2015年05月08日(金)  両想いから始まったメ〜テレドラマ『想ひそめし〜恋歌百人一首〜』

アイデアは、おいしいものから生まれる!
今月放送の新作、メ〜テレドラマ「想ひそめし 恋歌百人一首」脚本開発は、このランチから始まっていました。



娘をまだおなかに内蔵していた頃にテレ朝のミッドナイトドラマ「快感職人」でご一緒した木内麻由美さんから「メ〜テレのプロデューサーに今井さんのことを話したら、会いたいって言ってくれてるんだけど」とランチのお誘いをいただき、六本木の雰囲気も演出も味も最高なイタリアンでメ〜テレの水元利香さん、太田雅人さんをご紹介いただいたのが、去年の9月のこと。

社内の企画募集で入社3年目の女の子が出した百人一首恋愛ドラマ企画をやることになったというお話を聞き、「一首で一話作るといえば、NHK奈良の万葉ラブストーリーという脚本コンクールに関わったんですが」「この秋放送のおじゃる丸百人一首シリーズも一話で一首取り上げていまして」とおいしすぎるイタリアンで滑らかになった舌で思いつくまま気持ちよくしゃべらせてもらい、「面白い企画になりそうじゃないですか! がんばってください」と楽しく解散。

それからしばらくして「脚本をお願いできませんか」と連絡が。六本木ランチはこの企画の脚本家誰にしようのお見合いだったのでした。

初めてのデートで「この人と結婚するかも」と予感する、それと似たようなことが仕事のお見合いでも起こります。両想いから脚本開発が始まったドラマのタイトルは「想ひそめし 恋歌百人一首

はじめてのメ〜テレさん。
若き企画者の浅井千明さんとも、もちろんはじめて。
演出は、はじめての大九明子監督。
女性同士は「合う」か「合わない」かけっこうハッキリしますが、会った瞬間「合う」と直感。
大九監督が所属する「猿と蛇」代表で映像プロデューサーのラスプーチン矢野こと矢野義隆さんもこれまた面白い人。

あまりに楽しかった最初のランチが予言したように、視聴者から募集した恋バナから物語を膨らませる作業を「妄想持ち寄り会」と称した打合せは毎回楽しく、皆の妄想でどんどん登場人物が動き出し、物語が転がっていくことにワクワクしっぱなしで幸せでした。

脱稿までその楽しさはゆるむことなく加速して、合間合間においしいものも食べて(他の作品よりも食事の機会が多かったのも幸せ指数が高い一因。食べることしゃべることがとくに好きなメンバーが集まっていました)、脱稿して皆が制作に入ると、自分一人だけ転校したような淋しさを覚えたほど。

先日お邪魔した撮影現場も和気あいあい。
中村倫也さん演じる神主さんも千年の時を旅する麿感が見事に醸し出されていて、今回の神主役にぴったりな説得力のある声もバッチリ。ますますオンエアが楽しみになりました。

あの人を想ひ初め、あの人色に想ひ染め、あの人への想ひをひそめる、そんな「想ひそめし人」の前に、千年の時を旅する神主が現れ、百人一首から一首授けて背中をそっと押す、そんな15分間。「ポストカードの恋」「映画みたいじゃない恋」「失恋に効くレシピ」の3つのドラマをお届けします。

5/25(月)〜27(水)深夜1:59〜三夜連続放送!
「想ひそめし 恋歌百人一首」
◆5/25 第一首「ポストカードの恋」
<キャスト>趣里 君嶋麻耶 清水葉月
◆5/26 第二首「映画みたいじゃない恋」
<キャスト>古泉葵 萩原利久 ロビン
◆5/27 第三首「失恋に効くレシピ」
<キャスト>関めぐみ 川野直輝 加津塔

5/30(土)深夜0:55〜三夜分をまとめた総集編「花つづり」を放送


今のところ「愛知・三重・岐阜の3県のみで放送」ですが、NHK岐阜発地域ドラマ「父の花、咲く春」も中部限定から全国放送になったし、皆様の後押しで、もしかしたら……。放送圏の方も、そうでない方も、応援よろしくお願いします。

2014年05月08日(木)  「そこをなんとか2」グリーンもパワーアップ!!
2013年05月08日(水)  mtのマルとHacoaのサンカク
2011年05月08日(日)  絶品パスタとマドレーヌと「はからめ」
2010年05月08日(土)  じいじがまってるから、じいじとあそぶ。
2009年05月08日(金)  2才8か月、言葉で納得して卒乳。
2008年05月08日(木)  マタニティオレンジ282 どうしてお友だち嚼んじゃったの?
2007年05月08日(火)  マタニティオレンジ117 愛情と責任と○○
2005年05月08日(日)  佳夏の置き土産、高倉三原同窓会やるでー。
2004年05月08日(土)  STRAYDOG公演『母の桜が散った夜』


2015年04月13日(月)  アマゾンの海を泳ぐ人たち

このかわいいバッグ、何だと思いますか?



答えは、「書道」の一式を納めた書道バッグ。

わたしが小学生の頃は素っ気ない手提げに無骨な箱が入っていたような……。
こういうところに時の流れを感じる母です。

金曜日、小学校からもらってきた書道バッグの申込書を見て、すでに「か、かわいい」とカルチャーショックを受けたのですが、「もっとかわいいのがあるはず」と娘はネット検索を要求。

学校購入よりかわいく、かつお値段もかわいいあかしや書道セット ラブリーリボンなる商品をアマゾンで見つけて購入したのが、金曜日の22時45分。

翌日土曜日の午後早く、書道セットが到着しました。

さて、ここからが本題。

「もう着いたよ。早いね」とダンナと話していて、「在庫がすぐに出せるアマゾンの倉庫ってどうなってるんだろ」とダンナ。まさにアマゾンのジャングル状態か。そこからどうやって注文商品を見つけ出すんだろうねとひとしきり話した後で仕事部屋の資料整理をしていたら、アンテナを張っていたからでしょう、2013年7月15日付け朝日新聞朝刊の記事が目に留まりました。

《日通管理職の「アマゾン行き」
 商品棚の海 探す「注文」》

という見出し。

日本通運の中間管理職からアマゾンの物流拠点に配属された40代男性を取材した記事でした。
与えられたのは、「ピッキング」と呼ばれる作業。

《通路をはさんで左右に並ぶ商品棚の海をかき分け、全国からネットで注文が入った商品を選び出す。書籍やDVDソフト、食品、お菓子、雑貨、衣類……》

バーコードを読み取る端末機を持たされ、そこに送られてくる棚の位置などを示すコードを元に商品を探し出し、端末機を当て、ピッと音が鳴ったら商品をカートに入れる。すかさず次の注文が送られて来る。ピッが鳴らなかったら、探し直し。

さらに、ピッキング実績が一目でわかるグラフを配られ、追いつめられるのだそうです。

《9日目で、平均は1時間に102個だったが、自分はそれを下回っていた》
一分あたり一商品を上回るペースで海から商品が選び出されていることに驚かされます。それだけのスピードがなければ、前夜に注文した商品が翌日に届くことはないのでしょう。

《朝8時半から夕方5時まで、これをひたすら繰り返す。サッカー場が2面取れる広さのフロアでは、数百人がカートを押しながら棚と棚を何度も行き来する》

のだそうで、大半は契約社員や派遣などの若者。そこに日通からの配属組が交じっているようです。なんとなくロボットが行き交っているさまをイメージしていたわたしでした。

《限界にっぽん 第4部「追い出し部屋」2》

というタイトルの横には、

《「自分が機械になった気分」》

という大きな見出しがありました。

日通からの「アマゾン行き」組は、ほとんどが40代で事務系の中間管理職だった人たち。この記事が出た後、勤務内容は改善されたかもしれません。ピッキング作業ができるロボットが生まれたかもしれません。でも、ひょっとしたら、書道バッグを海から探し当てたのは、これまでの会社員人生を否定され、雇用の不安を抱えながら働くわたしと同世代のお父さんかもしれません。その方には、うちの娘と同じくらいのお子さんがいるのかもしれません。

きっと、アマゾンだけでなく、わたしが受け取っているたくさんの便利には、それを支えてくれている人たちがいるのでしょう。せめてそのことに想いを馳せようと思います。娘にも、この書道バッグがアマゾンの海からわが家に来るまでのお話を聞かせようと思います。

2013年04月13日(土)  友情もワインや肉のように熟成する!?
2011年04月13日(水)  「てっぱん」オカズデザインさんのアトリエへ
2009年04月13日(月)  子どもそっちのけで親が夢中に!アイビーズ
2008年04月13日(日)  マタニティオレンジ267 子どもは遊びの天才
2007年04月13日(金)  マタニティオレンジ106 慣らし保育完了 
2006年04月13日(木)  ヘレンウォッチャー【「子ぎつねヘレン」の夕べ編】
2005年04月13日(水)  お風呂で血まみれ事件
2002年04月13日(土)  パーティー


2015年04月10日(金)  絵本「るすばんをしたオルリック」

小学校での読み聞かせ、今年の第一弾。
かこさとしの「だるまちゃんとかみなりちゃん」(1968年刊行)と「るすばんをしたオルリック」(1972年イギリス生まれ、日本版は76年刊行)のロングセラー2冊。



わたしが読んだのは「るすばんをしたオルリック」。

外で働くのがイヤで主婦のおかみさんとお仕事交換したら、えらい目に遭うダメな亭主のお話。大阪の実家にあった絵本で、たまの大のお気に入り。うちの母が読んだら大爆笑なんだけど、わたしはまだまだ間の取り方がヘタクソで、そこまでは笑いを取れず。

ちなみにアマゾンでは中古本一円で売られてます。
>>>るすばんをしたオルリック
「これは買い!」とfacebookでつぶやいたら、早速2冊売れました。

2013年04月10日(水)  崑劇俳優・陸海栄さんの「日中楊貴妃の響演」
2011年04月10日(日)  川越「つばさ」ファンクラブの皆さんと二度目の春
2010年04月10日(土)  捻り出すばかりでは枯渇してしまうから
2009年04月10日(金)  『生者と死者』(泡坂妻夫)と「生と死」コラム
2008年04月10日(木)  マタニティオレンジ264 「きのこのこのこ」と「ワァニ」
2007年04月10日(火)  マタニティオレンジ105 産後の腰痛とつきあう
2004年04月10日(土)  大麒麟→Весна(ベスナー)
2002年04月10日(水)  なぞなぞ「大人には割れないけど子供には割れる」


2015年04月03日(金)  「個人として」と「人として」じゃあ大違い!

「憲法13条は泣ける」と教えてくれたのは、名字が同じご縁で親しくしている今井秀智弁護士。

あらためて条文を読んでみると、「あなたは大切。あなたは守られている」と国が国民一人一人に約束しているようなあたたかさがあり、わたしにとっても大好きな条文になりました。

その憲法13条が危ない!と久しぶりに会った今井弁護士が怒っていて、卓上プレゼンしてくれました。



左の写真、上が現行の13条。下が自民党の出した改正案。
見比べてみて、わたしもびっくり。
「すべて国民は、個人として尊重される」が「全て国民は、人として尊重される」に。
たかが「個」の漢字ひとつ、ですが、意味は大違い。
国家と個人の関係が、一般論にされてしまっています。
動物ではなく人として尊重されるなんて、当たり前のことじゃないですか。

どうしてわざわざ「個」を取らなくてはいけないのか。
「個」があると、何がまずいのか。
その意図に思いをはせる必要がありそうです。

また、「公共の福祉に反しない限り」が「公益及び公共の福祉に反しない限り」に書き換えられているのも大問題。
「公益」に反する幸福追求はできない、つまり、公益が個人の幸せに優先されるのです。
「最大の尊重を必要とする」も「最大限に尊重されなければならない」になっています。

コピーライターだった頃の「リーガルチェック」を思い出しました。
コピーが法律に引っかからないかどうか、世に出す前に審査をするのです。
「この美容液を使うと8日間で肌に劇的な効果があらわれる」とうたうと薬事法違反になってしまうので(化粧品会社の臨床実験で効果が実証されていても、それだけではうたえないという厳しい制約がありました)、「8日後のドラマ」と表現して、8日経ったらすごい効果があるぞとにおわせる。それでも引っかかると「8日後のドラマの予感」とさらに表現をやわらげる……。

クッションを重ねて、表現をぼかすことで、「逃げ」を作る。
憲法改正案の加筆にも、そんな意図を感じます。
何のための「逃げ」なのか。
誰に対する口実を作ろうとしているのか。

もう一枚の写真、2つの条文には空白があります。
「婚姻は両性の合意  に基づいて成立し……」は、「のみ」が抜け落ちています。たかが二文字ですが、「のみ」がなくなるとどうなるか。当事者の二人以外に「都道府県知事の合意も必要」などという突飛な法律ができたときに、現行憲法なら「違憲」と言えますが、改正案では「合憲」になってしまうのです。

そして「公務員による拷問及び残虐な刑罰は   これを禁ずる」では、「絶対に」が抜け落ちています。「絶対に」を取ることで「やっちゃう可能性」を許容できてしまうのです。

「のみ」を取ったからといって悪法ができるとは限らないし、「絶対に」を取ったからといって公務員の拷問が許されるとも限らない。
でも、だったらどうして、わざわざ取るのか。

他にも現行憲法と改正案を注意深く読み比べていると、ちょこちょこと削られたり足されたりがありますが、改正案だけを見せられても、どこが変わっているのか、何がまずいのか、わかりません。
わたしも今井弁護士の解説があったから、気づいたことがたくさんあるのですが、
「憲法改正がいいとか悪いとかいう前に、まず今の憲法を読んで欲しいんですよね。だって、憲法は国民の宝なんですから」と今井弁護士。
わたしたちが生まれたときから当たり前のようにあった日本国憲法。
その宝物を宝の山にするか、宝の持ち腐れにするかどうかは、国民次第。
大好きな13条が別な意味で「泣ける条文」にならないように。
一人でも多くの方に、憲法を読んでほしいと切に願います。

>>>自由民主党 日本国憲法改正草案(現行憲法参照)(2018年5月3日リンク先アドレス更新)
>>>自民党憲法草案の条文解説
>>>現行憲法と自民党憲法草案の比較(2018年5月3日追記)

また、今井弁護士が作った「Kenpo!map(憲法マップ)」は、独裁者が支配する 「暗黒島」を舞台に、憲法の意味を物語仕立てで理解できるすぐれもの。もともとは今井弁護士の事務所の忘年会のおみやげだったというのがお茶目ですが、子どもはもちろん大人が憲法の精神を理解する道しるべにも。

2010年04月03日(土)  今井雅子脚本最新作『運命のひと』完成
2009年04月03日(金)  たんすの肥やしに絵を描く
2008年04月03日(木)  アテプリスペシャル宣伝デー
2007年04月03日(火)  マタニティオレンジ103 保育園の入園式


2015年04月01日(水)  おそるべしホットヨガ

ホットヨガに通い始めて2か月。
一時間のレッスンで一リットルの汗をかいて、一リットルの水を飲む。
体の水を入れ替えているような浄化感があって、なんとも気持ちいい。
肩こりにも効いているような……。

そして、たった2か月で体重がなんと2キロも!

ふえました!

どういうこっちゃ。

とにかくおなかがすいてすいて…カロリー燃焼が追いついてないようです。
まあ、甘いもんはよく食べてます。
(一人で全部じゃないのもあるけど)



2012年04月01日(日)  2012年3月「月間たま語大賞」 
2010年04月01日(木)  たま、3歳児クラスで上履きデビュー。
2009年04月01日(水)  (ホームレス)公田耕一氏と(アメリカ)郷隼人氏
2008年04月01日(火)  今井雅子作品『これコレ』と『アテプリ』届きました
2007年04月01日(日)  歌い奏で踊る最強披露宴
2004年04月01日(木)  「ブレーン・ストーミング・ティーン」刊行
2002年04月01日(月)  インド料理屋にパコの風


2015年03月30日(月)  脚本づくしの4時間!菊島隆三賞授賞式

渋谷ユーロライブにて、選考委員を務めた菊島隆三賞の受賞作品「百円の恋」上映と脚本を書かれた足立紳さんへの贈賞式。

「脚本家が選ぶ脚本賞」ということで、贈賞式もとことん脚本尽くし。佐伯俊道選考委員長の歯に衣着せぬ選評は潔さと懐の深さが感じられて勇ましく、加藤正人さんの熱のこもった贈賞スピーチからは、足立さんへの惚れ込みっぷり、期待っぷりが大いに感じられた。

佐伯さんだったか加藤さんだったかが、月刊シナリオに掲載されていた足立さんのエピソードを紹介。映画の現場で知り合って結婚した奥さんが、いつか自主映画を撮りたいと貯めていた二百万円を「あなたが撮って」と足立さんに託したという。「百円の恋」の次は「二百万円の嫁」という映画をぜひ、と言って会場のあたたかな笑いを誘った。

そういえば、菊島隆三賞も、菊島氏を支えた妻・宮子さんが菊島氏の遺産の一部をシナリオ作家協会に寄贈されて創設されたとか。

「百円の恋」脚本を見出した松田優作賞を主催する山口市の周南映画祭からお祝いに駆けつけた大橋さんのスピーチがこれまた熱かった。

高校時代、いじめられて死ぬほど思い詰めたときに駆け込んだ映画館でかかっていたのが「野獣死すべし」(主演:松田優作 脚本:丸山昇一)。映画に救われた自分が映画で誰かの力になりたい、という思いが直球で胸に届いた。地元出身の松田優作の名を冠した脚本賞を立ち上げ、第一回の募集に寄せられた151本をすべて読み、朝4時に最終選考作品を選考委員に伝えたときには、「百円の恋」が獲ると確信していた。いろんなものへの愛がこみ上げて入り交じって涙があふれる大橋さんを見ていたら、こちらも涙がじわり。

さらに足立さんの受賞スピーチがしみた。大好きな野球にたとえると「百円の恋」の脚本を書いていたとき、自分は6回裏で20点負けているような状況で、一緒にやっていた武正晴監督とプロデューサーはさらに追い込まれて7回裏で20点差つけられていた。「ここから逆転はできなくても、せめて一点返してやりたい」と思っていた。営業がヘタクソで、出来上がった脚本を持って回っても、なかなか相手にされなかったが、いいホンだからぜひ読んでくれと売り込んでくれた人たちがいて、形にできた。そして、20点差で負けている自分のそばで、一人チアガール状態で応援してくれた妻に何よりも感謝したい……。

二十点差の夫と、二百万円の妻。面白い脚本を書く人自身に、ドラマあり。

贈賞式内トークセッションでは、「百円の恋」主演の安藤サクラさん以外、登壇者は全員脚本家。受賞者の足立紳さん、菊島賞選考委員の筒井ともみさん、脚本「百円の恋」を見出した松田優作賞選考委員の丸山昇一さん、そして司会はわたし。

大先輩の丸山さんと筒井さん、脚本家がいま最も口説きたい安藤さんを迎えて、進行がつとまるのやら…と不安を抱えつつも、「脚本家が聞きたいことを聞こう!」と開き直り、いざ本番。
安藤サクラさん登壇の前に、前半は、足立さん、筒井さん、丸山さんで。「百円の恋」脚本の魅力と、映画「百円の恋」が成立するまでのお話をうかがう。

足立さんとは最近何度か会う機会があり、娘さんが生まれた頃、8年ほど前に百円ショップで働いていた経験が作品につながっているとうかがっていた。その部分を掘ってみた。

レジで堂々とスポーツ紙を読んでいる「百円の恋」の野間のようなふざけた勤務態度で、3か月でクビになったという足立さん。20歳くらいの店長に電話で説教されているのを横で聞いていた奥さんに「客いないんだから、いいじゃんね?」と言ったら、「人としてまずまともに生きろ」とガツンと言われた。(さすがは二百万円の嫁!)それで目が覚めて書き溜めたプロットが「百円の恋」や先日放送された「佐知とマユ」(創作テレビドラマ大賞受賞作)の原型になったそう。眠っていた種が昨年から次々と芽を出し、花開いているような印象があるが、「このままではいかん!」という危機感が熱量に変換され、キャラクターに宿ったのかもしれない。

それから何年かして、自分以上に負け越していた武監督と何か一緒にやろうとなり、「好きに書いてみろ」と言われて書いた「百円の恋」。あちこちに売り込んでも良い返事はなく、松田優作賞に応募し、受賞したことで映画化に弾みがついた。

今これだけみんなが「好き!」というホンが、どうしてそっぽを向かれていたのか。時の流れ、時代の流れで、ホンは変わらなくとも風向きが変わっていったのか。もちろん、強力に推す人たちの地道な努力の積み重ねもあったのだろう。そして、書いてすぐに実現していたら、安藤サクラの一子は見られなかったかもしれない。

タイミングも運のうち。「百円の恋」は、出るべきタイミングで世の中に打って出た。

松田優作賞の話になると、丸山さんのエンジンがかかった。話しだしたら止まらない、なおかつ面白い丸山さんが安藤さん登壇の時間を過ぎても話し続け、いつ割って入ろうかと思ったら、ちょうど丸山さんの口から「誰が一子を演じるか次第だ」みたいな発言が出たので、そこに乗っかって安藤さんを招き入れることができた。

一方的に存じ上げている安藤さん、ご本人にお会いしたのは初めてだったけれど、話す言葉も感覚的身体的で、とらえどころがないようで、この人にしかできない表現で、その意味をつかまえようと手を伸ばしたくなる不思議な魅力。どんな役にも染まれる女優の変幻自在な器を見るようだった。

脚本を大切にし、忠実に演じようとする姿がうかがえてうれしくなった。セリフを変えるかどうかではなく、脚本家が脚本に託した思いを敬意を持って受け止めてくれる、そこに感激したのだけど、「てにをはさえも変えないと聞いてうれしくなりました」と言うわたしの拙い司会では、一言一句変えないことを役者に求めているように受け止めてしまった人もいたかもしれない。「(不本意に)変えられるのは脚本が悪いとき」だという丸山さん、「私は変えられたことがない」という筒井さん(そもそも初稿でオッケーを出される方!なのでわたしとはレベルが違う)の言葉を引き出せたのはケガの功名。

「私からも質問していい?」と筒井さんが、ラストについて質問。選考会のときにも「ラストはこうじゃないと思う」と話されていた。すると「あれは2テイク目です」と安藤さん。まずはテストで脚本と違う形を演じてみた。それがあったから脚本の形のラストを演じられた、と。脚本と演じ手のせめぎ合いをうかがえて興味深かった。

脚本家は、キャラクターに持たせられるだけのものを持たせて役者に託す。それをどう受け止め、膨らませるか。脚本家と役者のそれぞれがどんなことを考えているかを聞けるトークも菊島賞ならでは。安藤さんが豊かな手の動きとともに「この不思議な関係」と称されたような記憶がある。夢中のうちに過ぎた一時間、をちょいと超過。あわてて締めて、肝心の足立さんへのお祝いの言葉で締めるのを忘れてしまった。

足立さん、おめでとうございます!

「百円の恋」で一点どころか、だいぶ返せたと思うけど、足立さんにはまだまだ点を返して欲しいし、痛快な場外ホームランをまだまだかっ飛ばしてください。

菊島隆三賞という脚本家の名前を冠した脚本賞は、まさに脚本家自身をたたえるものであると同時に脚本家全体へのエールにもなっている。そうしみじみ思えた授賞式だった。

2010年03月30日(火)  今度会いましょうから「度」が取れた瞬間
2009年03月30日(月)  「シ〜ザ〜」何回?1日3回「つばさ」第1回
2008年03月30日(日)  マタニティオレンジ259 一生ものの友だち、二世代目。
2007年03月30日(金)  生涯「一数学教師」の父イマセン
2004年03月30日(火)  鴻上尚史さんの舞台『ハルシオンデイズ』
2003年03月30日(日)  中国千二百公里的旅 中文編
2002年03月30日(土)  映画『シッピング・ニュース』の中の"boring"


2015年03月24日(火)  観察日記、一日で終了!

娘のたまが小学校でもらってきたブロッコリースプラウトの種。
昨日キッチンペーパーの上にまいた。

たまは、はりきって、観察日記をつけ始めた。



今朝、何を思ったか、「日によく当てよう!」と外に出したわたし。
水を含んでいたキッチンペーパーは、お日様に照らされてぐんぐん乾き……気づいたら、種をのせたキッチンペーパーは風に飛ばされてしまっていた。

「ぐんぐん育つのが楽しみです」と書いてあるのに……。
ごめんよ、たま。
観察日記、一日で終わっちゃった。

ベランダのどこかで発芽するかな。

2010年03月24日(水)   今日のツイッター
2008年03月24日(月)  整骨院のウキちゃん6 ナターシャは白いごはんが大好き編
2007年03月24日(土)  マタニティオレンジ98 たまごグッズコレクション
2002年03月24日(日)  不動産やさんとご近所めぐり


2015年03月20日(金)  アンペア契約って変更できるんだ!

5アンペア生活を実践されている方(東日本大震災をきっかけに節電生活を決意された新聞記者の斎藤 健一郎さん)がラジオで生き生きとしゃべっていて、アンペア契約って変更できるんだーと知った。

10年以上暮らしていた前のマンションでは30アンペア契約だったけれど、今のマンションでは一気に20アンペア上がって50アンペア契約になった。
アンペア数って建物ごとに決まっているんだと勝手に思っていた。

早速東電に電話して「50アンペアを30アンペアに下げたいんですが」と言うと、とくに理由を聞かれず、いきなり基本料金がいくらからいくらになりますと告げられ(1400いくらが800いくらに)、工事の日をサクサク決め、二日後には工事完了。



30アンペアの根拠は、シミュレーションすると、エアコンとレンジと洗濯機とテレビと照明を同時につけても30以内におさまったから。
(こちらでチェックできます>>>わが家のアンペアチェック 東京電力

30アンペア生活をしていた前のマンションと今のマンションとの家電量の大きな違いは、エアコンが一台から三台になったこと。
その三台を同時に使わなければ、30アンペアでも大丈夫だと判断した。

工事費は無料だけど「契約は一年以上でお願いします。季節によって上げたり下げたりはできません」と言われたので、30アンペアに下げたもののやっぱり元に戻したい、となったときには有料になるのかもしれない。
変更するときは、事前にシミュレーションを。

ちなみに冷房よりも暖房が電気を食うことを学んだ。
熱出し系はエネルギーを使う。
乾燥機やレンジはもちろん、アイロンやドライヤーも小さいくせにアンペアイーター。
わが家はドライヤーも炊飯器も使わないし、アイロンもめったに使わないので、20アンペアでも行けるかなという気もするけど、ブレーカーが落ちるのを心配してストレスをためては、余計なエネルギーを使ってしまう。

電力のダイエットも楽しめる範囲で息長く続けるのが良さそう。

2010年03月20日(土)  リサとガスパール&ペネロペ展(松屋銀座にて29日まで)
2008年03月20日(木)  「冷や奴」のない豆腐屋さん
2007年03月20日(火)  マタニティオレンジ95 満を持して『はらぺこあおむし』
2004年03月20日(土)  アドフェスト3日目
2002年03月20日(水)  はなおとめの会


2015年02月23日(月)  何も知らなかった…舞鶴引揚記念館の衝撃

日星高校への講演を終え、一夜明けた土曜日、前夜牡蠣シャワーを降らせてくれた竹内万里子教頭先生と去年の講演とワークショップのときの窓口だった佐藤絵理先生に舞鶴を案内していただいた。

三度目にして初めての訪問となる舞鶴引揚記念館は、リニューアル工事中のため赤れんがパークで展示中。展示物はかなり絞られていると思われるが、ボランティアガイドの方にじっくりお話をうかがいながら、2時間かけて見せていただいた。

「マイナス20度で、バナナで釘が打てます。それよりも寒いなかで労働を強いられたんです」
肉声の説明からはパネルの説明を読むだけでは伝わらない熱(熱さだけでなく冷たさも)が伝わってくる。怒りも、やるせなさも、語り継がねばならないという使命感も、声にのせられて、こちらにずしんと響く。

戦後13年間に66万4531人の引揚者と1万6269柱の遺骨を受け入れた舞鶴。日本全国での引揚者は600万人を超え、大陸からソ連に送られシベリアなどで抑留を強いられた日本人が約47万2千人いたという。

把握できた数字がこれであって、実際には、さらに多かったかもしれない。

日本の歴史始まって以来の民族大移動と呼べるような出来事。捕虜といいつつ奴隷のように扱われた抑留生活。これらのことをわたしは歴史の授業で習ったのに記憶から抜け落ちているのだろうか。それとも習っていないのだろうか。初めて見聞きするような事実の連続で、知らなさすぎた歴史に愕然となった。

抑留兵が日本の家族にあてた手紙の改行が不自然だなと思ったら、原文は「監視するソ連側が検閲できるように」とカタカナで書かれていた。検閲されるから愚痴も弱音もこぼせない。「すぐに返事をください」と綴られてはいるが、「日本に着くのに一年半かかったそうです」とガイドさん。返事が来るまでの毎日がどれほど長かったことか。果たしてこのハガキの送り主は返事を受け取れたのだろうか。そして祖国の土を踏めたのだろうか。

何十万という数字の一人一人にもう一度会いたい家族がいて、日本に帰ってかなえたい夢があった。「もう一度」が「もう二度と」になってしまった人がどれだけいただろう。苦役の後に日本に帰れた人たちも、人生の貴重な何年かを奪われてしまった。ミサイルや銃を放ち合うだけが戦争の恐ろしさ愚かさではない。一人一人の時間や愛するものを奪い、才能を埋もれさせ、尊厳を踏みにじる、それもまた戦争の残酷さなのだと重いため息をついた。

「舞鶴への生還 1945−1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」は「東寺百合文書」と並んで2015年のユネスコの世界記憶遺産候補として日本から推薦されている。世界記憶遺産にはベートーベンの「交響曲第9番」の自筆楽譜やアンネの日記などがあり、日本からは山本作兵衛炭鉱記録画、御堂関白記、慶長遣欧使節関係資料がある。舞鶴への引き揚げ記録が世界記録として刻まれることで、引揚の歴史全体にも光が当たることに期待したい。

シベリア抑留の壮絶さと並んで、引揚の過酷さにも胸を衝かれた。やっと祖国へ帰れると思っても、引揚船に乗り込む前に、引揚船が日本に着く前に、命を落とした人が少なからずいた。船の中で息絶えた幼い少女に、乗り合わせた女性が持っていた口紅を塗ってあげた話が印象に残った。少女はおしゃれも恋も覚える前に短い命を閉じた。口紅を差し出した女性は、その後、おしゃれを楽しめただろうか。平和というのは、口紅を引いて、食事や買い物やデートに出かける自由があることで、それを奪うのも戦争なのだ。

何度も足を止め、目を留め、息をのむ瞬間があり、そのなかで思わず書き留めたのが「引揚者を迎えるに際して」と題した市民向けの回覧文だった。



《敗戦後厳寒のシベリヤで四星霜「倒れちゃならない祖国の土に辿りつくまでその日まで」と悲痛な想を胸に祖国を案じ懐しの父母妻子兄弟を想って凡ゆる苦難に堪へて帰って来られる同胞を心から温かく迎へませう》と始まるその文書は、「四星霜」とあるように、引揚が始まって四年が経とうとしている昭和24年6月23日付で当時の舞鶴市長・柳田秀一氏が発信したもの。

市も財政は苦しいができる限りのことをしたいとし、同胞を温かく迎える事はお茶の接待や打上花火ではなく、心が伝わらなくてはならない、と文書は続く。そして、引揚者を見かけたら《海上であつても道路上であつても或は田畑で耕作をして居られる時でも手を振りハンカチを振り帽子を振って頂く事が一番同胞を喜ばせることであります》と説く。

《殊に引揚は第一船のみで終るものではありませんから第一船は華々しく迎へたが後になるほど寂しくなる様では意義がありません》とあるのは、昭和20年10月の第一船入港時の熱がさめ、市民に迎え疲れが出た頃だったのかもしれない。

この回覧が出された翌昭和25年、舞鶴は全国で唯一の引揚港となった。それから昭和33年9月7日の最終船まで足掛け13年、手を振りハンカチを振り帽子を振り続けた人が舞鶴にはいた。祖国への想いを募らせた人たちにとって、どれだけ心強いお帰りなさいだったことか。

一昨年から三年続けて舞鶴を訪ね、そのたびに「よく来てくれました」と温かく心地よく迎えられ、また舞鶴に来たいと思いながら東京に戻るのだけど、今日引揚記念館を見て、舞鶴の人たちには外の人を迎え入れることに、いい意味で抵抗がなく自然にふるまえるのかもしれないと思った。

竹内教頭先生と佐藤先生に自衛隊の護衛艦まで案内していただき(三艘分の距離を往復する間にじりじりと日焼けしそうな距離があった)、その後、再び赤レンガ倉庫に戻ってJAZZというお店で肉じゃが丼をいただいた。舞鶴は肉じゃが発症の地でもあるらしい。

お二人と別れ、舞鶴に来るたびに訪ねている喫茶ゆめさらに着くと、店主米澤典子さんのお友達で前回舞鶴を案内してくださった田丸のおじさま83歳がお待ちかね。「あんたこれ好きやろ」とおみやげにクリームあんみつを持ち込んでくださっていた。引き揚げ記念館のことを話すと、「市長やっ柳田さんは、もともと開業医やったんや」と教えてくださった。田丸さんのお父様も診てもらったことがあるとか。お医者様ゆえだろうか、あれだけ血が通った公文書はなかなかお目にかかれない。「社会党の国会対策委員長を務めはった名士やで」とのことらしい。

田丸さんも寄稿した舞鶴の戦争体験集を読ませていただいた。終戦当時13歳で国鉄に就職した田丸さんは、戦争で勉強できなかったことが何より悔しく、国鉄の昇進試験に手を焼いたという。思う存分勉強ができて、会いたい人に会えて、あんみつも食べられる平和をかみしめた。

帰りの新幹線では舞鶴引揚記念館の図録「母なる港 舞鶴」を広げ、戦争が奪ったたくさんの人々の取り返しのつかないものに想いを馳せて、東京に戻った。

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2015年02月22日(日)  小2の娘と観た映画「みんなの学校」

予告で心惹かれたドキュメンタリー映画「みんなの学校」が昨日公開。
たま(小学2年生)にチラシを見せたら乗り気だったので、早いうちにと今日観に行った。

たまのまわりにも支援の必要な子はいる。映画を分かち合って、「みんなの学校ってどういうことかな」と話ができればと思った。

渋谷ユーロスペースでは子ども料金500円だった。
わたしは劇場で授業参観。たまは500円の課外授業。

他の小学校に通えなくなって、大空小学校に転校してきた男の子のお母さんの言葉が、印象に残った。
学校から帰って、鉛筆が減っているのがうれしい、と。

そうか、学校で学ぶというのは、ぴんぴんに削った鉛筆が丸くなることなんだ。

鉛筆が減る。クレヨンが減る。上履きが汚れる。
そんな当たり前のことをどんな子にも当たり前にする大空小学校は、大阪の普通の公立小学校。

全校生徒220人中30人が要支援児。かなり高い割合。ひとクラスに1、2人どころじゃない。でも、特別支援学級はなく、同じ教室で授業を受ける。興味深いのは、そのことが児童にとって「当たり前」になっていること。だからなのか、カメラが回っている前でも実に自然にふるまう児童たち。多様な他者をしなやかに受け止めるチカラが知らず知らず備わっている。これってすごいことだ。

学校で起きたすべてのことを体当たりで受け止め、どうしたらいいかを全力で考え、行動で示す木村泰子校長がすばらしい。この校長先生あっての大空小学校ではあるけれど、「みんなの学校」は一人では作れない。教師、児童、保護者、地域住人、学校に関わる一人一人によって実現する。その一人一人を動かす強力なリーダーシップが木村校長にはある。覚悟とユーモアを持ち合わせ、大変な局面でも口角が上がっていて、選ぶ言葉には相手への思いやりがある。それが最初から完成されていたのかといえば、そうではなく、「この子がおらんかったら、ええ学校になれたのに」という本音から出発し、試行錯誤の毎日の末に今の大空小学校にたどり着いたことがわかる。

「最初から宝石は落ちていない。石ころを磨いて光らせるのはあなた次第」だと一昨日の舞鶴・日星高校でもお話ししたが、みんなの学校という宝石もまた最初から落ちていない。困った石ころを、磨けば光ると信じて磨き続けた結果なのだと思う。「すべての子に居場所がある学校」は、一人の情熱ある教師によってのみ作られるわけではなく、一人の問題児によって壊されるわけでもない。みんなと一緒に学ぶことが難しい子をのけ者にする前に、できることがあるのではないか。

思い出したのは、「inclusive」を日本語に訳した勉強会のこと。日記を掘り返したら、障害者権利条約の日本の批准が遅れてるから自分たちで訳そうという勉強会だった。
2007年05月14日(月) 遠山真学塾で『障害者権利条約』勉強会

2007年5月14日のこと。日本が批准したのはそれから6年半後の2014年。国連加盟国の中でもびりっかすのほうだった。(手話講座では142番目と習った。140番目という説もあり、批准と発効の間で順位が入れ替わったのかも)

もうひとつ思い出したのは、アメリカの高校に留学したときの光景。学習レベルにかなり差のある生徒が一緒に学び、支援が必要な生徒にはお手伝いが付き添っていた。先生以外の大人がいる教室は当時のわたしには新鮮だった。「当たり前だよ。学ぶ権利は誰にでもある」とホストファーザーは言った。支援が必要な生徒を特別扱いするのではなく「普通扱いするために必要な配慮をする」のだった。英語が不自由な留学生や移民にも同様の配慮があった。できないから無理という引き算ではなく、何を補えばできるかという足し算が働いていた。

バトンパスすら困難を極める運動会での「世界一難しいリレー」は、「びりっかすの神さま」の「クラス対抗全員リレー」を思い出した。

観ている間に、いろんなことを思い出したし、いろんな感情がゆさぶられた。
あたたかな涙とともに、たくさんの気づきをもらえた。

子どもの頃から学校が大好きだったし、両親が教師だし、わたしも教育学部に進んだし、学校で講演や授業をすることもあるし、娘が小学校に通っているし、学校という場所には並々ならぬ関心と愛着があるのだけど、あらためて、「学校」というものについて考えを深める機会になった。

たまは、はらはらと泣いているわたしを不思議そうに見ていた。
観終わった後、劇場を後にしながら「どうだった?」と聞くと、反応は鈍かった。
「あんな学校だったら支援の必要な子も一緒の教室で過ごせるね」と言うと、返ってきた答えは思いがけないものだった。
「わたしは、自分と同じような子がいい」
「同じような子って?」と聞くと、
「自分と同じようにできる子」
たまの通う育成室(学童保育)には要支援の子どもたちも一緒に過ごす。一日のうち2〜3時間。毎日同じ部屋で生活をともにしながら、そんな風に思っていたのか、とショックだった。

待つこと合わせること工夫することからの学びもあると示すのは大人の役割。
もちろん親も含めて。

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