ケイケイの映画日記
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2008年05月09日(金) 「実録 連合赤軍 あさま山荘への道程」




昨日やっとこさ観てきました。長尺の190分と言う時間と、テアトル梅田かナナゲイでしか上映がなく、なかなか時間が取れませんでした(観たのはテアトル梅田)。何だか延ばし延ばしにしていた、夏休みの宿題をやり遂げた気分です。これも超長い作品ですが、本当にあっと言う間の190分でした。監督の若松孝ニは、実際に赤軍派メンバーと関わりがあったと聞いていたので、弁解や擁護が過ぎて腹立たしかったり、または反省の色が濃すぎて厳しかったりするのかと、観る前は思っていましたが、どちらもハズレ。痛々しく凄惨な場面は多かったのですが、思っていたより厳しくない作品でした。そして熱くて冷静な作品でした。これが事件から30数年過ぎ、監督自らが支援した連合赤軍への「総括」なのだと感じます。

お話は三部構成のようになっていて、1960年から70年代初頭までの学生運動の歴史と、連合赤軍が出来るまでをまとめているのが第一部。第二部は、有名な山岳ベースでのリンチ殺人事件。そして第三部が、やはり有名なあさま山荘事件を描いています。基本はノンフィクションで、登場人物は全て実名。フィクションが少し入る構成だと、テロップが入ります。ナレーションは原田芳雄。

あさま山荘事件が起こった時は、私は小学校五年生。日本中が固唾を飲んで見守っていた事件であり、何度もテレビのニュースで放送された警察の突入場面と、毛布にくるまれタンカに乗せられて、無事救出された人質の奥さんの映像は、今でも脳裏に浮かびます。それほど強烈な事件でした。リンチ事件は、あさま山荘の事件が解決した後、明るみに出た事件だったと思います。

時間の他にも私が観るのに少々腰が引けていた理由は、リンチ事件の事で、当時一気に世論は赤軍派への批判が高まり(当たり前ですが)、子供心にネガティブな刷り込みが激しく、ちゃんと史実として映画として、本当の事が理解出来るのだろうか?という心配がありました。どうしてそんな事件が起こったのか、当時やその後マスコミに流れる記事だけ読んで、わかったようなわからないようなまま、今の年齢になってしまっていたからです。作品は私のような者でも、一から理解出来るよう作ってあり、当時生まれていなかった若い世代にも、わかり易く作ってあります。

学生運動の成り立ちから60年代末期まで、それが芯から国の行く末を憂いて起こした若者たちの運動だったと理解でき、決して仇花ではなかったと感じます。しかし段々暴走が始まり、武力抗争へと流れて行く過程は、若げの至りだけではなく、周囲の大人の指導不足と言う気もするのです。彼らの熱い心をきちんと受け止め、理想と成りえる大人がいなかったのかと、感じます。

国家権力に対抗するという名目で、テロまがいのことや民間人を襲うなど、思想のためなら手段を選ばなくなる彼ら。この暴走が激しくなった頃からが、私の学生運動を認識し始める頃です。当然警察の取り締まりも強化。大物運動家が次々逮捕される様子を映し、残りのメンバーが追い詰められるようにして、海外や山岳ベースに渡ったのがわかります。

そしてあのリンチ事件。この事件の主犯格は、赤軍派幹部だった森恒夫と革命左派幹部だった永田洋子だと、広く知られています(この二つが合体したのが連合赤軍)。私は知らなかったのですが、森は一度抗争の前に敵前逃亡しています。そして赤軍派には帰れず、町工場で工員をしていました。彼の出身大学は大阪市大。そのまま卒業してしていればエリートコースだったはずですが、当時大企業は就職の際に身辺調査をするのが常で、一流企業へ就職するのは、多分無理だったと思います。そんなとき大学の先輩である田宮高麿が、赤軍派への復帰を呼びかけます。そして田宮はほどなくよど号でハイジャックを起こし北朝鮮へ。他の幹部も逮捕されて、知らぬ間に森が最年長の幹部として、指導者となって行きます。

あぁこれがリンチ事件の核心だったのかと感じました。学生運動にも社会でも浮かび上がる術を失った森には、田宮の誘いは涙が出るほど嬉しかったはず。誰もいなくなった赤軍派で、実力不足のまま指導者になった森は、必死に理論武装して、他の活動家に弱みを見せられなかったのでは?と感じました。総括と称し、暴力で他の兵士を従わせようとしたのは、やられる前にやる、そんな思いもあったのかも。同志と呼び合うには、本来平等のはずですが、自由のない有無を言わさぬ縦社会を築いたのが、とっても皮肉です。

対する永田洋子の考察は、私が観聞きしたものと似たようなものでした。永田洋子は女性性を著しく否定した人で、美容や容姿に気を使う事を嫌悪し、男性兵士と仲良く話すと、それは男に色目を使っているとなります。要するに女を捨てる事を強要するわけです。永田はある持病を持ち、そのため容姿が悪く、殺された女性兵士は皆美しかったのも相まって、彼女たちに嫉妬したからだ、というのが定説です。演じるのも微妙に美の足らない並木愛枝ということで、今回もその域を出ません。

しかしそんなことで、人が殺せるでしょうか?私がこの事件で当時一番震撼したのは、妊娠8か月の妊婦も殺害されたということです。そんなこと、同じ女性が出来るのか?自分は夫である坂口弘と行動を共にし、のちには思想から理想的だと思うと、森に乗り換えます。これは女らしさではないのでしょうか?蛇のような目で遠山美恵子(坂井真紀)を見つめ、森以上に過激に総括を求める彼女。そこには森よりも上になりたい、そういう風にも感じられます。征服欲が強過ぎたから?イマイチ私の解釈では、彼女に謎が残りました。

リンチ事件は、観る前は、追い詰められてトランス状態になった兵士たちが引き起こしたものかと思っていました。しかし私が観るに、やる者やられる者、皆正気でした。お化粧をしていた、風呂に入った、車の止め方が悪かった、恋仲の男女がキスをして神聖なベースを汚した、などなど、信じられない些細な理由で、総括なるものを求められる被害者たち。いつも次は誰かと怯えていたろうとは、想像に難くありません。

二人の命令で、凄惨なリンチが繰り返されます。被害者女性の一人が「私は森さんや永田さんの言う事が、全然わからない」と泣きじゃくります。私も全然わかりません。これは単に私の頭が悪いだけじゃなく、難しい言葉を駆使して、屁理屈をこねまわすだけの、机の上の空論に振り回されている彼らを、意図的に観客に知らせるためだと思います。だからわからなくて、当たり前なんでしょう。

ほとんどが一般的には知られていない俳優を使っている中、重要な主要キャストである遠山美恵子だけは、名のある坂井真紀を使っています。当初実年齢30前後の彼女だけ、劇中から浮いて見え違和感がありました。しかし共産思想を信じ「地下にもぐって(山岳ベースに行くこと)、生まれ変わりたいの」と言う彼女は、まるで滝に打たれに行くような清々しさです。山岳ベースで訓練に汗を流し、笑顔を見せ、訳の分らぬ幹部の総括の問いに戸惑い、同志を殴れと言われて涙を流し拒否する彼女は、きっと私たち観客なのでしょう。だから感情移入し易いように、観客が親しみを覚える坂井真紀をキャスティングしたのかと感じました。十分彼女に同情し痛みを分かち合った後での、あの凄惨なシーンは、本当に辛くそして猛然と怒りが湧くのです。

森の演説の中で、「プロレタリア精神を大切にし、人間性を重んじ」と出てきますが、彼が永田が兵士たちを問題視したのは、その人間らしさでした。この矛盾に観客は気付くのに、彼らはわからないまま、映画は続きます。自分たちだけの内にこもると、何も見えなくなってしまうのですね。

そしてあさま山荘事件。森・永田のいない場所では、少しずつ彼らの呪縛から解放されて行くのも感じます。ここのシーンで不満だったのは、彼らの母親が外から説得する時の声が、全然若すぎるし、演技も下手。ここまで細部にこだわって作っていたのに、興覚めしてしまいました。

そして人質救出直前、今までの落とし前をつけるという坂口に、未成年だった少年が、「何が落とし前だ!みんな勇気がなかっただけじゃないか!」と叫び、他のメンバーを黙らせます。勇気がないには、たくさんの意味が含まれるのでしょう。権力に武力ではなく立ち向かう勇気、リンチに対し間違っているという勇気、そして共産主義がなんであるか、革命が何であるか、本当は何も分かっていなかった自分に向き合う勇気。この叫びが、本当にあったのかどうかは、わかりません。しかしこの叫びこそ、若松監督の心なのではないかと思います。

この事件の主犯メンバーだった森は拘置所で自殺。永田・坂口は死刑を待つ死刑囚。吉野雅邦は無期懲役。坂東国男は超法規的措置で人質と交換で海外へ。その他の山岳ベースの生き残りメンバーは、既に出所しています。本当に彼らが心から同士の死を悼み、反省するなら、この作品を観るべきだと思うのです。彼ら以外でも、連合赤軍にかかわった人たちは皆。この事件がなかったら、日本の学生運動の歴史は、確実に変わっていたと感じます。映像で観るのは辛いでしょう、苦しいでしょう。しかし観て感じ自分の本心を知って欲しいと願います。決してなかったことには出来ない事件ですが、それが被害者への贖罪にもなり、事件からの解放になることだと思います。若松監督もこの作品を作る事で、解放されたかったんだなぁと、私は思います。


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