2007年03月30日(金)  生涯「一数学教師」の父イマセン

大阪の高校で数学を教えていた父イマセンは、今日で41年間の教師生活にひと区切りをつけた。工業高校に着任した新米教師の頃は兄貴のような存在だったというが、今では「おじいちゃん先生」と呼ばれている。4年前に60才で定年を迎えたが、最後の赴任校に留まり、講師として教壇に立っていた。父の日記には「いやなことより楽しいことのほうが多かったように思えます」とある。娘のわたしから見ても、父は実に楽しそうに、生き生きと教師をやっていた。教師というのは理想に燃えた人たちであるから、意見や方針の対立でもめたりこじれたりということは多々あったのではと想像するが、父の口から仕事の愚痴や同僚の悪口を聞いた覚えはない。いい意味で欲がなかったのだと思う。こうあらねば、と高い志を追うよりも、今日も楽しく過ごそう、と肩の力を抜いて学校へ向かっているように見えた。

わたし自身は恩師のお子さんに会った記憶は数えるほどしかないが、父の教え子さんにはたくさん会った。うちに来てバーベキューをやったり、体育祭に遊びに行ったり。器械体操を習っていた小学生の頃は、たまたま父が器械体操部の顧問だった時期と重なり、練習に参加させてもらったりもした。幼いわたしにとってまぶしい存在のお兄さんお姉さんに「お父さん、人気あるで」「お父さんの授業、面白いで」などと言われて、おならとダジャレを連発する威厳のない父をうんと見直した。威厳のなさは学校でも同じだったようで、50代になっても60代になっても、「イマセン、かわいい」と言われ続けていた。

教頭や校長になることにはまったく興味を示さず、年下の教頭や校長のことを「あっちが気ぃ遣うて、気の毒や」と愉快そうに言っていた。入った学生寮が学生運動のアジトになっていて、自然と闘争に巻き込まれ、「ネクタイ労働くそくらえ!」な気分のまま就職活動に突入し、教師になったという。そんな父は、「えらくなったら、ちゃんとしたカッコせんなあかんやろ」と言っていた。内心は昇進したい気持ちもあったのだろうか。だけど、一数学教師を貫き、教壇に立ち続けたことは父らしかったと思う。生徒を上から見るのではなく、生徒と同じ目線で接するのが自然な人だった。子どものわたしから見ても、「どっちが子どもなんだか」と思うような無邪気さが父にはある。小学生の頃までメーデーのデモ行進を何度か一緒に歩いたが、「行進の後に何食べよか」を繰り返す父に、子どもみたいだなあと呆れた。でも、組合活動もおまつりにして楽しむおめでたい性格は、うつってしまった。

体操部の後に山岳部の顧問を経た父は、テニス部の顧問になった。部活動の顧問は手当てがほとんど出ないのでサービス残業のようなものだが、テニスが趣味の父は休日も喜んで練習や試合や合宿に出かけていた。夏休み期間中、教師が一緒ならプールで泳いでもいいと言われた女子生徒たちに「イマセン一緒に入って〜」と頼まれ、キャピキャピ水着ギャルに囲まれて水遊びを楽しんでいた(こういうシチュエーションにすんなり溶け込める教師は貴重だと思う)。定年後も名誉顧問の座を与えられ、「俺に買ったらジュースおごったる」と言って勝負を挑んでは、生徒たちに遊んでもらっていた。去年はテニス部のOBたちに誘われ、合宿をやっていた。「日本一楽しいオンライン高校」をめざす父のサイトイマセン高校には、父といくらも年の違わない41年前の教え子から、孫のような現役の教え子までが遊びにくる。生徒以上に学校生活を満喫し、学校を離れても声をかけてくれる生徒がいる。本当に幸せな教師だと思う。教師を父の天職にしてくれた同僚と教え子の皆さんに感謝したい。

父のギャグに二つ先の教室で笑い声が起こり、「今井先生、静かにしてください」と同僚にたしなめられたという逸話を持つ大声も、さすがに少しデジベル数を下げたが、数年前には授業中に前歯が吹き飛んで生徒を仰天させたというから、しゃべる勢いは衰えてないのかもしれない。授業中は白衣を着ていたが、学者風に見せる演出ではなく、筆圧が高すぎてチョークの粉が飛び散ったりチョークが折れたりして、スーツがチョークまみれになるからだった。「子ぎつねヘレン」と板書きし、わたしの作品を宣伝してくれていたらしい。教壇に立つ機会はなくなっても、父をイマセンと慕う教え子たちがいる限り、父は教師であり続ける。41年間おつかれさまでした。そして、これからも、おちゃめなイマセンでいてください。

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