2007年03月30日(金)  生涯「一数学教師」の父イマセン

大阪の高校で数学を教えていた父イマセンは、今日で41年間の教師生活にひと区切りをつけた。工業高校に着任した新米教師の頃は兄貴のような存在だったというが、今では「おじいちゃん先生」と呼ばれている。4年前に60才で定年を迎えたが、最後の赴任校に留まり、講師として教壇に立っていた。父の日記には「いやなことより楽しいことのほうが多かったように思えます」とある。娘のわたしから見ても、父は実に楽しそうに、生き生きと教師をやっていた。教師というのは理想に燃えた人たちであるから、意見や方針の対立でもめたりこじれたりということは多々あったのではと想像するが、父の口から仕事の愚痴や同僚の悪口を聞いた覚えはない。いい意味で欲がなかったのだと思う。こうあらねば、と高い志を追うよりも、今日も楽しく過ごそう、と肩の力を抜いて学校へ向かっているように見えた。

わたし自身は恩師のお子さんに会った記憶は数えるほどしかないが、父の教え子さんにはたくさん会った。うちに来てバーベキューをやったり、体育祭に遊びに行ったり。器械体操を習っていた小学生の頃は、たまたま父が器械体操部の顧問だった時期と重なり、練習に参加させてもらったりもした。幼いわたしにとってまぶしい存在のお兄さんお姉さんに「お父さん、人気あるで」「お父さんの授業、面白いで」などと言われて、おならとダジャレを連発する威厳のない父をうんと見直した。威厳のなさは学校でも同じだったようで、50代になっても60代になっても、「イマセン、かわいい」と言われ続けていた。

教頭や校長になることにはまったく興味を示さず、年下の教頭や校長のことを「あっちが気ぃ遣うて、気の毒や」と愉快そうに言っていた。入った学生寮が学生運動のアジトになっていて、自然と闘争に巻き込まれ、「ネクタイ労働くそくらえ!」な気分のまま就職活動に突入し、教師になったという。そんな父は、「えらくなったら、ちゃんとしたカッコせんなあかんやろ」と言っていた。内心は昇進したい気持ちもあったのだろうか。だけど、一数学教師を貫き、教壇に立ち続けたことは父らしかったと思う。生徒を上から見るのではなく、生徒と同じ目線で接するのが自然な人だった。子どものわたしから見ても、「どっちが子どもなんだか」と思うような無邪気さが父にはある。小学生の頃までメーデーのデモ行進を何度か一緒に歩いたが、「行進の後に何食べよか」を繰り返す父に、子どもみたいだなあと呆れた。でも、組合活動もおまつりにして楽しむおめでたい性格は、うつってしまった。

体操部の後に山岳部の顧問を経た父は、テニス部の顧問になった。部活動の顧問は手当てがほとんど出ないのでサービス残業のようなものだが、テニスが趣味の父は休日も喜んで練習や試合や合宿に出かけていた。夏休み期間中、教師が一緒ならプールで泳いでもいいと言われた女子生徒たちに「イマセン一緒に入って〜」と頼まれ、キャピキャピ水着ギャルに囲まれて水遊びを楽しんでいた(こういうシチュエーションにすんなり溶け込める教師は貴重だと思う)。定年後も名誉顧問の座を与えられ、「俺に買ったらジュースおごったる」と言って勝負を挑んでは、生徒たちに遊んでもらっていた。去年はテニス部のOBたちに誘われ、合宿をやっていた。「日本一楽しいオンライン高校」をめざす父のサイトイマセン高校には、父といくらも年の違わない41年前の教え子から、孫のような現役の教え子までが遊びにくる。生徒以上に学校生活を満喫し、学校を離れても声をかけてくれる生徒がいる。本当に幸せな教師だと思う。教師を父の天職にしてくれた同僚と教え子の皆さんに感謝したい。

父のギャグに二つ先の教室で笑い声が起こり、「今井先生、静かにしてください」と同僚にたしなめられたという逸話を持つ大声も、さすがに少しデジベル数を下げたが、数年前には授業中に前歯が吹き飛んで生徒を仰天させたというから、しゃべる勢いは衰えてないのかもしれない。授業中は白衣を着ていたが、学者風に見せる演出ではなく、筆圧が高すぎてチョークの粉が飛び散ったりチョークが折れたりして、スーツがチョークまみれになるからだった。「子ぎつねヘレン」と板書きし、わたしの作品を宣伝してくれていたらしい。教壇に立つ機会はなくなっても、父をイマセンと慕う教え子たちがいる限り、父は教師であり続ける。41年間おつかれさまでした。そして、これからも、おちゃめなイマセンでいてください。

2004年03月30日(火)  鴻上尚史さんの舞台『ハルシオンデイズ』
2003年03月30日(日)  中国千二百公里的旅 中文編
2002年03月30日(土)  映画『シッピング・ニュース』の中の"boring"


2007年03月29日(木)  ターバン野口

読売新聞の青鉛筆というコラムに、千円札を折って作る「ターバン野口」なるものが人気、と紹介されていた。千円札って夏目漱石じゃなかったっけ、と言っているわたしは相当遅れているが、ネット上ではとっくに話題になっていて、発案者による公式サイト『ターバン野口の世界』によると、『お札DEおりがみ 公式「ターバン野口」のつくりかた』という本まで出ている。世間では、学食や仕事帰りの飲み屋で「これ知ってる?」などと言いながらワイワイ折っているのかもしれない。

諭吉(一万円札はこの人で合ってるはず)は留守がちでも、千円札ならたいがいの財布に入っている手軽さも受けている理由だと思うが、福沢諭吉でも樋口一葉でもなく「野口英世×ターバン」の相性の良さに吸引力があるのではないか。子どもの頃に読んだ伝記に載っていた南方系の濃い顔立ちが印象に残っている人は多いだろう。一瞬意表をつかれるけれど、ターバンを頭にのっけた姿には「ああ、やっぱり似合う」というしっくり感がある。他に「キューピー野口」「ベレー帽野口」「ピエロ野口」「ヘルメット野口」といったバリエーションがあるようだが、「ターバン野口」のインパクトと説得力には及ばない。

早速わたしもお札折り紙に挑戦。やってみると、なかなか難しく、折り曲げたお札がうまく頭に乗っからない。新聞に載っていたターバンは、お札の模様がボタンのように見えてターバンらしさを醸していたが、同じようにはいかず、巻きつかせるのが精一杯。試行錯誤の末、「1000」がアクセントのターバンが完成。

2003年03月29日(土)  中国千二百公里的旅 厠所編
2002年03月29日(金)  パコダテ人トーク


2007年03月28日(水)  マタニティオレンジ101 ビクス仲間のレイコさん

3月は別れの季節。マタニティビクスで共に汗を流し、出産後はべビーヨガ仲間となったレイコさんは、4月からダンナさんの待つ徳島へ帰ることになった。ダンナさんの出張が多いこともあって、約一年の長い里帰りとなったのだけれど、おかげで共におなかを膨らませ、共に子どもを大きくしながら、じっくり友情を育むことができた。

この人と出会えただけでも妊娠・出産はもうけもの、と思える出会いに恵まれているけれど、レイコさんもその一人。目鼻立ちのはっきりした華やかな美人なのに、中身は肝っ玉チャレンジャー。哺乳瓶と乳首の組み合わせを片っ端から試したかと思うと、粉ミルクは棚に並んだ全種類を買って飲み比べ、最後に自分の母乳も味見して、「母乳がいちばん」と結論。以前『探偵内とスクープ』という番組で母乳プリンを作っていた話をすると、「卒乳制作で作ろうかな」と乗り気。この人の場合、口だけでなく、本当にやりかねない。自らを実験台にして、何でも「試して合点」してしてしまう。薬学部出身と聞いて、納得。専門分野だから薬のことはとても詳しい。ママ仲間から薬のレクチャーを受けることになるとは。

育児ストレスで母乳の出が悪くなったときは、本場・宝塚までひとっ飛びして大好きな宝塚歌劇を鑑賞。いい感動で母乳が回復し、「幕間にトイレで搾った」と携帯メールを寄越してきた。歌劇好きで、過激なレイコさん。マタニティ作品を書くときには、ネタにさせていただこう。徳島に戻ったら、出産前に入りなおした歯学部での勉強を続けるとのこと。歯医者さんになるかどうかは決めていないそうだけど、ネタ満載で普通に話していることが笑い話になるレイコさんが歯医者さんだったら、つい大きな口をあけてしまいそうだ。

最後のベビー&ママヨガのクラスに出た後、ランチをしながら、楽しかったね、これからも連絡取り合おうねと話す。「これ、記念に」と差し出されたのは、ビーズで編んだブレスレット。行動力はあるけれど手作りは苦手だと思っていたら、こんなものが作れるの、とびっくり。「ごめん。仲間だと思ってた」と言ったら、「子どもができて、こういうこと、したくなったんだよね」とレイコさん。ビーズ細工は初挑戦、本も見ずに自己流で作ったとは思えない出来。会うたびに驚かせてくれる人だった。東京はちょっと淋しくなるけど、徳島はちょっとにぎやかになるかな。

2005年03月28日(月)  『ダ・ヴィンチ・コード』で寝不足
2003年03月28日(金)  中国千二百公里的旅 干杯編


2007年03月27日(火)  『子ぎつねヘレン』地上波初登場と富士フイルム奨励賞受賞

先週水曜日の3月21日、わたしが脚本を手がけた四本目の長編映画『子ぎつねヘレン』が地上波に初登場。しかも、21時からのゴールデンタイム。普段は水曜ミステリー9を放送しているテレビ東京のこの枠には昨年5月に放送された『ドクターヨシカの犯罪カルテ』についで二度目の進出となる。放送時間に合わせて本編を5分ほどカットしたと聞いていたのだけれど、正直、どこを切ったのかほとんどわからなかった。「獣医大学って看板、出なかったよね?」などとダンナと間違い探しを楽しみながら観たけれど、5分もつまんだ感じはしない。CMの入り方もあまり気にならなくて、これならテレビ版でも味わって観ていただけたのでは、とほっとした。劇場で観られなかった人から「やっと観れた」「よかったよ」という声が届く。録画して観る人が多く(オンエア時は『愛ルケ後編』を観てたのかも)、放送直後よりも2、3日経ってからの反響のほうが多かった。

公開時のお祭り気分に加えて、関連本も作れて、DVDにもなって、公開一年後にテレビ放送というイベントまでついてきた。作品をわが子にたとえれば、あの手この手で親を楽しませてくれるヘレンはとても親孝行だ。ちょうど先週、所属している協同組合日本シナリオ作家協会から著作権使用料の振込み通知が届いた。ドラマが再放送されたり、映画がテレビ放送されたり、ドラマや映画が海外に売れたりすると、作品に関わった著作権保持者に規定量の著作権使用料が支払われる。CSで抜き素材として一瞬流れただけでも、きちんと徴収して振り込まれる。支払われるお金もありがたいけれど、何よりうれしいのは、自分の作品の「近況」を知れることだ。テレビドラマ『ブレスト〜女子高生、10億円の賭け!』は海外で放映されたらしい。著作権使用料は1362円だけど、あの女子高生トリオが海を渡ったのか、という感激に値段はつけられない。著作権は作品の親(たくさんいるけど)である証であり、作品との絆だと思うから、ギャラを値切られても、この権利は守る。

テレビ放映が関係者にいちいち伝えられないのと同様、賞関係のニュースもなかなか脚本家の耳には入ってこない。今日授賞式が行われた第16回日本映画批評家大賞で『子ぎつねヘレン』が冨士フィルム奨励賞を受賞したことは、知人で映画ライターのコバリアキコさんからの「おめでとう」メールで知った。公式サイトの情報はこの日記を書いている4月7日現在昨年度の受賞作品発表から更新されていないけれど、いまいまさこカフェの常連、岡山のTOMさんがcinema topics onlineのレポートを見つけてくれた。映画批評家だけが選考するというユニークな賞での受賞はうれしい。地上波登場から一週間足らずの間に、またまたヘレンの親孝行。

2005年03月27日(日)  今井家の『いぬのえいが』
2003年03月27日(木)  中国千二百公里的旅 食事編
2002年03月27日(水)  12歳からのペンフレンドと3倍周年


2007年03月26日(月)  マタニティオレンジ100 1%のブルー

書きたいことが尽きないものだと我ながら感心してしまうけれど、マタニティオレンジの記念すべき100回目は、タイトルに反してマタニティブルーのことを書こうと思う。「本当に楽しいことばかりなんですか?」と何人かに質問をもらった。実際、本当に楽しんでいるけれど、妊娠してからずっと笑っていたわけではない。妊娠・出産・育児をしなければ味わわずに済んだ怒りや悔しさや悲しさはある。妊娠を知ってから400日余りの間に4日ぐらいは落ち込んでいた。99%はユカイだったけど1%はフカイだったというわけで、100話目にブルーの話。

はじめての出産だったけれど、マタニティビクスと助産院という心強い味方を得て、不安は最小限に抑えられた。けれど、妊娠中の二度の出血にはドッキリ、ヒヤリ。出血といっても点のような小さなものだったけれど、妊娠がわかって間もなくの一度目は血相を変えて近所のレディースクリニックに駆け込んだ。ちゃんと心音は聞こえているし、大丈夫でしょう、と言われてようやく動悸が静まったけれど、自分の狼狽ぶりを見て、もうおなかの命と一体感ができているんだなあと実感した出来事だった。二度目は妊娠後期で、前夜に長い打ち合わせをしたことが原因だと思われた。5時間も座りっぱなしでは、子宮だってエコノミークラス症候群になりかねない。このときは助産院に電話すると、「一日様子を見てから来たら?」と助産師さん。落ち着いた口調から「それほど心配しなくていいよ」のニュアンスを聞き取って安心したが、このときは「ここまで大きくなって、もしものことがあったら……」と焦った。二度とも出血はすぐにおさまったし、わたしのように問題ないケースが大半らしいが、中には危険な場合もあるという。いずれにせよ、二度の出血は、おなかの中からのSOSだったのだろう。一度目は、「おなかはまだ目立ってないけど、ここにいるんだから、いたわってね」というサイン。二度目は「仕事より大事なものが、ここにいるよ」というサイン。そう受け止めて、生活や仕事のペースを見直したことが、結果的には「出血しても問題なし」になったのではないかと思う。

泣いたことは二度あった。一度目は、妊娠6か月のゴールデンウィーク。大阪から遊びに来たダンナ弟一家とともにダンナの実家で食事をしたとき、「もうお子さんの名前は考えているんですか」とダンナ弟妻のノリちゃんに聞かれた。「うん」とわたしは元気よく答え、「男だったら優人(まさと)、女だったら舞子(まいこ)」と続けた。すると、「あらあら、楽しみがなくなっちゃったわね」とダンナ母。しまった、と思ったけれど、遅かった。その帰り道、「考えているかどうかだけ答えればよかったのに、なんで名前までばらすんだよ」とダンナになじられた。その言い方がきつくて、歩きながら、わたしはボロボロ泣いた。「ケチつけないでよ。人が機嫌よく妊娠してるのに」と言いながら泣いた。泣くほどのことじゃないと思いながらも、泣いてしまうと気分がすっきりと軽くなった。涙にはデトックス効果があるというのは本当だ。泣かせるつもりはなかったダンナはオロオロして、気の毒だった。「もういいよ。ケチついた名前は使わない。優人も舞子も使わない」と言うわたしを、「名前にケチつけたわけじゃないよ」とダンナはなだめた。この事件のせいじゃないけど、結局、違う名前になった。

二度目に泣いたのは、出産後。助産院から退院して自宅に戻った日だった。8月21日の夕方に破水して、あたふたと飛び出したきり。一週間も家を空けたのは『子ぎつねヘレン』のロケ以来。ひさしぶりのわが家でのんびりしたい、というのが本音だったけれど、命名式というものを急遽うちでやることになっていた。大阪から泊まりで手伝いに来ていたわたしの母に加えてダンナの両親と妹がやってきて、ダンナ母が用意した赤飯やサラダをテーブルに並べていった。汁物だけはうちで作ることになったのだが、ダンナ母は「あなたは寝てなさい」と言ったかと思うと、「どこに何があるか、さっぱりわかんない」と言い出す。いつも以上にはりきっていて、いつも以上にはっきりものを言うのが、産後で体も頭もぼーっとしているわたしには重かった。明らかにやり方の違う二人の母が台所に並んで、ぎくしゃくと息の合わない共同作業で汁物をこしらえる光景も、見ていていたたまれなかった。なんで、こんなことになってるんだろう。なんで、自分の家なのに落ち着かないんだろう……そんなことを考えていると、だらしなく膨らんだ子宮に悪いガスが溜まっていくみたいだった。

それでも食事は和やかに進み、ダンナ妹が達筆で色紙にしたためた名前は拍手で迎えられ、いい時間だった。さっきイライラしちゃったのは、疲れていたせいだったんだなと思った。いったん静まった感情の波が再び荒れたのは、トイレに入って、窓辺に並べたインク瓶のアイビーがそっくり消えていることに気づいたとき。母を問い詰めると、「枯れてたから捨てた」と言う。一週間の間にインク瓶の水は干上がり、アイビーの根は乾いてしまったようだ。それなら仕方ない。けれど、母が捨てたものは他にもあった。花瓶カバーに使っていたアメリカ土産の花柄の紙袋が、ビニール袋に突っ込まれているのを見つけて、「なんてことするん!」とわたしは噛み付いた。「埃まみれでボロボロやん」と母は言ったけれど、わたしには大切な小物だった。そのビニール袋には、他にも一見ガラクタだけれどわたしには意味のあるものが一緒くたにされていた。「勝手なことせんといて!」怒りが爆発した。

だが、実際には、母は捨てたのではなく、どけておいたのだった。ダンナ両親の目につかぬように。娘の暮らす部屋が少しでも見映えが善くなるようにと、早めに着いたダンナ妹とともに精一杯のことをしてくれたのだ。「あのままを見せるわけにはいかへんやろ」。ダンナ両親とダンナ妹が帰った後で、母はため息をつきながらそのことを話した。ごめんね、と謝るべきなのだろう。ありがとう、と感謝するべきなのだろう。でも、「余計なこと、せんといてくれたらよかったのに!」と憎まれ口しか出てこない。頭に血がのぼって、あっちこっちへ飛び出した感情のこんがらがってしまった。トイレにこもって、わあわあ泣いた。本当はこんな言い争いなんかしたくなかった。子どもを産んで、一週間足らずの育児で、母親の幸せと大変さを知った。自分やダンナもこんな風に生まれて育ってきたんだなと思い、自分の母親にもダンナの母親にも今まで以上に感謝と尊敬の気持ちを抱いた。なのに、なんで、二人の母に苛立ち、娘のためにやってくれたことに文句を言ってしまうのだろう。無性に悲しくて、やりきれなかった。泣きじゃくるわたしの声はドアの外にも聞こえていたはずだけど、母は何も言わなかった。ダンナはわたしの頭をぽんぽんとたたいて、「みんながんばってるよね」とだけ言った。わたしだけの肩を持つのではなく、みんなを持ち上げる。とんちんかんな慰め方だ、とそのときは物足りなく感じたけれど、みんな良かれと思ってやっているのにうまくいかない、なんでだろね、というもどかしさをわかって分かち合ってくれていたのだと思う。

ひとしきり泣いて、またもやすっきりして、あっと気がついた。8月22日の出産当日を出産0日目とカウントするから、今日は出産5日目。産後の憂鬱を表すマタニティブルーは5日目でピークを迎えるという。いつもだったら口ごたえひとつで済むようなことに目くじらを立て、泣き喚いてしまった原因は、これだったのかもしれない。精神的にいちばん不安定なタイミングに、神経をすり減らす出来事が重なってしまったのだ。思えば、高校を出て以来、母を離れた年月が母と暮らした年月を上回ってしまっていた。そんな母娘がいきなり息ぴったりで一緒に暮らせるはけがない。母が大阪へ戻るまでの一週間をかけて、母が手を差し伸べたいこととわたしが頼みたいことの折り合いがようやくついた。

娘を授かって良かったなと思うのは、母の気持ちに少し近づけたことだ。母は娘が何才になっても大人になっても母になっても、娘を必死で守り支えようとする。突っぱねられても、感謝の代わりに文句を言われても、どこまでも母であろうとする。そういうせつない生き物なのだということを知れたことはよかった。母との関係で泣くことはもうないのではと思うけれど、娘との関係で泣かされることはあるだろう。そのときもっと母の気持ちに近づけると思う。

2006年03月26日(日)  ヘレンウォッチャー【都電荒川線編】
2005年03月26日(土)  映画『いぬのえいが』→舞台『お父さんの恋』
2003年03月26日(水)  中国千二百公里的旅 移動編
2002年03月26日(火)  短編『はじめての白さ』(前田哲クラス)


2007年03月25日(日)  マタニティオレンジ99 たま7/12才とインターナショナル

3日遅れで、8月22日生まれの娘のたまの7か月を祝う。6か月からの一か月は、いったん横ばいになったかに見えた成長曲線が、再び上向いたように感じられるほど、「いつの間に、こんなことが!」の発見に満ちていた。おすわりが決まり、だっこされてのタッチも安定するようになると、自由になった両手がいたずらへ向かう。コンセント、コートのフードの紐、カーテン、お風呂の水栓……ぶら下がっているものは何でも引っ張る。ときどき力の掛け方と方向がうまく合うと水栓は抜けるけれど、どうすればそうなるかはまだ学習できていない。器に盛ったいちごの山に手を突っ込んでいたのが、その中から一粒をつまみ上げようとするようになった(まだうまくはつかめない。UFOキャッチャーのようなもどかしさがある)。

ズリバイで興味の対象へ突進し、手当たり次第つかんでは口に入れる。倒れると危ないので横向きに置いた全身鏡に映った自分も舐める(ナルシスト?)。ベビーラックの車輪を手で回したり、椅子に掛けたジャケットの袖を引っ張ったり、上体をそらせて両手でキャッチしたドアを押したり引いたり。好奇心いっぱいの目をキョロキョロさせて、床上20センチの世界で次々と遊びを見つける。鏡なんか舐めて不衛生ではないか、ドアの角で顔を傷つけないか、と気を揉みながらも、変な味や痛みを覚えることも必要かもしれないと思って見守っている。たま語は「ごえごえ」「んげー」を経て、最近はバとパを連発する。「バアバアバア」「パアパアパア」。ばあばと言ったわ、パパと呼んでるぞ、とダンナ母とダンナは喜んでいるが、わたしとじいじは面白くない。

12分の7才誕生会のマンスリーゲストは、「ハウス」と愛称で呼んでいた京都国際学生の家ゆかりの友人たち。日本人と留学生が暮らすこの寮は、わたしが大学一年生のときに下宿していた家のすぐ近くにあり、ちょくちょく遊びに行っていた。そのおかげで、日本の大学に通いながら留学生活のような刺激を味わえた。ダンスパーティでノリノリになって踊るわたしに、当時流行っていたMCハマーにちなんで「Missハマー」とあだ名をつけたのは、ブラジルからの留学生のリカルド。彼はブラジルの名士の御曹司らしく、「ブラジルのボクの部屋は、ハウスより大きい。ボクのハウスの部屋は、犬小屋のサイズ」と言っていた。シンガポールとマレーシアを旅行したときは、里帰り中の寮生の実家に泊めてもらった。大阪でインド人一家を隣人に育ち、高校時代にアメリカ留学をしたわたしは、ハウスに出会って、It's a small worldという思いをますます強くした。ここの住人であったダンナとは、ハウスのパーティで知り合ったので、ハウス関係者は夫婦共通の友人ということになる。


誕生日ケーキを用意してくれたテスン君は、ハウスに住んでいたチョン・テファさんの弟さん。奇しくも今日がご自身の誕生日だということで、自分用のメッセージプレートまで用意していた。手焼きクッキーのメッセージプレートにもセンスが光るケーキは、創作菓房アランチャのもの。一月にわが家に集まったときに持ってきてくれたケーキとマシュマロの完成度にも驚いたけれど、今回のホールケーキもキャラメルとナッツの香ばしさがアクセントになっていて、舌が恍惚となるおいしさだった。

食事をしながら思い出したのだけど、ハウスのイベントに、寮生たちが自国の料理を作ってふるまいあうコモンミールというものがあった。宗教上の理由で牛がダメ豚がダメという人たちも一緒においしさを分かち合う。その味の向こうにある国に思いを馳せる。食事は人と人の距離も近づけるけれど、国と国の距離を近づけると思った。ハウスのような面白い場所に出会えるかどうかはわからないけれど、たま(今回のメッセージプレートで明らかになったけれど、本名は珠江という)にもいろんな国の人と食事や会話を楽しめる機会を持って欲しい。そして、スパイスが混じりあって料理の味に深みをもたらすように、肌の色や言葉や国籍の違う人との交流が人生をより味わい深くしてれることを知って欲しいと願う。

2006年03月25日(土)  丸善おはなし会→就職課取材→シナリオ講座修了式
2005年03月25日(金)  傑作ドイツ映画『グッバイ・レーニン!』
2002年03月25日(月)  脚本はどこへ行った?


2007年03月24日(土)  マタニティオレンジ98 たまごグッズコレクション

男か女か産んでみてのお楽しみにしていたから、たまごにちなんで「たま」と呼んでいたのが、産んだときにはすっかり「たまちゃん」が定着。用意していた名前を変更して、たまで始まる名前をつけることになった。だから、たまの名前の由来は、たまご。ご近所仲間のT氏とM嬢が「たまちゃんプリン」とたまご型のカップに入ったプリンを持って来てくれたときに、わたしがハートグッズを集めるように、たまはたまごグッズを集めたら楽しいなと思ったのだが、たまご製品は世の中にあふれていても、たまごグッズとなると、なかなかない。そう思っていたら、思わぬところで、たまごグッズの金脈を掘り当てた。先日『はらぺこあむし』のエリック・カールのフェアではじめて足を踏み入れた教文館のショップの一角にイースターコーナーがあり、色も形もかわいらしいたまごグッズが顔を揃えていた。そうか、イースターがあったか、毎年この季節がめぐってきたら、たまごグッズコレクションをふやしていけばいいのか、とうれしくなる。イースターは三月下旬と思い込んでいたが、毎年時期が変わるらしく、今年は4月8日とのこと。

買い求めたのは、イースターエッグ(3つで189円!)、イースターエッグ柄の紙ナプキン、たまご型の木製パズル2種類。パズルはワークスみぎわという通所授産施設の木工品。ホームページによると、この施設では「知的障害を持つ人たちが、木工品の製作や紙すきの作業を通じて自分の隠れた能力を見つけ、働くよろこび、社会に役立つよろこびを学び、自立するための力をたくわえようと努力を続けて」いるという。手作りのあたたみとセンスの良さが感じられ、とても気に入った。今は何でも口に入れてしまうから危険だけれど、このパズルで遊べる日が楽しみ。

2006年9月10日 マタニティオレンジ5 卵から産まれた名前

2002年03月24日(日)  不動産やさんとご近所めぐり


2007年03月23日(金)  マタニティオレンジ97 板橋ツアー

ご近所仲間で1才7か月のマユタンのママのK子ちゃんから「天気がいいから公園に行かない?」のお誘い。車を出してもらい、板橋にある城北中央公園へ。わが家には車がないので、車で遠出をするのは新鮮。タクシーとバスにはよく乗るけれど、人の家の車には乗り慣れないたまは、遠足気分でごきげん。

公園には売店があり、坦坦麺、カレー、五目おにぎりなど、なかなか多彩なメニュー。わたしはチヂミとアメリカンドッグ、K子ちゃんは焼きそばとおにぎりを注文。大きな木の下にあるテーブルで食べていたら、いきなり、ビチャッと落ちてきたのは、鳥の糞。見上げると、頭上の枝にはハトが三羽。ハトのおトイレの真下で食事を広げていたわけで、あわてて原っぱへ移動。あちこちでレジャーシートを広げた親子連れがピクニックを楽しんでいる。花が咲いているわけでもなく、ただ広い芝生があるだけなのだけど、とてものどかで平和で気持ちのいいところ。

周囲を取り囲んだ土のジョギングコースでは子どもたちがキックボードや三輪車を走らせるのにまじって、シャドーボクシングしながら走るおじさんや散歩する老夫婦がいる。よちよち歩きの子どもたちの姿も目立つ。足の裏痛くないのかなと心配になるけど、裸足でうれしそうに歩いている男の子や、お兄ちゃんを追いかける女の子。最近は走り方も板についてきたマユタンもパタパタと駆けている。みんな、自分の好きな場所へ自分で進めることが楽しくて仕方ない様子。それにしても、子どもはよく転ぶ。足元が覚束ない上に頭が重いせいなのか、見ているこちらはハラハラするけれど、子どもたちは、泣く子も泣かない子も、ちゃんと立ち上がってまた歩き出す。その光景を見ているだけで、じいんとなる。たまの半年後や一年後にも思いを馳せてしまう。肝心のたまは、春の陽射しがあまりに気持ちいいのか、公園にいる間ずっとベビーカーで眠っていた。

板橋はK子ちゃんが生まれ育った地元。K子ちゃんいわく「価格破壊の町」らしく、「赤ちゃん用の靴下が一足20円」で叩き売られていたりすると言う。「たまちゃんが保育園でいるものあったら、買って行けば?」と言われ、「のとや」という激安衣料店へ。食事用エプロンが198円。安居。100円のよだれかけに手が伸びたら、犬用だった。のとやの数軒先の中華屋の店先では蒸したての豚まんや中華惣菜が並んでいる。豚まんはひとつ85円、惣菜盛り合わせは400円。

帰り道にメゾンモンマルトルというパティスリーに立ち寄る。ケーキ、パン、チョコレート、焼き菓子……目移りしそうなお菓子たちの誘惑合戦。自宅用のクッキーを数種類と、午後のお茶用のシュークリームを買い求める。「激安店だけじゃなくて、オシャレなお店だってあるのよ」とK子ちゃん。車だと30分ぐらいの距離なのだけど、なかなか行く機会がなかった板橋。地元っ子のK子ちゃんの案内で、ちょっとした小旅行気分を楽しめた。

2006年03月23日(木)  ヘレンウォッチャー【松竹本社編2】
2005年03月23日(水)  高校生がつくるフリーペーパーanmitsu
2004年03月23日(火)  ENBUゼミ短編映画『オセロ』
2002年03月23日(土)  インド映画『ミモラ』


2007年03月22日(木)  マタニティオレンジ96 胴体着陸と前方回転

先週、世間を騒がせた胴体着陸。うちのたまの得意芸でもある。おなかを床につけ、両手を床と平行に広げて、飛行機ぶ〜ん。これをやっているときは、実に得意げな顔をしている。ところが厄介なのは、この飛行機、翼が前輪にもなり、突如駆動を始める。おなかは床につけたまま、足の押し出しと腕の引き上げを組み合わせて、じりじり、ずるずると、全身を引きずる。いわゆる「ズリバイ」。よほどの重労働と見えて、一回ずりっと移動しては休憩し、くたばっているのだが、獲物を見つけると、すごい勢いで瞬間移動する。とかげみたいだ。好きなものほど、遠くにあっても執念深く追いかける。一回ズリバイして手に届かなければ諦めることを「1ズリバイ」と単位づけるなら、ビニールが2ズリバイ、本・新聞が3ズリバイ、いちばん好きな携帯電話は4ズリバイといった具合。先日、異様な関心を見せたヴィックスヴェポラップのチューブも携帯に並ぶ。5ズリバイ以上すると、わが家では壁にぶち当たる。

おなかを中心にした回転技も加え、360度どこへでも自在に移動するので、目が離せない。ベッドの真ん中でおすわりして機嫌よく遊んでいたので安心していたら、突然、不穏な気配がして、見ると、いつの間にかハイハイでベッドの端まで進んだたまが、勢い余って次に伸ばした手が空を切り、40センチ下の床へ頭から転落する瞬間だった。あっと思って駆けつけたわたしの目の前で、たまは頭が床を打つより先に両手をついた。それでも手では支えきれずにおでこが床にめりこみ、反動でベッドから離れた足が、ベッドの正面に立つわたしのほうに倒れてきた。わずか半秒ほどの出来事だったと思うけれど、緊急事態には脳はめいっぱい仕事をして、ストロボ写真状態になる。器械体操部出身のわたしのDNAのなせるわざか、0歳児にしてハンドスプリング(前方回転)が決まった、などと感心する余裕はなく、倒立の格好になったたまを夢中でキャッチし、抱き上げた。咄嗟に両手が出たからよかったものの、首で体重を受け止めていたらと思うと、ぞっとする。生後7か月の記念日に悪夢を刻むところだった。

朝起きたら子どもがベッドから落ちてて慌てて医者へ行ったという先輩ママいわく、「赤ちゃんは、落ちても身を守れるようにできている」そうで、ベッドから落ちたという話はよくあるけれど、落ちて大事に至った話はあまりないのだという。それでも本当に焦った。赤ちゃんの動きはボンバル機以上に予測不可能と肝に銘じて、目を配らなくては。

2002年03月22日(金)  遺志


2007年03月21日(水)  MCR LABO #2「無情」@下北沢駅前劇場

2月に観た第一弾がとても面白かったMCR LABOの第二弾「無情」を観る。鑑賞の友は前回と同じくわたしのシナリオご意見番のアサミちゃん。観終わった後で、「いやあ、進化してたねえ」と二人でしみじみ。第一弾は帰り道に「面白かったね〜」を壊れたレコードのように繰り返したけれど、数日経つと、面白かった印象だけが残って内容はあまり思い出せなくなった。でも、今回は、たぶん一週間経っても余韻が消えないだろう。

前回は男性ばかりだったのに対し、今回は女性が登場し、しかも主人公だったことで、より感情移入しやすくなったせいもあると思う。「体が足先から麻痺していく難病に冒された妻と見守る夫の物語」をA面とすると、B面では「一人暮らしの盲目の女性の部屋に出入りする人々の物語」が展開され、交互にABABとミルフィーユされていくうちに、まったく別の物語の顔をしていたAとBが溶け合い、最後にはひとつになる。A面の妻は麻痺が進んでやがて会話もできなくなるが思考は停止しない。B面の女性の元には善人の顔をして彼女を利用しようと近づいてくる人が後を絶たない。どちらの主人公を取り巻く人々の行動にも、人間のいやな部分をにじませつつ、「自分にもそういうところはあるよな」と思わせるリアリティがある。悪人キャラは憎みきれない存在に描かれているし、思い詰めた設定でありながら随所に笑いがちりばめられている。その匙加減の絶妙さに感心。軽い調子の中に込められた本音がグサッと突き刺さる。作・演出のドリルさん、台詞も間の取り方も本当にうまい。5月の第3弾「審判」、7月の第4弾「愛情」も今から楽しみ。

MCR LABO #1「無情」
作・演出:ドリル
プロデューサー:赤沼かがみ
「青春の切り落とし」

「お前を10分で落とす方法」

「彼女は機械になりたい」

「絶望列車希望号」

「俺は機械になれない」
×
櫻井智也(MCR)
黒岩三佳(あひるなんちゃら)
前田剛(BQMAP)
諌山幸治
ますもとたくや
(スペクタクルガーデン)
異儀田夏葉
住田圭子
石沢美和(SQUASH)
上田楓子(MCR)
福井喜朗(MCR)
渡辺裕樹(MCR)
小野紀亮(MCR)
伊達香苗(MCR)

2007年2月12日 MCR LABO #1「運命」@shinjukumura LIVE

2005年03月21日(月)  弘前劇場+ROGO『FRAGMENT F.+2』
2004年03月21日(日)  アドフェスト4日目
2002年03月21日(木)  「かわいい魔法」をかけられた映画

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