2007年06月22日(金)  マタニティオレンジ134 わが家語

小学校一、二年の頃だっただろうか、夜中に父と母が隣室で「サラ金」の話をしているのを布団の中で聞いた。「サラ金」の事件がニュースを騒がせていた折で、「お父さんとお母さんが危ないことに手を出してる!」と不安になったのだが、父と母は「さらっぴん(大阪弁でまっさらのこと)のお金」を縮めて「さら金」と呼んでいたとわかり、胸をなでおろした。両親は笑いながら「よそで言いなや」と言ったけれど、他の家では通じない「わが家語」の存在が、「自分は他でもないここの家の子なんだ」と意識させてくれた。毎週のように行く「菊一堂のモーニング」を「菊モー」と略し、子どもがおとなしく食べなくてはならないかしこまった和食屋「山里波(さんりば)」を「しずか」と名づけた。

大人になって家庭を持ったけれど、わが家語のボキャブラリーがにわかに増えたのは、娘のたまが生まれてからだ。母乳を「ぼにゅぼにゅ」、授乳を「じゅにゅじゅにゅ」、ガーゼを「ガゼガゼ」、よだれかけを「よだれだれ」と繰り返し語がまずブームになった。わたしの言葉にダンナがつられ、わが家を訪ねたダンナ母や友人にもうつった。ウンチに親しみを込めて「ウンチョス」と名づけた応用で、たまを「タマチョス」と呼ぶようになった。「チョス」の響きがいたずらっ子っぽいおちゃめさをうまく出していて気に入り、「オムチョス替えるチョス」などとチョス語が幅をきかせるようになった。わたしやダンナがチョスチョス言うものだから、客人までが「タバチョスしてきます」とタバコ片手にベランダに消えるようになった。「冬はロシア人風にタマチョフってどう?」と友人のはちみつ・亜紀子ちゃんに言われて、「タマホフもいいかも」とわたし。「ダスティン・ホフマン」をもじって「タマティン・ホフマン」と呼ぶのを「よくわかんない」と突っ込むダンナは、「メタボリック症候群」をもじって「メチャカワイコック症候群」。これではわが家語ではなく俺語。ところで、シャバシャバからドロドロを経てネットリへと粘度を増してきたウンチョスが、今週あたりからコロコロになった。オムツからすとんとトイレに転げ落とせる固体ウンチョスを見ながら、「ウンコスになったねえ」とダンナ。子どもの成長とともに、わが家語も進化する。

2005年06月22日(水)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学5日目
2004年06月22日(火)  はちみつ・亜紀子のお菓子教室
2003年06月22日(日)  不思議なふしぎなミラクルリーフ
2002年06月22日(土)  木村崇人「木もれ陽プロジェクト」
2000年06月22日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1998年06月22日(月)  カンヌ98 3日目 いざCMの嵐!


2007年06月21日(木)  マタニティオレンジ133 おおらかがいっぱい

6月16日の読売新聞夕刊に「知恩院のウグイス 声失う」という記事を見つけた。「鴬張りの廊下」を修復して釘を固定するため、緩んだ釘が床板の留具にこすれて発する「鶯の鳴き声」が聞かれなくなるという。「50年、100年が過ぎれば再び鳴き声が聞こえるようになるはず。それまでご辛抱を」という寺のコメントがいい。江戸初期の再建からもすでに370年経つというから、時間のとらえ方が実に大きい。おおらかだなあ、とうれしくなった。

子育てをするようになって、「おおらか」であることを大切に思う気持ちが強くなった。大阪に住む妹の純子から贈られた『おおらかがいっぱい 途上国を見てきた保育者からのメッセージ』(編集:青年海外協力隊幼児教育ネットワーク 発行:社団法人 青年海外協力協会)には、おおらかの見本市のような体験談がたくさん紹介されていて、「こんな育児(保育)もあるのか」という驚きもあって、夢中で読んだ。

幼稚園教諭あるいは保育士として派遣された日本人協力隊員は、一年から二年という活動期間の間に結果を残そうと意気込むが、現地の人たちののんびりぶりに出鼻をくじかれる。大事な会議の前でも一人ひとりの挨拶が延々と続き、やっと議題に入るかと思ったら、終了時間だけはきっちり守り、何も審議されない。約束も締め切りも守られない。日本では一週間でできることに二年かかる……。

自分だけが突っ走って誰もついてこないような歯がゆさを感じながらも、少しずつ現地の感覚を受け入れていき、やがてドタキャンされてもイライラしなくなり、雨が降れば仕事が休みかなと思うようになる。派遣先はさまざまでも、そのような変化は多くの隊員の報告記に共通していて、「みんなの時計に合わせる」ことが常識とされる日本的生き方とは違う「自分の時計に合わせる」生き方が見えてくる。

時間という「物差し」がゆるやかなのだと思う。いつまでに、何分以内に、という区切りに縛られることなく、ゴムのように伸び縮みする時の流れの中で生活をしている印象がある。

人の子であっても自分の子であっても分け隔てなく面倒を見る、叱る。赤ちゃんであれお年寄りであれ障害者であれ、手助けが必要な人には自然と手が差し出される。そんな報告にも線引きのない自由を感じた。

細かいこと、小さなことにとらわれないおおらかさは大目に見るということでもあり、大雑把さやいい加減さにもつながるから、いいことばかりではない。正確さが求められる社会では、おおらかよりもきっちりが歓迎される。

けれど、時計もカレンダーも関係なしの子どもを相手にする子育て期間中は、こちらもおおらかに構えていたいと思う。何か月には歩いて、何才までにおむつを外して、という標準をなるべく意識せず、うちの子が基準であればいい。

名前を知らず、色や形だけで物を見分ける時期、文字を知らず、絵だけで物語を味わえる時期、何かができるようになるまでの今しかない「できない時期」を一緒にじっくり楽しみたい。

おおらかといえば、先月ダンナが「小児科の先生に90か月検診はどうしますかって聞かれたけど、そんな先のことまで考えているんだねえ」としみじみと感心していたので、「90じゃなくて9・10か月だよ」と訂正し、二人で大笑いになった。

今月9日に受けた検診で、娘のたまの体重は8730グラム、慎重は67.1センチ。横は大きめ、縦は寸詰まり気味のようだけど、好き嫌いなくよく食べ、転んでも笑い、シャワーが顔にかかってもぐずらず、おおらかな子に育っているように見える。

2005年06月21日(火)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学4日目
2002年06月21日(金)  JUDY AND MARY
1998年06月21日(日)  カンヌ98 2日目 ニース→エズ→カンヌ広告祭エントリー


2007年06月19日(火)  父イマセン、ピースボートに乗る。

今月3日、大阪に住む父イマセンが神戸港からピースボートに乗り込み、103日の船旅に出た。「庭の水やりがあるから」という理由で母は同行しなかったが、家族でも我慢ならない地響きのようないびきに恐縮して一人部屋にしたという。割高にはなったが、「割り当てられた部屋が三人部屋でな、ロッカーも三人分あるねん」とちゃっかりしている。

今日、シンガポールに上陸し、海外でも使えるようにした携帯から電話をかけてきた。当たり前だけど、海の上では電波は届かないので、寄港したときしかつながらない。電話の目的は、旅の便りではなく、自分のサイト『イマセン高校』の25000人目の教え子(カウンターで25000を踏んだ人)への記念品をよろしく頼むという念押しだった。わたしの著書を贈ることになっているのだが、どの本にするかの希望とあて先を聞いて郵送してくれ、と海を超えてもよく響く大声で伝えてきた。あいかわらずだなあと苦笑し、元気だなあと感心。この分だと途中で下船(体調を崩したりすると、最寄の港から飛行機で戻ることになる)する心配もなさそうだ。

船の上は毎日夜遅くまでイベント続きで、退屈する暇がないそう。19日は船の上でアウンサースーチーさんの誕生日を祝ったというのが、いかにもピースボートらしい。明日シンガポールを発ち、インドに向かうという。

2005年06月19日(日)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学2日目
2004年06月19日(土)  既刊本 出会ったときが 新刊本
2003年06月19日(木)  真夜中のアイスクリーム


2007年06月18日(月)  マタニティオレンジ132 たま300日

小児科の待合室で「たまちゃん、今日で300日よ」メールが届く。誕生日が一日違いのミューちゃんのお母さん、トモミさんから。「ミューが明日だから、一日引いて今日」だと知らせてくれた。娘のたまは、風邪を引いた上に転んで軽い打ち身になって満身創痍。体調も機嫌もすこぶる悪く、ご機嫌取りに必死のわたしまで泣きたくなっていたが、そっか、もう300日か、と少し気分が明るくなった。

たまの風邪は週末からで、土曜日にはダンナが小児科に連れて行った。そのときの笑い話。帰ってきたダンナが「90か月検診はどうされますかって聞かれたけど、90か月っていったら7歳だよな」。ずいぶん先の話をするんだねと感心していたが、90か月ではなく、「9・10か月」である。

2005年06月18日(土)  『子ぎつねヘレン』あっという間の見学1日目
2000年06月18日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月16日(土)  お宅の近くまでうかがいますの法則

4日前(12日)のできごと。仕事をしているプロデューサーから「今日お時間ありますか」と突然電話があり、「お宅の近くまでうかがいます」と言われる。少し前にも同じようなことがあり、また来たか、と心の準備をして駅前の喫茶店で落ち合うと、予想した通り、「実は……」と切り出された。

進めている企画が立ち消えるとき、あるいは企画は残っても脚本家が立ち去らなくてはならないとき、電話でも言いにくいことを、会いに来て告げる。待ち合わせの電話の時点で予感はしてしまうけれど、それでも、足を運び、顔を見せてくれる誠意に、不幸中の幸いのように救われた気持ちになり、沸点すれすれだった不満や怒りや悔しさも温度を下げる。プロデューサーだって悔しい、口惜しいと顔を見ればわかる。電話だったら好き勝手文句を言えても、その顔を見たら何も言えない。「お疲れさまでした」「ありがとうございました」と労いの言葉が自然に出て、「今回は残念でしたけれど、また機会があれば」と素直に言える。

以前、取材を受けたものがなかなか上がってこないので、どうしたのかなと気になった頃に、「あれはボツになりました」という旨のメールが送られてきたことがあった。最初に取材を依頼してきた人ではなく、取材に立ち会った人でもなく、前任者から引き継いだらしい会ったことのない人からの事務連絡のようなメールが一通。わたしは、そのメールに返信をしなかった。返信をしないことでささやかな抵抗を試みたつもりだったけれど、相手にとってはメールを送信完了した時点で用は済んでいたのだろう。

翻って、自分が誰かに何かを断るとき、逃げ腰になってはいないかとわが身を振り返る。言いにくいことを告げるときほど逃げてはいけない。また仕事なくなっちゃうのかと残念に思いつつも、プロデューサーの姿勢に大切なことを教えられた気持ちになった。

2005年06月16日(木)  Hidden Detailのチョコ名刺
2002年06月16日(日)  一人暮らしをしていた町・鷺沼
2000年06月16日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月15日(金)  マタニティオレンジ131 映画『それでも生きる子どもたちへ』を観て

ご近所仲間のT氏に熱烈に勧められた映画『それでも生きる子どもたちへ』を観る。かつて子どもだった7つの国の監督が綴るオムニバス作品。貧困、エイズ、人身売買、地雷……生きることさえ困難な絶望的な状況に置かれた子どもたちが、それでも生きる、目を力いっぱい輝かせて。その姿は、人間の底知らずのたくましさを感じさせる。脚本があり役者が演じているとは思えない、ドキュメンタリーを観ているようなリアリティーに引き込まれ、地球のどこかで今もこの子たちはこの続きを生きているという気にさせられた。

当たり前のように蛇口をひねれば(最近では手を差し出すだけで)水が出て、スイッチを押せば電気がつき、あたたかい食事と寝床が確保されている生活に慣れきったわたしは、こういう映画に出会うと、殴られたような衝撃を受ける。その衝撃も、ぬるま湯生活にひたるうちにほどなく薄れてしまうのだが、映画でも見せつけられないと、「当たり前が当たり前じゃない世界」があることに思いを馳せることすら忘れてしまう。

子どもが生まれてからは、子どもが出てくる映画を見ると、わが子と重ねてしまうのだが、この作品では「重ねる」ことは難しかった。日本という恵まれた国に生まれたわが子と、その日を生きるので精一杯の国に生まれた子どもとでは、望むものも大きく違うだろう。もしかしたら、わが娘がすでに手にしている普通は、ある国の子どもにとっては、すべてなのかもしれない。
作品につけられた「地球の希望は、子供たちだ」というキャッチコピーに共感しつつ、子供たちが地球の希望であり続けるために何をすべきなのかを考えさせられた。「それでも生きる子どもたち」が年を重ね、社会が見えてくるようになり、どんなにがんばっても人生には限界があると知ったとき、希望は絶望に変わってしまう。

2005年06月15日(水)  『秘すれば花』『ストーリーテラーズ』
2002年06月15日(土)  『アクアリウムの夜』収録
2000年06月15日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月14日(木)  『坊ちゃん』衝撃の結末

まだ読んでなかったの、と呆れられそうだけど、ついにと言おうか今さらと言おうか夏目漱石の『坊っちゃん』を読んだ。国語便覧などで登場人物やあらすじは頭に叩き込まれて、すっかり読んだ気になっていたものの、本文を通して読んでみると、はじめて聞く話のような印象を持った。わたしの思い描いていた坊っちゃんはやんちゃな新米教師で、やる気が空回りしているところはあるもの、夢と希望にあふれた熱い青年だった。ところが、ページの中にいた坊っちゃんは、いつも何かに対して怒り、苛立ち、毒づき、ぼやき続けている不満の塊のような人物で、職員室の敵ばかりか生徒や下宿の大家や田舎町や何もかもが気に入らない。江戸っ子気質と正義感を燃料に暴走する型破りな教師なのだけれど、校長に噛みつき生徒に喧嘩を挑む破天荒ぶりが面白いからこそ今日まで読み継がれているのだろう。一ページに何箇所も注釈の番号がついているほど聞き慣れない言い回しや今はもう見かけない物が登場するのだけれど、古びた感じがしない。『ホトトギス』に発表されたのが1906年だそうで、書かれて百年あまりになるが、感情を爆発させる坊っちゃんには、古文になってたまるかという勢いがある。

『坊っちゃん』どころか『吾輩は猫である』も未読で、教科書や便覧に載っている作品しか読んでいないくせして、夏目漱石には注目してきた。というのは、幼い頃、母に「あんたは夏目漱石とおんなじ二月九日生まれやから、文才があるはずや」と言われたからだ。誕生日占いを人一倍信じていたこともあり、同じ誕生日ならわたしも文豪になれるかもしれない、と素直に思い込み、日記や感想文や作文を張りきって書いた。それが今の職業につながっていることは間違いない。今回読んだ角川書店の改訂版の文庫本には「注釈」「解説(作者について、と作品について)」のほかに「あらすじ」(本文の前にあらすじがついているのは珍しい。読書感想文を書こうとする学生向けのサービスだろうか)さらには「年譜」がついている。

年譜の冒頭を読んで、「あ」と思わず声を上げた。「慶応三年(1867年)一月五日」生まれとある。月も日もまったく違うではないか。母の暗示に乗せられて、四半世紀あまり。書くこと好きが高じて新井一先生が雑誌で連載していたシナリオ講座に原稿を送ったら「才能がある」と返事が来て、調子に乗って脚本家デビューに至ったが、ほめられたと思ったのは勘違いだった。それ以前に壮大な思い違いがあったとは……。いやはや思い込みって恐ろしい。傑作の名高い本文よりもおまけに衝撃を受けていると、「一月五日は陰暦で、今の暦でいえば、二月九日で合っているのでは」と教えてくれる人があった。調べてみると、そのように書いているサイトもあり、「夏目漱石と同じ誕生日」はデマではなかったようで安心する。

2002年06月14日(金)  タクシー


2007年06月13日(水)  「事実は小説より奇なり」な映画『主人公は僕だった』

仏頂面の主人公(ウィル・フェレル)が突っ立っている新聞広告にはあまり心惹かれなかったのだけど、何人か「面白かった」と言う人がいて、『主人公は僕だった』を観た。原題は『Stranger than Fiction』、直訳すると「事実は小説より奇なり」。平凡で面白みのない毎日の繰り返しを生きている男・ハロルドの耳に、自分の行動を描写する女の声が聞こえるようになる。小説を読み上げるようなその声の主はスランプの小説家であり、彼女が七転八倒しながら書いている新作の主人公がハロルドであると明かされていくのだけれど、『主人公は僕だった』という邦題が先に結果を明かしているので、驚きは半減する。

実在する人物と小説の登場人物がシンクロするという設定は奇想天外なようでいて、あっても不思議ではない気もする。「小説家は創造者ではなく、すでにある物語の発見者」といったことを小川洋子さんがインタビューで語っていたけれど、小説家が創造する以上の物語が現実には存在する。ハロルドの人生を小説がなぞっているようにも、小説に書かれた通りにハロルドの人生が進行しているようにも中盤までは見えていたけれど、ハロルドの人生に小説が先回りし、主人公の死という未来を告げられたところから、ハロルドの人生は一変する。小説の筋書きを軌道修正して自分の人生の筋書きを変えようと悪戦苦闘するのだが、時間をつぶすように生きていた主人公が、命のカウントダウンが見えた途端に残された時間を惜しむように生きるようになるさまは、先日観た『生きる』に通じるものがある。そういえば、ハロルドが恋をするパン屋のアン(マギー・ギレンホール)と『生きる』で小田切ミキさんが演じたヒロインは、美人というより茶目っ気のあるぽっちゃり顔(ふくれっ面がチャーミング)といい、言いたいことをはっきり言う威勢のよさといい、よく似ている。ハロルドを敵視していたパン屋娘が手作りのクッキーに気持ちを託して距離を近づけていく展開がとても微笑ましくて、わたし好み。ラブストーリーとしても楽しめる映画だった。

「事実は小説より奇なり」といえば、最近読んだ『数学的にありえない』()は、「確率的にありえないことが、偶然の連鎖によって現実となる」ことをエンターテイメントに仕立てていたが、下巻の最後にあった著者あとがきにも、ドラマがあった。著者はこの本がデビュー作だったのだが、「小説の執筆はこれまでにぼくがやったどんなことよりも共同作業が必要だった。さまざまな段階で、つねに誰かが手を貸してくれた。以下に挙げたどの一人が欠けていても、本書が出版にこぎつけることはなかっただろう」という書き出しに続けて、彼の最初の原稿を面白がってくれた人、出版エージェントにつなげてくれた人、出版を決めてくれた人、改訂を手伝ってくれた人、心の支えになってくれた人、おいしいものを食べさせてくれた人などへの感謝の言葉が続く。一冊の本が生まれる過程もまた偶然の積み重ねの結果なのだ、としみじみ思い、この本が生まれたドラマの末端に読者のわたしもいるのだ、とうれしくなり、その事実の不思議が小説本編より面白かった。

そもそも今自分がここに生きているという事実が奇なりで、少し前に読んだ『きいろいゾウ』(西加奈子)に「男の人と女の人が愛し合って、生まれた男の人と女の人がまた愛し合って、そういうことが延々と繰り返された逆三角形の頂点に自分がいる」「その三角形の中の一人でも欠けていたら、自分は存在しなかった」といったことが書かれてあり、ほんとにそうだ、と膝を打った。映画の邦題に話はもどるけれど、『主人公は僕だった』って、人生の主人公は自分だったと気づく、という意味もこめられているのだろうか。だとしたら深い。

2005年06月13日(月)  『猟奇的な彼女』と『ペイ・フォワード』
2004年06月13日(日)  映画『ヒバクシャ 世界の終わりに』


2007年06月12日(火)  想像力という酵母が働くとき

昨日の日記の続きになるが、茨城のり子さんの詩を読んで、「文字数があればいいってもんじゃない」とつくづく感じた。映画一本、本一冊を費やさなくても、研ぎ澄まされた言葉が数行あれば、心を揺さぶることができる。単語ひとつ、数文字だって、名文句になり得る。それで思い出したのは、南極観測隊員にあてた妻からの電報。当人だけでなくまわりの隊員たちも深く感じ入ったというメッセージは、たった三文字。「あなた」とあった。電報が一文字何千円もした頃、後に続けたいたくさんの言葉を飲み込んで、南極に届いた最初の三文字。そのエピソードを新聞のコラムで読んだとき、電報をのぞきこむそれぞれの隊員にも「あなた」と呼びかけが聞こえ、その響きに応えるように、それぞれの胸で続きが綴られたのだろうと想像して、わたしの目にも涙がにじんだ。

最近パンを焼くので思うことだけれど、言葉を小麦粉にたとえると、力のある言葉は想像力という酵母を元気にし、その何倍もの大きさに膨らむ。それは、人を傷つける言葉のときにもあてはまる。そう思うのは、数日前に言われた言葉の傷跡が癒えないからだ。殴られたような衝撃と痛みに、そのときはわあわあ泣いた。それで洗い流せたかと思ったら、一日経っても二日経っても、不意にその言葉を思い出しては、どうしてあんなことを言えるのだろう、あの発言は本心なんだろうか、などと考えてはメソメソし、ポタポタと涙を落とし、メソポタを繰り返している。チグリス川とユーフラテス川の間に発達したメソポタミア文明のメソポタミアとは「川のあいだ」という意味だと習ったが、わたしの両目も二つの川になってしまっている。書くことを生業にしているわたしは、酵母が多めでいつでも発酵状態のようなところがあるから、「あなた」の電報から一本の脚本を思い描いてしまうけれど、たった七文字の棘からも悲劇を描き出してしまう。寝不足と腰背筋痛が慢性化していて、それでも子育てのはりあいが体と気持ちを支えている今のわたしにとっては、致命的な一撃だった。痛烈な刺激が酵母を過剰反応させ、過発酵を引き起こしている。

そんな矢先、生協のレジに並んでいたら、前に並んでいる若いお母さんがわたしのほうを振り返る感じで、ガンを飛ばしてきた。と思ったら、わたしの後方にいるランドセルを背負った女の子に指示を出していた。娘と思われる女の子に「そこにあるでしょ!」と商品を持って来させようとしているのだが、彼女はキョロキョロするばかり。遠隔操作がうまくいかないうちにレジの順番が回ってきて、苛立ちが頂点に達したお母さんは、「もういい!」と言うなり、わたしの背中を突っ切って、わたしのすぐ後ろの棚にある紙パック入りのりんごジュースを手に取った。一本抜き取った勢いで、六本入りのダンボールごと持ち上がるほど、全身に怒りがみなぎっていた。その後、レジを済ませたお母さんが怒った顔で買い物カゴの中身をビニール袋に空ける間、女の子は「ごめんなさい」と謝り続けた。「もういい!」とお母さんはまた言い、早足で店を出た。その後を「ごめんなさい」とすがるように言いながら、女の子が追いかけた。

その光景を見て以来、自分のメソポタを一休みして、その女の子のことを考えている。彼女は家に着くまで「ごめんなさい」を繰り返したのだろうか。家に着く頃にはお母さんの機嫌は直っただろうか。レジの順番が迫って焦ってなければ、あんな言葉にも、あんな言い方にもならなかったのだろうか。「もういい!」はりんごジュースのことだけを指していたのだろうか。女の子には「あんたなんか、もういい!」と聞こえなかっただろうか。彼女の目に悲しみと諦めが宿っているように見えたのは、センチメンタルになっているわたしの錯覚だろうか。身近で信頼している人からの不意打ちの鋭い一言は、深い傷を負わせる。殴られるのと同じで、至近距離からの一撃は、こたえる。自分が娘の親になったばかりということもあり、生協での母娘の姿に自分の未来を重ねたり、母の何気ない言葉に傷ついてさめざめと泣いた過去を思い出したりした。やわらかい言葉であれ、棘のある言葉であれ、それを受け止める側の想像力と掛け合わされて、言葉はさらなる力を持ってしまう。ビルの上から落としたパチンコ玉が、加速するうちに人を貫くほどの力を帯びてしまうように。そのことに思いを馳せて言葉を解き放たなくては、とわが身を振り返っている。

2005年06月12日(日)  惜しい映画『フォーガットン』


2007年06月11日(月)  茨木のり子さんの言葉の力

茨木のり子という詩人の名前を意識するようになったのは、昨年二月に彼女が亡くなったときの追悼記事ではなかったかと記憶している。できあいの思想にも宗教にも学問にもいかなる権威にも倚りかかりたくない、と言い切った上で「倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ」と締めくくる『倚りかからず』や「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」と突き放す『自分の感受性くらい』、「わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた」と戦争時代にあった青春を語り、「だから決めた できれば長生きすることに」と告げる『わたしが一番きれいだったとき』など、紹介されている詩がどれも強烈な引力を放っていた。詩集を読んでみたい、と思ったまま手に取る機会を逃していたら、先日、図書館で「茨木のり子」の背表紙が目に飛び込んできた。あなた、忘れてるでしょ、と言わんばかりに。

出会ったのは、『茨木のり子集 言の葉3』という本。ひとつひとつの詩が、わたしが思っているけれど言葉に出来なかったことをぴしゃりと言い当てていて、うなずき、膝を打ち、舌を巻きながら読む。たとえば、「ええと」という題の作品は、「『あの人は世に出た』私はこの言いかたが気に入らない」とはじまり、「フギャア! と一声泣いたとき 人はみな この世に出たと思うのだ」と続く。「ええと」は「あのう」に近い物申すニュアンスなのだろう。とても強気な口調なのに、品を感じる。背筋を伸ばして書いたような凛とした緊張感がある。

「ある工場」という作品は、「地の下にはとても大きな匂いの工場が 在ると 思うな」という書き出しに引き込まれる。「世界中の花々に 漏れなく 遅配なく 馥郁の香気を送る」その工場では「年老いた技師や背高のっぽの研究生ら」が働いている。「小瓶に詰めず定価も貼らず惜しげなく ただ 春の大気に放散する 彼らの仕事の すがすがしさ」と作者はたたえる。春には春の花の香りがすることから地下の工場を思い浮かべる、そのたくましい想像力。年譜によると茨木さんは薬学の勉強をされていたそうで、そんな背景から工場や白衣の研究者のイメージが自然に湧いたのかもしれない。

「夏の空に」という作品は、星座の物語と重ねて夏の夜空に輝く星々を描写する前半も素晴しいが、「屑の星 粒の星 名のない星々 うつくしい者たちよ わたくしが地上の宝石を欲しがらないのは すでに あなた達を視てしまったからなのだ」という最後の五行に打ちのめされた。「こどもたちは こんがり焼けた プチ・パンになって 熱い竈をとびだしてゆく」に続けて「思えば幼い頃の宿題はやさしかった 人生の宿題の 重たさにくらべたら」と締めくくる「九月のうた」にも、なんてうまく言葉にするんだろうと感心させられた。

この詩集でいちばん心を揺さぶられたのは、「足跡」という作品。「青森県六ヶ所村出土 縄文時代後期」の「博物館のガラス越しに見る 粘土に押しつけられた小さな足形」を見て、「子どもはギャアと泣いたかしら にこにこ笑っていたかしら」と当時に思いを馳せ、「むかしむかしの親たちも 愛らしい子の足形をとっておきたかったのだ」と思いを寄せる。自分が親になった今だから、いっそう感じ入ってしまうのかもしれないが、そのとき博物館にいた茨木さんも「なぜかじわりと濡れてくる まぶたの裏」となった。ちょうど気持ちが落ち込んでいたときの訪問だったが、「小さな足はポンと蹴ってくれた わたしのなかの硬くしこったものを」。写真で見たこともない茨木さんの沈んだ表情と晴れた表情のビフォアアフターまで目に浮かびそうな描写に唸った。そして、詩は「それにしても おまえは何処へ行ってしまったのだろう 三千年前の足跡を ついきのうのことのように 残して」と結ばれる。足跡ひとつからこれだけの物語を膨らませてしまう表現力に、嫉妬と羨望を覚える。

心に刺さった言葉を書き出していくと、丸写しになってしまいそうだけど、自作の詩のほかに、韓国の詩人の作品を翻訳したものとエッセイが納められていて、エッセイもまた写経したくなるほど名言の宝庫。一語一語が的確に選ばれ、配置されているような美しく整った文章の中に、思いがしっかりと込められている。読めば読むほど、この人と会ってお話ししたい、という気持ちになる。声が聴きたくなる。それが叶わないのが惜しまれる。

2005年06月11日(土)  東京大学奇術愛好会のマジックショー
2002年06月11日(火)  『風の絨毯』同窓会
2000年06月11日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)

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