2007年06月25日(月)  割に合わない仕事

「はっきり言って、割に合わないんですよね」。何度目かの直しを依頼する電話をかけてきた相手にそう告げた瞬間、自分の言葉に驚いた。今井雅子、ついにそういうことを言うようになったか。電話の相手も面食らった様子で、「ギャラがご不満でしたら、上に相談してみまして……」「いえ、お金的には最初から割に合ってないんですが」ますますわたしはすごいことを言う。だったら何が気に入らないのか、うまく説明できない。電話を切ってから、「そうか。自分の期待に釣り合っていないんだ」と気づいた。先週引き受けたその仕事は、まだわたしがあまり実績のないジャンルのもので、ギャラよりも作品を形にできることに惹かれて受けた。けれど、蓋を開けてみると、わたしに求められているのは、クライアントの要求を器用にまとめて形にする作業だった。読みが甘かったのだ。

もやもや感のくすぶりに既視感を覚えて、思い出した。広告会社でコピーライターをしながら脚本を書いていた頃、早く家に帰って脚本を書きたいのに、理不尽な直しが後から後から入ってきて、「こんなことやってる場合じゃない!」と苛立った、あのもどかしさに似ている。コピーライターの名は広告にクレジットされないけれど、世に出すからには、わたしが書きました、と誇れるものにしたかった。書きたいものと求められているものの折り合いを必死で探っていた。会社でわたしが重宝されたのは、いいコピーを書くからではなく、得意先が欲しがるコピーを書けるからだった。自分の考えた言い回しと宣伝担当者が発明した言い回しのパッチワークをこなれたコピーに仕立て直す、そんなことばかりうまくなっていた。早くて便利なコピーライター。コンビニと同じでお客さんはひっきりなしに来るけれど、大切なものを頼むときはよそへ行ってしまうだろう。そんな怖さがよぎって、自分の名前で勝負しようと思い立ったのが、大好きな会社を飛び出してフリーランスの脚本家に転じた動機だった。

好き勝手に書かせてほしいのではない。直すのが嫌なのではない。誰がやっても同じ仕事をしたくない、それだけだ。「わたしがやらなくてもいい仕事」にかける時間と労力があったら、「わたしがやるべき仕事」に注ぎたい。それが「割に合わない」の内訳だった。恋愛と同じで、違和感をはっきりと自覚しながらつきあいを続けるのは、しんどい。けれど、引き受けた仕事を投げ出すことは許されない。「仕事のせいにするんじゃなくて、割に合う仕事にするのは自分次第なんじゃないの」ともう一人の自分が囁く。たとえ仕入れにコストをかけすぎて原価割れしても、コンビニではなく専門店の仕事をするのだ。名前を出すからには、ギャラではなくプライドに見合った仕事をするのだ。フリーランスの意地だ。気を取り直してパソコンに向かい、ファイルを開き、もうひと粘りすることにした。電話の相手に投げつけた「割に合わない」は結局、自分を奮い立たせる言葉だったのかもしれない。

2005年06月25日(土)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学最終日
2002年06月25日(火)  ギュッ(hug)ギュッ(Snuggle)
2000年06月25日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/28)


2007年06月24日(日)  マタニティオレンジ135 うっかりケーキでたま10/12才

更新が滞っている14回分をすっ飛ばしてマタニティオレンジ135回目は、8月22日生まれの娘のたまの10/12才会。今月のゲストは、ダンナが東京国際マラソンを一緒に走った、わたしたち夫婦より少し若い三十代前半のU君、O君、M君の三人組。事前にわたしの日記を読んで研究してくれたらしく、お楽しみのケーキも前日から気合を入れて予約。すべり出しは絶好調だったのだけど、当日になってブレーキ。店にケーキを取りに行ったM君から「ちょっとトラブルがありまして、いま、後楽園から池袋に向かっているので遅れます」と連絡があった。電話を受けたダンナと「なぜ、ケーキのトラブルで後楽園から池袋へ?」と首をかしげているところにU君とO君が到着し、「M君、ケーキを電車の中に忘れちゃったらしいです」。網棚の上に置いたまま後楽園で電車を降りて気づき、血相を変えて池袋の忘れ物センターへ取りに向かったのだった。「M君ならありうる」「いつものことながら、おいしい」とわたし以外の三人がうなずきあうのを見て、会う前から「うっかりM君」のキャラクター設定は出来上がった。

2才の女の子がいるU君ばかりか独身のO君とM君も子ども好きなのには驚いた。親バカのダンナを筆頭に男四人で「いないいないばあ」の大合唱。パパが4倍に増えたようなにぎやかさに、緊張気味だったたまも自分からすりすりするまでに。たまはこの一か月でつかまり立ちの安定感がさらに増し、片手で軽く支えるだけで直立できるようになった。ときどきその片手も離してバランスを崩し、本人も親をヒヤリとなる。歯は上2本下4本。わたしを見て、はっきりと「ママ」と呼ぶ。保育士さんを「センセ」と呼ぶこともあるとか、離乳食がなくなると「ナイ!」と訴えるとか、保育園の日誌で報告は受けるけれど、まだライブで確認はしていない。

マラソンの打ち上げを兼ねての誕生会ということで、「たまちゃんかわいい」「たまちゃん面白い」に大会の武勇伝がサンドイッチされる。ここでもM君は「仲間うちでただ一人、時間切れで関門に引っかかり完走できなかった」というおいしい位置づけ。関門でテレビ局のインタビューを受け、「コンビニで買い物してたら遅くなっちゃいました」とコメントしたのが放送で使われたとか。ポケットに忍ばせた2000円で飢えを凌いだのだった。お金を持ち合わせていなかった他の三人は、ありあまるほど用意されると聞いていた差し入れが、自分たちが通過する前に食い荒らされて何も残っていなかったことを嘆きあう。「でも、アミノバイタルのドリンクはありましたよね」「あったあった」という話になると、「僕のときは、紙コップだけ散らばってました」とM君。つくづくおいしい。「バナナは皮ごと渡してほしかったのに、皮をむく間待つのがまどろっこしかった」「でも、走りながら皮をむくとゴミになるからダメなのでは」「いや滑るからでは」などという妙に細かい話も拾えて面白かった。

「M君の真似じゃないけど、わが家もハプニングがありまして」。食欲旺盛なアスリートの胃袋に応えて手料理をふるまうつもりが、予定外の鎌倉セピー邸宿泊で作戦変更。昨夜テソン君が腕をふるった晩ごはんが大移動してわが家のテーブルに並んだ。チリビーンズ、韓国風ゆで豚、テソン君のオモニが仕込んだキムチ、テスン君に調味料をまるごと分けてもらって作った蛸のサラダ、どれも好評で、鎌倉出発前に仕込んでおいたものの何がしたいんだかわからなくなってしまった初挑戦の野菜のテリーヌの痛々しさをカバーしてくれた。定番のステーキとガーリックライスは焼き加減、味加減ともにいい感じで成功。


宴もたけなわ、後楽園から池袋忘れ物センターを旅したバースデーケーキは原型をとどめているのやら、ドキドキしながら箱を開けると、箱に激突して一部崩れているものの「セーフ!」。丸の内オアゾに入っているSOMETHING ROUGEというお店のデコレーションケーキで、名前からして苺のケーキの専門店らしい。「苺だけだと淋しいかなと思って、ブルーベリーも足してもらったんです」とM君。ホワイトチョコレートのプレートもかわいらしくて、これは電車に忘れちゃったからといって、そこらのお店で代わりはきかない。「見つかってよかったよかった」と幸運を噛み締めていただく。スポンジを積み重ねるのではなく、縦置きのロールケーキになっているのが特長。クリームもスポンジもふわふわの口どけ、M君のうっかりハプニングのおいしさに負けていなかった。

2005年06月24日(金)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学7日目
2004年06月24日(木)  東京ディズニーランド『バズ・ライトイヤー夏の大作戦』
2000年06月24日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/27)


2007年06月23日(土)  「イラン・ジョーク集」のモクタリさんと鎌倉ナイト

京都時代の知り合いのツキハラさんが来るから遊びに来ない?と鎌倉のセピー君からお誘い。明日のたまの10/12才誕生会の準備があるからどうしよう、と迷ったら、「今井さんが前に日記に書いてたイラン・ジョーク集の人も来るよ」とのこと。さらに、4月にセピー邸で大人の休日を一緒に過ごしたテスン君とユキコさんのカップルも集まるということで、準備は何とかなる、と見切って鎌倉へ向かった。

「イラン・ジョーク集の人」とは2004年の秋に益田祐美子さんからもらった『イラン・ジョーク集〜笑いは世界をつなぐ』の著者、モクタリ・ダヴィッドさんのこと。益田さんが『風の絨毯』の次の作品として準備を進めていた『パルナシウス』という長編映画のペルシャ語訳を手伝っていた人で、その縁で彼の本を大量に買った益田さんが一冊分けてくれたのだった。

この爆笑本、日記でも口コミでも相当たくさんの人にすすめたのだけど、著者のモクタリさんのユーモアセンスにも興味が湧いて、日記の最後に「近いうちに会えそうな気がする」と書いた。それが3年足らずで現実になった。セピー君とはモクタリさんが来日して間もない頃からの二十年来の友人なのだという。『風の絨毯』の脚本に関わることになったとき、真っ先にわたしが話を聞いたのがセピー君だったけれど、彼とモクタリさんをつなげたことはなかった。わたしも『パルナシウス』の企画にちょこっと関わっていたので、「ちょうちょと焼きいもの話」(この二つが登場する映画だった)をモクタリさんと懐かしんだ。

ちょうど刊行されたばかりという『世界の困った人ジョーク集』をサイン入りで贈呈され、早速読み始めると、これまた面白い。シモネタが元気だったイラン人・ジョーク集がピンクなら、政治ネタや宗教ネタがふえた第2弾はブラック。

わたしが思わず声を上げて笑ったのは、「アインシュタインとピカソとブッシュ大統領が天国の入口で中に入れてもらえるよう交渉」するジョーク。天国の門番に「お前たちが本物だということを証明しなさい」と言われ、アインシュタインは相対性理論を書き、ピカソはゲルニカを描き、無事本物であることが認められて中に入れてもらう。最後に「アインシュタインやピカソと同じように自分がブッシュ大統領であることを証明したまえ」と門番に言われたブッシュ氏、「すみません。アインシュタインとピカソって誰ですか?」。この質問で、晴れて大統領本人だと証明された……という内容。

他にも「パラシュートと間違えてランドセルを背負って飛び降りる」などブッシュ大統領はジョークの世界ではモテモテ。ユダヤ人のケチぶりをネタにしたジョークでは、旅先で出会った旅人に「互いを忘れないように」と指輪の交換を提案されたユダヤ人が、相手が差し出した指輪を受け取りながら「私を思い出したくなったら、指輪を上げなかったことを思い出してください」とオチがつく。

ジョークの合間に添えられたモクタリさんのコメントからは「世の中いろんな人がいるから楽しいよね」という気分が伝わってきて、みんながこの本のジョークで笑い合えれば世界はもう少し平和になれるんじゃないか、と思ってしまう。ワハハ度もフムフム度も昨年読んだバカ売れ本『世界の日本人ジョーク集』(早坂隆)に引けをとらないけれど、売れ行きだけは天と地の差。「こっちは宣伝してないからね。どうやってみんなこの本見つけてくるんだろね」とモクタリさん。

本の内容以上に著者本人が「ジョーク集」のような人で、「昼食べてないからおなか空いた〜」「朝から何にも食べてない」と一同が言い合っているところに「ボクなんか、朝から朝と昼しか食べてないよ!」とボケをかまし、「こんなに飲んで明日の朝起きられるかなあ」と酒のペースを落とそうものなら「ボクなんか、あさって仕事だよ!」と言い放ち(「あさっては月曜日だから、みんなそうだよ!」と突っ込みの嵐!)、実に打ちやすい球をこれでもかと投げてくる。早坂隆さんと先日「ジョーク集著者対談」をしたそうだけど、爆笑対談だったのではないだろうか。隣で聞いてみたかった。

2日後に控えたユキコさんの誕生日祝いも兼ねて、テーブルにはテスン君が腕をふるった愛情料理が並んだ。チリビーンズ、韓国風ゆで豚、蛸とネギときゅうりのコチジャンサラダ、テスン君のオモニが漬けたキムチ、ブイヤベース……。どれもおいしく、お酒がすすむ。モクタリさんの爆笑トーク、ネパール研究者のツキハラさんの含蓄のある言葉、共通の友人の思い出話……尽きない会話も味わい深い。帰るのが惜しくなって終電を諦め、明日のことは明日考えることに。

腹ごなしに夜の砂浜を裸足で散歩。たまをだっこして重かったけれど、東京の生活にはない波の音や潮風を10か月児なりに味わっている様子だった。たまは「こんなに楽しいんですもの、寝てたまるものですか」とばかりに日付が変わっても目がらんらん。6時起き昼寝抜きのわたしが先にばてて、たまを寝かしつけるのを口実に布団へ。

夜中の2時過ぎに目が覚めると、隣室のテーブルは大盛り上がりで、タクシーについて同時多発的にしゃべる6人の声が聞こえてきた。「おつり投げるってのは許せないでしょう!」「国会議事堂に案内してくれって言ったら、そっち方面詳しくないんでって言われて」「規制緩和の弊害だ!」「こっちは客だぞ!」みんな好き好きしゃべって、聞き役がいない状況。それから一時間ぐらいして、「ユキコは完璧だ!」と叫ぶテスン君の熱い声でまた目が覚めた。「そう思いませんか!」と同意を求めるテスン君に答えて、「前から思ってたんだけど、北海道の女性っていいよね」とはぐらかすモクタリさんの声が聞こえた。

2004年10月10日 爆笑!『イラン・ジョーク集〜笑いは世界をつなぐ』

2005年06月23日(木)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学6日目
2000年06月23日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/27)


2007年06月22日(金)  マタニティオレンジ134 わが家語

小学校一、二年の頃だっただろうか、夜中に父と母が隣室で「サラ金」の話をしているのを布団の中で聞いた。「サラ金」の事件がニュースを騒がせていた折で、「お父さんとお母さんが危ないことに手を出してる!」と不安になったのだが、父と母は「さらっぴん(大阪弁でまっさらのこと)のお金」を縮めて「さら金」と呼んでいたとわかり、胸をなでおろした。両親は笑いながら「よそで言いなや」と言ったけれど、他の家では通じない「わが家語」の存在が、「自分は他でもないここの家の子なんだ」と意識させてくれた。毎週のように行く「菊一堂のモーニング」を「菊モー」と略し、子どもがおとなしく食べなくてはならないかしこまった和食屋「山里波(さんりば)」を「しずか」と名づけた。

大人になって家庭を持ったけれど、わが家語のボキャブラリーがにわかに増えたのは、娘のたまが生まれてからだ。母乳を「ぼにゅぼにゅ」、授乳を「じゅにゅじゅにゅ」、ガーゼを「ガゼガゼ」、よだれかけを「よだれだれ」と繰り返し語がまずブームになった。わたしの言葉にダンナがつられ、わが家を訪ねたダンナ母や友人にもうつった。ウンチに親しみを込めて「ウンチョス」と名づけた応用で、たまを「タマチョス」と呼ぶようになった。「チョス」の響きがいたずらっ子っぽいおちゃめさをうまく出していて気に入り、「オムチョス替えるチョス」などとチョス語が幅をきかせるようになった。わたしやダンナがチョスチョス言うものだから、客人までが「タバチョスしてきます」とタバコ片手にベランダに消えるようになった。「冬はロシア人風にタマチョフってどう?」と友人のはちみつ・亜紀子ちゃんに言われて、「タマホフもいいかも」とわたし。「ダスティン・ホフマン」をもじって「タマティン・ホフマン」と呼ぶのを「よくわかんない」と突っ込むダンナは、「メタボリック症候群」をもじって「メチャカワイコック症候群」。これではわが家語ではなく俺語。ところで、シャバシャバからドロドロを経てネットリへと粘度を増してきたウンチョスが、今週あたりからコロコロになった。オムツからすとんとトイレに転げ落とせる固体ウンチョスを見ながら、「ウンコスになったねえ」とダンナ。子どもの成長とともに、わが家語も進化する。

2005年06月22日(水)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学5日目
2004年06月22日(火)  はちみつ・亜紀子のお菓子教室
2003年06月22日(日)  不思議なふしぎなミラクルリーフ
2002年06月22日(土)  木村崇人「木もれ陽プロジェクト」
2000年06月22日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1998年06月22日(月)  カンヌ98 3日目 いざCMの嵐!


2007年06月21日(木)  マタニティオレンジ133 おおらかがいっぱい

6月16日の読売新聞夕刊に「知恩院のウグイス 声失う」という記事を見つけた。「鴬張りの廊下」を修復して釘を固定するため、緩んだ釘が床板の留具にこすれて発する「鶯の鳴き声」が聞かれなくなるという。「50年、100年が過ぎれば再び鳴き声が聞こえるようになるはず。それまでご辛抱を」という寺のコメントがいい。江戸初期の再建からもすでに370年経つというから、時間のとらえ方が実に大きい。おおらかだなあ、とうれしくなった。

子育てをするようになって、「おおらか」であることを大切に思う気持ちが強くなった。大阪に住む妹の純子から贈られた『おおらかがいっぱい 途上国を見てきた保育者からのメッセージ』(編集:青年海外協力隊幼児教育ネットワーク 発行:社団法人 青年海外協力協会)には、おおらかの見本市のような体験談がたくさん紹介されていて、「こんな育児(保育)もあるのか」という驚きもあって、夢中で読んだ。

幼稚園教諭あるいは保育士として派遣された日本人協力隊員は、一年から二年という活動期間の間に結果を残そうと意気込むが、現地の人たちののんびりぶりに出鼻をくじかれる。大事な会議の前でも一人ひとりの挨拶が延々と続き、やっと議題に入るかと思ったら、終了時間だけはきっちり守り、何も審議されない。約束も締め切りも守られない。日本では一週間でできることに二年かかる……。

自分だけが突っ走って誰もついてこないような歯がゆさを感じながらも、少しずつ現地の感覚を受け入れていき、やがてドタキャンされてもイライラしなくなり、雨が降れば仕事が休みかなと思うようになる。派遣先はさまざまでも、そのような変化は多くの隊員の報告記に共通していて、「みんなの時計に合わせる」ことが常識とされる日本的生き方とは違う「自分の時計に合わせる」生き方が見えてくる。

時間という「物差し」がゆるやかなのだと思う。いつまでに、何分以内に、という区切りに縛られることなく、ゴムのように伸び縮みする時の流れの中で生活をしている印象がある。

人の子であっても自分の子であっても分け隔てなく面倒を見る、叱る。赤ちゃんであれお年寄りであれ障害者であれ、手助けが必要な人には自然と手が差し出される。そんな報告にも線引きのない自由を感じた。

細かいこと、小さなことにとらわれないおおらかさは大目に見るということでもあり、大雑把さやいい加減さにもつながるから、いいことばかりではない。正確さが求められる社会では、おおらかよりもきっちりが歓迎される。

けれど、時計もカレンダーも関係なしの子どもを相手にする子育て期間中は、こちらもおおらかに構えていたいと思う。何か月には歩いて、何才までにおむつを外して、という標準をなるべく意識せず、うちの子が基準であればいい。

名前を知らず、色や形だけで物を見分ける時期、文字を知らず、絵だけで物語を味わえる時期、何かができるようになるまでの今しかない「できない時期」を一緒にじっくり楽しみたい。

おおらかといえば、先月ダンナが「小児科の先生に90か月検診はどうしますかって聞かれたけど、そんな先のことまで考えているんだねえ」としみじみと感心していたので、「90じゃなくて9・10か月だよ」と訂正し、二人で大笑いになった。

今月9日に受けた検診で、娘のたまの体重は8730グラム、慎重は67.1センチ。横は大きめ、縦は寸詰まり気味のようだけど、好き嫌いなくよく食べ、転んでも笑い、シャワーが顔にかかってもぐずらず、おおらかな子に育っているように見える。

2005年06月21日(火)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学4日目
2002年06月21日(金)  JUDY AND MARY
1998年06月21日(日)  カンヌ98 2日目 ニース→エズ→カンヌ広告祭エントリー


2007年06月19日(火)  父イマセン、ピースボートに乗る。

今月3日、大阪に住む父イマセンが神戸港からピースボートに乗り込み、103日の船旅に出た。「庭の水やりがあるから」という理由で母は同行しなかったが、家族でも我慢ならない地響きのようないびきに恐縮して一人部屋にしたという。割高にはなったが、「割り当てられた部屋が三人部屋でな、ロッカーも三人分あるねん」とちゃっかりしている。

今日、シンガポールに上陸し、海外でも使えるようにした携帯から電話をかけてきた。当たり前だけど、海の上では電波は届かないので、寄港したときしかつながらない。電話の目的は、旅の便りではなく、自分のサイト『イマセン高校』の25000人目の教え子(カウンターで25000を踏んだ人)への記念品をよろしく頼むという念押しだった。わたしの著書を贈ることになっているのだが、どの本にするかの希望とあて先を聞いて郵送してくれ、と海を超えてもよく響く大声で伝えてきた。あいかわらずだなあと苦笑し、元気だなあと感心。この分だと途中で下船(体調を崩したりすると、最寄の港から飛行機で戻ることになる)する心配もなさそうだ。

船の上は毎日夜遅くまでイベント続きで、退屈する暇がないそう。19日は船の上でアウンサースーチーさんの誕生日を祝ったというのが、いかにもピースボートらしい。明日シンガポールを発ち、インドに向かうという。

2005年06月19日(日)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学2日目
2004年06月19日(土)  既刊本 出会ったときが 新刊本
2003年06月19日(木)  真夜中のアイスクリーム


2007年06月18日(月)  マタニティオレンジ132 たま300日

小児科の待合室で「たまちゃん、今日で300日よ」メールが届く。誕生日が一日違いのミューちゃんのお母さん、トモミさんから。「ミューが明日だから、一日引いて今日」だと知らせてくれた。娘のたまは、風邪を引いた上に転んで軽い打ち身になって満身創痍。体調も機嫌もすこぶる悪く、ご機嫌取りに必死のわたしまで泣きたくなっていたが、そっか、もう300日か、と少し気分が明るくなった。

たまの風邪は週末からで、土曜日にはダンナが小児科に連れて行った。そのときの笑い話。帰ってきたダンナが「90か月検診はどうされますかって聞かれたけど、90か月っていったら7歳だよな」。ずいぶん先の話をするんだねと感心していたが、90か月ではなく、「9・10か月」である。

2005年06月18日(土)  『子ぎつねヘレン』あっという間の見学1日目
2000年06月18日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月16日(土)  お宅の近くまでうかがいますの法則

4日前(12日)のできごと。仕事をしているプロデューサーから「今日お時間ありますか」と突然電話があり、「お宅の近くまでうかがいます」と言われる。少し前にも同じようなことがあり、また来たか、と心の準備をして駅前の喫茶店で落ち合うと、予想した通り、「実は……」と切り出された。

進めている企画が立ち消えるとき、あるいは企画は残っても脚本家が立ち去らなくてはならないとき、電話でも言いにくいことを、会いに来て告げる。待ち合わせの電話の時点で予感はしてしまうけれど、それでも、足を運び、顔を見せてくれる誠意に、不幸中の幸いのように救われた気持ちになり、沸点すれすれだった不満や怒りや悔しさも温度を下げる。プロデューサーだって悔しい、口惜しいと顔を見ればわかる。電話だったら好き勝手文句を言えても、その顔を見たら何も言えない。「お疲れさまでした」「ありがとうございました」と労いの言葉が自然に出て、「今回は残念でしたけれど、また機会があれば」と素直に言える。

以前、取材を受けたものがなかなか上がってこないので、どうしたのかなと気になった頃に、「あれはボツになりました」という旨のメールが送られてきたことがあった。最初に取材を依頼してきた人ではなく、取材に立ち会った人でもなく、前任者から引き継いだらしい会ったことのない人からの事務連絡のようなメールが一通。わたしは、そのメールに返信をしなかった。返信をしないことでささやかな抵抗を試みたつもりだったけれど、相手にとってはメールを送信完了した時点で用は済んでいたのだろう。

翻って、自分が誰かに何かを断るとき、逃げ腰になってはいないかとわが身を振り返る。言いにくいことを告げるときほど逃げてはいけない。また仕事なくなっちゃうのかと残念に思いつつも、プロデューサーの姿勢に大切なことを教えられた気持ちになった。

2005年06月16日(木)  Hidden Detailのチョコ名刺
2002年06月16日(日)  一人暮らしをしていた町・鷺沼
2000年06月16日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月15日(金)  マタニティオレンジ131 映画『それでも生きる子どもたちへ』を観て

ご近所仲間のT氏に熱烈に勧められた映画『それでも生きる子どもたちへ』を観る。かつて子どもだった7つの国の監督が綴るオムニバス作品。貧困、エイズ、人身売買、地雷……生きることさえ困難な絶望的な状況に置かれた子どもたちが、それでも生きる、目を力いっぱい輝かせて。その姿は、人間の底知らずのたくましさを感じさせる。脚本があり役者が演じているとは思えない、ドキュメンタリーを観ているようなリアリティーに引き込まれ、地球のどこかで今もこの子たちはこの続きを生きているという気にさせられた。

当たり前のように蛇口をひねれば(最近では手を差し出すだけで)水が出て、スイッチを押せば電気がつき、あたたかい食事と寝床が確保されている生活に慣れきったわたしは、こういう映画に出会うと、殴られたような衝撃を受ける。その衝撃も、ぬるま湯生活にひたるうちにほどなく薄れてしまうのだが、映画でも見せつけられないと、「当たり前が当たり前じゃない世界」があることに思いを馳せることすら忘れてしまう。

子どもが生まれてからは、子どもが出てくる映画を見ると、わが子と重ねてしまうのだが、この作品では「重ねる」ことは難しかった。日本という恵まれた国に生まれたわが子と、その日を生きるので精一杯の国に生まれた子どもとでは、望むものも大きく違うだろう。もしかしたら、わが娘がすでに手にしている普通は、ある国の子どもにとっては、すべてなのかもしれない。
作品につけられた「地球の希望は、子供たちだ」というキャッチコピーに共感しつつ、子供たちが地球の希望であり続けるために何をすべきなのかを考えさせられた。「それでも生きる子どもたち」が年を重ね、社会が見えてくるようになり、どんなにがんばっても人生には限界があると知ったとき、希望は絶望に変わってしまう。

2005年06月15日(水)  『秘すれば花』『ストーリーテラーズ』
2002年06月15日(土)  『アクアリウムの夜』収録
2000年06月15日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月14日(木)  『坊ちゃん』衝撃の結末

まだ読んでなかったの、と呆れられそうだけど、ついにと言おうか今さらと言おうか夏目漱石の『坊っちゃん』を読んだ。国語便覧などで登場人物やあらすじは頭に叩き込まれて、すっかり読んだ気になっていたものの、本文を通して読んでみると、はじめて聞く話のような印象を持った。わたしの思い描いていた坊っちゃんはやんちゃな新米教師で、やる気が空回りしているところはあるもの、夢と希望にあふれた熱い青年だった。ところが、ページの中にいた坊っちゃんは、いつも何かに対して怒り、苛立ち、毒づき、ぼやき続けている不満の塊のような人物で、職員室の敵ばかりか生徒や下宿の大家や田舎町や何もかもが気に入らない。江戸っ子気質と正義感を燃料に暴走する型破りな教師なのだけれど、校長に噛みつき生徒に喧嘩を挑む破天荒ぶりが面白いからこそ今日まで読み継がれているのだろう。一ページに何箇所も注釈の番号がついているほど聞き慣れない言い回しや今はもう見かけない物が登場するのだけれど、古びた感じがしない。『ホトトギス』に発表されたのが1906年だそうで、書かれて百年あまりになるが、感情を爆発させる坊っちゃんには、古文になってたまるかという勢いがある。

『坊っちゃん』どころか『吾輩は猫である』も未読で、教科書や便覧に載っている作品しか読んでいないくせして、夏目漱石には注目してきた。というのは、幼い頃、母に「あんたは夏目漱石とおんなじ二月九日生まれやから、文才があるはずや」と言われたからだ。誕生日占いを人一倍信じていたこともあり、同じ誕生日ならわたしも文豪になれるかもしれない、と素直に思い込み、日記や感想文や作文を張りきって書いた。それが今の職業につながっていることは間違いない。今回読んだ角川書店の改訂版の文庫本には「注釈」「解説(作者について、と作品について)」のほかに「あらすじ」(本文の前にあらすじがついているのは珍しい。読書感想文を書こうとする学生向けのサービスだろうか)さらには「年譜」がついている。

年譜の冒頭を読んで、「あ」と思わず声を上げた。「慶応三年(1867年)一月五日」生まれとある。月も日もまったく違うではないか。母の暗示に乗せられて、四半世紀あまり。書くこと好きが高じて新井一先生が雑誌で連載していたシナリオ講座に原稿を送ったら「才能がある」と返事が来て、調子に乗って脚本家デビューに至ったが、ほめられたと思ったのは勘違いだった。それ以前に壮大な思い違いがあったとは……。いやはや思い込みって恐ろしい。傑作の名高い本文よりもおまけに衝撃を受けていると、「一月五日は陰暦で、今の暦でいえば、二月九日で合っているのでは」と教えてくれる人があった。調べてみると、そのように書いているサイトもあり、「夏目漱石と同じ誕生日」はデマではなかったようで安心する。

2002年06月14日(金)  タクシー

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