2015年03月30日(月)  脚本づくしの4時間!菊島隆三賞授賞式

渋谷ユーロライブにて、選考委員を務めた菊島隆三賞の受賞作品「百円の恋」上映と脚本を書かれた足立紳さんへの贈賞式。

「脚本家が選ぶ脚本賞」ということで、贈賞式もとことん脚本尽くし。佐伯俊道選考委員長の歯に衣着せぬ選評は潔さと懐の深さが感じられて勇ましく、加藤正人さんの熱のこもった贈賞スピーチからは、足立さんへの惚れ込みっぷり、期待っぷりが大いに感じられた。

佐伯さんだったか加藤さんだったかが、月刊シナリオに掲載されていた足立さんのエピソードを紹介。映画の現場で知り合って結婚した奥さんが、いつか自主映画を撮りたいと貯めていた二百万円を「あなたが撮って」と足立さんに託したという。「百円の恋」の次は「二百万円の嫁」という映画をぜひ、と言って会場のあたたかな笑いを誘った。

そういえば、菊島隆三賞も、菊島氏を支えた妻・宮子さんが菊島氏の遺産の一部をシナリオ作家協会に寄贈されて創設されたとか。

「百円の恋」脚本を見出した松田優作賞を主催する山口市の周南映画祭からお祝いに駆けつけた大橋さんのスピーチがこれまた熱かった。

高校時代、いじめられて死ぬほど思い詰めたときに駆け込んだ映画館でかかっていたのが「野獣死すべし」(主演:松田優作 脚本:丸山昇一)。映画に救われた自分が映画で誰かの力になりたい、という思いが直球で胸に届いた。地元出身の松田優作の名を冠した脚本賞を立ち上げ、第一回の募集に寄せられた151本をすべて読み、朝4時に最終選考作品を選考委員に伝えたときには、「百円の恋」が獲ると確信していた。いろんなものへの愛がこみ上げて入り交じって涙があふれる大橋さんを見ていたら、こちらも涙がじわり。

さらに足立さんの受賞スピーチがしみた。大好きな野球にたとえると「百円の恋」の脚本を書いていたとき、自分は6回裏で20点負けているような状況で、一緒にやっていた武正晴監督とプロデューサーはさらに追い込まれて7回裏で20点差つけられていた。「ここから逆転はできなくても、せめて一点返してやりたい」と思っていた。営業がヘタクソで、出来上がった脚本を持って回っても、なかなか相手にされなかったが、いいホンだからぜひ読んでくれと売り込んでくれた人たちがいて、形にできた。そして、20点差で負けている自分のそばで、一人チアガール状態で応援してくれた妻に何よりも感謝したい……。

二十点差の夫と、二百万円の妻。面白い脚本を書く人自身に、ドラマあり。

贈賞式内トークセッションでは、「百円の恋」主演の安藤サクラさん以外、登壇者は全員脚本家。受賞者の足立紳さん、菊島賞選考委員の筒井ともみさん、脚本「百円の恋」を見出した松田優作賞選考委員の丸山昇一さん、そして司会はわたし。

大先輩の丸山さんと筒井さん、脚本家がいま最も口説きたい安藤さんを迎えて、進行がつとまるのやら…と不安を抱えつつも、「脚本家が聞きたいことを聞こう!」と開き直り、いざ本番。
安藤サクラさん登壇の前に、前半は、足立さん、筒井さん、丸山さんで。「百円の恋」脚本の魅力と、映画「百円の恋」が成立するまでのお話をうかがう。

足立さんとは最近何度か会う機会があり、娘さんが生まれた頃、8年ほど前に百円ショップで働いていた経験が作品につながっているとうかがっていた。その部分を掘ってみた。

レジで堂々とスポーツ紙を読んでいる「百円の恋」の野間のようなふざけた勤務態度で、3か月でクビになったという足立さん。20歳くらいの店長に電話で説教されているのを横で聞いていた奥さんに「客いないんだから、いいじゃんね?」と言ったら、「人としてまずまともに生きろ」とガツンと言われた。(さすがは二百万円の嫁!)それで目が覚めて書き溜めたプロットが「百円の恋」や先日放送された「佐知とマユ」(創作テレビドラマ大賞受賞作)の原型になったそう。眠っていた種が昨年から次々と芽を出し、花開いているような印象があるが、「このままではいかん!」という危機感が熱量に変換され、キャラクターに宿ったのかもしれない。

それから何年かして、自分以上に負け越していた武監督と何か一緒にやろうとなり、「好きに書いてみろ」と言われて書いた「百円の恋」。あちこちに売り込んでも良い返事はなく、松田優作賞に応募し、受賞したことで映画化に弾みがついた。

今これだけみんなが「好き!」というホンが、どうしてそっぽを向かれていたのか。時の流れ、時代の流れで、ホンは変わらなくとも風向きが変わっていったのか。もちろん、強力に推す人たちの地道な努力の積み重ねもあったのだろう。そして、書いてすぐに実現していたら、安藤サクラの一子は見られなかったかもしれない。

タイミングも運のうち。「百円の恋」は、出るべきタイミングで世の中に打って出た。

松田優作賞の話になると、丸山さんのエンジンがかかった。話しだしたら止まらない、なおかつ面白い丸山さんが安藤さん登壇の時間を過ぎても話し続け、いつ割って入ろうかと思ったら、ちょうど丸山さんの口から「誰が一子を演じるか次第だ」みたいな発言が出たので、そこに乗っかって安藤さんを招き入れることができた。

一方的に存じ上げている安藤さん、ご本人にお会いしたのは初めてだったけれど、話す言葉も感覚的身体的で、とらえどころがないようで、この人にしかできない表現で、その意味をつかまえようと手を伸ばしたくなる不思議な魅力。どんな役にも染まれる女優の変幻自在な器を見るようだった。

脚本を大切にし、忠実に演じようとする姿がうかがえてうれしくなった。セリフを変えるかどうかではなく、脚本家が脚本に託した思いを敬意を持って受け止めてくれる、そこに感激したのだけど、「てにをはさえも変えないと聞いてうれしくなりました」と言うわたしの拙い司会では、一言一句変えないことを役者に求めているように受け止めてしまった人もいたかもしれない。「(不本意に)変えられるのは脚本が悪いとき」だという丸山さん、「私は変えられたことがない」という筒井さん(そもそも初稿でオッケーを出される方!なのでわたしとはレベルが違う)の言葉を引き出せたのはケガの功名。

「私からも質問していい?」と筒井さんが、ラストについて質問。選考会のときにも「ラストはこうじゃないと思う」と話されていた。すると「あれは2テイク目です」と安藤さん。まずはテストで脚本と違う形を演じてみた。それがあったから脚本の形のラストを演じられた、と。脚本と演じ手のせめぎ合いをうかがえて興味深かった。

脚本家は、キャラクターに持たせられるだけのものを持たせて役者に託す。それをどう受け止め、膨らませるか。脚本家と役者のそれぞれがどんなことを考えているかを聞けるトークも菊島賞ならでは。安藤さんが豊かな手の動きとともに「この不思議な関係」と称されたような記憶がある。夢中のうちに過ぎた一時間、をちょいと超過。あわてて締めて、肝心の足立さんへのお祝いの言葉で締めるのを忘れてしまった。

足立さん、おめでとうございます!

「百円の恋」で一点どころか、だいぶ返せたと思うけど、足立さんにはまだまだ点を返して欲しいし、痛快な場外ホームランをまだまだかっ飛ばしてください。

菊島隆三賞という脚本家の名前を冠した脚本賞は、まさに脚本家自身をたたえるものであると同時に脚本家全体へのエールにもなっている。そうしみじみ思えた授賞式だった。

2010年03月30日(火)  今度会いましょうから「度」が取れた瞬間
2009年03月30日(月)  「シ〜ザ〜」何回?1日3回「つばさ」第1回
2008年03月30日(日)  マタニティオレンジ259 一生ものの友だち、二世代目。
2007年03月30日(金)  生涯「一数学教師」の父イマセン
2004年03月30日(火)  鴻上尚史さんの舞台『ハルシオンデイズ』
2003年03月30日(日)  中国千二百公里的旅 中文編
2002年03月30日(土)  映画『シッピング・ニュース』の中の"boring"


2015年03月24日(火)  観察日記、一日で終了!

娘のたまが小学校でもらってきたブロッコリースプラウトの種。
昨日キッチンペーパーの上にまいた。

たまは、はりきって、観察日記をつけ始めた。



今朝、何を思ったか、「日によく当てよう!」と外に出したわたし。
水を含んでいたキッチンペーパーは、お日様に照らされてぐんぐん乾き……気づいたら、種をのせたキッチンペーパーは風に飛ばされてしまっていた。

「ぐんぐん育つのが楽しみです」と書いてあるのに……。
ごめんよ、たま。
観察日記、一日で終わっちゃった。

ベランダのどこかで発芽するかな。

2010年03月24日(水)   今日のツイッター
2008年03月24日(月)  整骨院のウキちゃん6 ナターシャは白いごはんが大好き編
2007年03月24日(土)  マタニティオレンジ98 たまごグッズコレクション
2002年03月24日(日)  不動産やさんとご近所めぐり


2015年03月20日(金)  アンペア契約って変更できるんだ!

5アンペア生活を実践されている方(東日本大震災をきっかけに節電生活を決意された新聞記者の斎藤 健一郎さん)がラジオで生き生きとしゃべっていて、アンペア契約って変更できるんだーと知った。

10年以上暮らしていた前のマンションでは30アンペア契約だったけれど、今のマンションでは一気に20アンペア上がって50アンペア契約になった。
アンペア数って建物ごとに決まっているんだと勝手に思っていた。

早速東電に電話して「50アンペアを30アンペアに下げたいんですが」と言うと、とくに理由を聞かれず、いきなり基本料金がいくらからいくらになりますと告げられ(1400いくらが800いくらに)、工事の日をサクサク決め、二日後には工事完了。



30アンペアの根拠は、シミュレーションすると、エアコンとレンジと洗濯機とテレビと照明を同時につけても30以内におさまったから。
(こちらでチェックできます>>>わが家のアンペアチェック 東京電力

30アンペア生活をしていた前のマンションと今のマンションとの家電量の大きな違いは、エアコンが一台から三台になったこと。
その三台を同時に使わなければ、30アンペアでも大丈夫だと判断した。

工事費は無料だけど「契約は一年以上でお願いします。季節によって上げたり下げたりはできません」と言われたので、30アンペアに下げたもののやっぱり元に戻したい、となったときには有料になるのかもしれない。
変更するときは、事前にシミュレーションを。

ちなみに冷房よりも暖房が電気を食うことを学んだ。
熱出し系はエネルギーを使う。
乾燥機やレンジはもちろん、アイロンやドライヤーも小さいくせにアンペアイーター。
わが家はドライヤーも炊飯器も使わないし、アイロンもめったに使わないので、20アンペアでも行けるかなという気もするけど、ブレーカーが落ちるのを心配してストレスをためては、余計なエネルギーを使ってしまう。

電力のダイエットも楽しめる範囲で息長く続けるのが良さそう。

2010年03月20日(土)  リサとガスパール&ペネロペ展(松屋銀座にて29日まで)
2008年03月20日(木)  「冷や奴」のない豆腐屋さん
2007年03月20日(火)  マタニティオレンジ95 満を持して『はらぺこあおむし』
2004年03月20日(土)  アドフェスト3日目
2002年03月20日(水)  はなおとめの会


2015年02月23日(月)  何も知らなかった…舞鶴引揚記念館の衝撃

日星高校への講演を終え、一夜明けた土曜日、前夜牡蠣シャワーを降らせてくれた竹内万里子教頭先生と去年の講演とワークショップのときの窓口だった佐藤絵理先生に舞鶴を案内していただいた。

三度目にして初めての訪問となる舞鶴引揚記念館は、リニューアル工事中のため赤れんがパークで展示中。展示物はかなり絞られていると思われるが、ボランティアガイドの方にじっくりお話をうかがいながら、2時間かけて見せていただいた。

「マイナス20度で、バナナで釘が打てます。それよりも寒いなかで労働を強いられたんです」
肉声の説明からはパネルの説明を読むだけでは伝わらない熱(熱さだけでなく冷たさも)が伝わってくる。怒りも、やるせなさも、語り継がねばならないという使命感も、声にのせられて、こちらにずしんと響く。

戦後13年間に66万4531人の引揚者と1万6269柱の遺骨を受け入れた舞鶴。日本全国での引揚者は600万人を超え、大陸からソ連に送られシベリアなどで抑留を強いられた日本人が約47万2千人いたという。

把握できた数字がこれであって、実際には、さらに多かったかもしれない。

日本の歴史始まって以来の民族大移動と呼べるような出来事。捕虜といいつつ奴隷のように扱われた抑留生活。これらのことをわたしは歴史の授業で習ったのに記憶から抜け落ちているのだろうか。それとも習っていないのだろうか。初めて見聞きするような事実の連続で、知らなさすぎた歴史に愕然となった。

抑留兵が日本の家族にあてた手紙の改行が不自然だなと思ったら、原文は「監視するソ連側が検閲できるように」とカタカナで書かれていた。検閲されるから愚痴も弱音もこぼせない。「すぐに返事をください」と綴られてはいるが、「日本に着くのに一年半かかったそうです」とガイドさん。返事が来るまでの毎日がどれほど長かったことか。果たしてこのハガキの送り主は返事を受け取れたのだろうか。そして祖国の土を踏めたのだろうか。

何十万という数字の一人一人にもう一度会いたい家族がいて、日本に帰ってかなえたい夢があった。「もう一度」が「もう二度と」になってしまった人がどれだけいただろう。苦役の後に日本に帰れた人たちも、人生の貴重な何年かを奪われてしまった。ミサイルや銃を放ち合うだけが戦争の恐ろしさ愚かさではない。一人一人の時間や愛するものを奪い、才能を埋もれさせ、尊厳を踏みにじる、それもまた戦争の残酷さなのだと重いため息をついた。

「舞鶴への生還 1945−1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」は「東寺百合文書」と並んで2015年のユネスコの世界記憶遺産候補として日本から推薦されている。世界記憶遺産にはベートーベンの「交響曲第9番」の自筆楽譜やアンネの日記などがあり、日本からは山本作兵衛炭鉱記録画、御堂関白記、慶長遣欧使節関係資料がある。舞鶴への引き揚げ記録が世界記録として刻まれることで、引揚の歴史全体にも光が当たることに期待したい。

シベリア抑留の壮絶さと並んで、引揚の過酷さにも胸を衝かれた。やっと祖国へ帰れると思っても、引揚船に乗り込む前に、引揚船が日本に着く前に、命を落とした人が少なからずいた。船の中で息絶えた幼い少女に、乗り合わせた女性が持っていた口紅を塗ってあげた話が印象に残った。少女はおしゃれも恋も覚える前に短い命を閉じた。口紅を差し出した女性は、その後、おしゃれを楽しめただろうか。平和というのは、口紅を引いて、食事や買い物やデートに出かける自由があることで、それを奪うのも戦争なのだ。

何度も足を止め、目を留め、息をのむ瞬間があり、そのなかで思わず書き留めたのが「引揚者を迎えるに際して」と題した市民向けの回覧文だった。



《敗戦後厳寒のシベリヤで四星霜「倒れちゃならない祖国の土に辿りつくまでその日まで」と悲痛な想を胸に祖国を案じ懐しの父母妻子兄弟を想って凡ゆる苦難に堪へて帰って来られる同胞を心から温かく迎へませう》と始まるその文書は、「四星霜」とあるように、引揚が始まって四年が経とうとしている昭和24年6月23日付で当時の舞鶴市長・柳田秀一氏が発信したもの。

市も財政は苦しいができる限りのことをしたいとし、同胞を温かく迎える事はお茶の接待や打上花火ではなく、心が伝わらなくてはならない、と文書は続く。そして、引揚者を見かけたら《海上であつても道路上であつても或は田畑で耕作をして居られる時でも手を振りハンカチを振り帽子を振って頂く事が一番同胞を喜ばせることであります》と説く。

《殊に引揚は第一船のみで終るものではありませんから第一船は華々しく迎へたが後になるほど寂しくなる様では意義がありません》とあるのは、昭和20年10月の第一船入港時の熱がさめ、市民に迎え疲れが出た頃だったのかもしれない。

この回覧が出された翌昭和25年、舞鶴は全国で唯一の引揚港となった。それから昭和33年9月7日の最終船まで足掛け13年、手を振りハンカチを振り帽子を振り続けた人が舞鶴にはいた。祖国への想いを募らせた人たちにとって、どれだけ心強いお帰りなさいだったことか。

一昨年から三年続けて舞鶴を訪ね、そのたびに「よく来てくれました」と温かく心地よく迎えられ、また舞鶴に来たいと思いながら東京に戻るのだけど、今日引揚記念館を見て、舞鶴の人たちには外の人を迎え入れることに、いい意味で抵抗がなく自然にふるまえるのかもしれないと思った。

竹内教頭先生と佐藤先生に自衛隊の護衛艦まで案内していただき(三艘分の距離を往復する間にじりじりと日焼けしそうな距離があった)、その後、再び赤レンガ倉庫に戻ってJAZZというお店で肉じゃが丼をいただいた。舞鶴は肉じゃが発症の地でもあるらしい。

お二人と別れ、舞鶴に来るたびに訪ねている喫茶ゆめさらに着くと、店主米澤典子さんのお友達で前回舞鶴を案内してくださった田丸のおじさま83歳がお待ちかね。「あんたこれ好きやろ」とおみやげにクリームあんみつを持ち込んでくださっていた。引き揚げ記念館のことを話すと、「市長やっ柳田さんは、もともと開業医やったんや」と教えてくださった。田丸さんのお父様も診てもらったことがあるとか。お医者様ゆえだろうか、あれだけ血が通った公文書はなかなかお目にかかれない。「社会党の国会対策委員長を務めはった名士やで」とのことらしい。

田丸さんも寄稿した舞鶴の戦争体験集を読ませていただいた。終戦当時13歳で国鉄に就職した田丸さんは、戦争で勉強できなかったことが何より悔しく、国鉄の昇進試験に手を焼いたという。思う存分勉強ができて、会いたい人に会えて、あんみつも食べられる平和をかみしめた。

帰りの新幹線では舞鶴引揚記念館の図録「母なる港 舞鶴」を広げ、戦争が奪ったたくさんの人々の取り返しのつかないものに想いを馳せて、東京に戻った。

2011年02月23日(水)  「まめさんテレビ」でustreamデビュー(遠い3週間前)
2010年02月23日(火)  ドラキュラとブランコ大好き、たま3歳6か月。
2009年02月23日(月)  第81回アカデミー賞わが家の反応
2008年02月23日(土)  マタニティオレンジ238 たま1歳半 ママ1歳半
2007年02月23日(金)  シュークリーム・ランキング
2006年02月23日(木)  金メダ○
2005年02月23日(水)  飛騨牛パワー合同誕生会
2002年02月23日(土)  連想ゲーム


2015年02月22日(日)  小2の娘と観た映画「みんなの学校」

予告で心惹かれたドキュメンタリー映画「みんなの学校」が昨日公開。
たま(小学2年生)にチラシを見せたら乗り気だったので、早いうちにと今日観に行った。

たまのまわりにも支援の必要な子はいる。映画を分かち合って、「みんなの学校ってどういうことかな」と話ができればと思った。

渋谷ユーロスペースでは子ども料金500円だった。
わたしは劇場で授業参観。たまは500円の課外授業。

他の小学校に通えなくなって、大空小学校に転校してきた男の子のお母さんの言葉が、印象に残った。
学校から帰って、鉛筆が減っているのがうれしい、と。

そうか、学校で学ぶというのは、ぴんぴんに削った鉛筆が丸くなることなんだ。

鉛筆が減る。クレヨンが減る。上履きが汚れる。
そんな当たり前のことをどんな子にも当たり前にする大空小学校は、大阪の普通の公立小学校。

全校生徒220人中30人が要支援児。かなり高い割合。ひとクラスに1、2人どころじゃない。でも、特別支援学級はなく、同じ教室で授業を受ける。興味深いのは、そのことが児童にとって「当たり前」になっていること。だからなのか、カメラが回っている前でも実に自然にふるまう児童たち。多様な他者をしなやかに受け止めるチカラが知らず知らず備わっている。これってすごいことだ。

学校で起きたすべてのことを体当たりで受け止め、どうしたらいいかを全力で考え、行動で示す木村泰子校長がすばらしい。この校長先生あっての大空小学校ではあるけれど、「みんなの学校」は一人では作れない。教師、児童、保護者、地域住人、学校に関わる一人一人によって実現する。その一人一人を動かす強力なリーダーシップが木村校長にはある。覚悟とユーモアを持ち合わせ、大変な局面でも口角が上がっていて、選ぶ言葉には相手への思いやりがある。それが最初から完成されていたのかといえば、そうではなく、「この子がおらんかったら、ええ学校になれたのに」という本音から出発し、試行錯誤の毎日の末に今の大空小学校にたどり着いたことがわかる。

「最初から宝石は落ちていない。石ころを磨いて光らせるのはあなた次第」だと一昨日の舞鶴・日星高校でもお話ししたが、みんなの学校という宝石もまた最初から落ちていない。困った石ころを、磨けば光ると信じて磨き続けた結果なのだと思う。「すべての子に居場所がある学校」は、一人の情熱ある教師によってのみ作られるわけではなく、一人の問題児によって壊されるわけでもない。みんなと一緒に学ぶことが難しい子をのけ者にする前に、できることがあるのではないか。

思い出したのは、「inclusive」を日本語に訳した勉強会のこと。日記を掘り返したら、障害者権利条約の日本の批准が遅れてるから自分たちで訳そうという勉強会だった。
2007年05月14日(月) 遠山真学塾で『障害者権利条約』勉強会

2007年5月14日のこと。日本が批准したのはそれから6年半後の2014年。国連加盟国の中でもびりっかすのほうだった。(手話講座では142番目と習った。140番目という説もあり、批准と発効の間で順位が入れ替わったのかも)

もうひとつ思い出したのは、アメリカの高校に留学したときの光景。学習レベルにかなり差のある生徒が一緒に学び、支援が必要な生徒にはお手伝いが付き添っていた。先生以外の大人がいる教室は当時のわたしには新鮮だった。「当たり前だよ。学ぶ権利は誰にでもある」とホストファーザーは言った。支援が必要な生徒を特別扱いするのではなく「普通扱いするために必要な配慮をする」のだった。英語が不自由な留学生や移民にも同様の配慮があった。できないから無理という引き算ではなく、何を補えばできるかという足し算が働いていた。

バトンパスすら困難を極める運動会での「世界一難しいリレー」は、「びりっかすの神さま」の「クラス対抗全員リレー」を思い出した。

観ている間に、いろんなことを思い出したし、いろんな感情がゆさぶられた。
あたたかな涙とともに、たくさんの気づきをもらえた。

子どもの頃から学校が大好きだったし、両親が教師だし、わたしも教育学部に進んだし、学校で講演や授業をすることもあるし、娘が小学校に通っているし、学校という場所には並々ならぬ関心と愛着があるのだけど、あらためて、「学校」というものについて考えを深める機会になった。

たまは、はらはらと泣いているわたしを不思議そうに見ていた。
観終わった後、劇場を後にしながら「どうだった?」と聞くと、反応は鈍かった。
「あんな学校だったら支援の必要な子も一緒の教室で過ごせるね」と言うと、返ってきた答えは思いがけないものだった。
「わたしは、自分と同じような子がいい」
「同じような子って?」と聞くと、
「自分と同じようにできる子」
たまの通う育成室(学童保育)には要支援の子どもたちも一緒に過ごす。一日のうち2〜3時間。毎日同じ部屋で生活をともにしながら、そんな風に思っていたのか、とショックだった。

待つこと合わせること工夫することからの学びもあると示すのは大人の役割。
もちろん親も含めて。

2014年02月22日(土)  「スカイプランター」で楽しい下向き
2013年02月22日(金)  懐の大きな「ケークサレ」
2012年02月22日(水)  色とおしゃれに目覚める、たま5歳6か月。
2011年02月22日(火)  広告は遠くなりにけり
2010年02月22日(月)  シナリオ倶楽部で『パコダテ人』上映会
2009年02月22日(日)  なりきり芝居で女優開眼!?たま2歳6か月
2008年02月22日(金)  アンチエイジングディナーで合同誕生会
2007年02月22日(木)  マタニティオレンジ81 母になっても女心はある
2006年02月22日(水)  史実の63年後に観る映画『白バラの祈り』
2002年02月22日(金)  生みっぱなしじゃなくて


2015年02月21日(土)  引揚の町、再会の町、舞鶴。

昨日の舞鶴・日星高校での講演と生徒向けワークショップと先生方向けワークショップは、昨秋に同校のオープンスクール(オープンキャンパスの高校版。中学生が見学に来ます)によんでいただいて講演とワークショップをした際に竹内万里子教頭が「次は在校生に聞かせてください! 冬どうです? 牡蠣シャワー降らせますから!」と魅惑的なお誘いをくださり、その後もお電話やメールで口説いてくださり、実現。

昨夜は竹内教頭自ら腕をふるい、蒸し牡蠣、オイル(自家製オイスターソース入り!)漬け牡蠣、酒蒸しの紅葉おろし自家製ポン酢と自家製柚子胡椒がけ、手作り牡蠣おにぎり、土手鍋とこれでもかの牡蠣づくしで、一年分食したのではというほどの牡蠣シャワーを浴びさせていただきました。

何日も前から準備し(オイスターソースの牡蠣、オイルに数日漬ける牡蠣、朝とれたばかりの蒸し牡蠣と、牡蠣を仕入れる時期も三段階)貸し会場に食器やコンロを運び込み、お酒の好みもあらかじめ聞いて「赤の泡とシードル」とお答えしたら、ボーリングのピンのごとくドドーンと泡ボトルがお待ちかね。選ぶ楽しみまで用意してくれていたのでした。

 

……といういい思いを自慢をしたいのではなく、歓迎をあらわすというのはこういうことなんだなと心底圧倒され、自分が誰かをもてなしたいときは今宵の晩餐を思い出そうと心に刻んだのでした。

今日は舞鶴引揚記念館を訪ね、昭和20年に始まった大陸やシベリアからの引揚船の受け入れを、舞鶴は25年以降は唯一の港として33年まで13年続け、66万人あまりの引揚者を迎えたことを知りました。外の人を「よく来たね」と迎え入れる温かな懐は、この歴史とも関係があるのかもしれません。
(引揚記念館については、書きたいことがありすぎるので日をあらためて)

前回の舞鶴訪問の際に観光案内をしてくださった元気すぎる元国鉄マン、田丸さん83歳とも再会。場所は、三度目の「ゆめさら」さんにて。田丸さんを紹介してくださった米澤典子さんのお店。「戦争で勉強ができなかった」ことを悔やんでいる田丸さん。終戦時、13歳で国鉄に就職したものの昇進試験で苦労されたそう。平和な世の中になって、共通の趣味である甘いものを味わいながら他愛のないおしゃべりができる幸せをかみしめました。

一昨年から三年続けての舞鶴。そのたびに出会いがあり、再会があり、好きな人好きな場所がふえていく。引揚の町は再会の町でもあり、早くも次回の再会を楽しみにしながら舞鶴を後にしたのでした。


2014年02月21日(金)  「阪堺電車」脚本、読みやすくなりました。
2013年02月21日(木)  名前のないパーティー ちょっと遅めの新年会
2012年02月21日(火)  電車に乗ったつもりで花を買う
2011年02月21日(月)  ママに甘えたい病に効く甘いもの
2010年02月21日(日)  何文字で「々」を出せるか
2009年02月21日(土)  電話でタイムスリップ
2008年02月21日(木)  バレンタイン月間&確定申告週間
2007年02月21日(水)  三島由紀夫レター教室
2006年02月21日(火)  何かとツボにはまった映画『燃ゆるとき』
2005年02月21日(月)  『逃亡者の掟』(人見安雄)
2002年02月21日(木)  映画祭


2015年02月20日(金)  つなげる・つながる三連発@舞鶴・日星高校

いつかいつかと言っているうちは実現しない。
先延ばしの呪いを解く方法は、「いつか」の「か」を後ろにずらすこと。
「いつか舞鶴講演をやりましょう」と数年言い続けた後に、
「いつ舞鶴講演をやりましょうか」と具体的に相談を始めて、2013年の秋に地元舞鶴の有志の方々がアイデアとてまひまを持ち寄った手作りの「いまいまさこカフェ in舞鶴」が実現した。

そこに聞きにいらしていた西舞鶴にある日星高校の水嶋純作校長が「次は、ぜひうちの学校で話してください」と言ってくださり、昨年秋のオープンスクール(オープンキャンパスの高校版)に呼んでいただいて、日星高校に興味を持つ中学生のみなさんを中心に講演とワークショップに参加していただいた。

このとき初めてお会いした竹内万里子教頭(教頭先生は男性と女性お一人ずつ)が「次は、うちの生徒向けに話してください。牡蠣シャワー降らせますから」と口説いてくださった。
その場の勢いの口約束ではなく、その後も熱心にご連絡くださり、年末には手作りのぽん酢やロースハムを贈ってくださり、胃袋まで勧誘していただいて、3年連続の舞鶴講演が実現することになった。

今回は、在校生向けに講演とワークショップ、先生向けにもワークショップという3コマ連続で。

講演では、高校1、2年生を前に「脚本家はつなげるのが仕事」で「今の仕事が次の仕事につながる」ことを作品とともに紹介。脚本作りは接点探しから始まる。講演もまた同じ。「かつて高校生だったわたし、と、いつか大人になるあなたたち」という接点を意識してお話しした。

終始熱心に聞き入る子。興味のある話とない話で背中の角度が変わる子。うとうとしている子。反応はさまざま。45分の講演の中から、たったひとつでもこれからにつながる何かを持ち帰ってもらえたら、と願うばかり。

続いてのワークショップは1年1組と2組の子たちが教室から机と椅子を持ち込んで。講堂に教室が引っ越ししたような面白い眺め。「鳥獣戯画からドラマを作ろう」と題して、「(カエルは)なんで倒れてる?」「(サルは)なんで走ってる?」というハテナを投げかけることで想像をめぐらせてもらうグループワーク。昨年秋に堺市立新浅香山小学校で行ったワークショップと内容は同じ。わたしの小学二年生の娘が考えたストーリーを先に紹介して、「小学生より面白いこと考えてね」と発奮をうながしてみた。

小学生のときは「サルがカエルをいじめて逃げた」と考えたグループが多かったのだけど、高校生では「サルが盗みを働いて逃げた」と考えたグループが続々。でも、その盗みの内容はそれぞれ違うし、カエルが倒れたのも「仲間割れ」だったり「バク転で失敗した」だったり。

逃げているサルに「ジョニー」と名前をつけた男の子がいて、彼の妄想のぶっ飛び具合は、抜群だった。「場所は大阪っぽい砂漠」という表現からして、そそられる。「大阪っぽい砂漠ってどういう感じ?」と質問すると「たこ焼き型のピラミッドがある」と即答した瞬発力もさすが。そんな世界を駆け抜けるジョニーが盗んだものは「たらこ」。普段の授業では先生方も気づいていないかもしれないカラフルでカーニバル脳内宇宙を垣間見られた。



続いては、同じワークショップを先生方向けに。トランプを引いて4人一組の7グループに。

学校の先生の発想の豊かさとノリの良さには前々から感心していたけれど、日星高校の先生方ものっけからノリノリで面白がって取り組んでくださった。

「カエルはなんで倒れてる?」と問えば、「デッドボールを受けた」「原発事故から避難中に転倒した」「貴重なヘソをもぎ取られた」「運動会で第四コーナーを回りきれなかった」「万能な黄金の苗を手に入れたのに猿に奪われ絶望している」「うさぎ引っ越しセンターの引越し中に脳梗塞で倒れた」「仲間外れの猿が人気者のカエルに嫉妬して、カエルのぶら下がっている枝を追った」「酒を飲まされて二日酔い。飲ませた兎が猿に濡れ衣を着せようとしている」と7グループ7色、虹色の個性が光る「!」が返ってきた。

それぞれの発想から台詞を膨らませた実演発表も、ぶっつけ本番とは思えない完成度。なにせ毎日生徒を前に舞台に立っているわけなので、学校の先生の舞台度胸というのは大したもので、発表慣れしているし、声も大きいし、そこらの役者のワークショップよりも役者がそろっている。先生方の熱演を生徒に見せたら、「同じお題でこんなにいろんなお話が作れるのか、ここまで飛べるのか」と驚いてもらえるのではないだろうか。

日頃の教員研修とは趣の異なるワークショップで先生方も普段使わない脳の筋トレができた様子。大切なのは、この体験をどう次につなげるか。「投げる『?』を工夫すれば、面白い『!』が返ってくるかもしれない」という発見を、生徒達との関わりにどう活かしていくか。

質疑応答では「グループの中で意見が分かれたとき、どうまとめるのか」という質問があった。異なる意見のぶつかりあいが化学変化を起こすことで、石ころは磨かれ宝石になるのだけど、交通整理がうまくいかないと衝突、分裂で終わってしまう。慣れるまでは先生が進行役をつとめてクラス全体でアイデア出しをするか、グループごとに先生がつく必要があるかもしれない。大事なのは、自分と違う意見を否定しないこと、自分の意見を押しつけないこと、異なる意見からの新発見を楽しむこと。

アイデアを上手に「拾う」「つなぐ」ことができるチカラは、自分と異なる人と互いを尊重しながら渡り合うチカラになる。「石ころだからつまらない」のではなく「どこをどう磨けば光るだろう」と考えるだけで、宝の持ち腐れは宝の山に変わり得る。アイデアも、人も、クラスも、学校も。そのことを実践で試すことができるのは現場にいる先生達。今日のワークショップの石ころがこれからの学校生活のさまざまな場面で磨かれますように。

2013年02月20日(水)  片道何時間もかけて学びに来る人
2011年02月20日(日)  4月からはカレとはなればなれ
2010年02月20日(土)  朝ドラ「つばさ」ファンサイトと#tamaki283
2008年02月20日(水)  整骨院のウキちゃん4 「ティ」ってどうやって打つの?編
2007年02月20日(火)  ヘレン絵本四刷できました
2004年02月20日(金)  いい履歴書の書き方
2002年02月20日(水)  別世界


2015年02月17日(火)  誕生日、一週間違いでした。

朝ドラ「てっぱん」でご一緒した脚本家の関えり香さんが、わたしの誕生日にお祝いメッセージを寄せてくれ、ひさしぶりに会いましょうということに。

「お誕生日プレゼントです」と木箱に入った蜂蜜を差し出してから、
「わたしも誕生日だったんですよー」。

今井が2月9日で、その一週間後の16日が関さん。
「覚えやすいねー」と言ってから「前にもこの話をしたような」。
誕生日を祝うのも祝われるのも好き!
なのに、人の誕生日をなかなか覚えられないわたし。
備忘録も兼ねて書き留めておきましょう。



水瓶座同士で、お酒好きおしゃべり好き同士で、時々会って尽きない話をするのが楽しくて、お互いの苦労話を一緒に笑い飛ばせる人。

関さんが脚本を書いた瀧本美織ちゃん主演ドラマ「フラガールと犬のチョコ」は、3月11日よる9時テレビ東京で放送。あかりからすっかりオトナになった美織ちゃんを観るのも楽しみ!


2013年02月17日(日)  春を待ちわびる気持ち
2011年02月17日(木)  押忍!della collina
2010年02月17日(水)  「人生で今がいちばん楽しい」と言う人
2009年02月17日(火)  桜えび×すりおろし野菜のやきやき料理
2008年02月17日(日)  東京マラソン2008当日
2007年02月17日(土)  マタニティオレンジ80 はじめての風邪
2006年02月17日(金)  学生新聞「キャンパス・スコープ(campus scope)」取材
2005年02月17日(木)  魔女田さんの新作『平成職人の挑戦』
2004年02月17日(火)  オーマイフィッシュ!


2015年01月19日(月)  【たま語】ママはやくおおさかにかえってよ

お風呂から上がった娘のたまが、テレビの前でじっとうずくまっていた。
どうしたの?と声をかけると、突然、こわい顔して、
「ママはやくおおさかにかえってよ!」
と言いだした。

え? 何? と面食らっているわたしに、
「どうしてかぞくをすててとうきょうにきたの?」
と泣きそうな顔で言い募る。

ひとまず落ち着かせて、一体どうしてそんなこと言うのと聞いたら、
「ママはおおさかにいるときのほうがわらってる」と言う。

「わたしのことはいいから、ママひとりでかえってよ」
と一人で感情をたかぶらせているので、
こっちはついていけなくて、
わたし何かやらかしちゃったっけとオロオロしていたら、
うずくまっていたたまの足下に、わたしの出身大学の応援団の団誌があった。
年に一回送られて来る現役の活動報告誌みたいなものだ。
それを見て、たまの中で「ママのふるさと→大阪→ママはかえりたい」と連想ゲームが始まり、「いつかわたしをすてていなくなっちゃうくらいなら、いっそ今いなくなってほしい」となって感情が爆発してしまったらしい。

小学2年生の思考回路もなかなかフクザツだ。
いや、たまがややこしいのか。
ときどきこんな風になっちゃうたま。
感情のほとばしりに整理が追いつかない。
自分でも自分を持て余しているんだろうな。
「大丈夫。ママは今幸せだし、大阪に帰りたいなんて思ってないよ。大阪にいるときも笑っているけど、東京にいるときも笑ってるでしょ」と言い聞かせると、ようやく落ち着いた。

あなたのそばが、ママのいる場所なんだからね。

2011年01月19日(水)  鯛夢出鳴門円也=Time is priceless?
2010年01月19日(火)  何をしていたのかよくわからない日
2008年01月19日(土)  2〜4週間で効く薬
2007年01月19日(金)  夕刊フジ「ギョーカイ有名高校人脈」
2006年01月19日(木)  ミヒャエル・ゾーヴァ(Michael Sowa)の世界


2014年11月18日(火)  「びりっかすの神さま」収録

「アクアリウムの夜」以来のNHK-FM青春アドベンチャーを書きました。

大阪の小学校で長らく図工の先生をされていた児童文学作家の岡田淳さんのロングセラー「びりっかすの神さま」を全5回で。



小学二年生の娘は、本の表紙を見て、「あ、学校の図書室にある!」と反応。図書室でも図書館でも熱く支持され、読書感想文で取り上げられることも多いようですが、現役小学生はもちろんのこと、かつて小学生だった大人たちにもずしりと響くメッセージを投げかけてくれます。

「なんのためにがんばるのか」という普遍的なテーマを、光の当て方を変えながら訴えかけるストーリーは、ページをめくる手がどんどん加速。人生のできるだけ早いうちに出会っておきたい一冊。

舞台は小学校の四年一組。

「不思議屋旅行代理店」(「エンゲルハンス島の謎」「過去に架ける虹」)でご一緒した演出の吉田努さんからお話をいただいたのが、ちょうど堺市の新浅香山小学校へ授業をしに行く頃。このタイミングもご縁でしょうか。

出演は、びりっかすの神さま役にオフロスキーの小林顕作さん、びりっかすの神さまが最初に見える転校生の木下始役に田村睦心さん。マグネティックな声の方々がセリフにいのちを吹き込んでくださいます。

こないだの日曜日の顔合わせ、本読み。
二次元の物語が三次元に立ち上る瞬間に立ち会えたようで、ワクワク、ゾクゾクしました。


そして、今日は収録。
台本の1ページ目から順録りで。
どんどん物語ができあがっていくさまに、やはりワクワク、ゾクゾク。
NHKオーディオドラマのサウンドデザインにも、いつもながら、ほう、となり。

これに効果音をつけて、音楽をつけて。
ドラマを完成させるのは、聴いてくださるみなさまの想像力。
12/15(月)-19(金) 22:45-23:00 ぜひ。
NHK-FMを受信できなくても、パソコン・スマホがあれば、ネットラジオ「らじるらじる」でも聴けます。

【出演者】
田村睦心 小林顕作 ザンヨウコ 中嶌聡 良田麻美 
久野美咲 渡辺明乃 薬丸夏子 川澄綾子
【原作】岡田淳
【脚色】今井雅子
【スタッフ】
演出:吉田努
技術:坂野伊和男
音響効果:畑奈穂子
選曲:黒田賢一
>>>青春アドベンチャー放送予定

ところで、小林顕作さんは、「小平市観光まちづくり大使」。
名刺を配られていたので、わたしも「実は……」と堺親善大使名刺を配らせていただきました。
小平市はブルーベリーの産地なのだそう。
「名刺、ドサッと送られてきませんか?」と聞いたら
「ぼく、もう500枚配りましたよ」。
なんと働き者の大使!
わたしもしっかり配らねば。

2011年11月18日(金)  年賀状の文面を考えて「顧」
2010年11月18日(木)  朋あり遠方より来る。パンを携えて。
2009年11月18日(水)  「黙らせろ」と言われても
2006年11月18日(土)  アーロンバシャ(Aaron Basha)のBaby Shoes

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