2007年04月02日(月)  21世紀のわらしべ長者

ご近所仲間のK氏から聞いた興味深い話。オーストラリアのストロー会社が味つきストローなるものを開発した。ストローの内側に味をすりこんであり、これで牛乳を吸い込むと、即席バナナ味やチョコレート味のミルクセーキになるという代物。一攫千金を夢見て世界各地に売り込みをかけたところ、投資家の目に留まり、ポンと大金がつぎ込まれた。そのストローは欧州のマクドナルドで採用が決まり、作った人も投資した人もハッピーな結果となったという。ストローなだけに「現代版わらしべ長者だ」と感心した。

味つきストローなんて珍しいものを見せられたら、わたしは「これ、いくらで買えるんだろう」と百円単位の想像をしてしまうが、投資家は、「これにいくら投資したら、何年で回収できるか」と億単位の算盤をはじく。ちなみに日本に売り込んだ反応はいまひとつだったらしいが、ソニプラあたりで面白輸入グッズとしてお目見えしたら、味見してみたい。バナナ味とチョコレート味を二本同時に吸い込んだら、バナナチョコレート味になるのだろうか。

2005年04月02日(土)  アンデルセン200才
2002年04月02日(火)  盆さいや


2007年04月01日(日)  歌い奏で踊る最強披露宴

一昨年、会社時代の先輩アートディレクター・Y嬢が開東閣で「踊る披露宴」を行ったとき、出席したコピーライターのK嬢が「結婚披露宴というものは、歌う披露宴、奏でる披露宴、踊る披露宴の順に格が上がる」と教えてくれた。その法則にあてはめると、Y嬢の披露宴は、わたしがかつて出席した最上格の披露宴だったのだが、「歌い、奏で、踊る」を一度にやってのける披露宴が現れた。新婦は会社時代の後輩営業だったユカ。プロを目指してニューヨークでバレエをやっていたという彼女は、個性を競い合うようなユニークな社員ぞろいだった会社の中でも、とくに面白い子だった。披露宴もきっとただごとでないことになるに違いない、という期待に見事に応え、パワフルでハッピーな最強の披露宴をやってくれた。

会場は、ミュージシャンたちが「いつかあのステージで」と憧れる格調高いライブスペース、ブルーノート東京。通常は叶えられないことらしいが、縁あって夢の貸切公演披露宴が実現。入口のボードにはアーティスト名ならぬ新郎新婦の名前が刻まれた。新郎のシンペイさんは沖縄出身。昨夏放送された深夜の連続ドラマ『快感職人』で主役の神宮寺直樹を演じた尚玄とは同じ高校の出身で友人らしい。そんな縁もあって夫妻で『快感職人』を観てくれていた。

開宴から、いきなり踊る。沖縄の結婚式で身内が舞う慣わしという祝いの琉球舞踊を新郎の父が披露。乾杯に続いて食事を楽しんでいると、今度はクラシカルな衣装に身を包んだ神父とおつきの青年が登場し、「ここで人前式を行いたく思います」と宣言。いかにも神父なのに、神前式ではなく人前式? その謎は間もなく解け、「申し遅れましたが、わたくし、新婦の父でございます」で場内は爆笑。神父ならぬ、新婦の父。ローブは東京衣装でレンタルしたとか。「あなたはわたしが手塩にかけ、愛情をかけた娘を幸せにしますか」と新郎に詰め寄る台詞には迫力があり、さらなる笑いと拍手を誘った。「では、指輪と手錠の交換を行います」にも大爆笑。手錠の正体はブレスレット。指輪だと失くしやすいからという理由のよう。

センスのいい招待状のデザインも会場に流れる映像の編集もユカの友人が手がけている。赤がアクセントのドレスは、友人のコムサデモードのデザイナー・池野慎二さんの手によるもの。当日つけていたアクセサリーもすべて手作りしてくれたのだとか。わたしも何かお手伝いできればよかったのだが、抱腹絶倒の神父台本を花嫁に書かれては出る幕がない。

後半はライブタイム。友人たちで結成された生バンドに合わせて新郎新婦が歌い踊り、列席者もステージ前に繰り出して一緒に踊る。はじめて聴いたユカの歌は玄人はだしでびっくり。プロでもめったに立てないブルーノートのステージで、毎日歌っているような余裕と貫禄を見せていた。

ライブを休憩し、ダイナミックに積み上げたドーナツが登場。ケーキカットではなく、口を大きく開けてドーナツを食べさせあうドーナツバイトというのは、いかにもユカらしい。ドーナツは、昨年12月にオープンした新宿サザンテラスの日本上陸店の長い行列が話題になっているKrispy kreme Dougnutのもの。日本初のドーナツタワー(これまたユカの友人の厚意で実現)に、「あれだけ買おうと思ったら、一日並ばないと」と同じテーブルについた広告会社の元同僚たちはどよめく。わたしが知ったのはつい最近だったのだけど、「クリスピークリームドーナツって知ってた?」と聞くと、当然のように「ああ、何度も食ったよ」と言う。「並んだの?」「ロケんとき、ロスで食った」。こういう会話を聞くと、広告業界だなあと思う。

再びライブで盛り上がった後、新郎新婦から両親へのメッセージ。目の前で読み上げると泣いてしまうからか、録画した映像を流した。ユカが幸せをつかむまでに辛い時期を過ごしたことをはじめて知った。うまく口にできないけれど伝えたかったご両親への思いにも胸が熱くなった。あらためて、本当によかったね、と祝福の気持ちがこみあげた。

今日の披露宴はユカとわたしが一緒に仕事した広告会社の懐かしい顔ぶれが大集合していて、同窓会のにぎやかさもあった。再会のチャンスをくれたユカに感謝しながら、「あの頃は楽しかったね」と思い出話に花を咲かせ、「また集まろうよ」と約束しあった。出席した後で新郎新婦のことをもっと好きになれる披露宴は、分けてもらった幸せが余韻みたいに続いて、何よりの引き出物になる。

2004年04月01日(木)  「ブレーン・ストーミング・ティーン」刊行
2002年04月01日(月)  インド料理屋にパコの風


2007年03月31日(土)  マタニティオレンジ102 保育園から美術と家庭科の宿題

保育園の面談時に手渡された「入園までに用意するものリスト」を見て、その量の多さにひえーっとのけぞったものの「まだ半月ある」となめていたら、あっという間に3月末。来週の3日に入園式、4日からは慣らし保育がはじまってしまう。8月31日に焦り出す小学生のごとく、おしりに火がついて母の宿題に取りかかる。やらなくてはならないことは、1)着替えと持ち物に名前をつける  2)シーツに名札を縫いつける。1)については、最初は刺繍を検討してみた。かわいい服に名前を書きつけることに抵抗があったのだ。だが、能力的に無理がある。名前があらかじめ刺繍されたチロリアンテープのようなものを買って縫いつけることも考えたが、こちらはオーダーから納品までに時間がかかり、間に合わない。

どうしようかと思案してたら、「みんなハンコでやってるよ」とご近所仲間で先輩ママのK子ちゃんからアドバイス。洗濯しても落ちないインクがあるという。ハンコならマジックで書くよりかわいいのでは、と飛びつき、ネットで検索すると、おなまえはんこを売っている『印鑑のからふる屋』で手作りゴム版画キットを発見。そういえば、妹のジュンコも「ゴム版は手軽にできて、ポンポン押せて便利よ」と自作の版画をポンポン押した手紙を寄越していた。ならばわたしも、とキットを購入。三角刀一本で小さな消しゴムを彫るのは至難のワザ、と実物を前に実感。漢字は断念、ひらがなも断念、フルネームも断念、カタカナで下の名前だけ彫ることに。でも欲張って、タマ印にたまごをデザインしてみよう、とゴム版初心者ながら無謀な思いつき。細かい部分はコンパスや爪楊枝でほじくり、限りなく「クマエ」に近い「タマエ」が完成。小学生時代から消しゴムでピーターラビットを彫っていた妹と、いきなり肩を並べようというのは甘かった。

早速オムツにポン、ポン、ポン。これは書くより早い。続いて、洋服にポン、ポン、ポン。生地によってつきにくかったり、にじんだり。洗濯タグはつるつるしているので、比較的きれいについたのだが、「アイロンを綿の適温で15秒以上かけてください」というインクパッドの指示に従い、押入れの奥で永い眠りについていたアイロンを引っ張り出して当てていると、ジュッという不吉な音と共にタグは溶けてちりちりになった。洗濯タグって溶けるのか、と呆然。ならば、と服の裏面に押し直すが、なかなかうまくインクがつかず、出来損ないのタマエ卵がゴロゴロ転がり、非常に美しくない。これなら油性マジックのほうがマシだったか。

シーツに縫い付ける名札は家にある端切れで、という指示。普段裁縫をしないので、わが家には端切れは存在しない。ピエールカルダンのよれよれの紳士ものハンカチがいちばん白に近い布だったので、それを切って敷き布団用とかけ布団用の名札を用意。ハンカチを使ったおかげで、四辺のうち二辺を折り返さずにそのまま使えた。慣れない針仕事で何度も指を突き刺したが、18×25センチの名札を二枚、1メートル72センチの距離を縫ううちに多少上達。防災用服(地震などがあったときのために園に保管しておく厚手の上下)用の名札づけは比較的すいすいと進んだ。美術をやったり家庭科をやったり、母親っていろんなことを要求される。

2005年03月31日(木)  「またたび」の就職活動生
2004年03月31日(水)  岩村匠さんの本『性別不問。』
2003年03月31日(月)  2003年3月のカフェ日記
2002年03月31日(日)  レーガン大統領と中曽根首相の置き土産
2001年03月31日(土)  2001年3月のおきらくレシピ


2007年03月30日(金)  生涯「一数学教師」の父イマセン

大阪の高校で数学を教えていた父イマセンは、今日で41年間の教師生活にひと区切りをつけた。工業高校に着任した新米教師の頃は兄貴のような存在だったというが、今では「おじいちゃん先生」と呼ばれている。4年前に60才で定年を迎えたが、最後の赴任校に留まり、講師として教壇に立っていた。父の日記には「いやなことより楽しいことのほうが多かったように思えます」とある。娘のわたしから見ても、父は実に楽しそうに、生き生きと教師をやっていた。教師というのは理想に燃えた人たちであるから、意見や方針の対立でもめたりこじれたりということは多々あったのではと想像するが、父の口から仕事の愚痴や同僚の悪口を聞いた覚えはない。いい意味で欲がなかったのだと思う。こうあらねば、と高い志を追うよりも、今日も楽しく過ごそう、と肩の力を抜いて学校へ向かっているように見えた。

わたし自身は恩師のお子さんに会った記憶は数えるほどしかないが、父の教え子さんにはたくさん会った。うちに来てバーベキューをやったり、体育祭に遊びに行ったり。器械体操を習っていた小学生の頃は、たまたま父が器械体操部の顧問だった時期と重なり、練習に参加させてもらったりもした。幼いわたしにとってまぶしい存在のお兄さんお姉さんに「お父さん、人気あるで」「お父さんの授業、面白いで」などと言われて、おならとダジャレを連発する威厳のない父をうんと見直した。威厳のなさは学校でも同じだったようで、50代になっても60代になっても、「イマセン、かわいい」と言われ続けていた。

教頭や校長になることにはまったく興味を示さず、年下の教頭や校長のことを「あっちが気ぃ遣うて、気の毒や」と愉快そうに言っていた。入った学生寮が学生運動のアジトになっていて、自然と闘争に巻き込まれ、「ネクタイ労働くそくらえ!」な気分のまま就職活動に突入し、教師になったという。そんな父は、「えらくなったら、ちゃんとしたカッコせんなあかんやろ」と言っていた。内心は昇進したい気持ちもあったのだろうか。だけど、一数学教師を貫き、教壇に立ち続けたことは父らしかったと思う。生徒を上から見るのではなく、生徒と同じ目線で接するのが自然な人だった。子どものわたしから見ても、「どっちが子どもなんだか」と思うような無邪気さが父にはある。小学生の頃までメーデーのデモ行進を何度か一緒に歩いたが、「行進の後に何食べよか」を繰り返す父に、子どもみたいだなあと呆れた。でも、組合活動もおまつりにして楽しむおめでたい性格は、うつってしまった。

体操部の後に山岳部の顧問を経た父は、テニス部の顧問になった。部活動の顧問は手当てがほとんど出ないのでサービス残業のようなものだが、テニスが趣味の父は休日も喜んで練習や試合や合宿に出かけていた。夏休み期間中、教師が一緒ならプールで泳いでもいいと言われた女子生徒たちに「イマセン一緒に入って〜」と頼まれ、キャピキャピ水着ギャルに囲まれて水遊びを楽しんでいた(こういうシチュエーションにすんなり溶け込める教師は貴重だと思う)。定年後も名誉顧問の座を与えられ、「俺に買ったらジュースおごったる」と言って勝負を挑んでは、生徒たちに遊んでもらっていた。去年はテニス部のOBたちに誘われ、合宿をやっていた。「日本一楽しいオンライン高校」をめざす父のサイトイマセン高校には、父といくらも年の違わない41年前の教え子から、孫のような現役の教え子までが遊びにくる。生徒以上に学校生活を満喫し、学校を離れても声をかけてくれる生徒がいる。本当に幸せな教師だと思う。教師を父の天職にしてくれた同僚と教え子の皆さんに感謝したい。

父のギャグに二つ先の教室で笑い声が起こり、「今井先生、静かにしてください」と同僚にたしなめられたという逸話を持つ大声も、さすがに少しデジベル数を下げたが、数年前には授業中に前歯が吹き飛んで生徒を仰天させたというから、しゃべる勢いは衰えてないのかもしれない。授業中は白衣を着ていたが、学者風に見せる演出ではなく、筆圧が高すぎてチョークの粉が飛び散ったりチョークが折れたりして、スーツがチョークまみれになるからだった。「子ぎつねヘレン」と板書きし、わたしの作品を宣伝してくれていたらしい。教壇に立つ機会はなくなっても、父をイマセンと慕う教え子たちがいる限り、父は教師であり続ける。41年間おつかれさまでした。そして、これからも、おちゃめなイマセンでいてください。

2004年03月30日(火)  鴻上尚史さんの舞台『ハルシオンデイズ』
2003年03月30日(日)  中国千二百公里的旅 中文編
2002年03月30日(土)  映画『シッピング・ニュース』の中の"boring"


2007年03月29日(木)  ターバン野口

読売新聞の青鉛筆というコラムに、千円札を折って作る「ターバン野口」なるものが人気、と紹介されていた。千円札って夏目漱石じゃなかったっけ、と言っているわたしは相当遅れているが、ネット上ではとっくに話題になっていて、発案者による公式サイト『ターバン野口の世界』によると、『お札DEおりがみ 公式「ターバン野口」のつくりかた』という本まで出ている。世間では、学食や仕事帰りの飲み屋で「これ知ってる?」などと言いながらワイワイ折っているのかもしれない。

諭吉(一万円札はこの人で合ってるはず)は留守がちでも、千円札ならたいがいの財布に入っている手軽さも受けている理由だと思うが、福沢諭吉でも樋口一葉でもなく「野口英世×ターバン」の相性の良さに吸引力があるのではないか。子どもの頃に読んだ伝記に載っていた南方系の濃い顔立ちが印象に残っている人は多いだろう。一瞬意表をつかれるけれど、ターバンを頭にのっけた姿には「ああ、やっぱり似合う」というしっくり感がある。他に「キューピー野口」「ベレー帽野口」「ピエロ野口」「ヘルメット野口」といったバリエーションがあるようだが、「ターバン野口」のインパクトと説得力には及ばない。

早速わたしもお札折り紙に挑戦。やってみると、なかなか難しく、折り曲げたお札がうまく頭に乗っからない。新聞に載っていたターバンは、お札の模様がボタンのように見えてターバンらしさを醸していたが、同じようにはいかず、巻きつかせるのが精一杯。試行錯誤の末、「1000」がアクセントのターバンが完成。

2003年03月29日(土)  中国千二百公里的旅 厠所編
2002年03月29日(金)  パコダテ人トーク


2007年03月28日(水)  マタニティオレンジ101 ビクス仲間のレイコさん

3月は別れの季節。マタニティビクスで共に汗を流し、出産後はべビーヨガ仲間となったレイコさんは、4月からダンナさんの待つ徳島へ帰ることになった。ダンナさんの出張が多いこともあって、約一年の長い里帰りとなったのだけれど、おかげで共におなかを膨らませ、共に子どもを大きくしながら、じっくり友情を育むことができた。

この人と出会えただけでも妊娠・出産はもうけもの、と思える出会いに恵まれているけれど、レイコさんもその一人。目鼻立ちのはっきりした華やかな美人なのに、中身は肝っ玉チャレンジャー。哺乳瓶と乳首の組み合わせを片っ端から試したかと思うと、粉ミルクは棚に並んだ全種類を買って飲み比べ、最後に自分の母乳も味見して、「母乳がいちばん」と結論。以前『探偵内とスクープ』という番組で母乳プリンを作っていた話をすると、「卒乳制作で作ろうかな」と乗り気。この人の場合、口だけでなく、本当にやりかねない。自らを実験台にして、何でも「試して合点」してしてしまう。薬学部出身と聞いて、納得。専門分野だから薬のことはとても詳しい。ママ仲間から薬のレクチャーを受けることになるとは。

育児ストレスで母乳の出が悪くなったときは、本場・宝塚までひとっ飛びして大好きな宝塚歌劇を鑑賞。いい感動で母乳が回復し、「幕間にトイレで搾った」と携帯メールを寄越してきた。歌劇好きで、過激なレイコさん。マタニティ作品を書くときには、ネタにさせていただこう。徳島に戻ったら、出産前に入りなおした歯学部での勉強を続けるとのこと。歯医者さんになるかどうかは決めていないそうだけど、ネタ満載で普通に話していることが笑い話になるレイコさんが歯医者さんだったら、つい大きな口をあけてしまいそうだ。

最後のベビー&ママヨガのクラスに出た後、ランチをしながら、楽しかったね、これからも連絡取り合おうねと話す。「これ、記念に」と差し出されたのは、ビーズで編んだブレスレット。行動力はあるけれど手作りは苦手だと思っていたら、こんなものが作れるの、とびっくり。「ごめん。仲間だと思ってた」と言ったら、「子どもができて、こういうこと、したくなったんだよね」とレイコさん。ビーズ細工は初挑戦、本も見ずに自己流で作ったとは思えない出来。会うたびに驚かせてくれる人だった。東京はちょっと淋しくなるけど、徳島はちょっとにぎやかになるかな。

2005年03月28日(月)  『ダ・ヴィンチ・コード』で寝不足
2003年03月28日(金)  中国千二百公里的旅 干杯編


2007年03月27日(火)  『子ぎつねヘレン』地上波初登場と富士フイルム奨励賞受賞

先週水曜日の3月21日、わたしが脚本を手がけた四本目の長編映画『子ぎつねヘレン』が地上波に初登場。しかも、21時からのゴールデンタイム。普段は水曜ミステリー9を放送しているテレビ東京のこの枠には昨年5月に放送された『ドクターヨシカの犯罪カルテ』についで二度目の進出となる。放送時間に合わせて本編を5分ほどカットしたと聞いていたのだけれど、正直、どこを切ったのかほとんどわからなかった。「獣医大学って看板、出なかったよね?」などとダンナと間違い探しを楽しみながら観たけれど、5分もつまんだ感じはしない。CMの入り方もあまり気にならなくて、これならテレビ版でも味わって観ていただけたのでは、とほっとした。劇場で観られなかった人から「やっと観れた」「よかったよ」という声が届く。録画して観る人が多く(オンエア時は『愛ルケ後編』を観てたのかも)、放送直後よりも2、3日経ってからの反響のほうが多かった。

公開時のお祭り気分に加えて、関連本も作れて、DVDにもなって、公開一年後にテレビ放送というイベントまでついてきた。作品をわが子にたとえれば、あの手この手で親を楽しませてくれるヘレンはとても親孝行だ。ちょうど先週、所属している協同組合日本シナリオ作家協会から著作権使用料の振込み通知が届いた。ドラマが再放送されたり、映画がテレビ放送されたり、ドラマや映画が海外に売れたりすると、作品に関わった著作権保持者に規定量の著作権使用料が支払われる。CSで抜き素材として一瞬流れただけでも、きちんと徴収して振り込まれる。支払われるお金もありがたいけれど、何よりうれしいのは、自分の作品の「近況」を知れることだ。テレビドラマ『ブレスト〜女子高生、10億円の賭け!』は海外で放映されたらしい。著作権使用料は1362円だけど、あの女子高生トリオが海を渡ったのか、という感激に値段はつけられない。著作権は作品の親(たくさんいるけど)である証であり、作品との絆だと思うから、ギャラを値切られても、この権利は守る。

テレビ放映が関係者にいちいち伝えられないのと同様、賞関係のニュースもなかなか脚本家の耳には入ってこない。今日授賞式が行われた第16回日本映画批評家大賞で『子ぎつねヘレン』が冨士フィルム奨励賞を受賞したことは、知人で映画ライターのコバリアキコさんからの「おめでとう」メールで知った。公式サイトの情報はこの日記を書いている4月7日現在昨年度の受賞作品発表から更新されていないけれど、いまいまさこカフェの常連、岡山のTOMさんがcinema topics onlineのレポートを見つけてくれた。映画批評家だけが選考するというユニークな賞での受賞はうれしい。地上波登場から一週間足らずの間に、またまたヘレンの親孝行。

2005年03月27日(日)  今井家の『いぬのえいが』
2003年03月27日(木)  中国千二百公里的旅 食事編
2002年03月27日(水)  12歳からのペンフレンドと3倍周年


2007年03月26日(月)  マタニティオレンジ100 1%のブルー

書きたいことが尽きないものだと我ながら感心してしまうけれど、マタニティオレンジの記念すべき100回目は、タイトルに反してマタニティブルーのことを書こうと思う。「本当に楽しいことばかりなんですか?」と何人かに質問をもらった。実際、本当に楽しんでいるけれど、妊娠してからずっと笑っていたわけではない。妊娠・出産・育児をしなければ味わわずに済んだ怒りや悔しさや悲しさはある。妊娠を知ってから400日余りの間に4日ぐらいは落ち込んでいた。99%はユカイだったけど1%はフカイだったというわけで、100話目にブルーの話。

はじめての出産だったけれど、マタニティビクスと助産院という心強い味方を得て、不安は最小限に抑えられた。けれど、妊娠中の二度の出血にはドッキリ、ヒヤリ。出血といっても点のような小さなものだったけれど、妊娠がわかって間もなくの一度目は血相を変えて近所のレディースクリニックに駆け込んだ。ちゃんと心音は聞こえているし、大丈夫でしょう、と言われてようやく動悸が静まったけれど、自分の狼狽ぶりを見て、もうおなかの命と一体感ができているんだなあと実感した出来事だった。二度目は妊娠後期で、前夜に長い打ち合わせをしたことが原因だと思われた。5時間も座りっぱなしでは、子宮だってエコノミークラス症候群になりかねない。このときは助産院に電話すると、「一日様子を見てから来たら?」と助産師さん。落ち着いた口調から「それほど心配しなくていいよ」のニュアンスを聞き取って安心したが、このときは「ここまで大きくなって、もしものことがあったら……」と焦った。二度とも出血はすぐにおさまったし、わたしのように問題ないケースが大半らしいが、中には危険な場合もあるという。いずれにせよ、二度の出血は、おなかの中からのSOSだったのだろう。一度目は、「おなかはまだ目立ってないけど、ここにいるんだから、いたわってね」というサイン。二度目は「仕事より大事なものが、ここにいるよ」というサイン。そう受け止めて、生活や仕事のペースを見直したことが、結果的には「出血しても問題なし」になったのではないかと思う。

泣いたことは二度あった。一度目は、妊娠6か月のゴールデンウィーク。大阪から遊びに来たダンナ弟一家とともにダンナの実家で食事をしたとき、「もうお子さんの名前は考えているんですか」とダンナ弟妻のノリちゃんに聞かれた。「うん」とわたしは元気よく答え、「男だったら優人(まさと)、女だったら舞子(まいこ)」と続けた。すると、「あらあら、楽しみがなくなっちゃったわね」とダンナ母。しまった、と思ったけれど、遅かった。その帰り道、「考えているかどうかだけ答えればよかったのに、なんで名前までばらすんだよ」とダンナになじられた。その言い方がきつくて、歩きながら、わたしはボロボロ泣いた。「ケチつけないでよ。人が機嫌よく妊娠してるのに」と言いながら泣いた。泣くほどのことじゃないと思いながらも、泣いてしまうと気分がすっきりと軽くなった。涙にはデトックス効果があるというのは本当だ。泣かせるつもりはなかったダンナはオロオロして、気の毒だった。「もういいよ。ケチついた名前は使わない。優人も舞子も使わない」と言うわたしを、「名前にケチつけたわけじゃないよ」とダンナはなだめた。この事件のせいじゃないけど、結局、違う名前になった。

二度目に泣いたのは、出産後。助産院から退院して自宅に戻った日だった。8月21日の夕方に破水して、あたふたと飛び出したきり。一週間も家を空けたのは『子ぎつねヘレン』のロケ以来。ひさしぶりのわが家でのんびりしたい、というのが本音だったけれど、命名式というものを急遽うちでやることになっていた。大阪から泊まりで手伝いに来ていたわたしの母に加えてダンナの両親と妹がやってきて、ダンナ母が用意した赤飯やサラダをテーブルに並べていった。汁物だけはうちで作ることになったのだが、ダンナ母は「あなたは寝てなさい」と言ったかと思うと、「どこに何があるか、さっぱりわかんない」と言い出す。いつも以上にはりきっていて、いつも以上にはっきりものを言うのが、産後で体も頭もぼーっとしているわたしには重かった。明らかにやり方の違う二人の母が台所に並んで、ぎくしゃくと息の合わない共同作業で汁物をこしらえる光景も、見ていていたたまれなかった。なんで、こんなことになってるんだろう。なんで、自分の家なのに落ち着かないんだろう……そんなことを考えていると、だらしなく膨らんだ子宮に悪いガスが溜まっていくみたいだった。

それでも食事は和やかに進み、ダンナ妹が達筆で色紙にしたためた名前は拍手で迎えられ、いい時間だった。さっきイライラしちゃったのは、疲れていたせいだったんだなと思った。いったん静まった感情の波が再び荒れたのは、トイレに入って、窓辺に並べたインク瓶のアイビーがそっくり消えていることに気づいたとき。母を問い詰めると、「枯れてたから捨てた」と言う。一週間の間にインク瓶の水は干上がり、アイビーの根は乾いてしまったようだ。それなら仕方ない。けれど、母が捨てたものは他にもあった。花瓶カバーに使っていたアメリカ土産の花柄の紙袋が、ビニール袋に突っ込まれているのを見つけて、「なんてことするん!」とわたしは噛み付いた。「埃まみれでボロボロやん」と母は言ったけれど、わたしには大切な小物だった。そのビニール袋には、他にも一見ガラクタだけれどわたしには意味のあるものが一緒くたにされていた。「勝手なことせんといて!」怒りが爆発した。

だが、実際には、母は捨てたのではなく、どけておいたのだった。ダンナ両親の目につかぬように。娘の暮らす部屋が少しでも見映えが善くなるようにと、早めに着いたダンナ妹とともに精一杯のことをしてくれたのだ。「あのままを見せるわけにはいかへんやろ」。ダンナ両親とダンナ妹が帰った後で、母はため息をつきながらそのことを話した。ごめんね、と謝るべきなのだろう。ありがとう、と感謝するべきなのだろう。でも、「余計なこと、せんといてくれたらよかったのに!」と憎まれ口しか出てこない。頭に血がのぼって、あっちこっちへ飛び出した感情のこんがらがってしまった。トイレにこもって、わあわあ泣いた。本当はこんな言い争いなんかしたくなかった。子どもを産んで、一週間足らずの育児で、母親の幸せと大変さを知った。自分やダンナもこんな風に生まれて育ってきたんだなと思い、自分の母親にもダンナの母親にも今まで以上に感謝と尊敬の気持ちを抱いた。なのに、なんで、二人の母に苛立ち、娘のためにやってくれたことに文句を言ってしまうのだろう。無性に悲しくて、やりきれなかった。泣きじゃくるわたしの声はドアの外にも聞こえていたはずだけど、母は何も言わなかった。ダンナはわたしの頭をぽんぽんとたたいて、「みんながんばってるよね」とだけ言った。わたしだけの肩を持つのではなく、みんなを持ち上げる。とんちんかんな慰め方だ、とそのときは物足りなく感じたけれど、みんな良かれと思ってやっているのにうまくいかない、なんでだろね、というもどかしさをわかって分かち合ってくれていたのだと思う。

ひとしきり泣いて、またもやすっきりして、あっと気がついた。8月22日の出産当日を出産0日目とカウントするから、今日は出産5日目。産後の憂鬱を表すマタニティブルーは5日目でピークを迎えるという。いつもだったら口ごたえひとつで済むようなことに目くじらを立て、泣き喚いてしまった原因は、これだったのかもしれない。精神的にいちばん不安定なタイミングに、神経をすり減らす出来事が重なってしまったのだ。思えば、高校を出て以来、母を離れた年月が母と暮らした年月を上回ってしまっていた。そんな母娘がいきなり息ぴったりで一緒に暮らせるはけがない。母が大阪へ戻るまでの一週間をかけて、母が手を差し伸べたいこととわたしが頼みたいことの折り合いがようやくついた。

娘を授かって良かったなと思うのは、母の気持ちに少し近づけたことだ。母は娘が何才になっても大人になっても母になっても、娘を必死で守り支えようとする。突っぱねられても、感謝の代わりに文句を言われても、どこまでも母であろうとする。そういうせつない生き物なのだということを知れたことはよかった。母との関係で泣くことはもうないのではと思うけれど、娘との関係で泣かされることはあるだろう。そのときもっと母の気持ちに近づけると思う。

2006年03月26日(日)  ヘレンウォッチャー【都電荒川線編】
2005年03月26日(土)  映画『いぬのえいが』→舞台『お父さんの恋』
2003年03月26日(水)  中国千二百公里的旅 移動編
2002年03月26日(火)  短編『はじめての白さ』(前田哲クラス)


2007年03月25日(日)  マタニティオレンジ99 たま7/12才とインターナショナル

3日遅れで、8月22日生まれの娘のたまの7か月を祝う。6か月からの一か月は、いったん横ばいになったかに見えた成長曲線が、再び上向いたように感じられるほど、「いつの間に、こんなことが!」の発見に満ちていた。おすわりが決まり、だっこされてのタッチも安定するようになると、自由になった両手がいたずらへ向かう。コンセント、コートのフードの紐、カーテン、お風呂の水栓……ぶら下がっているものは何でも引っ張る。ときどき力の掛け方と方向がうまく合うと水栓は抜けるけれど、どうすればそうなるかはまだ学習できていない。器に盛ったいちごの山に手を突っ込んでいたのが、その中から一粒をつまみ上げようとするようになった(まだうまくはつかめない。UFOキャッチャーのようなもどかしさがある)。

ズリバイで興味の対象へ突進し、手当たり次第つかんでは口に入れる。倒れると危ないので横向きに置いた全身鏡に映った自分も舐める(ナルシスト?)。ベビーラックの車輪を手で回したり、椅子に掛けたジャケットの袖を引っ張ったり、上体をそらせて両手でキャッチしたドアを押したり引いたり。好奇心いっぱいの目をキョロキョロさせて、床上20センチの世界で次々と遊びを見つける。鏡なんか舐めて不衛生ではないか、ドアの角で顔を傷つけないか、と気を揉みながらも、変な味や痛みを覚えることも必要かもしれないと思って見守っている。たま語は「ごえごえ」「んげー」を経て、最近はバとパを連発する。「バアバアバア」「パアパアパア」。ばあばと言ったわ、パパと呼んでるぞ、とダンナ母とダンナは喜んでいるが、わたしとじいじは面白くない。

12分の7才誕生会のマンスリーゲストは、「ハウス」と愛称で呼んでいた京都国際学生の家ゆかりの友人たち。日本人と留学生が暮らすこの寮は、わたしが大学一年生のときに下宿していた家のすぐ近くにあり、ちょくちょく遊びに行っていた。そのおかげで、日本の大学に通いながら留学生活のような刺激を味わえた。ダンスパーティでノリノリになって踊るわたしに、当時流行っていたMCハマーにちなんで「Missハマー」とあだ名をつけたのは、ブラジルからの留学生のリカルド。彼はブラジルの名士の御曹司らしく、「ブラジルのボクの部屋は、ハウスより大きい。ボクのハウスの部屋は、犬小屋のサイズ」と言っていた。シンガポールとマレーシアを旅行したときは、里帰り中の寮生の実家に泊めてもらった。大阪でインド人一家を隣人に育ち、高校時代にアメリカ留学をしたわたしは、ハウスに出会って、It's a small worldという思いをますます強くした。ここの住人であったダンナとは、ハウスのパーティで知り合ったので、ハウス関係者は夫婦共通の友人ということになる。


誕生日ケーキを用意してくれたテスン君は、ハウスに住んでいたチョン・テファさんの弟さん。奇しくも今日がご自身の誕生日だということで、自分用のメッセージプレートまで用意していた。手焼きクッキーのメッセージプレートにもセンスが光るケーキは、創作菓房アランチャのもの。一月にわが家に集まったときに持ってきてくれたケーキとマシュマロの完成度にも驚いたけれど、今回のホールケーキもキャラメルとナッツの香ばしさがアクセントになっていて、舌が恍惚となるおいしさだった。

食事をしながら思い出したのだけど、ハウスのイベントに、寮生たちが自国の料理を作ってふるまいあうコモンミールというものがあった。宗教上の理由で牛がダメ豚がダメという人たちも一緒においしさを分かち合う。その味の向こうにある国に思いを馳せる。食事は人と人の距離も近づけるけれど、国と国の距離を近づけると思った。ハウスのような面白い場所に出会えるかどうかはわからないけれど、たま(今回のメッセージプレートで明らかになったけれど、本名は珠江という)にもいろんな国の人と食事や会話を楽しめる機会を持って欲しい。そして、スパイスが混じりあって料理の味に深みをもたらすように、肌の色や言葉や国籍の違う人との交流が人生をより味わい深くしてれることを知って欲しいと願う。

2006年03月25日(土)  丸善おはなし会→就職課取材→シナリオ講座修了式
2005年03月25日(金)  傑作ドイツ映画『グッバイ・レーニン!』
2002年03月25日(月)  脚本はどこへ行った?


2007年03月24日(土)  マタニティオレンジ98 たまごグッズコレクション

男か女か産んでみてのお楽しみにしていたから、たまごにちなんで「たま」と呼んでいたのが、産んだときにはすっかり「たまちゃん」が定着。用意していた名前を変更して、たまで始まる名前をつけることになった。だから、たまの名前の由来は、たまご。ご近所仲間のT氏とM嬢が「たまちゃんプリン」とたまご型のカップに入ったプリンを持って来てくれたときに、わたしがハートグッズを集めるように、たまはたまごグッズを集めたら楽しいなと思ったのだが、たまご製品は世の中にあふれていても、たまごグッズとなると、なかなかない。そう思っていたら、思わぬところで、たまごグッズの金脈を掘り当てた。先日『はらぺこあむし』のエリック・カールのフェアではじめて足を踏み入れた教文館のショップの一角にイースターコーナーがあり、色も形もかわいらしいたまごグッズが顔を揃えていた。そうか、イースターがあったか、毎年この季節がめぐってきたら、たまごグッズコレクションをふやしていけばいいのか、とうれしくなる。イースターは三月下旬と思い込んでいたが、毎年時期が変わるらしく、今年は4月8日とのこと。

買い求めたのは、イースターエッグ(3つで189円!)、イースターエッグ柄の紙ナプキン、たまご型の木製パズル2種類。パズルはワークスみぎわという通所授産施設の木工品。ホームページによると、この施設では「知的障害を持つ人たちが、木工品の製作や紙すきの作業を通じて自分の隠れた能力を見つけ、働くよろこび、社会に役立つよろこびを学び、自立するための力をたくわえようと努力を続けて」いるという。手作りのあたたみとセンスの良さが感じられ、とても気に入った。今は何でも口に入れてしまうから危険だけれど、このパズルで遊べる日が楽しみ。

2006年9月10日 マタニティオレンジ5 卵から産まれた名前

2002年03月24日(日)  不動産やさんとご近所めぐり

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