消えてゆく小さなこと


消 え て ゆ く 小 さ な こ と

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1915年09月30日(木)

いろいろとやってみるうちに
よさそうな方法がみつかるものだ

決まりきったメソッドで対応できることなんて
世の中のほんの一部だ
残りは現場でみつけてゆくものだ

みつかってゆくものだ
なるようになって

みつからぬままにすぐ終了する貴方は
ツメが甘すぎる


1915年09月29日(水)

どうして今まで思いつかなかったのだろう
君のベッド周りに素敵な贈り物

私にもできることがある
なるようになってゆく


1915年09月28日(火)

少しはよくなっているのでしょうか
人は痛みに怯え打ちひしがれる
きみの明るさは強さなのでしょうか
逃避なのでしょうか

きみを支えたい
きみを護りたい
そっと傍にいて


1915年09月27日(月)

アイドルグループの一員で
歌にもTVにも映画にもマルチの
超人気タレントだとしても
大人になればそれなりの言葉遣いが要ると思う
まして結婚して子どももいて父親なら
以前の若者の役そのままの言葉遣いが
かっこいいわけではないのに

いつまで続けるのかな
いつになれば気づくのかな


1915年09月26日(日)

いてもしょうがない
成果はゆっくり待てばいい

しなくては と思わずに
できればいい と思おう

きみのこと心配しても
なるようにしかならない
なるようになる そう思って
気長に生きてゆこう
ゆっくり生きてゆこう
生きていれば何かみつかる


1915年09月25日(土)

知りたいことがあって
調べたいことがあって
やっと答えに辿り着いた

からだがすっきり
軽くなったような気がする


1915年09月24日(金)

身体を動かす労働は
運動以上に身体を軽くする

ずっと気がかりのまま
長々と手を着けずにいたこと

早く取り掛かればよかった
始めればすっと気持ちよく
簡単に進むことなのに

ただただ後回しにしていただけ
ほかの事を優先して

だから意味不明の
落ち着かない夢を見続けるのだ


1915年09月23日(木)

明るい日ざしの中
ぼんやりと庭にいて
何かの香りにはっとする

あたりには柊がある
近寄れば雪のように白くなっていた

近づけばよく香るというのでもなく
時おりの風にふわっと強く香りたつ


1915年09月22日(水)

君のその言葉の意味するところは
その日から生活が変るということ
そして戻れないということ
新しいパターンで生きることになる
価値観を変えるかもしれない

でもそれはそれで楽しむことにしよう
憂うことなく


1915年09月21日(火)

念には念を入れるタチだった
でもそうでなくともよいのではと思うようになった
出たとこ勝負 それもいいではないか
ちゃちゃっと終える それもいいではないか

新しいやり方を探して試せばいい


1915年09月20日(月)

過ぎたるは猶及ばざるが如し
そのとおりなのだと実感

そして適度がわからなければ
控えめの方がいいのだと実感

自分でも不思議だけれど
今まで言葉としての理解だけで
実感したこと無かったのかも
何でも110%たっぷりがよいと思ってた

ヒヤリ・ハットの役立ち


1915年09月19日(日)

惑わされるというのは
易きに流れるからだ
自分の得ばかり考えているからだ


1915年09月18日(土)

今年いろんなものに
はまっていた

出会えたと思っていても
そのインスピレーションは
本当は逃避なんだろうか


1915年09月17日(金)

ここ暫く
健康食品とか化粧品とか
サプリメントとかに
はまってた

魅力というより魔力だ

健康とか美容とか
補う助ける役立つとか
そんな言葉のイメージに
引き込まれ陥るのは

でもすべてが身体にいいとは限らない
少し目が覚めた
身体に本当に大切なものは
きちんと食べものから摂るべきと

からだを決めてゆくのは
くすりでなく自分だと
生き方であり食べるものであると

警告という言葉がうかぶ

生き方少し変わるかな


1915年09月16日(木)

前向きに元気に生きるには
やっぱりハラゴシラエ

ご馳走やグルメというのでなく
腹がふくれればいいというのでなく
カロリーだの何品目だの
栄養バランスを考え抜いた献立というのでなく
高級こだわり食材を集めてまわるというのでなく

ふつうの食材で
気持ちが満ち足りる食事
気取らずに ごはん という言葉

キャンプの歌にもあった
ごーはんだ ごはんーだー さあたべよー

あーおいしかった それだけで
ひとは元気が出るのだ
おなかが満たされて心が満たされて
元気が出て前向きになれるのだ

ハラゴシラエは大切なのだ
そのことを認識させた映画

心を満たす食事をとりたいと思う
そしてそんな作り手になりたいと思う
そう思わせた映画

たそがれるかき氷より
元気になるごはん の方がすき


1915年09月15日(水)

改善して進化してベスト
無意識にそう思って続けていることも
ただの惰性かもしれない

立て直しをするべき時機かも


1915年09月14日(火)

呟くようなカーネーションの歌を聞くと
アルバムの中の一枚の写真を思い出す


年少組の時
幼稚園で作ったカーネーションのブローチを
持って帰って母の胸につけている写真
カーデガンでも安全ピンは難しい
私は真剣な眼差し おぼつかない手つき
母は顎を引き目を寄せてきっと息も止めて
自分の胸元を見つめている
父が撮ったその写真
母娘を見守る父の姿が見える


白いカーネーションの歌を
口ずさんでいる彼女
彼女なりの偲びかた


1915年09月13日(月)

盛り上げて盛り上げて
感動の名場面名セリフを作るのは
多分容易い
きっとお決まりのノウハウがありそうだ
見る側も期待し予測し同調し
そこに没したがっているだろうから

対してこれは
出来うる限り淡々と
その期待をはずし軽み転じてゆく

その先のセリフやシーンを
重くなる前にすとんと断ち切る
期待につなげず
不思議系になったりコミカルにしたり
突如場面を転じたりして軽妙になる

重さを引きずらず説明は入れない
切れた後に続く新しい展開に気を引かれ
さっきの続きを想像するのは後回しになる

だから総ておわったあとで
考えてしまうことが次々にあり
いつまでもずっと記憶し続ける

説明をしない
それは余韻となって
気になり考え続ける

捨てて余白に意味を置く
俳句のようだと思った
俳句のような映画だと


1915年09月12日(日)

世界でいちばん星の見える場所とかで
それでも目に見えない星が無数で
ほんとうの星の数はあまりに多く
一面というよりぎっしりで
小石の浜のようで

地球なんてこの中の一個にすぎず
どこにだって生物はいる
当たり前にそう思える
プラネタリウムへ行きたくなった
生まれてから二度しか行ったことがない

人類の最大の過ちは
灯りをつくったことだと思った
闇を失い 無数の星を見ることを失った
怖れを失い 夢も失い
謙虚さを忘れ 平和を失った


1915年09月11日(土)

明るい月が出ている
近くに大きな星がある
本当は無数にあるのだろうけれど
一個しか見えない
今旅が叶うなら
星の見えるところへ
明るすぎる宿はだめだ


1915年09月10日(金)

可哀想と思う
不自由だろう痛いだろう
身体がついてゆかないのかもしれない

でも
調子に乗るな甘えるないい加減にして
そう声をあげたい時もある

そして
声が元気だとほっとする


1915年09月09日(木)

たとえ原作であるとしても
小説と映画とは全く別物だ

シーンを届けたくて作られた映画がある
セリフを届けたくて作られた映画がある
そして空気を届けたくて作られた映画がある
これはその3番目

その空気に包まれることを
心地よしとして
小説も読んでみたけれど
そこにその空気はなかった

あったのは淡々と流れる時間
しずかに流れゆく時間
流れを届けたい小説だった

激しくなく
されど淀まず
しずかに流れ続ける
そんな時間の流れだった

ひとは時の流れの中に生きている
どこにいてもどんなときも
自分自身と向き合いながら
生を営んでゆく


1915年09月08日(水)

今日はあたたかだった
遊んでいるに等しい楽しい作業

何本かの樹が剪定される
道に葉を落とす前に小枝が落とされた

枝間から光が射し込んで
徐々におだやかな冬庭になってゆく


医者のアレルギーの薬は効いた
数日咳に苦闘していたのが嘘のよう
黄砂でもなるといわれた


1915年09月07日(火)

ひとの今日は
昨日までの積み重ねにたつ
昨日までの生き方の集大成
昨日までを背負って生きる
責任をとりながら生きる


だから
みらいの輝きは
今日の生き方が決める
あしたの生き方が決める

だから
いつからだって変えられる
決めてゆける
ひとの気持ち次第


1915年09月06日(月)

きみに言われた
わたしがクレーマーだと

そうかな
そうかもしれない

けれど
今回は違うと思う


1915年09月05日(日)

思い出すごとに苦い気持ちになるなら
苦い思いにしかならないなら

思い出したとて
どうにもできないことなら

思い出す必要があるだろうか
もう忘れていればいい

だれにも迷惑のかからない
己だけのことなら
忘れてしまえ


1915年09月04日(土)

そんなに好きじゃない と思わないで
そんなにイヤじゃない と思おう
その方がずいぶん楽になると思う

限定を狭めないで
広くした方が楽なんだ

好きなものに囲まれるシンプルな暮らしに
幸せがある と書いてあった
それは素敵だ
でもなかなかそこまで思い通りには
ならないものだ
家族でさえ好みは違う

好きの逆にイヤがあっても
微妙にひねりを加えれば
案外うまくいく

ストレートだけがいいわけじゃない


1915年09月03日(金)

一日中寒くて風が吹いていたけれど
ラファエロの天使画のような
薔薇色の夕雲

藍に淡い墨をぼかしたような空に
三日月か 四日月を見る
明るくてまぶしいほど
照り輝いていた


1915年09月02日(木)

丁寧な日本語をふつうに使って
全体が美しくなっている
静かな清らかな感じになって
町の空気に調和する

大人として
相手を気遣う距離感

はばたきたい思いを
静かに胸にだいているおとな達

彼女はムーミンで
彼女はミイで
彼女はスナフキン

そう思うと愉快


    ruokala lokki   Kopi Luwak


1915年09月01日(水)

どこか不思議で
時おり現実離れしているのに
自然に思える

それはきっと
きちんとまっとうに生きる大人の
夢物語

こころの奥の
あたたかなもの


       ruokala lokki   Kopi Luwak




天窓より          


−ともすれば消えそうになる自分を見失わぬよう−       

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* * * * * * * * * * * *        

− ささやかに −          

*  **  ***  ****        

日付は通し番号として記しています         


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