消えてゆく小さなこと


消 え て ゆ く 小 さ な こ と

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1905年12月31日(日)

モノがありすぎるから 
溢れてしまうのだ
だから少なくすればいい
二つあるのは一つにし
買うのは半分にすればいい
とても大切な貴重なものとして
どんなものも命を全うできますか


1905年12月30日(土)

ごちゃごちゃした所はさっぱりと
寂しい所を賑やかに
かげのものを引っ張リ出して
庭中 大移動
そこかしこ雰囲気が変わる
漫ろ歩きのうれしさは
在るべきところに在るものが在り
新しきところに新しきもの
発見はいつも楽しい
小さな出逢いはいつも嬉しい
みな生きている
新しい場所に胸張って生きよ


1905年12月29日(金)

我慢すること、しないこと
我慢できること、できないこと
一週間 
決めるのは容易くて
止めるのも容易くて
心にない言葉並べて

売上はどうですか
お客来ましたか


1905年12月28日(木)

雪のように白くこぼれて
柊が咲き始めた

庭の隅に香りがたまる
雪が積もる時のような匂い


1905年12月27日(水)

庭に長い時間いた
セージの香りが服に残る
月明かりを感じるまで
堪能した秋の時間

知らぬ間に紛れ込んだ
紅葉の便り 君から
でも もう動揺しない


1905年12月26日(火)

ライフワーク という言葉
いいな と ふと思う

堂々と 或いは周囲からも
認めてもらえるほどのコトをしているひと
何かに熱を入れて生きて

ずっと 何も残さない人生というものに憧れていた
命が尽きる時 私に関して何も残らないようにしたい と

でも今違うことも思う
それは寂しさからではなく
単純に 今を燃えて生きたい 為だけに


1905年12月25日(月)

寒くて体温調節がうまくいかない
身体がかじかむと気持ちのコントロールができない
ひとのために何かしようというあたたかい気持ちが消える

指先ほどの炎に 暖かい想いを胸いっぱいにさせた少女も
小さな主人のそばでいっしょに夢をかなえた大きな犬も
どんなにか凍えていたろうに

寒いと言ってはテンション下げて
ぼんやり時間を流してしまった一日
だめだね


1905年12月24日(日)

今日はずいぶん寒いと思いながら
熱いカップを持ったり
カーデガンをはおったり
フリースのひざ掛けを持ち歩いたりするだけで
小さな暖房具を使うことを忘れていた
エアコンはまだいらないと思ってるだけだった
ミニマットもミニハロゲンも出してるのに
スイッチ一つでほっとするのに
冷え込み方にまだ慣れない
庭の木がまだ色づかないから


1905年12月23日(土)

一週間 忘れることができるなら
一週間 我慢できるなら
一週間 離れていられるなら

何時までも続けられるだろうし
ゼロにできるものだろうし
繋がりなど無いのです


1905年12月22日(金)

教わらなかったから 
大人が見せなかったから
分からないんだね
ひとにどう声をかけるのか
お互いに
君たち


1905年12月21日(木)

柊のつぼみが膨らみはじめていた
まるいつぼみは 薄い皮をかぶってた
花弁がほどけて開くのではなく
薄皮が袋のようにむけてゆく
ポップコーンの皮みたいだった
初めて気づきました
いつもは開いて香りがしてから気づくので
小さなつぼみまでじぃっと見てなかった
今日はみなまだ小さな丸いつぼみだったので
どこかに開いてないか
どれか香り始めてないか
丹念に見ていたから

それであんなに傷つかず白い花なのね


1905年12月20日(水)

人は根本に何を据えればいいのでしょうね

いま思うのは
善良であたたかであること

それですべて上手くいくのではないかと思う
そこから出たものは 許されると思う

子どもも大人も
未来も


1905年12月19日(火)

自分の歌うアメイジング・グレイスで送られるということ
そのひびきに 涙がとまらない
ホンモノを求める気持ちを大切に生きてきたのでしょうね

ひとはいろいろと
ゴマカシで生きている
精一杯 自分を騙してその気になって
それが軽くていいと信じて
重い枷は嫌だと思って

でも心底の歓びは
きっと得られない

久しく求めなかった求めようとしなかった本物というもの
また求めたくなりました
気持ちのホンモノ というものです
ホンモノを求める気持ち というものです


1905年12月18日(月)

間を流れているものは
泥沼のヘドロのようなものですか

小さな溝に溢れるほどに
毎日溜息捨てるから
誰もきれいにしないから

だから誰も通らない

どちらが勝つかなんて関係ない
きっとどちらも負けないから
傷つけあっても負けないから


1905年12月17日(日)

体のどこかがきっと悲鳴をあげている
軽やかに運動できる身体に
そういうリハビリというのも
アリだよね


1905年12月16日(土)

私のエネルギーはソーラーかもしれない
突然に雲が覆いだすこんな午後は
一段と萎えてしまう

この部屋をかたづけて
移ろうと張り切っていた気分も
消えてしまった

林床にきのこを見つける逕も
楽しかろうけれど


1905年12月15日(金)

今にも壊れそうなのを細々と騙し続けて
何時止まっても不思議ではないと思いながらも
大丈夫とタカをくくり続けて
でも止まると困るからバックアップ作業ばかり

初期化不能の環境下
おどおどとストレスたまる


1905年12月14日(木)

法律のことはよく知りません
でも
子どもから突然大人になるわけじゃないのだから
成人、未成年 という区別でいいのかな?と思う
プレ大人の人たちに対しての
法とかもあっていいんじゃないかと思う
(青年法なんてあるのかも知れませんが)

子どもは守られ育てられ だけれど
中三くらいからは大人的思考ができるようになり始めると思う
最高学年となるとそれらしいことを要求されるはず
自身でも成長できるはず
ましてプレ大人の高校生を子ども扱いするのはおかしいと思う
まして高校を卒業した成人前の青年は
其々色んな人生に踏み出していて
そこで大人感覚を身につけていかねばならないはず
しっかりプレ大人しないといけないはず
甘やかしてはいけないと思うけど

そういう前提の法律 あるのかな
小刻みに 学齢1年ごとに対応していてもいいくらいだと思う
高1と高3と大2じゃ 自覚も責任も違って当然だと思うから

子どもじゃないぞ プレ大人だぞ という
周囲の認識と本人の自覚が 
世の中に欠けているのではないかと思うし
大人がそうしている気がする

少年法を云々より 青年法をしっかりすればいいと思うのです
子どもとプレ大人を一まとめにしようとすることに
ムリがあるんじゃないのかな


1905年12月13日(水)

悪いのは 私たち 大人
子どもたちではないのです
改良するのは学校のシステムとか法律とか
そんなことではないのです

子どもが育つのに
悪いことを手本としてはいけない が
第一のはずなのに

自由と称して
大人が悪い手本を世にアマタ送り出している
世に悪い手本が流れているのを黙って見ている

大人が自律し 
常々子どもたちに
悪いことを手本にするな と言えばいいのです

大人が子どもの眼にさらされ
身を引き締めることを常とするなら
それが未来をよくするのに

大人がすべきことは
子どもを締めつけることより
悪い手本を排除することではないのですか

眼の前にあるものが良い手本か悪い手本か 
はっきり子どもに伝えられることではないのですか

未来を作るのは子どもでなく
今生きる大人の責任のはず
手本を示さねばならないはず


1905年12月12日(火)

アメイジング・グレイスを美しく歌える人は
天へゆき
奇跡の心臓を受け取った少女は
命をつないだ


1905年12月11日(月)

わたしのギルはお医者にならなかった
わたしの髪は金色にならなかった
少女の夢は終わり
だからもう森へは行かない
湖水のほとりも通らない


1905年12月10日(日)

川原で石をひろうのも
浜辺で貝をひろうのも
ぴたっと眼が合うものです
数ある中から光って見える
始めからそれと決まっていたように

ひとの文章にも
光の波長があると思う


1905年12月09日(土)

アンインストールがうまくいかない
見えないどこかに欠片が残っていて
新しいのをインストールできない

うんざりしている
だれてしまった
疲れました

上手くいかない時って
張り切ったところで
何をやっても上手くいかない
徒労感だけ


1905年12月08日(金)

ずっと 
鏡に映る自分の正面 だけを見てきた
ような気がする

もっと
色んな角度から自分を見ないといけないんだ
自分のこと何にも見えてなかった


1905年12月07日(木)

西の空低く
少しオレンジ色の細い月と
明るく大きな星

美しい夕方
あたたかだった


1905年12月06日(水)

最近うなだれて歩いていると気付いた
知らぬうちに俯いている
下向いて歩いている

胸張って遠くの空を仰いで
晴れ晴れと背筋を伸ばして
少し顎など突き出してみようかな
誰に遠慮もいらぬのだし


1905年12月05日(火)

夕日の始まりに
窓の外はほの赤くほのあたたかく
工事のドリルさえ やさしい音をたてている
今日の仕事の仕舞いごとかな

ひっそりと暮れてゆくのに
誰にも手を振らず帰ってゆくのに
振り返らぬ後ろ姿に
誰かがきっと名残惜しいと思ってくれる

夕日のように 静かにゆっくり離れてゆく
そんな別れを美しいと思う


1905年12月04日(月)

暖かな日だったので天窓を開けていた
外の気配は一日やわらか
靜かな日だと思っていたけれど
よく聞けば 近くで家を建てている
ドリルの音や大工の声が聞こえているのに
静かに感じるのが 不思議な気がする

今日は近くの幼稚園がお休みです
昨日 行事があったらしい
だから小さな子たちの声が全然しないのです
あの子達の声は笑っても泣いても
どこまでも聞こえるのじゃないかと思う
一日 歌や歓声や お腹の底から出せていいな

小さな子の声以外は
何も音が無いのと同じだと
今日もつくづく思ったよ
遠くの電車さえ いつ通ったか知らない


1905年12月03日(日)

何かに深いということは
それだけで心の奥に熱く灯るところがあるってこと
時の流れに生きたって 流れは深くは溜まらない
自分の生き方があるひとは ひとを羨んだりしない


1905年12月02日(土)

暖かい日のカラスの声と
寒い日の声は違うような気がする
カラスだって
暖かいとのびのびするんでしょう


1905年12月01日(金)

今ひたすら思っていることは
タテナオシ
崩れそうになる自分を
自ら支えてタテナオシ
そんなふうなことを思っている
何かに頼らないで

でも 子猫見たい




天窓より          


−ともすれば消えそうになる自分を見失わぬよう−       

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− ささやかに −          

*  **  ***  ****        

日付は通し番号として記しています         


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