セクサロイドは眠らない

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2001年10月10日(水) 手を伸ばせば、すぐそこにいるけれど。彼女の美しくはりつめた体に触れることはできなかった。

母に言われて、入院中のいとこのアカリに会いに行った。拒食症とリストカットを繰り返していると言う。僕なんかが行ったら嫌がるだろうと言うのだが、母は、アーちゃんはあんたにはなついていたから、行って来てよ。お願いよ。と言う。

「久しぶり。」
「お兄ちゃん!嬉しい。来てくれたんだね。」

その痩せこけた顔に、笑顔が広がる。その細い腕に巻かれた白い包帯を見て、僕は胸がつまる。きみが、あの、ころころと太って元気だったアカリかい?そう言いそうになる言葉を飲み込んで、母からことづかって来た包みを渡す。

「で?どうなの?体は。」
「うん。元気だよ。すっごくね。」
「でも、当分入院なんだ?」
「そう。おかあさんのこと、ちょっと泣かせちゃった。」
「何年ぶりかなあ。」
「えっと。私が中学にあがる前だから、もう6年くらい会ってなかったよね。」
「僕が東京の大学に行っちゃったからね。」
「就職は?」
「うん。一応、こっち。だから、時々遊びに来れるよ。」
「ふうん。嬉しいなあ。」

アカリは、にこにこと僕の顔を見る。

「ねえ。お兄ちゃん、彼女とか。いるの?」
アカリが急にそんなことを聞くから、僕は顔が赤くなる。

「うん。一応ね。東京に置いて来ちゃったけど。高速飛ばせば、日帰りで会えるからね。」
「ふうん。お兄ちゃんも、いちお、男だったってわけだ。」
「はは。何言ってんだよ。」
「だって、不思議じゃん。」
「そうかな。」

アカリの少し寂しそうに見える横顔に、僕は、もしかしてアカリが僕のことを好きなんじゃないかと、どきっとする。はは。まさかまさか。

「ねえ。お兄ちゃん。」
「ん?」
「あたしがどうしてこんなになっちゃったか、分かる?」
「え?いや。聞いてないけど。」
「新しいお父さんがね。あたしのこと、いやらしい目で見るの。部屋、のぞいたり。で、あたし、だんだんおかしくなっちゃって。」
「そうか。全然知らなかった。」
「あたし、男、嫌いなんだよね。大嫌い。いやらしいもん。」
「そうだよな。男って、いやらしい生き物だよな。」
「あ。お兄ちゃんのことは、そんな風に思ってないから。あたし、お兄ちゃんのこと、本当の兄弟みたいに思ってるんだよ。」

僕もだよ。弟みたいだ。アカリが、僕のことを男と見なしてないことに、ちょっと寂しいような、ほっとしたような気持ちになる。

--

そうやって、僕は、時々アカリを見舞った。最初に見舞った頃には、短く男の子のように刈っていた髪の毛も少しずつ伸びて来た頃、アカリは、病院のベッドの上で、また手首を切ったそうだ。僕は、仕事が少しずつ忙しくなった上に、東京の彼女とも離れているせいでうまくいかなくなっていたため、自分のことで手一杯でアカリのところにはしばらく行ってなかった。だから、アカリの事を母から聞いてびっくりしてしまった。アカリはちょっとずつ良くなっているのだと思っていた。

--

アカリから手紙が届くようになったのは、それから間もなくしてだった。アカリは、少し離れた場所にある、農作業なんかしながら少しずつ心を治療する施設に入ったそうだ。

「お兄ちゃん、ここはとても素敵なところです。先生達は面白いし、友達も結構できたよ。今日の体重は、39kg。少しずつだけど増えてます。」

そんな短い手紙が、週に1度のペースで届く。僕は、恋人を失った痛手から立ち直れず、酒ばかり飲んでいたが、アカリからの手紙が心を温めてくれた。早く、良くなれよ。できれば、お前を傷付けた男のことなんか忘れて、恋人でも作っておくれ。そう手紙に書くと、僕は、夜道を歩いて近所のポストに手紙を放りこむ。いつも酔っぱらってフラフラしていた、時折、野良犬がそんな僕を見ていた。

--

「お兄ちゃん、私は随分とかけて、元気になりました。体重は、48kg。作業のおかげで、体も元気になったよ。明日、そちらに戻ります。着いたら、一番にお兄ちゃんに会いに行くから、覚悟しとけよ!」

仕事の忙しさと酒のせいで、ぐちゃぐちゃになった部屋で、僕は敷きっぱなしの布団に寝転んでアカリからの手紙を読んだ。アカリは元気そうだ。一歩一歩、這いあがって来ている。それに引き換え、僕は?

--

アカリが宿泊しているホテルから電話して来たのは、週末の朝早くだった。

「ねえ。ここまで迎えに来てくれる?」
「ああ。行くよ。すぐに。」

僕は、上着を着ると、アカリのいるホテルに向かった。

部屋にいたのは、長い髪をたらした、花柄のワンピースの似合う、美しい女性。これがアーちゃん?

「お兄ちゃん、来てくれたのね。」
「驚いた。どこのお姫様かと思ったよ。」
「私、すっかり元気になったの。お兄ちゃんに会いたくて、毎日、毎日。」
「よく頑張ったね。」
「うん!」

それから、僕達は、近くの動物園を散歩した。その、健康な美しさに、僕はアカリを初めて女性として意識した。アカリの希望で、ハンバーガーの夕食を済ませると、僕達は、ホテルまでの道をゆっくりと歩く。触れてみたい気持ちを抑えて、僕達はとりとめのない話をする。会わなかった日々、アカリがどうやって過ごしていたか。僕が、彼女と別れた話もした。

「ちょっと部屋に寄って行く?」
「じゃ。ちょっとだけ。」

アカリと僕は、ベッドに腰をおろす。長い沈黙。手を伸ばせば、すぐそこにアカリはいるけれど。僕は、彼女の心が男性を受け入れるに充分回復したかどうか自信が持てなかったから、彼女の美しくはりつめた体に触れることはできなかった。

ずいぶんと長い時間のあと、彼女が僕に手を差し出す。僕は、そっと彼女の手を握った。彼女の体がぶるっと震え、それから、深呼吸をするように、ほうっと息を吐く。とても長い時間のような、一瞬のような時間が過ぎ去って、僕達は自然に手を離す。

「ありがとう。これで・・・。」
「ん?」
「ううん。ずっと好きだったの。お兄ちゃんのことが。」
「そうか。」
「今日はありがとう。」
「また、明日、迎えに来るよ。」
「分かった。じゃ、明日、電話するわ。」
「待ってる。」

そうやって。

次の日、待っていた電話はとうとう鳴らなかった。電話が鳴ったのは深夜だった。

母の震える声が遠くで響く。
「アーちゃんがね。部屋で薬を飲んで。」

嘘だろう?きみは、元気だった。

母から後日手渡されたアカリの最後の手紙、やっぱり短かった。
「お兄ちゃんに、最後にどうしても会いたくて。体重を増やしました。昨日はとても楽しい1日だった。生きているのは辛かったけれど。まるでたった一人で暗闇の中に放りこまれたみたいだったけれど。お兄ちゃんにどうしても会いたくて。それだけを思って、施設を出られるように頑張りました。今日は49kg。病気になる前の体重と同じまで戻ることができました。今日は電話できなくてごめんね。」

アーちゃん、きみは、なんと長い時間を掛けて。その命を終わらせるために。

そうして、残された僕は、どちらに向いて歩いていけば?

分かっていたのに。アカリが必死で闘っていたことは。

--

アーちゃん、僕も手紙を書いたよ。きみに届くだろうか。今夜は、素面でポストまで歩こう。月が白い。野良犬が見ている。僕は一歩一歩、まっすぐに歩く。


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