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2015年12月12日(土)
『杏仁豆腐のココロ』

海のサーカス×スーパーエキセントリックシアター『杏仁豆腐のココロ』@ザ・スズナリ

佳梯かこ、久ヶ沢徹のふたり芝居。作・演出は鄭義信。初演から15年、再演は13年ぶり。その間さまざまな国で翻訳、上演が重ねられたものだそうです。チラシに書かれている鄭さんのコメントによると「今回の公演で最後になるかもしれない」とのこと。「(理由はいろいろあるけどね)」、と続く。初見。

雑然とした畳敷きの部屋、積み上げられた段ボール。部屋をぐるりと囲む廊下(通路)にはエッシャーの無限回廊のようなゆるい傾斜がかかっている。中央にはこたつ。クリスマスイヴ、明日には別々に家を出る元夫婦のやりとり。苛立つ妻、はぐらかす夫。言葉を重ねるうちに、取り戻すことのできない時間と関係が明らかになっていく。

上演を繰り返すごとにブラッシュアップされた部分もあるのだとは思うが、台詞に説明が多い。それが不思議なことに、「他人だから話さないとわからない」と登場人物ふたりが言葉を発すれば発する程、何故こうなってしまったかの説明をすればする程、語られなかった背景がその何倍もの質量で迫ってくる。夫は何故定職につかないのか、夫の姉の名前を妻が知らないのは何故か、ふたりがセックスレスになった(ふたりとも「したい」のにも関わらず!)のは何故か。語られなかったことには理由があり、その理由はあまりにも重い。互いを察し、互いを思いやるからこそ溝は深まる。ひとりが部屋を出ていき廊下を歩いていく時間、もうひとりはその足音を聴き乍ら考え込む。舞台上に部屋と廊下を隔てる壁はないが、その見えない壁こそがふたりの間に立ちはだかり、段ボールのように引っ越しで片付けることは出来ないものだ。前述したエッシャーの絵のように、踏み込んでも踏み込んでも戻って来るのは同じ場所、「やりなおすことは出来ない」。

そして「他人だから話さないとわからない」ふたりなのに、言葉がなくとも通じ合っている場面が端々に現れる。電話で話す妻のちょっとした言葉ですぐに彼女が出かけられるよう準備を始める夫、夫のちょっとした声のトーンに敏感に反応し、それに気付いている上でなおも彼を追いつめる妻。そして食事――と言える程ちゃんとしたものではないな、単に飲食と言った方がいいかもしれない――の際のルーティンがふたり揃うこと。脚本の機微と演者の力量がものを言う。タイトルにある「杏仁豆腐」は、クリスマスケーキを買ってくるよう妻に言われた夫が「2個買えば30円安くなるって言うから」と買ってきたもの。そもそも夫が買いものに出かけたのは妻に鍋焼きうどんを買ってくるよう言われたからで、そのうどんすらおでんに化けていた。生活のための仕事、生活のための習慣。思いやりに覆い尽くされた生活は、杏仁豆腐のようにちょっとしたことで崩れてしまうくらい危ういもの。「初めて自分から手に入れたいと思った」夫を妻は手放し、夫は妻のことを思ううえで離れていく。

女優になりたかったと言う妻が語る『桜の園』。かつて家にあった桜の木、父親が興し、自分も続けていきたかった稼業。劇中劇が、登場人物の心情に重なる。その台詞を「しばらく芝居から遠ざかっていた」佳梯さんが口にする。情感がこもる。キテレツな役を得意とする、もしくはそれを求められる作品に出ることが多い久ヶ沢さんが優しく繊細な男を演じる。久ヶ沢徹と言うきぐるみの中身を見た思い(そう思わせるところも役者の恐ろしさだな)。痛い言葉の数々は、劇作家の日常からどのくらい近いものなのだろうかと思う。取材によるものか、観察眼のなせる業か。そして具象的であり乍ら想像がいくらでも拡がる土屋茂昭の美術も素晴らしかった。ラストシーンに抱きあうふたりの姿は、そこで流れる曲も相俟って宗教画のようだった。ピエタ像…死んだキリストとマリア、と言うより、言葉の意味(Pietà)どおりの母子像。男は妻が愛情を得られなかった母親のように、女はこどもに戻った自分自身、そして失ったこどものように映った。

鄭さん曰く、佳梯さんの「突然の無茶振りによって引き受けてしまった」「たった一夜限り」のために書かれたこの作品。執筆のための時間や上演上の条件もかなり限られていたのだと思う。そういった経緯からも、この妻は佳梯さんへのあて書きだと思われる。台詞にも出てくるとおり夫の年齢は四十代。相手役とのバランスも含め、佳梯さんのために書かれた作品だからこそ、鄭さんは「最後」と言う言葉を使ったのかもしれない。(理由はいろいろあるけどね)、「別れの予感」は、作品のなかだけではないと言うことだ。そのことがより一層余韻を残す。年の瀬に観ることが出来てよかった、ギフトのような作品。

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その他。

・フォーレ:レクイエムの歌詞と音楽『第4曲:Pie Jesu(慈愛深いイエスよ)』
最後に流れていた曲。むんむん(@mashira_alto)さんに教えていただきました。歌詞を読むとまた余韻が深まります

・フォーレのレクイエムつったらニーナもよく使うやつでな…うう……
・てか今回スケジュール的にも体調的にも厳しくもうどうしよう…と思っていたのですが、むんむんさんのツイート読んでやっぱ行こう! となったんですよね。いやはや無理くりねじこんでよかった、観られてよかった。有難うございます有難うございます(神奈川っぽい方向へ手を合わせる)
・と言う訳で久ヶ沢さんのファンは観た方がいいと思います観た方がいいと思います

・いやホント、むんむんさんの言うとおり見たかった久ヶ沢さんが見られた。『今度は愛妻家』の成志さんな! あと『水の音』の小須田さんな! 全部観てるひとどのくらいいるか判りませんが伝われー!
・いやホラ……「頭がおかしい役をしているけど本当に頭のおかしいひとなのかもしれない」と言うのが久ヶ沢さんのパブリックイメージだと思うんですが(ヒドい)、そういう役でも端々にわっこのひと怒ったら絶対怖い、とかあっこのひとの闇を覗いてみたい、と思わせられる要素はあるひとな訳で。でもそれを観られる機会と言うのはとても少ないので。今回それが観られてホントよかった……
・終盤の「なぁに」、聴きたかった声のトーンでもあった。やーギフトだわー

・と言うかですね、ガタイのいい男がかわいらしいエプロンを身につけるとか、女性のほつれた髪を撫でてなおしてあげるとかその身長差とか、コートやマフラー着せてあげるとか、脱ぐとか(スウェット下だけだがな)、そこからキスへの流れとか、むしろ鄭さんの乙女力に脱帽だよ堅い握手をしたい
・と言うかゆったりしたニットを着ててもわかる厚い胸板とか、スウェット下ろすと筋肉隆々の腿とか、主夫業と言う役柄からハッと我に返るよいガタイではありましたね(笑)…いや、達郎の趣味が家事の合間の筋トレだったかもしれない。そうして役柄への想像がまた拡がっていいですね!
・そうなんです、久ヶ沢さんの役名達郎なの。これって設定が「クリスマス・イブ」だからですか…鄭さん……乙女………

・生活感溢れる舞台設定だったため、部屋に置かれたティッシュ箱が実用的にもとても役に立っていました。ふたりともどっぷり感情が入っているので泣くわ泣くわ。よってティッシュで涙ふくわ鼻ふくわ
・スズナリのキャパですから、実際泣かないで泣く演技は出来ないとも言える。それにしてもやっぱりすごいね…ここ迄くるともう役のひとにしか見えない

・おでん、みかん、日本酒、柿の種と飲食シーンも多く、取り分けたりレンジかけたり皮むいたりと何気に段取りも多い。その動作をこなし乍ら膨大な台詞も口にしなければならない。呑み喰いしつつのこれ、かなりの負荷ですよね。役者の技量も問われます、妙なところで感心してしまった