2007年05月05日(土)  マタニティオレンジ115 つかまり立ちがはじまった!

得意げな声が聞こえて目をやると、娘のたまがテーブルの脚につかまって立っていたので驚いた。はいはいの腰の位置が高くなってきたと思ったら、いつの間にこんなことまで、できるようになっていた。はいはいしながら片手を上げて、手当たり次第つかんだり振り回したりする遊びを覚えたが、ついには右手と左手をかわるがわる出して両手を自由に使えるようになったようだ。テーブルの脚をつかみ、木登りの真似事のようにして体を引き上げ、立ってしまった。

それだけ脚や腕や背中の筋力がついた証拠だが、もちろん、立ってみたい、という好奇心あってのこと。視点が高くなったのがうれしいのか誇らしいのか、たまは「わあ」のような「キャア」のような歓声を上げている。椅子の脚を手がかりにして座面に腕を踏ん張って絶ったり、相撲の張り手よろしく壁をぺたぺたと伝って立ったり、あの手この手で上へ向かう。娘の成長を喜んでカメラなんか向けていると、手が体を支えきれなくなって宙を舞い、バランスを崩して、体を床に打ちつける。笑っていたのがたちまち泣き出し、大騒ぎになる。つかまり立ちというよりは、すがり立ち。まだまだ危なっかしい。

四つんばいで地面を歩き回っていた人類の遠い祖先が二足歩行を獲得したときも、まずは近くにある木や岩につかまり立ちしたのだろうか。そんなことを想像しながら、人類の進化よりはずっとささやかだけれど、わが家にとっての歴史的な快挙に見入っている。というより、目が離せないので、つきっきりで見守るしかないのである。

2005年05月05日(木)  店主も冷蔵庫も味な居酒屋『串駒』
2004年05月05日(水)  映画『チルソクの夏』
2003年05月05日(月)  日本橋三越に「風じゅー」現る!


2007年05月04日(金)  マタニティオレンジ114 二世代で同級生

大阪での幼稚園、小学校、中学校時代の同級生で今は横浜に住むナオヤは、昨年7月、わたしよりひと月お先に男の子の父親になった。二代そろって同じ学年ということになる。親子同窓会やろうや、と誘ってもらいながらなかなか日が合わなかったのだけど、今日、『0歳からのコンサート』で有楽町に出たついでに一家でわが家に立ち寄ってくれた。ナオヤはわたしの家の隣に住んでいた幼なじみのヨシカと小学校の3、4年生のときに同じクラスで、ヨシカが「ナオヤ」と呼んでいたのにならって、わたしも呼び捨てにしているのだけれど、ナオヤはわたしを「今井さん」と呼ぶ。「今井さんがおっぱいあげてるとこ、想像でけへんなあ」と言うので、思わず焦って「想像せんといて!」。同級生との会話におっぱいが出てくるのは、なんだか変な感じだ。ナオヤは幼稚園の頃から驚くほど変わってない、とわたしは思うのだけど(当時からやたらと記憶力のいい子で、誰がどのクラスにいるか言い当てるのが得意だったのだが、今でも頭の中にちゃんとクラス別名簿が整理されてある)、三十年以上も前からお互いを知っているというのもすごいことだ。二代目のわが娘・たまとマサシ君の顔合わせは、一人が泣けばもう一人も泣き、を繰り返し、友情を育むどころではなかったけれど、やがては数十年来の友だちになるかもしれない。

わたしたちの学年は上の子が高校生という子もざらにいて、娘がアイドルデビューしている子もいるし、一昨年の同窓会の時点で孫がいる(!)という男の子もいて、当時36才のおじいちゃんに度肝を抜かれた。子育てが一段落している同級生が多い一方、昨年はちょっとした出産ラッシュで、他にも何人かの二代目同級生が生まれている。今も地元に住んでいる同級生は、「子ども同士が同じクラスになって再会」なんてこともあるらしい。東京に住んでいるわたしの場合は、子どもが同じ学校に通う可能性は低そうだけど、親子二世代で同級生って、ゾロ目が出たようなうれしさがある。

2005年05月04日(水)  一緒に飛べなかった『アビエイター』
2002年05月04日(土)  フランスのパコダテ人、函館のアメリ。


2007年05月03日(木)  中原道夫さん目当てにサイエンス俳句

最近メールを交換するようになったHさんという女性が俳句をたしなまれる方で、「今井さんは俳句をやらないんですか」と聞かれたので、「コピーライター時代に仕事で組んだデザイナーが中原道夫さんという俳人で、遊び半分で手ほどきを受けたことがあります」と伝えたら、「そんなすごい人に!」と驚かれた。広告会社のアートディレクターが俳人でもあるのではなく、俳人が気まぐれにアートディレクターもやっている、という感じの人で、会社あてに「先生いらっしゃいますか」という電話がよくかかってきた。プレゼン間際に「中原さんがいない!」「もう出発するのに!」と焦った営業がふと隣のビルに目をやると、カルチャーセンターの俳句教室で指導しているのが見えた、という笑い話もあった。

中原さんと化粧品の広告をつくっていた頃、わたしはまだ二十代半ばだった。俳句界の芥川賞にあたる賞を受賞した、ということは聞いていたけれど、俳句のことはまるでわからないゆえの無邪気さと若さゆえの図々しさで、「わたしも書いてみましたぁ」と作品を見せた。五句ぐらいあった中で批評してもらえたのは「稲妻の ピアスのごとく 海つらぬく」という一句。しかし、拾ってもらったのではない。「俳句というものは作者の見た世界を十七文字に凝縮しなくてはならないが、この句が表現している世界は十七文字より小さい」ということを伝える例として選ばれたのだった。「稲妻、ピアス、つらぬく、すべてとんがってたものでかぶってるでしょ。十七文字のうち半分以上が同じこと言ってる。驚きも意外性もないし、深みもない。十七文字からイメージがひろがらない」と言われ、「十七文字から原稿用紙一枚分、四百字ぐらいの情景が浮かぶようにしなさい」とアドバイスされた。「海つらぬく、と六文字になっているがけど、ここが字余りになるのは美しくない。余らせるなら真ん中の七文字を」と指摘されたことも覚えている。中原さんとは、普段は仕事そっちのけで得意先へ行くついでに何を食べるかばかり考えているくいしんコンビだったから、「おいしいお店を知っている楽しいおじさん」ぐらいに思っていたのだけれど、さすが俳句を見る目は的確だった。高名な師の添削に、謝礼代わりに「言うことがプロっぽ〜い」とはしゃいでいたわたし。世間知らずの二十代とは恐ろしい。

そんな思い出話を伝えていたところ、Hさんから「中原さんが関わっている俳句募集がありますよ」とお知らせをいただいた。日本科学未来館が5月4日に「“句会”科学を旅して、俳句をつくろう」というイベントを行い、「21世紀の新しい世界の変化を、日本古来の表現形式でどこまで表現」できるのかを検証する。その講師に中原さんを迎えており、インターネットからも投句を呼びかけているのだった。「宇宙」「ロケット」「遺伝子操作」などなど科学と縁のある言葉を折り込み、未来をとらえた「サイエンス俳句」がお題。日本科学未来館へは『恋愛物語展』という企画展を目当てに訪ねたことがあったけれど、科学に物語をつけるのが得意なようだ。

応募はたくさん来るだろうけれど、目に留まった句は中原さんに読んでもらえるかもしれない、と早速取り組んでみる。季語に加えてサイエンス単語という縛りが出来、これがなかなか難しい。締め切り間際になんとか三句ひねり出した。

織姫と彦星きどり 星めぐり

ロボットが 雪を降らして 雪をかき

国連が 星連になり 天の川


宇宙や未来はスケールが大きいけれど、句のスケールはといえば甚だ心もとない。応募の雅号は「いまいまさこ」にした。「今井雅子にはこういう色が似合う」「今井雅子は銀座のあの店には行ったか」などと中原さんはわたしのことをフルネームで呼んだ。運良く応募作品を目にしたら、「今井雅子、変わってないね。十七文字からまるでイメージが広がらない」と嘆かれるだろうか。ドキドキしながら送信ボタンを押した。

2003年01月31日(金) トップのシャツ着て職場の洗濯

2004年05月03日(月)  渋谷川ルネッサンス
2002年05月03日(金)  スペクタクル・ガーデン「レジェンド・オブ・ポリゴン・ハーツ」


2007年05月02日(水)  マタニティオレンジ113 上野動物園でいちばん面白い生き物

ダンナが急に休めることになり、わたしは今日やる予定だった原稿を明日に回し、娘のたまは保育園を休むことに。平日に一家で過ごすのは、本当にひさしぶり。天気もいいし、ベビーカーで散歩がてら上野動物園をめざす。ゆっくり歩くと一時間以上かかるけれど、千駄木から根津にかけて、お店がたくさん並んでにぎやかな通りをひやかして歩くのは楽しい。

陽気に眠気を誘われて、動物園に着いた頃には、たまは半分目を閉じて、うとうと。「ほら、ライオンだよ」「ゾウさんだよ」と親ははしゃぐけれど、たまはまったく興味なさそう。「たまに対して、動物が大きすぎるんじゃないか」とダンナが推理する。ベビーカーの高さにかがんでゾウを見ると、ちょうど目の前に柵があり、その向こうに見えるゾウの灰色の体は壁のように見える。もともと動きがゆったりしているゾウは、暑さにやられているのか、張り付いたように動かない。確かに、見ていて退屈かもしれない。ゴリラだって、たまの目には黒い塊、岩のようにしか映らないのかもしれない。足で頭をかく姿を「ダメ親父っぽい」と笑っあったり、「ああいう顔の人いるよね」とうなずきあったりできるのは、まだまだ先のことになりそう。広い園内を歩き回って、たまが唯一ベビーカーから身を乗り出したのは、鳥のガラス檻の前だった。鮮やかなオレンジの小鳥が枝から枝へ飛び交う様には心惹かれた様子。動きのあるものを近くで見るなら、動物園より水族館のほうが面白いかもしれない。

「はじめての動物園に驚くたま」を記録しようとカメラとビデオを構えていた親としては、あっけないほどの無関心に「8か月で動物園は早いのか」「でも、6か月で大喜びしたって話も聞いたけど」と肩透かしを食らった格好。数か月したらまた違った反応が見られるのだろうし、そのうち指差して動物の名前を言ったり、「また連れて行って」とせがんだり、絵日記を書いたりするようになるのだろう。わたし自身は動物園が大好きで、いつも、そこらの子どもに負けないぐらい目をきらきらさせて動物たちの表情や動きを観察しているのだけど、今日は檻の向こうではなく、手前のわが子ばかり見ていた。これから数年間、動物園でいちばん面白い生き物は、この子になるんだろうな。

2002年05月02日(木)  永六輔さんと「しあわせのシッポ」な遭遇


2007年05月01日(火)  今井雅子という人物は存在しない!?

新聞の整理をしていたら、夫婦別姓について論じる記事があり、一昨年の二月の飲み会のことを思い出した。広告会社時代の先輩のお姉さまたちと五人で集まったときのこと、婚姻届を出したばかりのY嬢が「自動的にダンナの苗字にされるのはおかしい! わたしも稼いでいるのに!」と言い出した。「っていうか、ダンナより稼いでいるのに!」と賛同する声があり、お酒の勢いもあって「夫婦別姓だあっ!」という話になった。

わたしたちが働いていた広告会社では、結婚後も旧姓を名乗る女性がほとんどで、わたしもそうしていた。キャッシュカード、クレジットカードの類の名義変更の多さに閉口し、「なんで妻だけがこんな面倒なことを……」と恨めしくは思ったものの、それ以外の不便や不満はとくに抱いていなかったので、お姉さまたちの怒りが意外だった。

「で、今井はどうなの?」と詰め寄られ、「わたしは名前が二つにふえた、ぐらいに思ってたんですけど」と答えると、「あたしもそうだな」とO嬢。この先輩は「新鮮だから」という理由で、結婚するなり新しい姓の名刺を刷った。苗字を選べると考えれば、窮屈ではない。わたしの場合は、旧姓がペンネームにもなっているので、郵便物も半数以上は宛名が「今井」になっている。日常的に「今井」で呼ばれることが多いから、結婚によって慣れ親しんだ名前を失ったという感覚が薄いのかもしれない。

そのことを痛感したのは、飲み会から数か月後、銀行の窓口で、だった。通帳の記入漏れを知らせる郵便物がしばらく届いていない口座があり、もしかしたら結婚した際の住所変更をし忘れているのではと思って問い合わせたのだが、名義が今井雅子になっているせいで、照合を受け付けてもらえない。

「今井雅子という人物は戸籍上存在しないわけでして」。女性行員にそう告げられた瞬間、飲み会で吠えていたお姉さまの気持ちに、ぐぐっと近づいた。物心ついてからずっと自分は今井雅子だと思って生きてきたのに、戸籍が書き換えられただけで、今井雅子という存在は消されてしまう。そんな簡単なものじゃないでしょう、と目の前の行員さんに食ってかかりそうになった。自動的に新しい苗字の名刺を持たされる会社に勤めている人や、専業主婦になって「○○さんの奥さん」と呼ばれるようになった人が結婚早々に体験している衝撃を、わたしは結婚後6年も経って味わったのだった。

どうやったら、わたしが元・今井雅子であることを証明できるだろうか。銀行の窓口で策を練った。『子ぎつねへレン』のチラシを見せて、「ここに今井雅子って名前があるでしょ」と示しても、それがわたしである証明にはならない。そのとき、そうだ、と思い出し、財布を探った。わたしが加入している文芸美術国民保険の保険証には、氏名に筆名が併記されている。結婚後の名前と旧姓が仲良く並んでいる保険証を見せると、行員さんの態度が変わった。今井雅子名義の口座の住所変更がされているかを確認し、「変更はできているが、年間の取引額が少ないので通帳記入漏れの案内が発送されていない」ことがわかった。

また今回のような騒ぎになると困るので、その場で名義を本名に書き換えたが、旧姓のまま遺しておけばよかったかなとも思う。自分の手で、またひとつ、今井雅子を消してしまった。それにしても、保険証という証拠がなかったら、今井雅子という人物は存在しないままになっていた。戸籍の一行が旧姓で生きてきた何十年という時間を覆せるわけがないのに。

次にお姉さまたちと飲むときは、「名前が変わるったって、書類だけのことじゃないですか」なんて笑って言えないな、と思った。

2005年05月01日(日)  天才せらちゃんと神代植物公園
2004年05月01日(土)  池袋サンシャイン国際水族館『ナイトアクアリウム』
2002年05月01日(水)  きもち


2007年04月30日(月)  友だちの友だちは友だち

広告のクリエイティブはコピーライター、アートディレクター、CMプランナーの三人セットで仕事をすることが多い。コピーライターとして広告会社に勤めていた頃、アートディレクターのE君、CMプランナーのT嬢とわたしの三人組は仕事を超えて仲良くなり、仕事中の昼ごはん、息抜きの午後のお茶、アイデア出しを兼ねての残業メシ、残業後にお酒を飲みながらの真夜中ご飯……と何度もテーブルを共にするうちにさらに親しくなり、互いの誕生日を祝いあう仲になった。その間にE君とT嬢の間に恋が芽生え、愛が育まれていたことを知らないのは、いちばん近くにいるわたしだけで、職場ではすっかり公然の秘密になっていたのだけれど、「突然ですが、結婚します」と打ち明けられて、わたしはのけぞった。

照れ屋な二人らしく、親しい人だけを集めて軽井沢で執り行われた結婚披露宴は、家族と親族、友人をあわせても三十人ほどのこじんまりとしたあたたかなパーティだった。同僚のカサピー一家、ダンナとともに参加させてもらったが、新郎新婦の各時代を代表する友人が一同に会して、E君いわく「俺の人生のオールスターの夢の競演」となった。初対面の人がほとんどだったものの新郎新婦という共通の話題があり、さらにリゾート地での泊りがけという高揚感も手伝って、新郎新婦のスイートルームに会場を移しての二次会で杯を重ねる頃にはすっかり昔からの仲間のような雰囲気が出来上がっていた。

E君の中学校時代の友人夫妻であるイケちゃんサンちゃん、専門学校時代の親友のフクちゃんとは、とくに親しくなった。披露宴の翌日、帰りの新幹線に乗り込むまでの半日を一緒に過ごしたのだ。なんとなく心惹かれる方向に歩く、という無計画な散策は、いつしか出口の見えない山道を熊に怯えながら突き進む探険になった。奇跡的に頂上にたどり着き、新郎新婦に記念写真を携帯メールで送ると、自分たちの結婚式から生まれた友情に感激していた。

それから一年五か月。昨年9月に娘のたまの12分の1才を祝ってくれたE君、T嬢、大阪から出張中のフクちゃんがまたわが家に集まってくれた。フクちゃんは今回、彼女のS子ちゃんを連れての上京。阪神タイガースファン同士で意気投合したのだとか。おいしいもの好きなところもウマが合うようで、そこは居合わせた全員に共通すること。元同僚のげっしー嬢のいとこがやっている愛媛・八幡浜の昭和水産の一夜干しを焼き、近所のお肉屋さんの和牛を焼き、脂身でガーリックライスを作り、松の実たっぷりの手作りパンをふるまう。よく食べ、よく飲み、よくしゃべり、たまともよく遊んでもらう。フクちゃんと会うのが今夜でまだ3回目というのも不思議だけれど、S子ちゃんとも初めて会った気がしない。友だちの友だちは仲良くなる下ごしらえができているのかもしれない。

2004年04月30日(金)  日本映画エンジェル大賞受賞
2003年04月30日(水)  2003年4月のカフェ日記
2002年04月30日(火)  焼肉屋『金竜山』で酒池肉林
2001年04月30日(月)  2001年4月のおきらくレシピ


2007年04月29日(日)  マタニティオレンジ112 「自立とは」を考える

障害者の「自立」について考える勉強会に出席する。「あなたは自立していますか」と聞かれたら、迷いなく、はい、とわたしは答える。理由は、自分で働いて稼いだお金で生活していく能力があるから。ところが、最近読んで衝撃を受けた『障害とは何か―ディスアビリティの社会理論に向けて』という本の中に「従来身辺自立と職業的自活に高い価値を置く伝統的な自立観」というくだりがあり、わたしの抱いていた自立観がまさにそれだと気づかされた。経済的に自立していること=自立だとわたしは思っていたのだけれど、職業に就かず、収入がなく、身の回りのことをこなすのに介助を必要とする人であっても、「自己決定を行うことこそが自立」である、と著者である全盲の社会学者・星加良司氏は説く。自分が何をしたいか、どうしたいか、主体的に決定し、主張し、実現できることが自立なのだと。

今日の勉強会では「欲しいことを欲しいと言い続けられること」が自立なのだという話があり、イソップ童話のすっぱいブドウの寓話が紹介された。手を伸ばしても届きそうにないブドウを、「すっぱいブドウ」だと呼ぶキツネの話。自分の欲求が達成されないとわかったとき、自分を納得させる理屈をつけて、理想と現実のギャップを埋める。それは、自分が傷つかないための呪文のようなもので、手に届かないものを「価値がない」と思い込むことによって喪失感、敗北感を味わわずに済む。最初から欲しくないと言うほうがラクなのだ。わたしたちは多かれ少なかれ、「すっぱいブドウ」を使って自分を守っている。失恋したときに、「つまらない男だった」と自分に言い聞かせたりして。「すっぱいブドウ」は障害のある人だけのものではない。ただ、障害がある人の場合は、人一倍努力しなくては手に届かないものが多いから、「すっぱいブドウ」の出番がふえ、ともすれば日常茶飯事となる。「人の手を介してもいいから自分の意思で実現する」「実現しなくても欲望を持ち続ける」ことが大事だという話を聞いて、自立とは生活の形態よりも心のありようなのだ、と思った。言葉の意味をつかもうとするとき、わたしは反対語を考えてみる。これまでは「自立⇔依存」だと思っていたけれど、我慢せずに遠慮せずに諦めずに意思を主張するという意味では「自立⇔抑圧」のほうが近いかもしれない。そして、「抑圧」の逆をたどると、「自由」や「解放」が浮かび上がる。 

自己決定という意味において、わたしは自立しているだろうか、とわが身を振り返ってみる。欲しいもの、やりたいことは見えていて、その実現に向かって手を伸ばしている。だから、自立している、と自己判断する。では、生後8か月の娘はどうだろう。今のところ彼女の欲求はおなかを満たす、おしりをきれいに保つ、遊ぶ、寝る、といったところで、一人で出来ない食事とおむつに関しては、泣いて欲求を訴え、大人の手を借りて実現にこぎつけている。けれど、決断を迫られるような局面には向き合っていないから、自己「主張」はしていても、自己「決定」しているとはいえない。

『障害とは』の本に話を戻すと、その中に小佐野さんという方の1998年の発言が紹介されている。
「自立」には二つの側面があって、その人自身がどうしたいか、ということがちゃんと実現され、保障される、という側面も大切なわけですが、もう一つの側面として、「自立」って社会的なものであって、どんな人でもその他の廻りの人との関係の中で、そこにいることに意味があるということ、そういうことが認め合えるということが「自立」なんじゃないか、と僕は思っています。
子どもを「一人前」に育てるというのは、「自立」へ導くことだと言えるかもしれない。今はまだ生存することに必死なわが子が、やがて、どう生きるかを選べるようになったとき、その意思を尊重すること、そして、わが子が生まれてきた意味を見出せるようにすること、それが、親にできるささやかなことではないだろうか。つかまり立ちをはじめて自分の足で立とうとしている娘の姿を思い浮かべながら、自分は自分、その心をよりどころに立つことの大切さを思った。

2002年04月29日(月)  宮崎あおい写真集『happy tail』にいまいまさこ雑貨


2007年04月28日(土)  三枝健起監督の新作『オリヲン座からの招待状』

映画『ジェニファ 涙石の恋』でご一緒した三枝健起監督の新作『オリヲン座からの招待状』関係者試写にお邪魔する。ジェニファと同じく製作はウィルコ、プロデューサーは佐々木亜希子さん。『鉄道員』(浅田次郎)に所収されている原作が大好きなので、とても楽しみに拝見した。原作をそのままなぞるのではなく、原作に埋もれている部分に光を当てて膨らませたような脚本になっている。その広げ方、深め方がとても好ましく、この映画を観てから原作を読み返すと、いっそう登場人物たちに思い入れできそうに思えた。

純愛映画ブームは一段落したようだけど、観ていて頭に浮かんだのは「純愛」という言葉だった。「純真」のほうがしっくりくるかもしれない。主人公の青年・留吉(『それでもボクはやってない』の加瀬亮さんが好演)の一途な恋、映画へのひたむきな思い、不器用で嘘のない生き方、どれもがもどかしいほど純粋で真摯。飽和状態の平成の世なら浮いてしまいそうだけれど、数少ない娯楽だった映画がテレビに取って代わられる頃の昭和が舞台だと、ファンタジーのような純真が現実味を帯びてくる。

『ジェニファ』でも指摘されることだけど、映像が美しい、音が美しい、その重なり合いがまた美しい。鑑賞してからひと月も経って日記を書いているが、じんわり染み入るような上原ひろみさん作曲のテーマの余韻が残っている。印象的なシーンの数々も、紙焼きを取り出すように思い出せる。宮沢りえさん演じる若き日のトヨが自転車に乗っている情景は、映画は一枚一枚のシャシンの連続だと思い起こさせるような構図の連なりに引き込まれた。そして、懐石料理や納豆やトマトやとうもろこしが登場した『ジェニファ』以上に食べものがよく出てくる。その食べものがとてもおいしそうで、作り物めいていない感じがいい。ちゃんと、登場人物たちの生活に寄り添っている実感がある。

三枝監督は実景を通して心象を描くのが上手な監督だと思っているが、この作品に登場する「ある道具」の扱い方が心に残った。人を喪うということは、ある道具を使っていた主がいなくなることであり、その役目を誰かが引き継ぐことなのだと、しみじみと感じ入った。映画の中に流れるしっとりとした時間に身をまかせ、ささやかだけれどあたたかな幸せに浸れる作品。11月に東映系で全国ロードショーとのこと。

2004年04月28日(水)  黄色い自転車
2002年04月28日(日)  日木流奈(ひき・るな)


2007年04月27日(金)  マタニティオレンジ111 「祝・出産 祈・安産」の会

今年1月1日に女の子を出産した会社時代の同期のタニヤン宅でランチ。集まったのは、わたしと昨年8月に生まれた娘のたま、昨年10月に出産したアヤさん母娘、6月に女児出産を控えたゲッシー。年が近くて気が合うので会社を辞めてからも親しくしている人たちが、去年から今年にかけて相次いで出産。偶然なのか、パソコンの電磁波のせいなのか、会社に特殊な「気」でも流れていたのか、示し合わせたかのように女の子の母親になっている。

「一年前に集まったときからのこの変わりようは、どうよ?」。四才の女の子(またしても!)の幼稚園のお迎え帰りに、お茶の時間から合流したアツヨちゃんが言った。乳飲み子を抱えた若葉マークの母親と妊婦に混じると、子育て大先輩の貫禄があるけれど、年齢を考えると、アツヨちゃんだって決して早いほうじゃない。だけど、去年の四月、今日の5人を含む元同僚8人で集まったとき、子どもがいるのは彼女だけだった。産んで働き続けるのは難しい、自分の時間をもうしばらく楽しみたい、欲しいけれど授からない……産まない理由、産めない理由はそれぞれだけど、「30代後半が8人いて、子ども一人は少ないよね」と言い合った。そのときわたしは妊娠5か月だったけれど、授り待ちの友人への遠慮もあって言い出すきっかけを逃してしまった。わたしにとっても、あの日集まったうちの半数がそれから一年余りの間に母になるとは予想外だった。「8分の1」の淋しさを感じていたアツヨちゃんは一気に「8分の5」集団の筆頭になった。35歳を過ぎて「そろそろ」とタイミングが重なったのもあるだろうけれど、これだけ続くと、妊娠がうつるというのは本当なのかもと思ってしまう。

仕事も好きなことも一通り経験してからの出産は「人生にやさしい」のだと先日見かけた出産本の宣伝コピーにあった。たしかに、年齢的に落ち着いてからはじめる育児は、じっくり子どもに集中できる気がする。集まった元同僚たちは皆、仕事のはりあいで輝いていたのとはまた違う、会社では見せたことのない充実したいい顔をしていた。

2004年04月27日(火)  二級建築士マツエ
2002年04月27日(土)  映画デビュー!「パコダテ人」東京公開初日


2007年04月26日(木)  マタニティオレンジ110 保育園のPTAはイベント盛りだくさん

今月はじめに入園式に出席した保育園のホールで、こんどは父母総会。その間、子どもは保育していてもらえる。園長先生の挨拶、先生方の紹介、保育方針の説明、お知らせが続く。「子どもは『メタボ』という言葉が好き」という栄養士さんのお話に、父兄の笑い声が起こる。「野菜食べないとメタボになりますよ」と言われると、喜んで食べてくれるのだとか。保健士さんは「少々転んだりすりむいたりは大目に見てください」。過保護にされて切り傷すり傷を経験しないまま大きくなった小学生に「切り傷すり傷の血が止まらない」現象が見られるとのこと。質疑応答では、「娘が調理に興味を示すようになったので、調理室を子どもがのぞけるように台を置いて欲しい」(検討しますという答え)「有料でもいいので紙おむつを園で処理できないか」(持ち帰りが負担になっているのは理解するが、膨大な量のゴミになるので難しい。やっている園を聞いたこともない、との答え)といった意見が出る。これまで図書館から園が借りていた本を園児に又貸ししていたのができなくなったことについては、「家でいらなくなった本を持ち寄って文庫にしては」という意見が出た。わたしも同じことを思ったので、「本の内容の吟味が難しい」ということで保留に。「うちの子は大喜びで通っています」「園も先生も大好きみたいです」といったお父さんお母さんの声が聞けて、あらためて、いい園に入れてよかったと思う。園主催の総会に続いて、父母会の総会があり、くじ引きで当たりを引いて役員になったわたしも自己紹介した。

7年前に発足した父母会は、小学校でいうPTA。子どもの頃に親がベルマークの仕分けに学校へ来たりするのを見ていたけれど、自分が親の立場で関わるようになる番がめぐってきた。役員になったおかげで、入園早々PTAの世界をどっぷり体験している。活動内容などを話し合う役員会は4月に顔合わせの1回目をやり、先週金曜日に2回目を開催。1〜2か月に一回ペースで開かれるとのこと。公民館を借りた一時間のうち、飢えた子どもたちにおやつを食べさせて黙らせるのに20分、後半20分は集中力が切れた子どもたちが机のまわりを走りはじめ、会議に割けるのは20分がいいところ。駆け足で「ハイ次」と進めて、「あとはメールで!」で解散となる。役員8人中7人の子どもが男の子で、わが家のたまは紅一点。お兄ちゃんたちのパワーに目を丸くして圧倒され、泣くことも忘れていた。いろんな子どもがいて、いろんなお母さんがいて、その中に自分がいることがなんだか不思議で面白い。少し前には想像もしなかったことをやっている。1回目の役員会は土曜日にも関わらず、全員お母さんだった。共働きなんだから、お父さんが来る家があってもいいんじゃないかと思うのだけど。

役員にはそれぞれ役職がつく。0才児クラスの親にはなるべく負担を少なく、と取り計らってくれたものの、わたしが担当することになった会計も十分に忙しい。家計簿もつけたことないのですが大丈夫でしょうか、と引継ぎのときに前年度の会計さんに聞いたら、わたしも数字は苦手だけど何とかなりましたよ、と勇気づけられる。帳簿つけより会費集めが主な役割だという。まずは郵便局へ行って通帳の住所欄を書き換える。名義は父母会のままだけど、住所欄を毎年、その年の会計の名前に書き換えていく。住所欄のスペースは残りわずか、あと何年持つやら。配布用の「会費納入のお願い」を作り、ひさびさにコピーを書いた。わたしのコピーでお金が集まるだろうか。納入率を上げるために、広告会社時代に東京ディズニーランドの広告を一緒に作っていたデザイナーのE君にPOPの制作もお願いした。万単位のファミリーを動かしているE君のクリエイティブが保育園に通用するか、お手並み拝見。

父母会の新聞も役員が交代で編集・発行する。わたしは秋に発行する号を担当することになった。それから、各クラスの父母が親睦を深める懇親会を取りまとめるのも役員の仕事。送り迎えのときに顔合わせするお母さんをつかまえ、名前と連絡先を聞いて回る。同時に場所探しを開始。子連れで大勢でゆっくりできるところ。六義園の茶室を借りられると聞いて問い合わせたり、座敷のある店をネットで調べたり。保育園に預けてなかったらこういう作業も発生していなかったわけだけど、仕事の合間の気晴らし、レジャーと思えばそれなりに楽しめる。

2002年04月26日(金)  『アクアリウムの夜』番外編:停電ホラー

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