2007年10月18日(木)  マタニティオレンジ195 ママ友に取材 

脚本の仕事は「接点を見つけて膨らませる」ことが大部分を占める。だから、取材先やネタ元を持っていることは強みになる。以前、音楽業界の話を依頼されたとき、ちょうど主人公の設定で考えていたミュージシャンと経歴が重なるような人が友人にいた。それだけでプロデューサーは安心して仕事を任せてくれた。脚本はボツになったけれど、仕事が来たのは人脈という接点があったからだった。

今日取材したDさんは、マタニティビクス教室で知り合ったママ友。今回書くことになった題材が職業もので、そういえばDさんがその仕事をしていたと思い出したのだった。娘のナナちゃんが一緒でもくつろいで話せるよう、豆腐料理の「梅の花」の個室で会うことになった。三人でちょうどいい広さのこじんまりした和室。一歳四か月のナナちゃんにも食べられる料理が多く、担当になった男性の店員さんが「うちにも同じぐらいの娘がいて、よく似ています」と歓迎してくれ、とても居心地のいい時間を過ごせた。ゆっくり食事しながら約二時間、取材半分、子育て話半分。たまより二か月年長のナナちゃんはぐずることもなく、大人の話におとなしくつきあってくれた。肝心の取材は、さすが現場を知っている人の話はリアルで、本人にとっては日常のことでも、わたしにとっては知らないことばかりで新鮮。手ぶらではなくお土産(収穫)を持って明日の打ち合わせに臨むことができる。

取材でお世話になったのは初めてだけれど、ママ友からはたくさんの刺激と情報をもらっている。同じ時期に妊娠してなければ出会うこともなかった縁と、同じ時期に妊娠したからこその連帯感。とくにマタニティビクスで知り合った人たちは、妊娠中に踊ろうという発想と行動力の持ち主だけあって、今日取材したDさんをはじめ話していて面白い人の宝庫。妊娠、出産、育児で仕事のペースは落ちたけれど、芸のこやしになるような体験をたっぷり仕入れたし、ママ友人脈を得て「人持ち」にもなれたし、おつりは十分来ている。

2005年10月18日(火)  体にやさしくておいしい中華『礼華(らいか)』
2002年10月18日(金)  「冷凍食品 アイデア料理のテーマパーク」で満腹!


2007年10月17日(水)  マタニティオレンジ194 長生トマトの歌にノリノリ

モランボンの鍋ソングに続いて作詞を手がけたJA長生グリーンウェーブの『家族みんなで長生トマト』のCDが完成。「長生(ながいき)トマトのPRソング」の依頼を受けたとき、名前の「ながいき」から「じいちゃんもばあちゃんもひいじいちゃんもひいばあちゃんも みんな食べてる長生トマト」というサビが浮かんだ。「きょねんうまれた赤ちゃんも みんな食べてる長生トマト」と続けたのは、去年産まれたわが娘のたまが離乳食でもりもり食べているから。

子どもが踊りだすようなメロディで、ボーカルも子どもだったら最高、と作曲の宇津本直紀さんに伝えたところ、「そうそうこんな感じ!」と膝を打つようなノリノリの曲をつけてくれた。メールで送られてきたデモを再生していると、傍らで聞いていたたまが、腰をふりふり踊りだしたではないか。教えていないのに、これはツイスト! 見事に曲調に合った動きで、「わたしに似てダンスが好きなのね」と感激したり、マタニティビクスが胎教になっていたのかもと想像したり。去年産まれた赤ちゃんまで踊りだすノリの良さに、「これはいける!」と確信。ワタルくんという男の子が元気いっぱい歌ってくれて、はじけるトマトのような歌に仕上がった。

iTuneに取り込んで、リピートで流し続けていると、隣でたまがふりふりと踊り続ける。「イエーイ」のかけ声に合わせて両手を上げて見せると真似するようになった。「赤ちゃんが泣きやむ歌」が以前流行ったけれど、「赤ちゃんが踊りだす歌」はどうだろう。

2006年10月17日(火)  マタニティオレンジ21 赤ちゃんと話したい
2002年10月17日(木)  Globe Trotter×ELEY KISIMOTOのスーツケース


2007年10月16日(火)  マタニティオレンジ193 シュレッダーごっこ

布おむつを始めて、ゴミは減ったけれど、洗濯物は増えた。お風呂に入るついでにした洗いするようにしたら、たまが面白がって一緒におむつを踏みにくる。布おむつは適度な引っかかりがあって滑りにくいよう。二人で遊びにしてしまうと、おむつ洗いも楽しい。

脚本を書くときには、途中で何度かプリントアウトして読み返す。一枚に二枚のレイアウトにし、裏紙を使っても、あっという間に古紙の山となる。世に出る前の作品なのでそのまま古新聞に出すわけにいかず、シュレッダーは置いていない。いずれ必要になると思いつつ、指はさみ事故が怖いので、たまが大きくなるまでは置けない。そこで、手でちぎるという原始的な方法を取ることになる。これも、たまにとっては「紙破り放題」という遊びになる。破るよりもわたしが破った紙切れとじゃれるのに夢中になっていたが、シュレッダーごっこの間はごきげんだった。

2006年10月16日(月)  マタニティオレンジ20 ビバ!ウンチョス!
2004年10月16日(土)  SolberryのハートTシャツ
2002年10月16日(水)  カンヌ国際広告祭


2007年10月12日(金)  マタニティオレンジ191  「働きマン」と「子育てマン」

昨日、連ドラ『働きマン』初回を見て、広告会社時代を思い出した。週刊誌の編集と広告のコピーライターという職種の違いはあっても、締め切りに追われ、社内外に競合相手がいて、徹夜や休日出社が日常というところは似通っている。

働きマンと呼べるほどの働きぶりを発揮していたかは別にして、女を捨ててたことは確か。輪ゴムで髪を束ね、ピアスの穴がふさがるからとクリップを刺し、エアコンが止まる夜10時以降はパソコン熱で室温が上昇するので、熱さまシートをおでこに貼り付けてコピーを打ちまくった。競合プレゼンで億単位の仕事を勝ち取るのは快感だったし、自分の仕事やCMやポスターになって世の中に出ていくのも楽しかった。「働きハイ」になっていたところもあったと思う。

会社を辞めたのは2005年の7月なので、あれから2年ほどしか経ってないのだけど、「わたしもこんな生活してたなあ」と懐かしむと同時に、「もうできないなあ」と思った。マラソンのレース途中で一度歩いてしまうと再び走れない感じ。あのペースには、今さらついていけない。

しかし、そこで、はたと気づいた。「仕事に没頭すると恋もおしゃれも寝食も忘れる」のが働きマンだというが、子育てもまさにそうではないか。子どもの服はかわいいのをそろえても自分のおしゃれは後回し。子どもの離乳食は頑張って作っても、自分はその食べ残しでおなかを満たす。家計を切り詰めるためによれよれのセーターを着て、産後のシェイプアップどころじゃない。母は女であるのに、母をやればやるほど女を捨てることになる矛盾。母親こそ「子育てマン」である。

そこで思い出したのは、化粧品ブランドを担当して月に百時間以上残業を共にしていたアートディレクターのミキのこと。彼女が妊娠、出産し、育児と仕事の両立が難しくなって会社を辞めたとき、「仕事のほうが楽だった」と言った。まさか、と思ったけれど、プレッシャーも拘束時間も育児のそれは仕事を上回る。それでも「やってらんねえ!」と辞表をたたきつけることも、「昨日徹夜だったんで」と代休を取ることもできない。そこに来てダンナに「俺の飯まだ?」とせっつかれ、「一日中家にいたんだろ?」とトドメを刺されたりする。

「働きマン」時代は、子育てしている友人が「毎日大変」「わたしはえらい、よくやってる」と主張するのが不思議だった。でも、自分がその立場になってようやくわかったのは、子育てマンは自分で自分をほめるしかないということ。「このCMいいね」と褒められるとき「コピーは今井が書いたの?」「ボディコピー書くの大変だったでしょう」「五社競合で勝ったんだって」と自分のことも褒められた。給料も出た。けれど、子育ては、できて当たり前というところがある。子どもの成長は何よりのやりがいになるけれど、子どもを褒められるとき、子どもを育てているお母さんの仕事に思いを馳せてくれる人がどれだけいるだろうか。わたしは、自分がやってみるまで想像したこともなかった。通りがかった女性に「おいくつですか」と聞かれ、「一歳になります」と答えたとき、「そう。ここまで大きくするの大変でしたでしょう。お母様もおめでとうございます」などと声をかけられて涙が出そうになったが、それほど子育てマンが人からねぎらわれる機会は少ない。

もちろん、何よりのねぎらいは、手をかけた分だけ応えてくれるわが子の成長。それを確かめる喜びは、脚本が作品になって世に出て行く醍醐味にも勝る。子どもは「手を差し伸べたくなるように神様が不完全な形で送り出した」という言葉を最近どこかで目にしたが、子育ては親と子でひとつの「人間」(人格)を作りあげるコラボレーションという見方もできる。

2006年10月12日(木)  マタニティオレンジ18 デニーズにデビュー
2005年10月12日(水)  シナトレ3 盾となり剣となる言葉の力
2003年10月12日(日)  脚本家・勝目貴久氏を悼む
2002年10月12日(土)  『銀のくじゃく』『隣のベッド』『心は孤独なアトム』


2007年10月11日(木)  Sky fish公演 Vol.6『二神(ふたかみ)』

大阪出身でコピーライターを経て脚本家になった、という経歴が似ている川上徹也さんから、「また芝居書きました」と案内が届いた。川上さんの書くものはとても好きだし期待を裏切られることはないのだけれど、今回はメールの行間に「いい作品なので、ぜひ観に来て!」という自信と意気込みがいつも以上にうかがえ、ひさしぶりの川上作品と川上さん本人に会えるのを楽しみに劇場へ向かった。初めて降り立つ有楽町線の「地下鉄赤塚」という駅のすぐ近くのビルの三階にこの秋オープンしたばかりの『Pure Stage』という空間。そこを活動のホームグラウンドに移したSky fishという劇団の第6回公演であり、Pure Stageのこけら落とし公演でもある。

開演前にチラシに目を通すと、主演の千野裕子さんに川上さんが初めて会った帰り道、彼女が巫女姿で裁きを受けている場面が啓示のように閃いたのだという。巫女について調べるうちに、天皇に代わって神に仕える身である伊勢の斎王(いつきのみこ)に行き当たり、斎王であった大伯皇女(おおくめのひめみこ)が千野さんのイメージとひとつになるや物語が迸った。さらに出来上がった脚本を読んだ千野さんは「いつか大伯皇女を演じてみたかった」と言ってのけ、天智・天武時代のオタクであることが発覚したというから神懸かっている。運命に導かれるようにして誕生した作品と知り、いつにも増して期待が高まった。

現代を生き悩む女子高生に、飛鳥時代の大伯皇女の魂が乗り移り(二重人格のような状態)、人物配置が絶妙に二重写しになっている二つの時代を行き来しながら物語は進行する。大伯皇女と一体化した女子高生は、大伯皇女の弟である大津皇子(おおつのみこ)へのあふれる思いを切々と語る。女子厚生には幼くして事故で死んだ弟がおり、その死に彼女は少なからず責任があるらしいことが浮かび上がってくる。

主人公は女子高生(=大伯皇女)なのだけれど、わたしはその母親(大津皇子と皇位継承争いをした草壁皇子の母であり、大伯皇女と大津皇子の養母となった大后と二重写し)に乗っかって観た。かわいがっていた息子には死なれ、権力者である夫は家に寄りつかず、かわいいとは一度も思えない娘との二人暮らしに母親は追い詰められていく。しかも娘は不登校でひきこもり、意味不明の古語を操り「大津」だの「大后」だの口走っている。娘を何とかしたい、と精神科医にすがる母親の精神のほうが危なっかしくなってくる。夫に見放され、子どもとも心を通わせることができない母親の孤独と絶望。妻というもの、母というものの切なさ、悲しみ。あれほどすべてを捧げて尽くしてきたのに、仕返しのように空回りする現実に立ちつくす姿……どうしてこんなに妻心、母心がわかり、それを痛々しいまでに切実に描けるのか、川上さんに聞こうと思って聞きそびれてしまった。男として愛してしまった弟の結婚を知って身悶える大伯皇女の嫉妬も、「男の作家がこんなにうまく書いちゃうなんて、ずるい!」とこちらが嫉妬するほど、心を揺さぶられる場面に仕上がっていた。

大伯皇女が大津皇子を思って詠んだ歌をはじめ万葉集の歌がいくつか紹介され、先日審査を終えた「万葉ラブストーリー募集」で万葉集づいているわたしにはタイムリーだった。古語まじりの台詞も耳に心地よく、上杉祥三さんの演劇ユニット・トレランスの芝居を観たときも感じたけれど、「心臓」を「心の臓」と呼ぶだけで臓器にハートが宿るような気がするし、「せんない」と聞くと「仕方がない」とは諦めきれない「なるようにならないもどかしさ、切なさ」が伝わってくる。川上さんに聞いて知ったのだが、現代語から古語を引く辞書があるらしい。調べてみると、『現代語から古語を引く辞典』(芹生公男)というそのまんまな題名の本が出ている。

川上さんの作品にはコメディという印象を持っていたので、「万葉ものも手がけられるとは」と守備範囲の広さに脱帽。コピーライターはどんな注文にも応えて書くのが仕事なので、ジャンルを特定せず器用に書き分ける人が多い。わたしもそれなりに引き出しは持っているつもりだけれど、川上さんとは箪笥と倉庫ほどの差がある。

役者さんたちは初めて観る方ばかりだったけれど、それぞれが役にのめりこみ、自分のものにしていて、見ごたえがあった。生演奏の音楽も趣があって贅沢。笙の響きが何とも妖艶。公演は日曜まで。興味がある方は、間に合えば、ぜひ。

Sky fish公演 Vol.6『二神(ふたかみ)』

作:川上徹也
演出 :竹内晶子
出演:千野 裕子 入交 恵 安藤 弘子 綾 貴士 佐原 哲郎 増田 英敏 三上 高央
演奏:太田豊(横笛ほか) 豊明日美(笙) 佐藤えりか(Bass)
照明:平松 篤
音楽・舞指導:太田 豊
舞台監督:村岡 晋 坂野 早織
宣伝美術:入交 恵
舞台美術・企画制作:Skyfish

2006年10月11日(水)  マタニティオレンジ17 再開&再会
2005年10月11日(火)  ユーロスペースで映画ハシゴ
2003年10月11日(土)  わたしを刺激してください


2007年10月10日(水)  マタニティオレンジ190 3人娘1歳合同誕生会

マタニティビクス仲間のトモミさんと、トモミさんがマタニティクッキング教室で知り合い、わたしにママズシアターで紹介してくれたユキさんと、「娘たちの1歳を一緒に祝おう」と話していた。うちのたまとトモミさんちのミューちゃんが1日違いの8月生まれ、ユキさんちのホホっぺが9月生まれということで、3人娘の誕生日の真ん中あたりが候補日に挙がっていたのだけれど、働くわたし以上にあとの二人はアクティブな毎日を過ごされていて、開催が10月にずれこんだ。

今日の開催が決まったのは直前。マタニティビクス時代から教えていただいた菊池妙子先生の親子ビクス教室が再開されると知り、レッスンを受けてみようと思い立った。だったらトモミさんも通っているし、レッスンの後に誕生会をくっつけてはどう、とユキさんに声をかけたら、うまく予定が合ったのだった。

保育園を休んだたまは、半年ぶりの母校トリニティーに「なつかしいわ」とばかりに歓声を上げ、壁一面の鏡に突進。鏡に映るわが身に近づいたり遠ざかったり。月齢さまざまなお友達に興奮したり。保育園とは違う刺激を楽しんでいる様子。だいぶ動けるようになった子どもと一緒に踊るイメージだったのだけど、ベビービクスの違いはさほどなかった。円形のビニールシートのようなものをみんなで持って子どもたちの頭上で上げ下げ(シートが近づいたり遠ざかったりするのを楽しむ)したり、シートの上に子どもたちを乗っけて引っ張ったりする遊びはベビービクスにはなかったもので新鮮。シートの船をこぐうちに子どもたちがハイハイやよちよち歩きで次々と出て行ってしまい、シートがほぼ無人になったのには笑った。

レッスンの後、浅草にあるお店に「合同誕生会ケーキ」を取りに行く。蔦の絡まる雰囲気のあるカフェ。結婚する前にダンナとお茶したことがある店で懐かしかった。蔵前のトモミさんちでユキさん親子と合流し、近くのイタリアンレストランCROCE(クローチェ)でランチ。店に入るなり、大きいテーブルにいた二人連れが、さっと席を譲ってくれ、感激。お店の人もベビーウェルカムで、よちよち歩きで店内を探検するたまを微笑ましく見守ってくださる。子どもたちはそれぞれ勝手に動きつつも気持ちはくつろいで楽しめた1000円のランチは、ことのほかおいしく感じられた。

トモミさんちでティータイム。誕生日ケーキといっても食べるのは大人たち。母乳でおすそわけねと言いながらクリームたっぷりのチーズケーキを4分の1ホールずつ大胆に頬張る。ちょうど今日がトモミさんの誕生日であることもわかり、「トモミさんのプレートも用意したらよかったね」と言うと、「ううん、いいのいいの、子どもたちの分だけで」。子どもの幸せが自分の幸せ。母だなあ。プレートには書いてないけれど、わたしたちも、母親1歳おめでとう。

2004年10月10日(日)  爆笑!『イラン・ジョーク集〜笑いは世界をつなぐ』


2007年10月06日(土)  マタニティオレンジ188 フミキリン

このごろ絵本の読み聞かせが面白くなってきた。以前は落ち着かず、ページにかじりついてばかりだったけれど、少しずつ反応を見せてくれるようになると、はりあいが出てきた。夜寝る前に、「読んでほしい絵本もっておいで」と言うと、自分が好きな本を選んで棚から抜き出し、わたしのところに持ってくる。あぐらをかいて体を左右に揺らし、「がたんごとんしながら読んで」とねだる。『がたんごとん がたんごとん』を読むときに膝を電車代わりにするのが気に入って、他の本を読むときも膝電車に乗るようになった。

うさこちゃんとどうぶつえん』に登場する動物たちに合わせて身振りをつけて読んでいると、「きりんさん、くび、なが〜いよ」と背丈を測るように手を挙げる仕草を真似するようになった。自分からキリンのページを広げて、何度でも「なが〜いよ」をやって見せる。キリンを表現できることがうれしくて仕方ない様子。

よっぽど気に入ったのか、他の絵本を広げても「キリン」の仕草をやっている。「これにはキリンさん出てないでしょう」とその絵本、『じゃあじゃあびりびり』を覗きこむと、踏み切りのページだった。黄色と黒の長細い姿。確かに似ている。キリンとフミキリ、字面も似てなくはないと発見。「フミキリン」なんてキャラクターがいてもいいなあ。キリンの顔した踏切。そう思って検索をかけたら、秋田にフミキリンの看板が立っているらしい。

たまにとっては踏切もキリンに見えるのかあと感心して、つい最近読んだ新聞記事を思い出した。「赤ちゃんは何でもおもちゃにしてしまう天才」なのではなく、「おもちゃとそうでないものの区別がつかない」のだと書いてあった。踏切とキリンの違いを知った上で踏切を見てキリンにたとえたら詩になるけれど、今のたまは、二つの違いが見えていない。だから、踏切に向かって「キリンさんだ〜」と無邪気に突進したりしないように、注意を払わなくては。

2006年10月06日(金)  マタニティオレンジ15 がんばれ母乳部
2005年10月06日(木)  行動する芸術家・林世宝さん
2004年10月06日(水)  ローマの一番よい三流のホテル
2002年10月06日(日)  餃子スタジアム


2007年09月27日(木)  1979〜80年「4年2組 今井まさ子」の日記

7月以来の関西仕事で、たまを連れて大阪の実家へ。20年前にアメリカで買い求めたFamily Treeの本を探して、「雅子」と書かれたダンボールを掘り返す。名前を書き込んだり写真を貼ったりして家系図を完成させる本で、クラシカルな洒落た装丁だった記憶がある。めあてのものは見つからず、切手コレクションや映画のパンフレットや父の教え子が作った紙芝居(ZIGGYというタイトル)などが出てきた。

その中に、「私の思い出 4年2組 今井雅子」の表紙がついた日記があった。小学校のとき、毎日用紙が配られて宿題で書いていたもので、飛び飛びだったり「?月?日」があったりするものの、ほぼ一年分あり、一日数行とはいえ読みごたえがあった。表紙の「雅子」は漢字だけれど、日々の記名欄は「まさ子」。四年生といっても難しい漢字はほとんど使っていないし、たまに背伸びすると間違っている。習字を習っていた割には書きなぐったような乱暴な字で、「しゅう字の日はきらいです」とはっきり書いてある。

妹がきらい弟がきらい、友だちがいそがしくてつまらない、テストばっかりで死にそう、班のまとまりが悪い、などと嘆いたりぼやいたり文句ばっかり言っている。今のわたしはどちらかというとポジティブな部類に入るように思うのだけど、小学四年生のわたしは相当愚痴っぽい。傷つきやすいところ(母親のなにげない一言を引きずる)や正義感が強いところ(おとなしくてクラスになじめない転校生をやたらと気にかけている)は今と同じなので、やっぱりこれはわたしなんだな、と思ったりする。

しゅう字の日とじびかの日が週に一度ずつあり、たいそう教室(バレーボールを習っていた)が二週に一度あり、あとは幼なじみたちと家を行ったり来たりしてよく遊んでいる。夏休みの日記を読むと、毎日のようにあちこち連れて行ってもらっていて、旅行も立て続けに行っている。旅行の間は愚痴も減り、「楽しかった」と書いてあった。

「死ぬ」「ころす」といった物騒な言葉が遠慮なく使われていて、どきどきしてしまう。「妹とじさつのマネをした」日もある。「いきをとめるのがしんどかった」と続くので、遊びだとわかるけれど、はらはらする。ダークなものに憧れる気持ちの強さの割に善悪の判断基準がまだあやふやでブレーキ機能も未発達。だから危なっかしいことを平気で言ったり書いたりしてしまう。無邪気で残酷。もしもこの頃にわたしが何か事件を起こしていたら、日記が参考資料として押収され、危険な発言てんこもりの内容に「やっぱり……」となったのだろうか。「子どもの頃の自分が怖くなった」と母に言ったら、「子どもってそんなもんやで」と笑っていた。日記を読んでいると、子どもだけの「ほったらかしの時間」がたくさんあり、きょうだいや友だちの間でもまれながら、好奇心を満たし、問題を解決し、生きる力をたくましくしていったのがうかがえる。でも、自分の娘が四年生になったとき、日記に何が書いてあっても「子どもってそんなもん」と笑ってられるかどうか、自信がない。手出し口出しするより見守ることのほうが難しそうだ。

日記は1979年5月17日からはじまる。「(書くことが)とく意ではない」と書いているのは、謙遜だとしたらいやらしいけれど、本当にあまりとく意ではなかった可能性もある。日を追うごとに文体(口調)のバリエーションがふえ、行数もふえ、「筆がのって」きている。もしかしたらこの日記が書くことを好きにしてくれたのかもしれない。実家にいる間に何日分かをアップしたが、当時の時間割や持ち物が書いてあるのも興味深い。

1979年5月の4年2組日記
1979年6月の4年2組日記
1979年7月の4年2組日記
1979年9月の4年2組日記
1979年12月の4年2組日記
1980年1月の4年2組日記
1980年2月の4年2組日記
1980年3月の4年2組日記

2005年09月27日(火)  串駒『蔵元を囲む会 十四代・南部美人・東洋美人』
2003年09月27日(土)  ハロルド・ピンターの「料理昇降機(THE DUMB WAITER)」
2002年09月27日(金)  MONSTER FILMS


2007年09月25日(火)  すごい本『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』

すごい本を読んだ。『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』(伊藤比呂美)。そもそも手に取ったきっかけが、あちこちの書評でいろんな人が口々に「すごい」とほめちぎっていたからなのだが、読んでいる間も読み終えた後も「すごい」としか言いようがなく、他の表現を探してみたのだけれど、「圧倒された」「しびれた」といった言葉しか思い浮かばず、「すごい」の一言に尽き、わが身の言葉力の貧弱さを思い知らされた。

著者の伊藤比呂美さんは映画にもなった『よいおっぱい悪いおっぱい』を書かれた作家であり詩人。小説のように読めるこの作品は「長編詩」として群像に連載されていたものだという。上下の余白を切り詰めたレイアウトが、ほとばしる言葉をページいっぱいに受け止めている。要介護となった母親の排泄の世話、アメリカ人の夫とのセックス不和、「生」につきまとう生々しいこもごもが包み隠さず描かれているのだが、そこにはジメジメした不快感よりも爽快感、風通しの良さがある。たとえば、要介護となった母のおむつを替えながら、わが子のおむつ替えを思い出す場面。

昔なんどもやりました。薄桃色のつるんとしたおしりたちでした。出てくるものもきいろくてみどりいろで指先ですくいとってもいいと思うほどうつくしく、発酵乳のようなすっぱいにおいがして、うんこといってしまうのが勿体なくて。それで、うんちとよびならわしていたのです。

書かれているのはシモの話なのに、下世話にならない。愚痴の垂れ流しではなく文学、露悪趣味ではなく芸術に至らしめるその違いは何なのだろう。書き手の覚悟だろうか。裸を堂々と見せつけられると、いやらしさよりも崇高さを感じてしまうような開き直りの強さ、本音の潔さがある。どうしようもない憤りや苛立ちがそのまま筆の勢いになり、現実から目をそむけたり蓋をしたりしている読者を打ちのめす。

四十手前になり、出産もし、若い頃に比べてずいぶん図太くなったとはいえ、まだまだ捨て身になりきれず、他人から見れば取るに足りない恥じらいやプライドを守ろうとしてしまうわたしには、伊藤さんの「裸の境地」は遠くに光る星のように眩しく見える。

ブラジャーなんかとうのむかしに捨てました。若かったころは乳首がぽつりと見えるのが、しかたないとは思いながらも気になっていたものです。今はそんなところに乳首はございません。もっとはるか下、しかも左右不均等な場所にゆらゆらとついております。ときにわき腹のあたりに下向きでぽつりと見えたりしております。

こんなことはとても書けないし、書けたとしても、こんな名調子、こんなおかしみと哀しみをたたえた文体にはできない。

ダンナの実家を訪ねるときに何度も通っている巣鴨のお地蔵さんが題名に登場する親近感も、この本に興味を抱いた理由のひとつ。場所としてのお地蔵さんも登場するが、「人生のとげ=苦」を抜くことが全編を貫いている。

たらちねの母といえども、生身であります。
昔は小さな女の子でありました。
怖いときには泣いてました。
父や母や夫や王子様に、助けてもらいたいと思っておりました。
(中略)
このごろじゃすっかり垂れ乳で、ゆあーんゆよーんと揺すれるっほどになりまして、
足を踏ん張り、歯をくいしばり、
ちっとも怖くないふりをして、
苦に、苦に、苦に、
苦また苦に、
立ち向かってきたんですけど、
あゝあ、ほんとに怖かったのでございます。


母であり、娘であり、女であり、それぞれの立場の苦しみを抱えている。その生身の人間の肉声が訴えかけてくる迫力は、体の奥底を揺さぶるような衝撃を伴い、陣痛の感覚を呼び覚ますようだった。気に入った部分を抜き書きして紹介していると、またしても写経になってしまいそうで危険危険。各章のおわりに、

宮沢賢治「風の又三郎」、そして、山本直樹、萩原朔太郎、山口百恵(阿木燿子)などから声をお借りしました。

といった具合に引用の断り書きがあるのだが、この言い回しには、伊藤比呂美さんはイタコのような人ではなかろうか、という想像もかきたてられた。

他に、最近読んだ本では、川上弘美さんの『神様』の中に、男に「好き」というかわりに「しあわせです」と言うようになった女の話があり、それがしみじみと好ましく思えた。こちらは圧倒されるというより、心地いい水にいっしょにつかる感じの一冊。打ちのめされたり、ほぐされたり、本によって全く違う場所に連れて行ってもらえるのが面白い。

2003年09月25日(木)  ディズニー・ハロウィーン
2002年09月25日(水)  宮崎・日高屋の「バタどら」
2001年09月25日(火)  『パコダテ人』ロケ3 キーワード:遭遇 


2007年09月23日(日)  オフコースを聴いて思い出すこと

 最近通っている近所の整骨院で、オフコースがかかっていた。『さよなら』『言葉にできない』など、中学生から高校生の頃にかけてよく聴いた曲が次々と繰り出される。施術を受けながら、頭はその時代へ飛び、「誰でも弾けるオフコース」みたいな本と首っ引きで、拾ってきたギター(向かいに住むお金持ちの家の前には、電化製品から旅行で余ったドル札まで、何でも捨ててあった)を爪弾いたことなどを思い出した。そのギター指南本には掲載曲の成り立ちも紹介されていて、『YES-YES-YES』がまずタイトルにもなったサビから生まれ、他の部分の歌詞が肉づけされた話などを覚えている。
 「やさしくしないで 君はあれから新しい別れを恐れている」ではじまる『愛を止めないで』が流れてきて、苦い思い出がじわっと蘇った。中学二年生のたしか秋、この曲をクラスで合唱することになっていた。文化祭ほど大きなものではなく、授業の一時間を使ってやる成果発表会のようなものだった。集合時間ぎりぎりになったとき、わたしは交換日記をしていたIさんと会場の体育館から少し離れた廊下を歩いていた。走っても、歌一曲分ほどかかる距離。「今から行っても間に合わへんし、やめとく?」そんないい加減な判断で、わたしたちは舞台に上がることを諦め、今頃歌っているはずだなあという時間をひとけのない廊下でやり過ごした。小心者のわたしの頭の中では、体育館から聞こえてくるはずのない歌がぐるぐるしていた。
 どうしてわたしとIさんが皆とはぐれていたのか思い出せないが、「何やっとったん?」と聞かれたときのために苦しい言い訳の二つ三つは用意した気がする。けれど、クラスメートたちも担任の先生もわたしたち二人の不在にまったく気づかず、おそるおそる戻った教室で誰からも突っ込みを受けることはなかった。「うちらって何なん?」と肩すかしとともにショックを味わったけれど、尾崎豊はまだ知らず、ぐれることも思いつかなかった。

2006年09月23日(土)  マタニティオレンジ10 誕生日コレクション
2005年09月23日(金)  今日は秋分の日
2001年09月23日(日)  『パコダテ人』ロケ1 キーワード:事件

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