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2016年02月27日(土)
『Liebesträume〜愛のオブジェ〜』写真展

『Liebesträume〜愛のオブジェ〜』写真展@PROMO-ARTE PROJECT GALLARY

前日の『原色衝動』に続き、白井剛三昧。2014年に上演された、横町慶子×白井剛のライヴパフォーマンスの写真展です。撮影は萩原美寛。

Facebook(下記リンク参照)に展示迄の詳しい様子が萩原さんのコメント付きで書かれています。「公演がそうであるように小さな生活のエピソードの断片がコラージュしてある」「ですから展示もどの位置からもエピソードが見えるように意識しました」。「写真による再演」で、またあの作品に、あの世界に会うことが出来た。嬉しかった。ふたり並んで歯みがきをするショットは、ウキウキするような気持ちが瑞々しく甦って思わずニッコリ。あのシーンすごく好きだったな、脳内で細野さんの曲が流れます。あのあとドライブに出かけるんだよ。

・細野晴臣/The House of Blue Lights

この曲ね。

ところどころ、ふたりがそっくりに見えて驚く。髪を下ろした白井さんのあるショットを、しばらく本気で横町さんと見間違えていた。顔立ちは全く似ていないのだが、白井さんの持つフェミニンな空気がそうさせるのか、一緒に作品をつくりあげていく過程でそうなっていったのか。勿論全く違って見える場面もあり、柔と剛、直線と曲線、男性と女性、という違いを強く感じるショットも多い。全身を思いのままに動かすことが出来るひとと、左半身を思うように動かせないひと、という違いも。サーブやリフトといった振付からハグ、それ以上の情熱を感じさせるコンタクト、そしてふれあわないままのダンス。それを追い、見つめる視線。お互いがお互いに乗り移るような瞬間もある。白井さんが激しく踊るとき、傍には身体を横たえた横町さんがいて、彼をじっと見ている。その目には、彼と一緒に激しく踊る彼女も映っているのだろうか、などと思う。

会場には萩原さん、白井さんのコメントと、公演時に配布された横町さんのごあいさつ、貫成人による舞台レヴューも展示。レヴューの文面は文字数の関係か? 展示とカタログ掲載のものが若干違っていた。カタログにはない、とある段落にいたく感じ入る。心のなかで頷く。それにしても、今作も『原色衝動』も、白井さんのコメントが産みの苦しみというか、他者と深く関わることに対しての傷について語っているのが興味深い。

そうそうカタログ。展示とはまた違う写真の質感でこちらもとても素敵な仕上がり。手元におくことが出来て、ウチで好きなときに開いて観られるなんて嬉しい。横町さんと、公演にテキストを提供した島田雅彦の対談も掲載されています。

在廊していた萩原さんと少しお話出来ました。こちらに警戒心を抱かせない、とても穏やかな方でした。「再演…あるといいですよねえ」「そうですよね! 待ってます」。再演を待っている。でも、急いではいない。その間、写真展のことを思い出し、カタログを見ることが出来る。

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・Liebesträume〜愛のオブジェ〜写真展|プロモアルテ ギャラリー
・『Liebesträume〜愛のオブジェ〜』写真展|Facebook

・脳波で楽しむ現代音楽の新表現 白井剛×中川賢一×堀井哲史 - インタビュー : CINRA.NET
どうにもこうにも日程が合わず諦めたんだけどこれも観たかったよ〜



2016年02月26日(金)
『原色衝動 ダンサーズ イン ザ パラダイス』

『原色衝動 ダンサーズ イン ザ パラダイス』@世田谷パブリックシアター

白井剛×キム・ソンヨン×荒木経惟。そしてADは榎本了壱。これは気になるってなものです。昨年秋、京都芸術劇場で初演(このときのサブタイトルは『パラダイスでインパルス』)された際のキャッチフレーズが「天才アラーキーで遊ぶ!」でしたので、なんだか楽しそうな内容なのかな? 白井さんのコミカルな部分が観られるのかな? と思っていました。

・【原色衝動】紹介動画|channel 京都芸術劇場

これもなんだか楽しそうな映像でしたし。かわいらしさすらあるじゃないのー。

しかしフライヤー等の宣美はそうとも言えない空気感。動きのあるモノクロームの人物写真と、毒々しい色合いの静物写真のコントラストに魅かれます。果たして出かけていってみれば、緊張感溢れる艶やかな公演でした。

使用された映像はアラーキーの『往生写集−東ノ空・ꟼARADISE』から。ステージ後方に貼られた布や床に、華やか、しかし泥臭い色彩が溢れる。布は複数の層に分かれている。スクリーンとして使うものと、カーテンとして使うものと。スクリーンに映る写真をカーテンで一部しか見えないようにする。隠すように見せるところが、ストリップを思わせて艶めかしく魅力的。映像設計は山田晋平。

序盤は無音、これが長い。静まり返る観客が見守るなか、ふたりはゆっくりと肌が触れ合うスレスレ迄近付き、そして離れ、を繰り返す。身体も、顔も。胸も、腕も、頬も、唇も。これがエロティック極まりない。文字通り固唾を呑む、その音が自分だけでなく隣席のひとにも聴こえてしまいそう。いや、実際聴こえていたと思う。同様に隣のひとの、唾を呑み込む音が聴こえたから。これはもう、お腹なんか鳴らせません(笑)。そういう意味でもすごい緊張感でした。実質二列目だったんだけど、ここでお腹鳴らしたら確実に三階席迄聴こえたであろう……。映像は沼のように音もなくたゆたう、そのなかを泳ぐように、ふたりはしなやかに踊る。魚みたいだ。ああ、これは三階席から全景を観たかったな! と思うと同時に、息遣い、匂いすらも伝わりそうな前列でふたりのふれあい(触れてなくても)を観られたのは貴重な体験。

「新種の爬虫類が組んず解れつ、別世界のラブシーンが見たいね。どっちが武蔵で小次郎か、これは新しい決闘だよ」。本公演に際してのアラーキの言葉だが、いやーあれはラブシーンですね、本当に。美術(杉山至。『同じ夢』も彼だったなあ、両極を観た思い)の他にあるのは椅子と怪獣のビニール人形、ときにスネアドラム。舞台袖の機構も見える。天井の高いSePTにふたりきり、その空間の広さと反比例して覗き見している感覚に陥る。ふと目をやれば、カーテンで仕切られた隙間には人形の目。

アラーキーは声で出演(?)も。宣材写真を撮影したときのものだろう、「いいよ!」「決闘だよ、決闘!」と言った声、続いて韓国語に通訳された言葉がとぶ。モノクロの写真に血を連想する。ふたりの衣装も黒一色なのに、生命と情熱を連想させる赤い血が脳裏に浮かぶ。ふれあわないラブシーン、ふれあう格闘(そうそう、他にこういうジャンルを知らないので見当違いかもしれないが、contact Gonzoを思い出すようなシーンもあった)。ふれていないのに傷が現れるよう、血が流れるよう。生には必ず死がついてくる。ここ数年のアラーキーは、死と戯れるように写真を撮る。「今は死神が言い寄ってきてっから、この死神をどかせないと」。『往生写集』を撮っているとき(2013年末。写真集の刊行と写真展は2014年春)、彼は右目を失明している。死に向かい乍ら踊るふたりのダンサーの姿に、生命の軌跡を見る思い。

ふたりのチャームに思わずクスッとする場面もあったが、終わってみれば格闘技の試合を観たような気分。カーテンコールではこちらが一息ついた。

ツナギのようなソンヨンさん、ノースリーブの白井さん。ダンサーの身体の動きにピタリと添うような、それでいてゆったりとした清川敦子の衣装も素敵。要所要所でガツンとくる原摩利彦の音楽も印象に残りました。

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・『原色衝動』|世田谷パブリックシアター

・『原色衝動』trailer movie|SetagayaPT


・プロジェクション・コントロール 〜Modul8を使って|Digital Imaging|AMeeT
“舞台に映像をプロジェクションしながらの画像調整は、必要不可欠な作業である。というのも、PC上でつくった映像(素材)を、そのモニターに表示されている通りに舞台上に投影することはまず不可能だからだ。そもそもそれを目標とすることにあまり意味がない(もちろん舞台上で素材が「うまく投影されている」イメージをもっておくことはとても大事なことだが)。”
山田晋平さんのお仕事、オペレーションの話と使用ソフトについて。維新派とかも手掛けてるんですね。照明との掛け合い等、こういうところに注目しつつ公演を観るのも楽しいかも



2016年02月24日(水)
National Theatre Live IN JAPAN 2016『夜中に犬に起こった奇妙な事件』

National Theatre Live IN JAPAN 2016『夜中に犬に起こった奇妙な事件』@TOHOシネマズ日本橋 スクリーン3

2014年に上演された日本版の感想はこちら

2012年の初演版。演出はマリアンヌ・エリオット。主人公クリストファーはルーク・トレッダウェイ、彼のよき理解者・助言者である教師シボーンはニアマ・キューザック、父エドはポール・リッター、主人公に重大な秘密を明かすことになるミセス・アレグザンダーにユーナ・スタッブス。他に五人が出演、計十人で複数の役を演じます。上演劇場のコッテスロー・シアター(現在は改装されドーフマン・シアター)は可動式の機構。今作はアリーナ形式で、四方を客席がぐるりと囲む仕様。キューブで仕切られただけの舞台で、最前列は本当に目の前、といった近さ。

アクティングスペースのフロアにはグリッドラインが引かれている。グリッドにはライトが仕込まれており、明滅する光の線は場面転換のガイド、個々のシーンを成立させる見立て、登場人物の立ち位置、振付のための所謂バミリといった役割を果たす。そしてそのグリッドをガイドに主人公は絵を描く、レゴのレールを敷く、そして目的地を目指して歩く。まるでヘンゼルとグレーテルが落としたパンくずのように、見えぬ道を照らすライトは主人公の心情や行動の指針としても表現される。フロアにはそのライトだけでなく、映像も映し出される。他にも役者がフロアに横たわって座る、歩くといったような、立体を平面に見せる「上空」を意識した演出が多く見られた。主人公が夢見る宇宙飛行士の視点でもある。あるいは優れたアスリートが持つ空間認識能力の高さを示すものでもあると思われる。

劇場は三階席迄あるそうなので、上から観る光景はさぞや美しかっただろう。実際映像には鳥瞰(真上からも!)カメラの視点が多用されていた。これは現場では見られないものだ。とても楽しめた。余談だが先週『僕のリヴァ・る』を観たとき「ああこの舞台、真上から観てみたい!」と思った視点があったことがなんとなく嬉しかった。舞台構造や客席配置にも通じるところがあったな。こういう連続する偶然性は楽しい。

登場人物はときにグリッドに沿い直線的に動く。それは主人公が見て考えている光景でもある。しかし家出をした主人公が駅で遭遇するのは混乱の極みともいえる光景だ。視覚も、聴覚も、その情報量を処理しきれない。同時に流れるアナウンスの量、歩きまわっているひとたちの数……このなかを平気で歩けるということは、ある種の感覚を閉ざしているということだ。自分を振り返り改めてぞっとする。主人公を恐慌に陥れるものを量として見せる、非常に数学的で明快だ。音と映像の洪水、そして主人公の行く手を覆う肉体でその質量を見せる演出が効果的。過剰とも感じるくらいだが、主人公の感覚は状況をこう受けとるのだと解釈すればとても自然なことだ。

数学の世界に社会の曖昧さがぶつけられる。一幕終盤、主人公が誰と暮らせばいいのか「一緒に住めない理由」をあげて悩む場面がある。その理由を言う度に観客が笑う。主人公の焦燥を社会は理解出来ない、その苦しさ。あまりにやりきれない思いで幕間に入ってもしばらく立てなかった。そしてトイレ並びに出遅れた(笑)。

心が寄るのはやはり父親、というのは変わらなかった。壁は高い、時間は長い。それでも彼と息子はいつの日か、再び掌を触れ合わせることが出来るだろうと信じたい。そして教師。幕切れで僕は何でも出来るよね、と訊かれた教師の表情をカメラは捉えない。後ろ姿を撮る。主人公の確信に満ちた、しかし社会的には無邪気ともいえる問いかけに応えられない彼女の表情を、四方を囲む観客の一部は見ることが出来た筈だ。前述の感想にも書いているが、日本版の舞台が上演されたとき、私は教師の表情を見ることが出来ない席にいた。そしてまた、彼女のことを考え続けることになった。

そしてカーテンコール。日本版の演出を手掛けた鈴木裕美さんのツイートから、この「ショウアップされたカーテンコール」はホンに含まれていることを知っていたので、今回もそれを待っていた。日本版上演時、自分は単に楽しいカーテンコールとして観ていた。やりきれない幕切れからのショウに救われた気分になった。しかしそれが何故なのか、どういうことなのか気付いていなかった。別の日に観た友人の言葉が忘れられない。「あのショウに、幸人にとっての数学の美しさとそれでもこの子は頑張るかもしれないって可能性を感じてはっとなった」。そうだ、そうなのだ。

本編中「数学に興味のない観客にわざわざ聞かせることはない、どうやって解いたかはカーテンコールで紹介すればいいのよ」と教師はクリストファーに釘をさす。本編が終わり、観客の拍手に迎えられ出演者が礼、舞台を離れる。観客は帰らない。彼を待っている、解答を待っている。彼が出てくる。拍手を受け、深く礼をする。そして生き生きとした瞳で、表情で、劇場施設と機構の素晴らしさを紹介する。そしてその効果に乗って数式を解く。映画館の観客も帰ることはなかった。カーテンコールは数式の解だけでなく、彼の見ている世界をも紹介してくれる場だったのだ。観客は彼のことを知りたい、理解したい。それが伝わるカーテンコールでもあった。

NT版では、幕切れの主人公の問いかけは日本版よりもドライに響いた。音楽を使う箇所がはっきりしていて、強い客観性を持つ主人公の内面、あるいは社会のノイズを表現する劇伴がつくことが殆どだった。反面日本版には叙情があった。音楽を担当したかみむら周平の特性ともいえる。そういう意味では日本版の余韻も捨て難い。裕美さんと蓬莱竜太の手による日本版の翻案がとてもよく出来ていて、プロダクションも出演者も素晴らしかったなあと改めて思う。しかしこうなると韓国版も観てみたかった、先月渡韓していたとき上演中だったのだ。今後もいろんなプロダクションで観てみたい作品。そういえば、ねずみやいぬがほんものなのは共通みたいですね。かわいかった。

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その他。

『欲望という名の電車』を観たときにも感じたけど、マイク装着は映像用なんだろうなあ。動きまわる役者(特に今作は、ダンス的な振付も多いので)の台詞を集音マイクで拾うには無理があるのだろう。しかし気になる

・ナショナル・シアター・ライヴ 2016 OFFICIAL SITE『夜中に犬に起こった奇妙な事件』

・The Curious Incident of the Dog in the Night-Time | Background pack(PDF)
ナショナルシアターが「Resource packs」として配布している資料。プログラムともいえますね。いろいろと参考に

・Curious Incident of the Dog in the Night-time by adriansutton | Adrian Sutton | Free Listening on SoundCloud
サウンドトラック

・アレクサンダー夫人がオススメしていたバッテンバーグケーキ
食べてみたいようなみたくないような(笑)

(20160226追記:)
・NTLive 「夜中に犬に起こった奇妙な事件」字幕の問題点 - Togetterまとめ
単純な誤訳から誤変換(誤字)迄、NTLの字幕は当初から結構どうなのよて言われてましたよね。これをきっかけに字幕担当の方が交渉してくれるようですよ。好転するといい!



2016年02月21日(日)
『同じ夢』2回目

『同じ夢』@シアタートラム

東京千秋楽。同じ公演をリピートするのも久々だなあ。基本の感想は初見時と変わらず。席の位置が上手側から下手側になり、大森くんの細かな演技をしっかり観ることが出来た。以下おぼえがき。

・オープニングとエンディングに流れた印象的な曲はTom Waits「Temptation」。この声絶対トム・ウェイツだよなあ、聴いた憶えもある…しかしタイトルやアルバムが思い出せない〜とのたうちまわって探していたら、twitterでヒット。有難うございます。いやあ、便利な世のなかに……



・ANiTA's room『誘惑』
歌詞対訳はこちら。有難うございます!
・こうやって聴くと、いろいろ思うところありますね。内容書くまえにタイトル決めていたそうだけど、この曲もイメージとして赤堀さんにはあったのかな
・THE SHAMPOO HATでもトム・ウェイツはよく使われていた憶えがある

・千秋楽ということもあるのか評判からやってきたひとやリピートしたひとか、通路迄ビッシリ立ち見客。反応もよく、そのノリに役者がまた乗っていく効果もあったように思う
・観客の集中度は高い。換気扇がまわっているときとそうでないときの静けさの違いが明確にわかる、それと共振するかのような登場人物たちの心の動きが伝わるこの空間。最高
・ヘルパーが家の主人に深刻な告白をするところ、麻生さんの目に涙が。前回観たときはもうちょっとドライだったようにも見えた。今回はその「なんでもない」が限界に近付きつつある様子と映り、胸に迫った

・思えば今回の座組、『動物園物語』のジェリーを演じた役者がふたりいますわね
・今回の哲司さんがジェリーを思い出させる根拠、声のトーンやさりげなく話すことの物騒さだけでなく、会話のなかで相手の家族構成やらなんやらを根掘り葉掘り訊くところもだわ。で、相手に対する予想がトンチンカンだったりするところもだわ
・赤堀さんここらへん意識したのかなあ、たまたまかな。考えてみればジェリー、赤堀作品にも出てきそうなキャラクターである

・それにしてもこの、会話のなかから徐々に登場人物の生活環境、収入、家族構成が徐々に暴かれていく構成の見事なこと。説明を排しに排した会話劇の旨味、赤堀雅秋の真骨頂と言われるのもわかる。これだ、これ
『大逆走』についてのKERAさんの批判には当時ぐうの音も出なかったが「まずホンをちゃんと書けよ(おまえはちゃんとホンが書けるんだから)」という気持ちも感じていたものです。こういうとこKERAさんって感じ、よき先輩
・でも個人的には『大逆走』は愛すべき作品なのでした



2016年02月20日(土)
『リチャード二世』『夜、さよなら』『夜が明けないまま、朝』『Kと真夜中のほとりで』

蜷川幸雄の体調不良により上演が延期になった『蜷の綿』の続報を待っている。待っている間に、代替公演を観る。代替とはいうものの、再演を期待していた作品、上演を逃していた作品を観ることが出来たのは嬉しいことだった。マチソワハシゴ、アフタートーク、関連展示鑑賞と、9時間近くさい芸にいた。折しも激しい雨、外出するには時間も微妙。ドップリひたるのにむしろよかった。カフェペペロネのごはんも堪能しました(笑)。

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さいたまネクスト・シアター×さいたまゴールド・シアター『リチャード二世』@彩の国さいたま芸術劇場 インサイド・シアター

初演の感想はこちら。作品への印象は変わらず、没入はより強く、より深く。初日前目にした情報から、蜷川さんは入院したままで現場の指揮は井上尊晶がとっていることは知っていた。そこに不安は全くない。そして実際クオリティの差は感じなかった。

キャストや配役は若干入れ替わりがあるが、主役まわりは変わらず。オープニングで官能的なタンゴを踊る、鈴木彰紀と竪山隼太のペアも不動。内田健司の異物感はより強くなった。第一印象がもうジルベール(今これ読んでることもあってな……)。白い肌、病的な痩躯なのに筋肉質(本人曰く筋肉ではなく筋、だそうだが)、明るい色に染めた髪といった姿でタイトルロール、リチャード二世を演じる。妖しさは年々増し、カリギュラよりも退廃ぶりが高いようにすら感じる。しかしそれだけでは異物とはならない。このひと、意外と長身なのだ。音量を落としきった声も言葉が明瞭。観客が集中して台詞に聞き入るキャパ300程の空間では余裕で通る。そのアンバランスが不気味ともいえる存在感。対する隼太さんのボリングブルックは、捩れた冥い情熱をたたえた人物像でさまになる。いつしか自分もこの座を追われることになるだろう、という未来に気付いているかのようなその冥さは、この物語のカラーを決定づけている。

ヨーク公爵エドマンド・ラングレーを演じる松田慎也、ノーサンバランド伯爵を演じる手打隆盛はもはやカンパニーの飛車角。昭和のじいさん風激昂、弁慶風の装束といったアイディアは場を盛り上げ、頼りになる存在。松田さんと百元夏繪演じる夫人の夫婦喧嘩も抱腹絶倒。イザベルとそれをなだめる侍女たち、そこへやってきた庭師たちのやりとりは、ゴールドとネクストのコラボレーションとして名場面。そして毎度のことだが栗原直樹の殺陣が本当に格好いい。甲冑衣装での擬闘はたいへんなことだが、それを感じさせないネクストのメンバーも見事。

いよいよ立ちいかなくなったリチャードがボリングブルックの前に現れる場面が白眉だった。リチャードは客席最後方からの登場。まさにその位置に座っていた自分は、彼と竹田和哲演じるオーマール公爵の今生の別れともいえる場面を目の前で観ることになった。ふたりの眼球を薄く覆う涙の膜迄が見えた。無表情と感じていたリチャードのその目は、怒り、焦燥、そして悲しみに溢れていた。涙は決して零れない、薄い膜のまま。これにはやられた。小劇場空間ならではの体験だった。

初演でヘンリー・パーシーを演じ、その後おそらくネクストを退団したと思われる小久保寿人の不在は残念でもある。川口覚や深谷美歩同様、前向きな退団だろうと思いたいし、今後に期待したい。そしてオープニング、車椅子から立たない(立てない?)ままのゴールドの役者が増えていたように思う。今は車椅子なしでは動けない、不在の演出家を思う。身体は時間に抗えない、衰えは避けられない。その事実をつきつけられた気持ちになる。ところが面白いのは、この衰退すら物語の解釈のひとつとしてとらえられることだ。反逆、攘夷、王位や領地の奪い合い……転落は一瞬。その情勢を生き抜く者たちの刹那。限りある時間、このふたつのカンパニーはどうなっていくのか。見届けたいし、見続けたい。

・内田健司「面白いもの」知った 蜷川演出「リチャード二世」に再び挑む - 毎日新聞

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『nina's cotton zero』@彩の国さいたま芸術劇場 中稽古場2

企画展。マチソワ間の一時間のうちに鑑賞。藤田貴大たちが集めてきた「蜷川さんにまつわる断片」で構成された空間。おそらく舞台上でも使われるであろう、机や楽器といった小道具類と、蜷川さんの原風景であろう川口、高架下、そして学生時代の散歩コースを辿った映像。タッチパネルで時代毎の景色も観られるようになっていた。

興味深かったのは蜷川さんのご親戚(か、ご近所に住んでいて幼少の蜷川さんを知っている方)のインタヴュー映像。蜷川さんと、彼より10歳年長の彼女が語る戦争の印象が違うことに藤田さんが言及していた。終戦のとき10歳だったか20歳だったか、この差は大きいと。そして藤田さんと蜷川さんの年齢差は50歳。その差について。

・蜷川氏の舞台延期で道具公開 - NHK 首都圏 NEWS WEB

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さいたまゴールド・シアター/さいたまネクスト・シアター/マームとジプシー舞台写真展@彩の国さいたま芸術劇場 1階ガレリア

舞台写真展。何度見ても『真田風雲録』『ハムレット』の舞台写真が大好き。この絵心、たまらない。マームの舞台写真は初めて見るものが多かった。ガレリアは好きな空間。晴れでも雨でも落ち着く光が入る。何度も往復する。

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マームとジプシー『夜、さよなら』『夜が明けないまま、朝』『Kと真夜中のほとりで』@彩の国さいたま芸術劇場 小ホール

藤田さんが20歳、23歳、26歳のときに発表した三本の作品を再構成したものとのこと。全て初見だったので、作品中の「不在の人物」は最初から同一人物だったのか判らない。ひとりの作家が書き続ける、共通したモチーフかもしれない。しかし時系列が謎解きのようにも感じる構成になっていて、ストーリーの流れと、そこに生きる登場人物たちの心の動き、変化し続ける環境と生活のなかで日々くらすことについて、感じ入る場面が多かった。そして望郷。

リフレインは日々繰り返される生活にも共通し、しかしそこで疲弊していく身体は心に繋がる。決して同じことは起こらない。そして同じものにはならない。その変化を見逃さず捕まえることが出来るか、その瞬間に行動を起こすことが出来るか。立ち止まらずをえない人物の周囲に集まってくるひとたちの不器用な暖かさと、必要な冷たさ。不在のひとを待つ夜の向こうに、朝はある。失ったものは戻らないが、それでも朝は来る。残酷でもあるが、ときにそれは安らぎになる。『Kと真夜中のほとりで』にはそれが凝縮されているように感じた。三本の最後にこれを観ることが出来てよかった。暗い照明は夜道を寂しく照らす街灯のようで、suzukitakayukiの衣装に身を包み、走り、跳び、転がる役者たちの姿が目に焼きつく。瞼を閉じてもそのシルエットが残る感覚。

たまたまですがアフタートーク付きの回でした。藤田さんに橋本倫史さんが質問していくかたち。役者の身体を酷使することについて、追い込んだ先に見えて来るものがあると思っている訳ではない、という話が興味深かった。それでも実質体力はいるので、稽古を熱心にやったり男優にプロテイン与えたりしてたら皆ムキムキになってきて……て話が面白かった。身体が大きくなっちゃったので反対側にいる女優さんたちが見えない! とか(笑)。

(20160224追記:観たあと読めてよかったインタヴュー→マームとジプシー『夜、さよなら』『夜が明けないまま、朝』『Kと真夜中のほとりで』藤田貴大インタビュー | 演劇最強論-ing

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『蜷の綿』の続報を待っている。蜷川さんの帰還を待っている。




2016年02月19日(金)
『僕のリヴァ・る』

『僕のリヴァ・る』@新国立劇場 小劇場

スタッフクレジットの「票券」欄でよく目にしていた制作会社る・ひまわりが、タイトルに「る」を配したシリーズ作品の上演を始めたのは三年程前から。縁がないと思っていたが(それこそ本公演パンフレットで小林且弥さんが仰っていたように「交わることのない」ものだという印象を持っていた)、この度観劇する機会が巡ってきた。というのも、上演台本・演出が鈴木勝秀だったから。

タイトルと「三本の独立した兄弟の物語で構成されるオムニバス形式」というのは企画段階で決まっていたそうだ。オファーを受けた演出家がとりあげたのは、オリジナル短編「はじめてのおとうと」、三好十郎『炎の人』から構成した「フィンセントとセオ」、アルトゥール・シュニッツラー「盲目のジェロニモとその兄」(『花・死人に口なし』所収)から構成した「盲目の弟とその兄」。プロローグとして「前説」がつく。この前説、かなり親切なもの。事前情報だけでなく舞台上からも出典を明らかにする配慮がなされている。今ならではの過敏にも感じるが、ゲームをはじめるにあたってのルール紹介と考えると納得も出来る。先入観を持たせないことより、作品により早く馴染み、没入出来るようにすることこそ重要、という提示とも言える。鈴木拡樹と山下裕子は軽妙なトーク調で親しみやすい導入を用意してくれた。

さて始まってみればバリバリ鈴木勝秀印。四方を客席で囲む舞台はスズカツさんがホームと称していた青山円形劇場を思い出し懐かしくなる。しかしここは違う劇場、同じわけはない。舞台は対面式の客席を分断する形で中央に。客席二面は舞台と地続き、残り二面はバルコニー席から見下ろす形。この変則的な配置、観る方からするとかなり面白い。確実に死角が出来るからだ。その死角を想像するもどかしさと楽しさは、一度体験するとクセになる。やる方はどうだろう? 自分が意識していない箇所を観客に発見される緊張感は常にあるだろう。余談だが、青山円形劇場で一度でいいから体験したいと思っていた視点があった。スタッフや関係者がいる客席上のフロアは、完全に閉じられた円環を見下ろすことが出来る。役者がつくろうことは出来ない頭頂部を見ることが出来る。それはまた、客席とは違う登場人物の一面を見ることが出来ただろう、と羨ましく思っていたものだった。

閑話休題。舞台と対面式の客席はほぼ地続きだが、境界はある。演者は客席から入退場し、観客とコミュニケーションをとる。しかしその境界――コンテナを思わせるスケルトンをくぐると、演者のモードが変わる(ように見える)。演者に役が降りた、という錯覚に陥る。実際観客をいじり乍ら客席内を歩く役者はとても親しみやすく、愛らしさすら感じる若者そのものだ。しかしコンテナのなかに入った彼らは、自分の才能を信じきれず精神に異常を来していく画家として、あるいは負わされた傷により甘えたい気持ちを罵りでしか表現出来ない弟として生きている。兄弟は肉親であり、タイトルにあるようにリヴァルであり、お互いに損得、負い目、贖罪と言った複雑な感情を抱きつつ、他人に対するそれと同じように処することが出来ない。そのやりきれなさともどかしさがこの舞台にはあった。

照明の妙も活かしたモノトーンの装置(二村周作)と照明(倉本泰史)、ラインの美しい衣装(西原梨恵)、雨とホワイトノイズを思わせる音響(井上正弘)。「フィンセントとセオ」はゴッホとその弟の話だが、そのパートは一転色彩鮮やか。視覚的にいいアクセントになっていた。しかし舞台上にあるイーゼルにキャンバスはない。フィンセントが絵筆から咲かせた原色の世界に、観客は想像を巡らせる。そして音楽。oasisの「Champagne Supernova」、Louis Armstrongの「Hello Brother」の客入れにはじまり、大嶋吾郎によりアレンジ、リレコーディングされたPink Floyd「Wish You Were Here」。スズカツさんの世界だなあと思う。身長差のあるふたりの役者を向き合わせる、あるいは背中合わせのタブローとして見せる。観ると懐かしい気持ちにもなり、同時にほっとリラックス出来る。

四人の役者のコンビネーションも観ていて楽しかった。安西慎太郎、鈴木拡樹は確か舞台では初めて観るが、まずそのスキルの高さに唸る。翻訳調の整った言葉で書かれるスズカツさんの台詞に振りまわされない若手を見たのはほぼ初めてだったと言っていい。テンポ、リズムも自在で、ここぞという箇所での笑いも逃さない。常に舞台上での評価を求められる、プロ意識の高い現場にいるひとならではの強さと言おうか…しかしそれをガツガツ見せない大らかさ、度胸のよさも感じる。支持が高いのも納得。安西さんは春に『アルカディア』で観るのが楽しみになった。鈴木さんのゴッホは出色。

グッと惹かれたのは小林且弥。巧さもさること乍らなんというか、一見して「あっこのひとのたたずまいスズカツさん好きそう」と思った(笑)。前述したスズカツさんの整った言葉を、こう語ると面白いんだなと新しい発見もさせてくれた。日常会話ではおおよそ使わないであろう「俺を辱めるのはやめろ」なんて言葉を赤子が滑舌良くいうとこんなに笑えるんだな、とかね。声のトーンがまたいい。他の舞台でも観てみたい、と思わせられた。「交わることのない」がチャラになったことは、自分にとってもラッキーなことだ。またスズカツさんと組んでほしいな。おたくなことを言うと彼の演じるエンドウを観てみたい。そしてそんな身長188cmが着るロンパース(風衣装)はみものであった(笑)。

そして山下さん! スズカツ作品で観るのはそれこそ『祈る女』以来で、演出作品で観るのは初めて。長生きしてみるもんだ。同じ釜の飯を食った仲ともいえる間柄のやりとりが想像されて勝手に感慨深くなる。まっとうな優しい言葉をうさんくさくならず聴かせるその声に魅了された。このカンパニーに彼女がいてよかった。

カルテットで奏でたトリロジーのあたたかさ、だいじに憶えておきたい作品。シリーズ化される可能性もあることなので、またの機会を期待して。以前スズカツさんが企画したリーディング『シスターズ』を、役柄は変えずに男優で演じても面白いだろうな。

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その他。

・パンフレット掲載の座談会、山下さんがバラす(笑)劇研時代のスズカツさんの話が面白くてなあ……有難う山下さん!
・山下さん以外の出演者三人が揃って「スズカツさんは怖いイメージ」「大御所だと…」と言っていたのも面白かった…そう思われているのか……
・当方のスズカツさんの怖いイメージって2000年くらい迄なんだけど、若手には何か伝説でもひろがってるんだろうか。蜷川さんみたいに灰皿投げるイメージがどこかからついてるんだろうか

・客入れからしてノエルとリアムのことも考えましたよね! 特に「盲目の弟とその兄」、お兄ちゃんの堪忍袋の緒はいつ切れるのか的な……そこにつけこむ弟の甘え上手と言おうか試してる感と言おうか
・そんなこんなで(?)oasisはお兄ちゃん次第だろうと思っているが、実はギャラガーさんとこは三兄弟なのだよ。「あの『バス』に乗ろうとは思わなかった」長兄がいてこれまた複雑なのよね
・まあ、ここは、いろいろと傷が深い…思うところありすぎてせつなくてのたうちまわりたい……

・「はじめてのおとうと」で使われた人形、私の席の位置からは開いた口の形がマズルに見えてですね。ぼのぼの……? と思っていた。リバイバルきてるしタイムリ〜なんて思っていた
・帰宅後舞台写真を見て口だったと知る(リンク記事参照)
・この辺りの演出は『偶然の男』を思い出してしみじみしてました。『偶然の男』好きだった〜また観たいよ〜

・余談。昨年スズカツさんの演出作品は全部ではないけど観てはいるんです。しかし感想一本も書いてないんですね。深い意味はないんですが、上演台本が、とか演出が、とかとは関係ない、制作面についていろいろ考えることもあり
・今回の公演は話題性も注目度も高い公演だったようで、前売り完売後に追加公演が続々発表になったり、初日前にチケットの転売や譲渡に関して注意のメールが届く程でした。自分よくチケットとれたなとビビった……
・で、まあ、KERAさんの言葉を思い出した。公演を観たいという動機はさまざま、その全員が公平にチケットをとれるシステムとは、という。観ることが出来てよかった

・『僕のリヴァ・る』スズカツ×安西×鈴木&more 鼎談+稽古場レポ Theater letter 03/最善席
・公開舞台稽古フォト&キャストコメント|観劇予報
・公開ゲネプロ動画 | エンタステージ

・舞台稽古|THEATERCLIP
・兄?弟?思わず混乱!安西慎太郎、小林且弥、鈴木拡樹の兄弟関係『僕のリヴァ・る』インタビュー<PART 1>|THEATERCLIP
・安西慎太郎、小林且弥、鈴木拡樹、兄弟という「血」を考える『僕のリヴァ・る』インタビュー<PART 2>|THEATERCLIP
・安西慎太郎×鈴木拡樹×小林且弥インタビュー<ダイジェスト動画>|THEATERCLIP



2016年02月13日(土)
『同じ夢』

『同じ夢』@シアタートラム

個人的には待ってました赤堀さん、という思い。ひとりの劇作家の作品を観続けていると、その作品を通して作家自身の内的世界に迄想像を巡らせることがある。何を思って今これを書いたのか。どういう環境にいるからこう書いたのか。扱われるモチーフ、書かれた台詞と、その奥にある語られなかった言葉。作家自身への興味とも言えるが、結局それは作品への興味に尽きる。描かれる世界が拡がり、劇場のサイズが大きくなる、それに応じて演出手法が変わる。技術があるので「見せられる」ものは書ける。出演者やスタッフとのコミュニケーションもとれる。観てよかった、と思わせられて劇場をあとにする。それでもときどき思う。このひとが書きたいものは何だろう? 見つめていたいものは何だろう?

積み重ねられる会話によって、登場人物の背景が少しずつ明らかになっていく。説明をいかに説明とせず台詞に織り込ませるか。舞台上には現れない人物、ものごとがいかに彼らに影を落としているか。ひとはどこ迄寛容になれるか、あるいは優しくなれるか。許せるか、あるいは、諦められるか。ときに重大な告白がもたらされるが、彼らはそれに応えることが出来ない。波風は静かに起こり、時間は漫然と過ぎる。それでもその波は、彼らにちいさな決意をもたらす。赤堀さんの作品を観ると必ず思う。正しいことって何だろう? そして、正しいといわれることはそんなにだいじなことだろうか? 正論を、正義をふりかざす人間を前にすればする程、心が閉じていく感覚を、どのくらいのひとが葬り去ろうとしているのだろう?

時間が解決することと、時間を経たからこそこじれてしまったことと。被害者と加害者の関係はグズグズで、タチの悪い従業員は居着いたままで、ホームヘルパーは老人の悪癖を拒絶出来ない。全てが「仕方がない」。では何故ヘルパーは飲み会に出席したのだろう? 従業員は老人の部屋で何をしているのだろう? 来客にふるまわれるコロッケやケーキ、肉屋の店主が特別につくったポテトサラダ。場をもたせる、時間を稼ぐためだけに用意されたちいさなものに、ある一瞬心が宿る。そして最後に判明する靴下の行方。救いにすらならないが、それはちいさな光だ。赤堀さんが描くものにはそれがある、と久しぶりに感じた作品だった。

役者の力も大きい。麻生久美子は低めの声で、受け応えのバリエーションも豊富だ。その声には常に影があり、心に溜め込んだ鬱屈がにじみ出る。声の魅力といえば田中哲司。気のいい文房具屋がときおり見せる冥い穴。他の登場人物が知らないこのふたりのやりとりは共犯関係でもあり、危うい支配・非支配の関係になりうる。綱渡りのようなバランスを見せきる、髪の毛一本ほどのニュアンスが素晴らしい。ふたりのシーンは息もつけない緊張感。一方麻生さんと大森南朋のやりとりは弛緩で見せる。あのだらしなさ、おーもりさんの地なの? と思わせられるくらいでこれまた素晴らしい(笑)。なんていうかああいうの絶妙ですよねおーもりさんて。仕事きちんとやってるのにやる気なさそうに見えるっていう…ある意味損かもしれないが、こういう役を演じるときにはドンピシャですわ。

光石研は不器用な男の純情をこれ以上ないさじ加減で演じる。決死の告白の腰を折られ、直面した深刻な事態に立ち向かえない、表情と仕草。忘れられない。赤堀さんは社会にいなくていい人間が生きていく根拠を探し続けているように感じられる。そしてそれは、必ず肯定へと着地する。意地とも矜持ともいえる、ダメなひとへのとことん優しい視線。あと食事を餌に見せる能力がズバ抜けてる(ほめてる)。このカンパニー唯一といっていい「若者」木下あかりは大人をふりまわしたいのに踏ん切れない、あるいは抑圧されてきたからこそ爆発してしまう思いをまっすぐ演じていてとても素敵だった。杉山至の美術、坂東智代の衣裳も見事なうらぶれ感っぷり。最高。

単に「自分の好みだった」というだけかもしれない。それでも自分はこういう赤堀雅秋の作品が観たかった。このキャストが揃うからこそ、こういう作品が観たかった。とても嬉しい。千秋楽にもう一度観られる。待ち遠しい。

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その他。

・哲司さんがはりきってる。というかやっぱり頼りになる
・てか哲司さんと光石さんが舞台で共演するのってスズカツさんの『動物園物語』(初日楽日)以来だったのね。うわー感慨深い……
・というのも、今回哲司さんの長台詞にジェリーのそれを思い出したりもしたのです。明るくいい加減に世間話をしていて、突然「殺しちゃうから」という言葉が出てきたときのゾクッと感
・登場人物のなかでいちばん理屈がたってて、ひとあたりよくて、おせっかいで、仲介者としての能力が高い文房具屋。「見たことを見なかったこと」にして、それをナイフのようにちらつかせる怖さも持っている

・自作に役者として出演する赤堀さんを、THE SHAMPOO HAT以外で観られたことも収穫
・これも哲司さんからの言葉が大きかったようで、そういう意味でもこの座組に哲司さんがいたことはデカい

・歌。皆さんどこ迄下手に唄おうとしているのか、それともホントにいまいちなのか測りかねる…そういう意味でもあの歌は素晴らしい(笑)

(20160224追記:使用曲について新たに分かったことなどを、こちらに書きました→『同じ夢』2回目

・赤堀雅秋の真骨頂!『同じ夢』開幕 | チケットぴあ[演劇 演劇]
・『同じ夢』初日コメント到着 | エンタステージ
・『同じ夢』観劇レポート | エンタステージ



2016年02月07日(日)
『クレイジーキャメル』

大駱駝艦 天賦典式『クレイジーキャメル』@世田谷パブリックシアター

今回の天賦典式は「舞踏仕立ての金粉ショー」! タイトルはフランスの老舗ナイトクラブ、クレイジーホースから。大駱駝艦ですからね! うえええええ素晴らしかった〜! 毎回素晴らしいけど! ここ数年は人類や地球、宇宙が辿る果てを壮大かつダークに描く作品が続いていると感じていましたが、今回は舞踏スペクタクルに麿さんのあまずっぱい初恋の思い出、そして思春期のモヤモヤが織り込まれ、エンタメ要素もたっぷりです。2012年初演、パリ日本文化会館開館15周年記念作品として上演されたもので、祝典的な要素が強いからというのもあるでしょう。

モネの画集を読みふける男子学生、その男子に恋するふたりの女学生。この男子学生が麿さんを投影した人物ですが、当の麿さんは当然女学生のひとりを演じます(笑)。学校の先生と用務員さん(麿さん曰く小使さん。今では消えた言葉)も登場。学ラン、セーラー服、箒にちりとり。学校を連想するモチーフに囲まれ、恋の鞘当てが繰りひろげられる。そんな登場人物たちの内的世界を表すように、金粉をまとったダンサーたちが随所で踊る。メインの使用曲であるヴィヴァルディの『四季』は主に学校生活のパート、土井啓輔によるテクノを基調とした激しいナンバーは金粉ショーのパート。下駄を履きリズムを踏み鳴らすダンサーたちの格好よさ、たまらないものがありました。音楽も踊りも躍動感あふれ、動きもダイナミックなのでキュー出しの声もいつもより大きい。通常だとシュッ、とかひゅっ、といった感じの、声というよりは息遣いでキューが出されるんですよね。それが今回、叫びともいえる声を合図にダンサーたちはフォーメーションを変える。麿さんが叫ぶ場面もあった。舞踏における大声、新鮮といっていい響き。

大駱駝艦から直接チケットを買うと、最前列ド真ん中の席になる率が高い。有難いことなんですが、体調によっては舞い散る白粉から鼻炎が起きてしまう(笑)。今回はちょっと間を空けてとってみた。4列目。そしてその4列目迄届く、ダンサーたちの汗と塗料がいりまじった匂い。いきものの匂いだ、と思う。金に彩られた顔や胸に、玉の汗が浮き、光る。男性ダンサーは全身金色、女性ダンサーは顔からデコルテ迄白塗り。そのコントラストも美しい。

赤と黒に塗り分けられた八本の柱は照明により黒部分が闇に沈む。角柱から、天を刺すような尖塔に。姿を変え舞台空間を蠢き、その森のなかを学生たちはさまよう。金色のダンサーたちが見え隠れ、性の目覚めの混乱に若者を陥れる。かつての女学生は、淑女然とした白のドレスと妖艶な黒のドレスをそれぞれまとい、男子学生をつつみこむ。クライマックスはミラーボール。ラブ&ピース! ダンサーたちの汗のような、光の粒が劇場を舞う。命あるものの力。

そしてカーテンコール。ここも含めて一作ですよ、大駱駝艦のごあいさつは本当にドラマティックなんだぜ。もう四半世紀は観てるし千秋楽も何度も観ているけど、こんなに「麿ー!!!」て声飛んだのは初めて経験したかも。「ブラボー」もまじってたな。なんだか感慨無量でした……。古株も若手もいるけど、麿さんと艦員たちってまあ20くらいは歳離れてると思う。艦員たちは外部公演にも引っ張りだこで、個々の活動も充実している。成長と成熟と可能性と。未来をまだまだ見てみたい。だからこそ、麿さんにはまだまだお元気でカブいてほしいものです。早くも6月には新作。楽しみにしています。

ところでこの数日間って、SePTに麿さん、トラムに南朋さん出てたのよね。世田谷の劇場はいいとこだぜ!

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で、昨日ちらりと書いたオリンピックの話。前日『逆鱗』を観たあと、野田さんが演出する2020年東京オリンピックの開会式、なんてのを考えていた(これは『エッグ』再演を観たとき妄想したことでもある)。そして今日、大駱駝艦を観乍ら再び思う、「金粉ショーの開会式、最高じゃないの」。

帰宅後、劇場で配布された大駱駝艦の機関誌『をどる』を読んでいると、オリンピックと縁ある記事が載っていた。大駱駝艦恒例の夏合宿と野外公演は、1998年に開催された冬季オリンピックの競技場と関連施設がある長野県白馬村で行われている。

「世界中から前衛舞踏を習いにやってくる」という相談に「白馬村でこそぜひ。最先端のものはやらんとねえ」と応えた白馬村村長、スキー場とその宿舎の提供を提案した全日本スキー連盟元専務、丸山庄司氏。暗黒舞踏は国際的にも認知されている日本独自の芸術。理解者もいる。土地にも馴染んでいる。

あああ観たいな開会式で大駱駝艦!!! 思いは募る一方なのでした。オリンピックの日本開催にはさまざまな問題が山積みですが、決まったからにはあげ足とったり足の引っぱり合いしてる場合じゃない。エキサイティングなものが見たいなー。

・<取材レポ>大駱駝艦、白馬村野外公演 『黄金の夏』 闇を彩る金の舞 - GOLDNEWS
2013年の記事。ゴールド(金)に関するニュースを扱うサイトに載ってるところが面白い(笑)けどすごくしっかりしたよい内容です

・麿赤兒が語る『白馬舞踏合宿』All About
同じく2013年、合宿前の麿さんインタヴュー。
「合宿の最後に公演を開催するようになったのも白馬に移ってからですね。村の人たちに“何かヘンな団体が来たぞ!”なんて言われるのもイヤだし、きっと“集団で何やってるんだろう?”と不審に思ってるだろうから(笑)、“こういうことをしてますよ!”とお見せしようと始めたのがきっかけです」
「オーストラリアからグループで来たり、アメリカ、フランス、韓国、ノルウェー、ドイツ、イスラエル、イタリア、トルコ、メキシコ、ハワイからも来る。外国のダンスカンパニーから15人くらいの団体で来たりもするし、その年によっては海外からの生徒の方が多いときもある」



2016年02月06日(土)
『逆鱗』

NODA・MAP『逆鱗』@東京芸術劇場 プレイハウス

予備知識なく観た方が先入観を持たなくてよいが、知ってることはあった方がよい、というのは『エッグ』(初演再演)に通じるけど、野田秀樹は『エッグ』のようにはしない、と言っていたそうだ(パンフレット、池田成志の頁参照)。個人的には『オイル』『ロープ』を思い出した。『ロープ』のモチーフとなったできごとを、自分は舞台を観て初めて知った。

今回のモチーフについては知ってはいた(個人的に人類史のなかでいちばん興味があり、関連文献を積極的に読んでいるのが第二次世界大戦なのだ)。NINGYOは86歳、16歳のときに…という台詞。瞬時に70年前のことが描かれるのだな、と思う。物語が進むにつれそのことかもしれない、あのモチーフはあれのことかもしれない、というぼんやりとした不安がついに像を結ぶ、その瞬間にはやはり震えがきた。夢の遊眠社時代に炸裂していた言葉あそびやアナグラムと言った野田さん得意の作劇が、今作はふんだんに盛り込まれている。それら言葉を用いた謎解きは、以前は自分の視界や意識をより開き明るくする、希望に満ちたものだった。しかし野田さんが書く近作にそれはない。明かされた謎はあまりにも暗く、重い。文字を記す者として、忘れ去られていくことを書き留めておかねばならない。そんな強い覚悟を感じる。

戦争を始めるのは簡単だが、終わらせるのはとても困難なことだと誰かが言っていたが、まさにそのとおりのことが描かれる。相手を察する能力、言えなかった言葉。それらをサキモリとNINGYOは読み取ることが出来る、口にすることが出来る。しかし口にした言葉は宙に浮き、幻聴と同じように扱われる。それが本当の心の声だったとしても。それが聴こえない、あるいは聴こえないふりをするしかなかったひとたちは、惑わされ、あるいは流され、それこそ雑魚…イワシのように鱗を散らしていく。モガリとイルカはお互いを理解することが出来ないが、それでも辿り着く場所は同じになってしまう。

その「真実の声」と言ってもいい声に、NINGYOを演じた松たか子の声はぴったりだ。澄みきって、強く鋭く通り、明瞭な言葉が遠く迄響く。その松さんが、終盤言葉にならない凄まじい声を出す。言葉では表現出来ない叫びには、多くの思いが内包されている。言葉を駆使する戯曲が舞台に載り、役者の身体を通すことで演劇になる。それを体験出来ることは無上の喜びでもある。そして再び言葉に戻る。モガリは殯、サキモリは防人。劇場をあとにし、物語をさまざまな層から見ることで心に刻んでいく。

深い深い海底には、太陽の光は届かない(ここに至る迄の、服部基の照明が素晴らしい)。終幕、暗転とともに視界を満たした闇の恐ろしさ。誰も知らない場所で命を終えるひとたち。絶望としかいいようのないその思いを想像する。想像しなければならない。そう思う。

阿部サダヲの声が若干嗄れ気味に聴こえるのがちょっと心配。彼も「真実の声」を察する力を持つ役だが、そのキャラクター造形とリズム感のよさは声の不安を払拭してはいる。その底抜けの明るさが陰る瞬間に惹きつけられる。瑛太の「おーい!」という声、合わせて振られる長い腕は、終幕が近づけば近づく程胸に迫る。満島真之介はやがて恐ろしさへと変貌するひたむきさを体現。あのくるりとした黒目、瞳孔がだんだん開いていくようにすら見える。池田成志の自由度の高さは見事としかいいようがなく、重く息がつまるような(実際それが今回の重要なモチーフでもある)場面のなかに空気を吹き込んでくれる。スキンヘッドの扮装には東条英機を連想していたんだけど、そこにあっちを入れてくるんかい! と衝撃でもあった(笑)。井上真央の妖艶を孕む無邪気も強烈。銀粉蝶さんの忘却の台詞は、悲しみはもはや個人のものではないと時を経て届く強さを持っている。そして野田さん。NODA・MAPは野田さんの劇作・演出が観られるというだけでなく、役者としての野田さんが観られることも大きな要素。声、身のこなし。いつ迄観られるのだろう、まだまだ観たい、と思う。

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その他。

・比較的前の席だったのだが段差がない列で、舞台前方に役者が立つとひとの頭越しに見る場面が多く苦労した。対話しているふたりを同じ視界に入れることが出来なかったり。リピートして後方でも観てみたい気持ちはあるがー

・画像でふたりサプライズ出演(笑)あれはどよめいたねー
・帰宅後クレジットないの? とパンフレットのスタッフ欄を熟読していたら、今作の宣美のアートディレクションが佐野研二郎だった。あらまー
・公開中の『さらば あぶない刑事』も、AD佐野さんなんですよね。個人的には佐野さんのこういうヴィジュアルづくりは洗練されていてよいなあと思います
・で、芸劇は公共劇場でもあるからいろいろ絡みがあるのかなと思った
・そして2020年のオリンピックの開会式、演出に野田さんが絡むといいのにな、それは観たいな、と思ったりしました
(この話は翌日の大駱駝艦公演でも思い出すことになります)

・クライマックスの松さんの声、本当にすごい。あれを約70公演も繰り返すのか、マチソワの日も多いのに…やはり役者は超人、としか言いようがない
・前日中村屋の特番で勘九郎さんたちに喉を傷めない台詞まわしの方法を伝授していた幸四郎さんの姿をふと思い出した。教えてもらったかどうかはわからないが、親を見ていて体得しているところはあるのかもしれないな

・イワシが鱗を散らす話、むかーし第三舞台の作品で、氷上のペンギンの群れがおしくらまんじゅうをはじめ、一羽を落として海中に天敵がいないか確かめるというエピソードを描いたものがあった。それを思い出した
・といえば、ソ連のライカ犬のことも思い出しましたね……