2007年06月16日(土)  お宅の近くまでうかがいますの法則

4日前(12日)のできごと。仕事をしているプロデューサーから「今日お時間ありますか」と突然電話があり、「お宅の近くまでうかがいます」と言われる。少し前にも同じようなことがあり、また来たか、と心の準備をして駅前の喫茶店で落ち合うと、予想した通り、「実は……」と切り出された。

進めている企画が立ち消えるとき、あるいは企画は残っても脚本家が立ち去らなくてはならないとき、電話でも言いにくいことを、会いに来て告げる。待ち合わせの電話の時点で予感はしてしまうけれど、それでも、足を運び、顔を見せてくれる誠意に、不幸中の幸いのように救われた気持ちになり、沸点すれすれだった不満や怒りや悔しさも温度を下げる。プロデューサーだって悔しい、口惜しいと顔を見ればわかる。電話だったら好き勝手文句を言えても、その顔を見たら何も言えない。「お疲れさまでした」「ありがとうございました」と労いの言葉が自然に出て、「今回は残念でしたけれど、また機会があれば」と素直に言える。

以前、取材を受けたものがなかなか上がってこないので、どうしたのかなと気になった頃に、「あれはボツになりました」という旨のメールが送られてきたことがあった。最初に取材を依頼してきた人ではなく、取材に立ち会った人でもなく、前任者から引き継いだらしい会ったことのない人からの事務連絡のようなメールが一通。わたしは、そのメールに返信をしなかった。返信をしないことでささやかな抵抗を試みたつもりだったけれど、相手にとってはメールを送信完了した時点で用は済んでいたのだろう。

翻って、自分が誰かに何かを断るとき、逃げ腰になってはいないかとわが身を振り返る。言いにくいことを告げるときほど逃げてはいけない。また仕事なくなっちゃうのかと残念に思いつつも、プロデューサーの姿勢に大切なことを教えられた気持ちになった。

2005年06月16日(木)  Hidden Detailのチョコ名刺
2002年06月16日(日)  一人暮らしをしていた町・鷺沼
2000年06月16日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月15日(金)  マタニティオレンジ131 映画『それでも生きる子どもたちへ』を観て

ご近所仲間のT氏に熱烈に勧められた映画『それでも生きる子どもたちへ』を観る。かつて子どもだった7つの国の監督が綴るオムニバス作品。貧困、エイズ、人身売買、地雷……生きることさえ困難な絶望的な状況に置かれた子どもたちが、それでも生きる、目を力いっぱい輝かせて。その姿は、人間の底知らずのたくましさを感じさせる。脚本があり役者が演じているとは思えない、ドキュメンタリーを観ているようなリアリティーに引き込まれ、地球のどこかで今もこの子たちはこの続きを生きているという気にさせられた。

当たり前のように蛇口をひねれば(最近では手を差し出すだけで)水が出て、スイッチを押せば電気がつき、あたたかい食事と寝床が確保されている生活に慣れきったわたしは、こういう映画に出会うと、殴られたような衝撃を受ける。その衝撃も、ぬるま湯生活にひたるうちにほどなく薄れてしまうのだが、映画でも見せつけられないと、「当たり前が当たり前じゃない世界」があることに思いを馳せることすら忘れてしまう。

子どもが生まれてからは、子どもが出てくる映画を見ると、わが子と重ねてしまうのだが、この作品では「重ねる」ことは難しかった。日本という恵まれた国に生まれたわが子と、その日を生きるので精一杯の国に生まれた子どもとでは、望むものも大きく違うだろう。もしかしたら、わが娘がすでに手にしている普通は、ある国の子どもにとっては、すべてなのかもしれない。
作品につけられた「地球の希望は、子供たちだ」というキャッチコピーに共感しつつ、子供たちが地球の希望であり続けるために何をすべきなのかを考えさせられた。「それでも生きる子どもたち」が年を重ね、社会が見えてくるようになり、どんなにがんばっても人生には限界があると知ったとき、希望は絶望に変わってしまう。

2005年06月15日(水)  『秘すれば花』『ストーリーテラーズ』
2002年06月15日(土)  『アクアリウムの夜』収録
2000年06月15日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月14日(木)  『坊ちゃん』衝撃の結末

まだ読んでなかったの、と呆れられそうだけど、ついにと言おうか今さらと言おうか夏目漱石の『坊っちゃん』を読んだ。国語便覧などで登場人物やあらすじは頭に叩き込まれて、すっかり読んだ気になっていたものの、本文を通して読んでみると、はじめて聞く話のような印象を持った。わたしの思い描いていた坊っちゃんはやんちゃな新米教師で、やる気が空回りしているところはあるもの、夢と希望にあふれた熱い青年だった。ところが、ページの中にいた坊っちゃんは、いつも何かに対して怒り、苛立ち、毒づき、ぼやき続けている不満の塊のような人物で、職員室の敵ばかりか生徒や下宿の大家や田舎町や何もかもが気に入らない。江戸っ子気質と正義感を燃料に暴走する型破りな教師なのだけれど、校長に噛みつき生徒に喧嘩を挑む破天荒ぶりが面白いからこそ今日まで読み継がれているのだろう。一ページに何箇所も注釈の番号がついているほど聞き慣れない言い回しや今はもう見かけない物が登場するのだけれど、古びた感じがしない。『ホトトギス』に発表されたのが1906年だそうで、書かれて百年あまりになるが、感情を爆発させる坊っちゃんには、古文になってたまるかという勢いがある。

『坊っちゃん』どころか『吾輩は猫である』も未読で、教科書や便覧に載っている作品しか読んでいないくせして、夏目漱石には注目してきた。というのは、幼い頃、母に「あんたは夏目漱石とおんなじ二月九日生まれやから、文才があるはずや」と言われたからだ。誕生日占いを人一倍信じていたこともあり、同じ誕生日ならわたしも文豪になれるかもしれない、と素直に思い込み、日記や感想文や作文を張りきって書いた。それが今の職業につながっていることは間違いない。今回読んだ角川書店の改訂版の文庫本には「注釈」「解説(作者について、と作品について)」のほかに「あらすじ」(本文の前にあらすじがついているのは珍しい。読書感想文を書こうとする学生向けのサービスだろうか)さらには「年譜」がついている。

年譜の冒頭を読んで、「あ」と思わず声を上げた。「慶応三年(1867年)一月五日」生まれとある。月も日もまったく違うではないか。母の暗示に乗せられて、四半世紀あまり。書くこと好きが高じて新井一先生が雑誌で連載していたシナリオ講座に原稿を送ったら「才能がある」と返事が来て、調子に乗って脚本家デビューに至ったが、ほめられたと思ったのは勘違いだった。それ以前に壮大な思い違いがあったとは……。いやはや思い込みって恐ろしい。傑作の名高い本文よりもおまけに衝撃を受けていると、「一月五日は陰暦で、今の暦でいえば、二月九日で合っているのでは」と教えてくれる人があった。調べてみると、そのように書いているサイトもあり、「夏目漱石と同じ誕生日」はデマではなかったようで安心する。

2002年06月14日(金)  タクシー


2007年06月13日(水)  「事実は小説より奇なり」な映画『主人公は僕だった』

仏頂面の主人公(ウィル・フェレル)が突っ立っている新聞広告にはあまり心惹かれなかったのだけど、何人か「面白かった」と言う人がいて、『主人公は僕だった』を観た。原題は『Stranger than Fiction』、直訳すると「事実は小説より奇なり」。平凡で面白みのない毎日の繰り返しを生きている男・ハロルドの耳に、自分の行動を描写する女の声が聞こえるようになる。小説を読み上げるようなその声の主はスランプの小説家であり、彼女が七転八倒しながら書いている新作の主人公がハロルドであると明かされていくのだけれど、『主人公は僕だった』という邦題が先に結果を明かしているので、驚きは半減する。

実在する人物と小説の登場人物がシンクロするという設定は奇想天外なようでいて、あっても不思議ではない気もする。「小説家は創造者ではなく、すでにある物語の発見者」といったことを小川洋子さんがインタビューで語っていたけれど、小説家が創造する以上の物語が現実には存在する。ハロルドの人生を小説がなぞっているようにも、小説に書かれた通りにハロルドの人生が進行しているようにも中盤までは見えていたけれど、ハロルドの人生に小説が先回りし、主人公の死という未来を告げられたところから、ハロルドの人生は一変する。小説の筋書きを軌道修正して自分の人生の筋書きを変えようと悪戦苦闘するのだが、時間をつぶすように生きていた主人公が、命のカウントダウンが見えた途端に残された時間を惜しむように生きるようになるさまは、先日観た『生きる』に通じるものがある。そういえば、ハロルドが恋をするパン屋のアン(マギー・ギレンホール)と『生きる』で小田切ミキさんが演じたヒロインは、美人というより茶目っ気のあるぽっちゃり顔(ふくれっ面がチャーミング)といい、言いたいことをはっきり言う威勢のよさといい、よく似ている。ハロルドを敵視していたパン屋娘が手作りのクッキーに気持ちを託して距離を近づけていく展開がとても微笑ましくて、わたし好み。ラブストーリーとしても楽しめる映画だった。

「事実は小説より奇なり」といえば、最近読んだ『数学的にありえない』()は、「確率的にありえないことが、偶然の連鎖によって現実となる」ことをエンターテイメントに仕立てていたが、下巻の最後にあった著者あとがきにも、ドラマがあった。著者はこの本がデビュー作だったのだが、「小説の執筆はこれまでにぼくがやったどんなことよりも共同作業が必要だった。さまざまな段階で、つねに誰かが手を貸してくれた。以下に挙げたどの一人が欠けていても、本書が出版にこぎつけることはなかっただろう」という書き出しに続けて、彼の最初の原稿を面白がってくれた人、出版エージェントにつなげてくれた人、出版を決めてくれた人、改訂を手伝ってくれた人、心の支えになってくれた人、おいしいものを食べさせてくれた人などへの感謝の言葉が続く。一冊の本が生まれる過程もまた偶然の積み重ねの結果なのだ、としみじみ思い、この本が生まれたドラマの末端に読者のわたしもいるのだ、とうれしくなり、その事実の不思議が小説本編より面白かった。

そもそも今自分がここに生きているという事実が奇なりで、少し前に読んだ『きいろいゾウ』(西加奈子)に「男の人と女の人が愛し合って、生まれた男の人と女の人がまた愛し合って、そういうことが延々と繰り返された逆三角形の頂点に自分がいる」「その三角形の中の一人でも欠けていたら、自分は存在しなかった」といったことが書かれてあり、ほんとにそうだ、と膝を打った。映画の邦題に話はもどるけれど、『主人公は僕だった』って、人生の主人公は自分だったと気づく、という意味もこめられているのだろうか。だとしたら深い。

2005年06月13日(月)  『猟奇的な彼女』と『ペイ・フォワード』
2004年06月13日(日)  映画『ヒバクシャ 世界の終わりに』


2007年06月12日(火)  想像力という酵母が働くとき

昨日の日記の続きになるが、茨城のり子さんの詩を読んで、「文字数があればいいってもんじゃない」とつくづく感じた。映画一本、本一冊を費やさなくても、研ぎ澄まされた言葉が数行あれば、心を揺さぶることができる。単語ひとつ、数文字だって、名文句になり得る。それで思い出したのは、南極観測隊員にあてた妻からの電報。当人だけでなくまわりの隊員たちも深く感じ入ったというメッセージは、たった三文字。「あなた」とあった。電報が一文字何千円もした頃、後に続けたいたくさんの言葉を飲み込んで、南極に届いた最初の三文字。そのエピソードを新聞のコラムで読んだとき、電報をのぞきこむそれぞれの隊員にも「あなた」と呼びかけが聞こえ、その響きに応えるように、それぞれの胸で続きが綴られたのだろうと想像して、わたしの目にも涙がにじんだ。

最近パンを焼くので思うことだけれど、言葉を小麦粉にたとえると、力のある言葉は想像力という酵母を元気にし、その何倍もの大きさに膨らむ。それは、人を傷つける言葉のときにもあてはまる。そう思うのは、数日前に言われた言葉の傷跡が癒えないからだ。殴られたような衝撃と痛みに、そのときはわあわあ泣いた。それで洗い流せたかと思ったら、一日経っても二日経っても、不意にその言葉を思い出しては、どうしてあんなことを言えるのだろう、あの発言は本心なんだろうか、などと考えてはメソメソし、ポタポタと涙を落とし、メソポタを繰り返している。チグリス川とユーフラテス川の間に発達したメソポタミア文明のメソポタミアとは「川のあいだ」という意味だと習ったが、わたしの両目も二つの川になってしまっている。書くことを生業にしているわたしは、酵母が多めでいつでも発酵状態のようなところがあるから、「あなた」の電報から一本の脚本を思い描いてしまうけれど、たった七文字の棘からも悲劇を描き出してしまう。寝不足と腰背筋痛が慢性化していて、それでも子育てのはりあいが体と気持ちを支えている今のわたしにとっては、致命的な一撃だった。痛烈な刺激が酵母を過剰反応させ、過発酵を引き起こしている。

そんな矢先、生協のレジに並んでいたら、前に並んでいる若いお母さんがわたしのほうを振り返る感じで、ガンを飛ばしてきた。と思ったら、わたしの後方にいるランドセルを背負った女の子に指示を出していた。娘と思われる女の子に「そこにあるでしょ!」と商品を持って来させようとしているのだが、彼女はキョロキョロするばかり。遠隔操作がうまくいかないうちにレジの順番が回ってきて、苛立ちが頂点に達したお母さんは、「もういい!」と言うなり、わたしの背中を突っ切って、わたしのすぐ後ろの棚にある紙パック入りのりんごジュースを手に取った。一本抜き取った勢いで、六本入りのダンボールごと持ち上がるほど、全身に怒りがみなぎっていた。その後、レジを済ませたお母さんが怒った顔で買い物カゴの中身をビニール袋に空ける間、女の子は「ごめんなさい」と謝り続けた。「もういい!」とお母さんはまた言い、早足で店を出た。その後を「ごめんなさい」とすがるように言いながら、女の子が追いかけた。

その光景を見て以来、自分のメソポタを一休みして、その女の子のことを考えている。彼女は家に着くまで「ごめんなさい」を繰り返したのだろうか。家に着く頃にはお母さんの機嫌は直っただろうか。レジの順番が迫って焦ってなければ、あんな言葉にも、あんな言い方にもならなかったのだろうか。「もういい!」はりんごジュースのことだけを指していたのだろうか。女の子には「あんたなんか、もういい!」と聞こえなかっただろうか。彼女の目に悲しみと諦めが宿っているように見えたのは、センチメンタルになっているわたしの錯覚だろうか。身近で信頼している人からの不意打ちの鋭い一言は、深い傷を負わせる。殴られるのと同じで、至近距離からの一撃は、こたえる。自分が娘の親になったばかりということもあり、生協での母娘の姿に自分の未来を重ねたり、母の何気ない言葉に傷ついてさめざめと泣いた過去を思い出したりした。やわらかい言葉であれ、棘のある言葉であれ、それを受け止める側の想像力と掛け合わされて、言葉はさらなる力を持ってしまう。ビルの上から落としたパチンコ玉が、加速するうちに人を貫くほどの力を帯びてしまうように。そのことに思いを馳せて言葉を解き放たなくては、とわが身を振り返っている。

2005年06月12日(日)  惜しい映画『フォーガットン』


2007年06月11日(月)  茨木のり子さんの言葉の力

茨木のり子という詩人の名前を意識するようになったのは、昨年二月に彼女が亡くなったときの追悼記事ではなかったかと記憶している。できあいの思想にも宗教にも学問にもいかなる権威にも倚りかかりたくない、と言い切った上で「倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ」と締めくくる『倚りかからず』や「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」と突き放す『自分の感受性くらい』、「わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた」と戦争時代にあった青春を語り、「だから決めた できれば長生きすることに」と告げる『わたしが一番きれいだったとき』など、紹介されている詩がどれも強烈な引力を放っていた。詩集を読んでみたい、と思ったまま手に取る機会を逃していたら、先日、図書館で「茨木のり子」の背表紙が目に飛び込んできた。あなた、忘れてるでしょ、と言わんばかりに。

出会ったのは、『茨木のり子集 言の葉3』という本。ひとつひとつの詩が、わたしが思っているけれど言葉に出来なかったことをぴしゃりと言い当てていて、うなずき、膝を打ち、舌を巻きながら読む。たとえば、「ええと」という題の作品は、「『あの人は世に出た』私はこの言いかたが気に入らない」とはじまり、「フギャア! と一声泣いたとき 人はみな この世に出たと思うのだ」と続く。「ええと」は「あのう」に近い物申すニュアンスなのだろう。とても強気な口調なのに、品を感じる。背筋を伸ばして書いたような凛とした緊張感がある。

「ある工場」という作品は、「地の下にはとても大きな匂いの工場が 在ると 思うな」という書き出しに引き込まれる。「世界中の花々に 漏れなく 遅配なく 馥郁の香気を送る」その工場では「年老いた技師や背高のっぽの研究生ら」が働いている。「小瓶に詰めず定価も貼らず惜しげなく ただ 春の大気に放散する 彼らの仕事の すがすがしさ」と作者はたたえる。春には春の花の香りがすることから地下の工場を思い浮かべる、そのたくましい想像力。年譜によると茨木さんは薬学の勉強をされていたそうで、そんな背景から工場や白衣の研究者のイメージが自然に湧いたのかもしれない。

「夏の空に」という作品は、星座の物語と重ねて夏の夜空に輝く星々を描写する前半も素晴しいが、「屑の星 粒の星 名のない星々 うつくしい者たちよ わたくしが地上の宝石を欲しがらないのは すでに あなた達を視てしまったからなのだ」という最後の五行に打ちのめされた。「こどもたちは こんがり焼けた プチ・パンになって 熱い竈をとびだしてゆく」に続けて「思えば幼い頃の宿題はやさしかった 人生の宿題の 重たさにくらべたら」と締めくくる「九月のうた」にも、なんてうまく言葉にするんだろうと感心させられた。

この詩集でいちばん心を揺さぶられたのは、「足跡」という作品。「青森県六ヶ所村出土 縄文時代後期」の「博物館のガラス越しに見る 粘土に押しつけられた小さな足形」を見て、「子どもはギャアと泣いたかしら にこにこ笑っていたかしら」と当時に思いを馳せ、「むかしむかしの親たちも 愛らしい子の足形をとっておきたかったのだ」と思いを寄せる。自分が親になった今だから、いっそう感じ入ってしまうのかもしれないが、そのとき博物館にいた茨木さんも「なぜかじわりと濡れてくる まぶたの裏」となった。ちょうど気持ちが落ち込んでいたときの訪問だったが、「小さな足はポンと蹴ってくれた わたしのなかの硬くしこったものを」。写真で見たこともない茨木さんの沈んだ表情と晴れた表情のビフォアアフターまで目に浮かびそうな描写に唸った。そして、詩は「それにしても おまえは何処へ行ってしまったのだろう 三千年前の足跡を ついきのうのことのように 残して」と結ばれる。足跡ひとつからこれだけの物語を膨らませてしまう表現力に、嫉妬と羨望を覚える。

心に刺さった言葉を書き出していくと、丸写しになってしまいそうだけど、自作の詩のほかに、韓国の詩人の作品を翻訳したものとエッセイが納められていて、エッセイもまた写経したくなるほど名言の宝庫。一語一語が的確に選ばれ、配置されているような美しく整った文章の中に、思いがしっかりと込められている。読めば読むほど、この人と会ってお話ししたい、という気持ちになる。声が聴きたくなる。それが叶わないのが惜しまれる。

2005年06月11日(土)  東京大学奇術愛好会のマジックショー
2002年06月11日(火)  『風の絨毯』同窓会
2000年06月11日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月10日(日)  マタニティオレンジ130 親が子にできるのはほんの少しばかりのこと

保育園ではじまった「親向け文庫」で『親が子にできるのは「ほんの少しばかり」のこと』を手に取る。著者は脚本家の山田太一氏。子育ての本を書かれているとは知らなかったが、三児の父であるらしい。

目次を見渡して、まず唸った。わたしが感じていたものの言葉になっていなかったことをずばり言い当てたような明快な見出しが並ぶ。「子どもは自分の成熟する場所」「人間は汚れを抱えている」「理想型にとらわれる無意味」「心の傷も栄養になる」などなど。とくに、「子どもは自分の成熟する場所」というのはうまい表現だなあと膝を打つ。子育てと言いつつ、わたしは子どもに教えられることばかり。「育児についての情報は溢れています。しかし、わが子についての情報はない」と本文にあるように、育児書を読んでもネットで引いてもわからない育児というものを実践で学ばせてもらっている。「あなたもこんな風に育ったのよ」という自分の記憶が及ばない昔のことを身を持って思い知らされ、わが身の来し方行く末を考えさせられ、感謝の気持ちも呼び起こされ、子どもが生まれてからというもの(あるいはおなかに宿った日から)、人生でまだ知らないことがこんなにあったのかと驚かされてばかりいる。

とはいえ、今は子どもを食べさせて大きくすることに専念し、風邪や事故に気をつけていればいいのだが、そのうち子どもの性格や生き方に悩まされる日が来るらしい。そのときこそ、本当に「成熟」の機会となるようだ。子どもは親の思い通りにはならない。そこに葛藤が生まれるわけだけれど、子どもには子どもの人生があり、それを生きて行くしかない。そして、親は自分にできる「ほんの少しばかり」のことをやるしかない。この「ほんの少しばかり」は、あきらめでも悲観でもなく、気持ちを軽くする言葉として響く。全部を背負わなくていいんですよ、やろうったって無理ですよ、と最初からわかっていれば気が楽になるし、ほんの少しなら自分にもできそうな気がする。

わが子をあるがままに受け止めようというメッセージを全編から受け取ったが、わが子だけでなく、自分の人生や人間というものを見つめる目にも懐の広さを感じた。「清潔で明るいところばかりになると、心の中に抑圧をためてしまう人が出て来る」といった指摘にはっとする。わが子にはきれいなものだけを見せたいと親は考えてしまうけれど、それは世界の半分にふたをすることになるのかもしれないなどと考えさせられた。

2005年06月10日(金)  『メゾン・ド・ウメモト上海』の蟹味噌チャーハン
2004年06月10日(木)  「きれいなコーヒー」と「クロネコメール便」
2002年06月10日(月)  軌道修正
2000年06月10日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月09日(土)  マタニティオレンジ129 梅酒を作りながら夫婦とはを考えた

誰が言い出したのか定かではないが、娘が生まれた最初の年に梅酒を漬けるものらしい。イベント好きのわが家でも、やってみることにした。娘がお酒を飲める年になったら、琥珀色に熟成された梅酒を一緒に飲むなんて、オツではないか。そんな記念のお酒を漬け込むからには材料にもこだわりたいところだが、こだわり農家の今年の梅の予約は終了。サイトのセンスから想像するにひと粒ひと粒丁寧に育ててそうな梅の月向農園のレシピだけ参考にさせていただき、材料は生協にある普通の梅と普通のホワイトリカーと普通の氷砂糖を調達することにした。

夕食の後に仕込む予定でいたら、その前に、ちょっとした夫婦喧嘩になった。きっかけは些細なこと。食べ終わるとさっさとテーブルから離れてテレビへ向かうダンナの背中に、「お皿ぐらい下げてよ」とな声をかけたついでに、「わたしがお皿洗う係じゃないんだから」となじった。一緒に暮らしはじめたとき、洗いものはダンナが担当するという、なんとなくの家事分担を決めた。といっても洗濯はわたしで、食器と風呂を洗うだけ。最初のうちはやってくれていたのか、記憶が定かではないけれど、わたしが会社を辞めて家で仕事をするようになって完全に崩れた。いつの間にか洗いものもわたしの担当となり、たまにダンナがやってくれたときはわたしがありがとうと言う。逆じゃないのと思いつつも、ま、いっかと流されて今日まで来たのだけれど、わたしが締め切り前で洗いものどころじゃないときに「洗ったら?」
なんて言われると、「そういうあんたが洗ってよ」と言いたくなる。

洗いものだけじゃない。家事全般にわたって、わたしがやるものだと思われている。やって当たり前、手を抜くと文句を言われる。「シャンプーがないよ」「ティッシュがないよ」と言われるたびに、自分で買ってくればいいのにと思う。日用品の買い足しなんて、気がついたほうがやればいい。会社を辞めて浮いた時間と労力はあるわけだから、それを家事にあてるのはまあいい。子どもが生まれるまではそうだった。だが、仕事に育児が加わった今、家事分担率を見直してくれてもいいんじゃないの、というのがわたしの言い分。「だって、君は一日中家にいるじゃないか」と言われた日には、「だったら事務所借りればいいのか!」と開き直りたくもなる。

そんな恨みつらみが売り言葉に買い言葉で飛び出して、言うつもりのないことまで言ってしまい、言葉もきつくなり、娘のための梅酒作りとはほど遠い雰囲気となってしまった。だが、梅は新鮮なうちに漬けたほうがいいし、すでに水に放ってアク抜きをしている。「今夜中に漬けるべきなので、決行します」と事務口調で宣言し、作業にとりかかる。「記録を取っておこう」とダンナも事務口調でビデオを構え、ふくれっ面のわたしをとらえた。

「まず、水気を拭き取ります」。わたしの指示にダンナは無言で従い、梅をボウルからひと粒ずつ引き上げ、黙々とキッチンペーパーで磨くように拭く。単純なその作業を並んでやっているうちに、肩の力が抜け(おそらくこわばっていた顔の力も抜け)、笑いたいようなおかしな気分になった。なんだ、わたしがしたかったこと、ダンナに望んでいたことは、これじゃないか、と気づいたのだ。

これはあなたの仕事、これはわたしの仕事じゃない。そんな風に割り切ったり押しつけ合ったりするのがさびしかったのだ。夫婦なんだから、家族なんだから、一緒にやればいいじゃない。皿洗いは、わたしも好きじゃないけど、ダンナも好きじゃない。だったら、二人でやっつければいい。洗うのはわたしでも、シンクまで運んでくれたら助かる。お皿をリレーするときに、よろしくね、まかせてよ、と声をかけあえたら、気持ちも軽くなる。面倒だと思って相手に押しつけた瞬間、重荷はもっと重くなるのだ。梅酒を作るのだって、一人で取りかかると大変だけど、二人がかりならお祭りになるのだ。一緒にやれば、楽しい。そんな単純なことをうまく伝えられなくて、わたしはダンナに苛立っていたのだった。

梅酒が完成する頃にはわたしの機嫌も直り、何も言わなくてもダンナはそれを察し、なんとなくいつもの二人に戻っていた。娘と飲める日が来たら、梅酒を漬ける前は喧嘩していたんだけど……と昔話をしてみよう。喧嘩の中身が溶けた梅酒、どんな味がするのかな。

2005年06月09日(木)  ついに『あつた蓬莱軒』のひつまぶし!
2002年06月09日(日)  日本VSロシア戦
2000年06月09日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月08日(金)  マタニティオレンジ128 モラルない親

朝日新聞に載っていた「モラルない親」についての記事を読んでいて、「え!」となった。「仕事が休みなのに子どもを預ける親」がモラルに欠けるとして紹介されていたのだ。娘のたまを預けている公立保育園の園長先生は「仕事が休みでも預けてくださっていいですよ」と言ってくださっている。家のことをしたり、自分のことをしたりする時間も必要でしょうからと。そのかわり、いつもより少し早めにお迎えに来れるといいですねと。その言葉に甘えて、仕事がなくても用がある日には保育園のお世話になっている。それが、モラルない親になるのか……。記事の前で、はあとため息をついてしまった。

わたしのようなフリーランスの場合、仕事が「ある」と「ない」の境目はあいまいで、打ち合わせも締め切りもなくても、観ておいたほうがいい映画や読んでおいたほうがいい本が常にあり、そういう芸の肥やしを仕込むのも仕事の一部だったりするのだが、平日の昼間に映画や芝居を観ると、「子どもを保育園に預けて遊んでいる」ことになるのだろうか。これまで、後ろめたさを感じていなかったことが、記事を読んで、そういう見方もあるのかと知ると、居心地の悪さを感じてしまった。記事で槍玉に挙がった親は「今日、お仕事お休みですよね」と保育士に言われて、「お金払ってるんだから、いいでしょ」と開き直ったという。その言い方や態度に「モラルがない」と評価を下すのは理解できるけれど、「仕事がないのに子どもを預ける」行為そのものが「モラルかない」とひとくくりにされるのは複雑だ。

その記事が出た数日後、反響をまとめた追っかけ記事が載った。わたしのように戸惑いや反感を抱いた人からの反論がいくつか紹介され、しめくくりに有識者のコメントがあった。内容はうろ覚えだが、「保育園は保育に欠ける状態を手助けするものであるので、保育に欠けないときに利用するのはルール違反である」「子どもは少しでも親と過ごしたいものなので、自分のことは後回しにしても一緒の時間をつくってあげるべき」といったことが書かれているのを読んで、わたしは再度首をかしげることになった。記事では「母親」と明記していなかったように思うが、そこで言われている親は「母親」を指していると思われ、「お母さんは子どもと一緒に過ごすもの」という前提に立っている印象を受けたのだ。

母親にしかできないこともあるとは思うけれど、育児の責任を母親に押しつけられると、働く母親は責任放棄している格好になり、いたたまれない。子どもを預かってもらえるかどうかという物理的な問題よりも、子どもを預けることへの偏見や無理解が、働きながらの子育てを難しくしている気がする。一日中子どもと過ごしている専業主婦のお母さんたちもまた、長い時間をどう過ごすかという問題や(「間延びする」「ネタ切れ」「体力が持たない」という声はよく聞く)、自分のことが何もできないという悩みを抱えている。もっと子どもと過ごす時間をというのなら、お父さんたちの残業や休日出社を減らすことに国を挙げて取り組むべきなのではないのだろうか。お父さんは働くもの、お母さんは育てるもの、という単純な図式に窮屈な思いをしているのは、わたしだけではないと思う。

2005年06月08日(水)  歩いた、遊んだ、愛知万博の12時間
2002年06月08日(土)  P地下
2000年06月08日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月07日(木)  誰かにしゃべりたくなる映画『しゃべれどもしゃべれども』

シネスイッチ銀座にて『しゃべれどもしゃべれども』を観る。落語に通じる語り口のうまさと絶妙な間と粋を感じさせる作品。二つ目の落語家・三つ葉(国分太一)の元に、無愛想で口下手の美人・五月(香里奈)、関西から転校してきたばかりの少年・村林(森永悠希)、解説の下手な元ブロ野球選手・湯河原(松重豊)という一筋縄ではいかない教え子が集まってくる。
ひとくせもふたくせもあるある登場人物たちの愛すべき人間臭さがおかしみを誘い、話し方教室でのやりとりそのものが落語のよう。

鑑賞に先立って、いまいまさこカフェの談話室(掲示板)で常連さんたちが「三つ葉は指導らしい指導をしていないのでは」と話題にしていたので、その部分を注意しながら観たのだが、「落語」という題材の向こうにある「人との関わり方」を三つ葉も一緒になって探っていく、そんな印象を受けた。シナリオを教えたときに、講師であるわたし自身も学ぶことが多かったので、教える立場の者が成長できるというのは、その教室が「学ぶ場」になっているひとつの証ではないかと思う。作品の中で三つ葉も教え子たちも成長するのだが、その伸び具合が劇的ではないところにリアリティと好感をおぼえた。

わたしはもともと「しゃべり好き」(「しゃべり過ぎ」?)だけど、拙くても、たどたどしくても、自分の言葉で思いを伝えること、言葉と言葉でぶつかりあうことの大切さをあらためて感じた。そして、江戸言葉あり関西弁あり古典ありという日本語の豊かさと奥深さにしみじみと感じ入り、その言葉を使える身であることをうれしく思った。その勢いで誰かにしゃべってすすめたくなる。寄席に行きたい、佐藤多佳子さんの原作を読みたい、さらには野球解説にもじっくり耳を傾けたくなった。DVD発売の折には劇中落語の完全版が収録されることを希望したい。湯河原の野球解説も、というのは欲張りすぎだろうか。

2005年06月07日(火)  友を訪ねて名古屋へ
2004年06月07日(月)  絨毯ひろげて岐阜県人会
2002年06月07日(金)  ドキドキの顔合わせ

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