NM Syndrome DiaryINDEX|past|will
今日はスノームーンだけどあいにくのお天気なので見られそうもない。 その代わり昨夜の明るさは凄かった。 少し歪な丸い月が皓々と輝き庭を昼間のように明るく照らしていた。 それはそれで少し恐ろしい。 あまりにも冴えた月の光はこの世のものではないものを映し出すようで恐ろしく思えるのだ。 そんなふうに思うのも「陰陽師〜生成り姫」を一気に読んだせいかもしれない。 短編かと思って読み始めたら短い章に区切られた長編だった。 博雅の恋。 というにはあまりに深く尊く哀しい。 もしもあの時、受け取った芍薬に博雅が返していたなら姫は鬼になることもなかったのだろうか。 今頃は博雅の笛と徳姫の琵琶が仲睦まじく響き合っていたのだろうか。 詮無いことだけを考えてしまう。 鬼になりかけの、鬼でもない人でもない存在を「生成り(なまなり)」という。 生成りになった徳姫にどんな貴女も愛おしいと真っ直ぐに言える博雅。 博雅の笛に送られて人として消えられたのは徳姫にとって救いになっただろう。 例え自分の心であってもままならない。 鬼になりたくなくても鬼になってしまう。 誰の心にも鬼は棲んでいる。 「もしも、このおれが鬼になってしまったらどうなのだ」と博雅は問う。 「博雅よ。もしも、おまえが鬼になってゆくとするのなら、おれはそれを止めることはできぬだろう」と晴明は応える。 「もしも、それを止めることができる者がいるとするなら、それは、おまえ自身だ」 そして、おまえが鬼になろうというのなら、それは誰も止めることができぬのだよ、と。 「おれは、鬼になってゆくおまえを救うことはできぬ」 しかし。 「しかし、博雅よ。これだけは言える」 もしも、おまえが鬼になってしまったとしても、この晴明は、おまえの味方だということだ。 人を思うということはかくも強くもなり、かくもおぞましくもなり、かくも哀しくもなり、かくもあさましくもなり、かくも尊いものにもなる。 どれを選び取るにしてもそれは自分自身。 鬼になるのもならぬのも自分自身。 本性は変わらぬと。 だから博雅は言う。 「いつかも言ったことがあるが、たとえおまえが人でないものであったとしてもだ、この博雅はおまえの味方だぞ」 「おれが妖物であってもか」 「晴明は、晴明ではないか」 もしも、おまえが妖物であったとしても、人ではない何かであったとしても、おまえはおまえではないか。 博雅と晴明と。 人に繋ぎとめているのはどちらだろう。
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