消えてゆく小さなこと


消 え て ゆ く 小 さ な こ と

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1902年06月30日(月)

恐ろしい音の雨が落ちてきて人は頭を抱えている
草木はしゃんと背を正して真正面に恵みを受けている
ぐずぐずと文句をいうのは常にひと
根を踏ん張りなおした向日葵の鮮やかさにも気付かずに


1902年06月29日(日)

雨をしのぐ屋根の無い暮らしは哀しいか
猫たちは何処へ行っただろう
自由にねぐらを求めて
全力で安堵を図れることは
しあわせかもしれない


1902年06月28日(土)

大粒の雨が轟く音をたてても 何も驚きはしないのに
些細なことで涙は落ちる
支えを欲しくてではない 支えになれなかったこと
わたしは何をしていたか 空を飛んでいただけ


1902年06月27日(金)

旅に出られる人は幸せ
わたしの足かせは重い
気持ちだけ飛んでゆく
この天窓を出て何処へでも行ける
列車もバスも辿り着けない所へも行ける
岬の果てへも滝の裏側へも羊歯の谷底へも
夢の中へも 行ける


1902年06月26日(木)

まだ旅をしていますか
幾度となく訪れる見慣れた土地へ
求めた新しい気持ち
見つかりましたか
踏ん切りはつきましたか


1902年06月25日(水)

猫が降ってきて
どこからかやってきて
音もたてず やわらかな足で
屋根にいる

やんちゃな子猫は丸い目でこちらをじっと見ている
母猫はねている
平和なんだね


1902年06月24日(火)

少しふくよかになったこと
生活のリズムが少しだけ流れ始めたとわかる
ホタル、見に行きませんか


1902年06月23日(月)

山上の小さな池
澄んだ漣が雲を映す
風がどこかの囀りを運ぶ
小さな花の季節も 緑濃い季節も 黄金に燃える季節も
訪れる人は楽園だという
やわらかに笑む池の気持ちを誰も知らない

願いは嵐
底石まで掻き出す激しい雨
全て流れ出て新しい土地の小さな池になること


1902年06月22日(日)

太陽でも空気でもなく
美味しい水でありたい
お互いにそういう関係でありたい
生き返った心地して
しみじみとありがたいと思える関係
長い時に濾過されて湧き出る澄んだ気持ち満たして


1902年06月21日(土)

猫にやさしい町というのをTVで見る
のどかなところ
神社や茂みや原っぱや坂道や石垣や船着場や
自由に行き来できる場所が山ほどあって
家の塀だって毎日自由に巡回して 
皆からご飯をもらっている
誰の猫でもなくて ノラとも言われていない
注射だ手術だと追いまわされずに
年老いてもゆったり生きている
いろんな名前で呼ばれながら

誰かに迷惑かけているだろうか


1902年06月20日(金)

ある時ばったり聞こえなくなった声
まるきり様子がわからない
うずくまっているの?
昼寝しているの?
引っ越したの?
もう命がないの?


1902年06月19日(木)

砂浜を渡る風のような
熱い風が時おり吹き込む
はっきり もうそんな季節だとわかる
屋根は灼けて眩しい

こんな午後 窓から顔を出す人はいない
無人の屋根と壁が続く
高い木に巻きついた南国の花が
乾いた風に揺れている

そんなものをぼんやり見ている殺風景なこころ


1902年06月18日(水)

編み込んでしまった糸はもう解けない
好きでなくなった色の混じるまま 引き出しの奥に 
もう着ることはないだろう
見たくないなら捨ててしまう?
それとも全部染め替えますか?


1902年06月17日(火)

死ぬ時の細々とした希望をまとめるノートがあるらしい
プロが編集したという項目に はじめ興味がありました
死ぬ時に気になることってどんなことだろう
ほんの興味だけだけれど買ってみようかと思いました
でもだんだん不安になってやめました

その項目を見ればきっと印象が強すぎて
頭から離れないんじゃないかと思う

死ぬ時は好きな花とその香りと。
だからそれまで世話をして
その季節まで死なない。と決めている
あとは 自然に帰してと 思っている。
空でも海でも山でもいいです。


1902年06月16日(月)

見本のようなひと
手本ではなく

距離と視線が微妙に違う


1902年06月15日(日)

雨が降ると言われて 待ってばかりいて
あっという間に元気をなくした 来たばかりの紫陽花たち
ごめん
まだヨソモノ扱いしてました
ちゃんと面倒みます


1902年06月14日(土)

小鳥のくれた向日葵と並んで
選びに選んだ向日葵が優しく咲きそろってきた
ゴッホでなくモネ
絵日記の向日葵はもうない
子猫が歩けるといいのだけれど


1902年06月13日(金)

バラ園に行きました 何年ぶりだろう
白やローズやピンクやベージュやクリームやブルー
ブーケにしたい花をたくさん期待していた

でも淡い色より強烈なレッドが多かったです
花写真や通販カタログとはイメージが違った
ガーデンショップのバラ苗フェアの方がきれいだった
美しくても ひ弱で高い品種は愛好家向きということです

バラ園というもの 同じように思っていたけれど
花屋でも量販店もあればブティックもあるわけで
広大なバラ園でも品揃えは行ってみなければわからない
と思ったのでした


1902年06月12日(木)

面影を重ねてしまうひとがある
とても離れてしまったけれど

懐かしくもあり
悲しくもなり
遠いとも思う

皆それぞれ色々なことをかかえて
ポーカーフェースでやっている
苦しいことなどないように
寂しくなどないように

だから何も残っていない


1902年06月11日(水)

生まれ変わるなら何に? と聞かれます

私は人間ではなくて小鳥になりたい
林や山にいて木の実や種なんかを食べて
人家近くにも来て人に寄っていける小鳥
牧場の柵や庭木や芝生のベンチや
台所の窓辺やテラスで囀る
コマドリとかシジュウカラとか
でも籠には飼われない
病気になっても鷹につかまれても泣きません
天寿というものを受け入れて死ぬ
小鳥の屍骸はとても軽いです
あっという間に天国に旅立つからだと思います


1902年06月10日(火)

ものごとは小さなことの積み重ねが大事と
教わってきました

でも小さなことは
大切に積み重ねてまとめないと
すぐ忘れる 消えてなくなる 捨ててしまう
自分の土台にはなりません

だからいつまでたっても
レンガのお家を築けなかった

少なくとも これからは
捨ててしまうことだけはないようにと思ってる


1902年06月09日(月)

押し付けられるのが嫌なんです
人はそれぞれ自分の感覚があるはずです
だからわたしはあなたに押し付けない

自分で見つけることが好きなんです
発見という出会いが最高だと思います

ぼーっと歩きながら きょろきょろしてるのは
わたしです
だから先を歩いてもナビしないでください

ちなみに私は地図派です


1902年06月08日(日)

日本画が好き
なぜ好きかを考えていた

余白があるからかもしれない
その空間に奥行きを感じるからかもしれない
描かれていなくとも 
そこに存在するものが伝わってくるから
語り尽くさないという美徳なのか

洋画の 素描ではなく完成された絵で
背景が埋め尽くされていない絵を知らない
語らなければ伝わらないということか

基本的に自分の生き方が日本画路線になりつつあると
最近自覚している
余白は余白として美しくあるべき
無理に埋め込む必要ないでしょうと


1902年06月07日(土)

強引に物事を運んではいけないと
ずっと教えられてきた
なんでも強引にやれば コワレルのだと。

だから何でもすぐ引いてしまう

でもこの頃思う
強引にやっちゃった方がうまくいくこともあるんじゃないか
恐る恐るするよりいい結果が出ることもあるんじゃないかと


1902年06月06日(金)

夢に出てくる君は いつも向こう側にいる
テーブルの向こう
芝生の向こう
信号の向こう
声も届かなくて 追いかけようと回るのも難しくて
私に気づかぬままに友達と行ってしまう

いつもそうだった 何故か夢の中では 
もどかしいほど間があって
私は声を出さなくて
君と君の友達の談笑が遠ざかるのを聞いていた


1902年06月05日(木)

送別会というのが苦手だ
いくつかつぶしました
送るのが嫌いだ
取り残されるのがいやだ

でもあの時のは
今でも罪悪感があります
ごめんなさい
してあげなくて
あなたが挨拶の言葉まで考えていたと後で聞くまで
カンペキに頭から抜け落ちてました
物理的な別れにしか思えない
そんな私だったから
前しか見えていない私だったから
本当にすまなかったと思っています
心が痛みます
ごめんなさい


1902年06月04日(水)

気づいたことがある
貴方の気配りは カタチだ
手落ちのない気配りだと思う
でも形式的すぎて たぶん代わりを出来る人がある
気持ちを配られたら忘れないのでしょうけれど
カタチなので 受け取ってみても
上等のティッシュでも配られたような気分

カタチを手配する気配りって きっと重労働だ
由緒正しい家の執事のようにたいへんな仕事だ
けれど それは、訪問客の
勤勉な男だという評価で終わるだけだ
彼を晩餐に招待する客はいない

庭手入れの青年の 口笛と、苺とつぐみの話が愉快で
そのさわやかな笑みと土に汚れた長靴が楽しげで
うちの庭でサンドイッチでもいかがと誘う客はいるのに

彼が泥だらけで寄ってきても 
客たちは彼の話をくつろいで聞くのに


1902年06月03日(火)

新聞のエッセーで見た四葉のクローバーの話
大きめの三つ葉のクローバーを踏んで
それを大切に持っておくと四葉になる、いいことがある 
と中学生の間には語られているという
探す幸せでなくて 作り出す幸せもアリ なんだ

大人はすぐ ウッソー聞いたこと無い と思うけれど
三つ葉を踏んづけるって
どういう発想から来た行為なんだろうか
ヤケッパチの、それでも一縷の願いだったのか
哀れみをかけた優しさだったのか

見逃さない神様もいたんだなと思ってしまう
四葉はいつも探している


1902年06月02日(月)

どうなるんだろうという好奇心はいっぱい持っている
転じること好き
発想の転換というコトバ好き
無駄なことに面白いことがあると思ってる
意味ないことで遊ぶ

蜂蜜やさんにもらったLIP用パックなるもの
良いものらしいけれど使わなかったので
手の甲にぺたぺた塗ってみただけのことです
とくにどうということも無かった


1902年06月01日(日)

訪れてくれるのと棲んでいるのは違うから
庭のどこかにねぐらがあるのがいい
葉陰からいつものヤツが現れるのがいい
どこかに卵をうんで子どもが出てきて
ひょっこり出合うのがいい

そういう意味では
あでやかだけど蝶ってホームレス
卵だけ産み付けて 育ったのもまた飛んでいく




天窓より          


−ともすれば消えそうになる自分を見失わぬよう−       

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− ささやかに −          

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日付は通し番号として記しています         


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