2004年06月26日(土)  映画『マチコのかたち』

シネマアートン下北沢にて、友人の鈴木薫主演の短編『マチコのかたち』を観る。彼女とは一昨年、MONSTER FILMSのパーティーで意気投合し、一年ぶりに去年再会したのだけど、まだ演技を見たことがなかった。

白川幸司監督の作品を観るのも、はじめて。2002年制作の長編『眠る右手を』が、香港国際映画祭、バンクーバー国際映画祭などで話題になり、2003年キネマ旬報ベストの第81位にランクインしたとか。上映前に過去の作品紹介を読んでいたら、「ネズミを焼く」などわたしの苦手な過激表現があり、不安になってしまったが、今回の作品には目をそむけたくなるようなシーンはなく、最後まで楽しめた。

かなり不思議で濃い世界ではあったけれど、それが白川監督のカラーらしい。きれいな顔して面白いことやる鈴木薫のコメディエンヌぶりが観られて、満足。ダンスシーンと美男子ウェイタートリオはもう少し観たかった。

上映後、マチコ役の鈴木薫、マダム白金役のエミ・エレオノーラ、白川監督のトークがあった。会場からの質問で「制作費」を聞かれた監督は、「いくらだと思います?」と聞き返し、「百万」「もっと下」「20万」「ちょっと上」というやりとりで、50万前後かなあと予想させた。その予算でこのクオリティを実現しているのはすごいことだし、この人がお金をかけたときにどんなものを創り出すのか、興味深い。

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2004年06月24日(木)  東京ディズニーランド『バズ・ライトイヤー夏の大作戦』



■Disney/Pixar映画『トイ・ストーリー』シリーズは、大好きな作品。NEWアトラクション『バズ・ライトイヤーのアストロブラスター』に続いて、スペシャルイベント『バズ・ライトイヤー夏の大作戦』(6/14-8/31)でにぎわう東京ディズニーランドへ。シンデレラ城前にフォトロケーションが5つほどあって、景観からもバズワールド。おめあての夏の大作戦は、大量の水を使ったパレード。はじまる前からレインコートを羽織ってガードする人がちらほら。大げさな、となめてかかっていたら、わたしの隣のおじさんに集中放水、ズボンが絞れるほどびしょ濡れになっていた。おおはしゃぎしたい人には最高!



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2000年06月24日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/27)


2004年06月22日(火)  はちみつ・亜紀子のお菓子教室

8月3日生まれのケーキ職人、はちみつ・亜紀子(はちみつと亜紀子の間に何か入れないと字画が悪いそうなのでナカグロ)ちゃんのお菓子教室に遊びに行く。わたしが今書いている作品に登場するケーキの描写について相談したら、「じゃあ焼いてあげるから食べにおいでよ」と言ってくれた。味わったまんまを書くと、きっとおいしそうな文章になるよ、と。友だちに恵まれているって、ほんと、作品の栄養源だと思う。

ケーキをごちそうになったお礼に、ホームページの作り方をアドバイス。亜紀子ちゃんはお菓子教室のサイトをホームページビルダーで作っているのだけど、テーブルが崩れてしまったりして見づらいのが現状。今のままだと、ちょっともったいない。でも、「教室の宣伝はしたいの」とのことなので、この場を借りて。ちなみにm&mのウェディングケーキを作ってもらったのが、亜紀子ちゃんと出会うきっかけ。見た目のユニークさはもちろん、銀座「みかわや」のケーキを手がけているだけあって、味も折り紙つき。

はちみつ・亜紀子のお菓子教室
お菓子は粉・卵・バター・砂糖の性質を利用して出来ています。
その性質を理解して作れば失敗なし!
アイデア次第でリジナルケーキも自由自在に作れます。
その他、お菓子の歴史や知識、ラッピング、お茶の話など
毎回にぎやかに授業しています。

◆港区三田2-7-9 サニークレスト三田702 tel/fax 03-5443-5755
 (大江戸線「赤羽橋」徒歩4分 三田線「三田」徒歩10分 JR「田町」徒歩12分)
◆月1回 1回に2種類のデモ&実習 欠席の場合、補講制度あり。
◆お好きなレッスン日をお選びください。
  第2、第3週 月・火・水・金・土
  平日 午前の部 10:30〜 午後の部18:30〜
  土曜 午後の部 13:00〜
◆入会金5000円 授業料6000円 3か月ずつお支払いください。

★★オリジナルケーキのご注文も承ります★★
お二人の個性を生かしたウェディングケーキ(80名様分 80000円より)、驚きまでプレゼントできる誕生日ケーキ、パーティーを華やかに演出するクリスマスケーキ、入学や卒業のお祝いケーキなど、どこにもないデザインと大人にも子どもにも親しまれるおいしさのオリジナルケーキをお作りします。お問い合わせは、tel/fax 03-5443-5755まで。


(たとえばこんなリクエストにも)
◆子どもの誕生日に、大好きな絵本の世界をケーキにしたい。
◆音楽好きな父親の定年祝いに、音符のケーキを贈りたい。
◆旅の思い出をケーキにしたい。


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2003年06月22日(日)  不思議なふしぎなミラクルリーフ
2002年06月22日(土)  木村崇人「木もれ陽プロジェクト」
2000年06月22日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1998年06月22日(月)  カンヌ98 3日目 いざCMの嵐!


2004年06月20日(日)  日本一おしゃべりな幼なじみのヨシカのこと

English follows Japanese.

なかなか人に信じてもらえないけど、幼い頃、わたしはとても口数の少ない子だった。ぜんそく持ちで体も気も弱くて、お人形相手にしか上手に話せないような引っ込み思案な子だった。今では「おしゃべりですねえ」と感心されたりあきれられたりするし、人前で話すのも好きだけど、こんな風になったのは、日本一おしゃべりな幼なじみのヨシカに鍛えられたからだ。4才のとき、ぜんそくが良くなるようにと空気のきれいな泉北ニュータウンに引っ越したわたしに、ブロック塀の向こうから「あんた誰や」と声をかけてきたのがヨシカだった。

運動神経抜群、強気な彼女は「あたしらのほうが先に住んでいた」という理由でいばっていた。彼女のペースに巻き込まれまいと必死に言い返すうちに、わたしは口が立つようになり、彼女と張り合えるようになっていった。やがて、まわりの大人たちを「聞き取り不可能」と驚かせる「二人同時にマシンガントーク」を繰り広げることになるのだが、ようやく仲良くなれた頃にヨシカの一家は研究者であるお父さんの転勤でベルリンへ移り、かわりにインド人一家が越してきた。インド人と格闘しながらベルリンと文通する子ども時代を過ごしたわたしは、外国への興味と憧れを募らせ、小学一年生にして「将来は海外留学」を決意することになる。

ドイツから帰ってきたヨシカとわたしは堺市立高倉台小学校、三原台中学校に連れ立って出かけた。学年が同じで家が隣り同士でコンビのように一緒にいるので、比べられることも多かった。ヨシカは足が速く、長距離でも短距離でもトップを走っていた。わたしはスポーツより勉強のほうが得意だった。自分では「ヨシカとわたしは姉妹みたい」と思っていたのだが、小学校5年生のある日、「あんたら似てへんで。だってヨシカは美人やもん」と別な幼なじみに言われた。あまりに近くにいるのでよくわかっていなかったけれど、同級生たちはみんな「昔からきれいな子やった」と言う。デリーに戻ったインド人一家は、生まれた女の子に「ヤシカ」と名づけた。写真で見たヨシカのように美しい子に育つようにとの願いを込めて。マサコではなかった。

高校生のとき、わたしの家が引っ越して、ヨシカとは隣同士ではなくなった。わたしは文系の道を、ヨシカは理系の道を突き進み、ヨシカは3年前から思い出の土地ベルリンにあるマックス・プランク研究所で研究を続けていた。世界中から研究員が集まるこの場所で、日本人でただひとり奮闘していたが、「下痢になってんけど、ドイツ語でも英語でも何て説明していいかわからんからジェスチャーで伝えたら通じたわ」といったメールを寄越してくるヨシカは、世界のどこに行ってもヨシカだった。

ひと月前、ヨシカの訃報が届いた。東京からベルリンの距離はすでに何千キロも離れているので、それが天国までのびてしまっても「遠くへ行ってしまった」実感がわかない。

涙も出ないうちに、今日、偲ぶ会を迎えた。ご両親に司会進行をお願いされ、メールでやりとりしながら流れを決めていった。「和やかな会にしたいですね」と話していたのだが、ヨシカを偲んで集まってくれた人たちのあたたかい空気が会場を包んでくれた。同級生のチェロ奏者・中田有ちゃんとお姉さんのピアニスト・中田良さんの演奏が、言葉以上に豊かにヨシカに語りかけてくれた。

追悼の言葉はどれも、ヨシカの個性がにじんでいた。「指導方法のことで注意された」と苦笑する中学の陸上部の顧問の先生。「プライドを持たなアカン、プライドが人を強くするんや」とヨシカに言われたことが忘れられない高校の同級生。大学時代のアルペン部顧問の先生は、「山で気分が悪くなったときにビールを飲ませたら回復した」と豪快なエピソードを披露した。文部科学省からドイツの日本大使館に出向されている井上諭一氏から寄せられた追悼文は、遠山大臣がマックス・プランク研究所を訪ねたときの強烈なエピソードを紹介。「はじめまして、寺岡佳夏です。大臣と名のつく人に会うのは光栄です」と名乗り出て、大臣とSPを驚かせたというその光景が目に浮かぶようで、会場を埋めた列席者から微笑がこぼれた。

ヨシカの思い出は、笑える話が多い。手塚治虫の漫画『火の鳥』に「キギス 16才」と女の子が自己紹介するシーンがあるのだが、ヨシカは「キギス=年齢」と思いこみ、出会う人ごとに「あんた、キギスいくつや」と聞いていた。一緒にアイスクリームを食べていたとき、コーンからパカッと外れたアイスを抜群の反射神経で受け止めたヨシカは「アイスキャッチ」と笑った。そんなことばかり思い返されて、涙よりも笑いが出てきてしまう。

泣く機会を逃したまま偲ぶ会は終わった。「きっと、(実感のわかない)このまま行くんやろな」と幼なじみたちと語り合った。子どもの頃、泣き虫のくせに、ライバルのヨシカの前では涙を見せたくなかった。その名残もあるのだろうか。

家が隣同士だった頃、わたしとヨシカは窓辺から口笛でお互いを呼び出した。ヨシカは「きよしこの夜」、わたしは、いずみたくの「希望」。「希望」を吹いてもヨシカはもう現れない。2002年の12月22日の日記に「おさななじみで日本一おしゃべりなヨシカはべルリンで研究生活を送っているので、日本はここ数年少し静かだ」と書いたが、それが永遠のことになってしまった。だけど、ヨシカのことを考えれば考えるほど、ヨシカは「遠くへ行ってしまった」のではなく、「近くにいる」と感じてしまう。今のわたしが出来上がるまでに、とんでもない影響を与えた彼女は、わたしの一部になってしまっている。わたしの書くものにも、きっとヨシカは入っている。そう思うと、やっぱり涙ではなく笑みがこぼれるし、「さよなら」のかわりに「ありがとう」と言いたくなる。

一緒にジョギングしていると、いつも先に行ってしまって背中が見えなくなったヨシカ。駆け抜けた人生も、走り方に似ていた。



My best friend Yoshika, a talkative sweetheart.

Though people hardly believe it, I was such a quiet child when I was little. My body was weak because of asthma and so was my will. My best friends were dolls for long time till I met her, Yoshika. Now people are amazed saying "You talk a lot", and it is Yoshika who made me so. Just after my 4 year old birthday, my family and I moved to the suburb town for cleaner air good for my body. Then there lived Yoshika nextdoor.

Yoshika claimed arrogantly "We started living here before you guys"(It is true, but "just before", not "long before"). I was urged to do my best to protect myself from her bullets of words. I talked back, argued. Desperately answering back, I found myself getting as talkative as Yoshika day by day.

After long fighting days, Yoshika and I finally admit each other as a good rival. We two talk at the same time like machineguns. Our parents were amazed how we two could understand each other that way. Shortly after that, Yoshika and her family moved to Berlin, Germany for the transfer of Yoshika's scientist father. While their absence, an Indian family from New Delhi lived their house. Having an Indian neighbor and a penpal in Berlin, I became curious about foreign cultures and determined, "When I grow up, I will study abroad".

After Yoshika came back from Berlin, we went to elementary school and then junior high school together everyday, talking and singing. We studied, played, and invented games together. We two shared a long time side by side like salt and pepper, and therefore we were often compared. I believed Yoshika and I were like twins until when I was at the fifth grader a friend of ours told me honestly, "Yoshika and you are not alike. Because Yoshika is pretty". Classmates remember Yoshika as a "Beautiful girl". I was too close to her to recognize our difference. Even the Indian family named their baby girl "Yashika"(sounds like "Yoshika", not "Masako"!) so that she grows into a pretty girl like Yoshika, who they knew only in a photograph.

Yoshika and I were separated at senior high school. After my family moved when I was 17, Yoshika was not my nextdoor neighbor anymore. Yoshika and I had a lot in common but we two ware very different, too. Yoshica was an athlete. She always won the 1st place at races both long and short distance. I liked reading at the desk rather than running outdoor. At university, I took liberal arts course and Yoshika, science course.

Yohika was continuing her research in Max-Planck-Institute in Berlin since 2002. She was an only Japanese among scientists from all over the world, but Yoshika was Yoshika wherever on earth she was. One day, her e-mail wrote, "I couldn't express diarrhea downfall either in German or English. So I made myself understood with body language". She was such a genius of going beyond borders.

A month ago I received a notice that Yoshika was passed away. Berlin and Tokyo where I live is such a long distance. Now the distance is expanded to the heaven, the place too far to reach.

Before I was ready to cry, the farewell assembly was held today in our hometown. I Asked for by Yoshika’s parents, I was a master of ceremony. I wanted to make the ceremony filled with warm atmosphere. People who filled the hall brought it together. Yoshika's classmate cellist Yu Nakata and her elder sister pianist Ryo Nakata presented beautiful harmony.

The word of mourning were unique reflecting Yoshika's personality. The adviser teacher of the track and field team in the junior high school said “I was advised by her how I should advise the team”. Yoshika's classmate at senior high school introduced one of Yoshika’s unforgettable words, "Having pride make you storong". Alpine team's adviser teacher at university introduced a dynamic episode, "When Yoshika was sick in the mountain, beer made her recover". The mournful sentence sent by Mr. Yuichi Inoue at Japanese embassy in Germany sent by Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology introduced a astonishing episode. When minister Toyama visited Max-Planck-Institute, Yoshika surprised the minister and bodyguards saying "I'm very honored because it is my first time to see somebody with the name of minister". Imaging the scene, I can't help smiling.

Yoshika has many episodes pulling out smiles and laughter. In our favorite Osamu Tezuka’s cartoon “The Phoenix”, there was a scene a girl introducing herself “Kigisu, 16”. Kigisu was the girl’s name in the story but Yoshika somehow misunderstood Kigisu means age and she asked every person she met "How many Kogisus do you have?". When Yoshika's ice cream spinned off the candy cane, Yoshika catched the cream with the cane swiftly before it hit the ground, screaming "Ice catch!". It was really a nice catch. Remembering such episodes, laughter comes out instead of tears.

The ceremony was over while I was missing chance to cry. I talked with my childhood friends “We would go forward without really understanding Yoshika is gone” Since I was a child, I would not show tears to Yoshika, my rival. That might be a reason I still can’t cry for her.

When living next doors, Yoshika and I called each other by whistle. Yoshika whistled "The Holy Night" and I whistled "Hope" by Taku Izumi. Yoshika will never show up again even if I whistle.

In my diary at December 22, 2002. I wrote, "Japan is peace and quiet these years because talkative Yoshika is away for Berlin" but I didin’t expect it last forever. At the same time, I never felt Yoshika so close to me. The more I think of her, the closer she is. Yoshika is not gone, she is here, close to me, part of me, because she made such a big influence to me. Her words, her attitudes, her way of thinking, are flown into my blood. In what I write, there is surely Yoshika. After all no tears but smiles, and I would like to say to Yoshika "Thank you" rather than "Goodbye".

When jogging together, Yoshika was always too fast to catch up. Like her way of running, she went through her life with all her might.



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1998年06月20日(土)  カンヌ98 1日目 はじめてのカンヌ広告祭へ 


2004年06月19日(土)  既刊本 出会ったときが 新刊本

■11か月ぶりの大阪へ。空弁は、焼きぶり寿司。パッケージを見ていたら空腹が募り、離陸前にほおばっていたら、スチュワーデスさんがあわててお茶を持ってきた。関空に着き、河内長野の『喜一』という料理屋で父と母と幼なじみのタカ(両親がヨーロッパ旅行に出かけ、水やり留守番中)と昼食。ここでもまた寿司を食べる。■帰省ついでに「ブレーン・ストーミング・ティーン」を取り扱ってくれている地元の書店へ挨拶にうかがう。まずは、ぶっくらんどくるまや泉ヶ丘店へ。ここは先日友人が買いに来たときには在庫がなく、「もう一度入れて」とお願いすると、店員さんに難色を示されたお店。迷惑がられるかなあと恐る恐る「店長さんいますか」と訪ねると、愛想のよさそうな店長の藤田能広氏が顔を出した。「ここの棚にあったはずやけど、ないですねえ」などとしばらく書棚の前で話をしているうちに、店長さん、のってきて、「どうぞ事務室へ」と案内される。「私もライターやってましてね、昔、テレビ番組のブレーンみたいなこともやってましてん」。その番組の名は『ナイトinナイト』と聞いて、「わたし、それ出演したことありますよ」。学生の頃、「公募名人」ということで名人コーナーに呼ばれたことがあったと話すと、「それ、私が担当してた頃ですわ」とつながる。東京のこともよくご存知で、とにかく話題の守備範囲も顔も広い。「ただの本屋の店長かと思たら、すごいの出てきたでしょ」と屈託なく笑う藤田店長、ただものではない。「早速注文出しときます。あと、全国の書店の店長にもぎょうさん知り合いいますから、言うときますよ」とありがたい申し出も。川柳もたしなむという店長いわく「既刊本 出会ったときが 新刊本」とのこと。地元書店に心強い味方を得て、まだまだ売るぞ、と元気をもらう。気がついたら40分も話し込んでいて、売場でわたしを見失ったタカは「迷子になったんちゃうか」と心配していた。■続いて、泉北高速鉄道・泉が丘駅前にあるパンジョ4階の紀伊國屋書店泉北店へ。こちらは3冊入荷して売り切れたとのこと。その後バック注文をしていなかったので「また入れときます」と店長さん。「地元出身でしたら、泉北コミュニティに載ったら強いですけどね」とのこと。泉北コミュニティは地元で絶大な支持を誇る地域新聞。『パコダテ人』大阪公開のときは取り上げてくれたんだけど……コミュニティさん、載せて!

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2003年06月19日(木)  真夜中のアイスクリーム


2004年06月13日(日)  映画『ヒバクシャ 世界の終わりに』

渋谷のアップリンク・ファクトリーにて、ドキュメンタリー映画『ヒバクシャ 世界の終わりに』を観る。アップルリンク・ファクトリーだと思っていたら、apple linkじゃなくてuplinkだった。いろんな形の椅子やソファが並んだ手作り感あふれる小屋で、カウンターで注文したドリンクを飲みながら鑑賞。

『ヒバクシャ』は、函館の映画祭で知り合い、イラン大使館で「今井雅子の知人です」と益田祐美子さんに声をかけた縁で『風の絨毯』宣伝に巻き込まれた巌本さんが、今宣伝を手伝っている作品。

「低線被曝」という耳慣れない言葉が何度も出てくる。「核爆弾が落とされた場所にいなくても、じわじわと放射能を浴びることで被曝する」ということらしい。原爆投下の後の広島、長崎に入った人、大量の劣化ウラン弾をばらまかれたイラクの子どもたち、アメリカ・ハンフォーフォのプルトニウム製造施設の川下住民などが「説明のつかない」症状に苦しんでいる様子を知る。

「診断困難」というのが低線被曝の特徴なのだそうだが、目に見えない放射能を諸症状の原因と特定するのもまた難しい。しかも、過去の日本や遠い国の出来事で片付けられる話ではなく、チェルノブイリの事故で漏れた放射能の影響は日本にも届いているし、日本国内に何十箇所もある原子力発電施設も「核廃棄物は出していないというが、空気中に排出していないとはいえない」という。

核の量を張り合わなくても世界が折り合いをつけてやっていければいいのにと思う。そう考える人は世界の大半であるはずなのに、減らないどころか増えていくのはなぜなんだろう。原子力発電所のことも、考えても答えは出ない。その前に知識もなさすぎる。

最近読んだ『東京原発』の脚本は、知らないことだらけで勉強になった。本を読むとか映画を観るとか受け身でしか放射能と向き合えないわたしは、『ヒバクシャ』を作った鎌仲ひとみ監督の使命感と行動力に圧倒されるばかりだった。一緒に行った人は、「反ブッシュの警告を発することに徹しすぎで、都合の悪いことは描いていない」と編集の偏りを指摘。「イラクでは白血病の子どもたちを救う薬が満足に入ってこない。それはアメリカが経済制裁をしているから」という事実だけを強調し、「経済制裁に遭ったのは、イラクがクウェート侵攻したから」ということを描かないとバランスを欠いてしまうと言う。なるほど。それでもイラクで助かるはずの命が死んでいっていることは確かだし、知らないよりは知って良かったと思う。

上映後、鎌仲監督と高遠菜穂子さんの対談が予定されていたのだけど、会場近くまで来た高遠さんをマスコミが待ち受けていたため引き返してしまったとのこと。サイトでもメール配信でも公表していたので、大丈夫なのかなあと心配していたら、やはり。お忍びで登場という形だったら観客だけのサプライズにできたかもしれないのに、もったいない。

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2004年06月10日(木)  「きれいなコーヒー」と「クロネコメール便」

2か月ほど前、福岡に住む知り合いのコピーライターさんから「福岡でブレイクの予感です」とオアシスコーヒーの案内が送られてきた。普通のコーヒーは汚れたままの豆を使っているけど、このオアシスコーヒーはカビや汚れをジェット水流で洗浄しているから「きれいなコーヒー」なのだそう。

同封されていたのは、1杯分のパックが2袋。果たして1杯で違いがわかるのだろうか。ひと口飲んで、答えが出た。すきとおるようというか、余計な味がしなくて素直なコーヒーの味だけがする。普段は牛乳をたっぷり入れないとコーヒーを飲めないのだけど、これはブラックでも飲めた。コーヒーの苦味だと思っていたのは、別なものだったのかも……と、これまでのコーヒー観を変えてしまうほど気に入ったので、買い置きの豆がなくなったのを機会に購入してみることに。手が込んでいる分、値段が高いのではと心配したら、ちょうどお試しキャンペーンを実施中。100gずつ4種類を試せて、送料サービスの924円。これならいつも買っている豆よりちょっと高いだけ。いろんな味を楽しめるのもトクした気分。

コーヒーは、クロネコメール便で送られてきた。配達のお兄さんが「特許取得って何ですかこれ?」と興味津々。外袋を広告スペースに使っているのはお上手。クロネコメール便も最近知ったお気に入りのひとつ。「重さによっては冊子小包よりおトク」と隣の席のなくいが教えてくれた。ブレーン・ストーミング・ティーン1冊なら160円(300gサイズ)、2冊なら210円(600gサイズ)で送れる。おまけに家まで取りに来てくれるし、翌日配達。そういえば、家に届くのも郵便物よりメール便の比率が高くなってきている気がする。いいものは教えたくなる。そして広まる。

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2002年06月10日(月)  軌道修正
2000年06月10日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2004年06月07日(月)  絨毯ひろげて岐阜県人会

■6月5日は、脚本に関わった映画が都内で二本上映されるという幸運な日だった。『ジェニファ』がレイトショー初回を迎えた約半日前、午前中に溜池山王の国際フォーラムでは『風の絨毯』の特別上映があった。上映のトークショーがはじまった頃に到着すると、誠役の榎木孝明さんとアクバル役のレザ・キアニアンさんが撮影の思い出話を披露していた。二人が客席にいるさくら役の柳生美結ちゃんを壇上に呼んで、三人のトークがはじまったところで時間が来てしまった。美結ちゃんの言葉はあまり聞けなかったけど、家族のような仲のいい雰囲気は最後列にいるわたしにもよく伝わってきた。控え室で益田さんに紹介されたレザさんは、スクリーンの印象より小柄な人で、始終冗談を飛ばしていた。「今度の映画はミユの恋人役がいいなあ」とおどけるレザさんに「でもイラン映画はラブシーン禁止だもんねー」と益田さんがからかうと、「ちょっとぐらいならOKさ」。おちゃめな人だった。■益田さんにくっついていると、いろんな人と知り合いになれるが、この日は「お昼まだだったら一緒にどう?」と誘われ、岐阜県人会の伊藤きよみさんと今井(同じ苗字だ!)秀奈律さんと四人で『かえりやま』というフレンチへ。岐阜県人会の結束は固く、毎月定例会を開いているのだそう。『風の絨毯』制作・公開にあたってもずいぶん力になってくれたようで、今も上映があると駆けつけてくれるというのはうらやましい。「大阪なんかの大都市と違って、人数が少ないから助け合うんですよ」と今井さん。でも、「岐阜出身の社長は多いんですよ」と伊藤さん。あの会社もあの会社も、と名前を挙げてくれる。そんな伊藤さんも家具屋の女社長。益田さんと双璧を成すようなパワフルな人だった。岐阜県人会の例会には他見出身者も飛び込み(ゲスト)参加できるとのこと。益田さんよりよく喋る名物岐阜県人もいるそうで、興味は募る。

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2002年06月07日(金)  ドキドキの顔合わせ


2004年06月06日(日)  レーガン元大統領、逝去。

会ったことはないけれど、人生に大きな影響を与えてくれた人がいる。レーガン元大統領もその一人。中曾根元首相とのロン・ヤス時代に「日本とアメリカの若い世代が交流を深めれば、両国の絆はもっと強まるのでは」という会話がきっかけで、日米政府による高校生交換留学プログラムが実現した。全米50州から2人ずつが日本に夏期留学し、日本の47都道府県から1人ずつが1年間の米国留学をするという制度で、5年ぐらい続いたと思う。わたしはその第3期生だった。高校の廊下の掲示板に埋もれていた募集ポスターをたまたま見つけて応募し、留学の機会を得た。

幼なじみたちによると、留学する前と後でわたしはずいぶん変わったらしい。いちばんの変化は「積極性」のようで、「昔は人の後からついてくるタイプだった」と言われる。アメリカは、待っていては何も始まらない国だった。自分から行動しなければチャンスをつかめない、存在を認めてもらえない。逆に言うと、自分次第でどんどん面白くなる国だった。英語を身につけ、広告と美術と演劇の楽しさに目覚めたこともその後の進路を定めたけれど、何よりの収穫は、「世界は自分で広げるもの」と教えられたことだった。

レーガン・ライブラリー(Ronald Reagan Presidential Library)は、わたしがホームステイしたカリフォルニア州・Simi Valley市にある。たしか1991年の設立で、その年のクリスマスに里帰りしたときにホストファミリーと訪れた。「彼のやり方にはいろいろ思うところはあるが、Masakoを寄越してくれたことは感謝している」とホストファーザーは言った。わたしにとってのレーガン氏も、冷戦終結に心血を注いだ米大統領というよりは、夢をかなえてくれた足ながおじさんのような存在だった。

あの1年間がなければ、『公募ガイド』片手にコンクールに応募することもなく、コピーライターになることも脚本家になることもなかっただろう。日米合作映画の話が舞い込むこともなかっただろう交換留学プログラムはレーガン元大統領が遺した多くの功績の小さな小さなひとつだけれど、貴重なチャンスを得た当時の高校生たちは、それぞれの形で、元大統領が蒔いた種に根を張り、彼が育てようとした「草の根親善大使」になっている。わたしも、自分の作品を通して、国境を越えた心のつながり(日本とアメリカだけじゃなくて)を作っていきたい。元大統領の訃報を聞きながら、そんなことを思う。

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2002年06月06日(木)  同窓会の縁


2004年06月05日(土)  『ジェニファ 涙石の恋』初日

ジェニファ 涙石の恋』テアトル新宿レイトショー初日。9:20からなので9時前に劇場に着くと、まだ入場前で、階段の上まで列ができていた。初日にどれだけ集まるかは関係者にとってはとても気になるものなので、まずはほっとする。舞台挨拶は、三枝健起監督、音楽の倉本裕基さん、Jennifer Holmes 、浅見れいなさん、x-gun西尾季隆さんという披露試写の顔ぶれに、安田暁さん、湯江健幸さん、坂本真さん、高橋ひとみさんが加わって、にぎやか華やか。『ウォーターボーイズ』で山田孝之さんの母親役だった高橋さん、『ウォーターボーイズ』はじめ山田さんと共演の多い安田さんが登場すると、会場の拍手とざわめきが大きくなる。肝心の山田さんは、ロケで愛を叫んでいるとのこと。公開中に一度は舞台挨拶に立ちたいと言ってくれているそうなので、そのときまでロングランになるといいな。

映画は「誰と見るか」によっても印象が大きく変わる。立ち見も出るほどの満員のお客さんは反応が良く、よく笑い、とてもいい雰囲気だったので、わたしも今まででいちばん楽しめた。謎を投げかけている作品なので、何度も見るほど理解できるようになっているのかもしれない。脚本を書いた本人が言うのは変だけど。

観終わった後、ストレイドッグの役者の古川康大君が「やっぱり今井さんでしたか」と声をかけてきた。今日、『ぴあ』の上映案内で名前を見つけて「もしかしたら、あの今井さんの新作かな」と思って駆けつけてくれたそう。他にも来てくれた知り合いの方がいたら、ありがとうございます。

ポストカードブックのような劇場用パンフには、1ページを割いて脚本家紹介があり、さらにもう1ページにコメントを寄せている。監督が読んでいるのを見て、「わたしも欲しいです」と言うと、「あちらで販売していますよ」と教えてくださったのが、宣伝担当の女性。「こちらは関係者ですよ」と監督がわたしを紹介してくれ、パンフをいただけた。一本の映画は何人もが関わっているので、公開になってはじめて会う人、最後まで会えない人もいる。宣伝担当の女性に「わたしのサイトでも宣伝していますよ」と言うと、「見ています」とのこと。ロングランめざして盛り上げていきましょう、と話す。

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2002年06月05日(水)  シンクロ週間


2004年06月01日(火)  歌人デビュー本『短歌があるじゃないか。』

職場の隣の席で誕生日もお隣(2/10生まれ)の名久井直子嬢は、アートディレクターでありながら読書家で、本の装丁も次々と手がけていて、朗読会をやったりもしていて、歌人のお友だちも多い。

文学少女がそのまま大人になったような彼女が、本のページからふと顔を上げ、「今井さん、『猫又』って知ってる?」と聞く。知らない、と答えると、「そっか。じゃあこれは今井さんじゃないんだ」とページに目をもどす。気になってのぞきこむと、「ここにね、今井雅子さんって人の書いた短歌が出ているの。今井さんかなあと思ったんだけど」と見せてくれた。

クリスマス流星たちが引き寄せるロマンティックな祈りの時間

なんか、わたしが書きそうな歌だなあ。というより、こんな歌を作った気がする。でもなぜそれが活字になっているんだろう……と考えていると、同じページの端のほうにある『くりひろい』の五文字が飛び込んできて、「あ、わかった!」。あれはもう3年前のこと、『パコダテ人』の撮影で仲良くなった小山理子さん(宮崎あおいちゃんのマネージャー)に「知り合いの人がやっている言葉遊びの同人誌があるんですけど、今井さんも出してみません?」と誘われ、メールで送ったうちの一首(俳句は一句、和歌は一首と数えるそう)だ。

そのときのお題が「折句(おりく)」で、「くりひろいの五文字を各句の頭に折り込んだ和歌を作る」というものだった。忘れた頃に本に登場するとは、びっくり拾い。それをたまたま会社の隣の席の人が発見したというのも面白い。聞けば、著者の一人が友人とのこと。小山さんに電話したら、「ええーっ、知りませんでした。でも、すごいですね、面白いですね」と喜んでくれた。本の名前は、『短歌があるじゃないか。一億人の短歌入門』(穂村弘・東直子・沢田康彦 角川書店)。もちろん早速購入。なんたって記念すべき「歌人デビュー」本なので。

古い郵便物の山から小山さんに送ってもらった同人誌を発掘すると、ちゃんと『猫又』と書いてあった。ちなみにそのとき出した今井雅子の全7首はこちら。

クリスマス
流星たちが
引き寄せる
ロマンティックな
祈りの時間

くるくると
りんごの皮むき
ひとつなぎ
ろくろのリズムで
いい感じ

くじびきは
理不尽だよと
ひとりごつ
廊下掃除は
いつだって俺

空想と
理想の間の
非現実
ロマンティストは
いつも孤独

薬指
リング待ってる
人はみな
ろくでなしだと
言う彼からの

暗がりの
理科実験室が
秘密基地
ろ過機かこんで
息のむ僕ら

空爆の
理由も知らぬ
ひとびとが
路肩に散らす
いのち悲しき


最後の歌を見て思い出した。2001年秋、アフガニスタンの空爆のニュースが毎日流れていた頃だった。



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2002年06月01日(土)  フリマ
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