2008年04月05日(土)  桜吹雪舞う鎌倉

わが家における優先度ではご近所仲間の会と肩を並べるのが、友人セピー君の鎌倉のセカンドハウスで集う会。「しばらく行ってないね」「そろそろ行きたいね」とダンナと話していたら、「テスン君のオモニに鎌倉を案内しよう」とお誘いが来た。テスン君はセピー君の学生時代の悪友チョンさんの弟で、わたしとダンナとセピー君とテスン君の四人は同い年。はじめましてのオモニはちゃきちゃきした関西人で、朗らかによくしゃべる。

北鎌倉駅で待ち合わせ、近くにあるブラッセリー梅宮(梅宮辰夫さんの弟さんの店だそう)でランチ。子連れにはありがたい庭のテーブルに通され、和洋折衷のお弁当を味わう。野菜たっぷりの洋風総菜は彩り鮮やかな春色。以前来たときよりもおいしく感じた。

北鎌倉駅近くの円覚寺は桜が見ごろ。娘のたまをテスン君とセピー君が交代で肩車し、空いた人がベビーカーを押してくれる。手を伸ばせば花をつかめそうな高い肩車の上で、たまはご満悦。「花」(手のひらの根元をくっつけ、指をグーからパーに開いて花を開かせる)と「星」(手をひらひらさせて、きらきらとまたたく)の仕草を組み合わせた造語ベビーサインで「桜」を表現していた。桜もいいけど、わたしは「みつまた」という花の色と形に一目惚れ。満開のときは目の覚めるようなオレンジ色なのだそう。

「さて、この階段を上りますか」と長く急な石段の下でセピー君。たまを抱っこし、ベビーカーをテスン君とセピー君に運んでもらい、上りきると、桜の山を見はるかす見事な眺め。頂きに張り出すようにして建つ弁天堂茶屋で一服。風に舞い上がる桜吹雪と絶景を楽しみながら、ゆず寒天(お茶とともに。600円)を味わう。ゆず味の寒天とゆずの甘露煮に黒豆と栗をそえたあんみつ風。ほどよい甘みで、後味すっきり。


江ノ電に揺られて鎌倉へ向かい、見物客でごった返す桜並木を抜けて鶴岡天満宮へ。白無垢の花嫁さんが絵になる。ここで桜よりも注目を集めていたのは、パンツと立派な太もも丸出しで石段を登る超ミニスカートの女性。石段のまわりの注目と話題を一時独占していた。インパクトも時には大事だけれど、桜の品のある美しいたたずまいとはあまりに対照的だった。


「お疲れとは思いますが、ここもぜひ」とセピー君おすすめのぼたん園は、大輪のぼたんの花ざかり。日除けの和傘も風情があり、美しい庭園を誇るイギリスからの団体観光客も「Lovely」を連発。

土産物屋が立ち並ぶ小町通り(行きの桜並木と並行)をひやかしながら鎌倉駅へ。Piccoloという洋服屋のショーウィンドウに飾られた大きな花柄のワンピースと目が合う。一期一会なわたし好みの柄と色に4725円というお値段。迷う隙なし。タイから入ったばかりとかで、よく見ると柄の出方が荒く、裾のストライプは斜めになっている。

夕暮れの海を臨むセピー邸での夕食には、テスン君のオモニが持ってきた本格韓国料理が並んだ。「オモニのアキレス腱食べますか?」とテスン君に聞かれて、「オモニの弱点? さては料理がお苦手?」かと思ったら、牛のアキレス腱をくさみがなくなるまで根気強く煮たもの。コラーゲンたっぷりで歯ごたえコリコリの初めて出会う味。特製の辛いタレでも塩でもいけ、手作りキムチにもよく合う。さらに、海鮮チヂミがこれまた絶品。「これだけの食料を抱えて鎌倉観光されていたんですか!」と恐れ入る。「イカやホタテなどの海鮮をミキサーにかけて生地に混ぜ込むのがコツ」なのだそう。セピー君は男性二人を助手につけ、豪快に海の幸を放り込んだパエリア(サフランはセピー君のお父さんの故郷イランが名産)を出してくれた。彼の料理の腕は相当なもの。わが家からの手土産、新丸ビル地下のブティックみたいなパン屋『POINT ET LIGNE(ポワンエリーニュ)』のスティックパンとフランス総菜屋『ル・ジャルダン・ゴロワ』のピクルスもよく売れた。

2007年04月05日(木)  消えものにお金をかける
2004年04月05日(月)  シンデレラブレーション
2002年04月05日(金)  イマセン高校へ行こう!


2008年04月04日(金)  アートフェア東京で名久井直子とミヤケマイ作品集の話

東京国際フォーラムで6日まで開かれているアートフェア東京へ。画廊のブースが軒を並べるアートの見本市。キャンバスに向かって制作を実演する画家の前には人だかり。器の傍らに佇む着物姿の女性は作者なのか作品の一部なのか。アートの森を探索しながら、お目当てのミヤケマイ作品とミヤケマイ本人が待つブースへ向かう。今回の作品は渋めの色使いにレースの下着や逆さ吊りのヌードといったエロス漂うモチーフで、ぐぐっと大人度を上げ、ダークファンタジーな雰囲気。展覧会のたびに新しいものを見せてくれるミヤケマイの創作の引き出しは四次元ポケットになっているのだろう。

昔はミヤケマイをネット検索すると、いまいまさこカフェ日記が上位にヒットしたものだけど、今では熱心なファンが続々現れ、人気も評価も高まる一方。「まだまだ無名」と本人は謙遜するけれど、現在準備中の作品集では各界のそうそうたる顔触れがミヤケマイを語る。その中に、今井雅子もまぜてもらうことになった。以前ミヤケマイのサイトに寄せたコメント(こちらの「寄稿文」に掲載)を気に入ってくれているらしく、直々のご指名。機関誌『看護』4月号、フリーペーパーbuku16号(配布中)に続いて、今年三つ目に世に出るエッセイとなる。『ミヤケマイ作品集』(仮題)は6月に芸術新聞社より刊行予定。

その作品集の装丁を担当しているのが、共通の友人である名久井直子。bukuにエッセイを連載することになったのは、デザインを手がけている彼女の紹介だったのだけど、写真集『犬と私の10の約束』(写真:秋元良平 訳:川口晴/今井雅子/澤本嘉光)の装丁も彼女だったという偶然を先日知って驚いた。名久井直子。「名久井とは、なぜか、あちこちで一緒になるんだけど、なかなか会えないのよ」と噂していたら、作品集の打ち合わせに名久井嬢が登場。三年ぶりぐらいの再会が叶った。ミヤケマイの作品と同業者にファン多しの名久井直子のデザインが出会う作品集にコメントという形で参加できるのは、なんともうれしく、わくわくする。三人が仕事で一緒になるのは初めてかなと思ったら、『ネスカフェこれでもかコレクション』(4/25まで実施中)でも絡んでいた。ミヤケマイは10番、名久井直子は32番で参加。

2007年04月04日(水)  マタニティオレンジ104 ママ友さん、いらっしゃいませ。
2004年04月04日(日)  TFS体験入学
2002年04月04日(木)  前田哲×田中要次×松田一沙×大森南朋パコダテ人トーク


2008年04月03日(木)  アテプリスペシャル宣伝デー

今夜放送の『アテンションプリーズスペシャル オーストラリア・シドニー編』の案内メールを朝からせっせと打つ。もっと早くお知らせしときゃよかったと思いつつ、おしりに火がつかないとやらない性格。昨日のうちに配信するつもりが、娘を寝かしつけるうちに眠ってしまった。携帯や職場のメールは間に合っても、自宅パソコンでメールを開く人は放送終了後になってしまうかもしれない。残業や予定が入っている人からは「もう少し早くわかってたら録画したのに!」と言われそう。携帯とパソコンから何回かに分けて送るうちに、どんどん受信ボックスに新着メール。早速返信かと思ったら、受信エラー。一割ぐらいはアドレスが変わっている。

案内メールはしばらく疎遠になっている人と連絡を取るいい機会。「元気そうですね」「観ます」という返信に添えられる近況を読むのが楽しい。「うちも生まれました」の人、「結婚しました」の人、「仕事変わりました」の人、「小説書いてるよ」の人。友人の日本舞踊名取・花柳美樹亜さんは、ついにお稽古をつける側に。初心者でも安心して楽しめるグループレッスンで、 日本舞踊の世界にふれられるとのこと。"世田谷ものづくり学校"にて 「春のワークショップ」期間限定で4月20日より全5回(1回2000円!)。くわしくはこちら

マタニティビクス仲間で航空業界出身のトモミさんは、わたしからの案内文をアレンジし、観てくれそうな人70人以上に転送してくれた。「私と同じ一歳児を持つ母が、体を酷使しながら仕上げた作品」とはママ同期らしい言葉。実際、かなりハードな数か月で、決定稿前の最後のひとふんばりのときに大風邪を引いて39度の高熱を出したのだけれど、完成した作品を観れば苦しかった記憶が吹っ飛ぶのは出産と同じ。トモミさんが案内メールを出してくれた元同僚がわたしを知る応援団関係者だったという偶然もあった。ほんんと、世の中せまい。というか、仕事を重ねるたびに世の中へのリーチが長くなって、いろんなことがつながりやすくなっている。今回のオンエアでクレジットに今井雅子の名を見つけて、懐かしい人が思い出してくれたり連絡を取ってくれたり、そんなおまけも楽しみにしている。

2007年04月03日(火)  マタニティオレンジ103 保育園の入園式


2008年04月02日(水)  マタニティオレンジ261 「お母さん、しっかりしてください」と歯医者さん

娘のたまが歯磨きをいやがる。激しくいやがる。その弱みにつけ込むような某幼児教材のDMが届くたびに心が傾く。同封されたお試しDVDを見せたところ、歯磨きのシーンに食いついたのはいいけれど、真似をしようとしない。見物だけしていても歯はきれいにならず、これでは目が悪くなる。

どうしたものかと思っているところに近所の歯科クリニックのパンフが郵便受けに入っていた。子どもの歯磨き指導もしますとのことで三月から週一回ペースで通うようになり、今日で四回目。最初は診察台に乗る(一人では座れないので、わたしがだっこする)だけでも泣き喚いていたけれど、やさしくてかわいいお姉さんに少しずつ慣れ、泣き出すまでに持ちこたえるようになってきた。お姉さんは歯茎の模型を磨かせたりして歯磨きに興味を持たせ、「じゃあ、たまちゃんもやってみる?」と口を開けさせ、まずは自分でやらせてから仕上げ磨きに取りかかる。「奥歯をまず磨いてください」などという説明をふむふむ聞きつつ、たまをなだめるのがわたしの役目。

三回目でずいぶん慣れたと思ったのだけど、今日は早いうちからぐずりだし、手足を振り回して暴れた。なだめても泣きやむ気配はなく、お姉さんと二人で「どうしましょう」となっているところに、「さっきから隣で聞いていたら、なんですか!」とパーテイションの向こうから、隣で診察していた院長女史が飛び込んできた。「お母さん、これが終わったら帰れるからねって、あれ、何ですか! 主導権はお母さんではなくこちらにあるんです。いつ帰るかはこちら決めることです」といきなりまくし立てられ、あっけに取られてしまった。そんなに叱られることをやった覚えがなかったのと、やさしいお姉さんとのギャップに、ぽかんとなった。ここの歯医者はアメとムチなのか。いやいや歯医者だからアメはマズイ。「診察が終わったら帰れるって言っただけなのに」とうらめしくもなったが、言い訳すると火に油を注ぎそうなので、はあ、と相槌を打って聞き役に徹する。

「お母さん、ふだん、家でどうやって磨いてますか」と院長女史の詰問がはじまる。「どうやってって、普通に」とわたし。「ちゃんと磨いてますか。ちゃんと磨いてたら、こんなにいやがるはずはありません」「いやがったら、やめてます」と答えると、「なんでですか!」と追及はさらに激しくなった。「虫歯になって困るのはこの子ですよ。子どもがかわいそうだからって甘やかして、もっと痛い思いをすることになるんですよ!」。その勢いに気押され、わたしは、はあ、としか言えない。「おさえつけてでも歯磨きすべき」という意見もある一方で、「歯磨きに恐怖心を抱かせないよう、楽しんでやることが大事」という声もあり、わたしは後者を採用して、気長にやっていた。でも、独力ではなかなか埒が明かないので、専門家の指導を仰ごうとクリニックに通っているわけである。ちゃんとできていたらここには来ない。「こちらは協力しているだけです。お母さんが主体性を持ってやらないと。それができるのはお母さんだけです」と今度は妙に持ち上げられ、主導権は譲りつつ主体性を持つって難しいなあ、となんだか面倒な気持ちになった。

わたしのようなのんきな母親には、これぐらいガツンと言わないと効かないのかもしれないけれど、あと10歳若かったら自信をなくし、あと10%血の気が多かったら「二度と来るか!」となるところだった。もう少しやる気が出る言い方はあるでしょうにと恨めしく思いつつも、そこまで言われたらやってやろうじゃないのという意地もあり、次回の予約を入れた。母親の負けず嫌いな性格を見通しての挑発だとしたら、さすがである。

それにしても、母親というのはよく叱られる。妊娠中にはじまり、「お母さんしっかりしなさい」と何度言われたことか。会社でも脚本の仕事でもこんなに叱られた覚えがない。年は食っても初心者なんだからしょうがないじゃないかと開き直りたくなるし、「お父さん、しっかりしなさい」はあまり聞かないのも不公平な気がする。そういえば、わたしの母も病院の先生によく叱られていた。わたしが喘息の注射をいやがったときも、視力が急に落ちたときも、声が急に出なくなったときも(結局、治りきらずに声変わりした)、「何やってたの!」と叱られるのはわたしではなく、母親だった。子どもがほめられて育つ陰には、叱られて、何くそと踏ん張る母がいる。

2007年04月02日(月)  21世紀のわらしべ長者
2005年04月02日(土)  アンデルセン200才
2002年04月02日(火)  盆さいや


2008年04月01日(火)  今井雅子作品『これコレ』と『アテプリ』届きました

クリエイター50人がデザインしたエコバッグ&マグカップが各2000名、総計10万名に当たる太っ腹企画『ネスカフェこれでもかコレクション』(通称「これコレ」)の景品サンプルが送られてくる。クリエイター50人の一人として参加している記念で、愛娘たまをモデルにした今井雅子のイラストがグッズに。描くことが本業ではないわたしのイラストがグッズになる機会なんてめったにないこと。モデルは愛娘のたまと、彼女の成長を祝って友人から贈られた手作りのお菓子の家という思い入れもあり、これは家宝級のたからもの。娘の嫁入り道具に持たせてやりたい。他にバッグを2つ、カップを4個いただく。こちらは普段使いにする予定。カップは本棚とキッチンに2個ずつ飾った。

締切を5回に分け、各回抽選で20,000名様(50種類×400名様)に当たるキャンペーンは残すところあと2チャンス(4回目 4月11日(金)必着。5回目 4月25日(金)当日消印有効)。すでに応募総数は100万を超え、当選は激戦のよう。親せきや友人もせっせとネスカフェを飲んで応募してくれているけれど、「当たった」の声が聞こえてこないのは、今井雅子デザインにも応募が集まっているということか。うれしくもあり、申し訳なくもあり。
2008年4月1日 マタニティオレンジ231 たま、ネスカフェの景品に!

もうひとつ、あさって放送の『アテンションプリーズスペシャル オーストラリア・シドニー編』のできたてほやほやの完パケがバイク便で到着。オンエアまで待ちきれず、早速パソコンで再生して観る。映画もドラマも完成版を観るときは脚本との答え合わせみたいになってしまい、冷静に観られない。ここはイメージ通り、この場面はこうしたか、ここは順番変えたんだ、ここは変わってるけどこっちのほうがいい……。活字が音声になり、色と動きがついて映像になるのだから大変身で、旅に出したわが子が魔法をかけられて帰ってきたのを出迎えるような、「これが本当にわたしが育てたあの子なの?」と「おやまあ立派になって」がないまぜになった気持ち。脚本が決定稿になってから2か月ちょっと経つので、頭の中に残っている脚本を掘り起こしつつ、わが子の変身ぶりをまぶしく見届ける。昨年秋に岩田祐二プロデューサーに声をかけていただいてからの本作りの日々も思い返されて(画像奥左が検討稿、右が決定稿)、披露宴で胸いっぱいになる親のような心情にもなった。『シムソンズ』『キサラギ』と映画でも大活躍の佐藤祐市監督の演出はセリフや表情にも細かい遊びがちりばめられ、人物が生き生きとハネて、さすが。オンエアはお茶の間で肩の力を抜いて楽しもうと思う。4月3日(木)21:30〜23:24フジテレビにて。

届いたといえば、以心伝心の話。勝地涼君が出ている『パコダテ人』と山田孝之さんが出ている『ジェニファ 涙石の恋』が縁で応援してくださっている大阪のさのっちさんが上京され、321の会の会場にもなったタンタローバへ。先月17日にここでランチをした臨月の女性ディレクターのことを思い出していたら、「予定日より2週間以上早く産まれました」とメールが来た。さらに、さのっちさんと『ブレスト〜女子高生、10億円の賭け!』に出ていた女子高生トリオ(多部未華子、小林涼子、佐津川愛美)がそれぞれ成長、活躍しているという話題になったときのこと。「あのドラマ、DVD化されないですかね」とさのっちさんが言ったので、「そういえば、去年放送されたテレビ朝日のシナリオコンクールの受賞作のドラマ化作品のDVD化が決まったそうですよ」と話すと、「それ、聞きました。実は、今年のをどうしても観たくて、大阪ではやってなかったので、東京の知人が録ったのを観せてもらったんです」とさのっちさん。「そのドラマを演出したディレクターと先日ここでランチしたんですよ」と話がつながった。フランスの子ども部屋のような黒が出てこないパステルカラーの世界、難病を患った妹とその兄の話なのに息苦しさを感じさせないところがわたし好みだったのだけど、「色使いがポップでかわいくて、お話も今井さんが書きそうだなあって思ってたんです」とさのっちさん。なぜかこの人とは「偶然!」がよく起こる。さのっちさんから京都土産の桜チョコレートと鉄道博物館土産のクッキーをいただいたのだけど、夜会った方にいただいた菓子折りを開けてみたら、チョコレートとクッキーの詰め合わせだった。

2007年04月01日(日)  歌い奏で踊る最強披露宴
2004年04月01日(木)  「ブレーン・ストーミング・ティーン」刊行
2002年04月01日(月)  インド料理屋にパコの風


2008年03月31日(月)  マタニティオレンジ260 12歳のせらちゃんは同世代!?

『パコダテ人』以来親しくおつきあいしている前原星良ちゃんとせらままのお宅に、先週の土曜日、一家でお邪魔した。ひまわり保育園ひよこ組の古田まゆちゃんを演じた星良ちゃんも四月からは中学生。進研ゼミの広告で見せた利発なイメージ通り、難関校に合格した。受験後の燃え尽きた虚脱感を「星良の賞味期限は切れた」と称し、ひたすら腐った数日後の心境を「味噌になった」とたとえたそう。味噌ならぬ三十路の後半を下りつつあるわたしが「賞味期限が切れた」と言っても事実にしかならないのだけど、星良ちゃんが言うと詩になる。子どもらしい無邪気さを残しながら着実に大人になっていく星良ちゃんは、わが娘たまのお手本にしたい存在。先日ひさしぶりに星良ちゃんに会った木下ほうかさんは一瞬誰だか分らず、「どなた?」と聞いた後で、「ええ年の取り方してはる」と感心していた。

たまが星良ちゃんに会うのは、今日で四回目。豚のPちゃんを見に行く会でしっかり遊んでもらったたまは、星良ちゃんの顔をちゃんと覚えて、写真を見せて「星良ちゃんどこ?」と聞くと指差してみせる。たまにとっても憧れのお姉さんのよう。建て替えてまだ一年というピカピカの広いおうちで、星良ちゃんの部屋がいちばん落ち着くらしく、星良ちゃんと二人きりにしても機嫌よく遊んでいた。ベッドに上げてもらったり、電卓をたたかせてもらったり。いちばん気に入ったのはバランスボール。腹這いになって乗っけてもらって弾んだり、廊下を大玉転がししたり。12歳の星良ちゃんと1歳7か月のたまの年の差は10歳。36歳違いの母親に比べたら同世代のようなものかもしれない。

すっかりリラックスしたたまは、せらままの手料理(五目寿司のおにぎり、鶏の甘辛煮、ミネストローネスープ、大根とトマトとアボカドのサラダ、ピザ)ももりもり食べ、食後の花見でもおおはしゃぎ。唯一の弱点だった大型犬(体重15キロ)のミズナちゃんのことも克服。最初は「バイバイ」と逃げ惑っていたのだけれど、別れ際にはおそるおそる手を差し伸べてなでていた。それ以来、茶色い大型犬を見ると、「ミジュ〜」と呼びかけるのが微笑ましい。

2007年03月31日(土)  マタニティオレンジ102 保育園から美術と家庭科の宿題
2005年03月31日(木)  「またたび」の就職活動生
2004年03月31日(水)  岩村匠さんの本『性別不問。』
2003年03月31日(月)  2003年3月のカフェ日記
2002年03月31日(日)  レーガン大統領と中曽根首相の置き土産
2001年03月31日(土)  2001年3月のおきらくレシピ


2008年03月30日(日)  マタニティオレンジ259 一生ものの友だち、二世代目。

2003年の夏、散歩コースの途中にあるイタリアンレストランにダンナと入ったら、会社を辞めたばかりの同僚I嬢と彼氏のY君と隣のテーブルになった。どちらもその日はじめてその店に入ったのだが、この偶然の再会がきっかけになり、Y君の飲み仲間で鉄道と映画をこよなく愛するT氏とその彼女のミキ嬢と9月に飲んだ。これが盛り上がったので、さらにY君が留学時代に親しくなったK氏と結婚したばかりのキョウコちゃんを交えて4組8人で食事をしたところ、すっかり意気投合。年の暮れにSL旅行へ行き、さらに結束が固まった。「名前をつけると、会が長続きする」というダンナの発案で、「文京区つがいつどう会(通称BTT)」という名前がついた。そんな矢先、Y君のロンドン赴任話が持ち上がり、I嬢とともにあわただしく渡英。以来、BTTは「BTTJ」と「BTTE」に分かれ、掲示板で連絡を取り合っている。

2004年の渡英から4年。2年半ぶりのY家の一時帰国に合わせて、ひさしぶりにBTTが全員集合。結婚したY君I嬢夫妻の間には女の子が二人生まれた。その長女と次女にはさまれる形で、K家の長女とわが家の長女たまが生まれていて、4年でBTT会員は5割増となった。この日はBTT四姉妹の初顔合わせ。昨年12月に生まれたBTT四女のマイちゃんは初来日。BTT三女のたまはBTT二女のマユタンとはよく遊んでいるけれど、BTT長女ユキちゃんが前回帰国した時にはまだ生まれていない。家を出る前に「記念すべき日だよね。一生つきあう友だちになるんだから」とダンナが言った。わが家におけるBTTの優先順位はかなり高く、トッププライオリティと言ってもいい。何を差し置いてもBTTのために予定を空ける、それぐらい、このメンバーに会うのは楽しく、待ち遠しい。

会場となったのは、K家の新居。筑前煮、春雨サラダ、温野菜サラダ、具だくさんの味噌汁、ちらし寿司……。さらに腕を上げたキョウコちゃんの手料理がテーブル狭しと並ぶ。子どもが喜ぶようにとホットケーキミックスを皮にした豚まんは大人にも大好評。乾杯はY家からのモエシャンドン・ロゼ。わが家からは魚屋テッチャンの刺身と近所の近江牛専門店「肉の竹井」牛肉のタタキ。T氏からは日本酒の数々。ミキ嬢からは苺ムース(日本酒と相性抜群)とアップルパイ。わたしにも感激のメニューだったけれど、Y家はひとまわり大きな感動を味わった様子。

BTT長女、二女、三女は互いに距離を置き、一緒に遊ぶというより、居合わせているという感じ。大人のように初対面でいきなり仲良しというわけにはいかないけれど、あと何年かしたら、子どものほうから「会いたい」と言いだしたり、もっと先になったら子ども同士で会ったりするのかなと想像する。「子どもたちも一緒に旅行したいね」「Tおじさんの解説でSLの旅とか」「娘たちが鉄子になるかも」などと話す。親が気が合うからと言って子どももいい友だちになれるとは限らないものらしいけれど、こうなったら孫の代まで、とBTT第一世代の夢は膨らむのだった。

2007年03月30日(金)  生涯「一数学教師」の父イマセン
2004年03月30日(火)  鴻上尚史さんの舞台『ハルシオンデイズ』
2003年03月30日(日)  中国千二百公里的旅 中文編
2002年03月30日(土)  映画『シッピング・ニュース』の中の"boring"


2008年03月29日(土)  江草さん×WADADASの広告労協飲み会

3年前まで勤めていた広告会社マッキャンエリクソンの組合活動でお世話になった江草晋二さんが名古屋の大学に准教授の職を得て東京を去ることになり、広告労協仲間の壮行会が開かれた。正式名称「全国広告関連労働組合協議会」、通称「広告労協」とは広告会社各社の組合の総本山のようなもので、その総会や分科会的な「女性会議」なるものにわたしも何度か参加した。あるときは岐阜、あるときは京都、あるときは横浜。何を話し合ったかはほとんど記憶にないけれど、夜の交流会がとにかく楽しかったのを覚えている。間口が狭くて敷居が高そうな印象があるので敬遠されがちな分、入ってみると妙に居心地が良いところは、わたしが学生時代に身を置いた応援団に似ている。懐かしい人たちに会えるかなという期待も抱いて参加してみると、おひさしぶりな先輩方の顔がそこかしこに。見覚えはあるけれど顔と名前が一致しない方が半数近くおられ、思い出話をしながら何社のどなたであるか記憶をたどり、宴もたけなわで名刺を交換し、ようやく名前を呼びかける。

広告労協仲間のつきあいは濃くて深く、しょっちゅう飲んだり旅行に行ったり(北海道に移り住んだ仲間や、バリでホテル経営をしている仲間を訪ねている)しているらしい。労協の議長を何年か務めていた江草さんはその中心的な存在であり人気者。「余計なしがらみがないから楽なんだよな」と江草さん。赴任地の名古屋へも早速ツアーが組まれることになりそう。

プレゼンに明け暮れる広告会社の中でも、会社との交渉の百戦錬磨で話術を鍛えた組合執行委員はとりわけ話し上手。同時多発的に飛び交ういくつもの話題を聴いているだけで刺激的だった。最後に、江草さんの前だったか後だったかに労協議長を務めた和田哲郎さんの語録を集めた小冊子「WADADAS'01 帰ってきたワダダス」が配られる。プレゼンの場で、組合活動で、和田さんが大真面目に語るボケの数々を同僚であり組合仲間であった上條さんがまとめたもの。「みそにこみきしめん(味噌煮込みきしめん)を「にそみこみしきめん」と言い間違えたり、縦書きの「一口ぎょうざ」を「豆ぎょうざ」と読んだり、そそっかしい和田さん。「湾岸戦争に反対する声明文」に「1991年」を一桁多く「19991年」と記したり、団交の席で春闘の「回答日3月14日」を「ベア3.14%」と読み上げるなど、数字に弱いのも特長。前々から「すごい」「面白い」と評判を聞いていたのだけれど、ページを開いた途端、止まらなくなって、江草さんの挨拶が頭の上を素通りしてしまった。和田さんの稀有なキャラクターと、それを冷静に観察し、書き留める上條さんの編集力の合わせ業に脱帽。同席されていたお二人に、その場で「面白すぎます!」と興奮を伝えると、「和田哲郎は人類が共有すべき財産です」と上條さん。これはマンガや短編ドラマにして布教すべし。糸井重里さんの事務所でワダダスを知ったさくらももこさんも絶賛とか。サイト『WADADAS'01 帰ってきたワダダス』でも読めます。

2007年03月29日(木)  ターバン野口
2003年03月29日(土)  中国千二百公里的旅 厠所編
2002年03月29日(金)  パコダテ人トーク


2008年03月28日(金)  マタニティオレンジ258 保育園のお別れ会で恩師を想う

この春、保育園を退職、異動される先生方のお別れ会が開かれた。主役は園児たちで、早くお迎えに来れた保護者は子どもたちにまじって参加。園児51名、職員はその半数ぐらいの小さな園で、園長先生をはじめ11人もが入れ替わる。先生方が挨拶のときに感極まって涙ぐむ姿を見て、この保育園と子どもたちを心から慈しんで仕事に打ち込まれていたんだなあと感じる。先生方の挨拶、父母会からの花束と園長先生へのメッセージ集贈呈のあと、辞められる先生一人一人と園児が「握手でバイバイ」。先生方は全員の名前を覚えていて、「たまちゃんは給食よく食べてくれたね」「たくさん遊んだね」などと声をかけてくださる。とても心があたたかくなるひとときだった。0歳児クラスの娘のたまは、今去られる先生方のことを覚えていないかもしれないけれど、たっぷり愛情を注いでもらった記憶は何かの形で残るだろう。人生最初の恩師だ。

わたしにとっての恩師の最初の記憶は、幼稚園の年長組のときの担任だった溝上のり子先生。美人で、やさしくて、大好きだった。卒園してからも手紙をやりとりして、中学校に上がる頃、先生の嫁ぎ先の和歌山まで家族で遊びに行ったりした。その後連絡が途絶えてしまったけれど、お元気かなあとひさしぶりに思い出した。もう一人、とくに印象に残っているのは、中学一年のときの担任だった吉田和子先生。専門は美術で、「今井の絵には、今井カラーがある」とわたしの色使いをほめてくださった。文化祭で演劇をやることになったときには、「今井ならやれる」とわたしに演出の白羽を立てられたのだが、その体験が今のわたしの原点になっていると思う。わたしの何を見て先生が見込んでくれたのかは聞きそびれたけれど、自分を認めてくれる大人の存在が自信とやる気につながり、わたしの力をのばしてくれたことは間違いない。長らく連絡を取り合っていない吉田先生にも、あらためて感謝の気持ちがこみ上げた。

2007年03月28日(水)  マタニティオレンジ101 ビクス仲間のレイコさん
2005年03月28日(月)  『ダ・ヴィンチ・コード』で寝不足
2003年03月28日(金)  中国千二百公里的旅 干杯編


2008年03月27日(木)  ブラボー!『蘇る玉虫厨子〜時空を超えた技の継承〜』

夜9時前、地下鉄の駅へ向かう路上で、わたしは友人アサミちゃんとともに頬を紅潮させ、「日本ってすごい国だ!」「日本人で良かった!」と高らかに母国をほめちぎっていた。饒舌になるほど二人を酔わせたのはお酒ではなく、一本の映画。一億五千万円を集めて日本イラン合作映画『風の絨毯』(今井雅子脚本の長編第二作でもある)を実現させたのを機に映画プロデューサーになった益田祐美子さんのドキュメンタリー映画第二弾『蘇る玉虫厨子〜時空を超えた技の継承〜』の完成披露試写は、「ブラボー!」と叫ばずにはいられない出来栄え、そして内容だった。

第一弾の『平成職人の挑戦』では江戸時代に造られた飛騨高山の祭屋台を平成の世に蘇らせる職人たちの技と心意気に陶酔したが(>>>2005年09月28日(水)  『Spirit of Wood. Spirit of Metal(平成職人の挑戦)』)、今回はさらに時代を遡り、千三百年前の飛鳥の時代に造られた世界最古の木造建築といわれる「玉虫厨子」に平成の職人たちが挑む。厨子とは仏像を納める小さなお堂のようなもの。屋根ひとつ取っても、土台を組む人、瓦の彫刻を施す人、仕上げに漆を塗る人とそれぞれの職人が技を積み重ねて完成する。

設計は平成の祭屋台も手がけた中田秋夫さん。平成の祭屋台で腕をふるった八野明さんの職人ぶりを再び見られたこともうれしく、輪島塗の立野敏昭さんをはじめ今回初めて知ることになった職人さんたちの仕事と言葉に惚れ惚れする。その道を極めた職人たちは、技術だけでなく言葉にも熟成された味わいがある。設計の解釈の食い違いが明らかになり、やり直しが必要となったときに、「俺の説明が悪かったかな」「いやいや、こっちの聞き方が悪かった」と譲り合うやりとりの、なんと趣のあること。腕に自信のある者同士は、相手の腕にも敬意を払う。職人としての意地は自分の緊張を保つために張るのだ。これぞプライドのあるべき姿、と唸った。

玉虫の羽を貼りつける蒔絵の制作を任された立野さんは乾弘明監督とともに舞台挨拶に立たれ、「漆は最高の接着剤でありコーティング剤」であると説明。時の流れで色あせた文様に何が描かれていたか、手がかりを求めて文献を読み解くだけでも一年がかりだったという。朽ちた木で命を育み、羽に輝きを宿す玉虫は、仏教思想と響きあう再生の象徴。1300年前はかくもまばゆい輝きを放っていたのかと見ほれる「玉虫色」を、立野さんの手先と根気が現代に蘇らせた。

法隆寺に納められている国宝・玉虫厨子をできるだけ忠実に再現した一台とは別に、「平成の玉虫厨子」を造るという使命を受けた立野さんは、幅2ミリの短冊に切った玉虫の羽をさらに2ミリごとに切って2ミリ四方にし、青、緑、黄色といった微妙なグラデーションの色別に細かく分類。その細かな羽の「点」を集めて「色を塗る」という気の遠くなるような方法を編み出した。「昔のことを調べていたら新しいことが思い浮かんだ」のだと自信と茶目っ気が同居する笑顔が何ともいい。

職人たちの表情、手つき、微妙な心の揺れを丁寧に繊細にとらえる乾監督の演出、カタカナ語をほとんど使わず、選び抜いた日本語で綴られた釜沢安季子さんの脚本、その美しい日本語に深い味わいと余韻を醸す三國連太郎さんの語り。映画の作り手たちも『平成職人の挑戦』の時点よりも円熟味を増し、職人たちの技と心意気をしっかりと受け止め、64分という凝縮された時間の中で豊かに雄弁に物語っている。先日の益田さんとの合同誕生会でご一緒した真島俊夫さんの音楽も作品に溶け込みつつ、心地よい起伏をつけていた。真島さんを益田さんに紹介したシーボニアメンズクラブのすてきなすてきなおじさま、田邊勉社長はコーディネイターとして作品に参加している。

『平成職人の挑戦』を観たときは、職人たちのかっこ良さに目が行ってしまったが、今回は飛鳥の時代の職人たちと心の対話をする職人たちの姿に、この国に流れる歴史の重みを感じ、自分が生きている今と千三百年前はつながっているのだ、という事実に心を揺さぶられた。千三百年前に造られたものを再現できるということは、その技術が今日まで受け継がれているということである。人の手を介してしか伝えることができない匠の技というリレーのバトンを、何百組もの師匠と弟子が大切に、大切に引き渡してきたということである。そのことにわたしは途轍もなく感動した。

アメリカに留学した16歳のわたしに、この映画のビデオを送りつけてやりたい。「日本の伝統文化のすばらしさを伝えましょう」とオリエンテーションで指導されても、「伝統ったって、着物を着て生活しているわけでもないし、神社仏閣は遠足で行くぐらいだし」とピンと来なかったわたしの目を覚まさせてやりたい。

「宝物は自分の中にある。それを宝の持ちぐされにするのも宝の山にするのも、自分次第」ということを伝えたくて、わたしは『ブレーン・ストーミング・ティーン』という本を書いたのだけど、「自分」を「この国」に置き換えることもできる。愛国心も母国への誇りも、自分の国が持っている宝物に気づけば、自然と湧き上がってくる。その宝物を輝かせるのも錆びつかせるのも、この国のありよう次第。伝統は「古くからある」のではなく、「古くから伝えられてきた」のであり、伝える人がいなければ、それは途中で消えてしまうのだ。

平成の職人たちに伝統という日本の宝を磨く機会を与えたのは、国でもなく大企業でもなく中田金太さんという一個人だった。その金太さんは平成職人たちの手になる二台の玉虫厨子の完成を見ることなく、亡くなってしまった。『風の絨毯』以来、金太さんと親交を深めてきた益田さん、乾監督、三國さんの思い入れも込められたこの作品、金太さんと秀子夫人と何度か食事を共にし、金太さんの半生を綴った本『わしゃ、世界の金太! 平成の大成功者と五人の父』の執筆にも関わった(>>>2006年09月29日(金) 金太本、ついに出版。)わたしにとっても、金太さんを振り返るよすがとなりそう。千年後の人々を驚かせる玉虫厨子とともに、平成の世に生きた中田金太という大旦那の志が生き続けることを祈りたい。

遺品となった玉虫厨子の一台、復元版は法隆寺に奉納され、もう一台の平成版は平成の祭屋台が公開されている「高山まつりの森ミュージアム」に納められるが、6月30日まで開催の法隆寺秘宝展にて飛鳥版の玉虫厨子とともに三台並んだ姿を見られるとのこと。そして、当初は劇場公開を予定していなかった映画は、3月1日に法隆寺で行われた記念上映の反響で、劇場での上映が続々と決定。くわしくは平成プロジェクトのサイトにて。この作品を広げることも、日本の宝を次の時代へ引き継ぐ一助になると思う。

2007年03月27日(火)  『子ぎつねヘレン』地上波初登場と富士フイルム奨励賞受賞
2005年03月27日(日)  今井家の『いぬのえいが』
2003年03月27日(木)  中国千二百公里的旅 食事編
2002年03月27日(水)  12歳からのペンフレンドと3倍周年

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