2007年02月27日(火)  平成18年度確定申告

日記の更新が遅れているのは、確定申告に時間を取られていたせいだ。毎年この季節になると、「青色申告にしたほうが、たくさん戻ってくるんだろうか」「税理士さんにお願いしたら、いくらぐらいかかるんだろう」などと迷いつつも、提出期限が目前に迫っているので、自力で片付けてしまう。便利なソフトが出ているとはいえ、「帳簿をつける」という面倒くさそうな響きに二の足を踏み、いまだに白色申告。領収書の提出などは求められないけれど、抜き打ちで査察が入ったときのために、経費はきっちり計算して出す。これもエクセルにすればいいものを、領収書やレシートの金額をいちいち電卓に打ち込んだ結果を手書きでメモし、それを項目別にまとめてワードに打ち込むという超アナログなやり方。こんなことやってる間にプロットのひとつでも書くべきではないか、と思う一方で、年に二、三日ぐらい、ひたすら電卓を叩く日があってもいいじゃないか、と自問するのも毎年恒例。今年は片手で乳飲み子をあやしながら片手で電卓を叩くので、例年の倍以上の時間がかかり、一週間を確定申告週間にあててしまった。

電磁波が怖いので、子どもを抱いてパソコンの前に座ることは避けている。子どもを寝かしつけてから、国税庁のホームページを開いて申告表に入力。画面に金額を打ち込むだけで計算してくれるので助かる。雑所得の収入内訳の欄に、この一年仕事した会社の名前と所在地と金額を打ち込みながら、この企画は成立させたかったとか、あのプロデューサーは元気かなあとか、悔しがったり懐かしんだり。企画がボツになるのは悲しいけれど、お金をもらえるようになったのはせめてもの救い。会社員の給料に雑所得の原稿料が混じるようになったのは、平成11年。確定申告のやり方がよくわからず、申告するようになったのは13年から。6桁だった雑所得が7桁になり、給料の4分の1になり、3分の1になり、給料を追い越した平成17年度に会社を退職した。

はじめて給与所得が0になった平成18年度、雑所得は過去最高になり、会社にい続けて受け取ったであろう年収の約3倍に。その半分以上は映画『子ぎつねヘレン』の著作権使用料と関連本の印税なので、来年はどうなるかわからない。だから原稿料や印税は「変動所得」といって、「平均課税」を適用できる。「18年度の変動所得(収入から必要経費を引いたもの)」から「前年度と前々年度の変動所得の平均」を引いたものが「変動所得の平均額」として、平均課税の対象額となる。細かい計算式はわたしの説明能力を超えているけれど、要は「浮き沈みの激しい収入」に見合った「やさしい税率」をかけてもらえる仕組みになっている。申告用紙の注意書きには「変動所得の種目の各欄には、漁獲、のり、はまち、まだい、ひらめ、かき、うなぎ、ほたて貝、真珠、真珠貝、印税、原稿料、作曲料などと書きます」とある。いつ引っかかるかわからない獲物を狙って釣り糸を足らしたり網を広げたり……脚本家の仕事には確かにそういう側面がある。

2005年02月27日(日)  1975年のアカデミー賞映画『カッコーの巣の上で』
2002年02月27日(水)  世の中は狭い。いや、世界が広くなったのだ。


2007年02月26日(月)  500円の価値

信販会社より「お客様情報流出のお詫び」が届く。ニュースでは何度も見聞きし、よくあることだと思っていたが、ついにわたしにも巻き込まれる番が回ってきた。クレジットカード会員を対象にしたダイレクトメール作成を印刷会社に預託した際に個人情報の一部が流出、その内容は「カード番号、有効期限、氏名、性別、生年月日、郵便番号、住所、電話番号でございます」とある。発覚の経緯や今後の対応、手元に心当たりのない請求書や不審なダイレクトメールが届いたときの対処法が丁寧に記されている。

「お客様に多大なご迷惑とご心配をお掛け致しますこととなり、謹んでお詫び申し上げます」とひれ伏さんばかりの文面だが、「お詫びの気持ちの一端として」同封されたクオカードの額面は500円。事が重大なのかどうか、よくわからなくなる。1000円だったら2倍の誠意が感じられるわけでもないし、10000円だったら「こんなに包まれるほどやばいのか」と不安をあおってしまうかもしれない。お詫びの気持ちを示しましたという事実が大事なのだろう。封筒には「親展」とあるので、ダイレクトメールだと思って開封せずに捨ててしまう人も多いと思われる。ゴミ箱に消えるクオカードの総額はいくらになるだろう。ネタ探しと紙リサイクルのためにダイレクトメールは一通り開封する習慣のおかげで、500円を捨てずに済んだ。いつかこの手のお詫び文書が自分の作品に登場するときのための資料も入手できた。

500円といえば、最近近所のお肉屋さんで買い物したとき、「これ、500円玉じゃないみたいだけど」と出したばかりの硬貨を差し戻された。えっと思ってよく見ると、「500円」と刻印されてはいるが、顔つきが違う。「南極地域観測50年」「平成19年」とあり、最近発行された記念硬貨のよう。「これ、本物ですよね。わざわざ、ニセモノでこんなもの作らないですよね」。いつの間にわたしの財布に紛れ込んだのか、なんだか手品みたい。「記念になるから取っとこっかな」と言うと、「それがいいよ。ね、ね」と店のおじさんが熱心に後押しする。またおつりを返すときに問答になるのが面倒なのかもしれない。押し付けられる形になると、あんまりうれしくないものに思えてしまう。人がありがたがるものをありがたいと思う気持ちが値打ちを底上げするんだなあと実感。

持ち帰った記念硬貨の500円玉は、まだそんなに人の手を経てないようで、ぴかぴかしている。絵柄の二頭の犬は観測犬のタロウとジロウだろうか。昨年リメイク版が作られた映画『南極物語』のオリジナル版は、わたしが人生で最初に観た映画十本の中に入るひとつ。まだ小学生だったと思うが、買ったパンフレットをすみずみまで読んだのを覚えている。いくつかの場面は今でもくっきりと思い出せる。大人になると、映画を観ている途中にふと他のことを考えてしまったり、ある場面を見て別な作品を連想したりしてしまうけれど、子どもの頃は目を見開き、耳を澄まし、全神経を集中させて映画の世界に入り込んでいたのだろう。

2005年02月26日(土)  ブラジル物産展
2002年02月26日(火)  数珠つなぎOB訪問


2007年02月25日(日)  マタニティオレンジ83 風邪の置き土産

噴水みたいに母乳を吐かれて仰天し、小さな体を折って咳き込む姿に涙を誘われ、娘のたまのはじめての風邪には、これまでになく焦ったりオロオロしたりさせられた。裏を返せば、それまでがあまりにも順調で楽しすぎていたのかもしれない。熱は平熱のままだったのだけれど、鼻と喉が詰まって息するのが苦しそうで、寝ている間に呼吸が止まったらどうしようと心配になった。新生児の頃によくやったみたいに、鼻の前に手のひらを近づけて、吹きかかる息を確かめたりした。もともとわたしの風邪がうつったのだけれど、看病しているうちにこちらの身が弱りそうだった。

一週間経ち、たまはすっかり回復。治ってみれば、風邪のおかげで得られた収穫に目を向ける余裕ができた。診察も薬もタダの乳児保険証のありがたみをつくづく実感。近所の小児科がとても頼りになるいいお医者さんだということも確認できた。その病院の2階では病気の子どもを預かる病児保育をやっている。病気のときに預けることに後ろめたさもあったけれど、仕事の都合で止むを得ず一日お願いしてみた。ベッドが並んでいるだけの殺風景な空間を想像していたのだが、行ってみると、そこは保育園のようなおもちゃと明るい色のあふれる楽しげなお部屋。その日は定員四人のうち三人がインフルエンザの子で、他の三人と部屋を分けたたまは20平米ほどの広々した部屋と保育士さんをひとり占め。わたしが預けた7時間の間におむつを4回替え、ミルクを2回与え、薬を1回飲ませ、熱を3度計り、診察と鼻の吸引までやってもらえる至れり尽くせりぶりだった。家族以外に預けるのははじめだったけれど、この日を境にたまの体調は一気に回復。夜にはひさしぶりの寝返りを決めた。区の補助に支えられているのだと思うが、朝8時半から夕方5時半まで見てもらえて保育料は3000円。人の手を借りられるところは借りればいい、プロにまかせられるところはお願いすればいい、と身をもって学んだ。

シロップ薬は離乳食をはじめる前の格好のスプーントレーニングになったが、空いた大小二つのプラスチックボトルは薬瓶の役目を終え、お風呂のおもちゃに就任。湯船にぷかぷか浮いて、手を伸ばすとするりと身を交わし、魚みたいに手の中で踊ったり跳ねたりする。予測のつかない動きを見せるので、たまは夢中になって手を振り回し、追いかけ回している。その元気な姿を見て、健康がいちばん、としみじみ思えるのは、風邪が置いて行った何よりの土産だろう。風邪の間はお風呂もおあずけだったから、お風呂に入れることにも感謝してしまう。あたり前のことをあたり前にできる日常の中に幸せはあるのだ、と不自由な風邪週間のあとの平常を味わっている。

2006年02月25日(土)  半年ぶりの美容院
2002年02月25日(月)  信濃デッサン館


2007年02月24日(土)  マタニティオレンジ82 たま6/12才と応援団

8月22日生まれの娘のたまが2月22日(わたしの母の誕生日でもある)に6か月になった。節目の半年、はじめての風邪がおさまり、元気がいちばん、としみじみした。風邪を引いた以外はすくすく育っているように思われる。下の歯が二本顔を出したので、授乳の後、水を含ませたガーゼでぬぐっているが、離乳食はまだ始めていない。観察対象としてもどんどん面白くなっている。2月の頭に寝返りとおすわりを相次いで決め、表情や手の動きがさらに豊かになった。お風呂の中では両手を振り回して水面をたたく。顔にしぶきを浴びても平気で、歓声を上げる。おもちゃを与えられるより、一緒に体を使って遊ぶのが好きで、わたしが船になったり、たまを飛行機にしたり、二人でシーソーになったりして遊んでいる。たま語のボキャブラリーもふえ、ときと場合に応じて違った音を発する。彼女なりに意味のあることを言っているのだろう。昨日ははじめてのドライアイスに興奮、あぶくと水煙を立てて踊る小さな氷山をのぞきこみ、「アチャ〜ンゲ〜ホエ〜」と話しかけていた。

「今月は誰を呼ぼうか」と悩む前に、3つ下の応援団のリーダー部員だったスギヤマ君から「たまちゃんの6/12才と先輩の誕生日と僕の誕生日を一緒に祝いましょう」と売り込みがあり、マンスリーゲストはすんなり決定。スギヤマ君・ナツコさん夫妻、チアリーダー部の大後輩でスギヤマ君の元同僚のカネコ嬢、カネコ嬢のさらに後輩でわたしの11代下のカナザワ嬢が祝いの品や泡立つお酒やケーキを持って集まってくれる。去年2月にわが家で顔を合わせたメンバーでもある。「あのときすでにたまちゃんがおなかにいたんですね」「でも、お酒飲んでましたね」「ちょっとだけね」。数センチの大きさだった胎児が外に出てきて、70センチサイズの服を着ている。petitcoquin(プチコキャン)でそろえてくれた誕生日プレゼントは、離乳食こぼしてもへっちゃらスタイ、ミルクにかけてホルスタイン模様の洒落がきいた哺乳瓶、オブジェとしても飾るもよしのポップなマラカス、写真に撮り忘れたけれどあひる柄とみつばち柄の紙ナプキン。さすが後輩、わたしの趣味をよくわかっている。マラカスを握らせると、たまはフライドチキンのごとくかぶりついた。

メニューは、これを出せば間違いなしなので恒例となった魚屋てっちゃんの刺身、ジャーマンポテト、鶏がらでだしを取った鳥鍋。たまはダンナとわたしに交替でだっこされ、ごきげん。「自分に関心が向いてないと面白くないのよね」と言うと、「応援団向きですね」とスギヤマ君。手足のたくましい動きを見て、「踊りそうですね」「将来はチアですか」とカネコ嬢とカナザワ嬢。声は大きく、笑顔もばっちり、素質は十分かも。応援団特有の伝統や美意識や上下関係は今の若者には面倒がられ、全国の応援団が団員不足や断絶の危機に瀕しているのだという。踊りたくてチアリーダー部に入っても、ビラ配りや立て看板制作やOBあての文書発送や夜ごとの宴会という応援団の行事につきあわされる。これをイベントとして楽しめるか拘束と感じるかで明暗が分かれるのだが、卒団まで生き抜いた団員たちは、四年かけて叩き込まれた「楽しいお酒の飲み方」や「目上の人との会話の続け方」や「一見無理なことも気合で何とかなる、どうせやらなきゃならないことは楽しんだ者が勝ち精神」が社会に出て何より役に立ったと口を揃える。「だけど、たまちゃんが大学生になる頃まで、ありますかねえ、応援団」とずいぶん先の心配をする元団員たちだった。


スギヤマ夫妻が選んでくれた6/12才ケーキは自由が丘のパリセヴェイユ(Paris Seveile)のもの。磨き上げたピアノのようなチョコレートの光沢にキャンドルの炎が映り込み、なんともいい感じ。1/12才のときに「一本だと線香みたいだよね」とキャンドルを立てるのをやめたのだけど、立ててみると、バースデーケーキはこうでなくちゃという気がする。電気を消し,ハッピーバースデーの合唱のあと、代理でわたしが炎を吹き消した。

アンティークの便箋に羽根つきペンでしたためたようなメッセージプレートの美しさにただならぬセンスを感じるが、チョコレートクリームとピスタチオのクリームとフランボワーズのソースが口の中で渾然一体となる味の完成度も相当なもの。クリームの間にカラメルの薄い層がはさまれ、フォークで突き刺したときの手ごたえ、口に含んだときの歯ごたえが、いいアクセントになっている。カナザワ嬢のおみやげのリーガロイヤルホテルの色とりどりのマカロンはひと足早い春が来たようだった。

2007年1月20日(土) マタニティオレンジ61 たま5/12才
2006年12月23日(土) マタニティオレンジ47 たま4/12才
2006年11月23日(木) マタニティオレンジ31 たま3/12才と食育
2006年10月22日(日) マタニティオレンジ23 たま2/12才
2006年9月23日(土) マタニティオレンジ10 誕生日コレクション

2006年02月24日(金)  金曜日の夜の開放感
2005年02月24日(木)  だいたい・キラキラ・インドネシア語
2002年02月24日(日)  PPK


2007年02月23日(金)  シュークリーム・ランキング

高校時代に大阪で一緒に留学前研修を受けたマイちゃんが遊びに来てくれる。会うのは三年ぶり。子育ての13年先輩であるマイちゃんは受験やママづきあいの大変さを語り、「昔の友だちはラクでええわあ。いらん探りあいせんでええし、どこまで話していいんか気ぃ遣わんでええし」と言った。お互いの赤ちゃんをかわいいねえとほめあっているうちは平和だが、子ども同士の人間関係が結ばれ始めると、こんがらがってくる。1)親も子も仲良し 2)親は仲良し子は仲悪し 3)親は仲悪し子は仲良し 4)親も子も仲悪しの4パターンのうち「2と3が面倒やねん」とマイちゃん。葛藤あるところにドラマあり。「まあ、見ててみ。あんたもすぐやで」。楽しみなような怖いような……。

手土産に持ってきてくれたのはシュークリーム。渋谷の東急東横店のシーキューブ(Cの3乗と表記)で買ったもの。はじめて食べたけど、アイスクリームみたいに濃厚なクリームが気に入った。「シュークリーム、めっちゃ好き」と言うと、「よかったぁー。わたしも好き」とマイちゃん。彼女のベストシューは慣れ親しんだヒロタのカスタード。子どもの頃よう食べたなあ、あればっかし食べたなあ、あれしかなかったし、と話す。

先日、恵比寿でお昼を食べたお店で食べたシュークリームもめっけもんのおいしさだった。250円のランチデザートを大した期待をせずに注文したら、ずいぶん気合の入った一皿が運ばれてきたのだ。大きく開けた口(あご、外れてます)にたっぷりのクリーム、その下にはリンゴのコンポートという組み合わせ。シュークリームは、形からして「幸せ〜」という顔つきをしている。結婚前のダンナがはじめてわたしの大阪の実家に来たときの手土産もシュークリームだった。甘いものはじゃんけんで取り合うのが慣わしの今井家では、父が真っ先に「じゃいけん!」と張り切って声を上げ、当時のダンナは「おやつに目の色を変える、子どもみたいな親」に驚いたり、「シュークリームなんだからじゃんけんする必要はないのでは」と思いつつ突っ込めずにいたりした。

あとの自分のベストはなんだろう、とこれまでに食べた大小さまざまのシュークリームを思い浮かべてみる。帰りに立ち寄ったら、とマイちゃんにおすすめした近所にあるパティスリー・シモンのシモンシューはかなり上位に位置している。バニラビーンズたっぷりのクリームを注文してから詰めてくれるのがうれしい。

最近は散歩コースのパティスリー・マリアージュの軽やかなシューに心を奪われている。シモンシューは何十回と食べているので、新鮮な出会いに浮気しているだけかもしれない。『子ぎつねヘレン』の網走ロケで獣医監修の荒井先生が差し入れてくれた幸栄堂菓子舗のシュー(写真で見るとじゃがいもみたい。北海道なだけに!?)も忘れられない。

ご近所シューといえば、他にも三田線白山駅近くの手作りケーキ屋『風子』のシューや、三田線千石駅近くのお茶屋さんがやってるケーキ屋さんのエクレアがなかなかの実力を備えていたりする。

上位ランキングはめまぐるしく入れ替わるけれど、ベストはやはりウエストのシュークリームだろうか。ナイフとフォークが必要な551の豚まんもびっくりのボリューム、それでいてナイフとフォークでいただくのが似合う優雅な味わい。不動の一位にふさわしい堂々たる風格を備えている。

シューが好きということはエクレアも好きだ。ポーランドの古い城下町クラコフでは、道行く人たちがホットドッグ感覚でエクレアを頬張っていた。ポーランド人のくわえタバコ率の高さには驚いたが、タバコをくわえていない人はエクレアをくわえていた。どのパティスリーのショーケースにも必ず並んでいるエクレアを食べ比べるのは楽しかった。ポーランドではエクレアのことを「棺桶」と呼ぶと聞いたことがあるけれど、真偽のほどは未確認。でも、似ている。写真は、わたしのエクレア好きを聞きつけた友人のテスン君が手土産に持ってきてくれたもの。ビターなクリームといい、小ぶりで細身のサイズといい、大人のエクレアという感じ。味も洗練されていて、ひとつ上の高級感を醸している。名前は失念してしまったけれど、世田谷の梅が丘のほうのお店。

エクレアといえば、『子ぎつねヘレン』の打ち合わせのとき、誰も手を出していない差し入れのエクレアに、誘惑に負けてかぶりついた途端、はちきれんばかりに詰まったチョコクリームが飛び出し、打ち合わせ用の脚本の上に着地した。まだ突っ込みを入れられる人間関係ができる前だったので、何もなかったかのように会議は続けられたのだが、チョコレート色の日の丸みたいになっているのを見て見ぬふりされるのは何とも不自然だった。誰も突っ込まないので、ティッシュくださいとも言い出しにくい。焦る手の中ではコーティングのチョコレートが解けはじめているが、次のひと口で新たなチョコ鉄砲が飛び出す危険があった。その後どうしたかの記憶は抜け落ちているけれど、こういうのを間が悪いって言うんだなあとか、こうなるから誰も手をつけてなかったんだなあと反省したことだけは覚えている。

2006年02月23日(木)  金メダ○
2005年02月23日(水)  飛騨牛パワー合同誕生会
2002年02月23日(土)  連想ゲーム


2007年02月22日(木)  マタニティオレンジ81 母になっても女心はある

朝から、つまらないことで不機嫌になった。近所にできた予約がなかなか取れないレストランに、ダンナが仕事先の人と行くことを知った。それに対して、「わたしと行くんじゃなかったの?」となじった。「行きたいねって言ってたけど、約束してたわけじゃないじゃないか」とダンナが反論した。それはそうだ。「それに、思い出の店ってわけじゃないし」。それもそうだ。「だけど、わたしと行く前に、他の人と行くわけ?」「いいじゃないか。下見だよ」「その人たちと行く前に、わたしと行けないの?」「無理だよ」。そんな不毛なやりとりをしているうちに、どんどん面倒くさい女になっていって、「何だよ、うるさいな!」とダンナを怒らせてしまったので、わたしは黙り込んだ。

客観的に自分の言い分を聞きながら、「こういう女とは、予約が取れても食事したくないなあ」と思う。だけど、言わずにはいられなかったのだ。一体何が気に入らないんだろう。ダンナを送り出し、一人になって考えてみた。妊娠・出産するまでは「子どもができたら、おいしい店でお酒飲んだりできなくなる」というのは、わたしがおそれていたことのひとつだった。だけど、いざ産んでみると、おしゃれして、いい店に行って、いいワイン空けて、という欲求がうまい具合に子育ての面白さに置き換わった。子連れで出かけられるところも案外あるものだし、週末は出かける代わりに友人たちが来てくれるようになったし、何かを我慢したり犠牲にしたりしているという不満はなかった。

でも、不満はなかったのではなく、表面化してなかっただけかもしれない。自分が家で子どもと二人で向き合っているときに、すぐ近くの店でダンナがおいしいものを食べることにケチをつける。これは嫉妬だ。風邪を引いた娘と数日間家に引きこもっていた閉塞感も追い討ちをかけたわけだが、ダンナにはわたしが駄々をこねているようにしか聞こえない。だけど、何とも説明がつかないこのもやもやした気持ちは、何なのだろう。何かがズレている。ズレが生まれたのだ、と思い当たる。二人の行動範囲に極端な差ができて、バランスが悪くなっているのではないか。毎晩のように外食しているダンナにとって、その店は数ある選択肢の一つでしかないのだが、外で食べる機会が激減したわたしの中では、子どもを預けてその店で食事する楽しみの比重が異様に膨らんでしまっていた。そして、産んで以来、すっかり乳母化して、二人で食事をするというデートの対象に見られなくなっているという現実を突きつけられた淋しさも手伝って、ねちねちと食い下がってしまったのだ。そんな風に今朝の自分の言動を分析した。こういう些細なことを掘り下げてみるのも、いつか飯の種になるかもしれない。

じゃあ、どうして欲しかったのか。ダンナがその店に行くのはかまわないし、順序だってどうだっていい。夫の楽しみを喜べないつまらない妻にはなりたくない。ただ、気持ちを察して欲しかったのだ。休日、ダンナに子どもを見てもらって映画や芝居を見に行っても、わたしは用が済んだら食事もせずに飛んで帰る。だけど、ダンナはいつ帰ってくるか告げずに出かけられる。わたしは心配だから、早く会いたいから急いで帰るわけだし、それを損だとか不公平だとかは思わない。けれど、それぞれが好き勝手やっていた二人に子どもができて、片方の時間の過ごし方ががらりと変わってアンバランスが生じている。そのことをわかっていて欲しかったのだと思う。わたしのまわりにも「子育ての大変さに不満はないけど、夫がそれを『母親なんだから当然』と思っていることが不満」と訴える人は多い。妻という字はわかりやすく下半分が女になっているのだが、母という字に隠された女は目を凝らさないとも見落としてしまう。母になっても女心はあることを世の中の夫たちは忘れがちなのではないか。女心を察して態度で示すためには、店へ連れて行くより高度な繊細さが要求される。ダンナにはしっかり下見をしてもらって、いつかあらためて誘ってもらおう。その日はちゃんとおしゃれして、マスカラも塗って、一緒に食事をして楽しい妻でありたい、と思う。

2006年02月22日(水)  史実の63年後に観る映画『白バラの祈り』
2002年02月22日(金)  生みっぱなしじゃなくて


2007年02月21日(水)  三島由紀夫レター教室

同じ作家の作品を続けて読むことが多い。他の作品との共通点を見つけるのも楽しいし、同じ作家が書いたと思えない作風の幅を知るのも楽しい。ひさしぶりに読み返した『音楽』に唸り、『三島由紀夫レター教室』を手に取った。「有名人へのファン・レター」「借金の申し込み」「同性への愛の告白」「出産通知」「英文の手紙を書くコツ」などといった項目ごとに「筆まめ」だけが共通する五人の登場人物の書く手紙が紹介されていく。文例集の顔をした小説である。読み進むうちに五人を取り巻く状況や過去が浮き彫りになり、行き交う手紙が交錯する糸のようになって五人の人間関係を複雑に絡ませていく。

女性週刊誌に連載していたとあって、手紙の文体も内容も日常会話のように軽やかなのだが、平易な文章の中に顔をのぞかせる比喩のうまいこと。女好きの服飾デザイナー・山トビ夫は客の中年女性の崩れた体型を「はみだしたシュークリーム」とこきおろし、年下のOL・空ミツ子の胸を「ふくれて、口をとんがらせて、『何よ』と言っているみたいな形」と形容する。ミツ子は、アルバイトしながら演出家を目指す多忙な青年・炎タケルからのプロポーズに「私は、一枚のオブラートではあるまいし、二十四時間のあなたのお時間の、どの隙間にすべりこめばよいのですか?」と返す。貧乏学生・丸トラ一に天津甘栗をねだられて「ゴキブリでもつかまえて食べていたらいいでしょう。どちらも黒光りしてツルツルしていますからね」と突き放す未亡人・氷ママ子は、まったく魅力を感じない取引先男に告白され、「たのみもしないのに、いきなり頭へ重い鉄兜をのせられたよう」と男友達のトビ夫に相談。トビ夫は「どうか、路面電車の線路と地下鉄の線路は、決して交差することはないということを、ご銘記くださいますように」とやんわり断る返信を提案する。タケルとミツ子の披露宴に出たトラ一は、紋付き袴の新郎と文金高島田に白のウチカケの新婦が「キンキラキンの支那料理店」に座るさまを「ラーメンの丼に刺身を入れて出されたような感じ」と表現する。人物のネーミングのセンスには時代を感じさせるものの、テレビが白黒であっても表現には古さを感じさせない。

性的快感を音楽に例え、冷感症の女性の治療過程を精神科医の目線で淡々と綴りながら心理サスペンスに仕立てた『音楽』と同じく、人間観察の鋭さとそれを表現する文章力の巧みさに感心することしきり。芝居に誘ったところ「千載一遇のチャンスを逸するのはくやしくてたまらない」が、親友の結婚式と重なってしまい、「一生に一度の盛事に奉仕せねばならぬ」由を述べた返事とともに切符を送り返したミツ子に対して、「あなたは手紙を長く書きすぎました」と咎めるママ子の手紙は秀逸。「招待を断るには『のがれがたい先約があって』という理由だけで十分」であり、「出席か欠席かの返事だけが大切で、それについて、もはや余計な感情の負担を負いたくない」という指摘の的確さに唸らされた。手紙には込めるべき情報や感情の適量があり、足りないとゴミになるが、度を越すと荷物になる。

最終章の「作者から読者への手紙」は、著者のあとがきである。手紙の第一要件は「あて名をまちがいなく書くこと」と三島由紀夫は記す。それをまちがえることは「ていねいな言葉を千言並べても、帳消し」にし、「文中に並べられたおびただしい誠意を、ニセモノと判断させるに十分」となる。最近はコピー&ペーストであて名だけ差し替えた手紙がふえたけれど、わたしのところにも別人あての取材や仕事の依頼が来る。五箇所あるうちの四箇所はわたしの名前になっていて一箇所だけ別の人の名前が残っていたりすると、「先にこの人に話を持って行って断られたんだなあ」という事情が透けて見えて白ける。「手紙を書くときには、相手はまったくこちらに関心がない、という前提で書きはじめなければいけません」と力説する著者は、「他人は決して他人に深い関心を持ちえない、もし持ちえるとすれば自分の利害にからんだ時だけだ」という哲学を披露し、「手紙の受け取り人が受け取った手紙を重要視する理由は、一、大金 二、名誉 三、性欲 四、感情」と断言する。この第四の手紙はいちばん難度が高く、「言葉だけで他人の感情を動かそうというのには、なみなみならぬ情熱か、あるいは、なみなみならぬ文章技術がいるのです」とある。

メールも含めて、わたしは手紙をよく書くほうだと思うし、今書いている日記も不特定多数の人に向けた手紙と言える。手紙という乗り物に正しい分量の情熱を乗せて正しい方向へ発信できているだろうか、と自問する。脚本だって、出資者や出演者に訴えかけ、最終的に観客に届けられる手紙という見方ができるかもしれない。もうかりますよ、えらくなれますよ、もてますよ、でない限り、心をゆさぶる脚本でなければ相手にしてもらえないということだ。

2006年02月21日(火)  何かとツボにはまった映画『燃ゆるとき』
2005年02月21日(月)  『逃亡者の掟』(人見安雄)
2002年02月21日(木)  映画祭


2007年02月20日(火)  ヘレン絵本四刷できました

映画『子ぎつねヘレン』から生まれた絵本『子ぎつねヘレンの10のおくりもの』の四刷の見本誌が届く。版を重ねるごとに帯も微妙に変化していて(左から一刷、二・三刷、四刷)、四刷には「かけがえのないもの、家族の絆、思いやる心、そして命の尊さ─ヘレンが教えてくれた、大切なこと。」とある。奥付の日付は今日2月20日。昨年3月21日の映画公開から一年近く経っても手に取ってくれる人がいる。「ブームで終わるのではなく、息永く読み継がれる絵本に」と編集会議で話し合ったことが現実になった。

わたしの本だからと買ってくれた友人や知人が「うちの子が気に入って読んでいるよ」と報告してくれる。二歳になる友人の長男君は読み聞かせてもらううちに暗唱してしまったという。会ったことのない人がメールをくれたり、ブログで紹介してくれたりしている。お母さんの代筆やひらがなの感想文に混じって、大切な人を亡くした年配の方からのお便りも届く。タイトル通り、おくりものにと何冊も買い求める人もいる。高校時代の同級生はいつも感動をプレゼントしてくれる大好きなアーティストへ、お礼代わりにおくった。半世紀前にお子様を突然死で亡くされた七十代の友人は四十冊広めてくれた。絵本にサインするとき、「生きることは おくりものを おくりあうこと」という言葉を添えている。絵本から生まれるやりとりを楽しみ、喜びながら、おくりものをおくりあっているなあと実感している。

2004年02月20日(金)  いい履歴書の書き方
2002年02月20日(水)  別世界


2007年02月19日(月)  近くて遠いアカデミー賞

先週の金曜日、昨年仕事をしたプロデューサーから事務連絡の電話があり、おひさしぶりです、などと話していると、「いま、アカデミー賞の授賞式に来ているんです。お手伝いで」と言う。「そうか、今日でしたっけ」と答えて、「なんだかアカデミー賞なんて、すごく遠い世界です」と続けた。もともと賞レースに絡む作品に関わったことはないので、子育てで遠ざかったわけではない。けれど、映画会社にちょくちょく打ち合わせに行ったりしていると、映画業界の年に一度のお祭りは必ず話題にのぼる。何がノミネートされたとか、何が本命だとか、なんであれが選ばれないんだとか、そういう話に加わっていると、お祭り騒ぎのおこぼれにあずかれるのだった。「僕だって遠いですよ」と電話の向こうでプロデューサーが言った。「会場にいても、遠いですか」「ええ、遠いです」。目の前で祭典が繰り広げられ、自分の見知った関係者が受賞するのを見ても、自分が手がけた作品が賞を取らなければ、他人事になるのだろう。すぐそこにあるのに触れない、手が届かない、そのほうが遠く感じるのかもしれないなあと思う。

2005年02月19日(土)  青春京都映画『パッチギ!』
2004年02月19日(木)  ツマガリのアップルパイ
2002年02月19日(火)  償い


2007年02月18日(日)  東京マラソン2007

第一回東京マラソン当日。ダンナが出場するのでわたしも無関係ではいられず、朝6時に起床して、餅を焼いて雑煮風にしたものを作る。「とにかく炭水化物」ということで、昨夜の夕食はうどんとごはんだった。9時10分の出走シーン(もちろん自分は映らないのだが)のテレビ中継を娘のたまと一緒にビデオに撮っておいてくれ、と頼まれ、テレビの前に風邪引きたまをお座りさせてビデオを回すが、まるで興味がない様子。眠ったりぐずったりを繰り返すたまの看病と子守をしながらテレビの前でレースを見守る。

先頭争いよりも、一般参加者のお祭り騒ぎを見ているほうが楽しい。受けを狙ってとんでもないカッコをしている人がいるのでは、と思ったけれど、急遽配られた雨よけのポンチョをかぶった人がほとんどでよくわからない。ベルリンマラソンでは走っている途中で挙式して婚姻届まで出すカップルがいた、なんて解説が入る。雷門前で立ち止まって写真を撮っているランナーがいます、そんな中継が微笑ましい。途中で配られる食べ物は事前に話題になったバナナのほか、チョコレート、あんぱん、人形焼、レーズンまである。あんぱんってパン食い競走みたい。人形焼を配るのは浅草だろうか、レーズン一万粒は手づかみだろうか。食べものの話題は楽しい。

出場者の家族でなくても世間の関心も高いようで、「ダンナさんどう?」とメールが続々舞い込む。公式サイトでゼッケン番号からラップタイムを検索できる(シューズに取り付けたタグの情報が送られる仕組み)と聞いていたのだけど、PC版も携帯版も混み合っているのかうまくつながらない。蔵前に住むママ仲間のトモミさんは急ごしらえのプラカードを作り、いつ通過するかわからないわがダンナを沿道で応援してくれた。

4時間38分かけて無事完走したダンナは「スタートラインを越えるまで8分」かかり、途中で「トイレ」の表示を見てコースを外れたら係員に「メトロの中になります」と言われ、地下鉄のトイレまで階段を上り下りして約5分のロス。いちばんの敵は寒さで、「もう少し気温が高ければ3時間台で走れた」と豪語する。配布されたポンチョが行き渡らず、かなり雨に打たれたところで誰かが捨てたポンチョを拾って着たのだが、すでに体が冷えきっていて、思うように走れなかったという。靴も水を含んで重くなるし、雨のレースはきつかった様子。体力の消耗も激しく、一切合財の食べものは先行者に食べ尽くされた後で、「飴玉いかがですかー」と厚意で差し出す沿道の人に蟻のようにランナーが群がったとか。ダンナもその恩恵にあずかった一人で、「あの飴玉で救われた」と感謝。「金持っている人なんかコンビニで買ってたよ」。同じレースなのに先頭集団との緊張感の落差がおかしい。

「変なカッコしてる人いた?」と聞くと、「いた、いた」の答え。30キロ地点でチュチュ風の白鳥男に抜かれ、「白鳥に負けるわけにはいかん!」と追い上げ、何とか追い越したが、35キロ地点まではヒヨコ姿の女性と並んでいて、これまたプレッシャーだったと言う。ヒヨコならうちにも酉年の年賀状の撮影に使った衣装がある。わたしが出るときはそれ着ようかな、と言ったら、キミには42.195キロは無理だから、と断言された。自分に務まるかどうかわからないけど、妙に足の速いヒヨコって面白い絵になりそう。

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