ケイケイの映画日記
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2008年07月28日(月) 「ハプニング」




「マイケル・ナイト・シャマラン、プレゼンツ」。この作品の予告編をボ〜と観ていて、面白そうだな思っていた私を襲った、あのショッキングな文字が忘れられません。だってあなた、前作が「レディ・イン・ザ・ウォーター」ですよ?もう一度言います、映画以前の脚本でした。もう完全にシャマランのキャリアは終わったと思いました。それがまた、ハリウッドで作らせてもらえるなんて。何故?どうして?アラブの大金持ちのパトロンでもいるわけ?(大妄想)。バーホーベン先生だって、ハリウッドに見捨てられて、故国オランダで撮ったというのに。それがあの「ブラック・ブック」なんですから、ハリウッドってアホなのよ。そうか、アホだからまだシャマランに撮らせるのか!(結論)。ということで、期待値最小限で臨みました。観ると言う事は、私もアホなのだ、わーはっはっは!。しかし今回は期待を上回る出来だったので(注・「はるかに」ではない)、映画なんてわからんもんですね。

ニューヨークのセントラルパークで、突然人々が立ち止まるかと思うと、集団で自殺を始めるという出来事が起こります。最初大規模なテロかと思われたこの現象ですが、対応策も原因もわからず、全米へ広がっていきます。フィラデルフィアの科学の高校教師エリオット(マーク・ウォルバーグ)は、同僚教師のジュリアン(ジョン・レグイザモ)の誘いで、妻のアルマ(ズーイー・デシャネル)、ジュリアンの娘ジェス(アシュリー・サンチェス)とともに、安全と思われるジュリアンの故郷へ向かうのですが・・・。

ある種、地球の終わりを描いた作品だと思いました。終末観ものだと、「北斗の拳」や「マッドマックス」的な、暴力的ですさんだ光景が私などは浮かぶのですが、この作品はごく普通の生活を送っている人々を描くことで、恐ろしさを煽ります。ちょっと「ミスト」も連想させますが、出来が良かった代わりに、超のつく後味の悪さを残した「ミスト」と比べ、ハッタリ満載ツッコミ満載のこちらは、優しさと愛が残ります。

主役のエリオットは救世主とはならず、とにかく逃げ回ることばかりを考え、頼りないことこの上ないです。アルマは常日頃から夫のそんな様子を苦々しく思っていたのでしょう。しかし、懸命に妻と友人の娘ジェスを連れて、「何者か」から逃げるエリオットからは、ヘタレとは言わせない誠実さも溢れていました。

アルマもそうです。小悪魔チックで手がかかりそうな風情は、恋人ならチャーミングですが、妻という名にはふさわしそうではありません。その辺を見抜くジュリアンは、友人の妻として彼女を受け入れ難く思っていて、アルマも彼が苦手のようです。しかしジェスに対しての彼女の気遣いは、そんな大人の事情はそっちのけ、寄る辺ない身の上になったジェスを、心から案じる姿は、純粋さと母性に溢れています。そして人生の一大事になって夫婦の絆が深まる様子は、観ていてやはり気持の安らぐものです。ここで小悪魔妻が、「子供は足手まといになるわ・・・」と夫に囁けば、サスペンスとしては面白い展開になるんでしょうが、人の善なる部分を押し出した描き方に、私は好感を持ちました。

劇中自殺を促すものの正体が、様々に語られます。ただ今日本は、昔からは考えられない亜熱帯のような夏で、毎日毎日暑いというより、熱いという日々が続いています。地球の温暖化により、あちこちで天変地異が起こり、文明の恩恵に預かる私たちが、負の一端を担っていることは確か。他人の子のジェスを必死で守るエリオットたちを通じて、直接周りで被害はなくても、世界中を見渡してエコロジーについて考えて欲しいと、シャマランは考えているのかも?多分深読みですが、そう感じるとオープニングの青空と雲の爽やかさは、いつまでも未来に伝えたいとも思えます。

前半は手際よく大量の自殺の様子を見せ、ジュリアンの乗ったオープンカーの幌の裂け目から絶望感を煽り、この先どうなるんだ?と、なかなか面白く見せてくれるものの、いつもの「シャマラン・クオリティ」が中盤から顔を出し、投げっぱなしで終わってしまう展開が、やっぱり惜しいかな?特に終盤近くに出てくる気味の悪いおばちゃんは、もう一つも二つも捻られたと思うなぁ。まぁシャマランだから、こんなもんでしょ。

相変わらず「起承転結」の結がありませんが、人が何かで犠牲になる時、何故そうなったか意味を求めても、辛さが増すばかりになることがあります。それなら何の罪科がなくても、運が悪かったのだと思う事で、救われることもあるでしょう。私は今も「ミスト」は傑作だと思っていますが、意味を深く求めるあまりが、あの後味の悪さなら、ぼんやりとしたこの作品のまとめ方も、優しくてありだと思います。

驚くなかれ、ラインシネマには人がいっぱい・・・。「インディー・ジョーンズ4」より、お客さんが入っているなんて、信じられません。アメリカでもそれなりにお客さんが入ったそうですが、それはもしかして、反省ばかりを求められるアメリカ人が、誰にも罪を問わない、この曖昧さに救われたからかも知れません。


2008年07月24日(木) 「歩いても歩いても」




「この家は俺が働いて建てた家なんだぞ。なのに、何で『おばあちゃんち』なんだ。」という、クスクス笑える原田芳雄の予告編のセリフにとても感心して、絶対観ようと思った作品です。思っていた通り、リアリティ抜群のセリフの応酬に終始感心。何も事件が起こらない、平凡なある家族の二日間をユーモアでまぶしながら、登場人物の心のひだを丹念に描いて、喜怒哀楽とは簡単に言い切れない、微妙な感情を描き、二時間飽きることなく見せてもらいました。監督は是枝裕和。観終わって哀しい訳でもないのに、無性に涙が出て仕方なかったです。

静かな高台の住宅地に住む横山家。開業医だった父・恭平(原田芳雄)は既に隠居していて、今日は15年前に亡くなった長男の命日です。長女ちなみ(YOU)は、夫や子供たちより一足早く来て、母とし子(樹木希林)といっしょに、ごちそうを作っています。あとは二男良多(阿部寛)の家族が来るのを待つだけ。良多は未亡人のゆかり(夏川結衣)と結婚して間がなく、今日はゆかりの連れ子あつし(田中祥平)も伴っています。間の悪い事に今は失業中の良多は、昔から父とは折り合いが悪く、重い気分で実家を訪ねます。

冒頭取りとめのない会話をしながら、ご馳走の用意をする母と娘のシーンがとても自然です。この自然な風景は、時には和みながら、時には毒を含みながら、最後まで続きます。「おばあちゃんちは、麦茶までおいしいな!」と、娘婿は言います。

今高一の三男が小さい頃、夏にうちに遊びに来た友達がみな、「おばちゃん、麦茶ちょうだい」と言うのが不思議で、「ジュースもあるよ」というと、「麦茶がいいねん。Mんちは冷たい麦茶がおいしいねん」と言います。ある日私が麦茶を沸かしていると、一人の子がびっくりして、「おばちゃん!麦茶ってお湯で沸かすん?」と言いました。そうか、みんな家では水出しの麦茶を飲んでたんやと、合点が行きました。横山家の麦茶も、今では水だしみたいですが、スクリーンに広がる素材の下ごしらえの様子は、ほんの一つ二つ手間を加えた料理の、その手間こそが「おふくろの味」なのだと、表しています。

母とし子は、温かく子供や孫をもてなしながら、実のところすごく怖い。
「あの子(良多のこと)、なんで”人のお古”なんか・・・」
「死に後とは結婚しちゃだめなの。生き別れなら、嫌いで別れたんだから、まだいいの」
「旦那が死んで、まだ三年でしょ?情が薄いのよ、あの人(嫁のこと)」
さらっとだけど、出るわ出るわ、嫁への不満。負のエネルギーがマグマと化しているみたい。長男は溺れた子供を助けたため水死。命日には成人したその子供も招いたいます。「来年も必ず来て」と、救った子の元気な姿を確認して、息子の死は無駄ではなかったと納得したいのだろうと思いきや、その本心を聞くと怨念めいたものを感じて、空恐ろしくなります。しかし何が怖かったって、とし子の言うことが、私は全面的に理解出来るのですね。ということは、私にもそういう部分があるってことでしょ?

頑固でデリカシーには欠けるけど、腹には何もない表裏のない父。優しく良く気がつくけど、心の中に様々な思いを抱えている母。それなりに相性は良いように感じます。陰険に昔の浮気話を持ち出す母は、それ以外にもたっくさん夫には不満があったでしょうが、三人の子供に恵まれ、開業医というステイタスの高い仕事に就く夫を持ち、主婦として満足のいく人生だったはずです。

「はず」というのは、長男が亡くなっていることです。他の家族の誰より、母親に色濃く残る長男の面影。墓参りのために口紅をつけ直すとし子は、恋人に会いに行くかのようで、本当に切ない。印象的な蝶の演出も、私だってあれは長男だと、咄嗟に思いました。幽霊であれ虫であれ、生ける姿でもう一度私のところの戻ってきてくれるなら、という思い。母親とは業の深いもんです。子を亡くした人に、「他にお子さんがいて、良かったですね」とは、絶対言ってはならないと、若い頃読んだことがあります。私も息子が三人いますが、三人いるから一人欠けても大丈夫などと思う親は、絶対にいません。とし子を観ていて、あの言葉は本当だなと、つくづく感じ入りました。

嫁のゆかりに対しての、本音を見え隠れさせながらの対応は、技ありのねちこさで、単純な嫁いびりの方が数段お嫁さんは気が楽です。表面はにこやかに受け入れつつ、内心は拒絶する高等技術は、私には多分無理だな(あぁ、良かった)。

しかしさすがは子連れで再婚のゆかりは、肝が据わっています。ひらりひらりと、夫の両親をかわして如才なく対応していく様子は、嫁の鑑のようです。なので一度だけ彼女が愚痴をこぼす様子が、とても心に染みました。連れ子のあつしは、実家に置いて来ても良かったでしょうか、連れて来たというのは、自分は良多の妻、あつしは息子だと認めて欲しいという、控えめな願いがあったからでしょう。避けて通ることも出来るのにと、この心構えは立派だと思いました。

そんなゆかりが内緒ごとのように、あつしと二人の時は亡くなった夫の話をするのが、とても効果的なアクセントになっています。やることがとし子に似ているのです。嫁と姑は似るというけど、まだ付き合いの浅いとし子とゆかりで、上手く表していました。

明朗で場の空気を和ます長女。実家に依存するところと、自分の家庭を守ることの区分けがきちんと出来ていて、良い娘だと思いました。たぶん父親似。彼女たちを見ていると、家庭とは本当に「女」で成り立っていると感じます。

そんな中、ホームドラマでは手抜きになりがちな男性陣も、しっかり描きこまれています。家族が集まるとついつい使っていない診察室に逃げ込む父は、多分昔から夫あしらいの上手い妻から、独り床の間に座布団10枚くらい積み上げられて、座らされていたんでしょうね。今更降りて来られないのが、とっても良くわかる。

疎遠な実家で、居心地の悪さと懐かしさを混濁させる良多の描き方も上手いです。兄亡きあと、本当はたった一人の男子として、もっと横山家で存在感を出さないといけないものを、亡くなって15年も経つのに、未だ実家では自分より兄の方が存在が大きいのです。二男の葛藤という永遠のテーマは、長男が亡くなっても残るのだと、再認識しました。少々鈍感だけど、善良さいっぱいのちなみの夫(高橋和也)にも、和ましてもらいました。

すごく印象的だったのは、父が近所の老婆の往診を断ったことです。医院は閉院しても医師免許は返上していないはずで、往診なら問題ないはずです。ですが、もう老いた自分の手に負えないと判断した父は、救急車をと促します。ずっと診ていた患者のはずで、長年開業医として、この地で人々から尊敬を集めていただろう恭平の無念や、いかばかりだったかと思います。患者の生命のため、己の誇りを捨てたわけです。

じっと見つめる良多。彼は家族、取り分け父親への見栄のため、失業中だということを隠しています。彼が失業中だとわかれば、両親のゆかりに対しての扱いも変わったことでしょう。良多は父と比べて、自分の卑小さを思い知らされたと思います。

子供にとって親とは、小さい時は完全無欠の人で、絶対超えられない壁でしょう。それが大きくなるにつれ、親の弱点や欠点も知り、反抗したり鬱陶しく思ったりするものです。そして本当の大人になると、あんなに普通の人だった両親が、懸命に自分を育て愛してくれたのかと、敬意を払い大切にする心が芽生えるものだと、私は思うのです。良多は自分がまだまだ子供であると、思い知ったのだと思います。

あつしの様子もとても感慨深いです。新しい父である良多を、「りょうちゃん」と呼ぶ彼ですが、「招来なりたいものは、一番がピアノの調律師、二番目が医者」という独白は、この新しい環境にどうやって順応していこうか、懸命に幼い心を砕いている様子が手に取るようにわかり、思わず目頭が熱くなりました。

ラスト、三組の家族がお互いを思う気持ちは、それぞれ微妙にすれ違っています。親から見れば寂しいけれど、それは本当に子供が独立したということなのでしょう。喜ぶべきなんでしょうね。

子供たちが小さい頃、海だ山だ、プールだと連れ歩いていた時は、子供の喜ぶ顔が観たいため、私が連れて行っていると思っていました。その必要がなくなった今、あれはいつかは巣だって行く息子たちが、親に幸せな時間をくれたのだ、連れて行ってもらっていたのは親だったのだと、思っています。

「息子の運転する車に乗って、買い物行くのが夢なのよ」と言っていた母。その願いは生前叶えられませんでした。親孝行、したい時には親はなし、的なエンディングですが、そうでしょうか?「息子の運転する車」というのは、「車が持てるくらいの安定した生活をしている」息子の環境を、母が願っていたからではないでしょうか?私はそう思うな。監督は知らないけど。なのであのエンディングは、草葉の陰で、お母さんはとても喜んでいたと思います。


2008年07月21日(月) 「ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!」




人生二回目の梅田ブルグです。大阪はここでしか上映がないのですが、二回目なので大丈夫さ!と、いきようようの私でしたが、地下鉄の出口を間違え、また迷ってしまいました。あぁ!方向感覚が全くなく、東西南北がわからない私。なのでこういう時は、駅員さんに聞くに限るのさ。「そこの地下、まっすぐ行ってもらったら、イーマビルの地下に出ますから」。お礼を言いつつまっすぐ行ったら、全然違うところに出たやんけ!(後でわかったのだが、あれは”阪神百貨店の地下をまっすぐ”という事であった)。しかし前回のおぼろげな記憶があるため、相当近くまで来たとはわかるのだね。しかしこういう時、一番信じられないのはこの私。そこで”梅田花月に来てね”の、うちわを配っていたお兄さんに、「すみません、梅田ブルグに行きたいんですが・・・」と、おすがりした訳なんですが、「あっ、ここですよ」と、地図がある場所まで連れて行ってくれ、「こう行ってああ行って・・・」と、まっこと親切な事この上ないイケメンのお兄さんのお陰で、無事到着することが出来ました。お兄さん、ありがとう。大阪の皆さん、夏は梅田花月へ行きましょうね。苦労の甲斐あって、映画は素晴らしく面白かったです!

ロンドンの警官ニコラス・エンジェル(サイモン・ペック)は、そのずば抜けた検挙率と活躍のため、上役たちから疎んじられ、ど田舎のサンフォードに左遷されてしまいます。十数年も事件らしい事件が起こったことがない、のどかなサンフォードでも、ロンドンと変わらず超生真面目に勤務するニコラス。いっしょに組むのは、署長(ジム・ブロードベント)の息子のダニー(ニック・フロスト)です。しかし太っちょのダニーは勤務中にお菓子や買い物に夢中で、おまけに超のつく刑事映画オタク。愚鈍なダニーにいらいらするニコラスですが、ある事件をきっかけに、この町を覆う何かに疑惑を抱きます。

この作品は未公開の傑作作品との誉れ高い「ショーン・オブ・ザ・デッド」の、エドガー・ライト監督×ペック主演と同じ布陣で臨んだ作品です。おバカ映画の冠に恥じない前半は、とにかくクスクスずっと笑えます。ペックがとってもカッコいいのに、何故かすごく笑えるのですね。カッコいいのに、すんごくバカに見える演出というのは、とっても高等技術だと思います。そのバカも「バカにしているバカ」ではなく、シチュエーションの間の悪さで表現しているので、ニコラスの浮かぶ瀬もあろうというのが嬉しいところ。

血眼になって仕事する自分がおかしいんだろうか?と、ニコラスが段々思い出した頃に起こった事件。この辺からの展開は、サスペンスではないので、観客もすぐピンとくる作りです。しかし組織ぐるみでバカを装っているのかと思っていたら、本当にタダのバカの集まりだったり、そのバカの集まりがニコラスによって正義感に目覚めたりする様子が、実にバカっぽく爽やかに描かれていて、清々しいです。お年寄りの扱いも、これはこれで華やかで、別の意味で敬意も感じてとっても良かったです。

爽やかと言えば、たくさん含みのある背景なので、どんな風に変身するんだろう?と思っていたダニーの変貌ぶりには大感激。銃など扱ったことのなかった彼は、大都会ロンドンで活躍したニコラスの、憧れをもっているのがわかります。ダニーは愚鈍でなく、優しく素直な青年だとニコラスが理解する時、ニコラスはダニーを相棒だと認めます。そこからが作品のもう一つのテーマ、「刑事もののバディムービー」という部分の始まり始まり。この辺がすっごく胸が熱くなります。

「ハートブルー」「バッドボーイズ2バッド」など、メジャーからほんのちょっと外した刑事もののパロディ部分というのも、監督、映画が好きなんだなぁというのが伺えて嬉しいです。その他スプラッタムービーのパロディ部分や、とにかくカッコよくてドキドキする銃撃戦やカーチェイスなど、相当アメリカ映画を意識した作りですが、イギリス流に洗練されたパロディやおバカは私には受け入れやすく、「俺たちフィギュアスケーター」の時のように、「まぁ面白いけど、それほどか?」との疑問も湧かず、とにかく楽しいのです。

このままカッコよく収まるのかなぁと思ったら、きちんと最後までおバカとドキドキ忘れず、それでいて最高にハッピーなラストを持ってくるなど、突っ込みも一切なし。主演のペックやフロスト以外でも、名優の誉れ高いブロードベントやティモシー・ダルトンが怪演しているのも、とっても楽しいです。

パロディはふんだんにあるものの、元ネタを知らなくても全く問題なく楽しめます。映画が好きでたくさん観ている人も、年に一度しか観ない人も、同じく横一線で楽しめるのは、監督の思いなのでしょうね。都会でロングランして、是非全国に回って欲しい作品です。


2008年07月16日(水) 「純喫茶磯辺」




昨日観てきました。このクソ暑いのに、仕事を終え夕食の買い物を済ませ、ダッシュで映画館に向かう自分は、本当にバカなんじゃなかろうか?と思いつつ、電車に乗ってテアトル梅田へ。早く座席に座りたいぜ、とケットカウンターで「純喫茶磯辺」と言ったところ、「立ち見ですが、よろしいでしょうか?」・・・? えっ???マジですか?この作品、そんなにヒットしてるんですか?いくら座席が60程のスクリーンだって、平日ですよ、「純喫茶磯辺」ですよ。やっぱポイント倍押しの火曜日に観ようとした、スケベ根性があかんかったのかしらん?昨日は正直めっちゃしんどかったんですが(←なら映画やめとけ)、このまますごすご電車賃往復540円を無駄にする「勇気」がなく、そのまま「立ち見NO・8」のチケットを受け取り、二時間通路に座って観ました。観る前は何でこの程度の作品で、とほほ・・・、とかなり意気消沈しとりましたが、観た後は、地べたに座ってでも観て良かった!と、意気軒昂となったのでした。監督は吉田恵輔。

磯辺裕次郎(宮迫博之)は八年前妻(濱田マリ)と離婚し、今は一人娘の咲子(仲里依紗)と二人暮らしです。疎遠だった父が急に亡くなり、手元に遺産が入った裕次郎は、ガテン系の仕事を辞めてしまい、自堕落な生活を送っています。咲子に責められた裕次郎は、思いつきで喫茶店を始めますが、それが超ダサダサの店。しかしアルバイトの素子(麻生久美子)にメイド服を着せてからは、店は繁盛。珍妙な常連客も増えていきますが、どうも裕次郎は素子に気があるようで・・・。

と、前半は予告編で描かれた、ユルユルの笑いがいっぱい。何度声を出して笑ったことか。ユルイのですが、とにかくリアル。悪趣味な内装に年齢の出る裕次郎のダメ親父っぷりがとにかく最高!演じる宮迫は、お笑い芸人の中でも比較的アクが少ないタイプ。なので裕次郎から匂い立つ加齢臭も、悪臭ではなく、さりとて爽やかなグリーンノート系なわきゃなく、絶妙な親父臭が立ち上り、絶品なのです。

このダメ親父に本当は献身的に尽くしているのに、全然そうは見えない仲里依紗も特筆ものです。とってもハツラツとしているんですが、哀しさや寂しさを表現する時、愛らしい憂いも醸し出し、ちょっとヨーロッパの少女のようでもあります。「はぁ?」「何考えてんの?バッカじゃないの?」「もう死んでよ」と、父親に対して出るセリフは、ほぼこればっかりですが、咲子を観ていると、娘というより妻のように見えるのです。いや怪しい近親相姦じゃなくてですね、ダメ夫を叱咤激励しながら尽くす、母性愛いっぱいの妻という感じなのです。学業と家事を両立させ、お店も手伝う孝行娘は、一見イマドキの子ですが、なかなかお目にかかれぬ孝行娘です。

店の常連客となる安田(和田聡宏)に憧れるのも、すごーくわかる。私と男の趣味が似ているのだわ。父親に悪態つく時とは信じられない大変身で、目なんかパチクリさせちゃって、可愛いんだなぁ。あんなダサダサの喫茶店で小説を書く自称物書きなんてね、大人から見れば怪しさいっぱいなんですが、咲子の父親はアレだもの、咲子が安田が放つインテリの香りに酔うの仕方ないよね。その香りが嘘か誠か?なんて、高校生にわかるはずもなく、父親の言うことなんて耳も貸しません。

咲子にとっての裕次郎の存在の大きさは、素子の出現によってより色濃く描かれます。父と娘との間の割って入った、無自覚で素直な悪女・素子。素子に夢中になる父に、咲子が寂しさを募らせるのも当然です。咲子や元彼に、「人の気持ちがちっともわかってない!」と、罵られますが、私はそうは思いません。むしろ相手の気持ちを推測するから、誰にでも気のありそうなそぶりを見せてしまうのじゃないでしょうか?それはどんな相手にも嫌われたくないという思いでは?自分への自信のなさに感じました。相手を思う思いやりと、自分を守りたいための思いやりは、当然違うもの。元彼や咲子は、それを言っているんだと思います。

それはどこから来るかというと、自分の居場所があるかないか、ではないでしょうか?咲子には父という居場所があるのに対し、素子には無条件で自分を受け入れてくれる場所がないのではないかと感じました。それがNOと言える咲子、言えない素子の違いです。その心細さが、来るもの拒まずの自尊心のない素子を作ったんだと感じました。麻生久美子は意外なほどメイド服が似合って、とっても可愛いかったです。清楚な雰囲気のいつもとは違う役柄ですが、地に品があるのが功を奏して、バカっぽい素子の苦悩を、しんみりとこちらに伝えてくれました。

そういえば、裕次郎は咲子を路頭に迷わすようなことはありませんでした。父親はこれが一番大事だと私は思います。咲子の母の話では、離婚の際も、裕次郎はどうしても咲子を手放そうとはしなかったとか。素子と結婚を夢見ても、咲子の存在は忘れない裕次郎。さっさと再婚してしまう母。グータラして娘に甘えてばかりの裕次郎ですが、そこかしこに、咲子への愛情がいっぱいだと思います。このことを、きちんと娘に伝えられる元妻も、素晴らしいと思いました。

ラストは前半からは信じられない寂寥感と哀愁が漂い、とっても気に入りました。ユルユルのコメディ仕立てで、ダメ親父としっかり者の娘の愛情物語を描きながら、人生なんて欠落したものがいっぱいあってもいいんだよ、と優しく背中をさすられた気分になった、鑑賞後でした。


2008年07月13日(日) 「西の魔女が死んだ」




いやー、これも素晴らしく良かったです!品の良い祖母と孫娘の愛情の交換に、ロハスを散りばめたお話だと思っていました。基本はそうなんですが、現代の思春期の少女の心模様、母と娘の愛と確執にも及び、どれも丁寧に心のひだまで描写しておりました。目にも心にも保養になる作品です。

中学生のまい(高橋真悠)は、母(りょう)とともに祖母(サチ・パーカー)の元に向かっています。祖母は危篤なのです。まいの脳裏に、二年前祖母と暮らした毎日が蘇ります。当時まいは登校拒否となり、気分転換も兼ねて、田舎に一人で住む英国人のおばあちゃんのところで暮らす事になりました。まいが大好きなおばあちゃんは、自分の家は魔女の家系で、まいにも魔女修行をさせてあげると言います。

まずロケーションが素晴らしい!ロケ地はどこなのかわかりませんが、豊かな自然と緑がたくさんな場所に、ぽつんと建つログハウスは、少女の頃の憧れだった風景を思い出させてくれます。ちょっと「アルプスの少女ハイジ」チックです。裏庭に実ったワイルド・ストロベリーでジャムを作ったり、ハーブを煮て害虫駆除をしたり、足で踏んでシーツを洗濯したりと、日常の様子は、本当に自然そのまま。手作りの衣服や手芸品、お菓子は、昔は私も熱中していたことだったので、なんだか昔の恋人にまた出会ったような気がして、甘酸っぱい郷愁に駆られました。

私は都会のど真ん中に暮らしているので、ここまで自給自足の生活はしていませんが、自分の手で何でも作るというのは、とても心が満たされるものです。やはり都会暮らしで、自分では何も出来なかったまいが、大好きなおばあちゃんの導きで、どんどん心が豊かになっていく様子に、ついつい微笑んでしまいます。

地元の郵便局のおじさん(高橋克実)とも仲良くなり、楽しく暮らすまいにとって唯一の不満は、得体の知れないげんじ(木村祐一)の存在です。思春期のまいにとって、彼の放つ男の性の匂いは、怖いとも汚らわしいとも感じるのでしょう。もうなくなりましたが、難波に千日前セントラルという劇場がありまして、女性向きの映画を当時盛んにロードショーしていた劇場で、少女の頃の私もよく通っていました。ところが難関があって、その劇場まで行くのは、ポルノを上映する成人館を通っていかねばならないのです。もう私はそれがいやでいやで。そこの前を通ると自分が汚れるような気がするのです。出てくる男性など目にすると、もうみーんな、獣に見えたもんです。

早熟で自分の青い性を売り物にする、昨今の思春期の少女より、まいのような子の方が、私はずっと好きです。大人の女性になる前の通過儀礼だと私には思われ、この作品の支持層であろうたくさんの少女たちにも、観て感じて欲しいなと思うプロットでした。げんじを演じる木村祐一は、最近大人の女性からセクシーだと支持を集めているそうで、なるほど私のタイプではないけれど、それは理解できます。でも少女は敬遠したくなるタイプでもあろうし、これは上手いキャスティングだと思いました。

魔女には早寝早起き、きちんと毎日の暮らしを大切にすることが重要だと言う、おばあちゃん。これは健康な毎日が五感を磨くということでしょうか?
言いつけを守るまいですが、おばあちゃんのいう予知能力は、まだまだ身につかない頃、まいの父親(大森南朋)がやってきます。

ファンタジックな前半とは違い、ここからはとても現実的な問題を提議しています。まいが登校拒否になったきっかけは、やっかいな女子同士の付き合いに疲れ、それを全部辞めてしまったことが原因でした。その後どうなったかは、白黒のまいの回想でわかります。そして単に学校へ行けばそれでOKという問題ではないのだ、ともさりげなく描き、不登校児への理解も示しています。

まいの母は、誰よりも自分の母を信頼しているから娘を預けたのでしょう。しかし母に対して、葛藤があるのがわかります。葛藤というより、コンプレックでしょうか?「お母さんと私は違うのよ!」と、おばあちゃんに食ってかかる母は、まるで反抗期の子供のようでした。良妻賢母で器も大きく、非の打ちどころのないような母が、彼女にはいつしか重たくなったのでしょう。しかしその子供の心が抜けない母は、おばあちゃんに忍び寄る、老いの陰りは見逃します。この母と娘の複雑な葛藤も、やはりさりげなくですが、母にとっては心寂しく、娘にとってはいつまでも子供と言う風に、とても上手く描けています。

郵便屋さんから、「おばあちゃんは日本人より日本人」と称賛されるおばあちゃん。最初からそうだったんでしょうか?冒頭「ママはハーフだったことで、学校に居場所がなかったのに、大学まで卒業した。私はまだ中学生なのに学校にも行けない・・・」と、自分に対しての情けなさいっぱいのセリフが出てきます。なら、田舎のこの地にやってきたイギリス人のおばあちゃんは、もっと居場所がなかったのでは?

当時としては大変珍しいことで、偏見も多々あったでしょう。そして昔おばあちゃんも、イギリスから来日してそのまま結婚するなど、かなりお転婆さんだったと思うのです。それが夫を愛し、子供を生み、その土地に馴染み、人々に愛されるようになるには、いかばかりの苦労があったろうと思うのです。まいと言い争いをした後、おばあちゃんらしからぬ煙草をクユラス後姿を映した時、自分の心に溜まった辛さを、こうやって何時も煙とともに吐き出していたんだなと思うと、胸が詰まりました。

しかしその姿を娘や孫に最後まで悟られなかったおばあちゃんは、天晴れな人だったと思います。自分の寂しさや葛藤を悟らせなかったからこそ、娘も孫も早く自立出来たのでしょう。私も見習いたいと思いました。

サチ・パーカーは、シャーリー・マクレーンの娘さんで、12歳まで日本で暮らしていたとか。そのため流暢で美しい日本語を話し、気品溢れる佇まいが本当に素敵でした。この作品の成功は、一にも二にも、彼女の起用だと思います。高橋真悠は、小柄で華奢な体から、感受性の強い、でも心は折れやすいまいの様子を、素直な演技で好演。二人のアンサンブルもとても良かったです。

おばあちゃんの語る生死観は、「肉体は魂の器」ということかな?「魂は何故成長しなくちゃいけないの?」とのまいの問いに、「そういう決まりだからです」と、こともなげに答えるおばあちゃん。相手に納得してもらうには、答える側の人格が大切なんですね。6月から公開ですが、まだまだロングランするようです。夏休みに母と娘、女の子同士でご覧になるにはぴったりの作品です。そして「魔女修行」ならぬ、「おばあちゃん修行」にもぴったりの作品です。
 


2008年07月10日(木) 「シークレット・サンシャイン」




こんな内容だったんですか!ポイント倍押しに惹かれて「美しすぎる母」を優先したため、延ばし延ばしになっていたこの作品を、やっと観ました。「オアシス」で、障害者・前科者には特に差別観の強い韓国の現状を、これでもかというほど見せつけながら、最後には力強い魂の救済を示してくれたイ・チャンドン監督。今回彼がテーマに選んだのは、伝統的な韓国の教えである儒教を凌駕せんとする勢いで、信者を増やしている(らしい)キリスト教です。運命に翻弄されるヒロインを軸に、信仰することの是非を問うのではなく、その姿勢を観客に問うているように感じました。この作品も大変厳しい内容ですが、やはりラストには大きな包容力と、魂の再生を感じさせます。


韓国・慶尚南道の田舎町の密陽(ミリャン)。夫を交通事故で亡くしたシネ(チョン・ドヨン)は、息子ジュンを連れてソウルから引っ越してきます。この地は亡き夫の故郷で、いつか密陽に帰り子供を育てたいというのが、夫の願いだったからです。車の故障で、自動車修理業を営むジョンチャン(ソン・ガンホ)と知り合うシネですが、何くれとなく彼女に世話を焼き、好意を示すジョンチャンにはつれない様子です。シネが町に馴染み始めた頃、ジュンが誘拐され殺害されるという事件が起こります。

すんません、大阪は終映まじかと言うこともあり、今回ネタばれです。

シネという人は、とても不器用な人です。韓国では感情を顕わにする人が多く、彼女のように喜怒哀楽の表現が不足している人は、「変わった人」と観られると思います。自分に対して無償の好意を示すジョンチャンに対しても、「俗物」と罵りながらも「感謝はしているのよ」と、ボソっとだけ言うのが精いっぱいです。なので善良そうだけど、彼女の嫌う「俗物」の塊であるような保護者や中年婦人たちと、居酒屋やカラオケに興じるシネは、相当無理しているなと感じました。

その無理は何のためかというと、やはり一人息子の存在ではないでしょうか?誰もが知り合いのような町で、しっかり根を張りたいのでしょう。しかしその不器用さは、素のままの自分ではなく、「資産家」として取り繕いが必要でした。彼女はソウルに住む実父とは確執があり、亡くなった夫も当時浮気をしており、決して円満な家庭ではなかったようです。夫の故郷に根を張ることで、一番愛されていたのは私たちだと思い込みたいシネ。誰も知らない土地で、頼る人もないシングルマザーが、人に馬鹿にされないように、ピアノ教師を生業にしたり、資産家を装って自分を飾る姿に、彼女の屈折した哀しみを観る気がします。

シネが唯一解放されたように喜怒哀楽を表に出せた相手が、息子のジュンでした。世に愛情表現に不器用な善人は多いですが、我が子を得た事で素直に愛情を表現出来るようになった、と言う人は多いと思います。薬局店のキム執事は、シネが夫の亡くなった不幸を嘆いているだろうと、キリスト教を布教し、心の拠り所を与えようとします。しかし「私は不幸ではないわ。息子と暮らしているもの。だから必要ないの」と答えるシネ。しごく当然な答えだと思いました。

しかしジュンが亡くなる事で、またシネの感情は閉ざされます。葬儀に泣かなかったシネに、亡き夫の姑は「子供が死んだのに、何故泣かない?私の息子まで殺し、孫まで死なせて、お前は鬼だ!」と罵ります。息子を殺しというのは、夫婦仲が悪かったことを言っているのでしょう。ジュンの死も、シネに責任がないとは言えないと、私も思います。

韓国では昔葬儀の時「泣き屋」という、葬儀の間中盛大に泣いてくれる人をお金で雇って来てもらう習慣がありました。悲しみが大きいほどよく泣くとされ、死者への哀悼の念の深さが表現されると思われていたようです。今は都市部では廃った習慣だと思いますが、ここ密陽は田舎です。日本の人が想像する以上に、姑の年代の人が、自分の子供の死に涙しない母親など、絶対認められなかったのでしょう。しかし涙の出ない自分に罪悪感を一番感じていたのは、私はシネ自身だったと思うのです。

ふらふらと導かれる様に教会の会合に足を運ぶシネ。心配で着いて行くジョンチャン。そこで彼女は体中の涙が出ているのかと思うほど、慟哭します。やっと泣けたのです。神の愛に包まれたからだと、シネが思い込むのも無理からぬこと、彼女は以降信仰の道をひた走ります。

決してカルト風ではなく、きちんと信仰している様子を映していても、この急速な変化は危ないなぁと思って観ていました。しかしそれで彼女が幸せならば、救われるのならばいいじゃないかと思っていた私は、シネが町の中年婦人たちに布教している時に、意外な言葉を聞くのです。

一人が「私も義母が死ねば信仰するわ」と言うと「祭祀(チェサ)しなくてもいいからでしょう?」と、別の一人が囃し立てます。あぁ!と私は虚を突かれました。キリスト教に入信すれば、信仰上の理由からチェサをしなくても良いとされているようです。これが全てではないでしょうが、キリスト教が急速に信者を増やしている一端ではなかろうか?と、監督に問われている気がしました。

チェサは日本でいう法事に当たりますが、一周忌・三回忌・七回忌という日本式とは異なり、毎年命日に行われます。正式には取り仕切るのは代々本家の長男で、祀るのはさかのぼること五代前まで。それぞれ夫婦なので、10人です。それプラス盆と正月もやります。それ以外にも結婚しなかった先祖筋も人数に入るところもあり、私の知る限り一番たくさんチェサをしていた家は年16回でした。用意がこれまた大変で、一族郎党集まるのでその妻たちで作ります。お皿が見えないようにごちそうを盛りつけなければいけないので、チヂミやナムルなど死ぬほど作らなきゃいけません。盆と正月以外の命日のチェサは、夜中12時から始まり、それが終わってからは供養と称してお供えもののごちそうを食べ(残すといけない)宴会のようなものが始まるわけです。

日本のように前倒しで休日やその前夜にするというわけにはいかず、必ず当日です。お金も膨大にいるし、次の日は寝不足で仕事をするわけです。ソウルなど都市部ではだいぶ簡略化されているようですが、ここ密陽は田舎です。どの国でもそうでしょうが、田舎はまだまだ古いしきたりを捨てられないものです。なので先ほどの「義母が死んだら」と語った女性も、「子供のためよ」と言います。親の世代にはチェサをしないなんてとんでもないはずで、子供のために自分の代で切りたいということでしょう。このシーンは、韓国では話題を呼んだのではないかと、思います。

シネはというと、純粋に魂の救済を願い信仰の道に入った人です。しかしここから映画は急展開。やはりぬぐい切れない哀しさからかでしょう、自分の信仰心を試す為に、シネは犯人に面会に行くと言い出します。相手を許せれば、本当に自分は救われるのだと思ったのでしょう。しかし神は彼女に試練を与えます。何と犯人は獄中キリスト教に触れ、入信していました。そして自分は神によって赦されたと語るのです。

何故私が許す前に神が許すのか?疑問を通り越して憤懣やるかたないシネ。当然のことです。ここからのシネの壊れっぷりが凄まじい。急速な変化は、やはり反動を起こすのですね。万引きしたり投石したり、集会で意味深な音楽テープを流したり、果ては自分を信仰の道に導いてくれた人の夫まで誘惑する始末。そして自殺未遂。その時々に陽光降り注ぐ空に向かい、不敵な眼差しを向けるシネ。光の中の神に、自分の悪態の限りを見せつけて、挑戦しているのです。

そしてまた泣けなくなったシネ。何かする度、過呼吸状態になったり、嘔吐してしまいます。それが涙の代わりなのですね。観ていて非情に辛いです。しかしここで先のシーンが頭を過る私。監督はシネの試練を通じて、信仰の厳しさを表現し、もし仮に、チェサ一つのことで信仰の道に入るとしたら、それは間違いだと言っているように感じるのです。何も悪い事をしていないシネに下る試練の厳しさは、安易な考え方をする人たちには、警鐘となるのかも知れません。

しかし監督はキリスト教を決して否定してはいません。シネに誘惑されながら、「神の前でこんなことは出来ない」と、思い留まるキム執事の夫は、人間くさく立派だと私は思いました。決して据え膳食わなかった意気地無しではなかったと思います。

そして何よりも素晴らしいのはジョンチャンの存在です。シネに踏まれても蹴られても、どんなに自尊心を傷つけられても、無償の愛を与え続け、片時も彼女の側を離れません。例え彼女がどんな姿をしようともです。一度だけジョンチャンが怒ったのは、「あなたも私とセックスしたい?」と、嘲笑するように彼女が言った時だけ。

シネが信仰から離れても、彼はまだ続けています。「最初は彼女目当てだった。でも教会に行くと心が安らぐんだ」と語る彼。何度も劇中で出てくる「目に見えないことを信じることが大切」という言葉。ジョンチャンこそが、目の前のシネの現象に惑わされることなく、目には見えないシネの不器用さや哀しさを受け止め、愛しているのだということがわかるのです。
自殺未遂のため精神病院に入れられたシネが退院する時、ジョンチャンが彼女のために買った服は、少女が着るような清楚なワンピースでした。何があっても、シネはジョンチャンにとって、永遠に「聖女」であるのでしょう。

退院後のシネを襲う更なる試練。神様って本当に意地悪だなぁと思う私。しかし美容院をカットの途中で飛び出したシネを見つけた、心やすいブティックの女主人は、「あなたの言っていた通りにインテリアを変えたの。お客さんも増えたわ」と、嬉しそうに伝えます。そしてカットの途中のちぐはぐな髪形を見咎め、「何しているの?頭がおかしいんじゃないの?あっ・・・」と言って口ごもります。シネが精神病院に入院していたことは、町中が周知のことでしょう。それでも偏見を持たず、彼女が喜んでくれるだろうと駆け寄った女主人なのです。その善意に心を溶かせたシネは、初めて心から声を出して笑うのでした。私はこの映画の中で、このシーンが一番好きです。

「オアシス」にも似た、ラストの力強い再生の姿。彼女が嫌っていたはずの俗物であるジョンチャンに、私は必ず心を開くと信じたいです。ジョンチャンと同じ、愛すべき俗物たるブティックの女主人へ向けた彼女の笑顔は、その前振りだと思います。そしてその後、また信仰の道に入るも良し、入らぬも良し、それは彼女次第だと思います。

シネは父親とは和解せぬまま、最後まで確執を持ったままでした。対するジョンチャンは、鬱陶しく思いながらも母とは適度な距離を持ち付き合っています。儒教の考え方では、親を否定する者は決して許されません。二人の心の様子の対比は、ここにも繋がるように感じます。

ドヨンはこの作品でカンヌの主演女優賞を取ったそうです。本当にすごい演技で、心打たれました。この題材はヨーロッパの人にも身近なもので、理解しやすかったのはないでしょうか?ガンちゃんも素晴らしい!愚直なジョンチャンの姿は心が洗われるような気がします。

とてもとても個人的に起こった出来事を通じて、社会情勢への提言としても観ることが出来、そのどちらから観ても、とても秀逸な作品だと思いました。この辺の作りは「オアシス」と同じですね。私は未見ですが、「ペパーミントキャンディ」もそうなのでしょう。イ・チャンドンは寡作の監督ですが、多分韓国一の監督なのでしょうね。


2008年07月08日(火) 「クライマーズ・ハイ」




この作品、原作は人を引き付ける魅力があって、面白いのだろうなぁと、ずっと思いながら観ていました。新聞社内部の記者たちの描き方に見応えがあるものの、全体的に繋がりの悪いシーン、意味のないシーンが多く、散漫な印象が残りました。社会派の力作にしたいとの意気込みは伝わってきましたが。監督は原田真人。しかしこの中途半端な「芸風」は、佐々部清かと思いました。

1985年の8月。群馬県の地方新聞社である北関東新聞は、乗客524人を乗せた日航ジャンボ機が、長野県と群馬県の間に墜落したとの報に、色めき立ちます。当地で起こった未曾有の大事故に対し、地方新聞のプライドの賭けて、全国紙に対抗したい北関東新聞は、全権を遊軍記者の悠木(堤真一)に任せ、社一丸となって、この事故のスクープに凌ぎを削ります。

タイトルの「クライマーズ・ハイ」なんですが、これは悠木が登山好きというところから来ています。意味は、「登山中に興奮状態が極限にまで達し、恐怖感が麻痺すること」だそうです。これは体験したことのない地元の大事故を前にしての、記者たちの心境を表しているのだと思います。なので登山中の心境や何故山に登るのか?という問いに対し、良い記事を書きたい記者の心と掛けて、紐解いて行かねばならないはずが、これが上手く機能していません。

悠木の登山仲間で、販売部の安西(高嶋政弘)が出てきますが、背景やキャラが描き込み不足で、お話から浮いています。過労でクモ膜下になってしまうのですが、直接命じられた仕事の内容があまりにお粗末で、これで倒れるとはあまりに愚鈍に感じ、安西が可哀想です。悠木は20数年後、日航機事故のため果たせなかった登山を、安西の遺児と登るのですが、この部分も原作が長尺なら、無理に入れずとも良かったかも。この部分が入ると、新聞社内での緊迫したムードが台無しになり、鼻白む思いがします。

安西が倒れるほど頑張った仕事というのは、前社長秘書(野波麻帆)が社長(山崎努)から受けたセクハラをもみ消して欲しいと言うことです。しかし彼女の語る辞めた理由とは、セクハラの部分より今で言うモラハラ(モラル・ハラスメント)ではないかと感じました。当時はそんな言葉はなかったですが、モラハラは現代であっても「我慢が足りない。考えが甘い」と理解されないことも多く、地方とは言え新聞社のオーナーが、元社員の口封じにやっきになるのは、無理があります。彼女が悠木を好きだったというのも、全然筋に絡みませんし、要りません。社長が無慈悲で慇懃無礼な人だと描きたいのなら、他のシーンでわかります。山崎努の好演で、充分腹が立ちましたから。

記者として優秀であろう悠木が、出世を拒み未だ遊軍であるのは、母親がアメリカ軍相手の娼婦で、父親が誰かもわからないという、彼の生い立ちや育った背景に隠されているような描き方です。しかしそれがどう影響したかは、全然描かれていません。ただ同僚たちに囁かれるだけで、主婦の井戸端会議並みです。

ワーカホリックの悠木が、妻子に三行半を突き付けられたのはわかりますが、社の騒然とした様子を見ると、それは他の記者も同じのはず。何故悠木だけが家庭に恵まれず拒絶するような男になったのか、その理由を「母親が洋パンで、ててなし児」だけで終わらせるのは、あまりに乱暴です。

対して社の中での、原稿の締め切りに追われる様子や、他者にスクープを抜かれまいと必死になる様子、新聞の一面を飾るのは如何に重大なことなのか、上司との激しい対立の様子、などなど、殺気立ちながらもイキイキした様子は、とても面白く観ることが出来ました。

私は新聞というのは、社の人間一丸となって、良いものを作ろうという気持ちの結晶だと思っていたのですが、販売部・宣伝部・社会部など部によって皆、己のメンツを賭けて、丁々発止やり合う様子が面白く、ただ協力し合うだけが良い物を作るわけではないなぁと、痛く感じました。この辺も興味深かったです。

私が一番心打たれたのは、確執のある上司(遠藤憲一)を、とあることの相談相手に選んだ悠木のため、そのことを他の二人の上司に悟られまいと、同期の二人(田口トモロヲ、堀部圭亮)が助太刀する場面です。特に堀部演ずる同僚は、悠木とはソリが合わないと描かれていましたが、その彼が悠木に協力する姿は、学校の同級生とは異なる、会社での同期の情を強く感じさせ、サラリーマン諸氏が観たなら、胸が熱くなるかもなぁと感じました。その他、出世の遅れていそうなレイアウト担当の整理部長(でんでん)が、議論が白熱すると、同期前後の上司にタメグチを利くのも愉快でした。

ラストは完全に不要。要するに社の中での出来事は十分消化出来ているのに、社の外の出来事は、全く機能していないか不必要なのです。唯一社外の出来事で面白く観られたのは、緊張感が出ていた取材現場だけです。

日航機事故が題材ですが、この事故にまつわる事柄はあまり出てきません。でも記者と新聞社が中心の話ですから、これは的を絞るため良い判断だったと思います。一地方新聞社の、全国紙に負けたくないというプライドは、充分伝わってきました。これは演じる俳優さんの頑張りのお陰かな?なので悠木の生い立ちや背景には拘らず、記者たちの威信を賭けた戦いの様子だけを重点に置けばよかったかと思います。それでも充分にヒューマンな作品になったと思います。脚本の刈り方が中途半端な気がしました。

NHKでドラマ化もされているとか。NHKのドラマ作りは定評があるので、機会があれば観たいです。でもやっぱり原作を読む方が先かな?


2008年07月06日(日) 2008年上半期ベスト10

皆さま、いつもご愛読ありがとうございます。通年は上半期ベストは書いておりませんが、今年は6月までで51本、記憶にないくらい好きな作品ばかりでした。なので記録として書いておきたいと思います。地方では上映まで時間のかかるミニシアター系作品も多いですが、DVD化されているものも多く、ご覧いただく参考になれば幸いです。

では、順位なしで観た月の順から。

「ある愛の風景」

ようやく観た噂のスサンネ・ビア作品。細部まで繊細な描写には、ほとほと感心。続く「アフターウェディング」でも、その力量は確認しましたが、ハリウッドに渡っての「悲しみが乾くまで」は、やや期待外れ。次に真価が問われそうな気がします(偉そうな・・・)。

「ヒルズ・ハブ・アイズ」

ひっさびさでホラーの傑作に出会えました。ペキンパーの「わらの犬」を彷彿させる部分もあり、ケレン味だけではなく、深みも充分。そういえば夏なのに、今年はホラー作品ありませんね。


「ジェシー・ジェームズの暗殺」

初めてブラピが素敵に思えた作品。ミニシアター向けの作品であったはずが、ブラピ主演が仇となり、あえなくシネコンで二週間で打ち切りに。雄大なカメラワークは劇場の方が堪能出来ますが、登場人物のピリピリした心理戦は、DVDでも充分伝わってくると思います。

「潜水服は蝶の夢を見る」

いくらでもお涙頂戴の前向きな闘病ものに出来るモチーフを、官能的で人生を楽しむ術を忘れない描き方は、流石はおフランスと、皮肉ではなく感嘆した作品。亡くなった姑が闘病中に観て、とにかくボロボロ泣いた映画。医師ではなく、言語療法士が主人公と一番向き合う医療者で、その点も新鮮。

「さよなら。いつかわかること」

アメリカ映画の珠玉の小品で、私が一番好きなカテゴリーの作品。妻・母を亡くした父娘の悲しみを、抒情的にユーモアも交えて描きながら、現代のアメリカの様子もさりげなく映し、反戦の心も描いています。

「連合赤軍 あさま山荘への道程」

とにかく力作。子供の頃に起こった事件を、実録風に描いています。若松監督の厳しく温かい眼差しに、心が揺さぶられました。

「休暇」

死刑囚を扱いながら、死刑制度の是非を問うものではなく、執行する刑務官の心情にスポットをあてた作品。思いをはせたこともない事柄だったので、刑務官たちの心模様が、胸につきささりました。命の重さは平等だと強く感じた作品。

「アウェイ・フロム・ハー 」

サラ・ポリー初監督作品。初めてとは思えぬ力量を見せてもらい、感嘆しました。妻が認知性にかかった老夫婦を、淡々と描いているのですが、厳しさも哀しさも存分に感じさせながら、人生の先輩である高齢者に対して、敬意も感じさせる秀作。次のサラの監督作品も絶対観ます!

「イースタン・プロミス」

ヴィゴ様萌え以外にも、作品としても重厚なロシアン・マフィアの世界を描き、堂々たる王道作品になっていて、クローネンバーグとしては以外な印象を持つはずですが、細部に趣味全開で、変態監督の名にも恥じない作品です。

「ぐるりのこと。」

波風ない夫婦はありません。ごく平凡な若夫婦の10年を、世相に絡ませながら描く、現代版「夫婦善哉」。今日的な病である「鬱」をテーマの中心に据えながら、明るい生命力を感じさせるまとめ方も秀逸。

と、こんな感じです。う〜ん、全部ミニシアター作品、それも二週間上映で打ち切りの作品も多しというのが、とっても哀しいです。どの作品もマニアック度はそれほどでもないと思うのですが。

この他にも断腸の思いで落とした作品も多数あり、選ぶのに困った上半期でした。さて下半期はどうなるでしょうか?


2008年07月03日(木) 「告発のとき」




重厚でとても立派な作品です。イラク戦争をアメリカ側の出征兵とその家族で描いています。このテーマは、妻であり母である人が戦死する「さよなら。いつかわかること」と同じですが、たくさん泣いていいんだよと、言ってもらえるこの作品とは異なり、こちらは涙を流すのを禁じられているかのような厳しさです。軍警察に定年まで勤め上げた人を主軸に持ってくることで、アメリカの多方面の苦悩も、深く掘り下げていました。監督は「クラッシュ」の、ポール・ハギス。

元軍警察に勤めていたハンク・ディアフィールド(トミー・リー・ジョーンズ)の元に、イラク戦争から帰還したばかりの息子マイク(ジョナサン・タッカー)が、無断離隊したとの電話が入ります。息子に限って、そんなはずはないと、この不名誉を回復すべく、軍基地まで出向くハンク。しかしマイクは軍近くの場所で、バラバラに切断され、黒焦げに焼かれて殺されていました。何故自慢の息子がこのようなことになったのか、地元警察の刑事で、唯一自分に協力してくれるシングルマザーの女性刑事エミリー・サンダース(シャーリーズ・セロン)と共に、事件の究明に乗り出します。

息子の探索のため、一人でモーテルに宿泊する彼は、きちんとベッドメイキングをして、アイロンがなくても、椅子の背でズボンの折り目をきちんとつけるような人です。反射的に私は、こんな夫はいやだなと思いました。ハンクが訪ねる基地の内部や部屋は、とてもきちんと整理整頓され、規律正しいです。ハンクが老いた今でもその習性が抜けないのは、軍のその几帳面さが性に合っていたのかなと感じました。ハンクは紹介された兵士たちが皆好青年であることに、息子もそうであろうと信じたでしょう。しかし息子の足取りを追うごとに露呈する、自分の知らない息子の顔。ストリップバーに通い、麻薬を吸っていたであろう息子に、困惑する真面目で愛国心に満ちた父。

自分もいっしょに息子を捜したかったのに、夫独りで行かれてしまった妻ジョアン(スーザン・サランドン)。そんな独善的なことは、きっと日常茶飯であったろうと思います。息子の死を知り飛んで来た母は、黒焦げでバラバラ、肉は野犬に食いちぎられて見る影の無くなった息子に、「部屋は低温なのでしょう?あの子が寒いわ・・・」と、独り言にように語ったとき、堪らず涙が出ました。「立派な父」は、泣き言は言わせず聞いてもらえなかったでしょう。死んだ息子に寒かろう、温めてやりたいと願う母があってこそ、ディアフィールド家は円満だったのではないでしょうか?観終わったあと、このシーンは厳父であるハンクとの対照になっていたと感じ、私の涙は正解だったのかもと感じました。

昔の同僚など、とっくに引退しているのに、未だ自分も現役の軍警察のように錯覚して行動するハンク。有能だったであろう彼は、杜撰な捜査にイライラし通しで、憤懣やるかたなかったでしょう。しかしこれには訳があったと、私は感じました。地元警察や軍警察は無能なのではなく、元々事の成り行きなどわかっていたのでしょう。臭いものには蓋がしたかっただけなのです。

エミリーは頑張って交通課勤務から刑事に昇進したのに、同僚の男性刑事からは、女を武器に手にした出世だろうとからかわれ、セクハラに合って孤立。きちんとした捜査のノウハウも教えてくれず、仲間として扱わない同僚男性刑事と違い、居丈高ではあっても、自分を刑事として扱い、ひとつひとつを紐解いていくハンクに、畏敬の念を持ったと感じました。そして自分も息子を持つ母であるというのが、ハンクに協力を申し出た所以でしょう。

次々と露呈していく、帰還兵たちの破廉恥の数々。携帯で写した、イラクでの蛮行はとても生々しいものでした。過酷な戦場で心のバランスを崩した兵士たち。犯人は優秀な軍人であったハンクの、遥かに想像を超えた人物でした。ハンクの知る軍隊は、昔のことなのです。このときやっと、自分が一人の老人でしかないと、彼は初めて実感したのではないでしょうか?

一人の兵士は、捜査するエミリーに向かい「国を守る俺たちに感謝しろ!」と、食ってかかります。しかしその後の彼の顛末は、国を守ったあげく、鬼畜となってしまった自分が許せなかったのだと、感じさせました。

「さよなら。いつかわかること」でも、抒情的に父と娘二人を映しながら、アメリカの持つ父権性、男性意識に拘る姿を映していましたが、こちらは女性を排他することで描き、もっと強烈です。セクハラに合う女性刑事、トップレスで仕事をする50絡みの女性エヴィ(フランシス・フィッシャー)。特に私はエヴィが強烈に印象に残っています。設定ではハンクの妻と同年代でしょうか?若造りでかつらを被り、トップレスで客の酌をする彼女の素顔は、どこにでもいる善良そうな、普通の中年婦人でした。独身女は頑張って出世すればエミリーのようなセクハラに遭い、これと言って技能がなければ、中年になっても裸になって、男に媚を売って暮らしていかなければならず、結婚すれば、ハンクの妻のように我慢を重ねるようになるのかと、暗澹たる気持ちになりました。これが現代のアメリカの全てではないでしょうが、一断面ではあるということに、驚愕します。

そしてマイノリティーへの根深い愛国者たちの差別心。ハギスは「クラッシュ」で中心にしていた事柄を、この作品でも挿入していました。

しかし暗く重い事実ばかりが描かれますが、後味は決して悪くはありません。署長(ジョシュ・ブローリン)が、あっさりエミリーの陳情に応えますが、署長も事の次第は薄々わかっていたはずです。それでも彼女に捜査させたのは、孤立する彼女に現実を認識してもらい、また孤軍奮闘する彼女の姿を同僚刑事に見せ、考えを改めて欲しかったのではないかと感じました。署長の意図は功を奏したようで、終盤では遅くまで仕事するエミリーに、同僚刑事は挨拶して帰宅します。

息子が殺されたと聞いた時、何故軍人にしたと夫をなじった妻。ハンクは息子が決めたことだと言い返します。しかし全て終わった後、過去を反芻する彼は、何故自分は息子の気持ちをわかってやらなかったのだろう、何故あの時息子がSOSを出したとき、通り一遍の励ましだけで終わらしたのだろうと、深く悔恨し、自分を責めるのです。

私はこの描写は素晴らしいと思いました。根っからの軍人であり愛国者である人が、軍人であり、軍人であった人生に、初めて疑問を持ち悔恨するわけです。なかなかこの境地に、人は辿り着けるものではありません。例え息子が亡くなったとしても。そしてハンクは、とある男性にラストで心から謝罪するのです。息子の死は、決して無駄ではありませんでした。いや無駄にしなかったハンクは、やはり立派な父であったと私は思います。

ジョーンズもセロンもとても良かったですが、私は出演シーンがほんの少しの、サランドン、フィッシャー、ブローリンが、とても印象深いです。これだけのシーンで、私が与えられた感想がたくさんあるのは、この人たちの好演あってこそだと思います。

ラストの出てくる、逆さまの星条旗。最初の方で全く逆のシーンを観た観客には、深い感慨が過ることでしょう。

今年はアメリカの現在を、戦争と絡めて描く作品が多数ありますが、私は「さよなら。いつかわかること」と、この「告発のとき」が白眉だと思います。戦場を描かずとも、反戦の心は描けるのです。平和に暮らす日本で、戦争について考えるのには、うってつけの作品だと思います。





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