなった。

親が好きな場所に、子どもを連れて行く。親が楽しいと思うことに、子どもを巻き込む。一緒に楽しむという意識はまだないかもしれないけれど、親の楽しい気分が、子どもにも伝われば、一緒に笑うことぐらいはできる。お出かけ日和の日曜日、ベビーカーで日比谷公園へ出かけ、日差しが入り込むテーブルでランチを取った。四人がけのテーブルを夫婦とベビーカーでぜいたくに使わせてもらう。陽気に誘われて、たまはベビーカーの中ですやすや。その間に野菜たっぷりのサラダバーを味わう。デザートが運ばれてくるタイミングで目を覚ましたので、だっこしながらお茶を飲んだ。一緒に食べられる日はまだ先だけれど、今は今の楽しみ方があっていいのかなと思う。

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2005年06月03日(金)  劇団浪漫狂『ピカレスクpp行進曲』
2003年06月03日(火)  海南鶏飯食堂(はいなんじーふぁんしょくどう)
2002年06月03日(月)  きる ふぇ ぼん
2000年06月03日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月03日(日)  4年2組日記 先生の家


2007年06月02日(土)  『ベンディングマシンレッド』発進

炭酸が苦手でコカ・コーラが飲めないくせに、飲むコカ・コーラ以外は大好き。10代でアメリカに留学したときに、Coke=アメリカが刷り込まれてしまったのかもしれない。昔のクラシカルな広告を刷ったポストカードを集めたり、コカ・コーラのロゴ入りグッズを部屋に並べたり、わたしにとってコカ・コーラは眺めてうれしいもの。

最近教えてもらったショートムービー『ベンディングマシンレッド』は、コカ・コーラウォッチャーには見逃せない作品。「第1話 ベンディング マシン レッド発進!」に続いて「第2話 最重要物資を奪え!」をYouTubeで配信中。この先もふえていくと思われる。「ベンディングマシンレッドは突然変異によって現れた自動販売機型ロボットなのだ。行け !ベンディングマシーンレッド!進め!ベンデングマシンレッド!」という勇ましい謳い文句には「コカ・コーラ」の文字はないけれど、あの赤い自動販売機から手足が伸び、赤い顔が乗っかっている。戦隊ヒーローっぽい名前のくせに、強そうには見えない。大きな図体を持て余しているように見える。でかくてごつい上に顔もかわいくないのだけど、その武骨さ、不器用さがいじらしくなってくる。無骨自動販売機でありながら街角の自動販売機のおつり返却口に大きな指を突っ込もうとして往生している姿には、なんともいえない哀愁とおかしみがある。わたしが見ている横からパソコンをのぞきこんだダンナが「これ、バカバカしくて面白い」と受けていた。エッジが立っているようで、意外と間口は広いかもしれない。

ベンディングマシンレッドはmixiにも登場(レッド)。ムービーが気に入った方は、マイミク申請してみては。わたしも、はじめてロボットとマイミクに。日記で近況を綴っているのだけれど、こちらもなんともゆるい。レッド君、ムービーの中だけでなく、街にも出没している様子。目立つだろうなあ。コミュニティ(レッド(自販機ロボ)応援隊)もできていて、じわじわと注目度は上がっている様子。大化けしたら面白いな。

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2002年06月02日(日)  お宅訪問
2000年06月02日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月02日(土)  4年2組日記 バレーボール


2007年06月01日(金)  「いしぶみ」という恋文

向田邦子さんの短編とエッセイを集めた『男どき女どき』を読んでいて「いしぶみ」という言葉を知った。「昔、人がまだ文字を知らなかったころ、遠くにいる恋人へ気持ちを伝えるのに石を使った、と聞いたことがある」とある。

石に思いを託すためには、思いにぴったり合う石を探さなくてはならない。中途半端な石で妥協すると、受け取った相手に読み間違えされて、思わぬ誤解を呼ぶかもしれない。相手の顔や好みを思い浮かべながら便箋を選ぶよりも、もっと真剣で慎重な作業が必要になる。その分、今のこの気持ちを表わすためだけにあるような石に遭遇したときの喜びは大きいだろう。地べたに転がっている石ころを手紙という目で見たら、ひとつひとつが違って見えたり、物言わぬ塊が語りかけてくるように感じられたりするかもしれない。今度やってみよう。

「いしぶみ」に想を得て、こんな話を考えてみた。

いしころかぐや姫

その昔、文字をしたためた手紙ではなく、旅先で拾った石を届けて遠くにいる恋人に気持ちを伝える「石文(いしぶみ)」というものがあった。時は流れ、メールで手軽に気持ちを伝え合える21世紀、由緒正しい家柄の跡取り娘、しかも超美人という現代版かぐや姫が結婚相手を決めるにあたって出したお題が「石文」。最も彼女の心をゆさぶった石文の送り主が選ばれるとあって日本中からこれはどうだ、という石が続々と献上された。

中の空洞に水がたまって音がするアンデスの珍しい石、うけ狙いで漬物石、「あなたと食べる一生分のサラダのために」の願いを込めた岩塩……だが、姫のハートを射止める石は現れない。姫は芸術が好き、という噂が流れると、精巧な彫刻をこらした石や石のオブジェといった作品が届くようになる。それでも反応がないとみると、気持ちというのは結局金ではないか、という憶測が流れ、特大ダイヤモンドや世界にひとつしかないレアな宝石が競い合った。

脱落していく者が続出し、いつしか五年の歳月が過ぎ、石文合戦のことを世間が忘れた頃、ようやく姫の結婚相手が決まった。お披露目に現れたのは、貧弱な冴えない男。一体どんな石文で彼女を口説き落としたのかといえば、送ったのは、どこにでもあるような石ころだという。だが、一個ではない。お披露目の会場となったのは、小石が敷き詰められた庭。その庭を満たすだけの石を、五年の歳月をかけて送り続けた誠意が通じたのだった。


いしぶみについて触れた同じエッセイの中に、もうひとつ、印象的なエピソードが紹介されていた。向田さんが忘れられない手紙として挙げた、「○と×だけの手紙」の話。学童疎開へ向かう向田さんの妹に、父は自分宛の宛名だけを書いたハガキの束を渡し、「元気な時は大きなマルを書いて一日一通必ず出すように」と伝えて送り出した。最初はハガキからはみ出さんばかりだったマルがだんだん小さくなり、細っていき、やがてバツになり、ついにはハガキが来なくなった。疎開先で、妹は百日咳で寝込んでしまっていたのだという。それを読んで、『レ・ミゼラブル』の初版売れ行きを心配したビクトル・ユーゴーと出版社との世界一短い往復書簡「?」「!」や、南極観測隊の夫に日本で留守を守る妻があてたたった三文字の電報「あなた」を思い出した。手紙というのは言葉を費やせばいいというものではなく、端的な表現に思いがぎゅっと詰まったエネルギー効率の高いもののほうが心を打つけれど、発散させるよりも凝縮させるほうが高度な技を要する。沈黙の中に思いを込めるいしぶみは究極の離れ業だといえる。

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2005年06月01日(水)  映画『子ぎつねヘレン』撮影中
2004年06月01日(火)  歌人デビュー本『短歌があるじゃないか。』
2002年06月01日(土)  フリマ
2000年06月01日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月01日(金)  4年2組日記 日記のざいりょう



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