2008年07月27日(日)  SKIPシティ国際Dシネマ映画祭9日目 クロージング

12 時から昼食会の後、クロージングセレモニー。国内短編コンペティション部門に続いて国際長編部門の受賞作品発表。短編審査委員長の高嶋政伸さんのコメントには映画への愛がたっぷりこもっていて、味わい深い。受賞作のひとつ、『黒振り袖を着る日』への思い入れを語った際に「来月結婚することになりまして……紹介しちゃおっかな」と会場にいるフィアンセを紹介したのが何とも微笑ましかった。大賞受賞作『エレファント・マド』の監督HAMUさんは男性二人組さんで、そのうち一人は元気な男の子を連れて壇上へ。「外で子どもの相手してたらいきなり呼ばれて」とあわてふためきつつ、おとなしくしていないわが子を押さえてあたふたする姿が笑いを誘い、これまたいい感じ。

長編部門の表彰は5つの賞を5人の審査員が授ける形で進んだ。関係者が会場に駆けつけられない作品は、受賞者の喜びの声が会場に流れた。昨夜から今朝未明にかけてスタッフは電話をかけまくったとか。わたしがプレゼンターとなった脚本賞の『The Class(ザ・クラス)』の監督・脚本、エストニアのIlmar Raag(イルマール・ラーグ)さんには無事トロフィーを手渡すことができた。学校でのいじめを行き着くところまで描いた『ザ・クラス』は、観ていて苦しく辛い作品。わたしが脚本を書いていたら追いつめられる主人公に救いの手を差し伸べたくなっただろうけれど、この映画は絶望を突きつける。いじめを終わらせるために主人公が取った行動は最悪の結末を招き、せめて映画には希望を見せて欲しいという願いは裏切られる。けれど、現実はこんなもんじゃないというメッセージ性は強烈。作品の影響力の大きさゆえに、ぜひ賞を授けたいという声と、賞を授けることには慎重な声がせめぎあい、審査会議はかなり白熱した。結末に目を奪われると、衝撃ばかりが目立ってしまうけれど、作品は冒頭から一貫して「人間の尊厳とは」を問い続けている。その問いの重さが心の深いところまでずどんと投げ込まれて、時間が経ってもなかなか立ち去らない。強い意志を持った脚本のチカラに感服した。

長編部門の最優秀賞は『Arranged(幸せのアレンジ)』。学校の同僚として知り合ったユダヤ教徒とイスラム教徒の女教師が友情を育みつつ、お見合い結婚を進めていく。シンプルな物語なのに、ヒロイン二人の会話には終始ドキドキがあり、観ているうちに「二人とも幸せになってほしい」という思いが強くなる、そんな愛すべき作品。お膳立てされたお見合い結婚までもがステキなことに見えてくる。宗教の違いから来る摩擦や誤解を取り上げつつもチャーミングに描いた力量はかなりのもの。深刻に見せすぎないことで、彼女たちが実際に生活しているようなリアリティを出すことに成功したと思う。

監督賞を受賞したスペイン映画『Listening to Gabrielガブリエルが聴こえる』、審査員特別賞を受賞した『Lino リノ』『Echo 記憶の谺(こだま)』についても、賞を逃した他の7作品についても、語りだしたらきりがない。審査が縁でめぐりあえた12作品の感想は、日をあらためて紹介したい。

受賞を記念して『幸せのアレンジ』が上映される時間を使って、DVDにて短編を観せてもらう。審査員特別賞を受賞した『覗(のぞき)』(35分)、以前どこかで紹介記事を読んで興味を持っていた『大地を叩く女』(21分)、オープニングパーティで知り合い、水曜日に神楽坂で一緒に飲んだ百米映画社の塩崎祥平さんが監督した『おとうさんのたばこ』(17分)。短い作品でも作り手の個性は明快に現れる。短い作品だからこそ、とも言えるのかも。

クロージングパーティでは、オープニングのときよりもたくさんの人と話ができた。『ザ・クラス』のイルマール監督とは「脚本を書くとき、構成を決めてから書く?」「次回作は?」なんて話をした。映画を撮るためにテレビ局を辞めた監督の次回作は、いじめとはがらりとテイストを変えて、WOMANの話。実際にあった出来事をベースにしているところは共通しているけれど、こちらはハートウォーミングなお話とのこと。神楽坂の飲み会で会ったセシリア亜美北島さんも話題に加わり、脚本の書き方について話す。アルゼンチンからの帰国子女のセシリアさんは構想中の商業用長編を映画祭のDコンテンツマーケットでプレゼンし、興味を持ってくれるところが現れたので、夏のうちに初稿を書き上げたい、と意気込んでいる。今年観る側だった人が来年は出す側になるのかもしれない。

2才の息子リノ君を見てひらめいた物語に、血のつながっていない父親役として出演した『Lino』のジャン・ルイ・ミレシ監督に「もうすぐ2才になるうちの娘もリノ君とおんなじことします!」と伝えたくて話しかけたのだけど、監督はフランス語しか話せない。「わたしにも娘がいる」と伝えようにも「娘」の単語を知らないので、「J’ai…小さい…女の子…」と口ごもっていると、「君にも子どもがいるのか?」っぽいフランス語が返ってきた。「その娘がですね、Lino aussi(リノも)」と怪しいフランス語ながらも気持ちは通じた様子。

フランス語をちょこっとかじったのはカンヌの広告祭に行った10年前だけど、世界中から人が集まって来て話したいことがどっさりあるお祭りに居合わせると、もっと言葉ができたら、と思ってしまう。パーティが始まる前に話しかけた『囲碁王とその息子』のジョー・ウェイ監督、囲碁王役と息子役の役者さんにも、自分の言葉で感想を伝えられる中国語を持ち合わせていなかった。寡黙なホン・サンス監督とも、韓国語ができればもう少し突っ込んだ会話ができたのではないか。英語も磨きたいけれど、スペイン語、フランス語、中国語、韓国語、いろんな言葉で、せめて「あなたの映画はよかったよ」と伝えられるようになりたい。

初日に出会った『Under the Bombs 戦渦の下で』の助監督兼スタイリスト兼ジャーナリスト役のビシャラさんは、英語とアラビア語の他にフランス語も少々という言葉の羽根に加えてバツグンの人なつっこさと愛嬌でパーティ会場を飛び回り、すっかり人気者になっていた。「大好きな日本に来れたことが、すでに賞だよ」と喜び、「レバノンは今も戦渦の下。いつ爆弾に当たって死んでもおかしくない。戦争は僕らには日常。爆撃の音で眠れないのは最初だけ。そういうことを僕という人間を通して日本の人に知ってもらえたら、この来日には意味がある」とも言っていた。レバノンという国への大きな親近感と興味をお土産に置いて行った彼はダンサー、振付師でもあり、コスチュームデザインも手がける。わたしに会うたびに着ているものを面白がってくれた。名刺の肩書きは「artist unlimited」。「やりたいことがあるうちは死なない気がする」と言っていた彼が、どうか爆弾に当たることなく才能を発揮し続けてほしいと願う。

リトルDJとなってパーティを盛り上げてくれたのは、『囲碁王とその息子』の子役君。とてもきれいでまっすぐな目をした利発そうな彼の今後も楽しみ。

「川上さんの知り合いです」と話しかけて来たニシダカオルさんは、初監督の『6月4日』を短編コンペ部門にエントリーしていた新人監督。もともと女優で、わたしの友人の脚本家・川上徹也さんに脚本の書き方のアドバイスを受けたのだとか。彼女が出演した川上さんの舞台をわたしが観ていたことがわかり、「クリスマスイブに中野でやったあれ、出てたんですか!」「あれ観てたんですか!」とお互いびっくり。そのニシダさんが「函館映画祭のシナリオコンクールで今年受賞した男の子が来てます」と紹介してくれたのが藤村享平君。「わーい函館の同窓生だ! 300万円穫ったのかコノヤロ! 今度受賞者集めて飲み会やろう!」と母校の後輩を見つけたようなうれしい気持ちになって、盛り上がった。自分が写真に写ることはめったにないのだけど、今夜は記念写真を撮りたい場面の連続。

おひらきの時間になり、審査員のリカルドさんと別れを惜しむ。「アルゼンチンではキスが挨拶だから、ついハグしそうになるんだけど、日本ではしないんだねえ」と戸惑っていたリカルドさんに、また会いましょうと最後に一回だけハグ。お茶目で陽気なラテン乗りのおじさんだと思っていたけど、審査のときの鋭い意見を聞いて、ただものじゃないと恐れ入った。今年審査をご一緒したのも何かの縁。今年出会った人たちも作品も何かの縁。いい縁に恵まれ、映画好きでお祭り好きなわたしにとって、予想以上にたのしい映画祭となった。

2007年07月27日(金)  あの傑作本が傑作映画に『自虐の詩』
2005年07月27日(水)  シナトレ2 頭の中にテープレコーダーを
2004年07月27日(火)  コメディエンヌ前原星良
2002年07月27日(土)  上野アトレ
2000年07月27日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2008年07月26日(土)  SKIPシティ国際Dシネマ映画祭8日目 いよいよ審査

2年半ぶりのシングルルームで夜中に乳飲み子に起こされることもなく、ぐっすり眠って爽快な目覚め。浦和ロイヤルパインズホテルはパティスリーが自慢で、朝食のバイキングには焼きたてのクロワッサンやデニッシュが並ぶという。部屋に備え付けの案内ブックの写真を見ているだけでおなかが鳴る。グラタンもやたらとおいしそう。

食後のコーヒーを飲んでいる審査委員長のダニーさんと審査員のリカルドさんの隣のテーブルに着き、映画祭事務局の木村美砂さんと合流。同い年で甘いもの好き同士の木村さんとパンをどっさり食べながら、女性が働き続けることについて話す。

審査は11時から。ダニーさんには英語、リカルドさんにはスペイン語、ホン・サンス監督には韓国語の通訳がつき、公用語の日本語に訳されたものをそれぞれの言語に訳し直すという四か国語会議。これまでにも一流の通訳の方の仕事ぶりを拝見する機会はあったけれど、今日の3名の通訳さんの技量には舌を巻いた。スペイン語や韓国語がわかっているわけではないけれど、発せられた言葉と訳された言葉の間に時差はもちろん温度差も感じさせず、口ぶりや微妙なニュアンスまでそのまま伝えているような印象。外国人審査員3名は男性で通訳3名は女性なのに、通訳の言葉が本人の言葉に聞こえる。文楽の人形遣いの黒子が見えず、人形だけが動いているように見える、そんな見事な一体化のワザを見せてくれた。

その通訳さんたちが、14時半過ぎまで3時間以上にわたって続いた会議の後に「こんな面白い会議は久しぶり」と興奮で疲れを吹き飛ばしたほど、審査は白熱し、ドラマティックに展開した。受賞作を選び出すプロセスは審査委員長に委ねられる。ノミネート作品12本をある程度絞り込んだ中から5つある賞を振り分けていくのではなく、賞ごとに一から絞り込みの作業をやり直す手のかかる審査方法は、それぞれの賞にいちばんふさわしい作品を丁寧に選びたいという今年の審査委員長の心意気と真摯さの表れ。12作品のラインナップの多様さもさることながら、各審査員が推す作品は各自の価値観や好みを反映して、こうも多様な反応があるものかと驚くほどばらけた。ある審査員が満点をつけた作品に別な審査員は0点をつける。その落差が互いの主張を聞くうちに歩み寄りを見せたり、それまで誰も言及していなかった作品に突然光が当たったり、議論はジェットコースターさながら乱高下する。その波に乗ったりのまれたりを繰り返しながら、言葉の応酬だけでこんなスリルを味わえるなんて、とわたしの血は騒ぎっぱなし。やがてジェットコースターは滑るような走りとなり、静かにUnanimous(満場一致)に着地する。陪審員たちの裁判での議論を描いた『12人の怒れる男たち』を彷彿とさせるような劇的な審査が5回にわたって繰り広げられたのだった。

同じ作品を観ても、こうも受け止め方が違うものかと驚きつつ、自分が見落としていた点の数々を発見。賞は今回出品された作品に対して授けるものであるけれど、賞が今後も作品を撮り続ける監督へのエールになると考えれば、まだ観ぬ未来の作品を視野に入れることにも意味がある。監督はどんな人だろうという想像力はわたしにも働いたけれど、他の審査員たちは「監督はどの国でどういう教育を受けた人か」「どういう思想を持った人物であるか」まで思いを馳せた上で作品を吟味し、デジタル映画祭であることを踏まえて「デジタル技術をいかに駆使しているか」という視点で作品を評価することにも気を配っていた、物語の読解力はもちろんのこと、技術的な部分を観る目もまだまだ養わなくては。


未熟な自分がこんな席に着かせてもらっていいのだろうか、とありがたいやら恐縮するやら興奮するやらで大忙しのうちに、はじめての映画審査は終わった。集中力を緩めて味わったお昼のお弁当を一気に平らげ、浦和パインズホテル自慢のケーキもするりと胃に納め、5つのunanimousの余韻に浸った。

2007年07月26日(木)  エアコンの電源が入らない
2005年07月26日(火)  トレランス番外公演『BROKENハムレット』
2004年07月26日(月)  ヱスビー食品「カレー五人衆、名人達のカレー」
2002年07月26日(金)  映画『月のひつじ』とアポロ11号やらせ事件
2000年07月26日(水)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2008年07月25日(金)  SKIPシティ国際Dシネマ映画祭7日目 審査員ディナー

埼玉県川口市のSKIPシティにて長編作品2本を鑑賞し、国際コンペティション部門審査対象の全12作品の鑑賞を終える。いよいよ明日は審査会議。その会場でもある浦和ロイヤルパインズホテルへ移動し、審査員ディナー。映画祭ディレクターの瀧沢さんより審査方針の説明があり、「大賞(賞金1000万円!)は必ず一本選出してください」と言われる。意見が分かれて該当作なし、あるいは2本で分かち合うという形はナシ。そのためにも昨年4名だった審査員は、今年5名になっている。多数決を取れば偶数で引き分けることにはならないが、審査委員長のダニー・クラウツさんは「アナニモス」で決めることにこだわる。聞き慣れない言葉だけど、unanimousは「満場一致の」という意味らしい。議論を尽くし、互いの意見を聞いた上で投票し、この賞にはこの作品、と全員が納得する形で決めて行きたい、とダニー氏。明日は熱い議論が交わされることになりそう。

中華をコースで楽しみながら、話題は映画から経済へ。20年前にダニーさんが来日したときは円高だったけれど、今回はユーロが強いので、買い物天国なのだとか。電車に乗って国境を超えられ、今やパスポートの検閲もないEUヨーロッパの国際感覚は、島国ニッポンとはまるで違う。国によって線路の幅が違ったり、車両の大きさが違ってトンネルを抜けられなかったり、という問題が発生することも。規格統一するときには大国が幅を利かせ、小国は従わされる。「ドイツでバターが余ったときにロシアに送ってあげようという話になったが、根回しするうちに時間がかかり、ロシアにバターが届いたときには賞味期限切れになっていて、喜ばれるどころか怒らせてしまった」という小咄も面白かった。

今日はホテルに宿泊。一人でホテルに泊まるのは、2005年の冬に『天使の卵』の撮影で大阪に宿泊したとき以来。足の踏み場もない家で生活しているわたしにとって、すっきりしたホテルの部屋は非日常。体を伸ばせる大きなバスタブに自分一人のためだけにお湯をたっぷり張る贅沢。湯上がりにお茶を飲んで、ソファにふんぞり返ってテレビを観て、こういうのひさしぶりだなあとしみじみする。CNNのニュースを副音声で聞いて、英語に浸った。

2007年07月25日(水)  父と娘から生まれた二つの『算法少女』
2005年07月25日(月)  転校青春映画『青空のゆくえ』
2003年07月25日(金)  日本雑誌広告賞
2000年07月25日(火)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2008年07月24日(木)  潜在意識?『7月24日通りのクリスマス』

監督とプロデューサーと週一回ペースで会って、映画の企画を練っている。昼過ぎから夕方まで、会っている時間の半分ぐらいは雑談に費やし、最近観た映画や昔観た映画の話になる。今日、どういう流れからか、わたしの口から『7月24日通りのクリスマス』の話題が出た。たまたま三人とも観ていたことがわかり、ヒロインの妄想に出て来て恋を応援するポルトガル人の父子は『アメリ』をやりたかったのかなあ、などと話した。

そのときは何も思わなかったのだけど、家に帰って、今日の日付が「7月24日」であることに気づいて、あらっと思った。『7月24日通りのクリスマス』が公開された2006年秋、わたしは六本木ヒルズのTOHOシネマのママズシアターでマタニティビクス仲間のレイコさんと子連れで観たのだけど、他に観た人がまわりにいなくて、それ以来、誰かとこの映画の話をしたことはなかった。ほぼ2年の間記憶の底に沈んでいたこの作品のことを今日思い出したのは偶然ではなく、無意識のうちに「7月24日」という情報が記憶野の深いところをかき回した結果なのかもしれない。「なんで、突然こんな話してるんだろ」と不思議に思うことがわたしはよくあるけれど、自分でも気づかないうちに記憶につながるスイッチが押されているんだろうなあと想像した。

2007年07月24日(火)  マタニティオレンジ150 自分一人の体じゃない
2000年07月24日(月)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2008年07月23日(水)  神楽坂の隠れ家で、英語で映画を語る。

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭5日目。審査委員長のダニー・クラウツさんとダニーさんに映画製作を教わったという百米映画社取締役のジョン・ウィリアムスさんが神楽坂で飲むというので、仲間に入れていただく。炉端焼き屋『てしごとや 霽月 (てしごとやせいげつ)』の個室に集まった約10名は国籍様々な映画関係者。審査員のリカルドさんもダニーさんとともにはるばる川口市からやってきて、「SKIPシティから抜け出したのは初めて」と言う。観光したい気持ちはヤマヤマだろうけれど、お二人とも審査にいそしみ、飲んでいる間も映画の話。根っからの映画人だ。

宴の公用語は英語で、合作映画の進め方なんかを語っている。天井が低い隠れ家みたいな部屋を飛び交う異国の言葉の映画の話は、秘密の香りがする。わたしの英語は友だちを作って意気投合するまでは出来るけれど、深く語り合うには拙すぎ、聞き役に回ってしまう。以前わたしが関わったものの成立しなかった海外ドラマの日本版を作るという企画のオリジナルを観ていた日本人の女性がいて、そのドラマの話で盛り上がった。

2007年07月23日(月)  マタニティオレンジ149 ダンボールハウス
2005年07月23日(土)  映画『LIVE and BECOME』・バレエ『ライモンダ』
2004年07月23日(金)  ザ・ハリウッド大作『スパイダーマン2』
2003年07月23日(水)  チョコッと幸せ


2008年07月22日(火)  マタニティオレンジ314 おっぱい「まだ でる!」たま1才11か月

一昨年8月22日に生まれた娘のたまは、2才の誕生日まで、あと1か月。「魔の2才児」の助走は始まっていて、日に日に自己主張が強くなっている。「あんよ たい!」(歩きたい)と言い張るのでベビーカーに乗せずに出かけると、「ここ たい!」とだっこをせがまれて閉口する。「ぬぎぬぎぽん たい!」(服を脱ぎたい)、「くるくるここ たい!」(バスタオルをぐるぐる巻いてだっこしてほしい)、「でで たい!」(出たい)、「ねんね ない!」(寝ない)、「ねんね たい!」(寝たい)と、お風呂に入ってから寝るまでの間にも要求は刻々と変化する。毎日のように仕入れて来る新鮮なコトバを駆使して交渉上手になっていく姿を見ていると、「コトバは意志を伝えるための道具」だなあとあらためて思う。伝えたい気持ちがコトバを求め、磨かせる。

つい先日のこと、「とんとん!」とおっぱいを欲しがり続けるので、「もう出ないよ」と言ったところ、「まだ でる!」と泣きながら言い返してきて、ダンナと大笑いした後に、「もう」と「まだ」の使い分けができるとは、と驚いた。実際には「もう」という単語を知らないので「まだ」を使うしかないのだが、普段はnot yetの意味合いで使っている(「うんちは?」と聞かれて「まだ でない」のように)のをstill moreの意味合いでも使いこなしたことに感心した。2才を前にしても卒乳の気配はなく、トイレトレーニングも「まだ!」。

この一か月の目覚ましい変化は、助詞を使えるようになったこと。「ママと いく」「ママと いっしょ」と「と」を使うときは、二人で出かけたいとき。パパに手を引かれて出かけるときには、「ママも くる?」と振り返る。「ここに ある」「あっちに いく」など、場所や方向の「に」も使いこなすようになったが、これに相手を示す「に」が加わり、昨日わたしが打ち合わせから戻ると、「ママに コーローケ」と得意げに指差した。「じいじばあばの家から持って帰ってくれたのね」とお礼を言ったら、ダンナが実家でのエピソードを披露してくれた。たまはコロッケを夢中で食べた後に「ママに コーローケ」と言い出し、ダンナ母が「どうしよっかなー」とふざけてはぐらかしたら、テーブルに突っ伏して泣いたという。自分が食べておいしかったものをママにも食べさせたい、その気持ちがいじらしい。親は子を喜ばせるために心を砕くけれど、子どものほうから笑顔以上のお返しが来るようになった。

人を笑わせたいというサービス精神も旺盛。今月お目見えした芸は、「バレリーナ」。レッスンバーよろしく柱などにつかまって片足をひょいと上げ、「バレリーナ」のかけ声とともにポーズを決める。それだけでも笑いを誘うのだけど、「あれ?」と首を傾げる仕草がまたおかしい。自分で突っ込みを入れるなんて、誰に教わったのか。関西人の血ゆえの天然仕込みなのだろうか。機嫌がいいときはいつもフンフン鼻歌を歌っている。「ハッピーバースデー ディア あま〜」と2才の誕生日に向けてバースデーソングを練習中。

2007年07月22日(日)  マタニティオレンジ148 ダブルケーキに仰天!たま11/12才
2005年07月22日(金)  万寿美さん再会と神楽坂阿波踊り
2002年07月22日(月)  10年前のアトランタの地下鉄の涙の温度


2008年07月21日(月)  マタニティオレンジ313 なす術なし!の手足口病

先週の金曜日、打ち合わせを終えて娘のたまを保育園に迎えに行くと、「さっきから熱が出て、今また上がって38度6分です」と保育士さん。「手首と足と口のまわりと口の中にブツブツができていますから、手足口病かもしれません」と言われて小児科へ直行すると、予想的中。体の抵抗力が落ちたときにウィルスに負けて引き起こされる
症状だそうで、薬はとくにないとのこと。

「ブツブツが出てしまえば熱は引くし、ブツブツにはとくに痛みやかゆみはないけれど、口の中にできたものに限っては、しみるので、食べるときに痛がるかもしれません」というお医者さんの言葉通り、熱が引いてからが大変だった。食べものを口に入れるたびに顔をしかめて「いたい!」と泣く。空腹と痛みに加えて、食欲はあるのに痛くて食べられないもどかしさと不満が苛立ちを募らせ、機嫌は悪くなるばかり。可哀想にと同情を誘われるけれど、親にもどうしてやることもできない。丸三日苦しんで、ようやく今夜あたりから少し食べられるようになったけれど、それまでは白いご飯さえも受けつけないほど固形物は一切ダメで、牛乳とお茶とおっぱいでしのいだ。一度なれば免疫ができるという類いのものではないらしく、弱っているときにウィルスが入ってくれば何度でもなるというのが厄介だ。

「手足口病? 何それ?」とダンナ母は初耳のように言い、「うちの三人の子どもたちは一度もかからなかったから特殊な病気に違いない」と言い張ったけれど、わたしが子どもの頃から身近にあって、「てあしくちびお」と呼んでいたのを覚えている。わたし自身がかかったときの記憶なのか、妹や弟がかかったときだったか。そのものずばりの病名が子どもにも親しみやすく、覚えやすいがゆえに忘れられなかったのだけど、今回「手足口病」をネットで調べて、英語では“hand-foot-mouth disease”と呼ぶことを知った。日本オリジナルのネーミングかと思いきや、直訳なのだろうか。

2007年07月21日(土)  体に寄り添う仕事用の椅子
2005年07月21日(木)  日本科学未来館『恋愛物語展』
2004年07月21日(水)  明珠唯在吾方寸(良寛)
2002年07月21日(日)  関西土産
2000年07月21日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2008年07月20日(日)  映画祭と日常を行き来する通勤審査員

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2日目。今日から国際コンペティションの長編部門と国内コンペティションの短編部門が始まり、会期中に各作品2回の上映機会がある。昨日はオープニングだから盛況だったけれど、今日はどうだろう、と行ってみると、朝一番の上映から立ち見が出るほどで、初日だけじゃないんだ、となんだかうれしくなった。長編部門の審査員5人は12本のノミネート作品を観た上でクロージング前日の審査会議で受賞作品を選び出す。どの作品をどのように観てどのような感想を持ったかについて、審査が終わるまでは記さないほうが良さそう。どれもクオリティが高く紹介したい作品ばかりで、一度目の上映で観た作品を「ぜひ観るべし!」と二度目の上映に誘うことができたらと思うのだけど、それができないのは歯がゆい。

今日は審査委員長のダニー・クラウツさんと審査員のリカルド・デ・アンジェリスさんとそれぞれのアテンドの通訳さんと行動を共にした(写真は会場に特設されたシネマカフェでの休憩時に食べたカレーパン)。ダニーさんはオーストリアでDOR FILMという製作スタジオを立ち上げ、100本以上の映画やテレビをプロデュースされている。「こっちが3才の娘で、こっちが18才の娘」と子どもの写真を見せてくれたので、「15才も離れているの」と驚いたら、「他に5人いる」と言われて、もっと驚いた。「映画作りと子作り、とても生産的な人生ですねえ」と感心。映画祭の会期中に妻と子の誕生日があるので、プレゼントを日本で見つけなきゃと言う。精力的に仕事をこなしつつ家庭を楽しむ大らかさに好感。

リカルドさんはアルゼンチンの撮影監督で、3作目の『A Place in the world』がアカデミー賞候補に。16本撮った長編作品のうち8作品がデジタル撮影で、南アメリカにデジタル技術を広めている。とにかく機械が好きで、記録撮影のクルーが担いでいるカメラや会場にあるハイビジョンテレビなどに興味津々。英語は片言だけどコミュニケーション能力はバツグンで、表情が実に豊か。この人のいる現場は笑い声が絶えないだろうなあ。あるいは、南米の人たちって、皆さんこんなに陽気なんだろうか。9才の孫娘の写真(ご自身で激写)を見せて自慢するお茶目なじいじでもある。

スペイン語の響きが好きで、イタリア語とともにぜひ習得したい言語なのだけど、リカルドさんが話しているのを聞いていると、ますますその気持ちが募る。ジャケットは「ジャケッタ」。上着は「カンペッラ」。ここ(この席)は「アキ」。「アキは日本語で空いてるって意味」だと教えると、「アキ、アキ?(ここ空いてる?)」。おいしいは「デリシオーソ」も使うけど、「リコ」のほうが簡単でかわいい。

「映画祭と家をback and forthするのかい?」とダニーさん。家から会場まではドアtoドアで40分ぐらいなので余裕で通える。だけど、映画祭に通勤する難点は「浸る」ことができないこと。家に帰れば乳飲み子が泣き、洗い物は満載。食事を作っている間に今日スクリーンで観た映画の数々は吹っ飛び、頭の中は現実に支配される。これまで行った函館や宮崎や夕張の映画祭では、その街に滞在するという非日常の中に映画というさらなる非日常があった。線として映画祭を楽しむ滞在型に比べ、映画と日常を行き来する通い型は、断続的な点での体験となる。でも、それはそれで面白く、娘に授乳しながら「人生にとって映画とは何だろう」なんてことをふと考え、「そもそも映画とは映画館を出て日常に戻って行く人のためにあるのだ」なんて当たり前のことにあらためて気づいたりしている。

2005年07月20日(水)  立て続けに泣く『砂の器』『フライ,ダディ,フライ』
2002年07月20日(土)  トルコ風結婚式
2000年07月20日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2008年07月19日(土)  世界は広くて狭い! SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2008開幕

5月に長編国際コンペティション部門の審査員を打診されて存在を知った、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭。今日から27日まで9日間開催される第5回のオープニングセレモニーに参加するため、会場となる埼玉県川口市のSKIPシティを初めて訪れた。映画祭期間中は無料シャトルバスが会場と結ぶ川口駅は、わが家の最寄り駅から乗り継ぎを含めて20分ちょっと。こんなに近いのに足をのばす機会がなかった川口市とSKIPシティに、縁あって何度か通うことになる。

川口シティの中に位置するSKIPシティとは、うまく説明するのが難しいけれど、埼玉県や川口市や企業が、ここから何かを生み出そうとしている情熱と希望が詰まった拠点で、映画祭はそのパワーがひとつの形として発信されたものと理解している。控え室で名刺交換した後、オープニングセレモニーの挨拶に立たれた上田清司県知事と岡村幸四郎市長も気合い十分。夕張の映画祭を盛り上げた中田市長のスピーチも熱かったが、こちらも負けていない。アメリカのVariety誌が選んだ「世界の見逃せない映画祭50」に日本国内で唯一名を挙げられたのがSKIPシティの映画祭だとか。長編コンペ部門の受賞者が翌年カンヌで受賞したり、実力のある監督たちが目指す映画祭にもなっている様子。「Dシネマ」のDはdigitalで、この映画祭でかけられる作品は長編短編ともに撮影から上映までを一貫してデジタルで行う。世界的にはデジタルでの上映環境が整っているのはアメリカが突出していて、日本はまだまだデジタル上映に対応できる劇場が少なく、「デジタルで撮ってフィルムで映す」というもったいないことをしているデジタル作品が多いという。

そんな興味深いデジタル事情を垣間見られた開会スピーチのリレーに続いて、オープニング上映はシネマ歌舞伎の『人情噺文七元結(もっとい)』。いわゆる「劇場中継」のジャンルがデジタル技術の発達で飛躍的にグレードアップし、一流の生の舞台を特等席で観る感覚を映像で味わえるようになった。今後サンプルとして紹介された英国ロイヤルバレエ団の『ロミオとジュリエット』の映像の美しさと臨場感に目を見張る。「映画館で観られる映画以外のもの=Other Dightal Stuff略してODS」と呼ばれるこのジャンルは、今後新たな観客を映画館に呼び込むコンテンツとなりそう。

さて、『文七元結』の監督は名匠・山田洋次氏。たしか明治の頃に書かれたという脚本にも手を入れ、よりわかりやすい人情噺に仕立てたという。上映前に紹介されたメイキング映像で役者さんと打ち合わせする監督の姿が映り、生身の監督に一度だけお目にかかったことがあるのを思い出した。松竹の打ち合わせ室を訪ねたとき、見知らぬ初老の紳士が先に席に着かれていて、部屋を間違えたかなと思って引き返したところに、同じ打ち合わせに出ることになっていたプロデューサーが現れた。「あの、どなたか入ってらっしゃるんですけど」とわたしが言って部屋まで確認に行ったプロデューサーは、「どなたか、というより、山田洋次監督ですよ」と呆れていた。そのとき一瞬お会いした紳士と同じお顔がデジタル映像で、はっきりくっきりと映っていた。

話を映画本編に戻して、この『文七元結』、デジタル映像のクオリティの高さもさることながら、監督が翻案した効果なのか、物語が実に明快でよくできていて、台詞もわかりやすく、解説ぬきでこれほど内容を理解できた歌舞伎は初めてだった。英語字幕を同時に読むことで、より理解が深まった部分もあるかもしれない。字幕の英訳も見事で、日本語がわかる観客とわからない観客が同じタイミングでどっと笑った。上映前に話しかけて来たレバノン人男性のビシャラ・アテラ(Bshara Atellah)さんに「どうだった?」と感想を聞くと、「人を信じなさいとか自分に正直でいなさいとか、子どもの頃に教わったけど忘れていたことを思い出させてくれる作品」と激賞。『Under the Bombs 邦題: 戦禍の下で』の助監督・スタイリスト・ジャーナリスト役を務めた彼はわたしが知り合った初めてのレバノン人(レバニーズという)。歌舞伎が好きで、これまでにもシネマ歌舞伎を観たことがあって、「日本にすごく興味があったから来日できてうれしい。それだけで賞をもらったも同然」と言う。彼のほうは日本を熱く語ってくれるのに、わたしはレバノンってどんな国なのか、ほとんどイメージが浮かばない。世界地図のどの辺にあるのか、左のほう……ぐらいしかわからないのが情けない。

世界の75の国と地域から693編が集まったという長編部門。12本に絞られたノミネート作品の監督など関係者はSKIPシティに招かれ、会期中滞在し、最終日の審査発表を待つ。レバノンのほか、スペイン、トルコ、中国、エストニア、ドイツなど様々な国から若い才能が集まって来て、映画の未来を背負って立つ意気込み十分の彼らが持ち込んだ「気」が会場に渦巻いている。広告会社時代に行ったカンヌ国際広告祭の熱気と興奮を思い出し、わたしも10才ぐらい若返った気持ちになる。そういえば、カンヌへ行ったのは、ちょうど10年前、1998年だった。

オープニングパーティでは法被を着ての鏡割りを体験。わたしを審査委員に挙げてくださったプロデューサーの戸山剛さんとも挨拶できた。2年前の函館港イルミナシオン映画祭で名刺交換させていただいた戸山さんは、現在、『風の絨毯』の益田祐美子さんがプロデュースする『築城せよ』劇場公開版のラインプロデューサーとして制作準備に奔走中。戸山さんが最近まで在籍していた百米映画社(100 Meter Films)社長のジョン・ウィリアムスさんの師匠が今回の長編部門審査委員長であるダニー・クラウツ(Danny Krausz)さん。映画の世界は人と人のつながりが命で、国際映画祭は、世界に目を開かせてくれると同時にit’s a small worldを感じさせてくれる。

2007年07月19日(木)  忘れ物を忘れる速度
2005年07月19日(火)  会社員最後の日
2002年07月19日(金)  少林サッカー
2000年07月19日(水)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2008年07月18日(金)  マタニティオレンジ312 『JUNO』を観て思い出した9か月

これは観なきゃと思っていた映画『JUNO』をついに観た。16才の女子高生がまさかの妊娠をして……という話。だけど、暗くも説教臭くもならず、おしゃれにかわいく作られている、とすでに観た人の評判はすこぶる良い。画面に登場したJUNOは、いきなりガロンサイズ(4リットル弱!)のジュースをグビグビ飲んでいる。妊娠の事実をなかなか受け入れられず、3本目の妊娠検査薬のために水分補給していたことが後でわかるけれど、「そうそう、妊娠初期は喉が渇くのよね〜」とわたしは勝手に勘違いして共感。2年前の今頃は8か月のおなかを揺すって、ペンギンみたいにペタペタ歩いて、せりだしたおなかの上に汗の水たまりを作っていたっけ。旅行したことのある土地の風景を懐かしむように、妊娠という旅の記憶をたどりながらの鑑賞となった。

ヒロインとわたしは妊娠時で二倍以上の年の差があり、片や未婚の高校生、片や既婚の仕事持ち。妊娠以外の共通項はないぐらいなのに、JUNOの気持ちがすっごくわかる。何者かが自分の中に芽生えて、日に日に大きくなることの神秘と畏れ。あの感覚はJUNOも初めてだったけど、わたしも初めてだった。結婚していて収入も貯金も十分あって年齢も十分熟していたくせに、妊娠がわかったとき、わたしは動揺した。産婦人科の先生に「今さらその年で『まさか』はないでしょう」と苦笑されたけれど、会社を辞めて脚本をバリバリ書こうという矢先だったから、「これからってときに……」と焦った。実際は、妊娠してむしろ調子づいたぐらいで、出産間際までバリバリ書けたし、妊娠・出産を体験することで書きたいものも広がったし、子育てしながら今も書き続けているけれど、そのときは失うものの大きさに気を取られていて、家族が一人ふえるということ以外に得るものがあるなんて想像していなかった。

主人公が決断を迫られる出来事に直面して、答えを出しながら成長していく、というのは、ストーリー作りの王道だけど、JUNOを見ていて、思い出した。妊娠から出産にかけては、人生最大の決断キャンペーン。「いつ、誰に、どんな風に告げる?」の迷いは、おなかが目立つまで知り合いの人数分続くし、「いつまで仕事を続ける?」「いつから再開する?」「どこで(病院? 助産院? 自宅?)産む?」とセットで「どんなスタイルで産む? (分娩台、水中出産、フリースタイルなど選択肢いろいろ)」に悩む。「家族を立ち会わせるか否か」「事前に性別を聞いておくのか」「犬帯を締めたり戌の日参りのようなことはやるのか」……披露宴みたいに招待客がいるわけでもないのに、決めることが山ほどある。しかも、子どもが出てくる9か月後までに決めなきゃいけない。実際には妊娠に気づいたときには残り時間は8か月ぐらいになっている。わたしは産む気持ちが揺らいだことはなかったけれど、大きくなっていくおなかを見ながら「もう引き返せない」と思ったことは何度もあった。こちらの心の準備が整っていようとなかろうと、おなかの中身は着々と外に出る準備を進める。
「時間の枷」もストーリーを盛り上げる大きな要素。妊娠期間は普通に過ごしているだけでも十分ドラマティック。

忙しい役所よりも決裁事項が山積みなのに、人の命、一生に関わることだから、安易には決断を下せない。羊水を採って先天性異常を調べる検査を受けるかどうかの選択は、産まれてきた子に障害があっても受け入れる覚悟があるかどうかを問われる。名前は、どんな人生を歩んで欲しいかの祈りでもある。答えをひとつ導き出すたびに、自分はまだ見ぬおなかの中の命とどう向き合おうとしているのか、態度が定まってくる。おなかが大きくなるにつれて妊婦の腹が据わってくるのは、おなかの中身について考え続ける(そうせざるを得ない)からだと思う。

「産むかどうか」悩んだ末に「産むけれど別の人に託す」選択をしたJUNOには、産むことへの迷いと戸惑いがつきまとい、思いっきり動揺する。だけど、流されない。壁にガンガンぶつかり、不安や苛立ちをぶちまけながらも、自分の直感を信じて、こっちだと思った方向へ突き進み、未来をひとつひとつ選んでいく。その真っすぐさが、観ていて気持ちよかった。怖いぐらいのスピードでおなかの中の命が育つ一方で、おなかの主もかつてないスピードで成長する。あの激動の9か月の興奮と手ごたえを思い出させてくれたJUNO。失ったものはたくさんあったはずなのに、出産を終えた彼女が不幸せに見えなかった。

2004年07月18日(日)  ニヤリヒヤリ本『ニッポンの誤植』
2000年07月18日(火)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)

<<<前の日記  次の日記>>>