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2015年12月31日(木)
『DENKI GROOVE THE MOVIE? ―石野卓球とピエール瀧』+2015年いろいろ十傑やらなんやら

『DENKI GROOVE THE MOVIE? ―石野卓球とピエール瀧』@バルト9 シアター8

わあああ〜そ、走馬灯。うえーん。電気グルーヴが映画になりましたよ! このふたりには、大げさじゃなく同時代を生き、音楽シーンの変遷(あるいは彼らが起こした変革)を見せて+聴かせてもらってる、と言う実感があります。アルバムもインディーデビューからリアルタイムで聴いているし……静岡産の狂人がひたすら音楽に向かう、唯一無二である「電気グルーヴ」の25年を追うドキュメンタリー。

構成は丁寧で、痒いところに手が届く。昨年のフジ、グリーンステージでのライヴを基点に、初ライヴ等の過去の貴重な映像(初公開のものも多い!)、関係者のインタヴューが挿入される。バイオグラフィとディスコグラフィが非常によく整理されている。

細かいところを言うと、卓球が指摘していたとおり『FLASH PAPA MENTHOL』がなかったことのようになっているし、卓球に重要な影響を与えたラブパレードやその周辺のシーン、そして田中フミヤのことにも触れてほしかった。しかしそんなことを言い出せばキリがないし、大根監督が言うとおり「映画という形には出来ない」。劇場公開される映画としてのバランスは、これがベストだったのだと思います。KAGAMIくんのことにもちゃんと触れてくれていたしね。ひとつ気になったのは、CMJKの脱退会見って全裸だったっけ? 全裸で出ようとしたら怒られて、半透明のプラスチックのコップに入れて(何を…とか訊くな)出たんじゃなかったっけ? それとも会見は全裸で、そのあとコップに入れて写真撮影したんだっけ? と言う……こんなことを年の瀬に(と言うかもはや年をまたいで)延々考えてしまうとは。つらい。ちゃんと憶えてるひといたら教えてくれー。

と言うように(?)彼らはいつもシリアスな局面を昇華する。昇華は見返す、とも言い換えられる。そして笑い飛ばす。

『662 BPM BY DG』は過激で辛辣なラップ、サンプリング、レイヴミュージック。どす黒いユーモア。しかしメロディアス。卓球の声の魅力。面白がる、と言うにはあまりにも聴き逃せない音だらけ。そして『VITAMIN』の確変、あの衝撃は忘れられない。『A』迄の紆余曲折は今でも強烈な出来事として憶えているし、そのことが語られた卓球のインタヴューが載った(映画本編でも「あの卓球が泣き出したので驚いた」とインタヴュアーの山崎洋一郎が語っている)JAPANは未だに手放せない。そして『VOXXX』以降の活動ペース。レコード会社に所属しているからこそ出さなければならない結果と、自分たちのやりたいこと、他の誰もやっていないこと。メジャーシーンでここ迄来るには、数えきれない程の格闘を経て、彼らが通したスジがある。それをこの映画は茶化さず見せている。卓球と瀧の、他の誰にも入れない関係性がしっかり記録されているところにも好感を持った。ゲラゲラ笑い乍ら、胸がいっぱいになる映画だった。それは電気のアルバムやライヴで感じることを思い出させてくれる。音と光をひたすら追う。笑い乍ら涙が出る。手を挙げる。朝の気配を感じているのに、時間の感覚がなくなっていく。音楽に溺れ続けていたいと思う瞬間。

フライヤーやパンフに載っていた、BOOM BOOM SATELLITES中野くんのコメントがしみた。「続ける事って尊い」「勇気を貰いました」。ブンブンの現状を思うと、この言葉の重みを考えられずにはいられない。

余談だが今手元に残っているJAPANは三冊なんだけど、あとの二冊は川辺ヒロシの「16歳(twitterに14歳て書いたけど読みなおしたら16歳だった)の俺が『The Flowers of Romance』のレコードを持って訪ねてくる。そいつがスネないような音を作る」ってインタヴューが載ってる(これもインタヴュアー山崎さんだわ)号と、杉本恭一のベストショット(自分的に)が載っている号です。

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後日こちらに2015年の十傑やら五傑やらもアップします。

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と言う訳で2015年いろいろ十傑やらなんやら。観た順。ベストワンには★印。旧作が含まれていたり同じバンドが何度も出て来たりベストワンなのに★が複数あったりしますが、まあそれはそれで。

■映画
 『王の涙』
 『薄氷の殺人』
 『NICK CAVE 20,000 DAYS ON EARTH』
 『母なる証明』
 『インヒアレント・ヴァイス』
 『野火』
『海街diary』
 『犬どろぼう完全計画』
 『無頼漢』
 『DENKI GROOVE THE MOVIE?』

■ライヴ
BOOM BOOM SATELLITES
 BOOM BOOM SATELLITES
 菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール
 dCprG
 BOOM BOOM SATELLITES
FOO FIGHTERS
 MANIC STREET PREACHERS
 F・F・S
 mouse on the keys
 高橋徹也

■演劇
『いやおうなしに』
 『リチャード二世』
 『地獄のオルフェウス』
 『三人吉三』
 『阿弖流為』
 『気づかいルーシー』
 『地獄谷温泉 無明ノ宿』
 『グッドバイ』
 『ブルーシート』
 『ライン(国境)の向こう』

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その他あれこれ。

・DVD
『ふたたび SWING ME AGAIN』
数年遅れだけど観ることが出来てよかった

・展覧会
『前に下がる 下を仰ぐ』
展示空間含め、足を運んでこそと言うものが観られた

・全体としては歪な印象があれど、それを凌駕する程持ってかれた要素があった舞台、三本
『東海道四谷怪談』の劇場空間をまるごと呑み込むようなホラー描写
『ワンピース』第二幕の祝祭空間
『杏仁豆腐のココロ』の、作家(演出家)と出演者が重ねてきた年月

・さよならの舞台、三本
『燃えるゴミ』
『シルヴィ・ギエム ライフ・イン・プログレス』
『シルヴィ・ギエム ファイナル』

・扇田昭彦、スコット・ウェイランド、レミー・キルミスターともさよならだった。寂しい、悔しい、でも、有難う

・書く言葉を持てなかった、あるいはここで見聞きして思ったことはオープンな場では書けないな、と記録を残さなかったいくつか
『三原順復活祭』(0223、0403、0404、0607)
eastern youth(0530)
『三上晴子展』と、その関連イヴェントの飴屋法水のトーク(1004)、山川冬樹のライヴ(1024)
菊地成孔×末井昭『「自殺」と「死神」のあいだで――「レクイエムの名手」刊行記念トークセッション』(1114:トークの内容についてはこちらでどうぞ→ウェブマガジン「あき地」

・ラグビーワールドカップ2015におけるあれこれ
これも日記には殆ど書いていませんでしたが、今年あった大きなできごととして改めて。
幼少の頃から慣れ親しんでいるスポーツ。それでも日本代表が南アフリカ代表に勝つなんて、自分が生きているうちにこんなことがあるとは想像すらしていなかった。国際試合は対日本でないものが楽しめる、日本のチームの試合はドメスティックで楽しむと言う、自国におけるこの競技のガラパゴス化にまんまと乗っていたと言う自覚もある。検証してみたいことが多々出てきて大西鐡之祐の著書宿澤広朗の伝記(ラグビーからだとやっぱり宿“沢”さんなんだけど)迄読んでいる始末です。ふたりともエディー・ジョーンズと同じようなこと言ってるんだこれが……。ちなみに南アフリカ戦が行なわれた9月19日は、大西さんの命日でした(鳥肌)。そしてやっぱり、一生観ていきたい、見届けたい競技だなとの思いを新たにしている。これからも楽しみです

2016年も、楽しいことを観たり聴いたり出来ますように。



2015年12月30日(水)
『シルヴィ・ギエム ファイナル』

『シルヴィ・ギエム ファイナル』@神奈川県民ホール 大ホール

あまり広くはない県民ホールのロビーはひとの熱気で溢れていて、同時にピリリとした空気に満ちていた。東京公演ではプログラムに入らなかった「ボレロ」が観られる、そしてツアー最終日。シルヴィ・ギエムがバレエのステージを降りる。

■一幕
フォーサイス振付「イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド」
東京バレエ団。
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「TWO」
振付:ラッセル・マリファント
音楽:アンディ・カウトン
照明デザイン:マイケル・ハルズ
「イン・ザ・ミドル〜」終了後、暗闇のなかからギエムの腕が照明によって浮かび上がる。瞬時に空間が彼女によって掌握される。闇を切り裂くような腕、光のように鋭い脚の振り。研ぎ澄まされた人間の身体の美しさ。確固としたクラシックの基盤を持ち、革新家でもあったギエムは、気鋭の振付家をはじめ演出、音楽、美術と言ったあらゆるフィールドの才能を紹介するプロデューサーでもあった。ダンサーギエムを凝縮したような作品。

■二幕
キリアン振付「ドリーム・タイム」
東京バレエ団。東京公演でつい先日観たばかりだが、音楽も衣裳も美術もかなり好きな作品。ストーリーが感じられるステージ。

■三幕
「ボレロ」
振付:モーリス・ベジャール
音楽:モーリス・ラヴェル
ひとつひとつの動作を噛み締めるような、別れを惜しむようなボレロ。そう見えた。あらゆることを逃さないように、こちらも息を詰めてステージを観ていた。
リズムダンサーたちの「ギエム姐さん見送ったるでえ!」とでも言うような気迫もすごかったな…カーテンコールでのスライドショウを見て、涙をグイっと腕でぬぐったギエムがまたザ・漢で。でも弾けるような笑顔で観客に手をふる彼女はまるで少女のようだった。バレエを始めたころからずっとあの笑顔だったのだろうな、と思わせるような、花が咲くような笑顔だった。
そう、最後ってことで東バがカーテンコールにいろいろサプライズを用意していた。しかし段取りも盛り沢山だったためか徐々に進行がグダグダになっていったところはご愛嬌。開演前に配られたペンライトは「係員が合図をしたら」出して振って、と指示されていたのだが、その注意書きが日本語のみだったせいか、外国人の一団が早くから振りはじめちゃって係員が慌てて飛んで来たり。東バのメンバーが一輪ずつ花を渡していたら延々時間が長くなってギエムが「ごめん、キリがないからあとは!」てな感じで手を合わせたり。その前にファンからの花束やプレゼントもすごくて、それらで円卓は埋め尽くされそうになっていた。もう泣き笑い。
でも、前述のスライドショウはよかった。ギエムが円卓に立って挨拶をしているとき、ステージ後方にスクリーンが現れた。一瞬の静寂、そして小さな声が客席からあがる。何? と言った様子でギエムが振りむく。そこには東バからの(そしてファンの思いも込められたと言える)ギエムへのメッセージが、フランス語と日本語で映し出された。感謝の意、そしてツアータイトルであった「ライフ・イン・プログレス」にちなみ、彼女の人生の第二章を祝福する内容だ。続いてギエムがこれ迄踊ったさまざまな作品の舞台写真が映し出される。拍手が自然にわき起こる。円卓から降りたギエムはスクリーンを見詰める。そして、腕で顔をぬぐったのだ。

彼女が踊る「ボレロ」を初めて観たのは2001年2003年の『奇跡の響宴』ではダニエル・バレンホイム指揮・シカゴ交響楽団の生オケとともに、最後と言われた2005年で別れを惜しみ、ベジャール追悼のための2009年は再会出来た喜びとベジャールの不在を噛み締め、2011年の震災復興を祈ってギエム自身が発起人となった『HOPE JAPAN』では強く励まされた。しかしこのとき「ギエムが封印した『ボレロ』を再び踊るとき、それは不幸があったときなのか」と複雑な気持ちになったものだった。だから2014年に東京バレエ団創立50周年を祝して踊られる、と発表されたときはとても嬉しかった。しかし公演直前にバレエダンサーとしての引退を発表、当日のカーテンコールは騒然とした雰囲気だった。

いろいろな「ボレロ」を観ることが出来た。正確無比な動き、強靭な肉体、時折訪れるエモーショナルな瞬間と、ダンサーの内面を垣間見るような瞬間。バレエダンサーであるギエム、そしてひとりの人間であるギエム。さまざまな表情を、毎回違う形で感じることが出来た。

いつからか「やめるやめる詐欺」「何回復活するの?」と言った心ない声が聴かれるようになった。周囲がやめさせてくれなかったのかも知れない。再び踊らなければ、と彼女に思わせるような出来事が数年毎に起こったと言うこともある。『HOPE JAPAN』での「日本との絆を再確認するため」「日本を心から愛したベジャールの魂をつれてくるため」と言うコメントは忘れられない。

それでも私は彼女の「ボレロ」を観られることが嬉しかった。円卓に立ち、腕を伸ばし、脚をまっすぐに高くあげ、空中に留まるようなジャンプを観られる。100年にひとりのダンサーと言われた彼女の、人生の一部を見せてもらった気持ちになる。妥協など許されない15分強の時間は、どんなときも始まることが嬉しく、寂しく、この瞬間が終わらないでくれとしか思わなかった。感謝しかなかった。

あなたが踊る時代に生まれたことは本当に幸せなことでした。人生の第二幕が光に満ちたものであることを祈ります。おつかれさまでした、そして有難うございました。



2015年12月29日(火)
TOKYO No.1 SOUL SET presents『やぁ、調子はどうだい』

TOKYO No.1 SOUL SET presents『やぁ、調子はどうだい』@LIQUIDROOM ebisu

タイトルどおり、皆で集まって元気かどうか確認しあう年末の恒例です。いつからビッケがそう言うようになったかなあ。フロアにはちっちゃい子が年々増えています。家族連れでリキッドにこれるっていいですね、近年はフロア禁煙のクラブやライヴハウスも増えましたし。

それにしてもビッケがホント痩せてて流石に笑ってもられませんわとちょっと我に返ったり。一時期酒やめてヘルシーになったとか言われてて、数年後にまた呑み始めて酔いどれ詩人が帰って来た! とか言われてたけど、今度はどうなの…自ら「俺が痩せたのは病気のせいだから☆」とか言ってたけどそんなん逆に心配だろうが! トシミくんが「痩せたよねえ」とわざわざ言う程ですよ。ステージでの運動量はむしろ増えてるんじゃない、エラい元気だよなと思ったものの、今回ライヴ本編の時間が例年よりエラい短かったんですよ。その後ホフとコラボしたりシークレットゲストで長澤まさみ(!)が出たりでいろいろ時間制限あったのかもしれんがやっぱあんなこと言われたら気になるわよ…皆元気で長生きしてくれよ……。

しかしライヴの爆発力は相変わらずで格好よかった。あの一音目からフロアに溢れる多幸感なー。ヒロシくんのトラックはもう一生好きだわ。初めて来たらしい(新規さんがいるってのもまた嬉しいじゃないの)近くにいた男女ふたりぐみは、ふたりしてトシミくんにやられていた。うわごとのように「トシミさん、格好いいね!」「格好いいね!」と言っていた。は、そうか。トシミくんてお弁当関係から知るひともいるかもね。ライフスタイル的な雑誌にもよく載っているしね。長くひとつのバンド(なのか?)を観ていると、いろんなことがあるよねえと感慨深かったり。

前述したようにソウルセットオンリーのセットは短めだったんだけど、アンコールで(ソウルセット−ヒロシくん)+ホフで「ヤード」やったのにはたまげた。もともと滅多にライヴでやらない曲なんだけど、ヒロシくんのあのトラック抜きで、全部生音! サビはトシミとベイビーのハモリ!! ぎーやー!!! トラックが違う衝撃もすごかったが、メロディの美しさとハモりが聴けたのはもうねえ………! ライムも素晴らしくてね……ライヴつかれる、俺と同じくらいのひとたちって会社員とかだともう結構上の役職でしょ? こんな叫んだり大声出したりしなくてもお金もらえるでしょ? たいへんなのよもう、なんてビッケボヤいてたけどやるときはやりますよ最高ですよ。

で、そう。長澤さん出たんです。中央にスタンドマイク置かれて、「Innocent Love」のイントロが流れ出したのでキョンキョン?! と思ったら。斜め上のゲストで場内騒然でした。いやー腕脚ながいわープロポーションいいわーかわいいわー。歌は、まあ、普通でした(笑)。「なんで来たの?」とのたまうビッケに「紅白に出ることになったんで、31日迄東京にいなきゃいけなくて」と応える長澤さん、それに「ああ、大晦日迄暇だったんだ!」とスコーンと抜けの良過ぎるひとことを言い放つビッケ。もう終始笑っておりました。楽しかったよー、来年も生存確認出来るように皆元気で(年々この言葉の重みが増すわ)!



2015年12月27日(日)
『ツインズ』

『ツインズ』@PARCO劇場

や、面白かった。が、ちょっといじわるなことばっかり考え乍ら観たのも事実。まっさらに作品だけに向かいあうのは難しいなあとの自戒も込めて。

公演前の宣伝文句が「あの長塚圭史作品がパルコに帰ってくる!」的な感じだった。長塚圭史の描くものがここ数年で変化している(というか、表に出すものの比率が変わったと言えばいいか?)のは周知ですが、宣伝の感じからするとパルコ側から以前ウチの劇場でやった感じの作品を…てなふうに依頼があったのかなあと邪推。果たして出来あがったものは、以前長塚くんが追究していたような要素と、現在の要素がミックスされたものだった。それがうまく噛み合っているかというと、なかなか難しい。

劇中「思わせぶりな態度も度を過ぎると……」と言う台詞に強く頷いたんだけど(笑)、それを登場人物に言わせるってことは、書く側も自覚はしているのだなと思った。実際あの世界の状態を考えると、ひとは思わせぶりな物言いしか出来なくなるのかもしれない。正解というものを簡単にひとつにすることは出来ないからだ。そういう意味では状況を描いたとも言えるが、ではそこから? と言う「もっと」が胸に湧き起こるくらいには喰いつきたい観客の欲求。

死へ向かう父、環境を受け入れられない父、自分で決められない父、海への夢想を生きる糧とする父。具体的にも心理的にも父親の存在が曖昧なこどもたち。作者の父への執着はずっと変わらない。そこにふたりだけの世界を築き上げている男女。このふたりが、作者自身を投影しているかなと再び邪推。こどもも、今自分がいる世界も受け入れられずにいた若い父が、一歩踏み出す場面で物語は終わる。それが希望に見えないところが今だとすると?

気になったのは演出のテンポで、幕開きのピアノを弾くマイムからもう冗長に感じられたこと。美しい曲(これはよかったなあ)をテーマとしてまるまる聴かせたいのは判るが、それをマイムと舞台転換だけで保たせるのは結構キツい。そして古田新太の扱いに勿体なさを感じる。舞台における吉田鋼太郎の素晴らしさは堪能出来るし、観たかったものが観られたと言う思いはあるものの、それでももう一歩深みに手をつっこんだものが観たかった。中山祐一朗のキャラクター、そういえば彼は公演中の楽屋で燻製を作ってふるまうようなひとだったなと思い出す。それが舞台でも感じられたのは楽しかった。

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で、よだん。

昨日の頁にも書いたが、数日の間に『燕のいる駅』、『消失』、『ツインズ』を観た。似ている訳ではないが、そこで扱うモチーフに近いものがある。閉鎖された(孤立した)地域、残された数人、出ていく数人。その状態におけるひとの感情の動き。これらがだいたい同じ道を辿る。郷愁を誘う象徴が夕刻を知らせる町内放送のメロディ、環境の変化を象徴するのは水や魚介。花火とミサイルの区別がつかない。取り残されたひとたちは生き延びることが出来るか? 絶望的な状況とは何だろうと思いつつ、それでもやはり助かってほしい、と架空の世界に祈る。



2015年12月26日(土)
NYLON100℃ 43rd SESSION『消失』

NYLON100℃ 43rd SESSION『消失』@本多劇場

11年ぶり、全く同じキャストでの再演は幸福なことでもある。初演を思い出し乍ら、検証する気分ももって観た。細かい設定を忘れていてたまたまこの日のチケットをとったが、劇中に出てくる日にちでもあった。鳥肌。

ストーリーへの印象、感想は変わらず。作品の普遍性を大きく実感。初演は紀伊國屋ホールだったので、舞台の間口、比率等には開放感があった。役者がより熟し、若さ故の痛々しさが減った分、年齢、時間による絶望感が迫る。それは自分が過ごした時間も含まれる。蓄積した知識は何の役にたつのか、教師の職を失った女性を観乍ら考える。役にたつのだ、その話をすることで、形にならない豊かな感情をやりとり出来るのだ。そのやりとりをした相手と、いつか必ず別れなければならないとしても。

前述の「普遍性」。これが普遍だということも、ある意味幸福なことでもある。より切迫感があるかどうか。あるのだが、その強度を増し乍らもう11年経っている、とも言える。初演から再演の間に大きな災厄がいくつも(そう、いくつもだ)あり、それは日に日に不穏さを増しているが、この物語にはそんな現在でも感情を揺さぶられる。この作品の凄みを改めて知る。

「浮かれてたあ〜!」、「謝まられたら、許すしかないなあ〜!」ふたつの台詞が、時代の流れなど関係なく、いつ迄もいつ迄もあたりまえのこととして感動出来れば。暗転のなか、祈るような気持ちで目をこらした。ふと『フローズン・ビーチ』が観たくなった。『消失』がもう二度と上演されなるとき、それもまた幸福なことでもあるのかもしれない。

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以下よだん。

たまたま数日前、『杏仁豆腐のココロ』からの久ヶ沢さん流れで『燕のいる駅』DVDで観てたばかりだった。終わりに向かっている世界。その感触は翌日観た『ツインズ』にも強くあった。



2015年12月23日(水)
『バグダッド動物園のベンガルタイガー』

『バグダッド動物園のベンガルタイガー』@新国立劇場 小劇場

ロビーに掲示されていた訳者の方の解説によると「『パプアニューギニア動物園のニホンザル』と置き換えるとこのタイトルの奇妙さが伝わるでしょうか」とのこと。イラクの首都であるバグダットと、ベンガルタイガーが生息する地域であるネパールやインドは、そのくらい離れた場所だということです。捕らえられ連れてこられ、やがて幽霊となり生物の本能そのものが罪だと思索する。哲学的なとらを杉本哲太さんが演じます。かなり滅入る内容だが観て良かった。

アメリカでの初演は2009年。バクダッド動物園で酔った米兵がとらを射殺―2003年、実際に起きた事件がモデル。脚本はラジヴ・ジョセフ、演出は中津留章仁。登場人物は動物園を警備する米兵ふたり組、その通訳、現地に暮らすひとびと、サダム・フセインの息子。2003年と言えば、イラク戦争開戦の年。米兵は動物園から猛獣が逃げ出したときパニックにならないように「警備してやってる」と言う。イラクを守ってやっている、米兵たちにはそんな意識がある。しかし動物園を空爆するのもその米軍だ。とらを射殺したことで、ふたりの米兵、通訳に変化が起きる。フセインの息子のスタンスは全く変わることがない。それが死後であっても。

笑いを誘う言葉のやりとり、その後味の悪いこと。それに気付かせようとする抑えた演出だったと思うが、それでも笑い続けているひとたちが結構いたことにまた滅入る。twitterでは端的に書いてしまったが(こういうとこ、短文投稿は難しいな)ここらへんをもう少し考える。

笑っちゃいけない訳ではない、笑えるシーンは確かにある。でもやがてそれが「笑いごとじゃない」空気に移行していくのをどこで察知するか。具体的に言えば、二幕の米兵、少女、通訳のシーン。年配の男性や、開演前まだちいさい自分の娘の話をしていた女性がいつ迄も笑い続けていたことに、自分はとても恐怖を感じた。通訳は「彼女は幼すぎる」と言う。伝えたいことが沢山あるのに、通訳の仕事を始めてそんなに経っていない彼は、それ以上の語彙を持ち合わせていない。少女は自分がどんな役目を与えられているか、理解する環境を与えられていない。フセインの息子が通訳の妹をどんな目に合わせたか。それが語られる場面で流石に笑うひとがいなかった。さっき笑ったひとに罪悪感を抱かせるような台本だな、いじわるだな、と思ったのも事実。

序盤、通訳がスラングの意味や使い方が解らず、辞書をひいたり米兵に訊ねたりする場面がある。その後通訳が今の仕事をしているのは本意ではなく、もともとはフセイン家の庭園に仕えるトピアリーアーティストだったことが判る。通訳は、言葉での表現を必要としない人物だったのだ。この辺りの構成も緻密。通訳を演じる安井順平さん、すごくよかった。落ち着いた声で発音も流麗、立て板に水な台詞まわしと絶妙な間合いに定評のある方だが、それが整った言葉を話す通訳と言う役柄にぴったり。綺麗であればある程、その言葉で語られることの残酷さと心情との乖離が際立つ。砂漠で自分の作品制作を進めるためには富豪の庭園に仕えるしかないというジレンマ、庭園に行きたいという妹を制止出来なかった後悔。終演後も心に棲みつく人物を、安井さんで観られてよかったと思う。

米兵を演じる風間俊介さんと谷田歩さんは、序盤はアメリカという国の横暴さを表現し、徐々に個人の苦悩を見せていく難しい役どころ。勝者たるものといった傲慢さがあり、自分に攻撃が向くことを予想してもいない。いざ反撃されるとすっかり平静を失ってあたりちらす。しかしそれらは死への恐怖からくる虚勢でもあり、そうしないとこの場所では正気を保っていられないからだということが判ってくる。退役後の人生にも不安を感じているため、形になる保証がほしいと思っている。時間の経過も感じさせる、細やかな表現。風間さん演じるケヴは死後穏やかになった。では谷田さん演じるトムは? その先を知りたくなるふたり。

こんななか、サダムの息子だけはずっと悪として描写される。この作品の作者がアメリカ人だということを考えると、なかなか複雑でもある。演じる粟野史浩さんはこれが役者の醍醐味だとでもいうように、嬉々として悪に徹しているようにも見えた。斉木しげるさんが演じても面白そう、シティボーイズのコントを夢想するくらい、滑稽でもあった。そしてタイトルロールのとら、杉本哲太さん。殆どの台詞がモノローグ、これはたいへん。客席に話しかけるような口調も交えて、罪について、神について考える。しかし腹は減る。髭面、足袋のようにふたまたに分かれた靴。それだけで「とら」と認識出来る、演劇の面白さ。

演劇の面白さは、アメリカ人やイラク人を日本人が演じるということもそう。舞台では英語、アラビア語、日本語が使われる。日本語は本来英語で書かれたものだ。アラビア語は翻訳されない。相手が何を言っているかわからない、というのは言葉そのものだけでなく、その言葉を発する人物がどんな環境に育ち、どんな信仰を持っているかも要因になる。日本という国も、アメリカやイラクからすればわからないことだらけだろう。理解しようとするのか、理解出来なくても、いや、出来ないからこその寛容は、どこ迄有効なのだろう。「幽霊ばっかり」のバグダッド、とらも故郷へは帰らない。遠い場所のため帰ることが出来ないのかもしれない。すげえ腹減った。幽霊でも腹が減る。果たして獲物はくるのか。腹が減ることに、寛容はあるか?



2015年12月22日(火)
『ベテラン』

『ベテラン』@シネマート新宿 スクリーン1

本国では公開週末興行成績で『スターウォーズ フォースの覚醒』を抑えて一位に輝いたと話題の『ヒマラヤ』。主演のファン・ジョンミンは前作『国際市場で逢いましょう』で韓国映画歴代興収2位の動員を果たし、今ノリに乗っている役者さん。そのジョンミンさんの、日本公開最新作『ベテラン』だよー! ギャー面白い! 面白い! 楽しみすぎて期待値かなりあがってたんだけど中盤からそんな期待とかすっかり忘れる程入り込んで観ました。原題は『베테랑(ベテラン)』、英題も『Veteran』。本国でも日本でも2015年公開、監督はリュ・スンワン。ちなみに本国では、現在歴代3位の動員だそうです。すごいな……。

過去に観たことのあるスンワン監督作品が『生き残るための3つの取引』『ベルリンファイル』だったので、その痛快さにまず驚きました。しかし考えてみればスンワン監督はジャッキー・チェンやユン・ピョウ、サモ・ハン・キンポー全盛時代の香港映画から大きな影響を受けているそうなので、活劇は得意とするところ。と言うかこちらこそがベースなのでしょうね。先述の二作も、アクションシーンがどれも見応えありました。その痛快活劇に社会問題を絡めてくる、その嗅覚とバランス感覚が素晴らしい。

今作のアクションも見応え充分。繁華街である明洞中心地のロケで派手にぶちあげるクライマックス、カーアクションから拳のタイマン勝負迄息もつかせず一気に見せる。善玉である主人公(ソ・ドチョル刑事)がストリートファイト的な泥臭さで攻めるのに対し、悪玉の財閥三世(チョ・テオ)はトレーニングを積んだ格闘技の型と言う対比も面白い。ドチョルの所属する広域捜査隊は皆ちょっと間が抜けていて、しかしいざというときには一致団結、そのザ・チームワークも爽快です。チームの紅一点、ミス・ボン刑事の得意技はジャンプキック。画的にもキマる。しかもそのジャンプキック、不発も含めシークエンスを終わらせる位置に複数回置かれており、展開のよいポイントになっている。演出がとてもリズミカルです。靴や卓上唐辛子瓶と言った日用品が武器になるところは香港映画へのオマージュかな。銃が威嚇にしか使われないところは韓国社会ならではかも。

そしてとにかく悪玉が文字通り悪い。ほんっとに憎たらしい。演じたユ・アインは「ラリってません!」と言ってるその目がラリッてる、みたいな演技がバリバリ決まってました(実際にそんな台詞はありませんよ……)。「後妻のこどもだからって〜」って設定出されても同情出来ないくらい振り切れてた。勇気ある演技でした。

そんなこんなで見どころ満載のアクションにクゥ〜っとなるんですが、そのうえ今作は台詞がよかった。警察署長、チーム長、ドチョルの笑いを誘う言い争いやドチョルと妻の罵り合いの軽妙なこと。ウケるウケる。そして面会室でのドチョルとチェ常務の緊迫感あるやりとり、これにはシビれた……「俺に投資しろ」、するするするーってかしなさいよ! と言いたくなりましたね。しかしそう出来ない財閥の根の腐りっぷりよ……今作が本国で大ヒットしたのは、こんな社会情勢にピタリと合うタイミングだったからと言うのもあるでしょう。こうあったらいいのに、こうあってくれ。摘発してくれ、悪を暴いてくれ。そんな観客の思いに応えた作品だったのでしょうね。とは言うものの、そんな熱狂する観客たちをチクリと刺すかのような場面がありました。ドチョルとテオの殴り合いを誰も止めず、遠巻きにしたまま携帯で撮影する。正当防衛の証拠を残すと言う狙いを表すものでもありましたが、あの大衆の姿にはゾッとさせられました。そういう目端も利いてるなー。

チーム長役のオ・ダルスがまたいい味出してた。ヒット作には必ずこのひとあり(出演作の累計観客数1億人なんですって)、幸運の妖精のよう。そしてマ・ドンソクがカメオ出演してるって知らなかったので、登場したとき素で「あっ!」て声出たよー。客席もドッとわいたよ人気者ね!

主人公は決して非の打ちどころのない人物ではなく、巨悪に立ち向かうためにはちょっと汚いこともするし、手段を選ばないところもある。完全無欠でないところが愛される。ちなみにこのドチョル役、スンワン監督がジョンミンさんにあてがきしたものだそうです。最高じゃないの……。それにしてもジョンミンさん、熱いベテラン刑事の役なのになんであんなに瞳がキラキラしてるの。マンガか。しかもそのキラキラした瞳に時折宿る狂気! 前述の面会室でのあの目、忘れられませんわ。そして捜査中なのに唄ったり踊ったりする姿の愛嬌と言ったら! あてがきなので普段からああなんでしょう、歌とダンスが自然に出る日常。最高じゃないの(再)。は〜なんであんなにかわいいのかよ(バタリ)。

もう満足しちゃってよいお年を〜と言いたいくらいだ…しかし映画も芝居もあと何本か観るのであった。てか年内にもう一回観たいよベテラン。大きいスクリーンで!

そうそう、スンワン監督作品にスンボムがいないのはやっぱりちょっとさびしいね。彼は今旅人だから。またいつか映画に戻ってきてほしいです。

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・輝国山人の韓国映画 ベテラン
いつもお世話になっております有難うございます。販売されているパンフにもこういう詳しいキャストスタッフクレジット載せてほしいのね……

・男らしさとミソジニーはセットなのか? 『ベテラン』の正義漢・ドチョル刑事と悪役のテオから考える|messy
興味深いレヴュー。そうそう、そうだったんだよー。で、ドチョル刑事はあてがきでしょ。は〜ジョンミンさん最高じゃないの(再々)

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2015年12月20日(日)
『書を捨てよ町へ出よう』

RootS Vol.3 寺山修司生誕80年記念『書を捨てよ町へ出よう』@東京芸術劇場 シアターイースト

寺山修司の代表作でもありますが、なんだかんだで書籍にも映画にも触れずにきました。今回は藤田貴大による上演台本を、マームとジプシーのプロダクションで上演。

ひとつの家族とそれをとりまくひとびと。サッカーチームの補欠の兄、うさぎしか愛せない妹、認知症が進む祖母、仕事を辞めた父。母は不在だ(母のない子、か)。兄に代表される若者の鬱屈は中上健次が描くそれを思い出させる。ストーリー上のモチーフ…親(の役割)の不在、ボクシング、輪姦、と言ったものも当時を思わせる。これらは現代にもあるものだが、描写はより執拗で陰惨だ。

藤田貴大のあの、男性への呪いのような執着は何なんだろうと考え続けている。特に今回は顕著だったように思う。『cocoon』ではまだ、そうなる男性の背景を見せる部分があったように思うが、今作にそれはない。兄以外の男性たちは、役柄上では自己満足のためだけに破壊の限りを尽くし、舞台上の黒子としてはひたすら肉体を酷使した設営と撤収を繰り返す。敵意、憎しみすら感じる演出だが、冷徹に観察、考察した結果を示しているだけのようにも思える。では女性キャストは? 孤高と絶望だ。強いわけではない。したたかなだけでもない。男性も女性も、ひたすらすり減っていくように思う。青柳いづみはどこ迄すり減るのかなと思う。

ときどき、観ている側が着火されると言うか、エンジンがかかる瞬間がある。リフレインからでもあるし、言葉ひとつの力によるものだったりする。ぱちん、と言う台詞で終わる。そして闇。断線。村上虹郎は声もお母さんに似てるなと思った。眼球の解剖シーンで、目で見るのではなく、目に映ったものを頭で見るのだと言うような台詞があった。それを聞く虹郎くんの目は、照明の具合もあって伺うことが出来ない。反面、終盤激情を露わにするシーンでの目は、こちらの目に強く焼きついた。いや、頭に焼きついたのか。

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以下自分用メモ。今回考えるうえでヒントになったもの。

・危口統之さん(悪魔のしるし)|intvw.net 京都の演劇人にインタビュー 頭を下げれば大丈夫

・akumanoshirushi|搬入プロジェクト



2015年12月19日(土)
『シルヴィ・ギエム ライフ・イン・プログレス』

東京バレエ団全国縦断公演2015『シルヴィ・ギエム ライフ・イン・プログレス』@東京文化会館 大ホール

ギエムの引退ツアー。かなりのハードスケジュール、メンテもたいへんだろう。無事終われますように。コンテ中心で東京はボレロなしのプログラム。運良く神奈川公演のチケットもとれたので、気持ち的にはちょっと余裕があった。東京公演のみ鑑賞で、これがギエムを観る最後だったらちょっと複雑な気分にはなるかなと思う。それでも最後の「バイ」は素晴らしく、さよならには相応しい作品だった。

■一幕
フォーサイス振付「イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド」
キリアン振付「ドリーム・タイム」
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東京バレエ団。「イン・ザ・ミドル〜」は衣装が素敵、「ドリーム・タイム」は音楽が武満徹『オーケストラのための「夢の時」』でかなり好き。また観てみたい。

■二幕
カーン振付「テクネ」
フォーサイス振付「デュオ2015」
マリファント振付「ヒア・アンド・アフター」
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「テクネ」「ヒア・アンド・アフター」は全編、男性ダンサーふたりが踊る「デュオ2015」に一瞬だけギエムが登場。日曜日は二度出てきたらしく、と言うことはこの作品でギエムが踊るパートはインプロなのだろうか。メッセージ性高い「テクネ」ではウィッグを着用し、自然破壊を嘆く少女を演じているようなところもあった。彼女がバレエを引退後、より力を入れていくであろう環境保護運動について思うところあり。

■三幕
「バイ」
振付:マッツ・エック
音楽:ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン『ピアノソナタ第32番 Op.111 第2楽章』
装置・衣裳デザイン:カトリン・ブランストローム
照明デザイン:エリック・バーグランド
映像:エリアス・ベンクソン
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ギエムのソロ。ドアのようなサイズのスクリーンに映像を投影、それと同期するようなパートも。映像=部屋から抜け出て、外の世界で踊り、やがて部屋へ帰っていく。幾人かの友人や家族を思わせる人物たち(そして飼い犬?)がその部屋にはいる。世界的なバレエダンサーがひとりの人間に戻っていくかのような構成。
公演タイトルのとおりギエムの人生は続き、作品タイトルのとおりギエムはバレエにさよならをする。衣装も普段着のような、スカートとシャツ、カーディガン。靴下に革靴も履いており、途中からは裸足になって踊る。部屋へ戻るときには靴を履き直しているのだが、カーテンコールでは再び裸足になっていた。
冒頭、スクリーンにはギエムの顔のアップが映る。今年五十歳を迎えた彼女の顔には皺が刻まれ、老いが感じられる。それを隠さず(おそらくノーメイク)、接写と言える程の距離で見せる。身体の線は、以前よりたくましくなったように見える。筋肉(筋、と言っていいかもしれない)がより強調されるようになってきたからだろう。こうなる迄踊り続けてきたのだ、自分を律し乍ら。その時間の厳しさを思う。
それでもやっぱり舞台上の、研ぎ澄まされたギエムは美しい。反り返る足の甲、ふくらはぎ。無駄のないチーターのような肢体。
二幕の作品は全て今年発表のものだ。引退公演に新作ボコボコぶっこんで、それがいちいちエキサイティングなもので「まだまだ出来るのでは……」と思うところもあった。観たものがそう時間の長くないコンテだったからかもしれないし、瞬発力、滞空力にハッとさせられる場面が多かったからかも知れない。
しかしこの「バイ」を前にしては、本当に最後なんだなあ……と思わずにはいられなかった。演出含め、さよならの気持ちに満ちていた。有難うございました、と拍手を贈る。
バレエをはじめた少女の頃のような屈託ない笑顔で何度も手を振るギエムはかわいらしかった。

あと一公演。さびしいが、たのしみでもある。



2015年12月18日(金)
『ライン(国境)の向こう』

劇団チョコレートケーキ with バンダ・ラ・コンチャン『ライン(国境)の向こう』@東京芸術劇場 シアターウェスト

やーこれはよかった。太平洋戦争後、日本が南北に分断されていたら? と言う設定。脚本の構成だけでなく、緊張状態のなかにぽろりと生まれる軍人や民間人の本音等、台詞の緩急が見事。また役者がうまくてな……。『追憶のアリラン』もよかったし、チョコレートケーキはこれからも観ていこう。今回は近藤芳正さんのユニット、バンダ・ラ・コンチャン(実は観劇当日迄“パ”ンダラコンチャンだと思ってました…ご、ごめん……)とのコラボです。

山奥に居を構え、自給自足で暮らしている集落。集落といってもそこには実のきょうだいとその配偶者で構成された一族の二世帯しかいないようだ。戦後住んでいた土地が分断されてしまい、ふたつの家族は北と南に分かれてしまった。そうは言っても境界線に壁や有刺鉄線が立ちはだかることもなく、一族は国境をまたぐ田畑を共有し、以前と変わらぬ日々を過ごしている。広大な土地の世話には人手がいる。田植えや収穫はふたつの家族が協力して行う。互いの家に居候し国境警備にあたる南北の兵士も、余暇には田畑の作業を手伝う。ふたりは軽口を交わし煙草をやりとりする仲でもある。しかしある日、南北戦争が勃発。家族にも、ふたりの兵士にも見えない壁が見えてくる。

劇中では日本戦争と呼ばれるこの戦争、流れとしては朝鮮戦争とほぼ同じ。ここ二年で韓国映画を沢山観ていると言うこともあって、『JSA』や『トンマッコルへようこそ』、『高地戦』のことを思い出し、その理不尽にううっとなる。同じ民族で、同じ言葉を話す。暮らしの場も変わらない。しかしいくら人里離れていても政治の影響力は及び、こどもはそれぞれの国の教育を受ける。自分たちの国に都合のいいものを「理想」として掲げる教育は、敵とみなす隣の国の重箱の隅をつつきあう。未知は恐怖を生み、恐怖は「やられる前にやれ」と言う図式を生み出す。両国の背後に構えるアメリカとソ連と言う国について考える。細部迄考え抜かれた設定で見れば見る程違和感がなく、70年前樺太、沖縄から何故侵攻が進まなかったのか、日本が分断されなかったのか不思議なくらいだ。

緊迫した場面が続くが、日々の生活では始終気を張っている訳にもいかない。食べるし寝るし、働けばさぼるひともいる。属性に関わらず喧嘩が起こり、年長者や腹の据わったものが仲裁に入る。冗談を言い合い、笑う時間もある。戸田恵子さん、高田聖子さんによる義理の姉妹が象徴的で、緊張が起こると緩和にまわり、思想だ跡取りだと癇癪を起こす男たちをたしなめ臆病な男たちにハッパをかける。暮らしていくには、生きていくには、目の前にある問題から向き合おう。私たちにはそれしか出来ない、と。

この手の芝居は歴史を知る、学ぶと言った側面もあり、どうしても肩肘張った言葉が続いてしまう。そこに「生活する人々」の息吹を感じさせる台詞を絶妙のタイミングで組み込む、古川健さんの脚本がとても緻密。それらのちょっとした台詞は、登場人物の性格や、心の奥にしまって気配を観客に知らせてくれる。その細やかな言いまわしを乗りこなせる役者が揃ったこともとてもよかった。「こどもたちを守るのは大人の役目だ」と言うような台詞があった。あたりまえすぎるこの言葉が、今ではとても危うい。それをあたりまえのことだと凛と発声した役者たちがとても頼もしく思え、まっすぐに感動することが出来た。

戸田さん、高田さんめちゃ格好よかったー。ふたりとも声の力が強いからね! かわいい声、怖い声、優しい声。親としての声、女性としての声。その説得力たるや。清野菜名さんは舞台では初めて観たけど堂々としたもの。それにしても皆さんもんぺにほっかむりが似合う(笑)…いやこれ笑うとこではないな、それだけ田舎で生活するひとの姿が映し出されていた、と言うことだろう。男優陣も田舎の人々、と言うのが板についており、愚かな人物造形もそれは見事でほんっと腹が立ったわー。特に谷仲恵輔さんな! 彼と寺十吾さんが激昂してけんかになるともう何言ってるかわかんない(笑)、なまってるし早口になるし。そこらへんが逆にリアルだった、怒ると当人でさえ何言ってるかわかんなくなるもんだわね。近藤さんの、気は小さいが心の奥は揺るぎない家長も味わい深くてよかったな。

皆さん実年齢に近い役柄なので、チョコレートケーキの面々は若い兵士、若い青年。それ故ストーリーには描かれない、軍隊に属するが故の苦悩を思い胸が痛む。年寄りのように諦められない、こどものようにわがままを通せない。善悪の区別もつく、だからどうすればいいのか解っている。それなのに社会がそれを許さない。どうすればいいのだろう、と言う思いが強く伝わるもの。南北の兵士を演じた、達観しているようで強い悔みを持つ岡本篤さん、真実を見据える賢さ故に、祖国にも自分にも誇りを持てない西尾友樹さんが印象的。

惜しむらくは段差なしのE列で見えない箇所があったこと、同じく位置が原因なのか音の返りが悪く聴き取れない台詞があったこと。専門的な語句も多かったしね…と言いつつ「ろすけ」はすぐ「露助」に脳内変換される自分もどうかと……。『追憶の〜』でもそうでしたが、「観劇資料集」として関連年表や語句説明掲載のリーフレットが配布されるのは有難いです。

扇田昭彦さんに観てもらいたかったな、と思った。先日行ったスズナリでもそうだったが、今でも姿を無意識に探してしまう。ミュージカルから伝統芸能迄あらゆるジャンルを網羅していた方だが、それだけいろいろなものを観ているにも関わらず小劇場で本当によくお見掛けしていた。チョコレートケーキも以前からご覧になっていたと聞く。どんなレヴューを書かれただろう。



2015年12月16日(水)
『才原警部の終わらない明日』

シス・カンパニー『才原警部の終わらない明日』@世田谷パブリックシアター

あっはっはっはっは、あ〜笑った。これ迄いろんな堤さんを観ているが、実のところこういう役柄を演じる堤さんが自分は好きなのかもしれないなあ。でもこういうのばっかりが続くとじきに「バリッと格好いい堤さんが観たい……」と思うんだろうなあ。ここらへんのバランス、シスカンパニーはやっぱり巧み。次作『アルカディア』は大作のようですし。つまるところ北村明子さんの「私はこの作品が観たい」「私はこういう堤真一が観たい」を上演に繋げる剛腕に平伏します。劇中出てきた某キャラクターが重要な役割を果たすのですが、終演後改めてチラシを見たら、きちんと「協力」の欄に会社名が入っているではありませんか。きちんと申請してあったってことですね、そこらへんも抜かりないわー。てか許可出した方も懐深いわ(笑)。

そういえば客層がバラッバラでそのへんも面白かった。50〜70代くらいの男性が多い。事前情報からコメディだとは判っているので、シスカンパニーの固定ファンか、出演者のファンか、はたまた? と思ったが、単に芝居好きってことでいいかと思いなおし。個人的にはこういう客席は落ち着きます。

試合巧者のキャストばかりなので安心して観たなあ。しかもなんていうか、その役者さんの観たいところが観られたと言うか。つまるところそれは期待していることであり、観るまえからハードルがあがってる訳です。それを予想とは違う側面からひらりと越えてくれるものだから「キター!」と「えええ?!」で忙しい。演者たちの得意技と、初披露的な面を交互に見せるところがニクい。堤さんの慣れないダンスでの登場っぷりとか、序盤池谷のぶえさんの声を封じて表情と仕草だけで見せるところとかもー、その脱臼具合にニヤニヤがとまりませんでした。あれな、アクションクラブ的な(笑・台詞にも出てきた)身体のキレとダンサーのそれは異質のものなんだなあ。それを笑いに転じる見せ方がまたよいわー。

舞台経験が少ないのは清水富美加さんだけですが、『HK/変態仮面』で「この子振り切れてるわー」と思い、その後ドラマやバラエティ等で見る言動から「この子…(コメディ、コントが)デキる!」という確信もあり。序盤は大人しいなと思ったけど、だんだん本性を現してきて素晴らしかったです(笑)。あと台詞を噛んだときの機転が、初めて聴いたと思わせられるものだった。以前高橋洋さんがブログで書いていた「さいきんの俳優さんの台詞の言い直し」について思い出したけど、世代によるものなのかな? しかしこれ、決して批判する訳ではなくてむしろ絶妙だったんですよその言い直しの仕方が。むしろウケてましたよ。以前『二万七千光年の旅』を観たとき、山口紗弥加さんが相手役(三宅健くんではない)のトチリによってグダグダな流れになったところ、その前のシーン迄台詞を戻してやりなおし拍手喝采になったことを思い出した。舞台経験の少ない子がこういう度胸を見せてくる瞬間ってのを目撃出来るのは楽しいし、その怖いもの知らずっぷりは頼もしくすら思う。

考えたのは嘲笑と笑い飛ばすことの違い。ギリギリのライン、どっちに転ぶかは受け手の感覚もあれど発信者のわずかなさじ加減で変わる。モチーフの選択、その前後の流れ。問題部分だけを切り取っても伝わらない。編集の難しさ。この日はカメラが入っていましたが、WOWOWはどこ迄放送しちゃうのかは気になります。

これが笑い納めかな〜。今年の観劇予定、あとはシリアスなものばかりなので。いやあ楽しかった、グランドフィナーレの歌が耳から離れません。



2015年12月12日(土)
『杏仁豆腐のココロ』

海のサーカス×スーパーエキセントリックシアター『杏仁豆腐のココロ』@ザ・スズナリ

佳梯かこ、久ヶ沢徹のふたり芝居。作・演出は鄭義信。初演から15年、再演は13年ぶり。その間さまざまな国で翻訳、上演が重ねられたものだそうです。チラシに書かれている鄭さんのコメントによると「今回の公演で最後になるかもしれない」とのこと。「(理由はいろいろあるけどね)」、と続く。初見。

雑然とした畳敷きの部屋、積み上げられた段ボール。部屋をぐるりと囲む廊下(通路)にはエッシャーの無限回廊のようなゆるい傾斜がかかっている。中央にはこたつ。クリスマスイヴ、明日には別々に家を出る元夫婦のやりとり。苛立つ妻、はぐらかす夫。言葉を重ねるうちに、取り戻すことのできない時間と関係が明らかになっていく。

上演を繰り返すごとにブラッシュアップされた部分もあるのだとは思うが、台詞に説明が多い。それが不思議なことに、「他人だから話さないとわからない」と登場人物ふたりが言葉を発すれば発する程、何故こうなってしまったかの説明をすればする程、語られなかった背景がその何倍もの質量で迫ってくる。夫は何故定職につかないのか、夫の姉の名前を妻が知らないのは何故か、ふたりがセックスレスになった(ふたりとも「したい」のにも関わらず!)のは何故か。語られなかったことには理由があり、その理由はあまりにも重い。互いを察し、互いを思いやるからこそ溝は深まる。ひとりが部屋を出ていき廊下を歩いていく時間、もうひとりはその足音を聴き乍ら考え込む。舞台上に部屋と廊下を隔てる壁はないが、その見えない壁こそがふたりの間に立ちはだかり、段ボールのように引っ越しで片付けることは出来ないものだ。前述したエッシャーの絵のように、踏み込んでも踏み込んでも戻って来るのは同じ場所、「やりなおすことは出来ない」。

そして「他人だから話さないとわからない」ふたりなのに、言葉がなくとも通じ合っている場面が端々に現れる。電話で話す妻のちょっとした言葉ですぐに彼女が出かけられるよう準備を始める夫、夫のちょっとした声のトーンに敏感に反応し、それに気付いている上でなおも彼を追いつめる妻。そして食事――と言える程ちゃんとしたものではないな、単に飲食と言った方がいいかもしれない――の際のルーティンがふたり揃うこと。脚本の機微と演者の力量がものを言う。タイトルにある「杏仁豆腐」は、クリスマスケーキを買ってくるよう妻に言われた夫が「2個買えば30円安くなるって言うから」と買ってきたもの。そもそも夫が買いものに出かけたのは妻に鍋焼きうどんを買ってくるよう言われたからで、そのうどんすらおでんに化けていた。生活のための仕事、生活のための習慣。思いやりに覆い尽くされた生活は、杏仁豆腐のようにちょっとしたことで崩れてしまうくらい危ういもの。「初めて自分から手に入れたいと思った」夫を妻は手放し、夫は妻のことを思ううえで離れていく。

女優になりたかったと言う妻が語る『桜の園』。かつて家にあった桜の木、父親が興し、自分も続けていきたかった稼業。劇中劇が、登場人物の心情に重なる。その台詞を「しばらく芝居から遠ざかっていた」佳梯さんが口にする。情感がこもる。キテレツな役を得意とする、もしくはそれを求められる作品に出ることが多い久ヶ沢さんが優しく繊細な男を演じる。久ヶ沢徹と言うきぐるみの中身を見た思い(そう思わせるところも役者の恐ろしさだな)。痛い言葉の数々は、劇作家の日常からどのくらい近いものなのだろうかと思う。取材によるものか、観察眼のなせる業か。そして具象的であり乍ら想像がいくらでも拡がる土屋茂昭の美術も素晴らしかった。ラストシーンに抱きあうふたりの姿は、そこで流れる曲も相俟って宗教画のようだった。ピエタ像…死んだキリストとマリア、と言うより、言葉の意味(Pietà)どおりの母子像。男は妻が愛情を得られなかった母親のように、女はこどもに戻った自分自身、そして失ったこどものように映った。

鄭さん曰く、佳梯さんの「突然の無茶振りによって引き受けてしまった」「たった一夜限り」のために書かれたこの作品。執筆のための時間や上演上の条件もかなり限られていたのだと思う。そういった経緯からも、この妻は佳梯さんへのあて書きだと思われる。台詞にも出てくるとおり夫の年齢は四十代。相手役とのバランスも含め、佳梯さんのために書かれた作品だからこそ、鄭さんは「最後」と言う言葉を使ったのかもしれない。(理由はいろいろあるけどね)、「別れの予感」は、作品のなかだけではないと言うことだ。そのことがより一層余韻を残す。年の瀬に観ることが出来てよかった、ギフトのような作品。

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その他。

・フォーレ:レクイエムの歌詞と音楽『第4曲:Pie Jesu(慈愛深いイエスよ)』
最後に流れていた曲。むんむん(@mashira_alto)さんに教えていただきました。歌詞を読むとまた余韻が深まります

・フォーレのレクイエムつったらニーナもよく使うやつでな…うう……
・てか今回スケジュール的にも体調的にも厳しくもうどうしよう…と思っていたのですが、むんむんさんのツイート読んでやっぱ行こう! となったんですよね。いやはや無理くりねじこんでよかった、観られてよかった。有難うございます有難うございます(神奈川っぽい方向へ手を合わせる)
・と言う訳で久ヶ沢さんのファンは観た方がいいと思います観た方がいいと思います

・いやホント、むんむんさんの言うとおり見たかった久ヶ沢さんが見られた。『今度は愛妻家』の成志さんな! あと『水の音』の小須田さんな! 全部観てるひとどのくらいいるか判りませんが伝われー!
・いやホラ……「頭がおかしい役をしているけど本当に頭のおかしいひとなのかもしれない」と言うのが久ヶ沢さんのパブリックイメージだと思うんですが(ヒドい)、そういう役でも端々にわっこのひと怒ったら絶対怖い、とかあっこのひとの闇を覗いてみたい、と思わせられる要素はあるひとな訳で。でもそれを観られる機会と言うのはとても少ないので。今回それが観られてホントよかった……
・終盤の「なぁに」、聴きたかった声のトーンでもあった。やーギフトだわー

・と言うかですね、ガタイのいい男がかわいらしいエプロンを身につけるとか、女性のほつれた髪を撫でてなおしてあげるとかその身長差とか、コートやマフラー着せてあげるとか、脱ぐとか(スウェット下だけだがな)、そこからキスへの流れとか、むしろ鄭さんの乙女力に脱帽だよ堅い握手をしたい
・と言うかゆったりしたニットを着ててもわかる厚い胸板とか、スウェット下ろすと筋肉隆々の腿とか、主夫業と言う役柄からハッと我に返るよいガタイではありましたね(笑)…いや、達郎の趣味が家事の合間の筋トレだったかもしれない。そうして役柄への想像がまた拡がっていいですね!
・そうなんです、久ヶ沢さんの役名達郎なの。これって設定が「クリスマス・イブ」だからですか…鄭さん……乙女………

・生活感溢れる舞台設定だったため、部屋に置かれたティッシュ箱が実用的にもとても役に立っていました。ふたりともどっぷり感情が入っているので泣くわ泣くわ。よってティッシュで涙ふくわ鼻ふくわ
・スズナリのキャパですから、実際泣かないで泣く演技は出来ないとも言える。それにしてもやっぱりすごいね…ここ迄くるともう役のひとにしか見えない

・おでん、みかん、日本酒、柿の種と飲食シーンも多く、取り分けたりレンジかけたり皮むいたりと何気に段取りも多い。その動作をこなし乍ら膨大な台詞も口にしなければならない。呑み喰いしつつのこれ、かなりの負荷ですよね。役者の技量も問われます、妙なところで感心してしまった



2015年12月10日(木)
『熱海殺人事件』

『熱海殺人事件』@紀伊國屋ホール

やー、風間杜夫の木村伝兵衛、平田満の熊田留吉を観られる日が来るなんてな……入口に飾られた和田誠画伯による歴代ポスターの前にはひとだかり、ロビーも客席も当時を知るであろう方たちで、開演前から不思議な高揚感があった。

ホンの大枠は変わらず、台詞の細かいところが今どきのものになっていた。マニキュアがネイルだったり。「白鳥の湖」が大音量で響くなか電話で怒鳴り散らす伝兵衛、と言う幕開けも変わらず。何度観てもシビれるシーン。留吉に「拾ってください」と言う伝兵衛、花束で金太郎を殴りつける伝兵衛、と言った名場面も変わらない。しかし各所に演出いのうえひでのりのエッセンスがにじみ出る。と言うか演出はバリバリいのうえさん=新感線だった。

思えば『熱海〜』をつかさん以外の演出で観るのは初めてだ。つか作品の完コピからスタートした新感線のルーツを見る思いでもあった。極端な劇伴の緩急、ドラマティックな照明、台詞のリズム。そして現代劇における見得の切り方。勿論今のいのうえさんの演出は完コピのそれではなく、より派手になっている。音量の落差、ときには目潰しになる照明の強度。花束のシーンではジェットスモークでより多くの花弁を散らす。それを紀伊國屋ホールの規模で見ると言うのが新鮮でもある。ルーツと言うと、これらをパロディとして逆手にとった第三舞台のことも思い出される。殊に筧利夫の表現方法。そもそも筧さんは新感線出身なので、彼が第三舞台に持ち込んだもの(台詞のセンテンスのリズム感や身体能力の強度)について、唸るところも多かった。

この作品、と言うかつか芝居の特徴とも言えるパワー、スピード、テンション、についても考える。今でも現役で舞台を主戦場としている風間さん、平田さんではあるが、やはりこちらが過去観て馴染んでいた『熱海〜』のテンポとは違う。高速の台詞まわしに滑舌が追いつかない場面もあり、動きもキレを主体としたものではない。それは承知のうえだろう、それでもふたりは現在の自分が出しうる限りのパワー、スピード、テンションで臨む。今でしか見られない光景。「二十五歳です」と言う台詞にドッと笑いが起こるのも、やはり今。風間さんも平田さんにも、捨て身とすら言えるような作品への献身を感じる。そして歳を重ね、筋力に代わる凄みと流麗、包容力を手に入れた彼らの姿を観られる幸せを噛み締める。

パワー、スピード、テンションは愛原実花、中尾明慶が担う。特に愛原さんの声の通り、身体のキレが素晴らしく、宝塚の舞台に立ってきた役者の地力を見せられた思い。金太郎がハナ子を殺害するに至る経緯、芝居だったそれに真実が顔を出す瞬間、その切実さは過去観た『熱海〜』のなかでも随一だったように思う。愛原さんの、この作品への思いにひしと感じ入る。観ることが出来てよかった。

その他。

・個人的なことだが、自分は何故井上ひさし作品には乗り切れないのに、より露悪的なつかこうへい作品には惹かれるのかがうっすらわかってきた感じもする。が、なかなかこれは説明が難しい。虐げられる者の痛みの表現、「ざまあみろ」がどこへ向くか、と言うところ

・今年シティボーイズがファイナル公演を行った。キャリアの初期、彼ら三人が結成した集団『表現劇場』の創立メンバーには風間さんもいたのだよなあと思った。今後ステージから離れていく(かもしれない)シティボーイズと、『熱海〜』の舞台に立った風間さん。今また共演するのを観てみたいな、と言うのはぜいたくかな