2002年03月30日(土)  映画『シッピング・ニュース』の中の"boring"

大阪から上京し、2泊3日の滞在を楽しんだ父と銀座で会う。娘の家には泊まらずホテルを取り、家に寄ろうともしなかった。気を遣ったというよりは、現実を見るのが怖かったのだろう。父が来るならと片付けかけた手を止めてしまったので、あいかわらずわが家は散らかったままになっている。めったにない父娘デートなので、帝国ホテルの『なだ万』へ。パコダテ人の話やインターネットの話が中心。父のホームページを作ってあげるよと約束する。ネクタイ労働を嫌って教職に就いたのに、なぜか旅先でスーツを着ている父。謎だ。この格好で、昨日は単身ディズニーランドに乗り込み、はしゃいできたらしい。怪しすぎる。

父と別れ、新聞広告を見て気になっていた『シッピング・ニュース』を見る。淡々としたストーリーで強く心を揺さぶられる作品ではなかったが、胸を締め付けられる台詞があった。主人公の新聞記者の妻は、ほとんど家に帰らず、子育ても夫にまかせっきりのひどい母親で、交通事故であっけなく死んでしまう。だが、幼い娘は母親の死を理解できず、「どうして、いなくなっちゃったの?わたしが退屈だから(Because I'm boring)?」と父親に問いかける。自分はつまらない人間だから、置き去りにされるという淋しさと焦りが、痛かった。

boringという言葉に過剰に反応してしまうのには、理由がある。アメリカに留学したばかりの頃、「Masakoと遊んであげなさい」と言うホストマザーに、わたしより8才年下のホストシスターは「ヤダ。だって彼女といてもつまんないんだもん(Because she is boring)」と言った。英語はちんぷんかんぷんだったのに、boringという単語は悲しいほどハッキリと聞き取れて、「ここではわたしはつまらない人間なんだ」と落ち込んだ苦い思い出がある。ちょっとした変化で人間は簡単に傷つくし、傷つくたびに強くなっていくのだと思うが、『シッピング・ニュース』の監督は、そのことをよく知っている人ではないかなという印象を抱いた。「落ちこぼれを優しく包む作品」という劇評があったが、そんな眼差しを持った作品だった。

夜はFMシアター『幸福な部屋』を聴く。30才を過ぎて授かった子を産むまでの夫婦の葛藤と成長の話なので、他人事ではない。ラジオドラマはboringだと集中力が続かなくなるが、ぐいぐい引き込まれる50分だった。

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