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セクサロイドは眠らない

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2003年12月27日(土) 寝室にあるロープは淫猥な感じを受ける。ほんの戯れに彼と過ごした時間にロープを使ったことを思い出した。

このまま彼の寝顔を眺めていたかった。でも、きっと明日の朝が不機嫌になるから。

彼の背中をそっと揺する。

「ああ。眠ってたっけ。」
「うん。」
「今、何時?」
「ええと。もうすぐ十二時よ。」
「じゃ、帰るか。」
彼はそういって、私が手渡すワイシャツを着始める。

広い背中が。太い首が。愚鈍にも思える男の大きさが。

どうしてこんなにいとおしいのだろう。

「あれ?ネクタイは?」
彼が声を上げる。

「ない?その辺り。」
「うん。ないよ。」
「ちょっと待ってね。探すわ。」

だが、なかなか見つからない。さっき食べたピザの箱と一緒に捨てたのかしら、とゴミを探ろうとする私に、
「いいよ。いいよ。忘年会で騒いだついでになくしたって言うからさ。もし見つかったら処分しといて。」
と彼は言って、上着を手にする。こういう大雑把な男なのだ。彼という人は。そこが愛すべきところでもあり、腹立たしいところでもある。

「次に来るのは、もう来年よね。」
と私が訊く。

「うん。そうだな。」
と。これは、私が義務付けた、去り際の口付けを上の空でする彼。

きっと、タクシーで帰ったら何時頃になるかと計算しているのだろう。

次は年が明けるまで会えない。それが辛くて、彼の背中にしがみつきたくなる。

が、そういった事は彼が一番嫌うことだから、黙って玄関まで見送る。

「じゃあ。良いお年を。」
「ええ。また、来年。電話してね。」
「分かった。」

ドアがバタンと閉まってしまうと、いつものように激しい後悔に襲われる。彼と一緒にいる時間、今日も言ってはいけない言葉を幾つも飲み込んだ。その、行き場を失った言葉達が私に後悔の念を起こさせる。

--

彼とは、もう十年になる。入社して最初に配属された課の上司だった。私も彼も独身だったから、自然な成り行きとして結婚を考えていた。

だが、二年ほど付き合った頃か。彼は上司に勧められた見合いを受け、あっさりと結婚を決めてしまった。

「どういうこと?」
と、問い詰める私に、
「結婚してもきみとは別れる気はない。」
と言われて、なぜ、あの時はあっさりと彼の言うことを受け入れてしまったのだろう。

あの時は、愛人のほうが妻より愛される存在と、なぜかそう信じ込まされてしまっていたのだ。

考えてもみれば、後から来た女性に彼を奪われてからも、尚、愛人として彼を受け入れ続けるなんて、なんと都合のいい女であることか。

--

彼が帰ってしまった後、しばらくぼんやりとしていた私はノロノロと体を起こし、クローゼットを開け、彼が先ほどまで探していたネクタイを取り出す。彼が眠っていた隙に隠しておいたのだ。

私のあげたネクタイじゃない。きっと奥さんが選んだのであろう、品のいいネクタイ。

私は、あらかじめ用意していたロープに結びつける。

さようなら、よ。

私は、彼のネクタイを首に捲いて死のうと。

今夜そう決めていた。

だから、飲み過ぎると必ず眠ってしまう男の癖を知っていて、私は彼のネクタイを手に入れる事にした。

頭の中はひどく冷静だった。突発的な自殺と思われるかもしれないが、この計画は長く私の中に棲んで、実行される日を待っていたのだ。秋に、彼の奥さんが妊娠した事を知って、私はようやく分かった。私がまだ馬鹿みたいに彼を信じていた事を。彼がいつか、離婚して、私と暮らす日が来ることを、その時まで疑うことなく来ていた。だが、希望が打ち砕かれた時、私はもう、今までのようには生きている事ができなくなってしまった。

ロープのもう一方の端を、ベッドの足にしっかりとくくる。

その時、ドアチャイムが鳴った。

誰?こんな時に。

私は少し苛立って、玄関のドアを開ける。

「すいません。ピザ屋です。」
「あら。さっきもう戴いたわ。」
「え?そうすか?おかしいなあ。ちょっと待ってください。調べますから。」
「早くしてちょうだい。」
「すいません。やっぱり、この部屋の注文ですね。」
「そういわれても・・・。」
「じゃあ、こうしましょう。お代は要りませんから、ここにピザ置いて行きますね。」
「要らないのよ。お願い。お金は払うわ。持って帰ってちょうだい。」
「そうですか。じゃあ、持って帰ります。どうもすんませんでした。」

ピザ屋が去って、ほっとして。

そこに転がっているロープを見る。ひどく変な感じだ。見方によっては、寝室にあるロープは淫猥な感じを受ける。ほんの戯れに彼と過ごした時間にロープを使ったことを思い出した。

また、ドアチャイムが鳴る。

「どなた?」
「あの。ピザ屋です。」

さっきの男だ。

「また?なあに?」
「あの。すいません。さっきは嘘つきました。」
「なんで?」
「ピザの注文なんかありませんでした。」
「そうでしょう?一日に二回も頼むわけないもの。」
「あの・・・。」
「なあに?」
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「なんか。あの。普通じゃないっていうか。」
「大丈夫よ。」
「最初に届けに来た時、あれって思ったんです。なんか表情が虚ろっていうか。」
「ねえ。そんな事、あなたには関係ないわ。」
「ええ。そうですよね。関係ないです。関係ないけど。なんか気になるっていうか。」

私はため息をついた。

「ね。上がって。ピザでも食べながら聞くわ。」
「いや。そういうつもりじゃなかったんですけど。」
「いいの。あなたが怪しい人でも何でも。」

新しいグラスを出し、ワインの残りを注ぐ。

ピザ屋の青年は、優しくて善良な顔をしていた。だから、信じていいように思えた。

「すいません。去年、死んだ友達が、死ぬ前に会った時にあなたみたいな顔をしていたんで。」
「当たりよ。あなたすごいわね。」
「いや。なんか気になった。それだけです。」
「ピザ、食べて頂戴。」
「あの。あなたは食べないですよね。いつも、男の人が来てるときだけ注文してますよね。」
「ええ。苦手なの。ピザみたいな重いものは。」
「すいません。いただきます。」

彼が本当に美味しそうに食べるから。

私は、くすりと笑った。

「あの。本当に死んじゃうんですか?」
「え?ああ。うん。そうね。でも、今日はやめたわ。」
「もうちょっと生きてみてもいいかと思うんですけど。」
「そうねえ。でも、私には何にもないのよ。一人の人の事ばっかり考えてずっと生きて来て、気付いたら私の事を気遣ってくれる人が誰もいなかったの。そしたら、あー、生きててもしょうがないわってね。急に思えちゃって。」
「俺がいます。」
「え?」
「俺。あなたの事、気にしてます。あの変な意味じゃなく。でも、なんか気になってて。」
「そう。ありがとう。」
「俺が思うに。えと。上手く言えないけど。今あなたに必要なのは思い切り泣くことなんじゃないかな。」
「・・・。」
「なんかそう見えるんです。ずっと我慢してるみたいな。そんなに強くないくせに頑張ってるみたいな。」
「泣き方なんて、忘れたわ。」
「誰かのそばがいいんですよ。泣くのは。」
「でも、誰もいない。」
「俺、ついてますんで。あの。変なことはしませんから。」
「じゃあ、泣こうかしら。」
「ええ。そうしてください。」

私は思わず吹き出して。

彼も笑って。

それから温かい涙が流れ始めた。涙は一度流れ始めると、止まらなくなって。

私は大声を上げて泣き始める。

知らない青年の肩にもたれかかって。

気付いたら、彼はしっかりと私を抱き締めてくれていた。

心の中の塊りが全部涙になって流れ出てしまったら、もしかして私は死なずに済むかもしれないと思いながら、大声を上げて泣き続けた。


2003年12月26日(金) 宛名は、私の名前。裏返しても、差出人の名はない。ひどく不器用な文字で書かれた原稿が中に入っている。

今日こそ言わなければならない。

私は、今、その場から逃げ出したい気持ちで彼を待った。

小説家である私の担当編集者でもある、愛しい私の恋人。彼が、今日、ワインと花束と一緒に用意しているのは多分、プロポーズの言葉。

もちろん、それは、私が待ち望んでいた言葉でもあるのだけれど。

--

私の部屋で、キャンドルの明かりだけが揺らめいている。

「どうしたの?今日は無口だね。」
彼は微笑む。

「聞いて欲しい事があるの。」
「ん?何?」

私はゆっくり息を吸い、呼吸を整える。

「私の秘密。」
「美和子の?」
「ええ。」
「何かな。」
「私の小説よ。」
「仕事の話か。今じゃないと駄目かな。」
「今じゃないと駄目なの。」
「分かった。教えて。」
「あのね。私の小説。正直、こんなに売れるとは思わなかった。」
「そうかな。僕は初めて読んだ時から、きみの小説は素晴らしい結果をもたらす事が分かったよ。今までの三作は、いまやロングセラーだ。今度出す、四作目も素晴らしい。きみが出した本は、僕らの子供みたいなものだ。きみはもっと自信を持つべきさ。」
「あのね。私じゃないの。書いたのは。」
「え?」
「他の人が書いたのよ。」
「他の人って、誰さ?」
「知らない人。」
「知らないって?意味がよく分からない。」
「私のところに来るの。書きあがった小説が。それをワープロで打ち直してるだけなのよ。」
「まさか。」
「信じてよ。」

私は、部屋の奥から大型の封筒の束を抱えて来る。
「見てちょうだい。」

彼はそれを手に取る。

宛名は、私の名前。裏返しても、差出人の名はない。ひどく不器用な文字で書かれた原稿が中に入っている。

長い時間掛けて、彼はゆっくりとそれらを確かめていった。

「信じられないな。」
「私の字じゃないことはあなたにも分かるでしょう?」
「消印は5年前が一番古いね。」
「ええ。最初はこれを私の名前で発表しようなんて思わなかった。ただ、なんていうか。奇妙だけど、胸打たれたのね。どれも、人が生きてるわ。ピュアで。普通の人には思いつかないキャラクター達。」
「ああ。それがきみの小説の魅力であり、多くの人に驚きをもたらした。」
「三作目が来た頃かしら。それがどこにも発表されていないものだと気付いて。それから、なんで私の元に送られてくるか考えたの。発表されることを望んでいるように思えて。その頃、私は、つまらないOLだった。仕事には希望が持てなくて。何者かになりたいと切望していた。両親がいなくなってしまった家で、一人で孤独で。だから、私の名前で原稿を書き直したの。ところどころおかしな文章があるところは、直しながら。それが新人賞を取って、あなたと私は出会った。」
「信じられないな・・・。」
「信じて。私、この秘密を隠したままではあなたと暮らせないと思って、決心したの。」
「で?僕らはどうすればいいかな。」
「分からない。」

私の体は震える。

「でも、黙ってるわけにはいかないよ。本当の作家を探さなくちゃね。」
彼は、私の肩に手を回しながら言う。

「そうね。そうするしかないわ。だけど。ねえ。私、作家として得たものを何もかも失うわね。」
「そうだ。」
「怖いの。とても、怖いの。」
「僕の妻になるだけじゃ、駄目?世間の風当たりからはきみを守る。一生かけて守るから。」
「駄目よ。無理よ。」
「どうして?」
「あなた、これを書いた本当の作者に言うんでしょう?今までに私に言ったことと同じこと。素晴らしい作品だ。きみの才能は奇跡だ。自信を持って。きみにしか書けないものを書いてごらん。ってね。そうやって、励ましてくれた言葉全部、他の人にも言うのでしょう?そんなの嫌。」
「それは・・・。いや。多分、違う人間が担当するさ。」
「嫌よ。それでも嫌。他の誰かが、私のものになったと思ったものを全部持って行ってしまうの。」
「僕は秘密を知ってしまった。黙っているわけにはいかないよ。多分・・・。」
「嫌なのよ。ねえ。」

私は、ただ、悲鳴を上げて。

彼が抱き締める手を振りほどいて。

美和子!

彼が叫ぶ。

だが、裸足のまま、外に走り出る。

行かなくちゃ。これを書いた人のところに行かなくちゃ。私から何もかもを取り上げないでって、言わなくちゃ。早く。早く。彼が私の元から去らないうちに。急いで。

息が切れる。

足から血が出ている。

車のライトで、目が見えなくなる。

ブレーキを踏む音。

悲鳴。

何かが壊れる音。

頭の中が真っ暗になる。

--

彼女は、また書き上げた原稿を封筒に押し込む。

白い壁に囲まれた部屋で。

宛先は、目をつぶってでも書ける。

これをポストに入れたら。

どこかに届く。きっと神様が読んでくれるのだ。

ここが病院だということは知っている。ここからもう出られないことも。

時々、頭が一杯になってしまうのだ。沢山の人が彼女の頭の中で勝手にしゃべり始め、騒ぎ始める。彼女は一杯になった頭をどうにかしなくちゃいけなくなって、原稿用紙に書く。そうすると少し、頭の中が落ち着くのだ。

書きあげたら、ポストに入れる。

読んでもらうため。

昔、昔。まだ、彼女の頭がこんな風に変な人で沢山になってしまうことがなかった頃。何かの病気で入院したのだ。その時、隣のベッドに寝ていた子が、手紙を書いていた。

「それなあに?」
って訊いたら、

「手紙。」
って教えてくれた。

そこには沢山の、彼女のところに来た封筒。名前の書かれた封筒。

「ここに送ればいいのね。」
「うん。そうしたら、どんなに遠くても届くんだよ。」

吉田美和子。

彼女は、覚えた。そして、今日もその名前を書いた封筒をポストに入れる。

それだけ。出してしまえばおしまい。何を書いたかも思い出せない。


2003年12月25日(木) 一緒にいたい。一緒にいなかった時間より、一緒に暮らした時間のほうが長くなるぐらいに、ずっと。

今日も遅くなってしまった。

「お疲れ。」
所長も疲れた声だ。

自転車に乗ってから、手袋を事務所に忘れた事に気付くが、もう取りに帰るのも面倒なのでそのままペダルを踏む。手がかじかむが、一分でも早く帰りたい一心で、一生懸命にペダルを踏む。

「おかえり。」
アパートのドアを開けると、一番聞きたかった声が耳に飛び込む。

「ただいま。遅くなっちゃった。」
「うん。年末だし、忙しいんだろ。」
「そうなの。本当はバイトをもう一人雇って欲しいんだけどね。そうもいかなくて。」
「食事、用意しといたから。」
「洋ちゃんは?もう食べた?」
「まだだよ。恭子が帰って来るの待ってた。」
「先に食べておいてくれたら良かったのに。」
「そうもいかないよ。」

彼が並べておいてくれた食卓の前に座って、少しだけ、胸が痛くなる。だが、慌ててその痛みを打ち消す。

私が女だから。そして彼が男だから。でも、逆だったらこんな風に思わなかったはずで。

こんな風に負い目を感じているのは彼も同じだから、余計に悲しくなるのだ。

「手、冷たい。真っ赤だよ。」
洋介がふいに私の手を包むから。

「手袋忘れたの。」
と言った。

「ごめん。」
って。なんで言うの?謝らないで。謝るのは私だから。

--

彼と知り合って二年目になる。

私が働いている営業所にバイトに来ていた学生だった。

多分。彼が私を好きになったのと、私が彼を好きになったのは、同時だったと思う。

気がついたら、どうしようもないぐらい好きになっていて。

私は結婚して子供も二人いたから、最初のうちはお互いに気持ちを打ち明けなかった。ただ、理由を作っては一分でも長く一緒にいようとしてたっけ。

それから、ある日。

ちょっとずつコップに溜まっていった水が、突然溢れるみたいに、お互いの想いは隠しておけなくなってしまった。

結局、私の元を夫と子供は去り、私は洋介と一緒に暮らすことにした。

就職が決まらない彼をアパートに残して仕事に出かける。洋介が家事を引き受けてくれる。何かバイトを探すよ、と言った彼を引き止めたのは私。怖かったのだ。彼もいなくなってしまうかもしれないと。夫も子供も、大きくて温かい家も。たくさんを手放した。私には彼だけだったから。

もっともっと、一緒にいたい。一緒にいなかった時間より、一緒に暮らした時間のほうが長くなるぐらいに、ずっと。

--

「今日はクリスマス・イブだろ。今日ぐらい早く帰れないの?」
彼が訊く。

「うん。そうだね。所長に言ってみる。」
「デートしよう。ね。僕らが最初にデートで待ち合わせした場所、覚えてる?」
「覚えてるよ。」
「七時。ね。待ってるから。」
「ん。」
「あのさ。ちょっとぐらい遅れても待ってるからさ。慌てるんじゃないよ。」
「うん。」

携帯電話を持たない私達の待ち合わせは、遅れることが前提の待ち合わせだった。

私は、キーキーときしむ自転車に乗って、洋介に手を振って。

じゃあね。夜。と叫ぶ。

--

案の定。今日も所長と二人で残業だ。

「今日は早く帰らせてくれって、バイトがさ。」
という所長の言葉にうなずく。

言える筈もない。私もデートがあるんです。早く帰りたいんです。なんて。私が離婚したことも、何もかも、黙って受け入れて、正社員で残してくれている所長に。白髪が目立つようになった所長は、今夜も遅くまで仕事をするのだろう。多分、私が帰りたいと言えば黙ってうなずいて、その分、一時間余計に仕事をするのだろうけれど。家庭とか、クリスマスとか。そんな言葉はとっくに忘れてしまった優しい中年男性のために、私はその一言が言えなくて。

時計を見る。

もう、九時が来ようとしている。

「なあ。恭子ちゃん。もういいよ。仕舞って。」
「え?」
「約束。あるんだろ。すまんな。気付かなくて。」

もう、所長の声を最後まで聞いていられなかった。急いでコートを羽織り、バッグを掴む。

「お先にっ。」
私は大急ぎで事務所を飛び出す。

--

彼はいなかった。

イルミネーションがキラキラして。目が痛かった。

きっと、そこいらに隠れてて、私をびっくりさせようとしてるんだわ。そんな風に考えて笑っていた私から、次第に表情が消える。

ねえ。

待ち合わせでどっちかが遅れたら、来るまで待つのが私達のルールだよね。

だが、もう、十時が来ようとしても、私に向かって手を振る人は誰もいない。

やっぱり、クリスマスだから奮発して携帯電話を買わなくちゃ。そんなことを思ったりもした。

サンタクロースの格好をした人が、今にも泣き出しそうになっている私の肩を叩く。
「あなた、恭子さん?」
「はい。」
「これ。頼まれたんです。」

白い封筒を差し出すと、サンタクロースは行ってしまった。

封筒には、彼の文字。
「恭子へ。」
と。

「そばにいてくれたらいいの、何もしてくれなくてもいてくれたらいいの、といつも恭子は言ってたけど。僕は僕の愛し方を考えてみた。きみと少し離れて考えてみたくなった。きみがそばにいたら甘えるから。僕は僕で、どう恭子を愛したらいいか。上手く考えられないから。少しだけ離れてみるよ。」

そう書かれた封筒を握り締めて、私は、もう、最後に必死で握っていた幸福までも逃げてしまった事を知る。

--

一年後。

今日も、また、クリスマス・イブ。

あれからすっかり仕事も減って。所長と二人で奮闘しているのは相変わらずだけど、何の予定もない今日、定時で仕事を終えられるなんて、随分と皮肉なことだ。

実のところ、私は洋介がいなくなったことで平静を取り戻していろいろな事を考えられるようになった。

中年の女が、一人の若者の将来を摘み取ってしまうところだった。彼が逃げ出したのは当然の事だ。自分があのまま、彼を縛っていたら、どんなにか醜いやり方だったろう。

だから、あれで良かったんだよ。負け惜しみじゃなくて、本当だよ。

って、心の中で何度も洋介に伝えたっけ。

向こうからサンタクロースが歩いて来る。

なんだか手を振ってるみたい。

ねえ。サンタさん。去年の今日、あなたの仲間が持って来てくれた手紙、本当にひどい手紙だったのよ。だけど、私・・・。

そのサンタクロースは、両手を広げ、私を抱き締めて来る。

ねえ。サンタさん?

「待っててくれたんだ。」

洋介の声。途端にスイッチが入ったみたいに、私の体の鼓動が音を立て始める。

「当たり前じゃない。」
私は、微笑む。

「ごめんよ。随分と遅くなった。きみへのプレゼント、探してた。」
「で?見つかったの?」

返事の代わりに、彼は私の指に指輪を。

「一緒にいられる方法。ずっと考えていたんだ。」

ねえ。髭を取ってよ。私は、涙が出るほど笑えて、困ってしまうのだった。


2003年12月20日(土) 「なんとなく分かりました。世間は、離婚した女が一人でいるのを見ると黙っていられないものみたいですわね。」

「あら。芹沢さん。」
彼女がこちらを見て大きな声で私を呼ぶので、耳まで赤くなった。

「ああ。こちらが職場でしたか。」
「ええ。そうなんですよ。今日は何か?」
「あ。あの。いえ。妻の。そう。妻のクリスマス・プレゼントでも選ぼうかと思いまして。」
「まあ。そうですの。素敵ですね。」
「こういう場所に来るのは初めてですから、緊張しちゃって。」

私の体からはどっと汗が噴き出す。

彼女とは、バドミントンのクラブで知り合った。あまり話した事はなかったが、華やかで、いつも場を明るくする存在だった。私は、もう、40を過ぎた中年の独身。趣味と言えるものはバドミントンぐらいしかなく、口下手で、人付き合いが苦手。そんな私が、最近はクラブに出て来ない彼女を気にして、以前耳にしていた彼女の職場までやってきてしまったというわけ。

セレクトショップというらしい、その店は、女性の服やバッグやアクセサリーなどが展示されていて、独身男性の私には入りにくい雰囲気だった。だから、咄嗟に出たのだ。妻のプレゼント、なんていう言葉が。

「男性の方にもどんどん来ていただけたらと思ってるんですよ。芹沢さんみたいに、奥様のプレゼントされるの、大事ですわ。」
「いや。ええ。あの。こういうバッグはどういう時に持つんですか?」
「そうですね。こういうタイプ、最近は人気ですのよ。ちょっと光ってるでしょう?夜のお出かけに持つといいんですよ。たとえば、クリスマスに奥様と二人でデートなんて、どうかしら。」
「ああ。ああ。いいですねえ。」

私の頭には、彼女とデートするシーンが浮かび、更に汗が滲み出る。ハンカチを取り出し、額を拭く。

「最近、クラブに来ませんが、どうしたんですか?」
ようやく、訊きたい事を口にする。

「あら。気にしてくださってたんですか?」
「ええ。まあ。あれだけ熱心になさってたんですから。」
「まあ、いろいろありましてね。」
「別に、無理に聞こうとは思いませんから。すみません。」
「いいんです。芹沢さんが気にしてくださってるって分かって、なんだかとても嬉しいですわ。ただ、少し個人的なことですから、ここでは言いにくくて。」
「そうですか。」
「良かったら、もうすぐ休憩時間をいただけるんで、お茶でも飲みませんか?お時間あります?」
「ええ。あ、あります。」
「じゃあ、その時に。」
「このバッグ、戴きます。」
「まあ。ありがとうございます。じゃあ、プレゼント用にお包みしますわね。」

彼女のテキパキとした仕事ぶりが気持ちよく、私はその姿に見とれた。

--

私の緊張は更に高まった。彼女と向かい合って座るだけで、心臓がドキドキして、手の平にもじっとりと汗をかいた。

「私ね。離婚したんです。二ヶ月前に。で、今まではアルバイト気分でやってたお仕事も、もっとちゃんとやらせていただくことにして。」
「そうだったんですか。それじゃ、バドミントンどころじゃありませんね。」
「それとね。クラブの市川さん。あの方が、ちょっと私にしつこくするんで。それもあって。」
「市川さんというと、あの、大柄な。」
「ええ。そうです。あの方、私が離婚したのを知ってから、ちょっとうるさくて。自分だって奥さんがいるくせにね。」
「許せませんね。」
「いいんです。なんとなく分かりました。世間は、離婚した女が一人でいるのを見ると黙っていられないものみたいですわね。」
「だからって、あなたが自分を責めることはないですよ。」
「ありがとう。」
「また、来ます。話を聞くぐらいですが。」
「嬉しいですわ。でも、あんまりご迷惑かけられませんし。あ。でも、今度は奥様を連れて来て、一緒にごらんになってくださいね。そうしたら、私も好みが分かりますから、アドバイスなんかもできますわ。」
「そ、そうですねえ。」
「あらいやだ。私ったら、商売っ気出して。ここ奢ります。バッグを買ってくださったお礼です。」

彼女は、明るく笑うと、私の切ない気持ちを残してさっさと席を立った。

--

私は夜、日記に向かう。

「X月X日

 規子さんと話をした。二ヶ月ぶりに会えて、安心して涙が出そうになって困った。日記よ。お前は笑うかい?妻がいるなんて、嘘をついてしまった。妻どころか、心を割って話せる人もいない男だ。私は。

 お前には、何もかも隠さず教えている。もし、私に妻がいるとしたら、日記よ。お前だよ。だが、私は、妻の他に愛している人がいる。悪い男だな。ははは。」

--

「あら。芹沢さん。バッグ、いかがでした?」
「気に入ってもらえたみたいで。大層、喜んでました。」
「良かったわ。あのバッグが似合う場所には連れて行ってあげましたの?」
「いや。それがまだで。その。あれに似合うアクセサリーが要るかと思いまして。」
「ありますわ。パールのネックレス。イヤリングもセットでありますの。」
「じゃあ、見せてください。」

それから、前回と同じ。喫茶店で、コーヒーを。

「奥様、何というお名前?」
「妻ですか。ええと。規久江です。規則の規に、久しいと書いて。」
「あら。私と、規の字が一緒ですわ。」
「そうですか。」
「ねえ。どんな方?」
「ええっと。話をよく聞いてくれます。もっぱら聞き役ですわ。」
「私と反対ね。」
「そうですね。」
「でも、何だか分かります。芹沢さんが静かな声でお話しされると、私なんかもついつい引き込まれてしまって。うっとりしちゃうんです。」
「私は話下手ですよ。」
「そんなことないですわ。なんていいますか。重みがありますもの。クラブでも、芹沢さんが口を開くと、みんな耳を傾けていた。声も低音ですごく素敵。みんな憧れてたんですよ。私生活もおっしゃらないでしょう?謎めいてて。」
「買いかぶらないでください。」
「デートできるなんて、幸せ。クラブのみんなにも、奥様にも、申し訳ないわ。」

それからまた、彼女は仕事と言って慌てて立ち上がる。

「じゃあ、またデートの報告、楽しみにしてますわ。」
そう言い残して。

--

「X月X日

 日記よ。お前の名前は、規久江だ。咄嗟に浮かんだんだ。規子さんのことばかり考えているから、同じ字のつく名前になってしまったよ。そういうわけで、今日からお前は規久江だ。なんだか変だな。本当に、お前が妻のような気分だ。

 今日は、幸福だった。彼女、私のことをそれなりに好ましく思ってくれている気がした。もちろん、店の客の機嫌を取ってるだけかもしれないが、それでもいいんだ。離婚した女性が生きるためにたくましくなるのは仕方がない。却って、いじらしい気持ちがするよ。妻がいる男としては、デートに誘ったりできないのが残念だが。」

--

年末。仕事が休みに入った午後、ぼんやりと街を歩く。うまい言い訳が浮かばないまま、最近は彼女の店に立ち寄れていない。

「芹沢さん!」
「ああ。規子さん。」
「今日、お店はお休みさせてもらったんです。」
「そうですか。」
「今日は?お一人?」
「ええ。」
「最近、来てくださらないのね。」
「すみません。」
「あの。何か買わないといけないって思ってるなら、違いますわ。芹沢さんはお友達ですもの。顔見たらほっとするんです。」
「私も規子さんの笑顔を見るのは好きです。」
「・・・。」

ふと横を見ると、彼女の頬が寒さのせいか赤く染まっていた。

「奥さんがいらっしゃる方だから、あまり甘えないようにって思ってるんですけど。芹沢さんとお話しできるだけで嬉しいんです。」
「私は、話が下手ですよ。」
「なんていうか。嘘がないんですね。いつも、本当のことをちゃんと伝えようとしてくれる。そういうところに、じん、ってするんです。」

私は嘘つきですよ。そう言おうとするが、言葉は喉に張り付いたまま。

彼女は急に立ち止まり、ごそごそとバッグから包みを取り出し、私に差し出す。
「クリスマスプレゼント。ずっと渡そうと思ってたんです。」
「何ですか?」
「手袋です。余計な事をしてごめんなさいね。」
「いや。嬉しいです。」
「良かったわ。年内に渡せて。」
「大事にします。」

彼女は呟く。
「ずっと好きでした。もし芹沢さんが独身だったら・・・。」
「え?」
「何でもないです。ごめんなさい。もう行かなくては。実家に寄ることになってるんです。」

彼女は、笑顔を残したまま、冬の雑踏に消えて行く。

--

「X月X日

 日記よ。規久江よ。やはり、お前は所詮はただの日記だ。いくらお前に気持ちを綴っても、この心はざわざわと落ち着かない。私は嘘つきだ。人はなぜ、嘘をつくのだろう。自分が可愛いから。その嘘は、彼女の勇気を前に揺らぐ。ひどいものだ。最低だ。」

--

規子は、疲れてしまった。

東京を出て郷里に帰ろう。そう決意するのに、随分と時間が掛かった。好きな男に気持ちを伝えることができたら、思い残すことはない。そう考えていたのに、気持ちは、伝えた途端に、また溢れてくる。

ドア・チャイムが鳴る。

開けると、見知らぬ女性。

「どちらさま?」
「芹沢です。」
「あら。規久江さん?」
「ええ。」
「どうぞ。上がってちょうだい。ごめんなさいね。引越しの準備で。」

紅茶のカップを前に、訪問者はただ、黙っている。

「芹沢さんを引っ張りまわしてごめんなさいね。」
規子は女が怒っているのだと思って、慌てる。

「いえ。いいんです。」
「話し相手になってもらってたんです。離婚して不安定になってて。でも、それはひどいことだとも思ってました。芹沢さん、奥様のこと大切になさってるから。」
「いいんです。芹沢は、あなたの事が好きです。」
「あなたのこと、何でも聞いてくれる人だって。」
「私は、聞くだけです。何もできない。」
「でも、聞いてもらえるのって、大事ですわ。」
「どこか行かれるんですか?」
「ええ。田舎に。ここは疲れました。」
「いいんですか?本当に?芹沢が悲しみます。」
「いいんです。甘えてばかりもいられないから。」
「今、あなたがいなくなったら、彼は・・・。」
「おっしゃる意味が分かりませんわ。」
「私は、妻ではありません。ただ、彼の心を知る者です。」
「奥様じゃないの?」
「ええ。人間の女でさえ、ない。見てください。どこか、あなたに似ていると思いませんか?」
「そう言われたらそうですわ。」
「名前も、姿形も、あなたの真似です。そして、もう、消えようとしている。彼の前で、私は無力です。聞いてるだけでは駄目なんです。彼の心を揺さぶるのは、あなた。」
「いなくなるんですか?」
「ええ。名前をもらった。語りかけてもらった。私はそれで少し幸福でした。でも、もう、私の役割はおしまい。」

女は、掻き消えてしまった。

見覚えのある光沢のあるバッグやパールのネックレスだけがそこに残されていて、規子はそれをそっと手に取る。

奥様の忘れ物を預かってるんです、そう電話で言えばいいのだろうか。それとも、もっと違うことを?言いたいことが沢山ありすぎて、なのに、何から切り出せばいいのか分からない。


2003年12月19日(金) 誰だっていいわけじゃないんだ。たとえば、男は誰でもが、この女と寝たい、と意識しながら声掛けるわけじゃない。

初めてだった。男から興味を持たれたのは。それが、たとえよこしまな考えからであっても。

彼の楽しそうな目が私を捕らえた時、私は自らを捧げようと思った。

だから、彼が近付いて来た時、私は彼の言葉の全てに従うことに心を決めていたのだ。

「今、暇?だったら、少し僕のおしゃべりの相手をしてくれないかな。友達にすっぽかされてさあ。」
「いいわ。」

彼は、慣れたように、私の腰に手を回す。彼が遊び人であることは最初から分かっていた。彼の周囲に漂う邪悪な雰囲気は、だが、心を誘う。

--

「まだちょっと明るいけど、お酒飲む?」
彼は訊ねる。

「ええ。」
「そうか。じゃあ、何か頼もう。きみ、緊張し過ぎてる。」
「男の人とこうやってお酒を飲むのなんて初めてなんですもの。」
「いいね。素敵だ。」
「でも、なぜ私?」
「実は、僕、悪魔なんだ。」
「まあ。」
「いや。驚くなって。悪魔ってのは、案外とそこらに普通に暮らしてるんだよ。」
「気付かなかったわ。」
「そりゃそうさ。僕みたいに自ら名乗る悪魔なんて、他にはいないもの。」
「なるほどね。じゃあ、私の魂か何かが欲しくて声を掛けたのね。」

私は少しがっかりする。女性として欲したというわけじゃなかったんだ。

「うーん。ちょっと違うなあ。最終的に欲しいにしてもさ。誰だっていいわけじゃないんだ。たとえば、男は誰でもが、この女と寝たい、と意識しながら声掛けるわけじゃない。まず、自分に何か訴えかけてくるような魅力がある子だから声を掛けるんだよ。」
「そう。じゃあ、私は魅力があるのね。」
「もちろん。」
「どんな?」
「きみの見え易い心。爪を立てればすぐに傷付きそうな柔らかい心がね。僕ら悪魔の好物なんだ。」
「私の心。」

それから、思い出す。昔からいじめっ子にターゲットにされ易かった、私自身の人生。

「分かるわ。いつもそうよ。目をつけられ易いの。」
ため息をつく。

「きみをいじめたやつは、悪魔かもしれないね。あるいは、悪魔の真似をしたがってるやつら。」
「悪魔の真似?」
「うん。放っておくと、人は正しいことをしたくなる生き物なんだ。それを悪魔が邪魔する。悪とは魅力的なものだと思わせる。だから、人は悪事を働く。」
「あなたは、そんな悪い人には見えないわ。」
「うん。僕は・・・。悪魔らしくない悪魔。いつだって中途半端だって、仲間から言われる。」
「やさしい悪魔なのね。」
「そろそろ出る?」
「ええ。」
「良かったら僕の部屋においでよ。」
「分かったわ。」

これが悪魔の手口かもしれなかったが、もう、どちらでも良かった。悪魔の心の裏を読もうなんて意味がないことだ。容姿に恵まれなかった私には、悪魔と名乗る青年に手を握られただけでも幸福だった。一体、善良な人々の誰が私の手をこうやって握ってくれたことだろう。

--

悪魔の部屋は、普通の部屋だった。普通の青年の部屋。若者らしい乱雑さ。

「意外だわ。」
「こんなものさ。悪魔が、典型的な黒い尻尾を持ってるわけじゃない。」

そこで私は急に怖くなる。部屋を満たす、彼の若い男らしい体臭が、私を漠然と恐れさせるのだ。

「シャワーなら、奥にあるよ。」
「ねえ。どうするの。」
「どうって。普通の男女がすることさ。それとも、手をきみの体に突っ込んで、心臓を引きずり出して欲しいのかい?」
「いいえ。」

悪魔は笑いながら私を抱き締める。

私は、その胸の中で、自らを解き放つ。そうだ。最初から、全てをこの人に捧げるのだったわ。

悪魔の唇が私の耳たぶをそっと噛む。私は、初めての感覚の中に無我夢中で飛び込む。

--

「僕は少し出かける。きみ、そろそろ帰ったほうがいい。」
「ここにいたいの。」

悪魔は少し困った顔をして。

「僕としては、一時の興味できみを抱いただけだ。きみを愛してるわけじゃない。なんせ、僕は悪魔なんだし。」
「分かってる。」
「ともかく、帰れよ。もうすぐ僕の友達が訪ねてくる。ろくでもないやつらばかりだよ。」

彼は言い残して、部屋を出て行ってしまう。

--

しばらくして、恐ろしく美しい女がやって来た。

「あら。人間ね。」
「ええ。」
「あの子にも困ったものね。こうやって中途半端に人間を相手にして。いつだってそう。あいつときたら。ねえ。あいつがどんなやつか知ってるでしょ?」
「悪魔だって聞きました。」
「そうなの。だけどね。人間にだって魔が差すって言葉があるでしょ。あいつは時々、いい心出しちゃうからね。でも、あたし達は所詮、悪魔よ。覚えてなさい。」

女は一人でべらべらしゃべって。

「ところで。」
と、私の方に向き直る。

「何でしょう?」
「私、あいつに貸しがあるの。あんた、返してくれない?」
「いいですけど。幾らぐらい?」
「お金じゃないわよ。馬鹿にしないで。私は悪魔よ。」
「なら、何を出せば?」
「そうね。命とまでは言わないわ。腕と足、一本ずつってところかしら。」
「それは・・・。」
「とにかく、もらっていくわ。あんただって、それが分かっててここにいるわけでしょう?どう見ても、あんたはあんたの意思でここにいたみたいだし。」
「それがあの人のためになるのなら、何でも差し出します。」
「理屈はどうだっていい。とにかく、もらってくわね。」

女は、さっさと、私の体から腕と足をちぎり取る。

--

その後も、いろいろな悪魔が入れ替わりやって来て、私の体から取れるものをむしり取る。

そして。

私にはもう、目玉が一つ残されただけだった。

彼が戻って来る姿が見たかったから、私は、これだけは残してと頼んだのだ。

そして、今、彼が部屋に戻って来た。

「おや。まだいたんだ。」
彼は笑った。

何が可笑しいのか、ゲラゲラと笑った。

それから、私の目玉を足で踏み潰してしまった。


2003年12月17日(水) 「あんたみたいな男は、セックスが下手だって思ってたのよ。でも、予想外にいい思いさせてもらったわ。」

問題は左手だった。

どうしようか、と、じっと手を見る。

左手は知らん顔を決め込んでいる。僕が左手に頭が上がらないことを、左手は知っているのだ。それが余計腹立たしい。

僕の左手は、まるで僕ではないみたいなんだ。

そんなことをどう説明できるだろう?どんな風に、と訊かれたって、うまく答えられそうにもない。

そんなわけで、僕はあきらめてこの左手と暮らしている。左手を除けば、僕は大した人生を送っていない。人付き合いは苦手な方で、むしろ一人で読書をするほうを好む。

--

最初に気付いたのは、たまたま、かなり年上の女と寝た時だった。

その女と成り行きで寝たのは、仕事でドイツに赴任していた時か。一人旅をしているという女に、最初は歳の違いもあってか興味が湧かなかった。だが、夜、しこたまビールを飲んだ後で気付けば同じベッドに入っていた。それまで、女性と付き合うと言っても結局は深い付き合いにならなかったこともあって、僕という人間は、女性の扱いに不慣れだった。一方の女は、傷心旅行よ、と笑っていたが、随分と多くの男を知っている風情でもあった。それなりに力のある男と一緒にいた時期も長かったような、その女を満足させられる自信などなかった。

「驚いた。」
彼女は、終わった後、煙草に火をつけながら言った。

「何がです?」
「すごく良かったわ。」
「まさか。そんなこと言われたの、初めてだ。」
「あんたみたいな男は、セックスが下手だって思ってたのよ。でも、予想外にいい思いさせてもらったわ。」
「僕みたいな男って、セックスが下手なんですか。」
「気を悪くしないでね。もちろん、あんたが嫌なやつだったら、最初から寝たりしないわよ。だけどね。あんたみたいな、どっちかというと恋さえも理屈から入っちゃうような。失敗が怖くて最初からぶつかるのを怖がるような。そんな男って、結局、受身で待ってるような女の子ばかり選ぶからいつまで経ってもセックスが上手くならないのよ。」
「そうですか。」
「ええ。私みたいな馬鹿のほうが、いろいろ経験できるってことよ。」
「馬鹿とは思いませんよ。」
「やさしいのね。」
「で?今日は満足したんですね。」
「ええ。」

そう言って、彼女は僕の左の手の平に、自分の手の平を合わせる。

「大きいのに、繊細な手。左の方が大きいのね。心臓に近いからだっけ。」
それから、名残惜しそうに僕の左手を頬に当てる。

左手か。

僕は、それでその夜のことが納得できた。

きみか。いい仕事をしたのは。きみがいなければ、多分、この女が言うように僕はセックスで女を喜ばせるようなことはできないんだ。

--

結果的に、その後の人生を、主に左手を利用することで乗り切って来た。女がどうすれば喜ぶのか。左手はよく知っていた。

「目がね。すごいの。」
そう、女の子に言われたこともある。

目?手じゃなくて?

「あれだけ私の体を分かってくれて動いてるくせに、目がね。冷静なの。観察してるみたいなの。それで余計に興奮しちゃうの。」

なるほど。

僕は、左手の仕事を黙って観察する。こう動けば、女の体がこんな風に反応するのか。

そうやって、左手に頼りながら、僕はどこかで気まずく、左手に対して腹を立てていたりもした。

お前が勝手に動くから、だから僕は・・・。

じゃあ、やめようか。

左手がそう言うのも、同時に怖かった。女に事欠かない生活は、左手のお陰なのだ。

--

ある日。

僕は恋をした。

図書館でいつも沢山の本を読んでいる女の子。

お互いに図書館でよく見かけていたせいで自然に仲良くなった。

眼鏡のフレームを触るのが癖で、こちらが見つめると恥ずかしがってうつむいてしまうような。そんな子。僕によく似ていると思った。左手除いた残りの部分の僕と。

デートに誘うまでに半年掛かった。手を繋ぐのに、それからもう半年掛かった。

クリスマス・イブにはこの腕に抱きたかった。

だが、問題が。

左手。

どうしても嫌だった。左手が全ての主導権を握るのが。今はこうやって黙っていて、そのうち僕が女の子とベッド・インするのをじっと待っているにちがいない。それは嫌だ。どうしても。僕は、僕以上でも僕以下でもない、僕として彼女を抱きたいのだ。

悩んで悩んで。

--

夜、夢を見た。

僕は、誰かとしゃべっていた。
「お願いだ。そろそろ僕の生活から去ってくれ。」

黒い影は言う。
「いいのか。」
「ああ。」
「何年もの間、お前が女と上手くやれるように手伝って来たんだがな。」
「それが余計なお世話だった。」
「俺は、知ってるんだ。女がどうすれば喜ぶか。」
「そうだな。」
「いいコンビだと思うよ。お前がやさしくして、俺が喜ばせる。」
「そろそろ自分の力だけでやりたいんだ。頼む。」
「本気か。」
「本気だ。」
「仕方がない。」
「これからどうする?」
「誰か探すよ。俺を必要としている男って、世の中にはたくさんいるんだ。お前もそうだった。最初はお前の方から呼んだんだぜ。」
「知らなかった。」
「それなりの仕事はした。俺を追い出すなら、多少のペナルティは我慢してもらうよ。」
「いいさ。」
「惚れてるんだな。」
「そうだ。」
「グッド・ラック。」
「ありがとう。」

--

久しぶりに会った彼女は、僕の姿を見て息を飲む。
「どうしたの?左腕。」
「ああ。ちょっと。うん。別れた。」
「なぜ?」
「きみを知りたかったから。」
「意味が分からない。」
「少し長い時間をくれるかな。説明はできると思う。」
「いいわ。」
「こんな僕でも、これからも会ってくれると嬉しい。」
「もちろんよ。」
「良かった。きみに嫌われたらどうしようと・・・。」

彼女は泣き出す。

「泣かないで。」
「ごめんなさい。腕のせいじゃないの。」
「じゃあ、どうして?」
「いつも、あなた女の子にモテてたわ。だから、私じゃ駄目なんだって思ってた。」
「そんなこと思う必要なかったのに。」
「ねえ。私ね。あなたの左手を手を繋ぐより、あなたの右手と手を繋ぐほうが好きだったの。ずっと。」
「そう。」
「教えて。いなくなってしまった左手のこと。どうして彼はいなくなったのかしら。」

答える代わりに、僕は残された右腕で彼女の震える体を抱き締めた。


2003年12月16日(火) 「俺は慣れないよ。絶対。いつまでも、いつまでも、お前が帰って来てくれたらいいって思い続けるよ。」

「お。カコ。終わりか?一緒に帰るか?」
「社長、珍しいですねえ。こんな早い時間に。」
「ああ。たまにはな。年末はゆっくりするんだ。来年は忙しくなるからなあ。」
「社長って、ほんと仕事好きですもんね。」
「それしかないもんなあ。」
「ちょうど良かった。ちょっと話したいことがあって。」
「じゃあ、どっかで飯でも食うかな。」
「おごりですか?」
「ああ。」
「やたっ。」

そんなわけで、いつ言おうかと迷っていた事を話すきっかけを得て、私は高橋と一緒に夜の街を歩いた。高橋というのが私の会社の社長で、37歳。独身。8年前に独立して、社員を7人ほど使ってパッケージソフトの開発をしている。私は、その会社で経理をやっている。

週末でもあるし、忘年会のシーズンということで、なかなか入れるお店がない。ようやく和食の店を見つけて、そこへ入った。

「なあ。カコ。お前も長いよなあ。最初からだもんな。」
「そうですねえ。」
「幾つになる?」
「そんな事、訊くんですか?やだなあ。29歳になりました。」
「そうか。」
「随分といい歳でしょ?」
「そういわれても、女の子の歳はよく分からないんだけどね。」
「最悪ですよ。29歳なんて。」

高橋は、さっき道端で渡されたカラオケ屋のチラシを見ながら、
「そうか。そろそろクリスマスなんだなあ。」
とつぶやいた。

「そうですね。私は、嫌いなんですけどね。この季節。」
「どうして?」
「予定がないから。」
「なんだ。寂しいな。」
「社長は?」
「俺は実家に帰る。」
「実家?」
「うん。妹が結婚するんだ。」
「妹さん、お幾つですか?」
「えーっと。33だったかな。先を越されたよ。」
そう残念でもなさそうに、高橋は言う。

「で?カコの話ってのはなんだ。給料上げろってか?」
「そういうんじゃないですよ。」
「ま、お前も男ばっかりの職場でよく頑張ってくれてるからなあ。」
「仕事、辞めたいんです。」
「え?」

高橋は、箸を止めて私を見る。

「結構まえから考えてたんですけど。このところ、社長が忙しそうだったもんですから。」
「そうか。いや。なんか困ったな。今お前に辞められると大変かも。」
「引き継ぎはちゃんとしてから辞めます。」
「来年はちょっと大変な年なんだよな。」
「また何か考えてるんですか?」
「うん。まあ。ちょっと。」
「そっか。」
「だけど、急だなあ。」
「ええ。」
「理由はなんだ?結婚か?」
「いえ。」
「じゃあ、給料がいいところに変わるのか?」
「そういうんでもないんですけど。」
「話してくれるかなあ。」
「うん。何だかね。何にもなかったんです。私。クリスマスも、今年も何にもなくて。会社の人でも誘ってくれてたら辞めるつもりはなかったんですけど。ずっと、会社のマスコットみたいにして可愛がってもらって。だからそれに応えようと思って、私なりに会社のために頑張ってきたと思うんですけどね。気が付いたら、なんか、何にもないなって思って。」
「お前がそんなこと思ってたなんて知らなかったな。」
「だって。そんな話、会社でするわけないじゃないですか。」
「ちょっとショックなんだよ。カコはいつだって楽しそうだったし。美人でしっかり者で。だから、何もなかったなんて言われたらちょっと辛いなって思うわけよ。ま、勝手なこと言わせてもらうなら、会社を支えていく仲間としてお前も同じ気持ちだと思ってたからさあ。」
「私の問題だと思います。なんだか流されてここまで来て。」
「そっか。まあいい。飲めよ。」
「はい。」

そういう高橋の箸は、さっきからずっと止まったままだ。

「で?どうするの?これから。」
「海外行こうと思ってます。」
「海外?」
「はい。ずっと、仕事終わったら英会話とか習ってたし。」
「知らなかったなあ。」
「TOEICも、920点取ったんですよ。」
「へえ?お前、すごい頭良かったんだなあ。」
「会社と、英語。それだけなんです。私の人生。」
「それだけって。美人だし、頭いいし、って。無敵じゃん。」
「でも、そういう事じゃなくて。外から見てどうとかじゃなくて。自分がどうしたいか、ちゃんと考えて来なかったんですよね。だから、英語って決めて、いつかそれで自分を試そうって思ってたんです。」
「そっか。」

高橋は、冷酒を頼み、
「ほら。飲め。」
と、勧めて来る。

高橋は酒が回って来たのか、目のふちが少し赤い。

「えらいよ。カコは。」
「社長だって。ずっと会社引っ張って来て、いつもやりたいことで一杯で。うらやましかったです。」
「こういう話、もっと早くすれば良かったな。」
「いいんですよ。今だから言えたんだし。ずっと楽しかったから、こんなこと考え出したのって最近だし。」
「いつ帰ってくるんだ?」
「いつって。まだ行ってもないですから。でも、最低一年ですね。」
「一年か。」
「ええ。」
「向こうで恋人が出来ちゃうかもな。」
「あはは。それ、いいですね。ほんと。クリスマスも毎年一人で。男の人に囲まれて仕事してても、ずっと待ってばっかりで誰も声掛けてくれなくて。」
「そりゃ、カコが美人だから、声掛けにくかったんだろ。」
「いつだって、社長に認めてもらうのが目標でした。でも、いくら頑張っても、私にはプログラムも作れない。みんなが気持ちよくやれるようにサポートするのが精一杯で。」
「みんな、カコに頼ってたからさ。カコがいなくなったら大変だろうな。」
「すぐ慣れます。」
「いや。慣れないよ。」
「今だけです。そう言ってくれるのは。」
「俺は慣れないよ。絶対。いつまでも、いつまでも、お前が帰って来てくれたらいいって思い続けるよ。」
「じゃあ、そう思っておきます。」
「いや。ほんとに。いなくなるなんて思わなかったから、感謝の気持ちとかもちゃんと言ってなかったし。」

それ以上言われると泣きそうだったから。
「そろそろ出ましょうか。」
と、慌てて言う。

街中がイルミネーションでキラキラと輝いている。

「ずっとちっちゃい頃にさ。俺、犬もらったんだよね。クリスマスプレゼントに。弟とか欲しかったから、すごい嬉しくて。なのにさ。なんか、野球とかしたいじゃん?だから、散歩とかも母親に押し付けて。だけど、そいつは俺が好きだから、いつも俺が家に帰ったらすごい尻尾振ってくれて。」
「仲良かったんだ。」
「うん。なのにさ。犬が5歳ぐらいの時かな。腹が膨れて。なのに体は痩せて。病気で死んだんだ。」
「そうなんだ。」
「なんか。いっつも遅いのな。その時になって、もっと遊んでやれば良かったって。あいつは真っ直ぐこっちを見てたのに。俺は視線合わせるのが恥ずかしくてちょっと目をそらしてたっていうか。」
「きっと気付いてましたよ。ワンちゃんも。」
「うん。そうだといいなって。だけどさ。なんか言わなかった自分がかっこ悪いっていうか。」
「社長のそういうとこ、なんか好きなんですけどね。」
「でも、言う時は言わなくちゃな。」
「そうですね。」
「なあ。カコ。また、戻って来いよ。絶対。会社のお前の机、ずっとそのままにしとくから。あ。いや。会社じゃなくても。俺んとこに。」
「私、そのワンちゃんみたいな存在?」
「いや。そうじゃないけどさ。今日、お前と話しててカッコいいなって思った。だから、カッコ悪いのはいつも俺なんだよ。」
「よく分からないけど。」
「うん。それでもいい。とにかくさ。24日は、お祝いしてやるよ。お前の。出発の。」
「妹さんは?」
「どうでもいい。お前の方が大事だからな。」
「あはは。なんか。嬉しい。」
「帰って来いよ。絶対。」
「さあ。どうかな。」
「いや。絶対帰って来い。」
「考えておきます。」
「返事は?」
「24日に、とりあえず。」
「分かった。」

本当は、会社を辞めるという決断は少し早まったかなと思わないでもないけれど、もう引き返せない。友人が言ってたっけ。「男ってのは、いつも女が腹を決めて後戻りできなくなってから肝心のことを言うのよ」ってね。


2003年12月15日(月) 「この町のいいところは、無理に忘れようとしなくてもいいところですね。元気なふりをする必要もない。」

その町は晴れることがない町だった。いつも、どんよりとした曇り空。しとしと雨が降り続くこともあれば、たたきつけるような大粒の雨が激しく降ることもあった。

その町が気に入った。旅の途中だったが、そのまましばらく暮らすことにした。

曇った天気のせいかか、何もかもの輪郭がはっきりしない町。誰も、大声で話さない。静かな語り口。ここでは誰も、他人の生き方に口を挟まない。

しばらく、町で唯一のホテルに滞在することにした。どうせ、待っている家族もいない。仕事なら、メールやファックスで片付く。

ホテルには私と同じように、この町が気に入ってそのまま居ついてしまったように見える人々が何人か泊まっていた。

私は今朝もモーニングセットを頼み、新聞を広げる。だが、新聞の内容はどれ一つ頭に入らない。世の中で何が起ころうと、真剣に捉えることができないのだ。結局、何をしても、考えるのはただ一つのことだけ。

--

町を歩く。今日も、いまにも泣き出しそうな空だ。いつもの煙草屋に寄る。店の老人は、すっかり痩せ細って、ぼんやりと死んだような目をしている。実際、ほとんど死んでしまっているのかもしれない。

「マイルドセブン・ライト。」

のろのろと、染みだらけの手が煙草を差し出す。

「ありがとう。」

老人は、うう、と呻いて、また、その暗い絶望の淵に戻って行く。

私は、それから、コーヒーが美味しいという店に入る。

店のマスターは、私の顔を見ただけで黙ってうなずき、手を動かし始める。この店に通い始めて一週間だが、店内はいつもの常連が静かに座ってコーヒーを飲んでいる。大概の客は一人きりで座ることを好む。

しばらくして目の前にコーヒーが置かれる。そのコーヒーは、酸味も苦味も強い。

--

今日も、大して何もしないままに一日が終わって行く。昼の食事は取らなかった。体が欲しがらなかったのだ。それどころか、何もする気が起きない。

だが、このままでは眠れそうにないので、7階のラウンジに行く。

その日はまだ、私の他に客は誰もいなかった。

少しきつめのアルコールを口にして、さっさと眠ろう。

そんな投げやりな気持ちでカウンターに腰掛け、ギムレットのオン・ザ・ロックを頼む。バーテンダーが黙って差し出したギムレットは、ひどく酸っぱかった。普通なら、文句の一つも言うところだが、この町では全てにおいて、苦く酸っぱいのだ。

「いつまで滞在のご予定ですか?」
バーテンダーが静かに訊いてきた。

「分からない。ずっとかもしれない。」
「この町に辿り着いた方は、みなさんそうおっしゃいますね。」
「あんたは?」
「私は、生まれた時からこの町の人間ですから、一生をここで終えるつもりです。」
「そうか。どうりで。」
「ええ。私には、語るものは何もない。この町で、ただ、生まれた時からここに立っていましたから、聞かせていただくばかりなんです。」
「聞いてばかりってのは、どうなんだ?」
「そうですね。それはそれでお役に立つ場合もあるので、結構気に入ってますよ。」
「そうか。」
「良かったら、お客さんも話してみませんか。」
「そうだな。じゃあ、もう一杯くれるかな。」
「分かりました。」

バーテンダーは、生まれた時から禿げて、ひどく酸っぱいギムレットを作り、人の話を聞いていたのだ。

「無理に話す必要はないんですよ。」
「分かってる。話始めると、終わらないんでな。みっともないことだが。」
「みなさんそうです。」
「先月だ。女が死んだ。」
「長いお付き合いの方だったんですか?」
「そうだな。もう、十年近くなるか。急だったんだ。癌だったんだがな。若いからだろう。あっという間だった。最後は、痛がってな。なのに、病院には戻らないと言った。」
「あなたのそばが良かったんですね。」
「いや。そうじゃないと思う。ただ、一人が怖かったんだろう。何度も結婚しようと言ったのに最後まで嫌がった。死ぬ間際まで、私には何もできなかった。彼女の心が分からなかった。私は、『俺を幸福にできるのはきみしかいない』と言い、彼女は『私を幸福にするのはあなたじゃないの』と言った。」

今日も、ベッドに倒れこんで、朝まで目が覚めないといい。

意識がなくなる寸前まで飲み続け、ヨロヨロと立ち上がる。

バーテンダーは私の背中に向かって言う。
「あなたは、そう長居はしないと思いますよ。」
「なんで分かるんだ。」
「とにかく、分かるんです。」

私は、部屋にようやく辿り着く。

--

「私はもう、このホテルに5年もいるんですよ。」
「そうですか。私は3年です。」
「この町のいいところは、無理に忘れようとしなくてもいいところですね。元気なふりをする必要もない。」
「ええ。他人の励ましなんて何の役にも立たないのに、以前はそんな言葉にいちいち礼を言わないといけなかった。」

そんな会話を耳にしながら、モーニングセットのオレンジジュースを飲み干す。

何も胃に入りそうにない気分だったが、何とかトーストも食べた。なぜだろう。なぜ、この期に及んで、私は朝食を食べ、仕事をするのか。好きな女が死んでしまった。もう、生きることに未練はない筈なのに、死ぬ勇気もない。

来るべき時のため。

そんな言葉が頭に浮かぶ。

来るべき時が来ると、私は頭の中で信じているのだ。本当には絶望していない。いや、絶望していたと思っていても、そこでとどまることは私にはできないのだ。

散歩に出る。

犬の散歩をさせる少年とすれ違う。

少年の体は、ひどく薄くしか見えない。

「もうすぐなのかい?」
私は声を掛ける。

「うん。パパと一緒におうちに戻るんだ。その方がね。ママが喜ぶって。」
「そうか。」
「いつまでもこの町にいたら、ママが悲しむって。パパはそう気が付いた。僕も、そう思う。ここにいると何にもしなくなるんだ。ご飯もあんまり食べなくなる。でもね。ママは、僕が絵もいっぱい描いて外で遊ぶほうが、ママは好きだったんだ。」
「そうか。えらいな。」
「おじさんもだね。もうすぐだ。随分と薄くなってる。」
「そうかい?」
「うん。煙草屋のおじいさんみたいに、見え方がはっきりしてないもん。」
「ああ。煙草屋のじいさんか。」
「あのおじいさんは、もう、10年も前に死んじゃったおばあさんの事で、今でも時々町に大雨を降らせる。おばあさんに暴力をふるったことを反省して、いつもいつも悲しんでる。」

私は、今日は酒を飲まずに部屋に戻る。

それからワープロを立ち上げ、亡くなった女へ当てた長い長い手紙を削除する。

--

「そうですか。明日、お帰りですか。」
バーテンダーがうなずく。

「ああ。」
「それがいいでしょう。いつまでもいたがる人も多いですけれどね。今日は私の奢りです。」

最後のギムレットは、さして酸っぱくなかった。

--
あの町から戻って来て一ヶ月。

晴れた午後、私は散歩に出る。

「パパ。早く行こうよ。」
少年の声が響く。

いつかの少年だ。

少年の父親は、少年に手を引かれ歩いている。

少年はすれ違いざま、
「あれ?」
という顔で私を見た。

私は、笑顔を返してやった。

少年の手には花束と丸められた画用紙。母親の墓参りに行くのかもしれない。


2003年12月12日(金) 自分の人生は真っ直ぐな一本道で、迷うことなく進めると思っていた。そんな馬鹿な男だっただけです。

私、別に怪しい者じゃありません。ええ。ただ、もし、お暇なら話を聞いていただきたいと思いまして。そうですね。変ですよね。こうやって、見ず知らずの人に話し掛けるなんて、三年前なら考えられない事でした。でもね。今だけは、こうやって誰かと一緒にいたい気分なんです。もちろん、そんなにお手間は取らせません。

そうですか。付き合ってくださいますか。いや。ありがたい。

もうお気付きかもしれませんが、私の歯は総入れ歯です。ええ。まだ、そんな年齢には見えないでしょう。実際そうなんです。今、41ですから。まあ、今さら運命を恨んだってしょうがないですがね。突然のアクシデントに見舞われたというんですか。それまで、私という人間は実に傲慢だった。健康だし、それなりの大学も出てまして、人の痛みについて考えたこともなかった。歯だって、幼い頃から一本も虫歯になったことがない。真っ白な歯も自慢でしたね。スポーツが好きで、年中、何かスポーツをしてましたし。

仮に誰かを傷つけていたとしても、全く悪気はなかった。ただ、自分の人生は真っ直ぐな一本道で、迷うことなく進めると思っていた。そんな馬鹿な男だっただけです。

ある日のことでした。

歯がね。一本、ポロリと抜けたんです。ええと。右の奥歯だったかな。それまでグラグラしたこともない。歯周病なんかとも無縁だ。痛みもなかった。だから、不思議でしたね。でも、事実は事実だ。ちゃんと受け止めなくてはならない。あまり気にしないようにしました。ストレスを溜めるのも苦手でしたし。

歯医者には行きました。医者は、全く問題ない、と言いました。健康そのもの。だからこそ、何で抜けたのかも分からないと。そう言いました。

私は、それ以上は歯の事を考えるのをやめました。人間が解明できないことだって世の中には沢山あるしね。

そうして、一週間ぐらい経った頃かな。また、一本。今度は、全然別の場所です。前歯の方だから、今度は知らん顔もできなくてね。慌てて入れ歯を作ってもらいに行きました。前歯は目立ちますからね。仕方がないです。ただ、もう無視するわけにはいかないと思いました。何の脈絡もなく、突然に歯が抜け始めるなんてね。気持ち悪いじゃないですか。しかも、あちこちの歯が。そうしているうちにも、また一本。

ありとあらゆる検査を受けました。

だが、何も原因は見つかりませんでした。健康そのもの。それが私に対する診断でした。

困ったことに、歯が抜けるというのは不摂生の見本みたいですよね。特に、前の歯が抜けているとひどく間が抜けて見える。

私も、歯が抜け始める前は、ちょっとモテてましてね。だから、余計に気になったんです。

でもね。どうにもならなかった。それからも定期的に一本、二本と歯が抜けて行った。

その時ね。不思議な事に気付いたんです。

金魚なんですがね。もらった金魚を飼い始めて一年ぐらいだったかな。そこそこの大きさになってたんですが。その金魚に餌をやろうとして気付いたんです。金魚にね。歯が。ええ。白いものが口についてて、よくよく見ると歯だったんですね。

びっくりしました。気持ち悪いっていうか。それも、私の抜けた歯と同じところに生えてて。

いや。あれは、もう。言葉に尽くし難いですね。

とにかく。

私は、嫌な考えに囚われないようにと。それだけを考えて生きていました。自分は長い夢を見ているんだ、とか。

ですが、現実は、現実です。歯はどんどん抜けて行く。夢だとしたら、最低の悪夢ですよね。

私は、間もなく全ての歯を失いました。そして、金魚は、そんな私から奪った歯をむき出しにして、水槽を泳ぎ回ってたんです。

なんででしょう。なんで、こんな事が私に降りかかるのでしょう。

そんなある日の事ですが、私はね。気が付いたんです。ひどく空腹なのに、入れ歯じゃろくに食べられないってね。やけになって、コンビニの幕の内を金魚の水槽に放り込んだんですね。そしたら、金魚が、私の歯。あの白い歯をむいて、食べ物を次々に食べて行くんです。いや。びっくりです。まるで人間みたいで、ますます気持ちが悪い。

ですがね。不思議なことに、金魚が腹いっぱいに残飯を食べたことで、私の空腹が解消されたんですね。なんともはや。ひどいもんです。私と金魚の胃袋は逆転しちまったんですもん。

そんな現実を、私は耐えました。幼い頃からエリートの道をまっしぐらです。一度だって他人に弱みを見せたことはない。

私が選んだ解決策はこうです。

結婚したんです。

さっきも言いましたように、金魚と私の胃袋は逆転してしまった。ご存知のように、金魚は小さな胃袋しか持っていない。朝から晩まで餌を与え続けないと、私の体が持たないんですね。だから、数年間付き合っていた女に金魚の世話をさせようと思ったんです。

彼女、喜びましたね。私がいつまでも結婚を言い出さないことで、しびれを切らしてましたから。

私は、結婚して、すぐ、彼女に秘密を打ち明けました。

新婚の頃ってのは、女は素直ですからね。いや。素直なのは新婚時代のほんの一時かもしれない。

妻は、私の言いつけ通り、餌を一日中与え続けてくれました。気持ち悪いなんて言ってても、女は案外と度胸が据わってて、すぐ慣れちゃいましたね。

でも、その度胸が据わってるのが良くない。金魚にも慣れるが、私との生活にもあっという間に慣れて、そのうち飽き飽きしたと言い始めた。倦怠期だったんですかね。それで、私は大声を出してしまって。ひどい喧嘩をしました。その時に妻が言ってはならない事を言ったんです。
「何よ。金魚の世話をさせるために結婚したんでしょ。こんな金魚なんか殺してやるわ。」

冗談じゃない。金魚が死んだら、私の食事はどうなるんでしょう?

カッとなりましてね。私、妻を殺してしまったんです。

妻ですか。金魚に食べさせてしまいました。ひどいもんです。水槽は、何日も血で染まってましたよ。

そろそろ限界ですか?まだ大丈夫ですか。そうですか。もうちょっとですから、聞いてくださいな。

私は、早速困ってしまった。餌をやる者がいなければ、私が一日水槽にへばりついてなくちゃいけない。

それは困るというので、結婚することにしました。新しい妻には大人しい女を選びました。友達もいないような。そんな女。

醜かったですが、いい女でしたね。私に忠実でした。金魚の餌といってもおろそかにせず、私の健康に気を配って、あれやこれやと食べさせてくれたんですね。ですから、私は、二度目の妻を深く愛しました。そうですね。初めてと言ってもいいかもしれない。あんなに一人の女を深く想ったのは初めてです。

幸福だった。黙って金魚の世話だけをしてくれて。私をいつだって気遣ってくれた。間違っても、結婚生活に飽きたなどとは言わない。

だけどね。そう長くは続かなった。

二度目の妻にぞっこんの私は、ある日、茶目っ気を出しましてね。出張と言って出て、早い時間にこっそりと家に戻ったんです。妻を喜ばせようと考えたんですね。明るいうちから二人で寝室で過ごして、彼女を喜ばせてやろうって。

恥ずかしながら、ね。そんな事を考えて。

ですが、そこで見た光景が私を突き刺したんです。

なんてことはない風景でした。妻が、金魚に餌をやっている。ですが、よくよく見れば、妻は、膳に持った豪華な料理を一品一品、金魚に話しかけながら食べさせてるんですね。

それが、何といいますか。嫉妬に狂ってしまったんですね。私。

妻は驚きました。突然、何やらわめきながら部屋に飛び込んで来たんですから。

それでね。勢いで。その。金魚を。水槽の金魚をわしづかみにして、窓から庭に叩き付けたんですよ。

ええ。死んじまいました。

ほんとに奇妙な話ですよね。こんな事が、なんでまた、私の身に降りかかるのか。

人間はあれですよね。一緒に向き合って、食事を共にする。これがなくちゃ、駄目ですね。一緒に飯を食わない男女は、もろいですわ。

え?信じられない?

そうですか。でも、見てくださいよ。さっきから、あなた。私はどんどん痩せ細ってます。ほら、この腕。ね。もう、私の胃袋はなくなっちまったんです。私には飢えを満たす手段がない。

だからね。怖くて。誰でもいいから話を聞いて欲しかったってわけだ。いや。お手間を取らせました。信じてもらえたらいいんです。信じてもらえないのは、どうしようもなく孤独ですからね。

では、失礼。


2003年12月11日(木) 火と同じだ。リズムがあり、いろいろに揺れて、クライマックスがある。彼は、火を扱うように私を導き、

私の仕事は、火を燃やすことだ。単に燃やせばいいというのではない。燃やし過ぎないこと、そして、しかるべき時に燃え終わるようにすることが大事だった。

組織が命じたことをするだけだ。

目的は知らない。

その建物の中にある死体の死因をごまかすためかもしれないし、そこに広大な空き地を出現させるためかもしれない。

目的を知ることは、組織からの追放を意味する。だから、私は、この仕事に就いてから一度も燃やす目的を知ろうとしたことも、憶測したこともない。ただ、組織から知らされる建物の位置や構造といった生命のない情報だけを頼りに、確実に任務を果たすことだけを考えるのだ。

私のやっていることは犯罪かもしれない。そうでないかもしれない。そんなことはどうでも良かった。ただ、火を燃やすことさえできれば。

小学生の頃、私は、学校の裏庭でボヤ騒ぎを起こしたことがある。その時、担任がカウンセリングを受けるように勧め、私はカウンセラーの元に何度か通った。カウンセラーは、二度目から違う人物になり、火についての質問や、やり方。いろいろな事を訊かれた。

気付けば私は両親の元を離れ、海外の施設で特別な訓練を受けることになっていた。

火に関する素質がある子供ばかりが集められたその場所で、私は、ありとあらゆる火についての講義を受け、三年のコースが終了する頃には火の扱いに関してプロ級の腕を持つようになっていた。ここに集められる子はみんなそうだが、単に火に興味があるだけではない。火と上手く距離を保つことができ、燃えさかる火を見て平静を失うこともなく、だが、火をこよなく愛し、火を自分の支配下に置くことに満足感を得る事ができる者ばかり。

コースが終わると、それぞれ各地の大学に入るように手配され、小さな任務を任されて行くようになる。

仕事は楽しかった。だから、一度も辛いと思ったことはない。火が親であり友達であり恋人であった。

--

その日、私は、たまたま、ある建物の出火に出会った。一目見て、それが、組織の者の手によることが分かった。とてもいい仕事だった。綺麗な火だ。

それから、野次馬に混ざり立っている背の高い男性を見た。男性の目は、自分の仕事の成果を見守る者の目だった。

他の人の仕事に出会う事は時折あったが、それは決して口にしてはならないことだったが、私は我慢できなかった。それはセクシーで力強く、滅多に会えない類の火だったから。

全てが終わり、男性が現場を離れようとした瞬間、私は声を掛けた。
「おつかれさま。」

男性は私を見て驚いて、それから、
「ああ。きみもか。」
とだけ言った。

それから、私達は恋に落ちた。

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初めての恋を抑える事はできなかった。

互いの任務がある時以外は、いつも一緒に過ごした。

何度も抱き合った。火と同じだ。リズムがあり、いろいろに揺れて、クライマックスがある。彼は、火を扱うように私を導き、私は、火そのものになったかのように燃えあがる。

今まで、火より素敵なものはないと思っていた。人には大して興味がなかった。彼も、似たようなものだろう。
「僕はね。五歳ぐらいの頃からだったかな。家からマッチの箱を持って出て、公園で遊んでたところを母に見つかってひどく怒られた。だけど、やめられなくてね。母に見つからないように火遊びしてたっけ。そしたら、知らない男の人が話し掛けて来たんだ。」
「家を出たの?」
「うん。ただ、その男の人と一緒にいけば、火でたくさん遊ばせてくれるって。もう、その時から、僕は人より火に興味があったんだ。」
「私も似たようなものよ。小学校に上がっても、誰とも友達になるつもりはなかった。」
「今は?」
「え?」
「今は、人より火に興味があるかい?」
「いいえ。火よりも好きな人に会ったの。」
「僕もだ。」

それから、もう一度、火照りの残った乳房が、彼の愛撫で燃え上がる。

--

新しい任務を聞いて、私は目の前が暗くなり、一瞬、自分の居場所が分からなくなる。

夜、彼も青ざめた顔で私の家にやってくる。

彼の任務も、私の任務と同日、同時刻。私は彼の家を、彼は私の家を、燃やすことが次の仕事だ。

それは、組織からの警告だ。

私達はその事について一言も交わさなかった。もちろん、仕事は仕事。私達は、火を放つのだけが得意なのではない。火を消すことも。それから、痕跡を残さずその場を去ることも。

そう。消す事が肝心。私達、プロだもの。

「私、前から思ってたんだけどね。あなた、ちょっと最近お腹が出て来たんじゃないかしら?そういうの、みっともないなって思うの。」
「確かに僕もいいおじさんだ。しかし、きみだってどうだ。眉間の怒り皺が日増しに深くなってるぞ。」
「あら。失礼ね。じゃあ、その怒り皺を深くさせるのは誰よ?ずっと気になってたんだけど、あなたのトイレの使い方ね。最低よ。何で男の人ってあんなに汚くしちゃうのかしら。」
「いい加減にしてくれ。うんざりだ。きみは僕の奥さんでも何でもない。気楽な間柄のはずさ。まったく、最近では女房気取りで、すっかり嫌な女になったな。」
「そっちでしょ。ここにくれば、食事にありつけると思ってる。ご飯の後はテレビを見たまま、ろくに話もしない。げっぷはする。緊張感なしよね。」
「そうだな。もう、きみと話するよりはテレビの方が面白くてね。」
「私もそう思ってたところ。あなたの話はうんざりよ。火に関してなら、私だってよく知ってるわ。男の人の教えたがり癖には飽き飽き。」
「あなたの火はどんなの?って訊いたのはそっちだろ。」

淡々と。

互いを好きでなくなるための沢山の言葉を小一時間。

それから、急に。

「もうやめよう。」
「もうやめましょう。」
二人同時の言葉に、私達、ようやく笑顔。

「もういいわ。」
「うん。」

私達は、手に手を取ってベッドに。

もうすぐ任務を開始しなければならない時間。

そのうち、組織から別の人間が回されて来て、ここも火に包まれてしまうかもしれない。それでも良かった。私達は一緒にいる事で怖くなくなっていた。

消せない火がある。

それを今日、知った。


2003年12月10日(水) ちゃんとしてればそれなりに美人なのに、度の強い眼鏡、美容院に行くお金がないためにしょっちゅうもつれてしまう髪の毛。

ミツエさんと僕が出会ったのは一昨年の冬で、もうすぐ一緒に暮らしてからニ年が来ようとしている。今日は僕の誕生日。

「おめでとう。」
ミツエさんが僕に特別のごちそうを用意してくれた。

「ありがとう。」
「あとは、小次郎にお嫁さんもらわなくちゃね。」
そう。僕は小次郎って名だ。コーギーっていう種類の犬だから、小次郎だってさ。そういうワケ分かんないセンスの持ち主がミツエさんってわけ。

ミツエさんは、一人で嬉しそうにグイグイとワインを飲んでいる。

「あんたも飲む?」
って訊かれたけど、丁寧にお断りさせていただいた。前、知らずに飲まされて大変な事になっちゃったからね。

ミツエさんは、
「あんたがお酒の相手をしてくれたら言うことなしなんだけどね。」
なんて笑ってる。

もうそろそろ、ミツエさんはぶっ倒れて、今日のパーティはおしまいになるだろう。僕は、ミツエさんの体に毛布を掛けてあげて傍らで眠るのさ。

--

売れないイラストレーターのミツエさんのところに僕が貰われて来たのはこういう経緯だ。ミツエさんの妹という人が気まぐれに僕を飼おうとしていたのだけれど、急に海外行きが決まったとかで僕はミツエさんに預けられたのだ。それからは、ミツエさんという、少し変わったところのある女性と一緒に暮らす事になった。ちゃんとしてればそれなりに美人なのに、度の強い眼鏡、美容院に行くお金がないためにしょっちゅうもつれてしまう髪の毛。

最初のうちはミツエさんが僕の母親代わりだったが、今では僕がミツエさんの保護者みたいなものだ。だって。ミツエさんという女性は、まるで子供みたいで生活能力はゼロに等しい。明日、食べるものを買うお金がないって時はしょっちゅだったけど、僕らはそれなりに楽しくやった。時々、ミツエさんが、「あんたって足が短いわねえ。」なんてケラケラ笑って僕はかなり傷付くんだけども。

--

いつもの散歩コースを少し変えて、僕らは公園の中を通り抜けることにした。

そこで、僕は、足を止める。

「どうしたの?小次郎。」
「うん。何でもないよ。」

ミツエさんは、だが、すぐに気付いた。
「あの子ね。」

そこには、とても可愛らしい白い犬が座っていた。公園のベンチの足のところに。

「でも、飼い主はいないのかしらね。」
ミツエさんは、強引に僕を引っ張ってその子のところに行く。

「ねえ。あなたのパパはどこにいっちゃったのかな?」

白い犬は無言のまま。ミツエさんの方を見ようともしない。

「あなた、名前は?迷子になった?置いてかれたの?」
尚もしつこく訊くミツエさんには、僕も困った。

「もう、行こうよ。」
「あら。いいじゃない。だってさ。とっても可愛らしいんだもの。」
「いいからさ。」
「うるさいわねえ。本当に。」

ミツエさんはしぶしぶ立ち上がり、白い犬にバイバイと手を振った。

--

次の日も。また、次の日も。

その白い犬は、同じ場所にいた。

雨が降っていた日も。

さすがに僕は心配になって声を掛ける。白い犬は、その頃には僕らが通ると笑顔を見せるようになっていた。

「ねえ。雨だよ。濡れちゃうよ。」
「いいの。」
「だってさあ。」
「いいの。マコトさんが帰って来るまで待ってなくちゃ。」

結局、僕はあきらめる。

「何か事情がありそうね。」
そういうミツエさんに、僕は、彼女の問題には首を突っ込んで欲しくないと思った。なんていうか。ミツエさんって人はデリカシーに欠けるんだよな。

その日、ミツエさんは、仕事がないにも関わらず午後から出かけて行った。僕は雨が降っていたから、知らん顔で寝たふりをした。

夕方頃帰って来たミツエさんは、傘を差していたにも関わらずズブ濡れだった。

「雨、ひどいわね。」
「ん。」
「あの子、またいたわ。あのままじゃ、死んじゃうわよ。」
「分かってる。」
「保健所につかまっちゃうかもしれないし。」
「分かってるって。」
「あの子の飼い主ね。あの子の前で救急車で倒れて運ばれたんだたって。だから待ってるの。ずっとずっと。でも、もう戻って来ないのよ。あの子の飼い主は。」

つまんない探偵ごっこやってる暇があったら真面目に仕事しろよ、と、僕は怒鳴りそうになった。実際には、何も言わなかったけれど。

--

翌朝は、よく晴れていた。

あの子は、まだ、そこに。だが、すっかり痩せて今にも倒れそうな感じでそこにいる。

そこへすっとミツエさんが近付いて行った。

何だよ?何するんだよ?

それから、ミツエさんは大きなバッグの中から餌入れを取り出した。
「あなた、ベッキーっていうのね。」
「ええ。」
「これね。私、昨日探して来たわ。」
「それ、私のよ。」
「知ってる。でもね。これを探しに行ったおうちでは、マコトさんという人の家族がこれを私にくれたの。ベッキーをお願いします、ってね。みんないい人達で、あなたと同じようにマコトさんがいなくなったことを受け止められなくて苦しんでいたわ。」

それから、ミツエさんはそっと優しく言う。
「ね。私の家に一緒に帰りましょう。」

白い犬は、全てを分かったような顔になって、ヨロヨロと立ち上がる。

ミツエさんがその体を抱き締める。

--

ベッキーは、一週間ほどで回復した。だが、心は元気のないまま。

それでも、少しずつ笑顔を見せるようになった。

夜、ミツエさんがいつものようにお酒を飲み過ぎて寝ている時、ベッキーは、僕に言った。
「あなた、幸せね。この家で飼われて。」
「だったら、一緒にいればいい。ずっと。」

ベッキーは返事をしなかったけれど。尻尾が嬉しそうに動くのは止められなかった。

「ミツエさん、きっと大歓迎さ。」
「だといいけれど。」
「大丈夫。」
「ね。あの人、子供みたいね。」
「うん。そうなんだよ。あの人にも、僕みたいに素敵なパートナーが見つかるといいんだけどさ。」

それから、慌てて付け足す。
「ねえ。僕もう、きみにプロポーズしたっけ?」

--

僕ら、家族になった。そんな僕らを見てミツエさんは笑う。
「良かったわ。これで、あたしがいついなくなっても安心ね。小次郎は一人ぽっちにはならない。」

おいおい。僕らの方が寿命が短いんだぜ。一人になって心配なのはそっちの方だろうが。ミツエさんはそんなことを言う僕にお構いなしに、鼻歌を歌いながら仕事机に向かう。


2003年12月08日(月) 少女は、恋をしたかった。時間がない。今、16の少女が一番にやりたいこと。それは恋だった。

雪が降る。真っ白な雪。

「綺麗ねえ。」
彼女はつぶやいた。

「うん。綺麗だ。」
二人は同じ景色を見ていた。そうしていて幸福だった。彼女は、お互いの心の中に違う想いがあることを知っていた。だからこそ、いつまでも同じ景色を見ていたかった。

冷たい指先を握り合った。


--

曲がりなりにも作家を名乗り文章を書く仕事をしていれば、時折、「書いたものを読んでください」と添えられた原稿が手元に届く。だが、多くの場合、それらは読むに値しないもののため、秘書に命じて適当なお礼状と共に、作者の元へ送り返される。最近では目を通すことすら滅多になくなった。

だが、その文章は違った。

どこか清らかな印象のする、その原稿が他と違うのは、まず手書きだったからだと後から気付いた。ほとんどがワープロの文字の中で、その繊細な字は、最近の女子高生が書くような丸っこい字ではなかった。文章もどこか大人びていた。だが、添えられた手紙を読むと、作者は現役の高校生であるらしい。ふと手に取ったまま、読みふけった。「一章」となっているその文章群は、途中で唐突に終わった。続きが読みたい、と思った。

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その小説の主人公は16歳の少女だった。少年とは、ゲーセンに忘れた携帯電話によって知り合った。少年も16歳だった。少年は、それまで本当に誰かを好きになったことはなかった。

だが、少女がにっこり笑って、
「あたしたち、恋愛しようか。」
と言った時、初めての恋に落ちた。

少女は心臓を患っていた。16年の人生の大半を病室で過ごした少女には、何もかもが珍しかった。少女の両親は、もう少女に多くの未来が残されていないことを知っていて、病室から解放することを決めた。少女も両親が言わずにいる言葉が何かを分かっていた。

私、死ぬ。

少年には、自分の病気のことは黙っていた。だが、少女は、恋をしたかった。時間がない。今、16の少女が一番にやりたいこと。それは恋だった。

--

少女は、初めて海を見て、可愛らしい歓声を上げた。少年は、少女を喜ばせた事が誇らしかった。

少女は、透き通るように白い肌をしていて、日差しをさえぎるものがなければ、体中を真っ赤にヤケドしてしまう。少年は、
「ここで待っていて。」
と、海の家に馬鹿高い料金を払って、少女を屋根のあるところで待たせた。それから、ぐんぐんと泳いで遥か沖に出たところで少女に手を振った。少女からは見えっこないのに、手を振った。少女もまた、手を振った。

少年が泳いで戻って来たところへ、少女は駆け出して行った。心配のあまり。

「はは。あれぐらい平気だよ。」
少年は笑った。

少女は、笑い返そうとして、そのまま少年の腕の中で気を失った。少年は慌てて少女の体を抱き締め、そのあまりの軽さに不安になる。

チリン。

少女が目を開けた時に真っ先に見えたのは、少年の心配そうな顔だった。

チリン、チリン。

「どこかで、鈴みたいな音がする。」
少年はつぶやいた。

「私の心臓の音だわ。ドキドキしてるもの。私ね。10歳の時に心臓の手術したの。だから、私の心臓には小さな金属が入ってるのよ。それが音を立てるの。」
少女は、ささやく。


--

夏が終わり、秋が来て、そして冬に。

「四章」と書かれた原稿は、少し間隔が空いて届いた。

--

雪を初めて見て喜ぶ少女の傍らで、少年は、
「毎年、一緒に来よう。この笑顔のためならば、何度だって連れて来てやるよ。」
と思う。

雪に初めて触って、少女は歓声を上げながら思う。
「これが最後ね。雪に触れるのも、彼と遠出するのも。」
と思う。


--

だが、二人は無言で降りしきる雪を見詰める。

不覚にも、僕は涙を流し、原稿用紙をめくる。

このまま少女が本当の事を言わなければ、少年は、なぜ少女を永久に失ったかを知らないままだ。

--

少女は、どうしても言い出す事ができなかった。

だから少女はこっそりと携帯電話を雪の中に落とす。電話が二人を繋いでいたから。待ち合わせの時も、会えない夜も。

本当の事を知ってしまえば、彼にとって二人の今までが全部後悔に変わってしまうだろう。あの時、無理をして海に連れ出さなければ。あの時、紫色の唇をした少女といつまでも雪を見ていなければ。

そんな風に彼は後悔ばかりするだろう。

そんなのは嫌。

だから、もう、会わない。

少女の携帯電話は、ほどなく雪に埋まってしまう。


--

「四章」はそこで終わっていた。

僕は続きを待った。だがもう、待っても待っても続きは来なかった。

冬が来たから?

まさか。

だが、不安は募る。まるで、少女に恋した少年のように、僕は置き去りにされてしまう。だが、続きはとうとう来なかった。封筒はいつも、差出人の名前がなくて、確認をする術がない。だから尚のこと、雪の中に置き去りにされた携帯電話が目に浮かぶ。

--

春が来て。

沖田早苗と書かれたB5ほどの大きさの封筒が届く。

開けてみると、赤い手帳。早苗の両親と名乗る人からの短い手紙。笑顔の黒髪の少女の写真。それから。

それから、小さな金属のカケラ。

グラスに入れると、チリンと音がした。

ずるいよ。こんな小説を書くなんて。

小さな赤い手帳には、ある作家の本に巡り合ったことで文章を書く喜びを知ることができた、と記されていた。作家冥利に尽きる言葉だった。僕らは、同じ雪を見ることはできなかったけれど。同じものを大切に胸に抱いた。

僕は、いずれこの小説の最終章を書くだろう。そこで、少女は少年に打ち明けるのだ。本当のこと。少年は、生まれて初めての恋を失って、声を出さずに泣くだろう。けれど、本当のことを知らされたくなかったとは決して思わないにちがいない。

それは、恋をしたかった少女の物語。たしかにそこに、16の僕がいた。


2003年12月04日(木) 私は、おそるおそる人形を振り返る。だが、人形は、人形のまま。ピクリとも動かない。封筒の中には

五十四年間。私はひっそりと生きてきた。そして、このままひっそりと終わって行くだろう。そんな風に思っていた。人目を惹くことなど一度もなかった容貌。ここ数年で髪の毛は後退し、そろそろ腹も出てきたが、そんな事も、さして私の評価を下げなかった。最初から、誰も私を見てくれていなかったのだ。この程度の変化、誰も気付きはしない。

今日も定時きっちりに仕事を終えて、会社を出る。小さな会社の経理屋というのが私の仕事だった。

一度、女性の社員に言われたことがある。
「うちの会社の人が今の仕事してなかったら何の仕事してたかなあ、ってみんなでいろいろ噂したことあるんですけどね。佐伯さんだけは、なんだか全然思いつかなくて。でね。お役所で、あの、何ていうんですか。黒の腕抜きっていうの?あれして働いてる人って誰かが言って、みんな、そうそう、って納得しちゃったんですよね。」

彼女は悪気などなかったにちがいない。私は、その時、別に腹を立てたわけでもない。ただ、自分でも他の人生を思い浮かべることができなくて、思わずうなずいてしまったのだった。

それが私という男だ。

だが、そんな私に小さな変化が起こった。いつも立ち寄る駅前のコンビニで、私は出会った。その女に。

どこといって取り柄のない。いや、むしろ、他人に不快感を与えかねないような髪がボサボサの女。レジで品物を差し出しても、無言で受け取り、必要がなければ一言も声を発しない、三白眼の女。まだ若いだろう。三十前かもしれない。

私は、初めてその女を見て衝撃を受けた。

それから、毎日立ち寄りその女がレジに立っている姿を見て、次第にその衝撃は同情へ。それから、恋慕へと変わっていった。

つまらない話だ。たいして見栄えの良くない男が、これまたひどい外見の女に心惹かれる。

私は、決して彼女の醜さを憐れんでいたわけではない。むしろ、彼女が、いつかこのような接客業から外されてしまうのではないかと心配して見ていたのだ。だがそのうち、彼女のあまりに毅然とした態度。ときに、若い男性客から文句を言われても淡々と対応する姿勢に、何かを感じたのだ。

「何か」としか、言えなかった。

ただ、私は、次第に彼女に惹かれ、彼女に会うためにコンビニに通うようになった。

コンビニの名札には、芹沢ヨリコという名が書かれていた。

私はある日、勇気を出して彼女に声を掛けた。
「あの。仕事が終わるまでそこの喫茶店で待ってます。もし良かったら、覗いてみてくれませんか?あの。私は別に怪しいもんじゃありませんから。あの。これが名刺です。すみません。変なこと言ったりして。」

彼女は相変わらず無表情で、私の名刺を受け取った。

私は慌てて店を飛び出した。

軽蔑されたろうか。それとも、彼女自身が、間違った理由で屈辱を感じていなければいいが。

私は、悶々とした心持ちで喫茶店に座り続けた。

--

果たして、彼女はやって来た。夜も十時を回る時間だった。

私は慌てて立ち上がった。
「来てくださったんですね。」

彼女は、ゆっくりとした声で言った。
「ご用は何ですか?」

仕事以外で初めて彼女の声を聞いた。どこか幼いしゃべり方だった。

「あの。私は、名刺の通り、佐伯といいます。実は、あなたの事が前から気になっていまして、お友達になりたいなあと思った次第です。あの。決して怪しいものじゃありません。嫌なら嫌と言ってください。二度と付きまとったりしませんから。」

彼女は随分と長く、黙って私の名刺と私の顔を交互に眺めていた。遅いCPUをフル稼働させているパソコンみたいに、何かを一生懸命考えているようだった。私はその間、暑くもないのに噴出す汗を拭いて、彼女の返事を待っていた。

彼女は、ようやく重い口を開いた。
「妹を預かってください。」

意味が分からなかった。

「は?」
「妹です。私の。足に怪我をしているの。お金なら払います。」
「しかし・・・。私は仕事をしていますし、そういった方の面倒を看るのは無理じゃないかと。」
「妹は、お手間をかけません。夜だけご飯をあげて、足の包帯を代えてください。」
「いや。そう言われましても。」
「お願い。」

彼女は真剣だった。何か事情があるようでもあった。

「失礼ですが、妹さんはどんな方ですか?」
「妹は・・・。とても可愛くて、素直で。私よりずっとずっと素敵です。」
「分かりました。」

私は汗を拭きながら答えた。

わけが分からなかったが、彼女の芯を形作っているものが、そこにあるような。そんな必死な願いだった。いざとなったら、貯金を崩してでも、彼女の妹さんを病院に入れてやろうと思った。

--

次の日曜が約束の日だった。

ドアチャイムが鳴る。

私は急いでドアを開けた。

そこにはマネキンを抱えたヨリコが立っていた。

「あ・・・。どうも。」
咄嗟に、間の抜けた声を出してしまった。

「妹。連れて来ました。入っていい?」
「ああ。どうぞ。」

私は、妹というのが人間でなかったこと安心した一方で、彼女のどこか狂った心をどう扱っていいのか戸惑った。人形は随分と綺麗な洋服を着せられていた。ヨリコ自身が、ひどくヨレたトレーナーを着ているのに比べて、人形は流行のファッションに身を包んでいたのだ。

「服はまだいっぱい持っているの。また持って来ます。」
それから、ヨリコは、手にした大きな鞄から、人形のものであろう細々したもの。それから、包帯なんか。

「足は、バイキンが入るから、毎日包帯を換えてあげてください。」

私は、ただ黙って、ヨリコがしゃべるのを聞いていた。

最後にヨリコは、封筒を取り出して私に渡した。

「これは何です?」

だが、ヨリコは返事をせずに、頭をペコリと下げ、
「来週また来ます。それから、これが妹の好きな食べ物。お願いします。」
と、紙を渡して去っていった。

紙には、まーぼどうふ、とか、ぷりん、とか。平仮名で書かれた食べ物の名前。

私は、おそるおそる人形を振り返る。だが、人形は、人形のまま。ピクリとも動かない。封筒の中には三万円入っていた。

夜になるまで、私はヨリコの事を考え続け、これからどうすればいいのかと悩んだ。そうして、時計が二十時を差す頃に人形に声を掛けた。
「ご飯にしようか。」

--

ヨリコは、それから毎週のように私の元を訪ね、お金やら服やら食べ物を置いていった。コンビニで働いているのはこのためだったのだ。

私は、そんなヨリコとの淡い関係が、それでも気に入っていた。ヨリコの小さな脳みその中は、いつも、「妹」と呼ばれる人形で一杯で、それが彼女の人生の一番重要な事柄だった。私は、その世界を壊したくなかった。ヨリコの望むように、包帯を換え、食事を用意し、時に本を読んでやったりした。ヨリコは、日曜日には私の部屋で、人形が大事にされていることに安心した笑みを見せ、それから、バイトの時間だと言って帰っていった。その生活は、本当に嘘偽りなく楽しかった。

--

ある日。いつもの時間、私はコンビニに寄る。だがしかし、ヨリコの姿はなかった。私は思わず訊ねた。
「あの。前のバイトの人は?」
「ああ。あの人ですか。辞めました。」
「なんで?」
「よくは知らなかったけど、お客さんからクレームがあったんじゃないですかね。ちょっと変わった人だったし。」
「でも、一生懸命仕事してただろう。」
「そう言われても。店長が決めた事だし。私、よく知りません。接客態度が悪かったら、首になってもしょうがないと思いますけど。」

私は慌てて店を飛び出した。

それから必死で走って。走って。走って。

ヨリコが、「妹に何かあったら」と教えてくれていた住所まで訪ねて行った。

チャイムを鳴らすと、出て来たのは美しい娘だった。

「誰?」
冷ややかな声が、私を切り刻む。

「ヨリコさんは?」
「ああ。お姉ちゃん?さあね。バイトじゃないかな。」
「バイトは首になったって。」
「じゃあ、そこいらで仕事探してるわよ。居酒屋とか、手当たり次第、仕事させろって行くもんだから、近所からも文句言われるのよ。まったく恥ずかしい。バイトだって、あんな人、誰も雇わないわよ。」
「きみは妹さんかい?」
「ええ。そうだけど。」
「足に怪我をしてる?」
「怪我って。小学校の頃よ。あの時、お姉ちゃんが張り切ってずっと病院についてたんだけどさ。あの人の頭の中では、今でも私は小学生のままなのよ。おかしいわよね。人形に洋服を買っても、自分があんな格好でさ。」
「どこへ行けば会えるかな?」
「さあね。でもさ。昼間はハローワークとか行ってんじゃないの。あの人形捨ててやるっていったら、ひどく怯えてさ。それからどっかやっちゃったみたいだけど。それでもお金要るみたい。変よねえ。」

美しい女はケラケラと笑う。

私はただ、悲しい気持ちでヨリコの家を後にする。

--

翌日は休みを取ってハローワークに行った。不景気はまだ続いているようで、多くの人でごったがえしていた。私は、一日ヨリコを待った。

午後の三時頃になって、ヨリコが顔を見せた。人が多い場所は怖いのか、キョロキョロと辺りを見回しながら歩いている。

それから、求人票を真剣に見つめる目。

私は彼女を驚かせないように、そっと近付く。

「ヨリコさん。」
「あら。佐伯さん。こんにちは。」
「探したよ。」
「佐伯さんも、お仕事やめたの?」

ヨリコは、心配そうに訊ねる。

「いや。違う。ヨリコさんを探しに来たんだ。」
「仕事を首になってしまって。」
「知ってる。」
「お金。ちょっと待ってください。また仕事して持って行きます。」
「いいよ。いくらでも待つ。」
「ごめんなさい。」
「それよりさ。ちょっと出られないかな。コーヒーでも奢るよ。」
「はい。」

ハローワークの近くの店で、私達は腰を降ろす。

ヨリコは落ち着かない風に、視線を合わせようとしない。

「なあ。ヨリコさん。一緒にならないか。」
「一緒に?」
「一緒に暮らすんだよ。」
「佐伯さんのおうちで?」
「ああ。そうだ。」
「どうしてですか?」
「ヨリコさんと妹さんと、一緒に。その方が楽しいだろう?」
「・・・。」
「嫌ならいいんだ。」
「妹・・・。」
「ああ。妹さんと一緒にね。」
「ずっと一緒に?」
「ああ。そうとも。」

ヨリコは、嬉しそうに微笑んだ。私よりも、妹といられることの方が嬉しいようだった。私はそれでも良かった。ヨリコの笑顔は、稀に見る宝石のようだったから。


2003年12月03日(水) あなたと知り合ってから、そういうのやめたの。一緒にいて。お願い。私、一人じゃいられないの。

僕らの出会いは、ありがちな話で。

サークルの飲み会で、誰とも話をせずに座っていた女の子。現代文学研究会なんて、普段から大したことをしていない。僕だって、昼にフラリと部室に立ち寄っては、寝転がって文庫本か何かを読む。そんなサークルの飲み会だもの。ただ、みんな、酒の勢いでワイワイと騒いでいただけだった。

「きみって、うちのサークルにいたっけ?」
僕は何気なく声を掛けた。

「あ。いえ。こういうのに参加するのは初めてです。」
「うち、男ばっかりだからなあ。しかも、ちょっと変なやつばっかりでさ。普通なら女の子ってだけでちやほやするもんだと思うけど、照れくさくて誰もきみに話しかけられないんだよ。」
「いいんです。聞いてるの楽しいし。」
「そうか?つまらんだろ。僕らだけ抜ける?」
「いいんですか?」
「ああ。いいよ。僕も退屈してたところ。会費は前払いだし。いいだろ。僕らがいなくなったって。」
「じゃ、そうしましょうか。」

僕らは、共犯者の笑みで顔を見合わせる。

実際のところ、大した事は考えていなかった。ちょっと可愛い子だったし。付き合ってる彼女とも上手くいってなかったし。酒の勢いもあったのだろう。

気がついたら飲み過ぎてて、目が覚めたのは、彼女のアパートの部屋のコタツの中だった。

「寒いですか?」
「あ。いや。ごめん。寝てた。」
「いいんですけど。」
「すまん。トイレ貸して。」

それから、吐いて、また寝た。

なんでこんなに飲み過ぎたんだろうな。

--

「お風呂。」
「え?」
「お風呂、沸いてますよ。入ってきたらどうですか?」
「ああ。」
「あと、コーヒーはインスタントしかないんだけど、こだわるほう?」
「いや。こだわらない。」
「良かった。」

彼女の笑顔は素敵だった。前歯が可愛いと思った。げっ歯類のように愛らしい、特徴のある歯。

思わず顔を引き寄せた。

彼女は驚くほど抵抗なく、僕の胸の中に納まった。

「心臓。ドキドキしてる。」
「ああ。きみのせいだ。」
「ね。お風呂。一緒に入りませんか?」

僕らは、そうやって始まった。

--

僕は、毎日のように学校が終わると彼女の部屋へ寄った。最初のうちは自分の部屋に戻っていた僕は、次第に彼女の部屋に泊まるようになった。歯ブラシ。着替え。

泊まるようになったのは、彼女がせがんできたからだ。

最初の頃、僕は彼女を抱く事に抵抗があった。始まりはあんな風だったが、彼女を大切にするべきだと思ったし、付き合っている子ともちゃんと別れてなかったから。

なのに、ただ、飯食って帰ろうとしたところで、彼女が泣き出した。

「どうしたの?」
「まだ一緒にいて。」

僕はどうしていいか分からず、彼女を抱き締めたまま泣き止むのを待った。

僕の腕の中で突然、彼女がクスクス笑った。

「何?」
「ね。ここ。ヒデキ君のここが、ずっと私のお腹に当たってるんだもん。」

彼女は笑いころげ、僕は何が可笑しいのか分からないまま一緒に笑い、服を脱がせ合った。

次の日も。その次の日も。

結局、僕はそのままなし崩しに彼女の部屋に居座るようになった。

--

悪い噂を聞いたのは、その頃だった。後輩の意味ありげな問いかけ。「付き合ってるんすか?」とか。僕らが二人で部会に出ると、どこか周囲から浮いた感じがしたり。

それから、ある日、おせっかいな後輩にこんな事を聞かされるはめになる。
「先輩知らないみたいだから忠告っていうか。あの。余計なこと言うつもりないんですけど。タジマさんっていう人、悪い噂が流れてるの、知ってます?」
「え?何?知らない。」
「ちょっと言いにくいんですけどー。」
「いいから。何?」
「タジマさんって、男の人にルーズっていうか。誰とでも寝るっていうか。」
「ふうん。」
「すみません。余計な事言って。でも、あの。ただの噂だし。」
「いいよ。ありがとう。教えてくれて。」

それから、僕は久しぶりに彼女の部屋に寄らず、自分の部屋に帰る。

電話が何度も何度も鳴った後、ようやく僕は電話に出る。

「どうしたの?」
「ああ。」
「今日、来ないの?」
「うん。」

ちゃんと聞けばいいのに、若さはわざと遠回りな道を選ぶ。

「じゃ、明日は?」
「明日も無理。」
「えっと。あの。私、嫌われてる?」
「いや。そうじゃないけど。」

そうじゃないけど。僕と付き合うようになってからも、他の男と寝たのか?

訊こうとしても、言葉が出て来ない。

「待ってるから。」
寂しげな声を残して、電話が切れた。

夜中。彼女の部屋に電話をする。何度も何度も。怒っているのだろうか。寝ているのだろうか。いや、きっと他の男の腕に抱かれているにちがいない。

僕は、怒りのあまり受話器を叩きつける。

--

次の日。結局、僕は迷わず彼女の部屋に向かってしまった。

彼女はフワリと僕に抱き付いて来て、僕は彼女を抱き返す。

「ねえ。あたしの事、知っちゃったのね。」
「ああ。」
「怒ったんでしょう?」
「うん。ちょっとだけ。」
「でも、あなたと知り合ってから、そういうのやめたの。一緒にいて。お願い。私、一人じゃいられないの。その代わり、一緒にいてくれたら他の男の人と寝たりしない。」
「分かった。」
「許してくれるの?」
「ああ。」
「嬉しい。」

彼女は、僕に豊かなバストを押し付けて来る。

--

「ねえ。こっちおいでよ。」
「うっせーな。レポート書いてんだよ。ちょっと黙っててくれよ。」
「だって。」
「頼むからさあ。こう毎晩じゃ、俺だって体持たないし。」
「分かった・・・。」

彼女は、立ち上がると外に出て行ってしまった。

男だろうか?

だが、もう、どうでもいい。疲れた。

--

彼女は再び、多くの男と寝るようになった。

僕は、そんな彼女から離れることもできず、彼女が帰らない夜は酒を吐くまで飲んだ。

「やだ。何?この匂い。ちょっとー。ここ、私の部屋よ。」
彼女の声が響く。

僕は、ゆっくりと腕を振り上げる。

きゃっ。

叫び声がして、彼女はしゃがみ込む。

「もう、うんざりだよ。」
僕は、雨が降る夜に彼女の部屋を飛び出す。

--

大学で見かける彼女は変わらぬ様子で誰かしら男と一緒に歩いている。

最近一緒にいるのは、痩せた男だ。いつもブランド物を持っている。確か、婦女暴行か何かで警察に捕まったこともあったんだっけ。だが、親が金を積んで解決したのだ。

きみは。きみという女は。相手がどんな男でもいいのか。性別が男なら、誰でも。

--

ある日、僕は、たまたま彼女とサークルの部室で顔を合わせる。

「荷物。取りに来たの。ここ辞めようと思って。」
「そうか。」
「私、あなたの事、好きだったよ。」
「いいんだよ。もう。」
「私の事を本気で殴ったの、あなただけだったし。」
「悪かったよ。」
「いいの。」
「なんであんな男といるんだ?セックスがいいのか?」
「下品な言い方しないで。」
「だって、お前はそれだけだろう?」
「分からない。でも、あの人傷付いてる。だから、あなたが私と一緒にいてくれたみたいに、私、あの人と一緒にいるの。」
「そんなの変だよ。」
「変でもいいの。同情でも、何でも。」
「夜一緒にいてくれるやつなら誰でもいいんだろ?」
「そうよ。誰だっていいの。私はそういう人間だもの。」
「馬鹿だよ。」
「馬鹿でもいいのよ。」

彼女は、もう、僕の脇をすり抜けて、部屋を出ようとしている。

「ねえ。あなた、自分の力で私を救えると思ったでしょう?」
「・・・。」
「私もよ。あの男を救えるかもしれないって思って。ね。馬鹿でしょう。傷がないと愛し合えないの。本当に馬鹿よね。私達、みんな。」
「・・・。」
「あの男とは寝ていないわ。そういうこと、出来ない体なのよ。だから、もどかしくて女に暴力振るうの。ね。あなた、私が寝てると思ったでしょう?だから、あなたが正しくて、私が間違ってるって、そう言いたかったのよね。」

僕は、ただ、無言。

彼女は、部屋を出て行く。きみのこと、他の男よりずっと分かってやれる気がしていたから。僕の言い訳は宙に浮いたまま。


2003年12月02日(火) お前も不安だったんだろう?怖かったんだろう?あの人を失う事が。私もずっと怖かった。

もう、長く誰も訪れて来ていなかった。あの、金色に輝く髪とオレンジの瞳を持った少年が最後に来てからは。

少年は、何度も何度も振り返った。ドラゴンは、ただ、黙って見送った。少年は何か言って欲しかったのかもしれないが、ドラゴンは何も言わずに見送った。声に出してしまうと、本当の事は嘘になりそうだったから。

ドラゴンは再び一人になった。そして、その時をじっと待っていた。

--

オレンジの瞳の少年は、今や立派な王子となり、世界中を回り剣の腕を磨いた。そして旅先で一人の少女と出遭った。少女は、少年の母がまだ若い頃そっくりで、勇敢だった。王子と剣を交えて面白がるような。そんな少女だった。王子はすっかり嬉しくなって、少女を国に連れて帰った。この娘なら母とも気が合うだろう。王子は、母に代わって国を治める時を迎えていた。

だが、笑顔で出迎えてくれる筈の母は、ベッドに臥せっていた。

「母上。」
「ああ。王子。良かった。戻って来てくれて嬉しいわ。」
「一体どうしたんだよ?」
「そうねえ。もう、王子がすっかり立派になったから、安心しちゃったのね。」
「だって、まだ、母さんは若い。ねえ。会わせたい人がいるんだ。」
「誰かしら?」
「素敵な娘さ。」
「婚礼の支度をしなくてはね。急ぎましょう。」
「何言ってるんだよ。まだ、まだ。母さんが良くなるのが先だよ。」
「いいえ。」
「それでさ。いつか。そうだ。4年に1度しか咲かない花が次に咲く頃に、僕らには赤ちゃんが生まれるだろう。そうしたら、その赤ちゃんに名前をつけてもらわなくちゃいけないし。」
「・・・。」
「ねえ。母さん。」
「急がないと、ねえ。」

王子は母の部屋を出てむせび泣く。

王子は知っていた。母が、悲しみのあまり病に臥した事を。あの人に会いたがって、来る日も来る日も。

だが、母はただ、黙ってその想いを胸に秘め、国のために忙しく働いた。

--

ドラゴンは、大地の感情を知る事が出来た。今、一つの国の偉大な統治者が消え行こうとしている事も知っていた。

馬のひずめの音がする。ひどく急いでいるようだ。馬も、馬の乗り手も若く、感情むき出しにこちらにやって来る。

そして。

今。

その地底の深い場所を再び人が訪れた。

ドラゴンはその者が誰か知っていた。ドラゴンを見つめる青年もまた、ドラゴンのことを知っていた。

「久しぶりだね。どうした。こっちにおいで。外は雪だろう?暖まるといい。」
「お願いがあって来たんです。」
「お願い?」
「ええ。」

ドラゴンは、昔、一度だけ言われた言葉を、ふと思い出す。
「あなたがいらっしゃいよ。火の番人をやめて。世界は広くて楽しいわよ。」

ドラゴンは小さくため息をつく。

「私にどんなお手伝いが出来るというのかな?」
「一緒に来て欲しいんです。母のところに。」
「無理だよ。」
「どうしてですか?知っていらっしゃるでしょう?母の状態は。」
「ああ。知ってる。」
「なら、一緒に来てください。」
「お前も知ってるだろう。火の事を。ここで火の番をしなくちゃならないんだ。」
「火なら、代わりの者が見ます。この娘が。」

青年の陰からそっと少女が現れた。ほっそりとした白い体に、長い金髪。はかなげな見た目とは裏腹に、真っ直ぐな瞳が誰かに似ていて、ドラゴンはハッとした。

「私がお手伝いしますわ。だから、私からもお願いします。」
「それは・・・。いや。できない。」

「どうして?」
青年と少女の声が重なる。

「炎は、私の命なんだ。ずっと私が守って来た。他の者では駄目だ。」

青年と少女は、涙ながらに何時間か懇願したが、ドラゴンは決して首を縦にふらなかった。

「分かりました。こうしている間にも母はどんどん弱っています。僕らは引き上げます。」
青年は、低い声で言った。

「あなたは・・・。あなたは弱虫だ。」

ドラゴンは無言で、体を覆う固い鱗をむしり取ると、青年に渡した。青年は無言で受け取ると、踵を返した。

青年と少女は来た時と同じように、ひどく馬を急がして去って行った。

--

母は、もう、意識が朦朧としていた。だが、王子がドラゴンの鱗を渡すと、少しだけ元気を取り戻し微笑んだ。

そして、息を引き取った。

国中が悲しんだ。

--

ドラゴンもまた、少しずつ少しずつ弱っていき、体も小さくなって来た。

炎の勢いが弱くなり、世界が冷え込んだ。

王子は、再び馬に乗った。

ドラゴンを恨む気持ちに変わりはなかったが、もう一度だけ会っておきたかったから。

「ああ。」
王子を見て、ドラゴンはしわがれた声を出した。

「どうしたんです?この前見た時とは全然違う。」
「終わるんだよ。」
「何が?何がです?」
「炎を・・・。予定より早過ぎだ。何とか炎をもう一度燃え上がらせておくれ。」

王子は慌てて、地上に戻り、枯れ木でも何でも集めた。しまいには、自分が背負って来た荷物まで火にくべた。

火は高く燃え上がり、王子を照らした。

「手を貸してくれないか。」
ドラゴンは言った。

「どうするんです?」
「火だよ。」

そうやってヨロヨロと火のそばまで行く。

「父さん。」
「なんだ?」
「父さん。ずっと呼ぼうと思ってたのに。」
「いいんだ。」
「僕、謝らなくちゃ。」
「何。いいさ。お前も不安だったんだろう?怖かったんだろう?あの人を失う事が。私もずっと怖かった。怖くて怖くて、生きるって事そのものが、死ぬ事よりも何倍も怖かった。あの人に会いたかった。だけど、私はここにいなくてはいけなかった。あの人も、同じだった。あの人にも、守るべきものがあった。お互い分かってたんだ。」

それだけ言うと、ドラゴンは王子の支えを振り払い、炎に飛び込んだ。

王子は、叫び声を上げた。

炎がひとしきり、ゴウゴウと燃えた。長い時間燃えた。

火が落ち着いたところで、王子はゆっくりと立ち上がった。炎の中からキラキラと輝くものが飛び出して来たから。

「ドラゴン・・・。」

幼いドラゴンは、まだ言葉を持っていなかった。だが、自分のすべき事を知っていた。炎の周りをくるくると回り、キーキーと鳴いた。

「また、来るよ。」
王子はドラゴンに向かって言った。

国には妻が待っている。そのお腹には新しい命が。母も、ドラゴンも、知っていたのだ。始まるために終わりがある事を。


2003年12月01日(月) どこといって特徴のない顔。だが、何をしていた男なのか。無地のパジャマを着て立っている男は、どこか間が抜けていた。

目が覚めると、少し頭が痛んだ。

私は、二、三度とまばたきをしたが、そこがどこかは分からなかった。乳白色の、どこといって特徴のない壁に囲まれた、十二畳程の大きさはあろうかという部屋だった。

病院にあるようなベッドに寝かされていた私は、起き上がり、部屋を見渡した。冷蔵庫や、本棚。ゆったりした皮張りのソファ。電子レンジ。テレビ。ポット。どれも、どこにでもあるような一般的なデザインのものばかりで、しかも新品である。本棚に並んでいる本も、一貫性はなく、そこに何の統一された趣味も見られない。

立ち上がり、冷蔵庫を開けてみる。暖めるだけの食品やら、新鮮な果物、ミネラルウォーターなどがぎっしりと入っている。どれも真新しく、誰かが口をつけた気配もない。

ここには誰かが生活した気配というものがない。ついさっき、適当に選んだものを詰め込んだばかりの部屋、という感じだ。

ドアがある。取っ手をゆっくりと回すが開かない。外から鍵が掛かっているようだ。

仕方なく、私はテレビをつけてみる。顔だけは知っているが名前の浮かばないタレントが幾人か出演しているバラエティ番組をぼんやりと眺める。

そこで初めて、私にはそれまでの生活の記憶がないことに気付く。

鏡を見る。そこには、40歳ぐらいの年齢の男の顔があった。この顔には見覚えがある。少し薄くなり始めた髪の、どこといって特徴のない顔。だが、何をしていた男なのか。無地のパジャマを着て立っている男は、どこか間が抜けていた。せめて、ネクタイでも締めていれば、自分がどんな仕事をしていたか思い出せたかもしれないのに。

部屋を探すと、案の定、紙とペンが見つかった。私は、そこに、思い出せる事を書いてみようとする。だが、どれも幼い記憶ばかりで、大学を出た後、自分が何をしていたかさっぱり思い出せない。結婚はしていたのか。子供はいるのか。思い出そうとすると頭痛がする。

あきらめて、ペンを置く。

冷蔵庫の中を探し、チーズとビールを取り出す。アルコール類も揃っているところを見ると、ここは病院ではないのだろうか。少なくとも一つだけ分かったことがある。私はビールが好きな奴だったようだ。ビールを飲むと眠たくなった。そのままソファに横になる。

寝て起きたら、そこは自分の慣れた部屋で、記憶がちゃんと戻っているといいがな。そう思いながら目を閉じた。

--

何時間寝たのだろうか。

まだ、少しばかり頭痛がする。やはり、記憶はなく、そこは見知らぬ部屋だ。そこで初めて、じんわりと憂鬱な気分が滲み出す。眠れば何かが解決すると思っていたが、そんなことはなかった。この部屋は不気味なくらい静かで、物音が聞こえない。窓もない。時計を見ると、10時を少し過ぎたところらしい。朝か。夜か。テレビを点ける。ワイドショーのような番組だ。多分、朝の10時なんだろう。朝食を取らなくては。

冷蔵庫を開け、卵とバターを取り出す。部屋の一方の壁に取り付けられた調理台でスクランブルエッグを作る。

ふと気付くと、ドアの手前に新聞が置いてある。眠っている間に誰かが置いたようだ。私は、新聞を拾い上げ、開く。そこに何か記憶の手がかりはないかと探すが、何も思い出せそうにない。あきらめて、卵とコーヒーで朝食を済ませる。それから、紙を取り出し、日付を書きつける。今日から日記を書こう。そうでもしないと、自分がどこにも存在しないもののように思えてならないから。

--

午後。ノックの音がして、私は驚いてソファから飛び上がる。

「失礼します。」
看護婦が入って来る。

何から訊けばいいのか。慌てたせいで頭の中が真っ白になる。

「ゆっくりなさってください。何かあれば、ナースコールで呼んでくださいね。」
と、ベッドサイドに垂れ下がるナースコールのボタンを指差す。

「あの。」
「なんでしょう?」
「ここは、どこですか?」
「クリニックですよ。」
「クリニックって。何の?何で鍵が掛かってるの?」
「落ち着いてください。先生が説明に来るまで待っていてくださいね。」

看護婦は、事務的な笑顔を浮かべ、私の着替えを置いて部屋を出て行ってしまう。鍵を掛けたカチリという音が響いた。

--

夕方になってようやく、医者がやって来た。

「ああ。そのままで。リラックスして。」
立ち上がろうとする私を制して、医者は微笑んだ。

何から訊こう。私は、唾を飲み込む。

「あの。先生。私、記憶がないみたいなんですが・・・。」
「そうですか。じゃあ、ゆっくりでいいんで、今の状況を整理して教えてください。」

私は、言葉を選びながら、少しずつ話を始めた。

--

愛しい男が話し始める様子がモニターに映し出される。

「本当に記憶がないのね。」
私は、隣でモニターを眺めている博士に話しかける。

「ええ。無理矢理に記憶を失わせるのは望ましい事ではありませんがね。お嬢さんのご希望とあれば、しかたありますまい。」
「ねえ。彼、記憶は戻るかしら?」
「そうですね。一度に何もかもというわけにはいかないですが、断片的な記憶が少しずつ取り戻せるでしょう。」

私は、モニターを食い入るように見つめる。

「もし僕が記憶を失ったとしたらさ。記憶が蘇った時に真っ先に思い出すのはきみの事だと思うよ。」
そうささやいた愛の言葉を思い出す。

「本当ね?奥さんのことでも、子供のことでもなくて、私の事なのね?」
私は彼の腕の中でそう聞き返したんだっけ。

そんなロマンティックな愛の瞬間、どうしても手にいれたいの。

私は、早速、お父様にお願いしたんだわ。


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