消えてゆく小さなこと


消 え て ゆ く 小 さ な こ と

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1915年06月30日(水)

タイヘンな人生 といっても
すごく頑張った人 という感じ

自分のやりたいことを
貫いて生きてきたのだから
辛いとか苦しいとかでないと思う

反対されてもなりたい道に進んだ
子どもを産みたいと思った
育てると決意した
戦争や事故で伴侶を失ったのでなく
意思で別れた
彼女が輝いて大きく見えるのは
そういう人生だから

他者のために自分のやりたいことを
諦めたという人とは違う

そんなひたむきに生きているオーラのある
母親業を捨てない役者さん
子は親を越えられるのだろうか


1915年06月29日(火)

迷いもやり直しもなく
一発OK

ぴたりとおさまった
そこが定位置
望まれた景色


1915年06月28日(月)

そこに
動かぬものを

流れるものでなく
揺れぬものを

その隅にひっそりと
落ち着きが宿る

重きものは SWEET OLIVE
暴れる蝋梅に替えて


1915年06月27日(日)

大きな賞を受けたらしい女優さん
名門の一族のひとなのに
はずれたヘンなひととずっと思っていたし
あまり好きではなかった

最近あるインタビュー記事を見て
なんだかきれいになったと感じた
女優という人に対して失礼だけれど
前はどかんとした荒い感じを受けていた
今たおやかに感じた


過去の自分を 屈折していた とあった
それが自分なんだ と
人間の弱さが出ている作品に惹かれる と
気持ちよく生きている人間に興味がない
うまく生きられない人間にこそ
魅力やリアリティーを感じる と
結婚して 自分を追い込まず楽になった とも

妙に惹き付けられた
輝いて見えた

自分の屈折を
真正面から受け止められる人って 強いなぁ
それが原動力と思える人って 

そういうアドバイスをもらえる人って
器が大きいんだと思う

よい意味のハングリーなひとなんだ
遠巻きに好きになった気がする

好きな女優として挙げるというのでは まだないけれど


1915年06月26日(土)

寂寥という文字がうかぶ
ひたひたと満ちてくるのだ
むねいっぱいになり
呼吸ができないのだ
秋のことばだ


1915年06月25日(金)

お湯に浸かって
ぼんやりしていたとき
なぜか不意にある人の顔が浮かんだ

子どもの頃
親戚のその人を怖そうなおばあさんと見ていた
挨拶や儀礼的な言葉を返す程度で
近寄らないようにしていた
怖いことを言われたことはないが
無口でいつも口をへの字にむすんでいる感じだった

でも今わかった
すっとわかった
わたしの胸にすとんと落ちた
そのひとは自分の娘さんのことで
いつも胸が一杯一杯だったのだ
よその子どもの機嫌など
所詮よそ事だったのだ

その娘さんは若くして亡くなったので
ほんの少しの記憶しかない

彼女は病弱で痩せていた
多分年頃(婚期)を過ぎつつあった
華やかさややわらかさ甘さ活気
子どもの目にもそういうものから遠い感じで
細い枯れ枝のように見えた

唯一 口を強く結ぶことで
家に残る末娘の将来を思う母として
不憫さやるせなさに耐えていたのかもしれない

おとなになって
今 その人の気持ちにふれた気がした
怖い人ではなかったのだ
子どもの頃のわたしを ごめんなさい と思った


1915年06月24日(木)

生きるって
失敗の積み重ね繰り返し

ダンシャリは
数多アマタの失敗を
認識する作業に通じると思う

だから
失敗を認めるのがキライなあなたには
合わないのでせう


1915年06月23日(水)

秋らしい夜が続く

高窓を閉めて湯に浸かる

頭上に静かで黒々とした夜の気配

一番気持ちいいお風呂の時候だ


1915年06月22日(火)

こころのかけら 
ことばの切れ端

破片にも似た
小さな断片の重なり

夥しくオビタダシク集まって
青いモザイクの聖堂となる


1915年06月21日(月)

新聞のコラムに
虐待の記事にまつわり
向田邦子さんのお父上と幼き頃の妹さんの
お話が引かれていた
娘を思う親の情に涙が出た

そのコラムの結びに
幸せな子とそうでない子の落差に胸が痛む。 とあった

字数の制限はあるだろうけれど
あともう少し書いて欲しかった

虐待からやっとの思いで逃げ出したであろう子に
保護されてやっと身体的苦痛から開放されたであろう子に
でも心の傷と不安は簡単には癒せないであろう子に
だからこそ 希望を持てるように

そうでない子 と断言して終わらず
あと一言でよいのだ

これから幸せになっていける子 と
少しずつ幸せを得ていってほしい子 と
そう記してほしかった


1915年06月20日(日)

急に肌寒い

心地よいというより
萎える

元気がしぼむ 
そんな朝

サヨナラを
たくさん
言いたくなる


1915年06月19日(土)

子どもを伸ばすという仕事は
かわいいとかかわいくないとかの世界でなく
教室での技術だという
それが結果かわいがることになるという
そんなことの書かれている本だった

高齢のすごい先生らしいのだけれど
バイブル的存在らしいのだけれど

共感できるようなできないような

真似れば 良い教師になれる?
挫折しない強い教師になれる?

最高の授業には
まさしく教師のプライベートは不必要?
なんか機械のようだけど?
ならば巧妙に組み込まれた最高のプラグラムがあれば
人は要らない?
機械相手に最高の授業で学べる?

でたらめや手抜きという人間臭さを疎み
ひたすら真面目にスキルアップを望むと
それは冷たい機械に近くなる


そうか それは教育の教の部分だ
機械に代用が可能だ

でも育には温かみが必要だ
寄り添う心が必要だ
授業だけが接点というのでなく
先生の人柄にふれる必要だ
教師のプライベートが試される
あたたかくない人には勤まらない

技術だけあれば勤まる仕事ではない
そのことが分からず就いて
多くの悲劇が起こる
受験塾には勤まるだろうけれど
フツーの学校はそうではないのだから
雑多な心に寄り添うあたたかさを問われるのだから


1915年06月18日(金)

憧れって だいじ
純粋な憧れは 若さのしるし
オトナになって
憧れるものが減ってきた気がする
何もかも忘れて
何の秤ももたないで
純粋に憧れる気持ち
もっと灯したい


1915年06月17日(木)

敗因は何々気取りの言葉遣い
CMよろしく
目のつけどころがどうこうと
思っていたのだろう
そんな言葉を出したのだ
鏡を見ればきっと自分でイヤになる
そんな目をしていたのだ


1915年06月16日(水)

風水のことはよく知らない
占いを見ることはあるけれど
信じて頼っているわけでもない

でも素人勝手に思うことは
風水っていうのは自分の運気を高めるために
よい気を呼び込むこと
自分の周りにそういうものを置き
悪い気をもたらすものは排除する
そういう環境を作ること

だからまず身の回りを整えて環境を作る
気持ちを整えるためのモノを置き
気持ちをパワーアップしモチベーションを高め
心の煩い身体の患いを解く方向に動く

そういうことなんだと思う

自分の運気を自分で呼び寄せ取り込む
その方法が風水で
グッズそのものに力が宿るとは思っていない
自分のエネルギーを高めてくれるものを
モノを含めた環境として整える

邪になる不要物 マイナスエネルギーになるもの
気持ちを負にするものを排除して環境を整える
ダンシャリも風水に繋がるかな と思う
ダンシャリで心地よいのは 
そういうことではないかな と思っている


1915年06月15日(火)

好意的なあたたかな気持ちでなく
わくわくと興味を持つのでなく
ただ醒めたヒヤカシの気持ちだけなら
自分に負のエネルギー

そういう繋がりこそダンシャルべき

よって4+1 結審


1915年06月14日(月)

気付きのないことを誇らないでください
気付きのない人はつまらないのです
話していてもつまらないのです
生き方に惹かれないのです
劇的なステップアップも
小さな踏み越えも
気付きや目覚めだと思う
生き生きと自分を生きている人は
自分の気付きを大切にしている人だと思う
自分の成長を求めている人だと思う
輝きを願っている人だと思う
目立つためでなく生きている証として


   巷に流れる気づきbookとは関係なく内容も知らない
   宗教的要素も含まない
   ふだんの生活の中の気付き


1915年06月13日(日)

ほんとにびっくり
きみがそんなものをすきとは

びんてーじかなにかしらないけれど
ただのがらすまぐかっぷ
ただぼったりとしたおもみ

ねだんをきいてびっくり


1915年06月12日(土)

TVで天蚕を見た
きれいな緑の繭で
輝く糸に紡がれた

ネットで見ると
体験ナントカの園は遠いです
販売もあった
ほしいなあ・・
というか触れてみたいなぁ
と思ったのだけれど

織物の製品はすごく高価で
ほしいのは そういうものではなく
繭ひとつ とか糸の端っこ とか
そういうもの
どんな輝きか見てみたい
どんなツヤツヤか触ってみたい

でも繭の中には
蛹が入ったままらしいので
やめました
苦手だ

だから
いつか安曇野のミュージアムに行ってみたい
ことにした


1915年06月11日(金)

鏡を見て思った

元気ないとか
疲れてるとか
そういうのではないのかも

ちょっと自信を失くしてる
そういうことかも

毎日のこと
これまでのこと
これでよしと言えずにいた

ゴーマンでも横柄でもジコチューでもいいから
自分を哀しまずにいよう

鏡の前でそっと思う


1915年06月10日(木)

薄紅色の絹の雲のそばに
細い月があった

ほどなく
雲の彩が消え 
白く輝きはじめた


1915年06月09日(水)

きれいな貝殻も 押し花も
どんなに色褪せても
ずっときらめくたからものだった
取り出して眺めては
にっこり幸せな気持ちになれた

それと同じなんだね


あなたの気持ち
少しわかった

宝だと思えることがしあわせ

宝物がなくなることは
ふしあわせなんだね


1915年06月08日(火)

明るいほう ではなく 
やわらかな方 をえらぶ
しなやかに寄り添う方向へ 

向きを修正


1915年06月07日(月)

とてもゆるやかに時が過ぎた
嵐のようだった昨日が遠い
たった一日でこんなにも違う
不思議な感覚

ローカル線の鈍行列車で一人旅をするような
気負いも焦りもなく
ただ受け止めるだけの時間の流れ

暑さに翳りが出て
エアコンも穏やかだからか
それともたおやかな舞台を観た余韻か


1915年06月06日(日)

きみに

言わねばならぬことがあって
でも言い出しかねている

いつかは言わねばならぬこと
でも言葉がみつからない

見つからない未来は辛い


1915年06月05日(土)

ジコってリハビリして
もう普通に近くて
でもずっと敬遠していた動作を
ふとしてみた
身体が欲求した気がする


赤ちゃんが成長してゆく時も
自然にうずうず身体が動くのかなぁ


1915年06月04日(金)

朝から秋の雲
午前中かなりしのぎやすく
ずいぶんはかどった
驚くほど多くの懸案事項をこなした
疲れもそんなに感じなかった
気温のほんの数度の差が
こんなに気力体力効率に影響するなんて
自分でもびっくり

そして思った
荷を軽くする って
動くのを減らすことではなくて

たくさん動いた方が
より働いたほうが
荷は軽くなる

そう思った


1915年06月03日(木)

荷を軽くする という言葉を見た
なぜか使ったことが無い
でも響くものがあった

重いからといって
捨てるのでもなく 
持たないのでもなく
拒否するのでもない

捨てられないし 
持たざるを得ないし
拒否できない荷もある
ゼロには出来ないのだ

でも軽くすればいいのだ
軽くする手だてを考えればいいのだ

そう思うとずいぶん楽になった
ゼロにするのは難しくても
どんな時だってほんの少し軽くすることなら
出来るだろうと思うから


1915年06月02日(水)

結局 行動する
何で私が・・そう思うけれど
誰も気付かないのか
汚れたまま放置されているのを
見るのが不愉快だから

とくに綺麗好きという人種ではないけれど
結局自分でしてしまう
ボランティアの気持ちはない
徳ではありません
自分のためオンリーのエゴです

気になることを片付けたら
やっぱり気持ちいいし
それはした人の特権だと思う

気にならない人は
きれいになっている気持ちよさも
きっと感じないのだろうね
それってソンだよ


1915年06月01日(火)

台風の影響だけれど
やっと涼しい一日だった
空が秋空でほっとした
夕顔の蕾も残り少し




天窓より          


−ともすれば消えそうになる自分を見失わぬよう−       

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− ささやかに −          

*  **  ***  ****        

日付は通し番号として記しています         


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