消えてゆく小さなこと


消 え て ゆ く 小 さ な こ と

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1919年08月31日(日)

園庭が見えた
大きいお兄ちゃんお姉ちゃんと園児が
楽しそうに遊んでいる

中学生の仕事体験らしい

未来の保育士さんたち
自分の小さい頃を思い出してるのか
それとも少しオトナになった気持ちなのか

春のようにあたたかな陽ざしと風
おんぶや鬼ごっこはきっと暑い
いい汗かいてね


1919年08月30日(土)

田部井さん信奉で始めた健康サプリ

彼女ががんで亡くなったことで

続ける気がなくなった


こういうの風評になるんだろうか


1919年08月29日(金)

富士は霊峰だった

近寄りがたく堂々として

きりりと輝く佇まいだった

踏み込む一歩一歩が重々しかった


セカイナントカに登録されることは 本来は名誉で

存続保存に力注がれると思いきや

観光スポットになり下がっただけ

わんさか訪れる人の足跡は 

きっと山肌を削いでゆく


遠目で仰ぎ見る姿が 

輪郭がぼやけまろやかになった

そんな気がする


1919年08月28日(木)

大きな仕事をしている人は偉いのだと思う

でも絶えず小さな仕事を片づけ続けている人だって

同じに偉いと思う

次々に同時に多方向に気を配り切り替え集中し続けることは

一つのことに熱中し続けること以上に

大変なことだと思う


1919年08月27日(水)

セピアへの憧憬を

手放そうとおもう

いくつかの花と同じに


1919年08月26日(火)

自転車に乗っていて

なんだか少し顔がやわらんで

微笑みをおもいだした


ゆらゆら進んでいると

道という道に

庭々から金木犀の香りがふる


1919年08月25日(月)

そうなっても構わない

こころのどこかで

そう思っているから

そうなってゆく


すべて自分で引いた線

たどるのもこえるのも


1919年08月24日(日)

その坂をくだっていると
向こうの道にとっても素敵な施設をみつけた
本当に偶然ってあるんだね

探しても分からないだろうし
見つかりもしない場所に
欲しているものをみつける

引き合わせってあるんだね

空も道も植え込みも広々とした
空気のきれいなまちだった

いいね ここ


1919年08月23日(土)

身の回りにある小さな幸せをみつけて幸せを感じよう的な
幸せのおすそ分け的(個人の)HPブームってあったよね
一時そういうの見ていたけれど 飽きた
今でもあるのかな

でも宇宙規模で考えれば
そんな消えそうなことどうでもいいかも

人はいずれ死ぬんだし
嫌なことを排除する方向に行動する方が
より現実的にしあわせかも

ジブン変人になったかな


1919年08月22日(金)

雨のあと 今朝 金木犀が香りはじめた

甘くあたたかく優しかった

いつもは強いと感じるのに

今年の香りはじめは やわらか

つぼみの色も淡い  薄黄木犀みたいに


金木犀にしずかさを感じたのははじめてかも

いつもは元気を感じるのに

昨日はジンジャーが苦しかった

たぶん ことしのジブンがおかしい


1919年08月21日(木)

今年はなぜか ジンジャーリリーの香りが苦しい

甘さがつらい 華やかさが哀しい


1919年08月20日(水)

私が突然逝っても 悼まないで

私は笑顔です

じゃあね と思うだけ


1919年08月19日(火)

いつも何か腹立たしい気持ちがあって

いつも何か怒っているようで

腹立ち紛れに強引に決めたことは

結局判断ミスが多い

苛立ちを断ちたい


穏やかな人間に なりたい


1919年08月18日(月)

胸のうちに

黒いものが沈んでゆく

しずかに溜まってゆく

捨てたいのだけれど

少しずつふえている

そんな気がする


1919年08月17日(日)

ひとはしあわせに生きたいと願うものだ
その権利がある

生を得て死ぬまで
いのちをつなぎ子孫を残すためだけに
生きている生物とは違う

苦しむために生きているのではない

幸せに生きる権利があるのと同じで
生きることに苦しみしか残っていないとき
死を選ぶ権利だってあっていい

最近そう思うようになった

場合により
自死も安楽死も尊厳死も
ひととしての生き方のひとつ
終え方のひとつ
自分で選びとってよいこと
そう考えるようになった

神はそれを認めないのだろうけれど
万物すべてさだめなのかもしれないけれど

宇宙の大きな時の流れの中の一瞬を生きるいのちの
終え方を自分で決めるのは
いけないのだろうか

生きる義務というものは
消すことはできないのだろうか


1919年08月16日(土)

気の滞っているものを手元に置き続けて

何か意味があるだろうか


1919年08月15日(金)

ゆるすというのは ゆるめること と得たり
ゆるめることで おのれも ゆるめられ 楽になるのだと

ゆるすことで 平安をえられるというのは
ゆるめるということが 
おのれをもゆるめ救うことになるから

ゆるせない そう思っても
少しだけゆるめることなら きっとできるから
じぶんを締め付ける枠もゆるめることになるから

何かのハードルを 
少しだけ下げるようなものだろうか


1919年08月14日(木)

残さない  消す


その方針で


1919年08月13日(水)

そうだよね 

だれも他人のことなんて ヨソゴト

気になんてしてないよね


1919年08月12日(火)

ワタシハ アナタヨリ ウエノ ニンゲンナノヨ 

というオーラを 絶えず出しているひと なんだよね


1919年08月11日(月)

雨がつづくのは

外の作業を休めということ

怪我の手を癒せということ


1919年08月10日(日)

みつからないものを

探し続けるのはもうやめよう


みつけられないものを

追い求めるのはもうやめよう


そうすれば また 

あらたなものに気づくかもしれない


1919年08月09日(土)

リオ五輪とリオパラ よかった

リオは 歓迎 だったと思う
色んな不安をいわれていたけれど
ほとんど問題なく終えたと思う
いつもどこでも笑顔があふれていて
みんなで楽しもう
いっしょに楽しもうよと
歓迎されてる感じだった


この国はどうだろうか

東京五輪招致の
おもてなし という言葉のブームを思い出した

そのことば 接待と感じる
老舗旅館やいくつか星ホテルの接客マニュアルを学べば
そのノウハウに素晴らしいものがあるような
そんな雰囲気の流れだった
こころを伝えるために技術がものいうような

でもなんかちょっと違う気がする
おもてなし の言葉が先歩きしてる気がして
型を求めてる気がして
安心レベルを求めている気がして

リオを見ていて感じたのは

迎えるハートがあればいい
みんなで楽しむ気持ちでいい 
いっしょに楽しもうでいい

おもてなしって する側される側がある
でも歓迎して一緒に楽しもうというのは
同じ場にいる気がする
同じ輪になる気がする

本来五輪はスポーツを通しての
国際交流 世界の友好だったはず
接客技術の競争じゃないはず

安全にさえ開ければいい
贅沢な競技場でなくてもいい
その競技を広め楽しめればいい
リオは予算が苦しいと公言しながら
あんなにちゃんとやった
考えながらできた

この国は何をぐちゃぐちゃやってるのだろうね
誰が何のために招致したのだろう
初心にかえってほしい


1919年08月08日(金)

磨く という作業

手間をかけても必ず実りがある

どんなものでも 必ず輝く

どんなことでも かならず


1919年08月07日(木)

人は燃えて生きている

注ぎ込むことで生きている

エネルギーを燃焼させて生きている


燃えるものがある 注ぎ込むことがある

だから生きている 生きてゆける


人は誰も どこか何かが欠けているのだ

という気がしてくる

満足なからだなどないのだと


欠けかたの 大きい小さい

見える見えない目立つ目立たない

気にする気にしない

それだけのことなのだと


後にか 生まれたときからか

生まれる前からか

ずっとなのか いっときなのか

きっとそんなことは大したことではないのだ

エネルギーの燃焼には


人は何かが欠けている

自分も何かが欠けている

自分は燃焼させて生きているか     Rio Para


1919年08月06日(水)

その淡い青紫のふわふわした小さな花群れの

幽玄な風情をずっと愛しく思い続けていたけれど

ある日かすれた葉に哀しみを見た


想いにもいのちがあるのだ と


1919年08月05日(火)

目に見えるものを消す

物の整理

捨てる減らすの言葉でなく 消す


持たないくらしを引き寄せよう

シンプルにすること

料理研究家のスパイス棚のようにせずとも

少ない調味料で料理する

そのカンカクで


1919年08月04日(月)

クールにいきてきたろうか

クールな人が好き と思っているのは

自分がそうありたいと思うからかもしれない

クールというのは 冷たい人 という意味でなく

むやみに熱しない動じないひと


1919年08月03日(日)

人のぬくもりやつながり って

私はあたたかいだろうか

ハグ

してきただろうか

ひととして


1919年08月02日(土)

見る角度を変える というけれど

180度はダメと思った

多分180度変えてもそれは見慣れたものになる

後ろだったり裏だったりは 多分見慣れた景色

右と左も同じ


それより90度がいい

その少しねじれた見え方は きっと発見がある

見えなかった所が見える気がする

知らない景色になる気がする


そして

見る角度を変えるというのは

自分の立ち位置でなく

置き方据え方を変えてみる もある


1919年08月01日(金)

自分をかえる かわる 

それは何か新しいことをしよう じゃなくて

初めてのことをしよう のコンセプトで


はじめてのメニューを作り続ける

使ったことのない食材を使ってみる

したことのない調理法をする みたいに


いつもと違うやり方 方法をとる




天窓より          


−ともすれば消えそうになる自分を見失わぬよう−       

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− ささやかに −          

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日付は通し番号として記しています         


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