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セクサロイドは眠らない

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2004年01月31日(土) その匂いの原因が分かれば、楠田という女の子のことが何か分かるかもしれないと。そう思ったのだ。

就職浪人である僕がそのコンビニで働き出してから、一年半が経っていた。店長には、いい就職先が見つかればいつでも辞めていいよ、と言われていたが、実際のところ就職活動は思わしくなく、コンビニでは次々と入って来るバイトの子に作業を教えることも多くなってきた。

「あなたみたいな働き者を雇わないなんて、日本の企業は本当におかしいわ。」
なんて、店長の奥さんが言ってくれるけど、僕はただ、黙って微笑むしかない。

この店は嫌いではない。店長夫婦は、子供がいないからか、僕をとても可愛がってくれるしね。

--

新しいバイトの楠田という女を見た時に感じた違和感の理由が、すぐには分からなかった。髪はさっぱりと短く切り、服装もトレーナーにジーンズと、いたって真面目そうな女の子。

店長も、彼女の面接を終えた後で、
「悪い子じゃないけどねえ。どうするかな。」
なんて言ってた。

彼女のバイトの初日、一日一緒にいて、その理由がやっと分かった。

彼女の匂い、だ。

香り、なんてもんじゃない。どこかゴミのような異臭。

店長もすぐ気付いたようだ。彼女を奥に呼んで注意していたから。

次の日。彼女の体からは石鹸の香りが漂っていた。一生懸命に体をこすったのかな。なんて、その少年のような髪型を背後から眺めながら思ってしまう。

それでも、何といおうか。彼女の体の奥からは、やっぱり異臭が漂っているようだった。店長が気付かない事を祈りながら、僕は真剣な顔で仕事を覚えようとする楠田に付き添った。

一ヶ月が経過した頃、僕は、楠田を食事に誘った。楠田は黙って自分の服装を見下ろした。

「他の服、持ってないの?」
「持ってない。」
「そっか。じゃ、買いに行く?」
「ううん。要らない。」
「じゃあ、ハンバーガーショップでもいいかな。」
「ええ。」

僕らは大した話題もなく、ハンバーガーをパクつき、街をぶらぶらと歩いた。

それから、楠田が住んでいるアパートがあるという駅まで送って行った。

「なあ。楠田。今日はすごい楽しかったよ。」
「私もよ。」

どこまでが本心か分からない声で、楠田は答えた。彼女は、そうなんだ。いつだって自分を出さない。

「あとさ。やっぱ、もうちょっと服とか洗った方がいいと思うよ。うん。なんか、こういうの、仕事の延長みたいで悪いんだけど。店長が何か言うのも時間の問題だしさ。僕、楠田と一緒に仕事してたいし。」
「分かった。」

楠田は、もういいでしょう?、というような調子で曖昧に笑ってみせ、後ろを振り返らずに去って行った。

怒ったかな。

怒っただろうな。

余計な詮索を嫌うのが、楠田という女の子だ。

僕は、ちょっと切ない気分で彼女が去って行くのを見送った。

--

「やっぱりねえ。食べ物を扱う仕事だからさ。」
店長は、申し訳なさそうに僕と楠田に向かって言った。

明日には次の人に面接に来てもらうことにしたから、とも。

楠田は黙ってうなずいて、仕事に戻った。

「そういうわけで。な。せっかく仕事覚えてもらったとこだけどさ。」
「仕方ないですね。」
「ああ。いい子なんだけどさあ。何考えてるか、分からないやねえ。」

楠田は、その日も黙々と仕事を終えると僕より一足先に帰ってしまった。

最後に声を掛けようと思っていたのに。

バイト、首になって大丈夫なんだろうか。いつも同じような格好で、新しい服を買ったの見た事ないけど、お金に困ってるんじゃないだろうか。

それから、こっそり、履歴書のファイルをめくって、楠田の住所を探す。

時間が取れたら訪ねてみよう。

僕に何ができるというわけでもないけどさ。

--

楠田のアパートは、それはそれは古い木造のアパートだった。

僕が訪ねると、楠田がいつものトレーナー姿で顔を覗かせた。
「なあに?」
「あ。あの。辞めちゃったの急だったから。」
「いいよ。もう。」
「ちょっと話、しない?」
「話すこと、ない。」
「ああ・・・。そう・・・。」

ドアを薄く開けてしゃべる楠田の背後からは、何か強烈な匂いが漂って来る。

「いいよ。上がって。その代わり、気分悪くなっちゃうかもよ。」
楠田は、あきらめたような顔になった。

僕は。

その匂いの原因が分かれば、楠田という女の子のことが何か分かるかもしれないと。そう思ったのだ。つまらない好奇心。

楠田の部屋は、ゴミの山というほどではないが、かなりひどい有り様だった。何ヶ月も前から放っておかれた、カップ麺の容器。山と積まれた服。

「女の子の部屋じゃないみたいでしょ。」
「ああ。うん。どっちかというと僕の部屋もこんなもんだよ。」

僕は、あははと笑って見せた。

ここで、楠田の部屋を見て。僕はどうするつもりだったのだ。最近よく聞く、片付けられない症候群の女の子の一人だ。

「あのさ。ここ、ほんと、男の人の部屋だったんだよ。」
楠田は、冷蔵庫からビールを取り出して僕に渡す。

「ふうん。恋人かなんか?」
楠田が初めて自分から何かを話そうとしているのを感じて、僕はできるだけいい聞き役になろうと決めた。

「うん。恋人。」
「そっか。」
「だった・・・。」
「別れたの?」
「ううん。」
「じゃ、どっか行ったの?」
「うん。遠く。もう、絶対戻ってこれないところ。」

そこまで言って、楠田は、目じりをちょっとだけ指で押さえた。

「うまく信じられなくてさ。彼の残したものと一緒にいたくて。」

ああ。

それで。

「こんな部屋で。バイトも首になるって分かってて。でも・・・。」
「そっか。」
「でも、安心すんだー。仕事ないでしょう?したら、ずっと、この部屋でこうやってじっとしてて、怖くないんだ。」

でも、それは・・・。

と言いかけて、僕は黙る。

その後は、もらった缶ビールを飲み干すと、立ち上がった。

「また来るよ。」
その声は、もう、楠田には届かないかのように、楠田はぼんやりとしていた。

--

それから、時々楠田の部屋を訪ねたが、楠田には会えなかった。鍵も掛からないような部屋を残して出掛けるなんて、楠田は違う仕事でも見つけたのだろうか。

--

ある日。

楠田の部屋の中は空っぽになっていた。

きれいさっぱり。

僕は、混乱してそこにしゃがみ込んだ。

楠田の匂い。正確にはゴミの匂いだけが、うっすらと漂う部屋で。

--

半年後、その彼女は、髪を美しくセットして、綺麗な爪で、僕から缶ビールを買った。

値段を告げる僕に、彼女は言った。
「久しぶりだね。」

僕は驚いて目を上げた。

楠田だった。

いや。違う人間かもしれない。上品な香りを漂わせるその女。

僕は慌てて、言う。
「ああ・・・。ね。もうちょっと待ってて。時間取るから。ちょっと話さない?」
「うん。」

確かに楠田だった。だが、すぐには気付かないほど変わっていた。

「お待たせ。」
「そんなに待ってないよ。」

楠田の唇に綺麗に塗られた口紅がストローを咥える。

「どしたの?」
「うん。家に戻ったの。ま、連れ戻されたんだけどね。」
「あの部屋は?」
「父が綺麗にしてくれて。引き上げたの。」
「そっか・・・。」
「婚約もしたの。」
「ああ・・・。」
「ね。私さ。とても人生を無駄にしてたわ。つまらない過去に縛られて。」
「そうかな。」

違うよ。僕だって、きみと過ごした夏に縛られて。

「また電話してくれる?」
「いいけど。もう僕なんて用事ないだろう?」
「お仕事、紹介できるかもしれないの。彼の会社で。」

ああ。そういうこと?それがきみの恩返し?

僕はもう、何もしゃべる気もなくなって、楠田の携帯電話の書かれた紙を適当にポケットに突っ込む。

変な話だが、ゴミの匂いが懐かしかった。

--

その後、一度だけ。僕は楠田に電話した。相変わらず、つまらない好奇心。

だが、出たのは男の声だった。

彼女は亡くなったと言う。自殺だった。

「失礼ですが、どんなご関係だったのでしょうか?」
父親らしい、しわがれた声は悲しげだった。

「いえ。ちょっと、バイト先で一緒だったものですから。」
僕は慌てて切る。

それから、少しだけ泣いた。

覚えるほどに眺めた楠田の電話番号の紙。本当は、もっと早く電話するべきだったのだろう。なのに・・・。

--

ゴミが山積みされている場所を通ると、楠田がいるような気がする。

そこかしこで彼女を思い出す。

あの部屋こそが楠田の生きる理由だったのに。今なら分かるのに。


2004年01月30日(金) 「ええ。すごく気に入ってるの。もしかしたら、自分の家っていうのを建ててみたくて結婚したのかと思うぐらい。」

もう、私達は、ただ一緒にいるだけで。いつからだったか、私達の関係は変わってしまった。子供を作らずに自由な結婚生活を楽しもうと思ったのだけれど、気付けば共通の話題もなく、朝食のテーブルで新聞と文庫本をそれぞれ手にしている。

「ああ。そうだ。忘れてた。」
夫が急に私に言う。

「え?何?」
「ごめん。言うの忘れてたよ。週末に、僕の弟が来るんだ。」
「弟さん?直樹君?」
「ああ。そうだ。」

夫の歳の離れた弟が来るのなど、初めてのことだ。

「なんで?」
「受験だってさ。東京の大学受けたいんだって。」
「確か、体弱かったわよね。よく御両親が許したわね。」
「なに。大した事ないのに大袈裟に騒ぎ過ぎなんだよ。」
「でも、困ったわ。何の用意もしてないし。」
「いいよ。用意なんて。」
「そうはいかないわ。」
「部屋ならあるし。」

そこで会話が途切れる。

いつか子供を作りたくなる日も来るかと、家を建てる時に子供部屋を作ることにしたのだ。

「とにかく。頼むよ。」
そう言って夫が立ち上がる。

急に言われてもこっちだって都合が。

そんな言葉を飲み込むのが精一杯。

--

「疲れたでしょう?」
私は、結婚式の時以来会っていなかった直樹を、仕事で忙しい夫に代わって空港で迎えた。

「大丈夫です。でも、東京なんて緊張しちゃって。」
「変わらないわよ。どこも。それに、私達がいるんだし。」
「そうですね。じゃ、二週間、よろしくお願いします。」
「こちらこそ。」

私は、買ったばかりの車を運転しながら、バックミラーで直樹の様子をうかがう。相変わらず、女の子のように美しい顔。染めていない髪も、東京の大学に通うようになればすぐさま茶色に染まるのだろう。

「正樹さんがね、すごく楽しみにしてたのよ。いろいろ料理作るんだって、食材も買い込んで。」
「あはは。にいちゃんらしいな。」
「仲いいのね。びっくり。普通、男兄弟ってもっと仲悪いかと思ってたわ。」
「歳が離れてますから。親代わりのつもりでいるんじゃないかな。もう、うるさいですよ。こっちの大学受けるんだろう?とか。」
「そう・・・。知らなかったわ。よく連絡取り合うの?」
「ええ、まあ・・・。」

妻の私より、彼はもしかしたらずっと愛しているかもしれない。彼の弟。

「きれいな家ですね。」
見上げて、言う。

「ええ。すごく気に入ってるの。もしかしたら、自分の家っていうのを建ててみたくて結婚したのかと思うぐらい。」
お世辞と分かっていても、誉められたのが嬉しい。

「じゃあ、お世話になります。」
直樹は深々と頭を下げた。

--

いつもは忙しいと言って私が眠った頃に帰って来る夫が、今日はやけに早い。

「ビール、飲むか?」
「いや。まだ、未成年だし。」
「あなたったら。駄目よ。勧めちゃ。」
「いいじゃないか。一杯だけ。な。」
「うーん。じゃ、半分だけ。このあと、もうちょっと勉強したいし。」
「分かってるって。」

こんなに機嫌のいい夫を見るのは久しぶりで、私も思わず気持ちが浮き立つ。

結局、コップ半分のビールで顔を真っ赤にし、旅の疲れか早々に部屋に引き上げることになった直樹を見送った後、残った料理を二人でつついた。

「あなた、嬉しいのね。」
「ああ。」
「なんだか・・・。」
「何?」
「いえ。何でもない。」

妬けるわね。と言いかけて、また、言葉を飲み込む。馬鹿みたい。夫の血の繋がった弟に嫉妬するなんて。

「あいつさ、パズルのピースなんだ。最後の隙間を埋めるピース。」
「え?」
「そういうやつなんだよ。昔から、さ。ほら。僕もきみも、ずっと欠けているピースを相手が出してくれるのをずっと待ってるだけだろう?」
「・・・。」
「あいつはさ。そういうやつなんだよ。ずっとそうさ。子供の頃、学芸会ってあるだろ?あれで、母親が忙しかったから、僕が行ってやったことがあった。あいつ、裸の王様の王様役だったんだ。」
「主役ね?」
「そう。だけどさ。後で訊いたら、誰もやりたがらない役だったんだよな。あれって。覚えてる?最後。裸の王様は、仕立て屋に勧められて、裸のまま町をねり歩くんだ。そして、皆から笑われるんだよ。指さされて。それで、誰もやりたがらなかったんだってさ。その時、担任が、ごく自然にナオの方に向いて言ったんだ。やってくれる?ってね。ナオは黙って引き受けた。そういう奴なんだよ。そして、最後、皆に嘲笑されながら、劇は終わった。」
「子供って、そういうものよね。誰もやりたがらない事をやらされる事に恐怖すら感じる生き物。」
「ああ。だが、僕は誇らしかったっけな。そんな弟がさ。」
「その頃から、もう、ナオ君はあなたの誇りだったのね。」
「うん。そうかも。そうだな。」

夫はすっかり酔ったか、顔を赤くして。それでも尚、弟との思い出話をやめようとしない。

それは、それで。嬉しいというより、辛い気持ちになるのだった。

ねえ。あなた。今は、誰か愛する人を間違っていませんか?

--

直樹の受験地への送り迎えは、私の役割だった。携帯電話が鳴る。
「今、終わった。」
「うん。待ってるから。」
「あ。見えた。由香さんの車。」

そうして、満面の笑みで私の車まで走って来る。

「ね。カレー食べて帰らない?僕の奢りで。」
「食べるのはいいけど、あなたの奢りは嫌よ。正樹さんに怒られちゃうわ。」
「でも、僕がわがまま言うんだから。」
「じゃあ、いいわ。奢られてあげる。その代わり、正樹さんには内緒ね。」
「ああ。」

一人っ子の私に、直樹といる時間は新しい幸福をもたらした。

ちょっとだけアミューズメントパークに寄って、百円玉いくつかを無駄遣いにする快感。

「ねえ。勉強、いいの?」
「うん。もういいや。これまで頑張ったんだし。それにさ。本当を言うと、僕って頭いいんだぜ。」
「そりゃ分かってるけど。正樹さんの弟だしね。」
「ね。由香さん、前から思ってたけどさ。にいちゃんの事、すっごい好きなんだ?」
「え?」
「だってさ。正樹さん、正樹さんって。」
「うーん・・・。どうかな。」

私の顔が曇ったのを敏感に気付いた直樹は、私にアイスクリームを買ってくれた。
「由香さんって、お腹空くと機嫌悪くなるよね?」
「やだ。何、それ?」

それから、ケラケラと笑って。直樹が取ってくれた生茶パンダを抱えて。

誰かと一緒に笑ったのは久しぶりだった。

--

夫が今日も遅いと電話してくる。

「ナオ君、明日帰っちゃうんだよ?」
「仕方ないだろう?仕事なんだから。」

直樹は、明日帰る。

そうしたら、また、寂しい家で私は一人。たまらなかった。

そっと、彼の部屋をノックする。

「はい?」
「ごめん。ちょっといい?」
「ああ。いいけど。」

私は、直樹に貸している部屋のベッドに腰を下ろす。

「すみません。いろいろとお世話になって。」
直樹が頭を下げる。

「何言ってるの?あなたのお兄さんの家だもん。遠慮はなしよ。」
「でもさ。あなたは何かと大変だったでしょう?食事も、洗濯も。」
「いいって。」

あなたが来てくれて、本当に良かった。

そう言いたかった。

「ね。受かったら、東京来るの?」
「そんな・・・。まだ、分かりません。」
「ナオ君だったら絶対受かってるよ。」
「そういうんじゃなくて。父が具合良くないし。」
「そっか・・・。」

私は、急にとてもとても寂しくなる。

そっと、直樹の後ろに回り、彼の体に手を回す。

「行かないで。」
私は、言ってはならない言葉を言ってしまった。

「お願い。私、もう駄目なの。あなたがいなくなってしまったら、どうしたらいいか・・・。」
「パズルのピースって言ってました?」
「え?」
「にいちゃん。そう言ってました?」
「ええ。」
「そうじゃない。僕は・・・。パズルをぶち壊しに来ただけなのかも。」

直樹の体は震えていた。鼓動が激しい。

私は、回した腕に更に力を入れる。

「たくさんのピースは要らないの。一つだけあれば。」
私は、ささやく。

随分と長い時間が経って。

直樹は言う。
「僕は、他人だから。だから、簡単なんですよ。笑うことも、抱き締めることも。でも、他人じゃなくなったら、ずっとずっと難しくなる。」

そう言って、彼は私の手をそっと外す。

「また、次会う時、笑って会いたいから。」
彼はそう言って立ち上がり、私の頭に温かい手を載せて。

「おやすみ、姉さん。」
と、笑顔で言う。


2004年01月23日(金) ざらりとした舌で僕の体を舐めて来た。悪くない感触だった。だが、猫に欲情するのはさすがに無理だった。

仕事を終えて帰宅すると、妻が猫になっていた。

すぐには理解できなかったが、玄関に向かって出て来た優雅な様子の猫のブルーの瞳を見て、ピンと来たのだ。
「美香かい?」

にゃー。

一体、どうして猫なんかに?

訊ねても、知らん顔だ。

僕は決して猫は嫌いではないので、彼女を抱き上げた。
「ご飯、作らなきゃな。」

冷蔵庫の中にある物を使って簡単な料理を作り、彼女に半分わけてやった。

彼女は食事を終えると、僕の膝に載って来た。

僕は、彼女の丸く美しい背を眺めながら、再び考える。どうして、彼女は猫になんかなってしまったのだろう?もともと、少し変わったところのある女だった。わりと裕福な家庭の娘と育ったが、どこが気に入ったのか、平凡で取り柄のない、僕のような男を選んでくれた。結婚の時には、ひと悶着あったが、それでも、最後には彼女の両親は、娘のいつものわがままだから、という理由であきらめたようだ。僕は彼女を深く愛していたから、彼女が満足するように家庭を守ることが僕の使命と思い、努力を払って来た。彼女の気まぐれにも黙って付き合って来た。

その結果がこれなのだろうか?

妻は、僕の膝で喉を鳴らしている。

僕が風呂に入ろうとすると、彼女は風呂場まで付いて来る。綺麗好きな彼女のことだ。猫と言えども、風呂に入りたいのだろう。だから、一緒に入った。それから毛をドライヤーで乾かしてやり、一緒のベッドに入った。

ベッドの中で彼女は、ざらりとした舌で僕の体を舐めて来た。悪くない感触だった。だが、猫に欲情するのはさすがに無理だった。僕は、そのまま彼女をぎゅっと抱き締めて眠った。

夜中に、彼女はスルリと僕の腕を抜けて、どこかに行ってしまった。

--

「というわけなんだ。」
女友達の冴子に、一部始終を語る。

「ふうん。」
冴子は、驚きもせず、さっきからせっせと料理を口に運び、ビールを空けている。

「で?今日は、家に帰らなくていいの?」
「ああ。仕事で遅くなるって言って出て来た。」
「奥さんが猫って、どういう気分?」
「どうって。うーん。もう慣れたかな。食事は僕が作ったものしか食べないから、僕が全部作る。それから、一緒に風呂に入って。」
「楽しい?」
「よく分からない。でも、それで妻が満足してくれたらいいんだ。」
「そういえばさ。前も何か言ってたわよね。半年間ほど、毎晩のようにセックスねだられて大変だったかと思えば、その後の半年は、彼女に指一本触れるのも許してもらえなかったことがあるって。」
「うん。それを考えたら、今の生活はそんなに悪くないよ。」
「そうかもね。」

僕は、時折、冴子に人生相談のようなものを持ちかける。お礼に僕はご飯を奢る。それが取り決めだ。さっぱりとした性格の彼女は、妻に比べると不可解なところがなく、一緒にいてとても楽だ。

「ごちそうさま。美味しかった!」
「聞いてくれて、ありがとな。」
お腹が満ちて顔が上気している冴子と、駅で別れて帰宅する。

--

「ただいま。」
だが、家の中はシーンとして、誰もいないかのようだ。

僕が遅かったから、拗ねたのかい?

慌てて、家中を探す。

その時、庭で、猫の喧嘩のような声。

外に出てみると、妻がいた。走り去る猫の影が見え、彼女の美しい白い毛並みが汚れていた。

「どうしたんだよ?」
僕は、急いで抱き上げて、風呂場に連れていく。

さっきのは、他の男だな。僕が遅いから、外をふらついていたのか。

今日はいつものように甘えてこない。じっと黙って僕の顔を見る彼女が、なんだか可哀想になる。
「ごめんな。」

彼女はうなずいたように見えた。それから、僕の布団に入って来て、丸くなって眠る。僕らは夫婦だ。形がどう変わったって。

--

「最近はどう?」
冴子が訊いて来る。

「ああ。最近は落ち着いてるよ。」
「そりゃ、良かったわ。」
「ああ。」
「でも、何か悩んだら、いつでも相談してきてね。いいお店、見つけたの。美味しい魚が食べられるのよ。」
「分かった、分かった。」

僕は笑いながら電話を切る。

複雑な妻。単純な女友達。

--

しかし、冴子への答えは嘘になった。

帰宅すると、妻はいなかった。

またかよ。

僕は、家中を、庭中を、近所中を、探す。

だが、どこにも。

僕は、待った。また、気まぐれな妻がいつ戻って来るかもしれないから、どこからでも入って来れるように、仕事に行っている間も、家の窓を全部開けておいた。

それなのに。

半年待った時、僕はもうあきらめた。それまで、妻の気まぐれは大して長続きをしなかったから。まるで、手を変え、品を変え、僕を試すかのように、妻の行動はめまぐるしく変わっていたから。

彼女の実家に電話をしてみた。彼女の両親も、彼女のことは知らないと言った。それから、気の毒そうに付け加えた。娘のことは忘れてちょうだい。

--

「そうだったの。知らなかったわ。電話もないしさ。」
「うん。確信はなかった。そのうち、ひょっこり現れるんじゃないかって、ずっと待ってた。」
「元気出しなさいよ。」
「ああ。ちょっとずつ、妻がいなくなったことを受け入れられるようになってきたよ。」

冴子は相変わらず、僕と話しながらも、箸を忙しく動かしている。かといって、上の空という風でもなく、テンポよく会話をつないでくれる。

話しながら、視線をめぐらせる冴子に気付き、僕は急いで店員を呼ぶ。

飲み物を頼んだ冴子は、微笑みながら言う。
「あら。気が利くじゃない?前は、あなたって、そういうの全然駄目だったわよね。気が利かない男の代表選手みたいだったわ。」
「最近じゃ、少し。」
「そうなんだ?学んだのね。」
「まあね。」

冴子は、僕に言う。
「今日は、私の奢りよ。」
「いや。話を聞いてもらってるのは、僕だから。」
「何言ってるの。妻に捨てられた男を慰める会よ。」

彼女は、笑う。

「女ってさあ。そういうとこ、あるのよね。男はさ。家に妻がいてくれたら、それだけで安心して、ニコニコしちゃうところがあるでしょ?でも、女は、そうじゃないのね。四六時中、構ってもらいたいの。なぐさめられて、可愛がられて、怒られて、キスされて。そうじゃないと、もう、愛がどこにいったか見失って、じっとしていられなくなるものなの。」
「知らなかったな。」
「じゃあ、知っておいて。」
「きみも?冴子も、そうなの?」
「そりゃ、まあね。」

女友達は、美しく笑って、食後の煙草を一本取り出す。


2004年01月22日(木) 形だけで、何の役にも立たない性器を、彼女は、表情の少ない顔でじっと見つめ、手の平に載せる。

その姿を誰かに見られているとは思わなかった。僕の感覚は恐ろしく鋭敏で、誰かが近くにいれば必ず感じることができるから。だが、その気配は、幾日も掛けて僕の意識に少しずつもぐり込み、僕を油断させるのに成功した。

--

僕は、高校の教師だ。

自分で言うのもなんだが、生徒には人気があるほうだと思う。特に女子生徒には。だが、彼らの年頃は、ありとあらゆることに対して驚くほど敏感で、大人が後手に隠していることをわざわざ背後に回り込んで見つけ出し大袈裟に騒ぎ立てる、というようなこともやってのけるから、要注意だ。

ともかく、僕は上手くやっていたと思う。

生徒達からもらう手紙の類はなかったことのような顔をしながら、放課後に群がってくる彼女達を適当にあしらって、人気教師の立場を守り続けていた。

だが、その生徒。

気付けば、僕を遠巻きにして観察しているような、その女子生徒に見られてしまうとは。

一瞬、その生徒を殺そうかと思ったぐらいに、慌てた。

だが、ともかく、殺さなくて良かった。そんなことをしたらただでは済まないだろう。

「そういうことだったんですか。」
静かに、彼女が口を開く。

「見てたのか。」
「ええ。」
「僕に付きまとっていたわけだ。」
「好きだから。先生の事が好きだから、何もかも知りたかったんです。」
「まったく。ストーカーってんだよ。そういうのを。」
「しょうがないです。抑えられなかったんです。」
「ともかく、どこかで話をしよう。こんなところじゃ、誰かに見つかるかもしれない。シャワーだって浴びたい。」
「分かりました。」

僕は、手にしていた犬の死体を投げ捨てて、彼女を誘って僕が住むマンションへと向かった。

「お前、三年だろう?」
「はい。」
「てっきり、受験で忙しいと思ってたんだがな。去年の夏以来、僕のところに来なかったから。」
「そうですね。忙しくしてなくちゃいけないんですけど。どうにもならなかったんです。」
「そうは言われても、教師と生徒じゃ、いずれにしてもどうにもできなかったんだよ。」
「それだけじゃないんです。先生が隠しているものが何か。どうしても知りたかった。」
「隠しているように見えたか?」
「ええ。みんなどうして気付かないんだろうって。普通の人とは違う。何か、恐ろしいような感じが、先生からはずっとしてて。」
「そうか・・・。」

もはや、あきらめていた。彼女と何らかの形で折り合いをつけなければ。

--

シャワーで犬と格闘した汚れを落として、彼女を待たせている部屋に戻った。

「素敵な部屋ですね。」
「ああ。父が残してくれたんだ。」
「先生の雰囲気にぴったり。」
「何か飲むか?」
「はい。」
「といっても、大したものがないんだ。僕自身は何も飲む習慣がないから。」
「お水でも何でもいいです。」
「そうか。」

冷蔵庫に向かう僕の背中に、彼女の視線がぴったり張り付いているのを感じる。

「で?これからどうしようか?」
「私と付き合ってください。」
「それがきみの希望か。」
「ええ。」
「そうしたら、僕の秘密を誰にも言わないでくれるのかい?」
「そうします。私と先生だけの秘密。」
「だが、現実的に、付き合うと言っても無理がある。第一、きみは、僕が勤める学校の生徒だ。」
「もうすぐです。卒業までは大人しくしておきます。」
「第二に、あれだけ成績がいいきみが、大学にも受からなかったとなれば、それも僕の責任だ。」
「それも何とかします。ちゃんと合格します。」
「第三に。これが一番大きな問題だが、僕はきみを女性として愛することができない。僕らヴァンパイアは、女性の体を愛することは不可能なんだ。」
「かまいません。」
「きみはどうしたいんだ?」
「そばにいられたらいいんです。こうやって、二人で。他の人が知らない時間を共有できれば。」
「分かった。だが、気をつけておくれ。きみを通じて秘密がばれることがあれば、僕はきみの前から消える。」
「分かってます。」

--

僕が、彼女を受け入れたのは、秘密を握られているという理由以外にもう一つ理由がある。僕もまた、彼女に心惹かれる要素があったということだ。日本人形のような顔。細いが鋭い瞳。無口だが、意志の強い性格。

彼女は親に、塾に行く、と親に言っては金曜の夜に二時間だけ僕の部屋に来る。

僕は、彼女にせがまれて、ベッドで二人、裸で横たわる。彼女の手が僕の体を触る。形だけで、何の役にも立たない性器を、彼女は、表情の少ない顔でじっと見つめ、手の平に載せる。

「ヴァンパイアには、男しかいなんだよ。」
「そうなの?」
「ああ。そして、ヴァンパイアは誘惑者のように言われるが、そうじゃない。結局は、女の血が誘惑するんだ。ヴァンパイアは無力さ。」
「あなたも?無力なの?」
「僕といたってつまらないだろう?」
僕は、自嘲気味に笑ってみせる。

本当は、僕にヴァンパイアの血を与えた養父をずっと恨んでいた。自分が普通の人間でないと知ってから、ずっと孤独だったから。

誰かのぬくもりを感じることのない皮膚。

「可哀想に。」
彼女がポツリと、言う。

僕は、激しく泣きたい気分になったが、抑えた。

「もう帰る時間だ。」
「ええ。」

彼女は黙って服を着る。

それから、別れ際に、僕の冷たい唇に、その温かい唇を押し付ける。

心の飢えと体の飢えが同時に押し寄せて息苦しくなる。

--

長いこと、人間の血など欲しがらなかった。野良犬や、時にはペットショップで買った動物で食事を済ませた。それも、そう多くではない。時々で良かった。

だが、彼女が見ていた。僕の食事を。

僕が彼女を殺すのは容易い。体中の血を抜いてしまうことは簡単だ。だが、僕は、彼女を殺してしまうにはあまりにも孤独だった。だから、彼女の言いなりになった。

--

「ねえ。お願い。私の血を吸って。」
裸の彼女が、僕の体にむしゃぶり付いて来る。

「どうしたの?」
「もう、いや。あなたとの距離が縮まらない。どうやったって。だから・・・。」
「やめておきなさい。吸血鬼が血を吸うとその者も吸血鬼になるなんて、嘘だ。ただ、血を失って死ぬだけだよ。」
「それでもいい。」
「僕は、嫌だ。きみを失う。」
「ちょっとだけでいいの。私を味わって。」

実際、彼女の必死の願いを聞き入れないわけにはいかなくなっていた。普通の男が、若い肉体を前に平静を失うのと同じで、僕は、彼女の血の魅力に抗うわけにはいかなかった。

だから。

ちょっとだけだよ。

と言って。

血を吸った。

彼女の首筋に残る噛み傷は、彼女をも幸福にした。

だが、それは悲劇の始まりでもあった。

止まらなくなったのだ。

--

女を酒で酔わせて、ほんの少し。

あるいは、体育の授業で怪我をした生徒の血を指でそっとぬぐい、舐める。

そんなことを繰り返すようになってしまった。

僕の恋人が気付くのは時間の問題だった。

今日も、いつものように、僕の部屋で。

「血を飲んで。」
と、泣きながらせがむ。

「もう、駄目だ。きみの体が心配だよ。」
「いいの。他の誰かの血を欲しがるぐらいなら、私の血だけを欲しがって。」
「そんなことにこだわるのは、無意味だ。僕は、もう、きみを愛し始めてる。」
「ねえ。お願い。そうでないと、ばらすわ。学校にも。親にも。」

僕は、ため息をついて。

彼女の手をそっと引き寄せる。

僕が悪いのだ。何もかも。僕の存在は、ずっと悪だった。今更、そんな呪いから解放されようなんて。それは甘かった。

僕は、彼女の首筋にそっと歯を当てる。

血の匂いが、僕の頭をおかしくする。

僕は、彼女の血をむさぼるように飲む。

彼女の目がキラリとこちらを見た。

きみのせいだよ。僕をこんなにして。被害者は僕だ。

彼女はうなずいたように見えた。それから、彼女の目から光は失われた。


2004年01月18日(日) 友達と言いながら、体だけ重ねて来た。あの時、ああ言っていれば。あるいは、あの日、あんな風に言わなければ。

少し浮かない顔の彼女と車で行った初詣の帰り。

いつもみたいな調子で、彼女の部屋に寄ろうとした。それは当然の権利だと思い込んでいたから。彼女の住むマンションの前に車を停めた時だ。

「今日は駄目。」
彼女が静かに、だけどきっぱりと言ったから、僕は驚いた。

彼女に恋人がいなくて、僕にも恋人がいなければ、一緒に初詣に行く。それが僕らの数年間に渡る友情における暗黙の了解事項だった。同じように、彼女に恋人がいなくて、僕にも恋人がいなければ、僕らは時々一緒にご飯を食べ、それから、どちらかの部屋でセックスをした。

今年の初詣だって、お互いに恋人がいないのを確認して誘い合ったところまではいつもと同じだったのだ。

「もう、あなたとはセックスしない。」
彼女は、腑に落ちない顔の僕に、そう宣言した。

「なんで?」
僕は、少々うろたえて訊ねた。

「もう、嫌なの。いつもいつも、繰り返し。こんな生活うんざりよ。」
「突然言われたって・・・。」
「あなた、いつも言ってたじゃない。付き合ってる女の子が、ある日とつぜん、手のひらを返したように別れたいって言い出すって。女の子ってどう扱っていいか分からないよって。私だけが違うと思ってた?私だけが、いつもいつも変わらない顔であなたと寝るって思い込んでた?」
「・・・。」
「私、ずっと思ってた。あなたとは友達同士。セックスだって割り切って楽しめるって。だけど違うみたい。こういうことって、どうやったって女の子が傷付くの。頭ではどう思っても、心の方が少しずつ疲れて行ってしまうの。あなた、私とのセックスはただでできるって、そう思ってたでしょ?それって、すごく傷付くことだったみたい。」
「そんなつもりはなかったんだ。きみを傷付けるつもりなんか。」
「ええ。分かってるわ。」

横を見ると、彼女は泣いていた。

「とにかく。もう駄目なの。」
「じゃあ、どうすればいい?どうやったら、きみと友達でいられるかな?」
「無理よ。私達。」
「すごく残念だ。」
「ええ。私も。」

彼女は、さよなら、と小さな声で言って車を降りた。

僕は、彼女の背中を見送りながら、どうしてこんな事になったのかしばらく考えてみる。ずっと上手くやっていたのに。セックスだって、それなりに楽しんでた。恋人とまではいかないにしても、それなりに優しくもしていた。なのに、急に。

--

夜、一人で散歩に出た。彼女の事を考えたかったから。

寒い夜だった。

手袋を忘れてきたので、手をコートのポケットに突っ込んで歩いた。

小さな猫の鳴き声が聞こえた。

振り返ると、真っ白な子猫が震えていた。

僕は思わず抱き上げて両手で包んだ。
「お前も一人なのかい?」

にゃー。

僕は、彼を連れて帰った。暖めた牛乳。冷蔵庫に残っていたシシャモ。

お腹一杯になった子猫は、僕の顔をじっと見て。それから言った。
「悲しいことがあったの?」
「え?ああ。まあね。」
「元気がない。」
「そうだな。大切な友達を、失った。僕が悪かったんだ。うっかりしてて。」
「ねえ。ご飯を食べさせてくれたお礼に、いい事教えてあげる。僕を彼女にプレゼントしてごらん。」

僕はまじまじと子猫を見る。それから、彼女が猫好きだったことを思い出した。

「大丈夫。上手くいくよ。」
子猫はそう言って、僕の膝の上で丸くなった。

--

「言っとくけど、私、プレゼントなんかじゃ気が変わらないからね。」
電話の向こうで、彼女が言う。

「取りあえず、見てよ。気に入ってもらえるかもしれない。」
「・・・分かったわ。」
「今から行く。」

彼女は、少し怒ったような顔でドアを開けた。

「きみにどうしても見せたくてさ。用事が済んだらすぐ帰るから。」
僕は、バスケットから子猫を出して見せた。

「え?猫?やだ。可愛い!」
途端に彼女の顔がほころぶ。

「長いこと、きみの部屋には猫がいなかっただろ?」
「そうだけど・・・。どうしたの?この子。」

彼女は、子猫を抱き上げる。

「決めた。あんたの名前は、メロンよ。メロンソーダみたいな色の瞳。」
「気に入った?」
「ええ。まあね。」
「貰ってくれるかな?」
「喜んで。」
「そりゃ良かった。」
「言っておくけど。こんなプレゼントを貰ったからって、あなたと私の関係は変わらないよ。」
「分かってるって。」

僕は、少し切ない気分で彼女の顔を眺めた。

以前のようには僕に気を許してくれない、彼女。

恋人になろうと思えばなれたかもしれないのに。結局、僕らは互いを友達と言いながら、体だけ重ねて来た。あの時、ああ言っていれば。あるいは、あの日、あんな風に言わなければ。

僕は、彼女を失うことなどなかったかもしれないのに。

「そろそろ帰るわ。」
僕は、子猫を残し、彼女の部屋を出た。

--

彼女から夜中に電話だ。

「何?」
「あのね。メロンが、昨日から食べる物全部吐いちゃって。」
「なんで?」
「分からない。でも、ぐったりして、このままじゃ死んじゃうよ。」
「分かった。すぐ行く。」

僕は、彼女とメロンを車で拾い、その足で動物病院を探した。

「大丈夫か?」
「ええ。ごめんなさい。こんな時にばかり頼って。」

病院でメロンの処置をしてもらっている間、僕らは子供を見守る夫婦のように手を握り合っていた。

メロンは薬を処方され、僕らは帰りの車で無言だった。

「ありがとう。」
「いいんだよ。この子は僕が連れて来た子だ。僕にも責任があるからね。」

僕は、別れ際、とても小さく見える彼女の頬にそっと手を当てて。それから、車に乗り込み、さようならの代わりにクラクションを鳴らした。

--

それから、三ヶ月後。

僕は、彼女の部屋に呼ばれた。

僕は、馬鹿みたいに舞い上がって彼女の部屋へ飛んで行った。

そこには見知らぬ女の子。

「彼女、会社の後輩の白石さん。」
「ああ。どうも。」
「彼女ね。恋人募集中なんですって。」
「え?そうなんですか?」
「そうなの。すごい可愛いでしょ。不思議よねえ。」

そういう事か。僕に女の子を紹介しようってのか。

僕は、ほんの少し腹が立った。

それから、白石とかいう女の子と続かない会話を無理矢理続けた。

その時。

にゃー、にゃー。と、ドアを引っかく音。

「もうっ。今日は駄目よ。お客さんだから。」
「あ。可愛いですね。」

白石さんとやらは、そう言ってニッコリして見せたのに。

彼女が、
「ちょっと抱いてみる?」
と言って、メロンを渡したら、きゃって言ってメロンを床に放り投げた。

「あ。ごめんなさい。猫、苦手なんです。」
白石さんは、そういってすごく困った顔して。

「あら。そうなんだ。知らなくて。」
彼女は、笑って。

それから、猫を抱いて部屋を出て行ったから、僕はその大人しい白石さんと気まずい時間を過ごした。

白石さんが帰った後、彼女は僕に訊いた。
「どう?彼女、可愛いよね。」
「よく分からない。」
「そっか。気に入ると思ったんだ。メロンのお礼のつもりだったの。」
「・・・。」
「やだ。怒った?」
「分からない。何となく、きみにはそういう事されたくなかった。」
「うん。ごめん。」

ふと気付くと、メロンはどこにもいなかった。

僕らは慌ててメロンを探した。

メロンは、どこにも見当たらない。
「やだ。メロンが出ちゃったみたい。」

慌てて、外に出て、僕らはメロンを探して何時間も歩いた。

「うっかりしてたなあ。」
「帰ろうよ。疲れた。メロンも戻ってるかもしれないし。」
「うん。」
「ほんと、ごめん。呼び出して。メロン探すのも手伝わせて。」
「いや。いいんだ。メロンを探すのは、僕にも責任があるから。」

それから、僕らは無言で歩いた。

今、言わないと。

急に、そんな事を。

何を?

それも分からずに、声が出た。
「ねえ。」
「なに?」
「僕ら。これから、どうなる?」
「どうって。お友達よ。」
「僕は、それじゃ嫌なんだ。」
「そんな事言われても・・・。」
「ずっと、僕らの間には、セックス以外余計なものを持ち込まないようにしてた。だけど、今は、それだけじゃない。メロンもいるし。」
「繰り返しよ。また、同じこと。あなたが夜、帰ってしまうと、私は一人に慣れようとして長い時間を過ごすの。」
「だったら、ずっと一緒にいようよ。一人にならなくていい。」
「言ってる意味が分からないわ。」
「だから。一緒にってこと。きみに会う口実が、メロンだなんて嫌なんだ。」

彼女は無言で。

その時、マンションの前の路上駐車の車の下から、白い塊りが飛び出して来た。

「メロン!」
僕らは同時に叫んだ。

にゃ?

メロンは、きまり悪そうに僕らの顔を見た。

僕らは笑い出して。

彼女はメロンを抱き上げた。

僕は、その彼女の肩を抱き締めて。
「一緒に帰ろう。」

彼女は、怒ってるような、困ってるような顔でうなずいた。

メロンは、僕を見てウィンクしたように見えた。


2004年01月15日(木) 昔の恋人は、変わっていた。ずっとずっと大人になって。セックスも、ちゃんと相手を気遣える大人になっていた。

私の夫はウサギだ。

そういうと、驚かれることも多いが、私達は普通に恋愛して結婚した。

妹に言わせると、「信じられない!」というのだ。夫がウサギであることが、ではない。信じられないのは、私達夫婦の会話の量ということらしい。

「信じられない!」
「あら。どうして?」
「だって。あたしなんか、彼とはずっとしゃべってるよ。お互いに秘密を持つのはなしにしようねって、何でも言い合う事にしてるの。」
「何でも?それって、疲れない?」
「疲れないよ。それにさ。あたしといない間、彼が何やってるか知らないほうが気になって疲れるもの。」

もちろん、全く会話がないわけではない。夫はとても頭がいいウサギだから、人間の言葉をしゃべる事だってできる。ただ、ウサギの声帯は、あまり人間の言葉を話すのにむいていない。それも理由の一つだ。言葉を交わさなくても大概の事は伝わるし、必要があれば、会話もする。

恋愛中からそうだった。何も、世の恋人の全てが、一晩中愛を語り合わなくてはいけないわけじゃない。それでも、お互いに伝え合う事、伝わる事は沢山あった。

--

夫は、婦人科医として、多くのウサギに出産や育児の指導をしている。人間に飼われているウサギの中にも、まだ、うまく子供が産めなかったり、産んだ子供の世話が出来なくて死なせてしまっていたりするケースが多い。夫はそれを憂いている。

「狭い部屋の中でさ。産んだばかりの我が子を踏んで死なせてしまう事があるんだ。」
と、夫は悲しそうに言った。

そして、今日も、妊娠しているウサギの元に出掛けて行く。

彼の稼ぎでは食べていけないので、私はパートに出ている。データ入力の仕事は、目も疲れるし、肩も凝る。それでも、合間の同僚達とのおしゃべりは、私にとっては丁度いい息抜きの時間であった。

「ねえ。あなたの旦那様。ウサギなんですって?」
好奇心の強い女性が訊ねてくる。

「ええ。そうよ。」
「どんな感じなの?」
「どんなって。普通よ。」
「会話とか、困らない?」
「時々困ることもあるけど。アメリカやフランスの人と結婚したって、同じよ。言葉が通じるとか、通じないとか。そういう事は乗り越えられるものなのよ。」
「ふうん。」
「なあに?」

そこで、私はピンと来る。あのことが訊きたいのだ。

「同じよ。本当に。夜も。」
「あら。」
「大概の事は乗り越えられるものよ。お互いの体の違いをちゃんと知れば、上手くいくようになるの。」
「で?満足?」
「ええ。満足よ。」

それ以上、そんな話をしたくはなかったので、私はマグカップを持って会話の輪からはずれた。

私は、それから、夫の昨夜の愛撫を思い出す。彼の毛皮や髭を使った、とても優しい愛撫。

最初の夜、言ったっけ。
「私でもいいの?」
って。

そしたら、
「きみがいいんだ。」
って言ってくれた。

そんな大切な思い出の一つ一つを、誰かに好奇の眼差しで見られたくなかったから。

--

静かな夫婦。

休日も、多くのことは無言で行われる。

不便はない。あるいは、不便な事も彼となら楽しめる。

彼の赤い綺麗な瞳が、私は大好きだ。

--

それでも、そんな生活の中に、小さな隙間が出来ていたのかもしれない。

ある日、パートの帰りに偶然出会った高校時代の恋人と出会った。

「今、どうしてるの?」
「結婚してるわ。夫はウサギなの。」
「ウサギ?」
「ええ。そうよ。」
「で?幸せなのかい?」
「幸せよ。」

彼は、カフェを出て、自然に私の手を握って来た。私はそれを振りほどかなかった。

別れ際に、次に会う約束をしてしまったのがどうしてか。自分でも分からない。

--

車で迎えに来た昔の恋人は、あの頃より随分と大人になっていた。

黙ってラブホテルに車を乗り入れる彼の横で、私はうつむいていた。

「いい?」
少し心配気に訊いて来る彼に、私は黙ってうなずいた。

どうして?夫と幸福ではなかったの?

私は、部屋に入り、昔の恋人と抱き合っている間、ずっとそんな事を。

「ねえ。嬉しいよ。きみとまた会えて。」
昔の恋人がささやく。

私は、黙って微笑んで。何も言わずに、彼の肩にしがみついているだけだった。

昔の恋人は、変わっていた。ずっとずっと大人になって。セックスも、ちゃんと相手を気遣える大人になっていた。

「ねえ。何か言ってよ。」
汗ばんだ彼の胸が、そう言った。

それでも、私は黙っていた。

--

会ったのは、三度。

三度目の別れ際、私は次の約束はしなかった。

「僕じゃ、駄目だったんだね。」
彼は寂しそうに言った。

「僕なら、きみの旦那よりきみを幸せにしてやれるってさ。ウサギなんかには負けないって。最初にそう思ったんだ。きみは、何かが足らない顔をしていたし、僕の誘いに付いて来た。だから。勘違いしてた。ずっと。」
「ごめんね。」
「いいよ。楽しかった。きみと会えて良かったよ。駄目だろうとは思ってたんだ。ずっと無言だったろう?だから、つまんないんだなってさ。焦ってた。やっぱり駄目だったんだよね。」
「・・・。」
「最後にもう一回訊くけどさ。きみ、幸せ?」
「ええ。とても。」
「そうか。」

また電話したくなったら、いつでもしておいで。僕は、番号を変えずに待っておくから。

昔の恋人はそう言って車で去って行った。

ごめんなさい。私。あなたで埋めようとした。寂しさを。だけど、夫としゃべるより多く、あなたとしゃべる事はどうしてもできなかったわ。なぜか分からないけど、そうすることは夫をすごく傷つけることになるから。

--

「出掛けてたのか。」
夫が珍しく早く帰っていた。

「ええ。」
「今日は、早く仕事を終わったからさ。きみとゆっくりできると思って。」
「嬉しい。」

私は、夫の赤く美しい目を、正面から見つめた。

夫が話し掛けて来る事は滅多にない。だから、嬉しかった。

その夜は、ワインを三本くらい空けて。夫は、ウサギ語とも人間語ともつかない言葉をしゃべって笑っていた。

それから、ベッドに倒れこんで。

夫は、私の顔を引き寄せ、自分のフカフカの胸に当てた。
「鼓動が聞こえる?」
「ええ。」
「きみと会って、毎日こうだ。今でも、ドキドキしてる。」
「私、嫉妬してたわ。ウサギの言葉でしゃべるあなた。仕事先では、多くのウサギを相手にしているでしょう?」
「そうか。」
「馬鹿みたいねえ。」
「僕も。たまに、きみが楽しくしゃべっているところを見て、まぶしく思う事はあるよ。」
「でも、それが、一番大きな事ってわけじゃないわよね。」
「うん。」

夫は、珍しく沢山しゃべって疲れたのか。あるいは、ワインを飲み過ぎたのか。あくびを一つして眠ってしまった。

私は、夫の規則正しい心臓の鼓動をずっと聞いていた。言葉より多くが伝わって来た。


2004年01月14日(水) 息苦しかった。少し横になりたかった。だが、男はハツエが背を向けた後ろからハツエを抱き締める。

風が強くなって来た。関節が痛むのをこらえながら、ハツエは少し歩を早めた。

「見つけた。」
突然、ハツエの前に立ちはだかる男性。

ハツエはハッと息を飲む。

「随分探した。」
「どうして?」
「それはこっちの台詞だよ。」

ハツエはおろおろして、手に持った買い物袋を落としてしまう。

「こんな重い荷物を持って、一人で。全く馬鹿な人だよ。あなたは。」

抱きすくめられてハツエは、ふっと泣きたくなる。嬉しいからではない。戸惑いの涙。

--

「どうして、こんなところまで?」
「探したんだ。あちこちに訊いて回って。」
「相変わらず探偵ごっこが好きなのね。」
「あなたを一人にしたくないんだ。なのに、あなたときたら。」
「ねえ。タケルさん。あなた、幾つになったんでしたっけ?」
「39だ。」
「私、もうすぐ70よ。」
「歳のことは考えないでって言っただろ。」
「だって。息子って言ってもおかしくないわ。」
「僕は、あなたに恋をした。あなたも僕を好きになってくれた筈だよ。それなのに、どうして何度も何度も僕の前から逃げ出すの?」

ハツエには、男の情熱が息苦しかった。少し横になりたかった。だが、男はハツエが背を向けた後ろからハツエを抱き締める。

「とりあえず、今日のところは帰って頂戴。」
「だって。そんな事したら、またあなたはいなくなってしまう。」
「いなくはならないわ。もう、あちらこちらと逃げ回るほどの元気はないもの。明日。ね。ゆっくりお話ししましょう。」
「分かった。」

男は、子供と同じだった。男が帯に掛けた手をそっと外すと、ハツエは、笑顔を作って言った。
「明日。絶対よ。」

男はうなずいて、部屋を出て行った。

ほうっと息をついて、帯を緩める。

タケルは、まだ夫が元気だった頃、夫のやっている運送会社に入って来た。夫が倒れて、ハツエがそれでも数年は会社を立て直そうと頑張ったが、結局、不景気の波には勝てなかった。夫は亡くなり、会社も潰れ、最後までそばにいてくれたのがタケルだった。美しい顔と真っ直ぐな瞳を持つ青年を、子供のいないハツエは息子のように可愛がっていた。まだ若いのに、給料もろくに払ってやれない会社のために尽くしてくれて、ハツエは心の底から感謝していた。

もう、何もかもを失って、これからお互い新しい人生を歩きましょう。と、ハツエがずっと溜めてきた貯金をはたいて退職金を手渡した時。タケルは、初めて涙を流し、ワーワーと子供のように泣いた。

それからだ。逃げても、逃げても。

タケルは、ハツエを追って来る。

タケルのことを嫌いではなかった。だが、息子のように思って面倒を見て来た男に、女として身を任せる事はできなかった。ましてや、年老いた体。

ハツエは、考えるのをやめて布団に入った。

最近、少し疲れ易くなって来たのを感じていた。

--

「仕事ならちゃんとしてるよ。金だって、溜めた。あなたと一緒に暮らせる部屋も借りようと思ってる。」
「ねえ。お願い。そんな風に勝手に決めないでちょうだい。」
「だって、黙ってたらあなたは逃げてばかりだもの。」
「世間はどう思うかしら。夫婦でもない、親子みたいな男女に部屋を貸してくれるわけないでしょう?」
「なら、籍を入れよう。結婚しようよ。ね。」
「まさか。私はもうおばあちゃんよ。」
「そんなことない。綺麗だよ。ずっと思ってた。ハツエさんが、朝早くから事務所の掃除してるとこ、俺、ずっと綺麗だなって。」
「そういうことじゃないの。」
「なら、どういうこと?」
「私が辛いの。」
「僕は、どうすればいいの?」
「あなたは・・・。いい娘さんと結婚して、子供を作って。」
「あなたとじゃなきゃいやだ。」
「そんなの、おかしいわ。」
「おかしいなんて、誰が決めるの?世間かい?どうして僕らが決めちゃいけないんだ?」

タケルは、ハツエの手を握り、唇に当てる。
「僕一人にわがままを言わせるなんて、ずるいよ・・・。」

そうして、ハツエの帯はあっという間に解かれ、小さな体はすっかりタケルの腕に納まってしまう。

--

目が覚めると、ハツエはどこにもいなかった。

タケルは、狂ったようにハツエの姿を探した。

ハツエがいつも持っている、ハンドバッグがなかった。

「ああ。どうして・・・。足が痛いのに。そんなに遠くにはいけないはずなのに。」
タケルは泣く。

最後にハツエが着ていた着物を抱き締めて。

僕のせいだ。僕の・・・。

--

「今度の職員さん、ちょっといいわね。」
とある老人ホームで、そんな言葉がささやかれた。

「孫みたいな歳だけどさ。なんか、私ら年寄りにも丁寧なんだよねえ。」
「結婚もしてなくて、ずっと独身を通して来たんだってさ。」
「事情があるのかねえ。」
「そういえば、女の人のこと、訊いておったわ。」
「お母さんか何かかねえ。」
「探しておるんだって。」
「へえ・・・。」

--

ホームの中では一番大人しくて、いつも笑みを絶やさないサキコの髪を梳く。

「ああ。気持ちいい。」
「気持ちいいですか。」
「あなた、上手ねえ。」
「ありがとうございます。」

いつもはほとんどしゃべらないサキコが話し掛けて来た事が嬉しくて、タケルは、その少なくなった髪を丁寧に結う。

他の職員が教えてくれた。

サキコさんも昔はよくしゃべってたけどもね。去年ぐらいからかしら。ちょっと話の辻褄が合わなくなってきてるわね。そうなると、本人も、自分が呆けてるのを悟られたくないんでしょう。あんまり物を言わなくなったわね。ご家族の面会の時も、黙ってニコニコしてる事が多いわ。

「サキコさん、若い頃はモテたでしょう?」
「まあ・・・。」

顔をほころばせて、コロコロ笑う。

「そりゃあ、まあね。好きになった男の事は今でも忘れないわ。」
「その人と、今でも会いたいですか?」
「どうかしらねえ。こんなおばあさんになっちゃってねえ。あちらさんも、いいおじいさんでしょう。でも、昔はそりゃあ、男前でね・・・。」

嬉しそうに話すサキコさんの髪はもう、本当に少なくて。指は折れそうなほど、細くて。

それでも良かったのに。

あなたがこんなに小さくなってしまっても。

僕はずっとそばに居たかった。

そうでなかったら。どこかでこんな風に、僕のことを誰かに思い出として語ってくれていれば、どんなに救われるか。

でも、旦那さんが亡くなった時も、会社が潰れた時も。いつだって、あなたは振り返らなかった。真っ直ぐに前を見ていた。思い出話なんかを誰かとしている姿を見たことはない。いつだって、前を。そして、僕はいつまでも後ろを。


2004年01月10日(土) 死んだら星になって空からお前を見守る、って言うだろ。俺はそんなの嫌だな。あんな遠くからじゃ、

今年も一年が終わろうとしている。

紅白歌合戦を夫婦してぼんやり見ていると、夫が突然口を開いた。
「ねえ。今年一年で言い残した事があったら、今言ってしまわないか。」
「え?」
「お互い、来年に秘密を持ち越すのはやめようって事。」

私は、かっと頬が熱くなり、心臓が大きな鼓動を立てた。

あのこと。

あのことがバレたのだ。

「僕から。いいかな。」
「ええ。いいわ。」
「今年後半からずっと具合が悪いって言ってたろ。でさ。きみがあんまりうるさく言うもんだから、仕事の合間に検査を受けて来た。それで・・・。」
「それで?」
「癌だって。」
「うそ・・・。」
「本当だよ。」
「ちゃんと聞いたの?お医者様が最初から本人に言うなんて。」
「僕が確認したんだ。僕が自分で。親父も癌だったろ。だから、もしかしてそうかもって。」
「で?どうなるの?」
「どうって・・・。」
「私達は、どうなってしまうの?」
「どうにもならないさ。自然に任せるしか。僕だって、これから死ぬとは限らないんだし。」
「・・・ああ。そうね。そうよね。」
「大丈夫か?」
「ええ・・・。」
「大腸癌だ。年が明けたらすぐ手術のために入院する。人口肛門って知ってるか?」
「ちょっとだけ。」
「それにしないといけないかもしれないんだ。」
「私はどうすればいいの?」
「病院に一緒に行ってくれるかな。あとは、医者の言うことに従って、僕をケアして欲しい。」
「分かったわ。」

少しばかり沈黙が続いた。

「ねえ。私の秘密だけど。」
「うん?」
「こんな時に言うのはふさわしくないわ。」
「言って欲しいな。だって、こんなに静かに二人で過ごせる時も今日しかないし。」
「・・・あのね。」
「・・・。」
「離婚してください。」
「え?」
「好きな人がいるの。」
「まさか。」
「今すぐじゃないの。あなたが元気になってから。だって。知らなかったもの。あなたがこんな・・・。病気だったなんて・・・。なんてひどいのかしら・・・。」

私は、そこからは何も言えずに泣きじゃくるばかりで。

テレビはいつしか、新年が明けた事を知らせていた。

私も夫も相当混乱していた。最悪の年明けかもしれなかった。だが。言ってしまったことで何かが動き始める。それはほっとする事のようでもあった。

夫は静かに言った。
「ずっと仕事でほったらかしだったもんな。だけどさ。入院って聞いて、俺、ラッキーだなって思ったんだ。仕事堂々と休んで、お前といられるってさ。」
「だから、そういうの・・・。」
「分かってるって。男のわがままなんだよ。いつだて、男は勝手に頭ん中で都合のいいように女を動かそうと思ったりするもんなんだ。」
「・・・。」
「ともかく眠ろう。今日は長くなるから。体力をしっかり蓄えておかなくちゃな。お前も、少し落ち着かないと。発作起きるぞ。」

--

夫は、仕事一筋の人だった。真面目で、体力に自信があって。

一方の私は、喘息持ちで体が弱くて。結婚10年目だが、子供も産むこともできず、退屈な結婚生活の中でちょっとずつ何かが死んで行っている気がしていた。夫は、体が弱い私を、ほんの少し馬鹿にしているように思えた。家を建てるだとか、パソコンを買うだとか。そういう大きな出費を目の前にしただけでコンコンと咳き込み始める心の弱さも含めて、私はずっと夫にとって少し駄目な妻だった。

昨年、喘息で入院した時に主治医となった杉浦が、私の恋人だった。杉浦は、私の灰色にくすんだ人生を違うものにしてくれた。喘息には心の持ちようも大切なんだよ、と言っては、あちこち連れて行ってくれて。

もう少しだったのに。

夫は、私に無関心だから。

杉浦とは手も繋いだことはなかった。彼が体に触れることがあるとすれば、それは、診察の時だけだった。抱き合ってしまえば、私が罪悪感に苦しむと分かって。二人で話し合って決めた事だ。ちゃんと離婚するまでは、二人の欲望だけで動くのはやめようって。

だが、既に。夫が知らないところで誰かと約束を交わす事。それが既に夫に対する背徳の行為。

私は、夫が残業で帰らないのをいいことに、杉浦と会ったり、電話で話をしたりしていたのだ。

夫の健康状態が相当に悪くなっているのさえ気付かない妻。

私は、結局、夜が明けるまで一睡もできなかった。

--

私達は、無言で病院に向かい、医者の説明を受けた。

個室で二人きりになった時、私は言った。
「あなたがよくなるまで、私ずっと一緒にいますから。」
「ああ。すまない。きみをもっと早く自由にしてやるべきだった。」

私は、また涙が出そうになった。その時、看護婦が入って来たから、泣かずには済んだのだけれど。今は泣いてはいけない。私が泣くべき時は、もっとずっと先なのだ。

--

夫の手術は成功したかのように見えた。

医者は、言った。
「成功はしました。ですが、五年間再発がなくて初めて、癌が治ったと言えるんです。」

夫は、仕事に戻った。仕事人間として生きていた彼にとって、仕事を続けることが、生を紡ぐことだった。

私は、杉浦に電話をした。夫が回復するまで私達のことを待ってください、と。

だが、一年持たなかった。今度は、胃に癌が見つかって、再び入院となった。

私は、今度は泣かなかった。いっそ、泣いてしまえば楽だったのだろうが。

「もうちょっとだけ待ってくれるか。」
夫はやつれた顔で言った。

私は無言でうなずいた。

--

手術をするにはしたが、もう、夫は病院を出られなかった。

ある日、夫は、
「スイカが食べたい。」
と言った。

体がむくんでしょうがないから、利尿作用があるスイカがいいんだってさ。

冬の最中、私はスイカを探した。

また、ある日、夫は、
「味噌汁が欲しいな。卵、落として。お袋がよく作ってくれたんだ。」
と言った。

私は、家から味噌汁を作って、魔法瓶に入れて持って行った。

一口飲んで、ああ。美味しいと言って。
「よくさ。死んだら星になって空からお前を見守る、って言うだろ。俺はそんなの嫌だな。あんな遠くからじゃ、お前は見えないものな。」
と呟いた。

それから、眠りに就いて。

それが、最後の言葉となった。

--

「最近、発作が起きないね。ピークフローの数値もすごくいい。喘息がかなり良くなってる。いや。ほとんど治ってるなあ。これはびっくりだ。」
杉浦はにっこりした。

私には分かっていた。

夫だ。夫がきっと。

空なんて遠過ぎるから。私は、そっと胸に手を当てる。

--

三年後。

私は杉浦と結婚した。

「随分と待たせてしまったわ。」
「いいさ。ずっと待つつもりだった。もしかしたら、一生結婚できなくてもいいと思ってた。」
「私・・・。馬鹿だったの。夫は私の事、全然好きじゃないって、そう思い込んでたの。」
「ほとんどの男は、そういう事を伝えるのが下手で。むしろ、好きじゃないふりをしてしまうからね。好きだってことがバレちゃったらさ。男として恥ずかしかったりするんだよ。」

ほんの少しばかり、私に男と女というものについて学んだ。それから、静かに泣いた。泣かないと心に誓ってからは、初めてだった。


2004年01月08日(木) 服をするりと脱いだ。白い体だった。乳房は小さくて、手の平にすっぽりと納まるサイズだった。

どんな人間にも取り柄というものがあるとすれば、僕の場合は「きれい好きである」ことだった。

冷蔵庫の中を隅々まで綺麗にして終わると、時刻はもう、すっかり夜中だった。

暗闇の中に、開きっぱなしの冷蔵庫内の明かりだけ。

風呂に入って寝るか、と思っていると、
「ありがとう。」
と、誰かの声。

そこには、小柄な女性が白い服を着て立っていた。

「きみは?」
「あたし、冷蔵庫の精よ。」
「はあ。」
「あのね。お礼を言いに出て来たの。綺麗にしてくれてありがとう。」
「うん・・・。」
「知ってるわ。あなたが今日、新しい冷蔵庫を買いに行った事は。」
「ああ。来週には、新しいのが来る。そうなったら、古いやつは持って行ってもらうことになるからね。今日、掃除してたんだ。」
「私、明日死ぬの。」
「そうか・・・。」

唐突にそう言われても、何と答えていいか分からない。僕の冷蔵庫は、就職のためにこのアパートを借りた時に買った旧式のやつだった。

冷蔵庫が死ぬ −彼女に合わせて死ぬという言い方をするならば− 時ってのは、いろいろだ。知人の家では、冷蔵室と冷凍室の機能が入れ替わってしまって、冷蔵室に入れたものがある日どんどん凍り始めたという。

僕の冷蔵庫は、少しずつ死んで行く感じだった。だんだんと物を冷やす力がなくなり始め、最近では入れたものがすぐ腐るようになっていた。

「私がお母さんなら、中に入れた食べ物は子供みたいなものね。最近は、だんだん彼らを守ることができなくなるの。物を冷やすって、けっこう厳しいことなのよ。普通は、冷たいよりはあったかい方が自然なんですものね。で、私は力の限り彼らを冷やすわけ。」
「なるほど。」
「でも、もう駄目ね。私みたいな旧式、修理するより捨てた方がいいに決まってるし。」

僕は、冷蔵庫に対してとても悪い事をしている気分になってしまった。

「いいの。あなたは気にしないで。私達は生まれた時から、廃棄処分される日の事をわきまえているの。それにね。あなた、とてもよくしてくれたわ。こんなに綺麗にしてくれて。私って、そういう意味じゃ幸せ者だと思うの。」
「ごめん。」
「やだ。謝らないで。」
「うん。」

また、黙ってしまった。

「ねえ。お茶でも飲む?」
僕は訊ねた。

「ええ。いただくわ。」

僕は、立って、湯のみを二つ用意した。

「本当にお茶しかないんだ。番茶。紅茶とかコーヒーってないんだよ。」
「ええ。知ってるわ。」

彼女が僕が淹れた番茶の湯のみを手に取ると、湯気がだんだんと立たなくなっていった。

「お茶ってさ。飲むの初めてだわ。」
そう言って、笑って、彼女はお茶を一口。

「おいしい。」
「本当に?」
「ええ。本当。」
「明日、死んじゃうなんて残念だね。」
「仕方ないわ。」
「自分で分かるの?」
「うん。分かるの。」
「体は?辛くない?」
「ええ。人間じゃないもの。病気ってのとは違うわ。自分が一つだけ持ってて、それこそが存在意義っていうような、そんな力がある日完全に失われてしまうだけのことなの。」

彼女の横顔は、清潔でとても美しかった。

たとえば、新しい冷蔵庫が来ても、古い方の冷蔵庫を残しておいて、何かに使うことができたなら。そうだな。整理棚とか。そんな風に。そうしたら、彼女は物を冷やす力を失っても、何とかこのままでいられるんじゃないだろうか。

「駄目よ。そんなの。プライドがね。きっと、新しい冷蔵庫に嫉妬して、頭がおかしくなっちゃうわ。」
「プライドねえ。」
「ええ。馬鹿みたいね。物も、長く人のそばにいると、いろんな感情を持つようになっちゃうの。あなたが毎日私の体を拭いてくれたら、愛されていると勘違いして。最後だと思ったら、のこのこ出て来てしまって。」

彼女は、泣いていた。僕は彼女を抱き締めた。ひんやりとした体だった。

体を覆う、ストンとしたシルクのような白い服の中には、コンパクトで固い感じの肉体が感じられた。僕は、彼女の体を感じて、自分の下半身が反応するのを止められなかった。

彼女は、くすっと笑って。服をするりと脱いだ。白い体だった。乳房は小さくて、手の平にすっぽりと納まるサイズだった。

「小さな体で頑張ってたんだね。」
「ええ。旧式ですもの。来週来る冷蔵庫は、グラマーで。きっと、テクニックがすごいわよ。」
「テクニック?」
「ええ。テクニック。」

彼女は少し顔を赤らめた。

それから、
「寒くない?」
と訊いて来た。

ああ。寒くないよ。と答えようかと思ったが、彼女が力の衰えを気にすると思って、
「少し寒いかな。」
と答えた。

それから、彼女に口づけた。ひんやりとした唇に。

「あなたも脱いで。」
「うん。」

僕は、うなずいて、服を脱ぎ捨てた。

僕らは、寝室から持って来た毛布にくるまって、キッチンで抱き合った。不思議な感じだった。彼女のしなやかな体が暗闇で白く光った。彼女の体内は、だが、とても熱くて。

彼女が、そっと上にまたがって来た時、僕は、ずっと以前、酔っ払った会社の同僚の女の子を連れて来て水を飲ませた事を思い出した。成り行きで冷蔵庫の前でセックスした。あの時の彼女は、随分酔っていて、一人で動いて大声を上げてたっけ。

小柄な冷蔵庫の精は、その彼女と同じようにしようと奮闘していた。でも上手くいかないみたいだった。僕は、笑って、彼女の腰に手を添えると、
「ゆっくりだよ。リズムを合わせて。」
と、ささやいた。

「ごめんなさいね。テクニックがなくて。」
「はは。そんなもの要らないよ。」

僕は、彼女の小さな体を抱き締めて、今度は僕が上になって、彼女の見開かれた泣きそうな瞳を見下ろした。

長い長い時間、僕らは上になったり、下になったり。笑ったり、泣きそうになったり。

それから、夜が明ける頃、毛布に包まったまま、眠った。

--

目が覚めると、もう昼前だった。

冷蔵庫の前で、裸で毛布に包まっている僕は、かなり間抜けだった。

僕は、とりあえず下着を急いで身につけた。

それから、冷蔵庫の方に向き直った。冷蔵庫からは、全く音がしなかった。ドアを開けても、中の照明も点かない。完全に死んでいた。

僕は、中に一つだけ残っていたミネラルウォーターが大丈夫な事を確認すると、ごくごく音を立てて飲んだ。それから、残りを冷蔵庫にちょっぴりかけてやった。

「ありがとう。」
切ない気持ちで、僕は言った。

それから、この冷蔵庫を買った時の事を思い出した。

あの時、僕は、嬉しくて、この冷蔵庫のドアにキスしたんだった。中を缶ビールで一杯にして、一人暮らしの始まりを祝った。

それから、月日が立って。

何も変わらないというわけにはいかない。

--

一週間後。

新しい冷蔵庫が僕のアパートにやって来た。

「こっちがお引き取りの冷蔵庫ですね。」
「ああ。うん。そうです。」

あの。そっと運んでくださいね。

そんな僕の気持ちお構いなしに、プロの運送屋が手際よく重い冷蔵庫を運び出して行く。

一時間後。新しい冷蔵庫が稼動を始めた。まだ何も入っていない。

「はじめまして。」
僕は、新しい冷蔵庫に挨拶をしてみた。

キスをするのはためらわれたので、挨拶だけを。


2004年01月07日(水) 彼はそっと私を抱き締めた。「奈津香の体、震えてる。寒い?」そう訊ねる桑名君も震えていた。「今度こそ帰らない。」

最初に彼のところに転がり込んだのは、大学受験のことで父と揉めた時だった。父が勧める大学など行きたくなかった。

「私の頭で行けるわけないもん。」
「ちゃんと勉強をしないからだ。成績だって下がって。」
「しょうがないでしょ。頭悪いんだよ。私。」
「そうじゃない。藤田先生も言っていたぞ。お前は頭は悪くないって。なんでだ?どうして最低限、人としてやらないといけない事をやらない。」
「人としてってさあ。大学行くのは最低限の事じゃないよ。」
「そうじゃない。親の言う事を聞くってことだ。全く。塾にも幾ら払ったと思ってるんだ。さぼってばかりで。」

それからはもう、父が私の頬に平手を食らわせるまで、私は抗議を続けたっけ。だが、父は私を許さなかった。

父が嫌い。こんなだから母も出て行ったんだ。母が出て行くまでは私も何とか頑張ろうと思ったけど、今はもう無理。このまま、父の言う通りに大学に行くなんて絶対に嫌。

だから、家を出た。

駅の公衆電話から桑名君に電話したら、すぐ来てくれるって言って。

桑名君の顔見たらホッとして泣きそうになった。

「どうしたの?」
優しい声で訊いてくれた。

「父と喧嘩したの。あんなやつ大嫌い。」

私は、桑名君の腕に私の腕をからめた。桑名君はちょっと恥ずかしそうにしたけど、何も言わなかった。それから、桑名君の狭いアパートの部屋に着くまで、私達は黙って歩いた。

--

桑名君は、同級生の美津子のお兄さんだ。去年の夏に初めて会った。最初は黙ってニコニコしてるだけで頼りないやつだなって思ってたけど。そのうち、何でも相談するようになった。桑名君のいいところは、偏見っていうのがないところ。その頃も私、相当に嫌な子だったんだけど、桑名君はいつもそんな私にも優しく話しをしてくれた。

「どうするの?」
桑名君に渡されたココアを飲んでいる私に、桑名君はそっと訊いた。

「帰りたくない。」
「でも・・・。」
「どうしても帰りたくないの。」
「じゃあ、僕からお父さんに電話するよ。」
「駄目。それだけは駄目。絶対、桑名君に迷惑掛かるんだから。お父さん、すごいひどい奴なの。桑名君なんかひとたまりもないわ。」
「そうかあ。」

それから、私は桑名君のトレーナーを借りて、一緒の布団で一晩眠った。

私は、桑名君の息が時折乱れるから、桑名君も眠れないんだなって思って。私も、ドキドキして。それでも、朝までそのままずっと寝たふりをしたけど、最高に幸せだった。

朝、寝不足の顔で桑名君はこう言った。

「奈津香が高校出たら、迎えに行くからさ。今日は帰りなさい。」
「迎えに来るって?」
「結婚しよう。」
「結婚?」
「うん。だから。今日のところは帰った方がいい。」
「無理よ。」
「何が?」
「お父さんが許してくれっこない。」
「結婚に一番必要なのは、僕らの意思だよ。」
「・・・。」
「それに、お父さん、お父さんって。きみは、何かをしようとするたびにお父さんを言い訳にしてるよね。そこから自由になりたくないのかい?」
「なりたい。なりたいよう。でも、桑名君がそばにいてくれないと無理なの。」
「僕はいるから。ずっと待ってる。何かあったら電話しておいで。」
「うん・・・。」

それから。私は、帰ろうって思った。今のままじゃ、桑名君にも迷惑が掛かる。高校だけはちゃんと出ようって。

帰ったら、また父に殴られた。

だけど、その時はそれっきり父は何も言わなかったから。残りの時間何とか乗り切れば、家を出られるって。そう思うようにして頑張ることにした。

--

父は、大学教授だった。だから、私が大学に行かないのが我慢できなかったのだ。私は、取りあえずの揉め事を避けるため、大人しく受験することにした。勉強の合間には、桑名君に手紙を書いた。返事は出さないでって頼んだけど、桑名君はちゃんと読んでくれてる筈だ。

大学に受かった日。

私は桑名君に電話した。

「おめでとう。」
桑名君はいつもの遠慮がちな声で祝福してくれた。

それから、
「ご褒美にデートしようか。」
と。

私に春が来た。

--

大学に入ってからも父とは喧嘩ばかりしていた。そして、二度目の家出をした時、私は、桑名君のお嫁さんになるつもりだった。

桑名君は、前と同じように出迎えてくれた。

「迎えに来てくれるって言ったでしょう?こっちから押しかけてきちゃった。」
「ん。」
「怒ってる?」
「怒ってないよ。嬉しいよ。」

それから、彼はそっと私を抱き締めた。

「奈津香の体、震えてる。寒い?」
そう訊ねる桑名君も震えていた。

「今度こそ帰らない。」
「うん。」

--

父に見つかるのは時間の問題だった。

ある日、桑名君は父に呼ばれて出掛けて行った。その日の午後は、絶望的に長い長い午後だった。

桑名君は、アパートに戻って来ると、私に言った。
「いいお父さんじゃないか。」
「え?」
「きみの事を心配してる。」
「どういうこと?」
「時々は帰ってあげてくれるかな。」
「私達はどうなるの?」
「どもならないよ。僕らのことは許してくれたんだ。だけど、お父さんが一人になってしまうのはあまりにもひどいからね。奈津香は時々帰ってあげなさい。」

桑名君がそんな言い方をしたのが、私はちょっとショックだった。柔らかい言い方だけど、どことなく、命令するような調子。

「分かった。」
私は、しぶしぶうなずいた。

あの父が。だけど、少しは変わったのかもしれない。母がいなくなって、今度は私までいなくなったあの屋敷で、一人で。

--

何の時だったか。桑名君が言った言葉が引っかかった事がある。
「奈津香は、結構遊んでたって。お父さんが。」
「え?どういうこと?」
「いや。それだけ。」
「私、遊んでないよ。」
「うん。いや。分かってるよ。」

その会話はそれだけで終わったのだけど。桑名君が父という人間に何かを吹き込まれたのは事実だった。

そんな些細な事件さえ除けば、私達は幸せだった。いや。桑名君はどうだったのか。私は幸福だった。だけど、それだけで終わるとも思っていなかった。

父からまた電話があって、一度帰って来なさいと言われた時、私は、嫌な予感が当たったと思った。

「帰っておいで。少しぐらいはいいだろう?きみはまだ未成年なんだからね。」

慣れない仕事で残業が続いて疲れているせいか、桑名君は、少し厳しい口調で私に言った。いつの間にか、桑名君と私の間も少しだけ距離が広がってしまった。

「嫌よ。あんな父のところ。」
「だけど。なあ。奈津香。いつまでも子供みたいに振舞うのはよしてくれよ。僕だって好きでもない仕事をしてきみを養ってる。」
「それとこれとは・・・。ねえ。あの人のところは嫌。」
「わがまま言うなよ。」
だんだんと、桑名君の口調が苛立ってくるのが分かったから。

「分かったわ。」
私は、そう言うしかなかった。

--

父は、変わっていなかった。

びっくりするぐらいに。

前よりひどくなっているかもしれない。

権力と孤独の間で、生きた化け物になっていた。

「もう、桑名のところには戻るな。」
そう言った時、私は、黙って立ち上がって、家を出て行こうと。

「待て。待ちなさい。奈津香。」
父の声が、いや、化け物の声が追って来る。

嫌。嫌。いやーっ。

父の手が私の首に回り、強く締め上げる。

もがいても、もがいても、その手は離れない。助けて。桑名君。目の前が真っ暗になる。

「奈津香。おい。奈津香。どうしたんだ?」
父の声が遠くに聞こえる。

「殺すつもりはなかった。ちょっとだけ気を失わせて、お前をここにとどめようと。そう思ったんだ。」

もう遅い。

何もかも。

私は、ちゃんと言った。嫌だって言った。だけど・・・。

--

私は死んで尚、この屋敷から出られない。自由になることは、私には無理だった。

今日も桑名君から父に電話があった。

「娘は会いたくないと言ってるんだ。いい加減にしないか。」
そう言って、電話を切ってしまった。

それから、金庫を開けて札束を数えている。桑名君は、そんなお金は受け取らないよ。

私は、でも、亡霊だから声は出せない。

桑名君が、無理にでも私に会いに来てくれたなら。私がここで死んでしまった事を知ってくれたなら。私は自由になれるかもしれない。

だが、桑名君は、来ない。

少しばかり優し過ぎた恋人。若過ぎて無力だった恋人達。


2004年01月06日(火) 金のない結婚生活に飽き飽きして、父親に頼んで僕を追い払ったのかもしれない。本当のところは分からない。

「桑名君、ちょっといいかしら?」

同期の永田という女だ。

「何?」
「もう、仕事は終わりでしょう?」
「ああ。そうだけど。」
「飲みに行かない?」
「今日はちょっと・・・。」
「ね。いいでしょう?私ね。結婚するの。お祝いして欲しいんだけど。」
「結婚・・・。そうか。知らなかったな。」
「ええ。誰にも言ってなかったもの。」
「お祝いするのが僕なんかでいいのかい?」
「あなたがいいの。」
「なら、付き合う。」

結婚相手が決まった女というのは、どんなに好みからかけ離れていた女であっても、なぜか、男に軽い嫉妬心を起こさせる。気が強くて、同期のどの男達より有能な永田という女に、僕はどことなく苦手意識を持っていたにも関わらず、なぜかひどくくやしい気持ちがしたのだ。

「何が飲みたい?奢るよ。」
「じゃあ。桑名君が普段行ってるお店を教えて欲しいな。」
「残念ながら、僕はそういうのにこだわる男じゃないんでね。安ければどこでもいい。」
「私も安いところ、好きよ。」

そこで手近な店に入った。

「初めてよね。二人でこんな風に飲むなんて。」

永田とどころか他の同僚とだって、僕はこうやって差し向かいで酒を飲んだことなどない。それぐらい付き合いが悪い男なのだ。

「ね。私さ。桑名君のこと、ずいぶんと好きだったのよ。」
「へえ。初耳だな。」
「だって、桑名君、そういうことに無頓着だもんね。」
「そうかな。」
「そうよ。」
「永田が言うなら、きっとそうだ。」
「私じゃなくたって、そういうわ。」

こんな風に誰かとおしゃべりするのは初めてだ。最低限、生活するに必要な会話だけしようとしてきた数年間。

「桑名君ってさ。不思議な人だよね。」
「そんなじゃない。」
「みんな、噂してるんだよ。仕事は黙々とこなしてて無駄口叩かなくて。結構ハンサムなのにさ。」
「よせよ。」
「本当よ。でもね。私、分かったの。なんだかさ。あなたのこと、どんなに好きでいたって、あなたは私のことを決して好きになってくれないってね。なんだか分かったのよ。」
「そうか。」

まずいな。もう、僕は、この女に何でも話したくなってしまった。

「ね。あるんでしょう?桑名君にも、恋の一つや二つ。」
「ああ。まあね。」
「聞かせてよ。私も、言っちゃったんだからさ。」
「そうだな。」
「やたっ。」
「もう、10年も前の話だよ。その当時、付き合ってた子がいた。僕は、22歳で、彼女はまだ高校を出たばかりだった。」
「素敵な人?」
「いや。つまらない子だったよ。嘘つきで。他の男とも遊んでいた。だけど、僕は夢中だったんだ。」
「桑名君のほうが?信じられないわね。」
「僕だって普通の男さ。彼女の体も魅力的だったけどね。いい加減で、わがままで、嘘つきなところさえ魅力的に思えたものだった。僕と彼女は一年ほど付き合って、結婚した。」
「親御さんは反対しなかったの?」
「もちろん、したさ。とりわけ、彼女の親父さんがね。」
「それで、どうしたの?」
「反対を押し切って、一緒に暮らした。それが愛だと思ってた。」
「若かったのね。」
「若かったのさ。」
「喧嘩はしょっちゅうだったよ。彼女は、いつだって嘘をついては外に出て行く。若かった僕は嫉妬に狂って、戻って来た彼女を殴ったこともあった。激しい恋だった。」
「今のあなたからは信じられないわね。」
「まあね。一度だけ、彼女の親父さんと会った事がある。大学教授だった。白髪を綺麗に撫でつけててさ。僕のことを馬鹿にしていたよ。人間として見てくれなかった。彼女もそんな父親を心底嫌ってたんだ。」
「娘が父親を嫌うのなんてよくある話だわ。」
「ある日、その父親から彼女に、将来のことを話し合うから、一度家に帰って来なさいって電話があったんだ。あの時、僕は、ちょっとばかり余裕があるふりをしてね。帰りなさい、って言ったんだ。あれだけ彼女が嫌がってたのにさ。」
「まだ未成年だもの。親に責任がある年頃よ。あなたが年上として帰るように言ったのは正解だわ。」
「だがね。それが間違いだった。2日経っても、3日経っても、1週間経っても。彼女は帰って来なかった。」
「電話はしてみたの?」
「ああ。だけど、彼女の父親が出て、切ってしまう。何度か彼女の家にも行ったが、門前払いさ。すごい屋敷でね。そのうち、離婚届けが送られて来た。」
「サインした?」
「うん。どうしようもなかった。」
「結局、彼女とはそれっきり?」
「そう。」
「じゃあ、全ては彼女のお父さんが仕組んだ事かもしれないね。」
「そうかもしれない。そうでないかもしれない。彼女が金のない結婚生活に飽き飽きして、父親に頼んで僕を追い払ったのかもしれない。本当のところは分からない。だけど、僕は彼女の気まぐれに疲れていたし、彼女の父親から幾らかの金を受け取ってしまった。地位も金もある男に、結局のところは抵抗し切れなかったのさ。あるいは、若い恋というのはその程度のものだと、彼女の父親は僕に教えたかったのかもしれない。」
「それから、もう恋はしないの?」
「そうだな。自然に心が動くのを待っている。だけど、無理に誰かと付き合う気もない。」
「私もそうだったわ。あなたほどじゃないけど。30過ぎまで生きてると、結局、心が動かされることもなくなって、代わりに、絶望のようなものが膨らんで来るのね。私って、こういう女だから、なまじの男の人じゃ、そばに来てくれないしさ。」
「婚約者は?」
「恋ではなかった。気がついたら、私を支えようとしてくれた男だった。そういう人でいいんだなって、30過ぎたから思えたのよ。」
「なるほど。いい話だ。」
「桑名君も幸せになれるといいわね。」
「まあね。でも、無理してなれるもんじゃないしさ。」
「でも、知らなかったなあ。桑名君、結婚してたことがあったなんてさ。」
「特別さ。普段、人に言ったことはない。結婚祝いの代わりだよ。」
「ありがとう。」

その時、永田の携帯電話が鳴った。

永田は、電話に出ると途端に嬉しそうな顔になった。二言三言交わして。

「彼からなの。そろそろ行くわ。今日は付き合ってくれてありがとう。」
「ああ。彼によろしく。」
「ええ。」

永田は、綺麗だった。結婚に不安なく飛び込んで行ける女特有の輝きに包まれていた。僕はあらためて、彼女の美しさになぜ今まで気付かなかったのだろうと思った。男というのは、そういうものかもしれない。誰かがいいね、と言えば、自分も欲しくなるという。

そろそろ僕も、重い腰を上げる時だ。今年はいい年になるといい。

そう思って店を出た。


2004年01月02日(金) 「奇妙な外見。真っ当な事しか言わなくて。誰かが既に思いついた冗談しか言わない男なんて、嫌かい?」

彼女は泣いていた。バーのカウンターで。バーテンダーは見て見ぬふりをしていた。いつもの痴話喧嘩が発端だと分かっていたから。

彼女はもう、繰り返すのは嫌だった。いつものように、彼の後を追いかけて、全て自分が悪かったと謝り、許されるのを待って眠りに就くのは。

彼女の前にそっと何か差し出された。

「何?」
「キャラメルだよ。」
箱男は言った。

「要らない。」
「落ち着くよ。」
「じゃあ、一つだけ。」

彼女は箱男の顔を見て笑った。そして、キャラメルを一粒受け取った。その四角四面な表情が可笑しくて、涙が止まらないのに笑えて来てしょうがなかった。

「美味しい。」
彼女は言った。

「うん。」
箱男は答えた。

「あっちに行かないの?呼んでるわ。あなたの仲間でしょう?」
「ただの仕事の同僚さ。僕は酒は飲めないんだ。」
「真面目なのね。」
「ああ。まあね。だが、人が言うほど僕は自分で自分のことを真面目とは思わないんだよ。」
「あたしは、ずっと不真面目って言われて来たから。ほんと、あなたみたいな人の事、理解できないわ。」
「普通なんだけどな。」
「私もよ。私も普通なの。」
「だけどさ。」
「だけどね。」
「理解されない。」

二人は同時に言って笑い出した。

「ね。違うお店、行かない?」
「いいけど。僕は面白くない男だよ。」
「いいの。あなたみたいな人、大好きよ。」

彼女は箱男の手をそっと握った。

誰でも良かったわけじゃない。

ただ、あの馬鹿男とは正反対の優しそうな声が気に入っただけよ。

彼女は箱男の手を取って、店を出た。

--

「結婚しよう。」
彼が言ったのは、付き合って一ヶ月も経たない頃だった。

「嘘。」
「嘘なんかじゃないよ。」
「だって。私なんか。」
「ねえ。私なんか、なんて言うのはずるいよ。きみが好きなんだ。」
「でも・・・。」
「僕が箱男だから、駄目なのかい?奇妙な外見。真っ当な事しか言わなくて。誰かが既に思いついた冗談しか言わない男なんて、嫌かい?」
「いいえ。好きよ。大好き。」
「じゃあ、オーケーしてくれるんだね?」
「もちろん。でも、早過ぎないかしら?」
「全然。むしろ遅いくらいだ。」

そうして、箱男は震える指で彼女の指に指輪を。

「指輪は四角じゃないのね。」
「もちろんさ。」

箱男の額には汗がにじみ、指は震える。

彼女は、心から彼をいとおしいと思った。

--

箱男は、箱で出来ていた。四角い箱が組み合わさって、手や足となっていた。小さい頃は随分といじめられた。だが、箱男はくじけなかった。いくら踏みつけられても、翌日には真新しい箱で体を組み立て直して学校に出かける。次第に周囲も箱男を認めないわけにはいかなくなった。

箱男は知っている。

人々がなぜ、自分をいじめるのか。

怖いからだ。

自分達と違う体。違う動き。そして、少しばかり物事の考え方まで違う事。

自分を育ててくれた人間の祖母は、箱男がいじめられて帰って来た時はいつもこう言った。
「お前の方が強いから。だから、いじめられるんだよ。みんなお前が怖いんだ。」

箱男はうなずいて、それから、自分の強さは何だろうと考える。

真っ直ぐな事。逸らさない視線。正直な言葉。物事を整理して考えるのが好きで、曖昧さをそのままにしておけないところ。

よく分からないが、自分という特別な存在が周囲を怖れさせるのを知ってからは、努めてみんなと仲良くするように心がけて来た。

箱男は、彼女が好きだった。すぐ泣くところ。怒るところ。笑うところ。めまぐるしく変わる表情。箱男の、進んで進んで、ぶつかるまで止まれない性格を笑い飛ばして、箱男の手から本を取り上げる。それから、キスをして、箱男がどこに向かっていたかを忘れさせようとする。

そういったことの全てが、うまく説明できないけれど、箱男には必要だった。

--

箱男と彼女は幸福だった。

だが、その幸福は、彼女が妊娠して間がない頃に翳りを見せ始めた。

「ねえ。不安なの。怖いの。」
「何が?どうして?」
「分からない。私なんかが親になれるのかしら。」
「きみは素敵だ。大丈夫だよ。」
「無理よ。あなたみたいに、ちゃんとしてない。家事も上手くできないし、すぐ怒って周囲に迷惑を掛けちゃう。」
「誰だって最初は不安なんだ。」

箱男は、彼女がどうして不安なのか分からなかった。

人生は真っ直ぐだった。その道を進むしかないのだ。さまざまな出来事が、彼の人生に交わり、その都度少しずつ進路を変える。人は進むしかないんだよ。

そうして十ヶ月が過ぎ、妻は無事、男の赤ちゃんを産んだ。
「おめでとう。」

だが、彼女は困った顔をしていた。
「ねえ。こんな小さな生き物、どう扱えばいいのかしら。」
「僕が手伝うよ。」

箱男は嬉しかった。自分にそっくりの小さな四角の生き物。箱の坊やは、揺りかごの中で眠っていた。二人で考えて、スミオと名付けた。

--

スミオは、父親に似ていた。幼いうちから、理路整然とした考えを身につけ、親の言うことをよく聞いた。

箱男は、自分に良く似た息子に満足した。

だが、心配なのは妻だった。次第に目が虚ろになり、時折、夜の街に出掛けては朝まで飲み歩くようになた。その都度、箱男はスミオの世話をしながら朝まで眠れない時間を過ごすはめになった。

箱男は怒ったりはしなかった。だが、正直、妻の何が問題なのか、さっぱり分からなかった。箱男は寝不足から苛立つようになった。

ある朝、妻の頬を殴ってしまった。

妻は大声を上げて、泣き出した。

その頃には五歳になろうとしていたスミオには、もうすぐ母がいなくなってしまう事が分かった。

スミオは、父親の手をぎゅっと握って不安だった。不安。それはスミオが生まれて初めて感じるものだった。父の顔を見上げた。父はいつものように静かに母の顔を見ていた。

スミオは、自分も泣き出し始めた。父親がそっとスミオを抱き上げた。スミオは、父も泣いている事を知った。箱の奥では、カサカサと乾いた悲しい音がした。

--

「じゃあね。スミオ。いい子にするのよ。お婆ちゃんの言うこと、よく聞いてね。」
「うん。」

箱男とスミオは、並んで立って。

スミオは、手にしていた箱を母に渡した。

「あら。何かしら。」
母は微笑んだ。

その瞳は濡れていて、スミオが初めて目にするような顔をしていた。

「誰が悪いということではないの。」
母は一人でしゃべり続けた。

「パパも私も、自分でやれるやり方で生きて来て、あなたが生まれた。誰も、誰かを責めたりはできないのよ。」
自分に言い聞かせるような言葉だった。

それから、ばいばい、と手を振った。

スミオも、手を振った。

--

彼女は、鈍行の電車に乗った。

そして、スミオが渡してくれた箱を思い出して、開けた。

中にはキャラメルが入っていた。

彼女は、一粒口に含んだ。

甘い味が広がった。

突然、ぬぐってもぬぐっても、止まらない涙が溢れた。

「私は、どこに行こうとしているの?」
彼女は言った。

そして、次の駅で降りた。

小さな、無人の駅だった。

次の列車が来るのは一時間後だった。

時間はある。キャラメルを全部食べ終える頃には、もう一度、あの小さな体を抱き締める事ができるだろう。それから、あの人。真っ直ぐで。愚鈍で。そして、そばにいることでしか慰め方を知らないあの人に向かって「ただいま」を言えるだろう。


2004年01月01日(木) だが、人魚は、笑顔をふりまき、鱗をきらめかせて、泳ぐ。飛び跳ねる。最後の最後まで、僕のほうをチラリとも見ず。

「ねえ。この公演が終わったら、本当にあのお願いを聞いてもらえるのね?」
「ああ。本当だ。だから、僕のために、ね?今日も頑張ってくれるだろう?」
「ええ。あなたが言うのなら。」
「いい子だ。」

僕は、彼女の不安気な頬にキスをして、ステージに出て行く。ショーの始まりだ。人々の歓声が沸き起こる。

もちろん、主役は僕ではなく彼女だ。

彼女が最高の笑みで皆の歓声に向かって進んで行くさまを見てほっとする。

大丈夫。いつもの彼女だ。

--

「どういうこと?」
「だから。きみの安全を考えて、もう少しだけ先に延ばしたい。」
「安全って。」
「先日も、手術ミスがあったのを知ってるだろう?きみをあんな目に遭わせたくないんだ。」
「そんなこと。いつだって成功するかどうかは五分五分だって。だったら、私・・・。」
「いい加減にしないか。僕がどんなにきみの事を大事に考えているか知ってるだろう?少しでも成功率が高いならそちらを選ぶ。最新の方法があるなら、いくら金を積んだってかまわないと思ってる。」

彼女は、少し青ざめた顔でうなずく。
「分かったわ。」

僕はお礼の代わりに彼女の体を抱き締める。

だが、あまり長い時間ではない。彼女は僕の体を押しやると、パシャンと音を立てて水の中に戻る。

僕は、水槽越しに彼女にキスの真似事を。

それに応えずに彼女は目を伏せて、そのまま寝室に入ってしまう。

--

人魚を見世物にして金を稼ぐ。それが僕の仕事。かつて漁師をしていた時に網にかかったのが彼女。

初めて彼女を見た時、僕は驚いて声も出なかった。

それぐらい彼女は美しかった。

通常、人魚とは言っても、ほとんど人間らしい顔をしている者はいない。魚のようにのっぺりした顔で、口の部分が突き出している。だが、稀に人間に近い顔をした者もいる。それでも、人間の基準で見て美しいと言えるほどではない。多くは、人並み以下の容貌だ。頭も良くない。だが、教えれば片言でしゃべる事ができる者もいて、そういったやつらは水族館に飼われていて、たとえばイルカと組んでショーをしたりする。

彼女は網の中で恐怖で震えていた。

僕は彼女を落ち着かせた。

彼女を連れ帰り体が回復するのを待った。実に辛抱強く。

彼女と出会ったことで、僕には新しい未来が開けたのだ。貧しい漁師の生活とはおさらばだ。

驚いたことに、彼女は頭も良かった。言葉をどんどん覚え、僕と会話した。

僕は彼女を連れて都会に出た。

人々は感動を持って僕らを迎えた。

たくさんの取材を受けた。時には、人魚の人権を論ずる人々も現れたが、そうひどい事にはならなかった。僕を非難するには、人魚は僕らの生活にあまりに浸透し過ぎていたからだ。そう。犬や猫やイルカのように。

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「無理よ。」
「そこを頼むよ。ギャラがすごいんだ。これが成功すればきっと僕らは大金と一緒に幸福を手に入れることができる。」
「もう限界なの。私の体。リズムに合わせるのも難しくなってるわ。」
「だから。これが最後なんだよ。」
「それに、あんな寒い場所でなんて。私は、南の海の生まれよ。私達はみんな、寒いところではろくに泳げないわ。」
「できる限りのことはするよ。博士も同行してくれる。」
「あの人。いやらしい男。あの人に体を調べられるのはうんざりよ。」
「きみを人間にすることができるのも、あの男だけなんだよ。」
「いや。いやいやいや。」
「頼むよ。氷の中できみは雪の女王になる。ライトアップされた湖で、きみの鱗がきらめく。さぞかし見物だろう。大統領も楽しみにしているんだ。」

最近ではもう、説得がどんどん難しくなっている。彼女の疲労は、確かに以前から心配されているが。だが、滅多とないチャンスなのだ。

これに成功すれば彼女を引退させてやっても良い。望むように人間の体にしてやろう。人魚と人間の結婚は、もちろん、法的に許されるはずもないが、僕のそばに置いてやるのは構わない。彼女は美しい。友人にも自慢できる。

「これで最後にして。でないと私・・・。」
「分かった。約束する。絶対。ね。可愛い人。そして、僕らは、この仕事を成功させたら、結婚する。」

人魚も涙を流すのだろうか?

ふと、そんな事を考える。

それから僕は首を振り、彼女はただの魚だと思おうとする。愛情は充分与えてやっている。だが、彼らが、僕ら人間と同じ権利を手に入れようとするのはおかしな話だ。

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僕らの最後の仕事を行う場所は予想以上に寒かった。ギリギリまで温水プールの中で休養を取らせていても、三十分のショーを無事に終えられるかどうか、僕にも分からなかった。

だが、彼女は静かに目を閉じて、その時が来るのを待っていた。

「あと五分だ。」
僕は彼女に声を掛ける。

船上で人魚が現れるのを待っている人々。金ならうなる程あるという人々。僕もかつてあちら側に行きたいと憧れた。そのために人魚を利用した。あと少しなのだ。もう少しで向こう側に行ける。

本当に最後にしよう。

僕は、氷のステージに立った。

ライトが一斉に点く。

僕は、ささやくように声を出す。
「世にも稀な美しさを持つ生き物を、今夜ここにお見せします。感動を。今日、ここで得た感動を一生忘れないでください。奇跡が始まります。」

人魚が現れる。両手に七色に輝く光のキューブを持って、微笑む。口紅を鮮やかに塗っていて誰も気付かないが、その唇は既に紫色になっている筈だ。

僕は、ふいに奇妙な感情に襲われ、胸がキリキリと痛むのを感じた。

だが、人魚は、笑顔をふりまき、鱗をきらめかせて、泳ぐ。飛び跳ねる。

最後の最後まで、僕のほうをチラリとも見ず。

そして、全ての演技は終わった。

ライトが消えたと同時に、人魚はふいと湖の中に姿を消した。

「おい。急げ。彼女をすぐ引き上げろ。死んじまうぞ。」
スタッフに怒鳴る。

慌てて湖に出て行ったボートは、だが、何も引き上げずに戻って来た。

「今夜は無理です。この暗闇ではとても探すことはできません。」
その言葉に、がっくりと膝をつく。

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僕は、その醜い男の元を訪ねる。

「どうした?え?新しい人魚が要るなら斡旋してやってもいいぞ。もっとも、あの別嬪さんと同じというわけにはいかんがな。だがもう、さんざん稼いだろう。」

研究室には水槽が幾つもあり、人体の切れっぱしのようなものが浮かんでいる。

「僕を人魚にしてくれ。」
「ほう。」
「頼む。金なら出す。」
「いいさ。私にできない事はない。それを言ってきたのはお前が初めてだがな。いくらか実験したこともある。ちょうどいい。」

男はニヤニヤと笑う。

その狂った顔は、確かに数ヶ月前の僕と似たようなものだった。

「あんたの頼みなら聞くよ。あんたと組んで仕事をするのは実に楽しかった。」
「うるさい。ごちゃごちゃ言うな。」
「だが、一つ気を付けておきな。なんで人魚になるか。その理由を忘れないようにしないとな。大概、気が狂っちまう。」
「僕を人魚にしたら、僕が頼んだ場所に連れて行って欲しい。そして、そこでお前とは永遠に別れたい。」
「ああ。分かってるって。」

男は、僕が差し出す金を数え終わると、契約書にサインをした。

「私は約束は守るんだよ。」
しわがれた醜い声がささやいた。

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麻酔から醒めた瞬間、僕はうまく息ができなくて溺れそうになった。

さんざんもがいた後、ようやくうまく水中で体を動かせるまでには更に時間が掛かった。

だが、一旦コツを掴んでしまえば、人魚の尻尾を操るのは容易だった。彼女が泳ぐところをずっと見ていたせいか。ああ。人魚。僕は今からきみを探しに行く。

「上手いもんじゃないか。」
水槽の向こうで男は笑う。

「ああ。だてに人魚を長く飼ってたわけじゃないってことだ。」
「それより。その尻尾。どうだ。見覚えはないか?」
「尻尾?」

僕は、ふと視線を落とし、あっと声を上げる。

「あの別嬪さんの尻尾だよ。」
「彼女と会ったのか?」
「ああ。」
「で?今は?どうしている?」
「死んだよ。」
「死んだ?」
「そうさ。もう、私のところに来た時点でほとんど死に掛かっていたがな。」
「それで、どうしたんだ?彼女を。」
「尻尾をね。預かった。頼まれてね。お前さんに渡してくれってさ。」
「上半身は?」
「南の海に持って行ったよ。人魚の死体は、ちゃんとそうやって弔う。人間になりそこなった人魚達もな。」
「なんで教えてくれなかった?」
「彼女に言われてたからさ。自分が愛した人間の男には言わないでくれってさ。それに、あんただって、どうだって良かったんだろう?いつだってそうだったじゃないか。人魚なんて、魚だって。金儲けの道具だって。」
「そんな・・・。」
「言っただろう。私は、約束は守る男なんだよ。それがたとえ人魚との約束であってもな。今のあんたは人間でも何でもない。だから約束を破ったわけでもない。ただの魚に向かって独り言を言ってるだけさ。」

その男の目にも僕と同じ悲しみが浮かんでいることに、ようやく気付く。


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