消えてゆく小さなこと


消 え て ゆ く 小 さ な こ と

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1909年11月30日(火)

もう期が過ぎてしまったものを
ずっと見落としていたものを
どんなに振り返っても
仕方ないよ
もう過ぎてしまった
もう済んでしまった
ね もう行こう
もう歩き出そうよ
前を向こうよ


1909年11月29日(月)

五月という言葉のイメージを思い出せないまま
真夏のようになったり肌寒かったり
嵐や雷どんより曇りがきたり
晴れ晴れする気持ちよさは
青葉の心地は
どこかへ消えてしまった
すぐ梅雨になる
気持ちの立て直しを図れぬまま
薄暗い日々が始まる

ねえ もう一度
どこか郊外へ 
思い切り飛ばしませんか

それともカーテンをたくさん洗濯しようか


1909年11月28日(日)

さて どうなんでしょうね
知らないところで動きがあったのかもしれません
それなら心配ないのです
いつか表に出るでしょうから
気長に待っています


1909年11月27日(土)

いろんな教育問題が論議され
いろんな教育論が展開され

でも基本はなんだ
世界全体のしあわせを願い
未来への希望をつないでゆくことだ
子どもたちをそう育ててゆくことのはずだ

一部の子どもだけが(たとえばわが子)
特殊に成功することを願った育て方が蔓延するのは
大人たちのジコチュウだ
世界を顧みないジコチュウだ

小さなひとたちに一番大切なのは
天才幼児になる頭脳でなく
情緒ではないかと思う
安定した情緒をしっかりたっぷり身に蓄えた子どもが
将来 平和を愛する徳ある人間になるのだと思う
苦しいときも頑張れる人になれる
人を傷つけることにためらいを持つ人になれる

情緒は 高尚な情操教育とやらでなくとも
お金がなくともたっぷり注げるものだ
周りにあふれておればよいのだ

中途半端な美しさを掲げる国づくりでなくとも
大人たちが情緒を排除せず 壊さず
しっかり子どもたちの手本となればよいのだ

競争だけをあおる国 
ある一面の勝ち負けだけを大げさに扱う国
美しいワケはない
隣にいる人のしあわせも願える人に育てねば
国が豊になるはずがない

後ろめたさ無くいる大人たちが
悪い手本をばらまいている
反省しない人たちが 国の情緒を壊してゆく

小さな人たちに手本となるのは
もう絵本しかないのだろうか


1909年11月26日(金)

白合歓の花が咲いた
初めて咲いた
初めて見た
けさらんぱさらんみたいだった


1909年11月25日(木)

蛍の夕べがあるのですよ
行かないかと誘われた

昔 山里の小川に行った時
田んぼに一面飛び交って
力強い光跡がすごかった

庭園に育てられたのは
どこか弱々しいのでは と思ってしまう

どうでしょうか


1909年11月24日(水)

もうミルキーではないから
何も必要ない
道が決まれば要らぬもの
こんなアドレス
いつまでも置かずに


1909年11月23日(火)

あの日 はい をためらった
気持ちをすなおに 一言に込めなかった
だから夜の波に胸がさわぐ
さくらんぼが恋しい
流星が愛しい


1909年11月22日(月)

突然に蒼い言葉を吐いて
もう消えたのかもしれない

そんなふうに消えたいと
いつも言っていたから

どこにいるかなんて
わからないけれど
多分そのお話と同じところ
私の思ったのと同じおはなし


1909年11月21日(日)

スードクの難問
たのしい


1909年11月20日(土)

もう誰にも会えない
そんな気がする
人それぞれだし
人の気持ちは変わってゆくから
静かになったけれど
少しさみしい

誰かにあいたい


1909年11月19日(金)

吐き捨てたい気持ちをのみ込んで
見上げる空は雨なので
そっと そっと 犬を撫でている
あたたかなやわらかないのち
ひとと同じに血が流れている
じっとこうして抱き寄せていると
静かに忘れてゆく
もういいよ そんな馬鹿げたことは
風のように消えてしまったものなど


1909年11月18日(木)

開放的なのが好きだった
押し込められるのは 好きじゃない

だから
どこまでも広々とした所が好きだし
雑草ばかりでも何も無くてもかまわない
小さなコンテナに押し込められた寄せ植えも
花首だけのアレンジも
素敵だと思わなかった

でも 最近ちょっと気持ちの変化
こじんまり路線のライフスタイルに
少し惹かれている


1909年11月17日(水)

一色です
ミゴトなほど混じりけなく
ミゴト過ぎて哀しいほど

哀しいです
ひとりでは 広すぎる


1909年11月16日(火)

お早うを言いたかった
お早うと言ってもらいたかった

そういう長い時が経って

時間は知らぬまに去ってしまう
新しい時間に会う前に


唐突に 
エリカちゃんのイメージ 水晶


1909年11月15日(月)

ほんとうに
消してしまったのだろうか

残骸も跡形もなく

ただもう飽きたから
そう一言で終わるのかもしれないけれど

自分のための何かを始めたくなったのかも知れないね
イママデハ ソウデナカッタ ト 
コレカラハ チガウ ト

きっとやっと正直になれたのだと思うことにする
誰かの期待のためにではなく


1909年11月14日(日)

朝日をしっかり入れたとき
雨の日の 照明だけのとき

部屋のくすみに気づく
知らないうちに重なってきたもの

自分にも
きっとある

部屋の随所のミガキをはじめる

自分のことはアトマワシになる


1909年11月13日(土)

敵は ネギ、ピーマン、ちりめんじゃこ
要注意


1909年11月12日(金)

今ならわかる
大人になりきれてなかった
どんなわだかまりがあるにせよ
こちらが礼儀を失くしてはいけなかった
きちんとお悔やみを言えねばならなかった


1909年11月11日(木)

お子ちゃまなら しょうがない
買いかぶった私に見る目がなかったということ
ただそれだけのことだから
そしてそれは日常茶飯事のことだから
どうってことないって
また一から始めればいいだけのこと
静かついでに 丁度いい


1909年11月10日(水)

10時半のゆとり
それがキーポイント
一日の大半を左右する

そのとき
輝いていたい


1909年11月09日(火)

静かになった
ほんとうに静か
ざわめきの無いことに
少しテンションが下がって
そんな自分にうろたえたけれど
やっともとの静けさに慣れた
そうだ 原点だ
静かな原点のはずだった
花を飾ることも 楽を奏でることもなく
じっと静かに佇む原点のはずだった
そこに浄化を求めたはずだ

今 少し思い出せずにいる自分に戸惑う自分のまま
ただ この静けさを慈しみたいと思う


1909年11月08日(月)

翳りがあります
新しい息吹の流入を感じられません
とくにバリアを張っているわけではないけれど
風の流れを感じない

それは自分に責があるでしょう
窓からの景色に馴染めぬものが入り込んで
天窓をしばらく閉ざしていた

気にせず やっぱり全開しようかな
少し離れた所に巨大クレーンの先がうろうろしても
関係ないと無視すればいいだけのこと
空が見えればそれでいい
風が吹き込めばそれでいい
そう思えばいい


1909年11月07日(日)

久しぶりに会ったひと
顔を見て 笑顔で話して
電話ともメールとも違う高揚がある
短いけれど 充実した時間を持つ

そういう日のあとは
時間を軽く感じる
さくさく軽やかに流れる気がする
色んな仕事を張り切ってできる
意欲的に新しいことに取りかかれる

なんだろう
エネルギーをもらったということだろうか
パワーストーン のように


1909年11月06日(土)

引きこもりとか自閉とか
もう当たり前に見聞きする言葉になった
特別なイメージがなくなった
昔〜でした と本人たちがさらっと言う

過去にそういう体験を持ち 
そしてそこから卒業した人が そろって言うのは
人の痛みを分かることの出来る人間になれた
だから人に優しくできる と
そして互いにそう言い合っている
自分たちは優しい と
そして周りもそういうふうに理解してきた

でも最近ちょっと疑問に思うときがある
そうやって立ち直ってきた人たちって
やさしい っていうより
意外に変に強い感じがする
そういう経験の無い人間より
むしろ けっこう頑固に押しが強かったりする
そんな場面に何度も出合って
優しいって 何?? と思ったりした

そうしなければ立ち直れなかった
そうしたから立ち直れた
そして優しさだけではきっと立ち直れなかった
暗にそう言われてるような気がしてならない
むしろ 強くなれた と言った方がいいのじゃないかと思うくらい
でもそう言うとまた叩かれたりするのだろうか

もし自分がそういう状況になった時には
優しさを価値として自分を慰めていても
いつまでもそこから出られない
人を押しのけるくらい強くならないと と
そんな風に思わされる

それが真実なんじゃないか
近頃そう思います
キレイゴトはいらない

逆に考えると そもそも自分の内面のはっきり強い人が
外界にあわせることに困難を感じて
そういう状況になるということなんだろうか
現代の手っ取り早い充電体勢なんだろうか
だからそこから脱出した時には 
より強くなってる ということなんだろうか


1909年11月05日(金)

可愛い より 愛らしい という言葉が すき

見る人使うひとの 静かなあたたかい気持ちを感じる響きがある
大仰でないささやかさがある
絶対に叫ぶことがない
それに多分 面と向かった相手には使わないから
わざとらしさもない
それに何より愛らしいというのは自覚ではないから
他覚という言葉があるなら そういうものだと思う
だから言葉に自己主張を感じない

日本語として 
悪い意味合いを全く含まない 含ませようがない
うつくしい言葉だと思う


1909年11月04日(木)

ゆっくりペースで
たっぷりと外の仕事をした
瞬発力でなく持続力で

持久走的なペース配分なので
そんなに疲れを感じないが
量的には かなりこなしている
休まないから

このペースが自分にあっているから
人と組むより 一人でする方が
楽だし はかどる


1909年11月03日(水)

牧場を紹介する番組を見た
牛舎で多数飼うのはストレスがたまるからと
牛たちは頭数も少なめで放牧されている
他にもいろいろな動物がいる
それは素敵です

でもファームショーでは
農場の動物は ペットではなく仕事をさせるものとわかる

GWに間に合わせるために
雪解け明けから短期間で
芸を忘れた馬が特訓調整を受けていた
それって人間の都合に合わせたエゴと思う
冬の間も工夫して少しでも乗り続けていれば
信頼関係がゼロに戻るなんて無いと思う
馬は 初め苛立って逆らっていた
調教で信頼が回復したというより 
ねじ伏せた ように見えた

ロバにお座りをさせていた
賢いのかもしれないが 
できたからといってロバに必要な動作なんだろうか
牧場でサーカス要る?
する観光牧場もあるけれど
その牧場の牛への配慮とはチグハグな感じがした
ショーに柵が無いのは
やっぱり何かコトが起こった時 対処できないのではと思う
ねじ伏せた動物は 暴走する時がある

牧場への期待感で見ていたけれど
それは 酪農、牧場への夢 というのではなく
ビジネスとしての夢 のように感じた
同士や仲間と王国を造る夢ではなくて
王様になる夢だったのかな

ビジネス的に成り立つための要素かも知れないが
オーナー(経営者)と雇い人 みたいな図式に
感動が薄れた

夢であっても本業にはならない
芸能人のサイドビジネスなだけなのか


1909年11月02日(火)

ジャムというもの
あまり好きではないのだけれど
とても美味しいジャムをもらった
手仕事というあたたかさに
果物の芳しさがはっきり残っている

工房だの農場直営だのいろいろあるけれど
そういった規格に関係なく
今日の出来不出来があるわけで
その波に 寧ろ温かさを感じたりする

丹念なレース編みのようで
大胆な浜鍋のようで

薫り高いジャムは
優しいお菓子のように
しあわせなひと時をくれる


1909年11月01日(月)

なんだかつまらなくて
何かが足らなくて
楽しい部屋 という言葉がうかぶ

シンプルなナチュラルな
そういう美しさを求めていたけれど
落ち着いた静かな和やかさに
癒されていたけれど

ちょっとばかり
変えてみようかと思う
楽しいと感じることを
あちこちに仕掛けて

それってスパイスかな




天窓より          


−ともすれば消えそうになる自分を見失わぬよう−       

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− ささやかに −          

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日付は通し番号として記しています         


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