園庭が見えた 大きいお兄ちゃんお姉ちゃんと園児が 楽しそうに遊んでいる
中学生の仕事体験らしい
未来の保育士さんたち 自分の小さい頃を思い出してるのか それとも少しオトナになった気持ちなのか
春のようにあたたかな陽ざしと風 おんぶや鬼ごっこはきっと暑い いい汗かいてね
田部井さん信奉で始めた健康サプリ
彼女ががんで亡くなったことで
続ける気がなくなった
こういうの風評になるんだろうか
富士は霊峰だった
近寄りがたく堂々として
きりりと輝く佇まいだった
踏み込む一歩一歩が重々しかった
セカイナントカに登録されることは 本来は名誉で
存続保存に力注がれると思いきや
観光スポットになり下がっただけ
わんさか訪れる人の足跡は
きっと山肌を削いでゆく
遠目で仰ぎ見る姿が
輪郭がぼやけまろやかになった
そんな気がする
大きな仕事をしている人は偉いのだと思う
でも絶えず小さな仕事を片づけ続けている人だって
同じに偉いと思う
次々に同時に多方向に気を配り切り替え集中し続けることは
一つのことに熱中し続けること以上に
大変なことだと思う
セピアへの憧憬を
手放そうとおもう
いくつかの花と同じに
自転車に乗っていて
なんだか少し顔がやわらんで
微笑みをおもいだした
ゆらゆら進んでいると
道という道に
庭々から金木犀の香りがふる
そうなっても構わない
こころのどこかで
そう思っているから
そうなってゆく
すべて自分で引いた線
たどるのもこえるのも
その坂をくだっていると 向こうの道にとっても素敵な施設をみつけた 本当に偶然ってあるんだね
探しても分からないだろうし 見つかりもしない場所に 欲しているものをみつける
引き合わせってあるんだね
空も道も植え込みも広々とした 空気のきれいなまちだった
いいね ここ
身の回りにある小さな幸せをみつけて幸せを感じよう的な 幸せのおすそ分け的(個人の)HPブームってあったよね 一時そういうの見ていたけれど 飽きた 今でもあるのかな
でも宇宙規模で考えれば そんな消えそうなことどうでもいいかも
人はいずれ死ぬんだし 嫌なことを排除する方向に行動する方が より現実的にしあわせかも
ジブン変人になったかな
雨のあと 今朝 金木犀が香りはじめた
甘くあたたかく優しかった
いつもは強いと感じるのに
今年の香りはじめは やわらか
つぼみの色も淡い 薄黄木犀みたいに
金木犀にしずかさを感じたのははじめてかも
いつもは元気を感じるのに
昨日はジンジャーが苦しかった
たぶん ことしのジブンがおかしい
今年はなぜか ジンジャーリリーの香りが苦しい
甘さがつらい 華やかさが哀しい
私が突然逝っても 悼まないで
私は笑顔です
じゃあね と思うだけ
いつも何か腹立たしい気持ちがあって
いつも何か怒っているようで
腹立ち紛れに強引に決めたことは
結局判断ミスが多い
苛立ちを断ちたい
穏やかな人間に なりたい
胸のうちに
黒いものが沈んでゆく
しずかに溜まってゆく
捨てたいのだけれど
少しずつふえている
そんな気がする
ひとはしあわせに生きたいと願うものだ その権利がある
生を得て死ぬまで いのちをつなぎ子孫を残すためだけに 生きている生物とは違う
苦しむために生きているのではない
幸せに生きる権利があるのと同じで 生きることに苦しみしか残っていないとき 死を選ぶ権利だってあっていい
最近そう思うようになった
場合により 自死も安楽死も尊厳死も ひととしての生き方のひとつ 終え方のひとつ 自分で選びとってよいこと そう考えるようになった
神はそれを認めないのだろうけれど 万物すべてさだめなのかもしれないけれど
宇宙の大きな時の流れの中の一瞬を生きるいのちの 終え方を自分で決めるのは いけないのだろうか
生きる義務というものは 消すことはできないのだろうか
気の滞っているものを手元に置き続けて
何か意味があるだろうか
ゆるすというのは ゆるめること と得たり ゆるめることで おのれも ゆるめられ 楽になるのだと
ゆるすことで 平安をえられるというのは ゆるめるということが おのれをもゆるめ救うことになるから
ゆるせない そう思っても 少しだけゆるめることなら きっとできるから じぶんを締め付ける枠もゆるめることになるから
何かのハードルを 少しだけ下げるようなものだろうか
残さない 消す
その方針で
そうだよね
だれも他人のことなんて ヨソゴト
気になんてしてないよね
ワタシハ アナタヨリ ウエノ ニンゲンナノヨ
というオーラを 絶えず出しているひと なんだよね
雨がつづくのは
外の作業を休めということ
怪我の手を癒せということ
みつからないものを
探し続けるのはもうやめよう
みつけられないものを
追い求めるのはもうやめよう
そうすれば また
あらたなものに気づくかもしれない
リオ五輪とリオパラ よかった
リオは 歓迎 だったと思う 色んな不安をいわれていたけれど ほとんど問題なく終えたと思う いつもどこでも笑顔があふれていて みんなで楽しもう いっしょに楽しもうよと 歓迎されてる感じだった
この国はどうだろうか
東京五輪招致の おもてなし という言葉のブームを思い出した
そのことば 接待と感じる 老舗旅館やいくつか星ホテルの接客マニュアルを学べば そのノウハウに素晴らしいものがあるような そんな雰囲気の流れだった こころを伝えるために技術がものいうような
でもなんかちょっと違う気がする おもてなし の言葉が先歩きしてる気がして 型を求めてる気がして 安心レベルを求めている気がして
リオを見ていて感じたのは
迎えるハートがあればいい みんなで楽しむ気持ちでいい いっしょに楽しもうでいい
おもてなしって する側される側がある でも歓迎して一緒に楽しもうというのは 同じ場にいる気がする 同じ輪になる気がする
本来五輪はスポーツを通しての 国際交流 世界の友好だったはず 接客技術の競争じゃないはず
安全にさえ開ければいい 贅沢な競技場でなくてもいい その競技を広め楽しめればいい リオは予算が苦しいと公言しながら あんなにちゃんとやった 考えながらできた
この国は何をぐちゃぐちゃやってるのだろうね 誰が何のために招致したのだろう 初心にかえってほしい
磨く という作業
手間をかけても必ず実りがある
どんなものでも 必ず輝く
どんなことでも かならず
人は燃えて生きている
注ぎ込むことで生きている
エネルギーを燃焼させて生きている
燃えるものがある 注ぎ込むことがある
だから生きている 生きてゆける
人は誰も どこか何かが欠けているのだ
という気がしてくる
満足なからだなどないのだと
欠けかたの 大きい小さい
見える見えない目立つ目立たない
気にする気にしない
それだけのことなのだと
後にか 生まれたときからか
生まれる前からか
ずっとなのか いっときなのか
きっとそんなことは大したことではないのだ
エネルギーの燃焼には
人は何かが欠けている
自分も何かが欠けている
自分は燃焼させて生きているか Rio Para
その淡い青紫のふわふわした小さな花群れの
幽玄な風情をずっと愛しく思い続けていたけれど
ある日かすれた葉に哀しみを見た
想いにもいのちがあるのだ と
目に見えるものを消す
物の整理
捨てる減らすの言葉でなく 消す
持たないくらしを引き寄せよう
シンプルにすること
料理研究家のスパイス棚のようにせずとも
少ない調味料で料理する
そのカンカクで
クールにいきてきたろうか
クールな人が好き と思っているのは
自分がそうありたいと思うからかもしれない
クールというのは 冷たい人 という意味でなく
むやみに熱しない動じないひと
人のぬくもりやつながり って
私はあたたかいだろうか
ハグ
してきただろうか
ひととして
見る角度を変える というけれど
180度はダメと思った
多分180度変えてもそれは見慣れたものになる
後ろだったり裏だったりは 多分見慣れた景色
右と左も同じ
それより90度がいい
その少しねじれた見え方は きっと発見がある
見えなかった所が見える気がする
知らない景色になる気がする
そして
見る角度を変えるというのは
自分の立ち位置でなく
置き方据え方を変えてみる もある
自分をかえる かわる
それは何か新しいことをしよう じゃなくて
初めてのことをしよう のコンセプトで
はじめてのメニューを作り続ける
使ったことのない食材を使ってみる
したことのない調理法をする みたいに
いつもと違うやり方 方法をとる
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