2007年06月06日(水)  わたし好みだらけの『そのときは彼によろしく』

『ジェニファ 涙石の恋』で隆志を演じた山田孝之さんが主人公で、その少年時代を『子ぎつねヘレン』の太一役だった深澤嵐くんが演じている『そのときは彼によろしく』を、これは観ないわけにはいかない、と観る。劇場は、「出張いまいまさこカフェ」を連載中のフリーペーパーbukuを置いている池袋のシアトルダイヤ。さらに本編にはアクアプランツ、秘密基地、プリズム、チョコレートデニッシュ、バースデーケーキ……とわたし好みのものが次々と登場。懐かしさと切なさをかきたてるモチーフをこれでもかと持ち出すのは、『いま、会いにいきます』と同じく原作の市川拓司さんのテイストなのかもしれない。

中でも、森の中に打ち捨てられたバスの秘密基地には、解体した家を基地にして遊んだことがあった子ども時代を思い出して、わくわくした。そこは大人の世界と切り離されたルールがあり、大人の時間とは違う時が流れた世界で、そういう場所を持っていることに得意になっていた。自分たちにしかわからない宝物があり、ずっと友だちでいられることを願って「永遠」なんて大人びた言葉を口にし、はるか未来に思えた十年二十年先の約束を交わしたりした。いちばんよく遊んだ同い年で隣の家の女の子・佳夏は、今はもういないから再会することは叶わないけれど、「物理学の教科書にも載っていない強い力」が存在し、会いたいと強く願った相手には会える、というメッセージはしっかりと心に届いた。

少年時代の深澤嵐くんと青年時代の山田孝之さんのつながりを見るのもうれしかった。水中の森が地上の森にシンクロする美しいオープニングも、真っ白な病室に祈りのように増えていくアクアプランツのガラスボトルも、奇跡を信じさせてくれるようなストーリー展開もわたし好みだったけれど、息もつかせず立て続けに好きなものを並べられると、張り切って食べ過ぎたビュッフェのようになってしまい、余韻を味わうよりもおなかいっぱいになってしまった。映画はさじ加減が難しい。

2005年06月06日(月)  ニューオーガニックレストラン『orto』
2004年06月06日(日)  レーガン元大統領、逝去。
2002年06月06日(木)  同窓会の縁


2007年06月05日(火)  『風の絨毯』の中田金太さん逝く

朝早く、映画『風の絨緞』のプロデューサー・益田祐美子さんから電話があった。この人の電話の第一声はいつも「今井さん、元気?」で、それにわたしは「元気よ。益田さんは?」と応じる。すると、「元気、元気」と帰ってくるのが合言葉のようになっているのだけれど、今朝は「元気じゃない」と沈んだ声の変化球を返してきて、「金太さん、亡くなっちゃったの」と続けた。『風の絨毯』で三國連太郎さんが演じた、「平成の祭屋台」の制作に情熱を注ぐ高山の名士、中田金太さんが一日に逝去されたという。わたしは一瞬絶句して、「ああ、とうとう」と答えた。ついに、その日が来てしまったか、と。具合が良くないという話は聞いていた。わたしが執筆協力した金太さんの一代記『わしゃ、世界の金太! 平成の大成功者と五人の父』の出版記念パーティに、金太さんが入院先の病院から外出する形で現れたのは昨年9月。わたしは出席が叶わなかったのだけれど、自身が主役のパーティという気の張りがようやくのことで体を支えているようだった、と居合わせた人から聞いた。小柄だけれど顔色がよくバイタリティにあふれた金太さんがしぼんでしまった姿を想像して、わたしも胸をふさがれた。それから8か月余り。結局、公式の場に金太さんが姿を見せたのは、出版記念パーティが最後になったという。

岐阜新聞の記事「祭り屋台新造に情熱注ぐ 中田金太さん死去」に益田さんのコメントが紹介されているが、『風の絨毯』の実現にあたり、金太さんは節目節目で力を授けてくれた。そもそも同郷である金太さんの出会いから、絨緞屋だった益田さんがインスピレーションを得て「故郷の祭屋台にペルシャ絨緞をかけたら面白い」というところから物語が膨らんだ。劇中に登場する祭屋台の貸し出し、金太さんが運営するまつりの森でのロケ、さらには製作資金……。金太さんの粋な旦那魂が、『風の絨緞』を世に送り出す大きな追い風となったが、金太さんの存在は精神的にもスタッフや作品を支えてくれた。同時多発テロでロケが延期になり、製作が頓挫しかけたとき、「人間は誰でもつまづく時があるが、それは恥ずかしいことではない。つまづいた時、起き上がれないことが恥ずかしいこと」という言葉が益田さんを奮い立たせ、結果的には中東情勢が落ち着くまでの時間を無駄に捨てるのではなく、作品をより良くするための熟成期間にあてることができた。

わたしは2002年3月の『風の絨緞』高山ロケの際に金太さんに紹介されたけれど、たくさんの人が行き交う現場のあわただしさのなかで、あまりゆっくり話すことはできなかった。その後、金太さんと秀子夫人が上京される折に益田さんにくっついて食事をご一緒する機会に何度か恵まれ、高山の成功者となるまでの道のりの一部を聞かせていただいたりもした。丁稚奉公をたらい回しにされた苦労話をするときも、三本ボウリング工事したら三本とも温泉を掘り当てた幸運話をするときも、同じようににこにこと話され、聞いているほうも、山の話と同じくらい谷の話に引き込まれた。金太さんの生い立ちのおすそ分けをいただいた体験が、『わしゃ、世界の金太!』の執筆協力で活きた。

生きることは出会った人の心に種を蒔くことに似ている、とわたしは思う。金太さんの人生は、祭屋台をはじめ大きな花を生前から咲かせていたけれど、わたしには、「このお寿司、おいしいから食べなさい」と買ってきてくれた折詰や、「金太さんが今井さんによろしくって言ってたよ」という益田さんからの伝言といった、ささやかだけれどやさしい香りのする花を遺してくれた。益田さんとやりとりしながら金太本の原稿を準備していたとき、金太さんが「益田さんと今井さんを伊豆の温泉に招待したい」と申し出てくれたことがあった。まだわたしが会社勤めしていた頃で、残念ながら都合がつかず、「お気持ちだけいただきます。また、いつの日か」とお返事した。それから二年、いつの日かのお楽しみの温泉旅行は叶わない夢となった。金太さんが亡くなる前の数年間、短いながらも忘れがたいつながりを持てたことに感謝したい。

2006年9月29日 金太本、ついに出版。

2005年06月05日(日)  2人×2組の恋の映画『クローサー』
2004年06月05日(土)  『ジェニファ 涙石の恋』初日
2002年06月05日(水)  シンクロ週間


2007年06月04日(月)  黒澤明映画『生きる』

家のテレビで『生きる』を観たのは、中学生のときだっただろうか、高校生のときだっただろうか。「生きることと死ぬこと」を自分の問題として意識し始めた頃だったと思うから、中学生だったかもしれない。癌に侵された主人公の抱える焦燥に胸がひりひりしたことと、彼が公園のブランコで「命みじかし」と歌う場面の記憶は残っているけれど、細かい流れはよく覚えていなくい。シナリオの打ち合わせでも「黒澤の『生きる』みたいに」とよく引き合いに出されるので、あらためて見ておかなくてはと思っている矢先に、テアトル新宿の「黒澤明特集」でかかることを知った。

満席の客席には年配の方が目立ち、1952年の公開時にスクリーンで観てもう一度、という方もおられるのかもしれないと想像した。余命あとわずかと宣告されたとき、残りの時間をどう生きるか。それだけでも身につまされるスリルとサスペンスがあるのだけれど、その時間に起こる主人公の心境や行動の変化は、病のことを知らされない周囲の者にとってはまたサスペンスの対象になる。物語の中で主人公はできるだけ最後まで生かしておくものだけれど、主人公が去った後、葬式の場面で生前の主人公を振り返るという構成の大胆さに、さすがと脱帽。プロデューサーたちが言う「『生きる』みたいに」とは、こういうことだったのか、と思い至る。思っていることをうまく言葉にできない口下手な主人公に苛立ったヒロインが思わず放つ「ぽつりぽつり雨だれみたいにしゃべらないで」など、台詞もとても生きていて、テレビで見慣れない顔なので役者名よりも役名が頭に入るせいかもしれないけれど、役者が演じているのではなく登場人物が映画の中の時間を生きているように見えた。終映後、息を詰めて見守っていた客席から、感嘆のため息とともに拍手が起こった。「あらためて、いい作品だ」と称えるような拍手の響きに加わりながら、いくつもの才能が出会ってこの作品が生まれ、今日に遺されたことに感謝したくなった。

2002年06月04日(火)  回文ぐるぐる「サッカー勝つさ」
2000年06月04日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2007年06月03日(日)  マタニティオレンジ127 0歳児時代は子どもより自分優先!?

数日前、変な夢を見た。わたしはどうしてもSMAPのコンサートに行きたいのだけれど(なぜSMAPなのか。追っかけでときどき上京する京都のメグさんの影響かもしれない)、子守を頼んでいた大阪の母が「わたしは文楽に行く」と言い張り(これはありうる)、ならば子連れで会場に入ろうとすると渋られ、会場近くの託児所へ行くと、いかにも信用の置けなさそうなスキンヘッドにタトゥーのゲイが出てきて「まかせて」とウィンクするのだけれど、まかせられずに引き返し、コンサートをあきらめた。

そんな夢を見たのは、少し前に読んだ保育園の園便りの影響だと思う。「身近なお出かけスポット」について各クラスから一人ずつ寄稿することになり、0歳児クラスではわたしに声がかかった。わたしはお散歩コースにあるおいしいイタリアンとパティスリーと、子連れで映画を楽しめるママズクラブシアターについて書いたのだが、他のクラスの保護者の方のコメントを読んで、あることに気づいて愕然となった。1歳児クラスのお父さんは「子どもと一緒に遊べる公園」を、2歳児クラスのお母さんは「子どもとじっくり絵本を選べる神保町の本屋さん」を、3歳児クラスのお母さんは「子どもが大好きなコミュニティバスのお出かけコース」を紹介している。わたしのコメントとの明らかな違いは、「自分が楽しむことありき」か「子どもが楽しむことありき」かだ。わたしが紹介したスポットは「自分が楽しいところに子どもをつきあわせる」という発想になっている。この寄稿文に限らず、「子どもと一緒に楽しめる」というとき、自分に子どもをつきあわせているのではないか、と思い至って愕然とした。

そのことが引っかかって夢にも出てきたのだろう。夢の中でもやっぱりわたしは自分の都合に子どもを合わせようとしているのだった。なんとなく後ろめたさを抱えていたので、金曜日に保育園のお迎えの帰りがけに園長先生から「園便りへの寄稿、ありがとうございました」と声をかけられたときに、「わたしだけ、親が楽しむことばかり書いてしまって」と恐縮すると、「いいんですよ。0歳のうちは」と言ってくださる。「まず、親が楽しくあること、それもとても大切なことです」。力強い言葉に、罪悪感がずいぶんぬぐわれ、気持ちが軽くなった。

親が好きな場所に、子どもを連れて行く。親が楽しいと思うことに、子どもを巻き込む。一緒に楽しむという意識はまだないかもしれないけれど、親の楽しい気分が、子どもにも伝われば、一緒に笑うことぐらいはできる。お出かけ日和の日曜日、ベビーカーで日比谷公園へ出かけ、日差しが入り込むテーブルでランチを取った。四人がけのテーブルを夫婦とベビーカーでぜいたくに使わせてもらう。陽気に誘われて、たまはベビーカーの中ですやすや。その間に野菜たっぷりのサラダバーを味わう。デザートが運ばれてくるタイミングで目を覚ましたので、だっこしながらお茶を飲んだ。一緒に食べられる日はまだ先だけれど、今は今の楽しみ方があっていいのかなと思う。

2005年06月03日(金)  劇団浪漫狂『ピカレスクpp行進曲』
2003年06月03日(火)  海南鶏飯食堂(はいなんじーふぁんしょくどう)
2002年06月03日(月)  きる ふぇ ぼん
2000年06月03日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月03日(日)  4年2組日記 先生の家


2007年06月02日(土)  『ベンディングマシンレッド』発進

炭酸が苦手でコカ・コーラが飲めないくせに、飲むコカ・コーラ以外は大好き。10代でアメリカに留学したときに、Coke=アメリカが刷り込まれてしまったのかもしれない。昔のクラシカルな広告を刷ったポストカードを集めたり、コカ・コーラのロゴ入りグッズを部屋に並べたり、わたしにとってコカ・コーラは眺めてうれしいもの。

最近教えてもらったショートムービー『ベンディングマシンレッド』は、コカ・コーラウォッチャーには見逃せない作品。「第1話 ベンディング マシン レッド発進!」に続いて「第2話 最重要物資を奪え!」をYouTubeで配信中。この先もふえていくと思われる。「ベンディングマシンレッドは突然変異によって現れた自動販売機型ロボットなのだ。行け !ベンディングマシーンレッド!進め!ベンデングマシンレッド!」という勇ましい謳い文句には「コカ・コーラ」の文字はないけれど、あの赤い自動販売機から手足が伸び、赤い顔が乗っかっている。戦隊ヒーローっぽい名前のくせに、強そうには見えない。大きな図体を持て余しているように見える。でかくてごつい上に顔もかわいくないのだけど、その武骨さ、不器用さがいじらしくなってくる。無骨自動販売機でありながら街角の自動販売機のおつり返却口に大きな指を突っ込もうとして往生している姿には、なんともいえない哀愁とおかしみがある。わたしが見ている横からパソコンをのぞきこんだダンナが「これ、バカバカしくて面白い」と受けていた。エッジが立っているようで、意外と間口は広いかもしれない。

ベンディングマシンレッドはmixiにも登場(レッド)。ムービーが気に入った方は、マイミク申請してみては。わたしも、はじめてロボットとマイミクに。日記で近況を綴っているのだけれど、こちらもなんともゆるい。レッド君、ムービーの中だけでなく、街にも出没している様子。目立つだろうなあ。コミュニティ(レッド(自販機ロボ)応援隊)もできていて、じわじわと注目度は上がっている様子。大化けしたら面白いな。

2002年06月02日(日)  お宅訪問
2000年06月02日(金)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月02日(土)  4年2組日記 バレーボール


2007年06月01日(金)  「いしぶみ」という恋文

向田邦子さんの短編とエッセイを集めた『男どき女どき』を読んでいて「いしぶみ」という言葉を知った。「昔、人がまだ文字を知らなかったころ、遠くにいる恋人へ気持ちを伝えるのに石を使った、と聞いたことがある」とある。

石に思いを託すためには、思いにぴったり合う石を探さなくてはならない。中途半端な石で妥協すると、受け取った相手に読み間違えされて、思わぬ誤解を呼ぶかもしれない。相手の顔や好みを思い浮かべながら便箋を選ぶよりも、もっと真剣で慎重な作業が必要になる。その分、今のこの気持ちを表わすためだけにあるような石に遭遇したときの喜びは大きいだろう。地べたに転がっている石ころを手紙という目で見たら、ひとつひとつが違って見えたり、物言わぬ塊が語りかけてくるように感じられたりするかもしれない。今度やってみよう。

「いしぶみ」に想を得て、こんな話を考えてみた。

いしころかぐや姫

その昔、文字をしたためた手紙ではなく、旅先で拾った石を届けて遠くにいる恋人に気持ちを伝える「石文(いしぶみ)」というものがあった。時は流れ、メールで手軽に気持ちを伝え合える21世紀、由緒正しい家柄の跡取り娘、しかも超美人という現代版かぐや姫が結婚相手を決めるにあたって出したお題が「石文」。最も彼女の心をゆさぶった石文の送り主が選ばれるとあって日本中からこれはどうだ、という石が続々と献上された。

中の空洞に水がたまって音がするアンデスの珍しい石、うけ狙いで漬物石、「あなたと食べる一生分のサラダのために」の願いを込めた岩塩……だが、姫のハートを射止める石は現れない。姫は芸術が好き、という噂が流れると、精巧な彫刻をこらした石や石のオブジェといった作品が届くようになる。それでも反応がないとみると、気持ちというのは結局金ではないか、という憶測が流れ、特大ダイヤモンドや世界にひとつしかないレアな宝石が競い合った。

脱落していく者が続出し、いつしか五年の歳月が過ぎ、石文合戦のことを世間が忘れた頃、ようやく姫の結婚相手が決まった。お披露目に現れたのは、貧弱な冴えない男。一体どんな石文で彼女を口説き落としたのかといえば、送ったのは、どこにでもあるような石ころだという。だが、一個ではない。お披露目の会場となったのは、小石が敷き詰められた庭。その庭を満たすだけの石を、五年の歳月をかけて送り続けた誠意が通じたのだった。


いしぶみについて触れた同じエッセイの中に、もうひとつ、印象的なエピソードが紹介されていた。向田さんが忘れられない手紙として挙げた、「○と×だけの手紙」の話。学童疎開へ向かう向田さんの妹に、父は自分宛の宛名だけを書いたハガキの束を渡し、「元気な時は大きなマルを書いて一日一通必ず出すように」と伝えて送り出した。最初はハガキからはみ出さんばかりだったマルがだんだん小さくなり、細っていき、やがてバツになり、ついにはハガキが来なくなった。疎開先で、妹は百日咳で寝込んでしまっていたのだという。それを読んで、『レ・ミゼラブル』の初版売れ行きを心配したビクトル・ユーゴーと出版社との世界一短い往復書簡「?」「!」や、南極観測隊の夫に日本で留守を守る妻があてたたった三文字の電報「あなた」を思い出した。手紙というのは言葉を費やせばいいというものではなく、端的な表現に思いがぎゅっと詰まったエネルギー効率の高いもののほうが心を打つけれど、発散させるよりも凝縮させるほうが高度な技を要する。沈黙の中に思いを込めるいしぶみは究極の離れ業だといえる。

2005年06月01日(水)  映画『子ぎつねヘレン』撮影中
2004年06月01日(火)  歌人デビュー本『短歌があるじゃないか。』
2002年06月01日(土)  フリマ
2000年06月01日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月01日(金)  4年2組日記 日記のざいりょう


2007年05月30日(水)  マタニティオレンジ126 ピアスを見たり赤ちゃんを見てもらったり

短歌の会「猫又」つながりで知り合い、高円寺阿波踊り仲間にも加えてもらったジュエリーデザイナー・宮崎美保子さんの自宅で新作コレクションを拝見。娘のたまの保育園を午前中だけにして、母娘で美保子さんちへ。おいしいものとおしゃべりが大好きな美保子さんのもとに、おしゃべりな人たちがおいしいものをさげて集まってきて、コレクションはパーティの口実になる。ワインやつまみやおしゃべりの合間に指輪やピアスを見せていただく。人が躍動しているポーズのものと、七色の光る石が連なったもの、2種類のピアスを購入。人は入れ替わりたちかわりやってくるのだけど、急ぐ用のないわたしとたまはずっといて、たまは妙齢のご婦人たちに次々と抱っこされることになった。

1時過ぎに到着して、気がつけば、8時。2、3時間お邪魔するつもりが、倍以上の時間をすごしていた。ここで困ったのが、おむつ。多くても2回替えれば十分、と読んで2枚しかもってこなかったのだけど、替えたばかりの2枚目がまさかの大爆発。ちょうどお客さんが途絶えた時間で、美保子さんが10分ほど出かけてくる間、留守番を頼まれていた。美保子さんの携帯に電話して、おむつを買ってきてもらうべきか、いや、それまで待てない。美保子さんが在宅していたとしても、ドラッグストアへ行く間にますますぐずるたまを見ていてもらうのは申し訳ないし、かといって、爆発のままだっこひもで抱えるのは不可能なので連れても行けない。

とにかく、今この場でことをおさめなくては。さあどうする? とっさに頭をよぎった選択肢は
○タオルで急場しのぎの布オムツ→もれそうだから×
○ウンチをぬぐって履かせ続ける→表面張力級の大量なので×
うーむどちらもダメだあ、と思ってひらめいたのが、「そうだ、さっき替えたおむつをもう一度はかせよう」。比較的汚れの軽いおむつを持ち帰り用ゴミ袋から取り出して再び開き、爆発オムツと交換。肌にあたる部分には駅前でもらったティッシュを敷き、なんとか帰宅するまで持ちこたえた。 まったくもって自慢にならない話だけど、こういう究極の選択に直面するのも子育て期間ならではだなあと思った。そして、わたしには長居の気があるのだから、おむつは余裕を持って用意しなきゃ、と反省。

2005年05月30日(月)  脱力系映画『イン・ザ・プール』
1979年05月30日(水)  4年2組日記 男子べんじょ


2007年05月29日(火)  マタニティオレンジ125 ちょちちょちあわわ

先日の保育園保護者会で教わった「ちょちちょちあわわ」の歌、わたしは知らなかったのだけど、子守唄の定番らしい。

ちょちちょち あわわ
かいぐりかいぐり とっとのめ
おつむてんてん ひじとんとん


「ちょちちょち」で手をたたき、「あわわ」で手を口に当て、「かいぐりがいぐり」で糸巻きのように両手をぐるぐるまわし、「とっとのめ」で人差し指で反対の手の甲を指差す。「おつむてんてん ひじとんとん」で頭とひじを軽くたたく。「お風呂なんかで歌ってあげてください。喜びますから」と言われ、早速やってみたら、ほんとに大喜び。保育園でも何度も歌ってもらっているはずだけど、わたしが歌うと、また新鮮なんだろうか。「あわわ」を真似してやるようになり、その仕草がなんともかわいい。「あわわわわ〜」とそれだけ延々とやってみせると、たまも懸命に真似する。ちゃんと大人を見て、同じことをやろうとしているけなげな姿に、涙が出そうになる。

そういえば、ずいぶんフライングでどっさり本を借りてきたベビーサインの適齢期はたしか8か月頃だった。6か月頃から使っていると、8か月頃に自分からサインを出すようになるといったことが書かれていたと思う。結局、ベビーサインを意識して使うことはしなかったけれど、「げんこつやまのたぬきさん」のような振りつき歌もベビーサインのひとつだと、これも本に書かれていた。同じ歌を歌って、同じ振りをして、それで十分コミュニケーションになっている。

2005年05月29日(日)  『昭和八十年のラヂオ少年』を祝う会
2004年05月29日(土)  幸せのおすそわけ
2002年05月29日(水)  SESSION9
1979年05月29日(火)  4年2組日記 お母さんのおてつだい


2007年05月28日(月)  高田さんからの招待状

昭和ひとけた生まれの高田さんは、今井雅子ファン長老クラスの一人。ときどき和紙にしたためた丁寧なお便りをよこしてくださる。あじわいのある筆文字に独学の水彩画が添えられて、そのまま額に飾りたくなるような風情がある。味わいのある文体も楽しみで、読んでいると、にこにこ、くすくすと笑顔や笑いを引き出される。

今回のお便りは、高田さんのお宅でわたしを囲んで集まりましょう、というお誘い。高田さんを引き合わせてくださった同級生の余語先生や二人の共通のお友だち四、五人と応接間で語らう会をこれまでにも何度か持った。皆さん、あと数年で80になる。「気楽なパーティであの世行き乗客専用車にまぎれ込んだ面白味もあるかもしれません」。こういうとぼけた表現が便箋のあちこちに見え隠れする。風邪を引いてなかなか治らなかったときの心境を「お棺の中で寝ている様」と綴り、体調が回復したのでまた新たな絵の制作に取りかかろうと思っているが、「『とし』ですので、まあ子ぎつねへレンがミルクをのむ様な気持で自然に自分が楽しめれば」と語る。

高田さんには、生まれて二か月ほどのときに家に遊びに来てもらい、娘のたまにも会ってもらっている。そのときの印象を「小生はただ物珍らしそうにイエス様とお合いした様な気持ちで赤ちゃんを眺めるのみ」と振り返り、「次にお目にかかる時はこのスクスク組とシワシワ組のかわりように驚き世の諸行無常を嘆くことを必ずと覚悟致しております」と手紙は結ばれている。

2005年05月28日(土)  このごろの通販ショッピング
2004年05月28日(金)  日本映画エンジェル大賞授賞式
1979年05月28日(月)  4年2組日記 がっけんのふろく


2007年05月27日(日)  大人計画『ドブの輝き』

下北沢本多劇場にて大人計画公演『ドブの輝き』を観る。おめあては『子ぎつねヘレン』に警官役で出演された阿部サダヲさん。この人は、見ているだけで、おかしい、楽しい、うれしい。顔面も含めて人間の身体ってこんなに面白い動きができるんだ、と感心してしまう。初主演映画『舞妓haaaan!!!』ではどんな怪しい動きを見せてくれるのか、楽しみ。

阿部さんだけでなく、出演者は皆、体を張っているというか、体当たりというか、体をめいっぱい使ってエネルギーを発散させて、舞台のお祭り騒ぎを加熱し、加速させている。演技していると言うより体現しているという感じ。受け止める側の観客にも相当なパワーとスタミナが要で、寝不足や二日酔いでは力負けして迎え撃ちできない。キャラクターは強烈だしネタは過激だし、大人計画の舞台は、わたしにとっては食べなれない食材や香辛料をふんだんに使った珍味のようなもので、体調不良のときには胃もたれや胸やけや消化不良を起こす。二、三日前から体調を整え、体力を蓄えて劇場に乗り込まねばならない。気合十分な観客たちの「かかってこい」オーラが結集して、開幕前の客席の高揚感になる。

おしりは痛くなったけれど、最後まで振り落とされずに済んだ三時間に迫る長大作は、「涙事件」(作・演出:宮藤官九郎)、「えっくす」 (映像演出:井口昇)、「アイドルを探せ」(作・演出:松尾スズキ )のお芝居二本と映像一本の三本立て。書き手としては遠慮してしまうような大胆不敵な台詞を、客席は遠慮なく笑い飛ばす。茶化したり笑いのめしたりしているなかに、ドキッとさせられる真理が顔をのぞかせるので油断はできない。ドブの輝きというタイトルは、大人計画らしさを言い当てているように思った。

2005年05月27日(金)  『シンデレラストーリー』@ル テアトル銀座
1979年05月27日(日)  4年2組日記 みんないっしょに

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