2007年06月10日(日)  マタニティオレンジ130 親が子にできるのはほんの少しばかりのこと

保育園ではじまった「親向け文庫」で『親が子にできるのは「ほんの少しばかり」のこと』を手に取る。著者は脚本家の山田太一氏。子育ての本を書かれているとは知らなかったが、三児の父であるらしい。

目次を見渡して、まず唸った。わたしが感じていたものの言葉になっていなかったことをずばり言い当てたような明快な見出しが並ぶ。「子どもは自分の成熟する場所」「人間は汚れを抱えている」「理想型にとらわれる無意味」「心の傷も栄養になる」などなど。とくに、「子どもは自分の成熟する場所」というのはうまい表現だなあと膝を打つ。子育てと言いつつ、わたしは子どもに教えられることばかり。「育児についての情報は溢れています。しかし、わが子についての情報はない」と本文にあるように、育児書を読んでもネットで引いてもわからない育児というものを実践で学ばせてもらっている。「あなたもこんな風に育ったのよ」という自分の記憶が及ばない昔のことを身を持って思い知らされ、わが身の来し方行く末を考えさせられ、感謝の気持ちも呼び起こされ、子どもが生まれてからというもの(あるいはおなかに宿った日から)、人生でまだ知らないことがこんなにあったのかと驚かされてばかりいる。

とはいえ、今は子どもを食べさせて大きくすることに専念し、風邪や事故に気をつけていればいいのだが、そのうち子どもの性格や生き方に悩まされる日が来るらしい。そのときこそ、本当に「成熟」の機会となるようだ。子どもは親の思い通りにはならない。そこに葛藤が生まれるわけだけれど、子どもには子どもの人生があり、それを生きて行くしかない。そして、親は自分にできる「ほんの少しばかり」のことをやるしかない。この「ほんの少しばかり」は、あきらめでも悲観でもなく、気持ちを軽くする言葉として響く。全部を背負わなくていいんですよ、やろうったって無理ですよ、と最初からわかっていれば気が楽になるし、ほんの少しなら自分にもできそうな気がする。

わが子をあるがままに受け止めようというメッセージを全編から受け取ったが、わが子だけでなく、自分の人生や人間というものを見つめる目にも懐の広さを感じた。「清潔で明るいところばかりになると、心の中に抑圧をためてしまう人が出て来る」といった指摘にはっとする。わが子にはきれいなものだけを見せたいと親は考えてしまうけれど、それは世界の半分にふたをすることになるのかもしれないなどと考えさせられた。

2005年06月10日(金)  『メゾン・ド・ウメモト上海』の蟹味噌チャーハン
2004年06月10日(木)  「きれいなコーヒー」と「クロネコメール便」
2002年06月10日(月)  軌道修正
2000年06月10日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月09日(土)  マタニティオレンジ129 梅酒を作りながら夫婦とはを考えた

誰が言い出したのか定かではないが、娘が生まれた最初の年に梅酒を漬けるものらしい。イベント好きのわが家でも、やってみることにした。娘がお酒を飲める年になったら、琥珀色に熟成された梅酒を一緒に飲むなんて、オツではないか。そんな記念のお酒を漬け込むからには材料にもこだわりたいところだが、こだわり農家の今年の梅の予約は終了。サイトのセンスから想像するにひと粒ひと粒丁寧に育ててそうな梅の月向農園のレシピだけ参考にさせていただき、材料は生協にある普通の梅と普通のホワイトリカーと普通の氷砂糖を調達することにした。

夕食の後に仕込む予定でいたら、その前に、ちょっとした夫婦喧嘩になった。きっかけは些細なこと。食べ終わるとさっさとテーブルから離れてテレビへ向かうダンナの背中に、「お皿ぐらい下げてよ」とな声をかけたついでに、「わたしがお皿洗う係じゃないんだから」となじった。一緒に暮らしはじめたとき、洗いものはダンナが担当するという、なんとなくの家事分担を決めた。といっても洗濯はわたしで、食器と風呂を洗うだけ。最初のうちはやってくれていたのか、記憶が定かではないけれど、わたしが会社を辞めて家で仕事をするようになって完全に崩れた。いつの間にか洗いものもわたしの担当となり、たまにダンナがやってくれたときはわたしがありがとうと言う。逆じゃないのと思いつつも、ま、いっかと流されて今日まで来たのだけれど、わたしが締め切り前で洗いものどころじゃないときに「洗ったら?」
なんて言われると、「そういうあんたが洗ってよ」と言いたくなる。

洗いものだけじゃない。家事全般にわたって、わたしがやるものだと思われている。やって当たり前、手を抜くと文句を言われる。「シャンプーがないよ」「ティッシュがないよ」と言われるたびに、自分で買ってくればいいのにと思う。日用品の買い足しなんて、気がついたほうがやればいい。会社を辞めて浮いた時間と労力はあるわけだから、それを家事にあてるのはまあいい。子どもが生まれるまではそうだった。だが、仕事に育児が加わった今、家事分担率を見直してくれてもいいんじゃないの、というのがわたしの言い分。「だって、君は一日中家にいるじゃないか」と言われた日には、「だったら事務所借りればいいのか!」と開き直りたくもなる。

そんな恨みつらみが売り言葉に買い言葉で飛び出して、言うつもりのないことまで言ってしまい、言葉もきつくなり、娘のための梅酒作りとはほど遠い雰囲気となってしまった。だが、梅は新鮮なうちに漬けたほうがいいし、すでに水に放ってアク抜きをしている。「今夜中に漬けるべきなので、決行します」と事務口調で宣言し、作業にとりかかる。「記録を取っておこう」とダンナも事務口調でビデオを構え、ふくれっ面のわたしをとらえた。

「まず、水気を拭き取ります」。わたしの指示にダンナは無言で従い、梅をボウルからひと粒ずつ引き上げ、黙々とキッチンペーパーで磨くように拭く。単純なその作業を並んでやっているうちに、肩の力が抜け(おそらくこわばっていた顔の力も抜け)、笑いたいようなおかしな気分になった。なんだ、わたしがしたかったこと、ダンナに望んでいたことは、これじゃないか、と気づいたのだ。

これはあなたの仕事、これはわたしの仕事じゃない。そんな風に割り切ったり押しつけ合ったりするのがさびしかったのだ。夫婦なんだから、家族なんだから、一緒にやればいいじゃない。皿洗いは、わたしも好きじゃないけど、ダンナも好きじゃない。だったら、二人でやっつければいい。洗うのはわたしでも、シンクまで運んでくれたら助かる。お皿をリレーするときに、よろしくね、まかせてよ、と声をかけあえたら、気持ちも軽くなる。面倒だと思って相手に押しつけた瞬間、重荷はもっと重くなるのだ。梅酒を作るのだって、一人で取りかかると大変だけど、二人がかりならお祭りになるのだ。一緒にやれば、楽しい。そんな単純なことをうまく伝えられなくて、わたしはダンナに苛立っていたのだった。

梅酒が完成する頃にはわたしの機嫌も直り、何も言わなくてもダンナはそれを察し、なんとなくいつもの二人に戻っていた。娘と飲める日が来たら、梅酒を漬ける前は喧嘩していたんだけど……と昔話をしてみよう。喧嘩の中身が溶けた梅酒、どんな味がするのかな。

2005年06月09日(木)  ついに『あつた蓬莱軒』のひつまぶし!
2002年06月09日(日)  日本VSロシア戦
2000年06月09日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月08日(金)  マタニティオレンジ128 モラルない親

朝日新聞に載っていた「モラルない親」についての記事を読んでいて、「え!」となった。「仕事が休みなのに子どもを預ける親」がモラルに欠けるとして紹介されていたのだ。娘のたまを預けている公立保育園の園長先生は「仕事が休みでも預けてくださっていいですよ」と言ってくださっている。家のことをしたり、自分のことをしたりする時間も必要でしょうからと。そのかわり、いつもより少し早めにお迎えに来れるといいですねと。その言葉に甘えて、仕事がなくても用がある日には保育園のお世話になっている。それが、モラルない親になるのか……。記事の前で、はあとため息をついてしまった。

わたしのようなフリーランスの場合、仕事が「ある」と「ない」の境目はあいまいで、打ち合わせも締め切りもなくても、観ておいたほうがいい映画や読んでおいたほうがいい本が常にあり、そういう芸の肥やしを仕込むのも仕事の一部だったりするのだが、平日の昼間に映画や芝居を観ると、「子どもを保育園に預けて遊んでいる」ことになるのだろうか。これまで、後ろめたさを感じていなかったことが、記事を読んで、そういう見方もあるのかと知ると、居心地の悪さを感じてしまった。記事で槍玉に挙がった親は「今日、お仕事お休みですよね」と保育士に言われて、「お金払ってるんだから、いいでしょ」と開き直ったという。その言い方や態度に「モラルがない」と評価を下すのは理解できるけれど、「仕事がないのに子どもを預ける」行為そのものが「モラルかない」とひとくくりにされるのは複雑だ。

その記事が出た数日後、反響をまとめた追っかけ記事が載った。わたしのように戸惑いや反感を抱いた人からの反論がいくつか紹介され、しめくくりに有識者のコメントがあった。内容はうろ覚えだが、「保育園は保育に欠ける状態を手助けするものであるので、保育に欠けないときに利用するのはルール違反である」「子どもは少しでも親と過ごしたいものなので、自分のことは後回しにしても一緒の時間をつくってあげるべき」といったことが書かれているのを読んで、わたしは再度首をかしげることになった。記事では「母親」と明記していなかったように思うが、そこで言われている親は「母親」を指していると思われ、「お母さんは子どもと一緒に過ごすもの」という前提に立っている印象を受けたのだ。

母親にしかできないこともあるとは思うけれど、育児の責任を母親に押しつけられると、働く母親は責任放棄している格好になり、いたたまれない。子どもを預かってもらえるかどうかという物理的な問題よりも、子どもを預けることへの偏見や無理解が、働きながらの子育てを難しくしている気がする。一日中子どもと過ごしている専業主婦のお母さんたちもまた、長い時間をどう過ごすかという問題や(「間延びする」「ネタ切れ」「体力が持たない」という声はよく聞く)、自分のことが何もできないという悩みを抱えている。もっと子どもと過ごす時間をというのなら、お父さんたちの残業や休日出社を減らすことに国を挙げて取り組むべきなのではないのだろうか。お父さんは働くもの、お母さんは育てるもの、という単純な図式に窮屈な思いをしているのは、わたしだけではないと思う。

2005年06月08日(水)  歩いた、遊んだ、愛知万博の12時間
2002年06月08日(土)  P地下
2000年06月08日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月07日(木)  誰かにしゃべりたくなる映画『しゃべれどもしゃべれども』

シネスイッチ銀座にて『しゃべれどもしゃべれども』を観る。落語に通じる語り口のうまさと絶妙な間と粋を感じさせる作品。二つ目の落語家・三つ葉(国分太一)の元に、無愛想で口下手の美人・五月(香里奈)、関西から転校してきたばかりの少年・村林(森永悠希)、解説の下手な元ブロ野球選手・湯河原(松重豊)という一筋縄ではいかない教え子が集まってくる。
ひとくせもふたくせもあるある登場人物たちの愛すべき人間臭さがおかしみを誘い、話し方教室でのやりとりそのものが落語のよう。

鑑賞に先立って、いまいまさこカフェの談話室(掲示板)で常連さんたちが「三つ葉は指導らしい指導をしていないのでは」と話題にしていたので、その部分を注意しながら観たのだが、「落語」という題材の向こうにある「人との関わり方」を三つ葉も一緒になって探っていく、そんな印象を受けた。シナリオを教えたときに、講師であるわたし自身も学ぶことが多かったので、教える立場の者が成長できるというのは、その教室が「学ぶ場」になっているひとつの証ではないかと思う。作品の中で三つ葉も教え子たちも成長するのだが、その伸び具合が劇的ではないところにリアリティと好感をおぼえた。

わたしはもともと「しゃべり好き」(「しゃべり過ぎ」?)だけど、拙くても、たどたどしくても、自分の言葉で思いを伝えること、言葉と言葉でぶつかりあうことの大切さをあらためて感じた。そして、江戸言葉あり関西弁あり古典ありという日本語の豊かさと奥深さにしみじみと感じ入り、その言葉を使える身であることをうれしく思った。その勢いで誰かにしゃべってすすめたくなる。寄席に行きたい、佐藤多佳子さんの原作を読みたい、さらには野球解説にもじっくり耳を傾けたくなった。DVD発売の折には劇中落語の完全版が収録されることを希望したい。湯河原の野球解説も、というのは欲張りすぎだろうか。

2005年06月07日(火)  友を訪ねて名古屋へ
2004年06月07日(月)  絨毯ひろげて岐阜県人会
2002年06月07日(金)  ドキドキの顔合わせ


2007年06月06日(水)  わたし好みだらけの『そのときは彼によろしく』

『ジェニファ 涙石の恋』で隆志を演じた山田孝之さんが主人公で、その少年時代を『子ぎつねヘレン』の太一役だった深澤嵐くんが演じている『そのときは彼によろしく』を、これは観ないわけにはいかない、と観る。劇場は、「出張いまいまさこカフェ」を連載中のフリーペーパーbukuを置いている池袋のシアトルダイヤ。さらに本編にはアクアプランツ、秘密基地、プリズム、チョコレートデニッシュ、バースデーケーキ……とわたし好みのものが次々と登場。懐かしさと切なさをかきたてるモチーフをこれでもかと持ち出すのは、『いま、会いにいきます』と同じく原作の市川拓司さんのテイストなのかもしれない。

中でも、森の中に打ち捨てられたバスの秘密基地には、解体した家を基地にして遊んだことがあった子ども時代を思い出して、わくわくした。そこは大人の世界と切り離されたルールがあり、大人の時間とは違う時が流れた世界で、そういう場所を持っていることに得意になっていた。自分たちにしかわからない宝物があり、ずっと友だちでいられることを願って「永遠」なんて大人びた言葉を口にし、はるか未来に思えた十年二十年先の約束を交わしたりした。いちばんよく遊んだ同い年で隣の家の女の子・佳夏は、今はもういないから再会することは叶わないけれど、「物理学の教科書にも載っていない強い力」が存在し、会いたいと強く願った相手には会える、というメッセージはしっかりと心に届いた。

少年時代の深澤嵐くんと青年時代の山田孝之さんのつながりを見るのもうれしかった。水中の森が地上の森にシンクロする美しいオープニングも、真っ白な病室に祈りのように増えていくアクアプランツのガラスボトルも、奇跡を信じさせてくれるようなストーリー展開もわたし好みだったけれど、息もつかせず立て続けに好きなものを並べられると、張り切って食べ過ぎたビュッフェのようになってしまい、余韻を味わうよりもおなかいっぱいになってしまった。映画はさじ加減が難しい。

2005年06月06日(月)  ニューオーガニックレストラン『orto』
2004年06月06日(日)  レーガン元大統領、逝去。
2002年06月06日(木)  同窓会の縁


2007年06月05日(火)  『風の絨毯』の中田金太さん逝く

朝早く、映画『風の絨緞』のプロデューサー・益田祐美子さんから電話があった。この人の電話の第一声はいつも「今井さん、元気?」で、それにわたしは「元気よ。益田さんは?」と応じる。すると、「元気、元気」と帰ってくるのが合言葉のようになっているのだけれど、今朝は「元気じゃない」と沈んだ声の変化球を返してきて、「金太さん、亡くなっちゃったの」と続けた。『風の絨毯』で三國連太郎さんが演じた、「平成の祭屋台」の制作に情熱を注ぐ高山の名士、中田金太さんが一日に逝去されたという。わたしは一瞬絶句して、「ああ、とうとう」と答えた。ついに、その日が来てしまったか、と。具合が良くないという話は聞いていた。わたしが執筆協力した金太さんの一代記『わしゃ、世界の金太! 平成の大成功者と五人の父』の出版記念パーティに、金太さんが入院先の病院から外出する形で現れたのは昨年9月。わたしは出席が叶わなかったのだけれど、自身が主役のパーティという気の張りがようやくのことで体を支えているようだった、と居合わせた人から聞いた。小柄だけれど顔色がよくバイタリティにあふれた金太さんがしぼんでしまった姿を想像して、わたしも胸をふさがれた。それから8か月余り。結局、公式の場に金太さんが姿を見せたのは、出版記念パーティが最後になったという。

岐阜新聞の記事「祭り屋台新造に情熱注ぐ 中田金太さん死去」に益田さんのコメントが紹介されているが、『風の絨毯』の実現にあたり、金太さんは節目節目で力を授けてくれた。そもそも同郷である金太さんの出会いから、絨緞屋だった益田さんがインスピレーションを得て「故郷の祭屋台にペルシャ絨緞をかけたら面白い」というところから物語が膨らんだ。劇中に登場する祭屋台の貸し出し、金太さんが運営するまつりの森でのロケ、さらには製作資金……。金太さんの粋な旦那魂が、『風の絨緞』を世に送り出す大きな追い風となったが、金太さんの存在は精神的にもスタッフや作品を支えてくれた。同時多発テロでロケが延期になり、製作が頓挫しかけたとき、「人間は誰でもつまづく時があるが、それは恥ずかしいことではない。つまづいた時、起き上がれないことが恥ずかしいこと」という言葉が益田さんを奮い立たせ、結果的には中東情勢が落ち着くまでの時間を無駄に捨てるのではなく、作品をより良くするための熟成期間にあてることができた。

わたしは2002年3月の『風の絨緞』高山ロケの際に金太さんに紹介されたけれど、たくさんの人が行き交う現場のあわただしさのなかで、あまりゆっくり話すことはできなかった。その後、金太さんと秀子夫人が上京される折に益田さんにくっついて食事をご一緒する機会に何度か恵まれ、高山の成功者となるまでの道のりの一部を聞かせていただいたりもした。丁稚奉公をたらい回しにされた苦労話をするときも、三本ボウリング工事したら三本とも温泉を掘り当てた幸運話をするときも、同じようににこにこと話され、聞いているほうも、山の話と同じくらい谷の話に引き込まれた。金太さんの生い立ちのおすそ分けをいただいた体験が、『わしゃ、世界の金太!』の執筆協力で活きた。

生きることは出会った人の心に種を蒔くことに似ている、とわたしは思う。金太さんの人生は、祭屋台をはじめ大きな花を生前から咲かせていたけれど、わたしには、「このお寿司、おいしいから食べなさい」と買ってきてくれた折詰や、「金太さんが今井さんによろしくって言ってたよ」という益田さんからの伝言といった、ささやかだけれどやさしい香りのする花を遺してくれた。益田さんとやりとりしながら金太本の原稿を準備していたとき、金太さんが「益田さんと今井さんを伊豆の温泉に招待したい」と申し出てくれたことがあった。まだわたしが会社勤めしていた頃で、残念ながら都合がつかず、「お気持ちだけいただきます。また、いつの日か」とお返事した。それから二年、いつの日かのお楽しみの温泉旅行は叶わない夢となった。金太さんが亡くなる前の数年間、短いながらも忘れがたいつながりを持てたことに感謝したい。

2006年9月29日 金太本、ついに出版。

2005年06月05日(日)  2人×2組の恋の映画『クローサー』
2004年06月05日(土)  『ジェニファ 涙石の恋』初日
2002年06月05日(水)  シンクロ週間


2007年06月04日(月)  黒澤明映画『生きる』

家のテレビで『生きる』を観たのは、中学生のときだっただろうか、高校生のときだっただろうか。「生きることと死ぬこと」を自分の問題として意識し始めた頃だったと思うから、中学生だったかもしれない。癌に侵された主人公の抱える焦燥に胸がひりひりしたことと、彼が公園のブランコで「命みじかし」と歌う場面の記憶は残っているけれど、細かい流れはよく覚えていなくい。シナリオの打ち合わせでも「黒澤の『生きる』みたいに」とよく引き合いに出されるので、あらためて見ておかなくてはと思っている矢先に、テアトル新宿の「黒澤明特集」でかかることを知った。

満席の客席には年配の方が目立ち、1952年の公開時にスクリーンで観てもう一度、という方もおられるのかもしれないと想像した。余命あとわずかと宣告されたとき、残りの時間をどう生きるか。それだけでも身につまされるスリルとサスペンスがあるのだけれど、その時間に起こる主人公の心境や行動の変化は、病のことを知らされない周囲の者にとってはまたサスペンスの対象になる。物語の中で主人公はできるだけ最後まで生かしておくものだけれど、主人公が去った後、葬式の場面で生前の主人公を振り返るという構成の大胆さに、さすがと脱帽。プロデューサーたちが言う「『生きる』みたいに」とは、こういうことだったのか、と思い至る。思っていることをうまく言葉にできない口下手な主人公に苛立ったヒロインが思わず放つ「ぽつりぽつり雨だれみたいにしゃべらないで」など、台詞もとても生きていて、テレビで見慣れない顔なので役者名よりも役名が頭に入るせいかもしれないけれど、役者が演じているのではなく登場人物が映画の中の時間を生きているように見えた。終映後、息を詰めて見守っていた客席から、感嘆のため息とともに拍手が起こった。「あらためて、いい作品だ」と称えるような拍手の響きに加わりながら、いくつもの才能が出会ってこの作品が生まれ、今日に遺されたことに感謝したくなった。

2002年06月04日(火)  回文ぐるぐる「サッカー勝つさ」
2000年06月04日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月03日(日)  マタニティオレンジ127 0歳児時代は子どもより自分優先!?

数日前、変な夢を見た。わたしはどうしてもSMAPのコンサートに行きたいのだけれど(なぜSMAPなのか。追っかけでときどき上京する京都のメグさんの影響かもしれない)、子守を頼んでいた大阪の母が「わたしは文楽に行く」と言い張り(これはありうる)、ならば子連れで会場に入ろうとすると渋られ、会場近くの託児所へ行くと、いかにも信用の置けなさそうなスキンヘッドにタトゥーのゲイが出てきて「まかせて」とウィンクするのだけれど、まかせられずに引き返し、コンサートをあきらめた。

そんな夢を見たのは、少し前に読んだ保育園の園便りの影響だと思う。「身近なお出かけスポット」について各クラスから一人ずつ寄稿することになり、0歳児クラスではわたしに声がかかった。わたしはお散歩コースにあるおいしいイタリアンとパティスリーと、子連れで映画を楽しめるママズクラブシアターについて書いたのだが、他のクラスの保護者の方のコメントを読んで、あることに気づいて愕然となった。1歳児クラスのお父さんは「子どもと一緒に遊べる公園」を、2歳児クラスのお母さんは「子どもとじっくり絵本を選べる神保町の本屋さん」を、3歳児クラスのお母さんは「子どもが大好きなコミュニティバスのお出かけコース」を紹介している。わたしのコメントとの明らかな違いは、「自分が楽しむことありき」か「子どもが楽しむことありき」かだ。わたしが紹介したスポットは「自分が楽しいところに子どもをつきあわせる」という発想になっている。この寄稿文に限らず、「子どもと一緒に楽しめる」というとき、自分に子どもをつきあわせているのではないか、と思い至って愕然とした。

そのことが引っかかって夢にも出てきたのだろう。夢の中でもやっぱりわたしは自分の都合に子どもを合わせようとしているのだった。なんとなく後ろめたさを抱えていたので、金曜日に保育園のお迎えの帰りがけに園長先生から「園便りへの寄稿、ありがとうございました」と声をかけられたときに、「わたしだけ、親が楽しむことばかり書いてしまって」と恐縮すると、「いいんですよ。0歳のうちは」と言ってくださる。「まず、親が楽しくあること、それもとても大切なことです」。力強い言葉に、罪悪感がずいぶんぬぐわれ、気持ちが軽くなった。

親が好きな場所に、子どもを連れて行く。親が楽しいと思うことに、子どもを巻き込む。一緒に楽しむという意識はまだないかもしれないけれど、親の楽しい気分が、子どもにも伝われば、一緒に笑うことぐらいはできる。お出かけ日和の日曜日、ベビーカーで日比谷公園へ出かけ、日差しが入り込むテーブルでランチを取った。四人がけのテーブルを夫婦とベビーカーでぜいたくに使わせてもらう。陽気に誘われて、たまはベビーカーの中ですやすや。その間に野菜たっぷりのサラダバーを味わう。デザートが運ばれてくるタイミングで目を覚ましたので、だっこしながらお茶を飲んだ。一緒に食べられる日はまだ先だけれど、今は今の楽しみ方があっていいのかなと思う。

2005年06月03日(金)  劇団浪漫狂『ピカレスクpp行進曲』
2003年06月03日(火)  海南鶏飯食堂(はいなんじーふぁんしょくどう)
2002年06月03日(月)  きる ふぇ ぼん
2000年06月03日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月03日(日)  4年2組日記 先生の家


2007年06月02日(土)  『ベンディングマシンレッド』発進

炭酸が苦手でコカ・コーラが飲めないくせに、飲むコカ・コーラ以外は大好き。10代でアメリカに留学したときに、Coke=アメリカが刷り込まれてしまったのかもしれない。昔のクラシカルな広告を刷ったポストカードを集めたり、コカ・コーラのロゴ入りグッズを部屋に並べたり、わたしにとってコカ・コーラは眺めてうれしいもの。

最近教えてもらったショートムービー『ベンディングマシンレッド』は、コカ・コーラウォッチャーには見逃せない作品。「第1話 ベンディング マシン レッド発進!」に続いて「第2話 最重要物資を奪え!」をYouTubeで配信中。この先もふえていくと思われる。「ベンディングマシンレッドは突然変異によって現れた自動販売機型ロボットなのだ。行け !ベンディングマシーンレッド!進め!ベンデングマシンレッド!」という勇ましい謳い文句には「コカ・コーラ」の文字はないけれど、あの赤い自動販売機から手足が伸び、赤い顔が乗っかっている。戦隊ヒーローっぽい名前のくせに、強そうには見えない。大きな図体を持て余しているように見える。でかくてごつい上に顔もかわいくないのだけど、その武骨さ、不器用さがいじらしくなってくる。無骨自動販売機でありながら街角の自動販売機のおつり返却口に大きな指を突っ込もうとして往生している姿には、なんともいえない哀愁とおかしみがある。わたしが見ている横からパソコンをのぞきこんだダンナが「これ、バカバカしくて面白い」と受けていた。エッジが立っているようで、意外と間口は広いかもしれない。

ベンディングマシンレッドはmixiにも登場(レッド)。ムービーが気に入った方は、マイミク申請してみては。わたしも、はじめてロボットとマイミクに。日記で近況を綴っているのだけれど、こちらもなんともゆるい。レッド君、ムービーの中だけでなく、街にも出没している様子。目立つだろうなあ。コミュニティ(レッド(自販機ロボ)応援隊)もできていて、じわじわと注目度は上がっている様子。大化けしたら面白いな。

2002年06月02日(日)  お宅訪問
2000年06月02日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月02日(土)  4年2組日記 バレーボール


2007年06月01日(金)  「いしぶみ」という恋文

向田邦子さんの短編とエッセイを集めた『男どき女どき』を読んでいて「いしぶみ」という言葉を知った。「昔、人がまだ文字を知らなかったころ、遠くにいる恋人へ気持ちを伝えるのに石を使った、と聞いたことがある」とある。

石に思いを託すためには、思いにぴったり合う石を探さなくてはならない。中途半端な石で妥協すると、受け取った相手に読み間違えされて、思わぬ誤解を呼ぶかもしれない。相手の顔や好みを思い浮かべながら便箋を選ぶよりも、もっと真剣で慎重な作業が必要になる。その分、今のこの気持ちを表わすためだけにあるような石に遭遇したときの喜びは大きいだろう。地べたに転がっている石ころを手紙という目で見たら、ひとつひとつが違って見えたり、物言わぬ塊が語りかけてくるように感じられたりするかもしれない。今度やってみよう。

「いしぶみ」に想を得て、こんな話を考えてみた。

いしころかぐや姫

その昔、文字をしたためた手紙ではなく、旅先で拾った石を届けて遠くにいる恋人に気持ちを伝える「石文(いしぶみ)」というものがあった。時は流れ、メールで手軽に気持ちを伝え合える21世紀、由緒正しい家柄の跡取り娘、しかも超美人という現代版かぐや姫が結婚相手を決めるにあたって出したお題が「石文」。最も彼女の心をゆさぶった石文の送り主が選ばれるとあって日本中からこれはどうだ、という石が続々と献上された。

中の空洞に水がたまって音がするアンデスの珍しい石、うけ狙いで漬物石、「あなたと食べる一生分のサラダのために」の願いを込めた岩塩……だが、姫のハートを射止める石は現れない。姫は芸術が好き、という噂が流れると、精巧な彫刻をこらした石や石のオブジェといった作品が届くようになる。それでも反応がないとみると、気持ちというのは結局金ではないか、という憶測が流れ、特大ダイヤモンドや世界にひとつしかないレアな宝石が競い合った。

脱落していく者が続出し、いつしか五年の歳月が過ぎ、石文合戦のことを世間が忘れた頃、ようやく姫の結婚相手が決まった。お披露目に現れたのは、貧弱な冴えない男。一体どんな石文で彼女を口説き落としたのかといえば、送ったのは、どこにでもあるような石ころだという。だが、一個ではない。お披露目の会場となったのは、小石が敷き詰められた庭。その庭を満たすだけの石を、五年の歳月をかけて送り続けた誠意が通じたのだった。


いしぶみについて触れた同じエッセイの中に、もうひとつ、印象的なエピソードが紹介されていた。向田さんが忘れられない手紙として挙げた、「○と×だけの手紙」の話。学童疎開へ向かう向田さんの妹に、父は自分宛の宛名だけを書いたハガキの束を渡し、「元気な時は大きなマルを書いて一日一通必ず出すように」と伝えて送り出した。最初はハガキからはみ出さんばかりだったマルがだんだん小さくなり、細っていき、やがてバツになり、ついにはハガキが来なくなった。疎開先で、妹は百日咳で寝込んでしまっていたのだという。それを読んで、『レ・ミゼラブル』の初版売れ行きを心配したビクトル・ユーゴーと出版社との世界一短い往復書簡「?」「!」や、南極観測隊の夫に日本で留守を守る妻があてたたった三文字の電報「あなた」を思い出した。手紙というのは言葉を費やせばいいというものではなく、端的な表現に思いがぎゅっと詰まったエネルギー効率の高いもののほうが心を打つけれど、発散させるよりも凝縮させるほうが高度な技を要する。沈黙の中に思いを込めるいしぶみは究極の離れ業だといえる。

2005年06月01日(水)  映画『子ぎつねヘレン』撮影中
2004年06月01日(火)  歌人デビュー本『短歌があるじゃないか。』
2002年06月01日(土)  フリマ
2000年06月01日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月01日(金)  4年2組日記 日記のざいりょう

<<<前の日記  次の日記>>>