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セクサロイドは眠らない

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2002年02月28日(木) そんな彼女の言葉を聞きながら、僕は、誰かにこんな風に世話を焼かれたかったんだな、と、納得する。

小雨が降り始めた中を足早に駅に向かおうとする彼女に追いつくと、僕は傘を差し掛けた。

「あら。おつかれさま。」
職場の同僚に過ぎない僕に、彼女は微笑んだ。

「急いでるの?」
「ううん。雨がひどくならないうちに帰ろうと思って。」
「少し時間ある?」
「いいけど?」
「じゃ、どこかでちょっと飲まない?」
「少しだけよ。最近、お酒弱くなっちゃって。明日の会議に差し支えない程度にね。」

まだ、明るい時間だったので、座る場所はすぐ見つかった。

ビールが運ばれると、彼女は僕の顔を覗きこむように、
「で?」
と聞いて来た。素直に好奇心を現すところが、彼女らしくていい。

「妻が出て行ったんだ。」
「あらら。また、どうして?」
「それが、分からない。」
「まるで?」
「ああ。」
「連絡は?」
「彼女から一方的に離婚届が送られて来た。」
「それは大変ね。で、離婚経験者の私にいろいろ聞きたいってわけね。」
「誰かに話すと、少しは気が楽になるかと思って。」
「結婚なんて人それぞれ違うから、私なんかがアドバイスできることってあるかなあ。」

彼女は笑って、料理に箸を伸ばす。

「奥さんの持ち物、なんにも残ってないの?」
「ああ。手紙もない。パソコンなんか触れるやつじゃなかったから、誰かとメールのやり取りがあったとは思えないし。」
「そう。」
「他に男ができたとかじゃないと思うんだ。」

そう信じたい。

目の前の彼女は、そんな僕のを黙って聞いている。

「あ。ごめん。なんだか僕ばっかりしゃべっちゃって。」
「いいのよ。」
「ねえ。離婚って傷付く?」
「そりゃ。そうね。」

彼女は、ふいに瞳を翳らせる。

「私のことなんかどうでもいいじゃない?問題は、あなたのほうでしょう。」
「そうだね。ごめん。」
「謝ってばっかり。」
彼女は、微笑む。

別に、何を相談したかったわけでもない。ただ、話の分かる彼女に向かって、だらだらと愚痴をこぼしていたかっただけなのだろう。そうやって、随分と酔ってしまって。

僕は、
「送って行くよ。」
と、急に席を立った。

「ちょっと待ってよ。」
慌てて、彼女がコートを羽織る。

雨が上がった夜道は、湿気のせいで、生暖かい。

「ねえ。大丈夫?ひどい顔。私の部屋、来る?」
彼女は返事を待たずに、僕をタクシーに押し込んだ。

「まったく、奥さんがいなくなると、全然駄目になっちゃうのねえ。」
そんな彼女の言葉を聞きながら、僕は、誰かにこんな風に世話を焼かれたかったんだな、と、納得する。

ぼんやりとタクシーに揺られながら、雨で光った路面を見ているのは気持ちいいと思った。

「着いたわよ。」
「いいの?」
「何よ。今更。ここまで来ちゃったくせに。」
彼女は、笑って、僕の背中をポンポンと叩く。

--

シャワーを浴びて、彼女の煎れてくれた熱い紅茶を飲みながら、僕は、彼女を腕に抱いている。

「こんなつもりじゃなかったのに。」
僕は、謝るように、彼女に言う。

「じゃあ、どんなつもりだったの?」
「妻のことだった。もう、僕を愛してなかったんだろうか?もう、話す機会を失ってしまったから、いくら考えても分からないんだ。」

僕は、背後から彼女のほっそりした体を抱く。

「あまり見ないで。恥ずかしいわ。」
「こんなに、きれいなのに。」
「私、もう少し胸が大きかったら良かったのに。」
「女の子って、みんなそんな風に言うよね。なんでかな。こんなにきれいなのに。僕の妻も、よくそう言ってた。足がもっと細かったら。胸が大きかったら。お腹がぺたんこだったら。僕は、そのまんまの妻を愛してたのに。」

恥ずかしがる彼女をこちらに向かせると、僕は、そのいとおしい胸に口づける。

彼女は、耳たぶを染めて、吐息を吐く。

職場では元気なお姉さんといった感じの彼女は、意外にも、瞳を揺らして恥じらうのだった。

彼女の白い脚が僕に遠慮がちに絡みついてくるのを抱きかかて、「僕はなんてずるいんだろう。」と、考えてながら、彼女の細い声が響くのを聞いていた。

汗ばんだ僕にタオルを差し出しながら、
「ねえ、奥さん、ね。あなたのことすごく愛してたんだと思うよ。」
と、言う。

「どうして?」
「女の子が、もっと胸が大きかったら、足が細かったら、って、好きな人に言う時ってどんな時か分かる?もっと、胸が大きかったら、足が細かったら、もっともっとあなたに愛してもらえるのに、って切ないくらいに想ってる時なのよ。」
「そうなの?」
「少なくとも、私は。」

彼女は微笑む。

「一緒に暮らしてても、知らないことが多過ぎた。」
「今からでも、遅くはないんじゃない?」
「そうかな。」

今だって。ほら。ようやく気付いた。本当は、妻のことなんか口実で。

彼女の、僕の手の平にすっぽりとおさまる乳房が、今の僕にはなんだか丁度いい大きさの気がして、その柔らかな重みをいつまでも量っていたいのだった。


2002年02月27日(水) 恋をしてはいけない。その、熱い指で恋する者に触れ、体の中から沸き起こる激情に身を委ねてはならない。

私は、恋をしていた。

どうしよう。

もうすぐ、魔女の初級試験なのに。

見習いのうちは、恋をしてはいけない。その、熱い指で恋する者に触れ、体の中から沸き起こる激情に身を委ねてはならない。

分かっている。大丈夫。心の中で想うだけならば、規則を破ることにはならない。ただ、激流がほとばしり出ないように、塞き止めることに全力を尽くそう。

私は、ヒキガエルの背をなでながら、祈る。

ヒキガエルは、私の気持ちを知ってか知らずか、眠たそうな顔をして低い声でうなっている。機嫌がいい証拠だ。

「ねえ。あなた、恋って知ってる?とても、辛くて、苦しいのよ。」
私は、ため息を一つ付くと、教科書を開く。

媚薬の作り方、空の飛び方、姿の変え方。

私も、亡くなったママのような素敵な魔女になりたい。人間であるパパと知り合って私を生んでからは、その力を見せることは滅多になかったらしいが、毎夜、私の寝床で話してくれた物語。夜空を飛ぶ喜び。幸福をもたらす秘密の媚薬。年に一度開かれる魔女の祭典。

--

「また、上の空だね。」
恋する人が、私を見て笑った。その、茶色の瞳は、深く、優しい。

「ごめんなさい。」
「何か心配事?」
「ええ。パパのこと。病院に入ってるって言ったでしょう?」
「うん。なんだか、難しい病気なんだろう?まだ、治療法が見つからない。」
「そうなの。」
「だから、薬学を勉強して、病気を治したい。それがきみの夢だって知ってる。」

彼は、私の手をそっと握る。

私は、少し顔を赤らめて、その手を振りほどこうとする。

「ねえ。前から聞こうと思ってたんだ。」
彼は、私の手をしっかり握って、離さない。

「なあに?」
「こうやって、二人で会うこと。これ、デートって呼んでいいの?」
「え?」
「分かってるんだろう?僕が、きみのこと大事に思ってることは。」

私は、幸福と同時に、泣きたい気持ちになる。

そうして、静かに首を振る。
「ごめんね。」
「僕じゃ駄目なのかい?」
「そうじゃないけど・・・。ねえ。お願い。今は駄目なの。」
「じゃ、いつまで待てばいい?」
「私が、夢を叶える日が来たら。」
「それまで、きみの夢を一緒に支えるよ。」
「それじゃ、駄目なの。」

彼は、私の顔をしばらく見つめると、悲しそうな顔になって言う。
「分かったよ。僕じゃ、駄目なんだね。」
「そんなんじゃ、ない。」

だけど、彼は、背を向けて。

--

私は、ヒキガエルを膝に載せて。

「ねえ。駄目だったわ。」
と。涙が、頬を伝う。

ヒキガエルは、相変わらず、低い声でうなっている。

「あなたは、どう?幸福?私の手伝いをするために、ここにいて。」

ヒキガエルの目が、少し輝きを増して私を見つめた気がした。
「そう。幸福なのね。ありがとう。」

--

その日が、来た。

私は、ヒキガエルを従えて、その部屋に入る。

美しく威厳のある、魔女の教官の前で、私は、命ぜられた魔法の呪文を次々と唱えて見せる。

「よろしい。よくできました。」
教官の声が響き、私は、安堵する。

だが、ここまでは教科書通りのこと。

あと一つ。

最後の難関が残っている。一人一人、別々に課せられる課題。それは、大層難しい試験だと聞く。

「では、最後の試験。」
「はい。」
「恋の媚薬を作る試験。恋する者に勇気を与える。」
「先生。それは、私にはとても難しいですわ。」
「私が今から教える手順通りにすれば、大丈夫です。まず、その大鍋に、お前のヒキガエルを。」
「そんな。この子を使うのですか?」
「そうです。ヒキガエルは、みな、魔女が魔法を使う手助けをするために、一緒にいるのです。時には、その身を犠牲にしても。」

私は、震える手で、鍋の上にヒキガエルを掲げる。

ヒキガエルは、煮立った鍋の腕で足を掴まれて、身動き一つしない。

その目は、私を見ている。

どこか悲しそう?

私は、それから、ハッとして、ヒキガエルを胸に抱きかかえる。

「申し訳ございません。私には、できません。」
「では、お前は、今日の試験、失格となって良いのだな。」
「はい。」

私は気付いたのだ。

そのヒキガエルの瞳。恋する人と同じ瞳。

私は、ヒキガエルを抱きかかえたまま、その場を去ろうとする。

と、背後から教官の声。
「よろしい。合格。」

私は、驚いて振り返る。

「ヒキガエルよ、隠された姿を現しなさい。」

カエルは、私が恋する人の姿に変わる。

「よくできました。本当の恋を知らぬ者に、恋の媚薬は作れぬ。合格です。これからは、中級の魔法を学ぶことを許されます。それから、恋をすることも。」

それから、ヒキガエルに向かって言う。
「お前も、誘惑者の役を、よくこなしました。」

私は、教官に頭を下げて。

美しい誘惑者と共に、部屋を出る。


2002年02月26日(火) 雪の上に、花のように鮮やかに、血痕。私の小さな足から滴った血が咲かせた花が、寄りそうように戯れるように。

私は、身のほど知らずの恋をした。

森で一番強いと言われている、あのオオカミに。

灰色の毛並みに幾つもの闘いの証の傷跡を付けた、大きなオオカミ。

一方の私は、こんなに小さなウサギ。

--

もうすぐ、雪が更に深くなる季節だった。

「またお前か。」
彼は、うんざりしたような顔で、私を振り返る。

どんなにそっと、気を付けて歩こうとも、彼の耳は私の小さな足音を聞きつけて、そうして怒るのだ。
「いい加減にしろ。」

私は、怒られて、立ち尽す。実のところ、私は彼に怒られたくて付きまとっているのかもしれない。彼の恐ろしいほどするどい目と、むき出した牙。その奥にやさしさが感じられるから。

「ごめんなさい。心配で。」
「心配?」
「あなた、足、痛めているでしょう?」

彼は、無言で私をにらみ、しばらくして口を開く。
「どうしてそれを?」
「毎日見ていたら分かるわ。」
「誰にも知られないようにしていたのに。」
「大丈夫。きっと、私しか気付いていない。」
「昨年の怪我が、冬になると痛んでしょうがないのだ。」
「ねえ、お願いが。」
「なんだ?」
「その足では、満足に獲物を捕らえることができないでしょう?もし、本当に食べるものに困ったら、私を。」
「何を言ってる?」

彼は、鼻で笑った。
「自らの手で奪った命以外、いらぬわ。」

そうは言いながら、彼は、私に知られたことで少し安心したのか、背を向けるとわずかに足を引きずって歩き始めた。
「そうは言うが、私とて自制心を失うこともある。早く、ここから立ち去れ。」

私は、舞い始めた雪の中、彼の姿が消えるのを見つめている。

--

一冬が過ぎた。もうすこし待てば、春が来る。

雪が降り止んだので、私は、しばらく見ない彼の姿を探す。

森の仲間がオオカミの餌食になった話は聞かない。彼はどうやって食べているのだろう?

森中を探し回った。

ふと、私のよく聞こえる耳が低いうめき声を捉えた。私は急いでそちらに向かった。

見ると、彼が木の切り株に体を押しつけて喘いでいる。雪の上には、鮮やかな血痕。

「どうなさったの?」
私は、慌てて駆け寄る。

「またお前か。見られてしまったな。ぶざまな俺を。」
「こんなにひどい怪我。」
「ああ。あんまり腹が減ってしまったので、つい、人間がいる村に近付いてしまった。それで、見つかってズドンさ。」
「ああ。あまりしゃべらないで。こうしている間にも、どんどん血が。」

彼の腹をえぐる傷から、泡のように血が湧き出す。

私は、涙が溢れてくる。

「お腹が空いたのなら、私を食べてくれれば良かったのに。」
「それはできないと言っただろう。」
「私は、あなたに食べられるのなら、本望だった。」
「何を言ってる。」
「付きまとったりしてごめんなさい。迷惑だったと分かっていても、あなたの姿を見ていたかった。森で怖れられ、誰も近寄ろうとしないあなたの孤独な心を、覗いてみたいと思っていた。もしあなたが私を食べてくれてたら、あなたは、飢えも満たされ、うるさい私からも解放されていたのにね。」
「馬鹿を言うな。」

オオカミは、苦しそうに喘ぎながら。
「お前がいなくなったら、寂しいではないか。」

彼の恐ろしい牙が、チラリと見えて、それは微笑んだようでもあった。

「ああ・・・。」
私の目に、涙。

「お願い。私をあなたの牙で。」
「駄目だ。」
「このままだとあなた、死んでしまう。一人、行ってしまわないで。」

彼の足にすがる私に、彼は恐ろしい顔をして見せた。

彼の牙が一瞬閃いて、私に向かって来た。

私は目をつぶった。

熱い痛みが走った。

けれども、それは、私の足をそっと傷付けただけ。

一瞬ひるんだ私に背を向けると、「追うなよ。」と言い捨てると、彼は走り去っていった。その声は、「死ぬなよ。」とも聞こえた。

雪の上に、花のように鮮やかに、血痕。私の小さな足から滴った血が咲かせた花が、寄りそうように戯れるように。

彼は、もう、永遠に私の前に姿を現さないだろう。

私は、雪に散る赤を目に焼きつけながら、願った。

このまま、雪が溶けなければいいのに。

このまま、あなたの付けた傷が癒えなければいいのに。

この痛みこそが、恋の証。この痛みだけが、私があなたを愛した証。


2002年02月25日(月) 彼女の手が、白い指が、僕の体をやさしく這うと、僕は心の奥まで見せてしまいたくなる。

僕は、気付くと裸だった。

僕は、裸で震えていて、彼女は、それに気付いて、ブルーのローブを渡してくれた。
「あなたの瞳の色に合ってるわ。」

僕は、それを羽織って、少し落ち着く。

「どう?」
「うん。なんだか、頼りないや。」
「でしょう?人間ってね。裸でいると、本当に弱いものなのよ。爪も歯も、相手の体に傷を付けるには大して役に立たないの。」

僕があんまり震えるので、彼女は僕を膝に載せて抱き締めてくれる。僕の震えは次第におさまる。

「そうそう。慣れて来たでしょう?」
「うん。」
「そのうち、もっと慣れるわよ。体が剥き出しな分、心が感じ易いの。」

僕は、目を閉じて、彼女の膝に頭を載せる。

彼女は、この上なくやさしく僕の背中を撫でる。

「何か、思い出しそう。」
と、僕はつぶやいた。

「どんな?教えて。」
「分からない。とても小さい頃のこと。まだ、兄さんや姉さんと一緒に、いつも遊んでいて。」
「それで?」
「ママがいた。僕は、時々ママから怒られてたけど、体をきれいにしてもらって、一緒に眠ったりしてた。」
「素敵よ。もっと教えて。」
「でも、僕は一番小さかったから。」
「ええ。」
「ある日、木に登った。兄さんみたいに、高いところまで登りたかった。」
「分かるわ。」
「それで、降りることができなくなって。泣き出した。泣いても泣いても、僕の声は小さくて、なかなかみんなのところにまで聞こえなかった。だから、僕は、自分で飛び降りようとしたのだけど。こわくて。こわくて。」

僕は、今、何を言おうとしてるんだろう。子供の頃の勇敢でなかった話なんかするつもりじゃなかったのに、彼女の手が、白い指が、僕の体をやさしく這うと、僕は心の奥まで見せてしまいたくなる。

「そうそう。それでいいの。思い出したことを、教えて。」

彼女が僕の顎から喉をやさしく撫でると、僕は思わず体をそらして吐息をつく。

「それから、川に落ちたことがあった。」
「あらら。」
「僕は、ずっと遠くに冒険しようと思って、気が付いたら川の向こうまで行っていた。」
「えらいわ。」
「僕は、最初は、そんなに遠くまで来たと思ってなかったんだ。前しか見てなかった。後ろを振り返るまでは、何も不安じゃなかった。戻る時のことなんか考えなかった。」
「でも、不安になったのね。」
「うん。ママが、岸の反対側から僕を心配そうに呼んだんだ。途端に、僕は怖くなった。川は、とても大きくて。僕には戻る道が分からなかった。僕は、ママのところに戻りたくて慌てたから川に落っこちてしまったんだ。」

彼女は、小さく、悲鳴すら上げた。

「それで?大丈夫だったの?」
「うん。溺れそうで苦しかったけれど、ちゃんとママのところまで泳いで行けたんだ。」
「そう。頑張ったのね。」

彼女は微笑んで、あの時、岸の反対側で待っていてくれたママのように、僕を抱き寄せて僕の鼻に唇をつける。

僕は、大満足だった。

僕は、完全に、彼女に身を任せ切っていた。

だが、どうしたのだろう。僕を抱き締める彼女の喉の奥から、「ひく、ひく」と音がしていたかと思うと。途端に、彼女は、笑い出す。大声で。お腹を抱えて。

「あは。あはは。」

僕は、いきなりで、むっとする。
「何?どうしたのさ?」
「あはは。ごめん・・・。」

彼女の笑いはおさまらなくて、息をするのさえ苦しそうだ。

僕を馬鹿にしているの?

僕は、むしょうに腹が立って、彼女に飛びかかって行く。

--

私は、彼を子猫の姿に戻す。

退屈だったから、子猫にちょっとした魔法を掛けていたのだ。

真っ白いフワフワの毛に、ブルーの瞳。

なんて愛らしい。

そうして、私は、今、彼の告白におおいに笑っている。まだおさまらない。

彼が、怒って、私の指に齧りついている。その爪は、私が綺麗に切っているので、私の肌に薄い跡をつけることしかできない。

指が。熱くていとおしい。

私は、まだ笑っている。目の前にいるものが、あまりに愚かで、純真で、精一杯で、手の平に納まるほど小さく、愛らしい容姿をしている時。人間というのは、ひどく残酷にそれを笑い飛ばして愛することもあるのだ。

私は、まだ、笑っている。私の笑いは止まらない。

あの頃の私は、いつもこんなだった。あの人はいつだって大笑いしていた。私は、そんなあの人の指に齧りついて、泣いてばかりいた。


2002年02月23日(土) 「お前は、金のかかる女だな。」と言って彼らが笑うのに任せて、私は、愛を決して口にしなかった。

私は、ユナ。

その男が一人で店に来て、私は、「ああ。作家の・・・。」と思い出した。

以前、一度だけ子ウサギみたいな女の子を連れて来ていて、店の女の子が、私にそっと男の職業を教えてくれたから、私は記憶に留めていた。

私は、彼の横に座りグラスを作っている間、彼はコースターを裏返して何か書き留めていた。

「何書いてるの?」
「ん?ああ。」
「ご本を書く時のメモか何か?」
「そんなんじゃないんだ。ただ、こんな風に落書きするのが癖でね。」
彼は、自分がやっていたことを初めて気付かされたように、照れて笑った。

彼が用を足しに席を外した時、私はそれを手に取って読んだ。

「あなたをどうしても失いたくない。あなたの肉体も精神も。何もかも。もし肉体がいつか滅びてしまうのならば、体がなくなっても、この宇宙の中で言葉だけ交わしていたい。」
と書かれていた。

それは、誰かに宛てた恋の言葉のように思えた。私は、洋服のポケットにそれをそっと滑り込ませた。

明け方、自分の部屋で、私はそれを取り出してそこに書かれていることの意味を考えた。

私にとって、恋はいつだって、肉体を通してだけ生まれてくるものだったから。

私は、この男に言葉の意味を教えてもらいたいと願った。

--

ずっと昔、ね。

まだ、ユナが由奈だった頃にね。

私は、レストランで愛する男と食事をしていたの。ずっと年上の男。住む場所も洋服も、私が生きる意味も与えてくれた男。

「一口だけ頂戴。」
と言って、彼が食べている皿に手を伸ばしたの。

その時、怒られた。
「みっともないことをするんじゃない。残してもいいからもうひと皿注文しなさい。」

でも、私はその料理が食べたいわけじゃなくて、相手のお皿から一口だけとって食べたいだけ。そのことに少しだけ幸せを感じていたいだけなのに。

でも、私は、その時から・・・。

--

「私に言葉を交わす喜びを教えて。」
と、私は、彼に頼んだ。

「一冊、本が書き上がるまで、ならね。」
と、彼は言った。

一人の女の子と付き合っては一冊の本を書く。本が書き上がったら、別れるのがルールだよ、と彼は言った。

私は、その夜、彼に寄り添って、子供が初めて絵本を読んだ時のように、一つ一つ絵を指を指しながら、「これ、なあに?」と訊ねるように。彼と話をした。

そうやって、手を繋いで眠る幸福。

「これ、恋?」
明け方、私は、自分に問う。

唐突に、幸福な気持ちが襲って来た。それは、息を飲むほどに私を強く覆った。

幸福なんて、随分と忘れていた。けれど、幸福というのは、それまでの不幸と、これからの不幸の間に挟まれた存在だということを知っているから、私の心は用心深くこれから来る不幸にも備えなければならないと思った。

眠っている彼を残してベッドを抜け出すと、彼が昨日書き散らした落書きをコートのポケットに入れて、私は彼の部屋を出る。

--

私は、男達にお金を使わせるのに慣れていた。

ずっと「愛人」をやって来たから。

男達は、私が口先で甘えて、お金で買えるものを要求することを好む。そうやって、私にお金を使えば使うほど、男達は私を愛していると勘違いする。

「お前は、金のかかる女だな。」
と言って彼らが笑うのに任せて、私は、愛を決して口にしなかった。愛は、由奈という名前と一緒に、どこかにしまい込んでしまった。

でも、今、目の前にいる男と体と心で語り合うこと。これは愛と呼んでもいいもの?

--

作家と付き合って一年が過ぎようとする頃、私は作家が言おうとすることを理解した。

「書き終わったのね?」
「うん。きみのおかげだ。」
「おめでとう。」

私は、笑顔で。

「ねえ、一つお願いがあるの。」
私は、今まで言わなかったことを。

「何?」
「今夜、私の部屋に来てくれないかしら?」
「いいの?」
「うん。最後だから。」

私は、他の男から与えられ場所に、彼を呼ぶのは初めてだった。

夜、赤いロウソクに火を灯して、彼を迎えた。

「ねえ。ワインを開けていて。」
そう言うと、奥に入っていって。

美しい宝石箱を持って戻ってくる。

「お願い。これからすること、笑わないでね。」
「笑わないさ。」

そうして、私は小箱を空けると、そこには小さな紙片が沢山詰まっている。彼が書き散らした落書き。

私は、一枚ずつ手にすると、ロウソクにかざす。

一枚。一枚。灰皿に落とした瞬間立ち昇る煙が、少ししみる。

「ねえ。馬鹿みたいでしょう?今の私って、思いっきり格好悪いよね。」
私は笑ってみせる。

彼は、黙って首を振る。

「ねえ。楽しかったの。あなたとおしゃべりしているのが。抱かれている間も、ずっと言葉を交し合っているような・・・。」
私は、初めて、男の人の前で涙を流す。

彼は、そんな私を、何も言わずに抱き締めてくれた。

「ねえ。もっと、いろいろ話がしたかった・・・。」
私は、彼の腕の中で、そうつぶやいて。

彼は何も答えず。

眠りに落ちるまで抱いていてくれた。

--

私は、マンションを売りに出す。少し身軽になりたかった。

最後、マンションを出た時、そのマンションをくれた男のことを、なぜかふと思い出した。親が決めた相手と急に結婚することになったから、と、最後私を泣いて抱き締めた人。彼も、幸福になれただろうか。

人の幸福について考えたのは、久しぶりだった。


2002年02月22日(金) ただ、夜の月明かりが一筋さした瞬間、小さな叫び声と一緒に流れたのは喜びの涙。

私は、リカ。

退屈していた。遊び歩いてばかりいた。両親がくれるものはお金だけだった。私が考えるのは、親の地位や名誉を傷つけることだけだったが、私の小さな爪では何もできないことを思い知らされるのだった。

「ねえ。この本、知ってる?」
「なに?知らない。」

けばけばしい表紙の本を見て、私は首を振った。

「今、流行ってるんだけどね。」
「何が書いてあるの?」
「恋愛のこととか、セックスのこと。」
「くだらない。」
「私、すっごいファンなんだよね。」
「私が本読まないの知ってるでしょう?」
「ね。今日、この本書いた作家の出版記念のパーティがあるの。一緒に行かない?」
「行かない。」

まったく、また、どっかのオヤジに頼み込んで、パーティに潜り込ませてもらうことにしたんだろうな。この子のオヤジ好きにも困ったものだ。

「そう言わないで、ね。おもいっきり可愛いカッコして来てね。」

--

パーティは、つまらなかった。私は、シルクのミニドレスに、フワフワのファーのショールを巻いて、飲み物をぼんやりと飲んでいた。友達は、私と組んで誰かを引っ掛けようと企んでいたらしいが、私なんか置き去りにしてどっか行ってしまった。

「天使みたいだね。きみの衣装。」
「誰?」
「退屈した男。」
「じゃ、私と一緒?」
「うん。」
「友達と来てたんだけど、どっか行っちゃったの。」
「可哀想に。」
「ねえ。あなた、今日は誰かと一緒に来た?」
「いや。一人。」
「じゃ、どっか行かない?」
「いいよ。」

その男は、確かに私よりずっと年齢が上のはずなのに、その辺りにいる中年よりずっとセクシーだった。

何が違うんだろう?

私は、車に乗り込むと男の横顔を見ていた。

「ん?」
彼は、微笑んだ。

「あなた、いくつ?」
「さあ。きみよりちょっとお兄さんだよね。」
「恋人、いる?」
「いない。ちょうど、失くしたところ。」
「じゃ、私を恋人にしてくれる?」
「いいよ。」
「そうじゃなくって。」
「何が?」
「そんなに簡単に返事しないで。」
「わがままだな。ちゃんと考えてるよ。第一、僕は、きみに誘われて僕のために開かれたパーティを抜け出して来た。それで充分じゃないか。」
「えー?あなた、本書く人なの?」
「今頃気付いたんだなあ。」

私は、笑い出した。笑いが止まらなくなった。

彼は、一緒に笑った。

停めた車の中で、彼との初めての口づけをした。

--

「本が書き終わるまで、だよ。」
彼は言った。

それは、絶対破ってはいけない約束だった。彼は作家で、一冊書く間一人の女の子と付き合うのだと言った。

「いいよ。」
私は軽く答えた。いつものように、誰かと付き合ってもすぐに退屈してしまうと思っていたから。

楽しいことがしたかった。

それから、ずっと年上なのになぜか少年のように見える、彼の秘密が知りたかった。

「なんで、私?あなたモテるんでしょう?」
「天使みたいに見えた。きみが。真っ白で。」
「私、悪い子だわ。」
「人は、生まれた時は、みんな真っ白の羽を持ってるんだ。なんで、白か分かる?試しの、白。神様が、その白が汚れていく様子を天で見ている。」

私は、ため息をつく。
「天使にこんなことして、あなた悪い人ね。」
「僕が何をしても、きみは汚れない。」

彼の愛撫はどこか上の空で悲しそうだった。

そんなに優しくされたのは初めてだった。

--

その日は案外と早く来た。

私は、ゆっくり書き終わることを願ったが、彼は先を急いでいるように、その本を一年足らずで仕上げてしまった。

「今日で書き終わった。」
そう告げられて。

私の心臓は、きゅうっと強く痛んだ。

「嘘吐き。」
私は、泣き出した。

「嘘は吐いてないよ。」
「嘘吐き、嘘吐き、嘘吐き。」
私は、彼の胸に抱き留められて、涙が止まらない。

なんで、あんな風に愛してくれたの?あの夜も、あのやさしい声も、あの指も、全部嘘?

「最初に約束していただろう。」
「分かってるよ。そんなの。だけど、しょうがないじゃない。涙が出ちゃうんだもん。明日からは他人にならなくちゃいけないんでしょう?」
「じゃあ、好きなだけ泣くといい。」
「ねえ。もう一度だけ会いたい。恋人として。」
「駄目だ。」
「お願い。」
「じゃあ、きみが結婚する時。昔の恋人ってことで式に呼んでくれるかい?」

私はうなずく。もう、ぬぐっても間に合わない涙が、溢れ出るのに任せたまま。

彼は優しい。大人だ。でも、今どんなにわがままを言ったって、彼の心がもう終わってしまっているのならしょうがない。

私、思いっきり綺麗になって、最後一度だけあなたに。

--

私は、両親に、以前から私に来て欲しがっているある富豪の息子のところに嫁ぐと告げた。

両親は、大喜びした。

多分、私は、その時、生まれてから一番両親に愛された。

一ヶ月。エステに通い、荒れた肌を修復した。

それから、私に別れを告げたポルノ作家に、ロサンゼルス行きの航空券と、結婚の招待状。

届くかしら?来てくれるかしら?

--

明日が挙式という、その夜。

私は、純白の衣装をまとい、彼のいる部屋を訪れる。

彼は息を飲む。

「久しぶりね。」
「きれいだ。」
「ありがとう。」

彼は、震える指で抱き締めてくれる。

その夜で、本当に最後だと分かっていて。

私は、ただ、泣かないように。

悲しい涙は花嫁にはふさわしくない。

ただ、夜の月明かりが一筋さした瞬間、小さな叫び声と一緒に流れたのは喜びの涙。

「明日の早朝、日本に戻るよ。」
彼の言葉に、私は黙ってうなずく。

「おめでとう。」
「ありがとう。」

--

「さようなら。」
子供だった時代に別れを告げて、私は、遠くに行く電車に飛び乗る。今頃、本当なら式が始まっている時間。

「ごめんなさい。」
一ヶ月だけ、婚約者でいてくれた人に。でも、彼が愛しているのは私じゃなかった。黒い服が似合う、ユナとかいうあの女の元に戻るといいわ。決して愛を口にしない、私と正反対のあの人のところへ。

私は、トランクに花嫁衣装を詰めて、その街を抜け出す。

真っ白な衣装を、汚さないために。


2002年02月21日(木) 僕は、女の子達と付き合って、その唇からこぼれ落ちる宝石のような言葉達を拾い集める。

僕は売れっ子のポルノ小説家だ。

最初は、どぎつい描写が少ないせいで不評だったが、今や女の子達の間で話題の流行作家になってしまった。

僕は、書き下ろししかしない。

そうして、一人の女の子と付き合っては一冊の本を書く。女の子達と付き合うのも、それが約束だ。本が書き上がったら、別れること。それでも、女の子達は列をなして、順番を待ち、僕と付き合いたがる。

僕は、女の子達と付き合って、その唇からこぼれ落ちる宝石のような言葉達を拾い集める。恋が、まだ賞味期限を失わないうちに。

--

いろんな女の子がいた。

例えば、リカは勝気な女の子だった。

最初から分かっていても、僕が一冊本を書き上げた時には、大きな声を出して泣きじゃくって、僕の胸を叩いた。

泣くのも、笑うのも、怒るのも、ありったけだった、真っ直ぐな女の子。

僕は、彼女の涙で湿ったシャツを着たまま、彼女の頭を撫でるしかできなかった。

「最初に約束していただろう。」
「分かってるよ。そんなの。だけど、しょうがないじゃない。涙が出ちゃうんだもん。明日からは他人にならなくちゃいけないんでしょう?」
「じゃあ、好きなだけ泣くといい。」
「ねえ。もう一度だけ会いたい。恋人として。」
「駄目だ。」
「お願い。」
「じゃあ、きみが結婚する時。昔の恋人ってことで式に呼んでくれるかい?」

彼女は黙ってうなずく。目に涙をいっぱいためて、子供みたいに。

その夜、僕は、編集に最後の原稿を送った。

一ヶ月後、彼女から手紙が届く。同封されていたのは、アメリカまでの飛行機のチケットと、結婚式の招待状。僕は、苦笑して。でも、約束だから守ろう。

式の前日、僕が宿泊している部屋を訪れた、純白の花嫁衣装の彼女。

僕は、あまりの美しさに息を飲み、彼女を抱き締める。

「もう一回だけ会いたかったの。」
「まったく、危険なことをするお嬢さんだ。」

真っ白な衣装が床に広がって。

もちろん、その夜、花嫁をさらったりはしなかった。彼女も分かっていた。

ただ、急いで、本のラストを書き直す必要が出て来ただけだ。まったく、こんな女の子の突拍子もない愛が、僕の本に命を与える。

--

そうして、今付き合っているユナとも、そろそろお別れだ。彼女は、長年いろんな男の愛人をしている女。冷静で、決して愛の言葉を口にしない。

でも、僕は知っている。彼女は、愛の言葉を口にしそうになったら、金品を要求する。それが彼女なりの世渡りの方法なのだ。一流の愛人として生きて来た、彼女のやり方。

「もう、お別れなんでしょう?」
「ああ。」
「今夜は、私の部屋に来て欲しいの。」
「いいよ。」

僕以外の男に与えられたマンションに、彼女は今まで決して僕を呼ぼうとしなかったのに。

彼女の部屋にともされた一本の赤いロウソクは、思わぬ情熱のようでハッとする。

「ねえ。ワインを開けていて。」
彼女はそう言うと、奥に入っていって。

美しい宝石箱を持って戻ってくる。

「お願い。これからすること、笑わないでね。」

彼女がそんな弱々しい言い方をするなんて、意外だ。

そうして、彼女は小箱を空けると、そこには小さな紙片が沢山詰まっている。よく見れば、全部、僕が書き散らした落書きだった。僕は、待ち合わせの時、早く到着し過ぎて、手元の紙片に落書きをする癖があるのだった。それを全部拾い集めていたのだ。

彼女は、一枚ずつ手にすると、ロウソクにかざす。

一枚。一枚。灰皿に落とした瞬間立ち昇る煙が、少ししみる。

「ねえ。馬鹿みたいでしょう?今の私って、思いっきり格好悪いよね。」
彼女は笑う。

格好悪くなんかないよ。

高価なものばかり欲しがったきみが、本当に欲しかったものを知る。

「ありがとう、付き合ってくれて。」
最後の紙片も燃えてしまった。僕は、頬に涙の跡がついた彼女が眠りに就くまで抱いていて、それからマンションを後にする。

また、小説のラストを書き直さなくちゃな。

僕は、夜道でそう考える。

--

新しく刷りあがった本を抱えて、僕は、あの人の元を訪ねる。

美しい人。決して僕を愛さない人。

「あら。新しいの?早いわねえ。」
その人は、微笑んで、それを手に取る。

「あなたの書くもの大好きよ。」
彼女は、一心不乱に読みふける。

その間、僕は、馬鹿みたいにソファに座って。

本を読み終えると、彼女は深くため息をついて、本を閉じる。
「あなたの書くものの中に、私が失くしたもののカケラが沢山詰まっているの。」

僕は、本を書きあげた時だけ彼女の元を訪れることを許される。
「ねえ。もう、生身の人間を愛することはできないの。そういうものは、あの人が全部持って行っちゃったのよ。」
以前、彼女はそう言った。

「いらっしゃい。」
彼女は僕を手招きする。

僕は、一緒に眠るのを許された子供のように、彼女の膝に頭を載せる。

彼女は、僕の髪の毛に細い指を差し入れてくしゃくしゃにして、笑う。

そうして、やさしく言う。
「あなたもそうなのね。本に出てくる女の子達、そのもの。愛を請う。」


2002年02月20日(水) にじんだ血を舐めて、僕は、彼女に入り込み、彼女が壊れそうになるくらいに激しく中から揺さぶった。

「どう?これ。」
「お似合いでございますよ。」
「少し、地味じゃない?」
「お客様が華やかでいらっしゃいますから、これくらい控えめのほうがお客様の美しさが引き立ちますよ。」

僕の勤める店にうなるほどの金を落として行ってくれる、その美貌の女性の肩からジャケットを脱がせながら、僕は耳元でささやく。
「今日、夜は?」

彼女は、かすかにうなずいてから、
「今日試着した分、全部戴くわ。」
と、僕の目を見ずに。

顔だけで、服を何着も買える女。

そのうつむいた睫毛に苦悩の色を見てとると、僕は、まぶたに口づけたくてどうしようもなくなる。

--

夜、彼女が僕の胸で小さくため息をつく。

すっかり化粧が落ちて、しっとりとした大人の女はどこかに行ってしまい、不安げな少女の顔が現われる。

地位も財力もある男に守られて、無邪気に生きて来た女。僕に会うまでは。

僕は、他の男に守られている女が大好きだ。いつも、そんな女に惹かれてどうしようもなくなる。自分の力以上のものを手にしていて、それがあまりに強大なので、それを失うことを怖れて心を千々に乱している様を見るのが大好きなのだ。

「ねえ。怖いの。」
「何が?」
「あなたが。ううん。そうじゃない。この恋が。」
「終わらせたい?」
「終わらせたくはないけど・・・。」
「素敵じゃないか。怖いなんて。」
僕は、彼女のヒリヒリするような不安がいとおしい。

「子供がね。」
「うん。」
「学校に行きたがらないの。」
「何年生になったんだっけ?」
「小学校二年生よ。」
「で、どうしたいの?」
「私、今まで他の人に任せっきりだったから。少し・・・。傍にいてやらないと。」

僕は、彼女の言ったことなんか聞こえなかったみたいに、彼女に強く口づける。さっきまで、心地良く漂っていた肉体が、また熱くなって来た。

「ねえ。待ってよ。話を・・・。」
「待たない。」
僕は、彼女の肩に歯を食い込ませる。

きゃっ、と、彼女はうめく。

にじんだ血を舐めて、僕は、彼女に入り込み、彼女が壊れそうになるくらいに激しく中から揺さぶった。

彼女は、すぐに応えてきた。僕の腕にしがみつく。そうだ。子供の事なんか忘れてしまえ。僕の愛撫に応える余裕があるならば、子供のことなんか。

喘ぎ声が響く。

会話は要らない。

--

彼女がシャワーを浴びて身繕いをし、部屋を出て行った後、僕は、彼女が忘れていったビーズのマスコットをベッドの下から拾い上げる。

「子供がおそろいで作ってくれたのよ。」と嬉しそうに言ってたっけ。

僕は、窓を開けてそれを投げ捨てる。

結婚した女が子供のことを理由に一緒にいる時間を減らし始めたら要注意だ。恋を少し冷静に見る余裕ができた証拠。本当は恋の代価を払うのが怖くなって来たくせに、子供が子供が、と言えば相手が納得すると思っている。

僕は、そんな時、女を困らせてやる。

本当に僕を捨てられるのなら、捨ててみればいい。

後悔するよ。

と、額に掛かる柔らかい髪の毛で。美しく鍛えたしなやかな体で。きみを一番知ってるのは僕だよ、と語りかける指で。困らせる。

彼女達は、与えられることばかりに慣れていて、失うことに慣れていない。だから、慌ててしがみついてくる。

贅沢な苦悩に身をやつして。

そんな様子にしか、僕は興奮しないから。

--

「ねえ。いい加減にしてくれないかな。これで二回目だよね。」
僕は、怒って見せる。

彼女は、ビクッと、全身を震わせる。

子供のことで学校に呼ばれて、と言い訳する彼女を睨み付けて。

「でも・・・。」
「もう、いいよ。出てってくれないかな。」
「そんな・・・。」
「僕は、子供のことで手一杯なきみからおこぼれの愛情をもらう気はないんだ。」
「ねえ、聞いてよ。」
「聞かない。どうせ、子供のことだろう?なら、子供を取ればいい。僕なんかのことは忘れて。」
「ひどい・・・。」

彼女の目から涙が溢れ出す。

僕は大袈裟にため息をついて、ベッドに腰を下ろす。

「本当に最後にする気?」
彼女が震える声で訊ねる。

僕は、何も答えない。

ただ、彼女に向かって悲しげな目をして見せて、それから目をそらす。

さよなら、と、小さな声で。

ドアが悲しく音を立てる。

--

彼女は、来る。

そう思って、待っていた。

思ったより早く、その時は。

「何しに来たのさ?」
僕は、ひどく冷酷に言い放つ。

「あなたを選んだの。」
「子供じゃなくて?」
「ええ。」

彼女の瞳は、あらぬところを見ていた。

「震えてるよ。」
僕は、彼女の肩をそっと抱く。

「私、ひどいことを。」

僕は、彼女の髪の毛に、唇を付ける。

「僕のために?」
「ええ。あなたに会いたくて。」
「じゃ、ひどいことじゃないよ。」
「いいえ。ひどいことなの。私、子供を・・・。」
「言わないで。」

僕は、彼女の唇をふさぐ。

言わないで。きみの苦悩はもう充分に伝わって、僕をこんなに興奮させている。

言わないで。楽にならないで。苦しんで。

僕は、彼女をきつくきつく抱き締める。

「こんな私でも?」

もちろん。

僕が待っていたのは、血。

天使のようなウェンディのママより、残忍な愛の殺戮者を、僕は欲する。


2002年02月19日(火) 青年は、少女を抱き締める。その柔らかな体は、いつも彼にとっての不思議だった。花のように甘い香りがした。

いたずら好きな三流魔法使いは退屈していた。

そうして、森の動物達に次々に魔法をかけて楽しんでいた。

ライオンをネズミに、蝶をハトに、そうして、金色の毛並みのヒョウを琥珀色の肌を持つ美しい青年に。

そうやって、森をしばしの混乱に落とした後、遊びに飽きて眠ってしまった。

ヒョウのようにしなやかに歩く青年は、自分がもうヒョウではなくなったことを知り、自分がとても無防備な生き物になってしまったことを恥じた。そうやって、慌てて身を隠す場所を探して森をさまよった。もう、ヒョウだった頃のようにうまく走ることさえできない。

--

森のはずれで、少女はたった一人で暮らしていた。

父親と二人で暮らしていたのだが、その父親が猟に出た先でクマに襲われて命を落としてしまったのだ。

少女は、父親がいなくなってしまってからは行くあてもなく、その小屋にとじこもって暮らしていた。外に出れば恐ろしい獣達がいる。そうやって一人で。

そんな風におびえていたので、魔法使いによって人間になったヒョウが迷い込んで来た時、少女は驚いた。全裸で、あちらこちらに引っ掻き傷を作って、小屋に飛び込んで来た、その青年。

「誰?」
少女は訊ねた。

青年は答えることができなかった。言葉を知らなかったから。ただ、目の前にいるのが自分が変えられてしまったのと同じ種の生き物だということだけが分かったため、少し安心した。

全裸の男を前に最初は怖がっていた少女も、その男がひどく疲れていることに気付き、慌てて駆け寄って傷の手当てをした。それから、父親が来ていた洋服を出して彼に着せた。

「ねえ。あなた、言葉をしゃべることができないの?」
処女の問い掛けにも、彼はただ、金色の瞳で少女を見つめるばかり。

「私の名前は、フローラよ。フ・ロー・ラ。花の女神の名前ですって。父さんが付けてくれたの。」
「フ・・・?」
「フローラ。」

そうやって、彼は、長い時間を掛けて彼女の名を覚えた。最初に覚えた人間の言葉。

青年は、その柔らかな少女の体を不思議に思って眺めた。なんと弱々しい生き物だろう?手を伸ばす。

「どうしたの?」
少女は微笑み、その手を取る。

「ねえ。少し休んだらいいわ。村まで行って何か食べる物をもらってくるから。」
少女の手は、ふんわりと柔らかかった。

こんなに弱そうな生き物なのに、随分と励まされるのはどうしてだろう。

そんなことを不思議に思いながら、青年は、少女の用意した寝床で安心して眠りに落ちる。

--

それから、二人の生活。

青年は、森に出て食べ物を手に入れる。青年の体は、ヒョウだった頃に比べたら随分と不自由だけれども、知り尽くした森でウサギを捕まえるくらいはできるのだ。

少女は青年に言葉を教える。言葉を教えるのに飽きたら、二人で野原に出て走り回る。

「ねえ、つかまえて。女神フローラを愛した風の神様みたいに。」
少女は、笑って逃げるけれども、すぐ追いつかれてしまう。

それから、二人で抱き合って笑い転げる。

「ねえ。ずっとこのまま一緒にいられたらいいのに。」
少女は、彼の体にしがみついたまま、不安がぬぐえない。どこから来たのか分からない男は、いつか、どこにも分からないところに行ってしまうのではないだろうかと。

「ずっといっしょにいるよ。」
青年は、少女を抱き締める。その柔らかな体は、いつも彼にとっての不思議だった。花のように甘い香りがした。

青年はヒョウだった頃のように吼えようとするのだが、人間になってからは、そんな猛々しい声は出ないのだ。ただ、彼女の名前が口を突いて出る。初めて覚えた人間の言葉。

--

気まぐれが引き起こした二人の幸福な日々は、気まぐれのように終わる。

ある日、少女は気付く。青年の肌に、金色の毛が生え始めたことに。
「どうしたの?あなたの体。」

三流魔法使いの魔法は、不完全で気まぐれだった。魔法は力を失い始め、青年の体はヒョウに戻ろうとしていた。

「思い出したよ。」
青年は、体の血がざわめくのを感じる。

「何を?ねえ?」
少女は狂ったように、しがみつく。魔法が解けるのを押し留めようとするかのように。

「僕は、この森に住むヒョウだった。」
「ヒョウ?」
「ほら、見てごらん。」

その爪は、分厚く硬くなって行く。

「あなた、私を殺す?」
「殺しは、し・・・な・・・。」
もう、人間の言葉を忘れ始めている。

ねえ。待ってよ。彼女が叫んでいる。

「さよ・・・。」
もう、人間のように考えることさえできない。

ただ、森を走り回る自分。獲物を狩る喜び。そんなものが。力を取り戻すのを感じる。

「フローラ。」
その柔らかい体が、人間だったヒョウの最後の記憶。その名前が最後の言葉。

「行ってしまったの?」
ただ、低くうなっているヒョウを前に、少女は泣く。

「いっそ、あなたの爪で私を殺してよ。」
少女は、ヒョウに近寄る。

「でなきゃ、あたし、また一人になってしまうわ。」
その場にしゃがみ込んで泣く少女に、ヒョウはそっと寄り添った。

ヒョウは、なぜか分からないが、この柔らかな生き物を守って生きて行こうと思ったのだ。

「ねえ。名前を呼んでよ。」
その首に手を回し、少女は顔をうずめる。

ヒョウは、もう、吼えることしかできない。

その日から少女に寄り添って生きるヒョウの姿。

「ずっといっしょにいるよ。」
たしかに、彼は、そう言ってくれたのだった。なのに、あたし、泣いたりして。


2002年02月18日(月) あんな風に泣くことができていたのは、彼が後ろで見ていてくれるからだったんだ、と思った。

既婚の恋人との付き合いは三年になろうとしていた。

「こんなに長く続くとは思わなかった。」
彼の腕の中でつぶやいた。

「後悔してる?」
「ううん。逆。嬉しいなあって。」

本当に嬉しいんだよ。そのために、もうすぐ三十歳になろうとしているのだとしても。彼と出会う前なら信じられなかったことだけど。なんだか、ゆっくりとだけれど、長く続いていることに感謝している。

私達は、ゆっくりでいいから、駆け足過ぎて見落としたり、恋をないがしろにしたりといった恋愛はよそうね。と誓い合った。

「ごめんな。」
「なんで?」
「いろいろ。」
「いいのに。」
「おまえって、もっとわがまま言いたいヤツだったろう?」
「いいのよ。欲しくてどうしようもないくらいのほうが、愛に謙虚になれるみたいなの。」

本当だよ。

彼は、黙って私を抱き締める。

いたいよ。

彼の心の中に、言葉にできないこともたくさんあったのだと、あとから気付く。

--

「妻のことなんだ。」
彼は、そっと切り出した。

私は、胸がズキリと衝撃を受けるのを感じた。

「息子の受験につきっきりだったのだが。最近、疲れのせいか精神的な落ち込みが目立つんだよ。」
「で?」
「そばにいてやりたい。」

私は、こんな時が来ることを予想して絶対泣かないようにと誓っていたのに、出て来た声は妙に震えていた。

「いいよ。」
「すまない。」
「謝らないで。」
「落ち着いたら、また、ここに戻ってくることは許されるだろうか?」

私は、返事ができないでいた。

その言葉が男の身勝手だと思っていても。

長く、長く。この人に会えたことに感謝して行きたい。これからもずっと。

--

今日は、泣かないでいようね、笑っていようね。

と、二人で決めていた。

だって、永遠のお別れではなくて、しばしの休息。ゆっくりと、愛を思い出す期間。泣いた顔より笑った顔を、お互いの心に残したい。

「いつまで待てばいい?」
私は、問う。

彼は、サボテンの鉢を取り出す。
「このサボテンに花が咲いたら。」
「咲いたら、どうすれば?」
「手紙をくれる?」
「うん。」

私達は、そうやって別れて。

丸い頭の子供のような、サボテン。

私達は、手を振った。

帰り道、まだ、歩き始めて間がない小さな子供が母親の手を離れて、どこまでも行こうとしていた。途端に、ステンと転んで泣き出す。ワーワーと、ありったけの声で。母親が慌てて抱き上げる。子供は母親の腕の中で、ますます声を大きくして泣く。

私も昨日まで、この小さな子供のようだった。あんな風に泣くことができていたのは、彼が後ろで見ていてくれるからだったんだ、と思った。今日からしばらくは、泣いても誰も抱き起こしてくれないから。

少し強くならなくては。

--

友達は笑う。

「そのサボテン、花が咲かないって分かってて渡したのかもよ。あなたを傷付けないように別れたかっただけかもね。」

私は、微笑む。

新しい誰かを好きになりたいとも思わない。ただ、ずっと、彼を待っているのが私の今手元にある一番の幸せ。だから、信じない、と言うのは簡単だけど、信じるのをやめる理由はどこにもないんだよ。

そう、誰かに言っても伝わるだろうか。強がりじゃない。ただ、信じていられる喜び。

私は、サボテンの中で時が熟成するのを待つ。

--

二年が過ぎた。

夜、満月が明るかった。

月明かりだけで、部屋が見渡せるほどに。

サボテンが、花を咲かせていた。

私は、飛び起きて、その花を眺めていた。

ねえ。背後で彼が微笑んで立っていてくれているように感じて、私は、涙を流す。

月明かりで手紙を書いた。

--

彼は、翌々日にやって来た。

「久しぶりだね。」
「元気だった?」

少し照れ臭かった。

「絶対、来るって思ってたよ。」
と、私は笑った。

彼は、真顔で、静かに言った。
「妻とは別れた。」

私は、カップを並べる手を止める。

「きみがそばにいたら、きみに甘えていたことだろう。もしかしたらそのせいで、離婚をきみのせいにしてしまったかもしれない。だから、きみと離れて考えたかった。きみには寂しい思いをさせてしまった。」

私は、うつむいたまま、紅茶を注ぐ。

「あなた、レモンの輪切り、いつも二枚だったよね。」
私は、ようやく顔をあげて、男を見る。

「ねえ、信じてた?サボテンを。」
私は、訊ねた。

私は、振り返ってサボテンを見る。

愛の砂時計のような、サボテンを。

「信じてたよ。信じてたから、気持ちが強くなれた。」
「なら、いい。」

なら、全部、いい。

許してもらえるの?と、彼が訊ねている。

二年間のいろんなものが、ふっとほどけたみたいに、私は、突然笑い出して止まらなくなる。笑い過ぎて、涙が出て来た。

とにかく、私は笑いながら、彼の胸でセーターの匂いをゆっくりと吸い込む。


2002年02月16日(土) 「ねえ。セックスしたいわけじゃないの。」彼女は言った。「じゃあ、何がしたいの?」

僕は、そんな風な目的で作られた人形だった。

最初に、僕に作り主は言った。
「女性はみんな寂しいのだから。体ではなく、心を求めているのだから。心をなぐさめてあげなさい。」

心をなぐさめてあげるというのは、どういうことかよく分からなかったけれど、僕は黙ってうなずいた。それから、僕は、女性達のもとを訪れる。両手一杯の花束を抱えて。ドアを開ける彼女達の顔は、どことなく不安定で、僕みたいな人形を相手にすることに後ろめたさを抱いているのだった。

そんな彼女達のために僕ができることはただ一つ。

僕は、女性達のしゃべる言葉を大事に大事に取り扱った。彼女達の体を抱きながらも、彼女達から零れ落ちてくる言葉達を聞き逃さないように。これが大事。

--

その彼女は、とても素敵なマンションに一人で住んでいた。僕が訪れる女性達の中では、誰よりも美しく、誰よりも金持ちで、誰よりも仕事が忙しそうだった。お金のかかった肌と髪。僕は、そんなものを素通りして、彼女の寂しい心のほうに注目していた。

「ねえ。私みたいな女性、たくさんいる?」
最初に会った時、彼女は自嘲気味に僕に訊ねた。

「あなたみたいな?」
「寂しい女よ。お金をかけた肌を、誰にも愛してもらえない女。」
「たくさんいますよ。でも、あなたほど美しい人はいないです。」
「私ほど寂しい女はいないってことね。」

彼女は、遠くを見ていた。

僕は、そっと手を伸ばす。

「ねえ。セックスしたいわけじゃないの。」
彼女は言った。

「じゃあ、何がしたいの?」
「愛がしたいのよ。」
「じゃあ、愛を。」
「あなたには無理よ。」
「どうして?」
「ねえ。あなたお人形でしょう?痛みって分からないでしょう?ここがズキズキするの。止まらないの。」

彼女は、僕の胸に手の平を当てる。

確かに、痛くはない。

痛みが分かるようになったら、愛ができるの?

--

僕は、人間になりたいと思った。

痛みが分かるようになりたいと思った。

「すごく辛いことよ。」
と彼女は言うけれど。

僕は、一生懸命働いた。人間にしてもらうためには、お金がたくさん必要だった。

「しばらく、来られないよ。」
「本当に人間にしてもらうの?」
彼女は、目を丸くして、それから、ふふんと笑った。

「愛なんて、そんなにいいものではないのに。」
「それでもいいんだ。」
「じゃ、好きになさい。」

僕は、一年間、働いて働いて。人間よりずっと安い賃金で働いて。それで溜めたお金を持って、人形を人間にしてくれる場所に行った。

そこで、僕は、人間の肉体を手に入れた。

確かに、それは驚くべき辛さだった。飢えや寒さや疲労が、絶え間なく僕を襲う。

--

僕は、花束を持って彼女に会いに行く。

そこで見たのは、マンションのドアのところで抱き合い、離れ難く何度も口づけを交わす恋人同士。

僕の胸に痛みが走る。

「これが、愛の痛み?」
僕は、胸を押さえて、彼女のマンションを後にし、路地のポリバケツに花束を突っ込む。

僕は、時折、彼女の様子を見に。

彼女は、いつも幸せそうで。彼女の幸せは、なぜか僕の胸に痛いのだ。

--

それから、日々が流れ。

ある日、そこはもう、彼女の住まいではなくなった。彼女は、恋人にだまされてお金もマンションも失ったのだ。

僕は、彼女を探す。

彼女は、借金を返すために、自分の最後に売れるもの。肉体を売っていた。

僕は、彼女を指名した。

「どこかで会ったことがあるかしら?」
彼女は、僕に、商売の微笑みを投げかけた。あの頃ほど綺麗に手入れされていない髪が、もつれて顔に掛かっていた。

「多分ね。」
僕は、彼女が思い出してくれることを、あるいは思い出してくれないことを願った。

胸は、相変わらず痛い。

彼女は、黙って服を脱ぐと、下着の格好で僕の首にそっと手を回した。
「不思議ねえ。あなたとどこかで会ったことがあるわ。本当よ。」
「じゃあ、会ったことがあるんだ。」
「ヒントをくれないかしら?」

僕は、彼女の腕をそっと外した。

「セックスしたくないの?あたしじゃ、駄目?」
彼女は、急に不安げな顔になった。

「セックスはしたくないんだ。」
「困ったわね。お金はいただいちゃったのに。じゃあ、何をすれば?」
「座って、話を。」
「それだけ?」
「愛がしたい。」

僕は、僕の胸を押さえてみせた。

彼女は、しばらく僕を見つめ、それから、微笑んだ。

「痛いのね?」
「うん。」
「私と同じだわ。」

彼女は、胸にあてた僕の手を取ると、自分の胸に持って行った。

その瞬間、僕は、人間になれたことを感謝し、全ての苦痛さえもが喜びそのものだと感じた。

「ねえ、辛くない?」
彼女は訊ねる。

「辛いけど。辛いもののために、僕は、生きている。」
「そうね。辛いけれど、欲しくてたまらないの。ずっと探しているのよ。」
「僕の家に来る?小さな家だけど。少し休むといいよ。とても疲れているみたいだし。」
僕はおずおずと訊ね、彼女は黙って微笑んだ。

その部屋はきみのために用意したんだよ、とは言わないで。

痛む胸を抱えたまま、彼女を少し離れて見ているのがなんだか心地良いのだった。


2002年02月15日(金) 尚、解放してもらえず、男の力に翻弄される。くたびれた男だと思っていたのに、どこにこんなエネルギーがあるのだろう?

「ねえ。誕生日のプレゼント、何がいい?」
男が聞いてくる。

「そうねえ。去年と一緒でいいよ。少し多くして欲しいなあ。」
去年と一緒というのは、現金のことである。

「ううん・・・。今年は去年ほどには難しいのだがねえ。」
男は困惑している。

私は、わざと男に背を向けて拗ねたふりをしてみせる。大体、私の欲しがるものを与えられなくなったら、男と付き合う価値などどこにあろうか。現金など欲しがる女子大生なんてひどくみっともないものかもしれないが、男のやっていることのほうがもっと醜いから。私は、平気で欲しいものを要求してみせる。そんなつまらない要求すら愛と勘違いするほどに、男の生活は寂しいもののようだ。

「何とかしてみるよ。」
男は、わざとらしくため息をつき、服を着始めた。

たるんだ皮膚や、少し光沢のある頭皮が、物悲しそうだった。オフィスで見た時には、あんなに隙が無さそうだったのに。

--

私には、結婚を約束している一つ年上の恋人がいる。「ちゃんとパイロットになることができたら、結婚してあげる。」と、言い渡してある。

もう一人の男は、昨年夏にバイトした会社にいた部長という男だ。この男とは、もうすぐおしまいだ。誕生日にもらうものをもらったら、私は、男に「さようなら」を言って、留学してしまう予定だ。帰国する頃には、男は私のことをすっかりあきらめているだろうという寸法。

私は、自分の美貌を、欲しいものを手に入れるために使っているだけ。

--

電話があったのは、数日経ってからだった。

妙にはずんだ声で、「今日、逢えるかな?」と聞いて来た。

「いいけど。明日にしてくれる?」
「だって、今日がきみの誕生日じゃないか。」
「だって、今日は家で両親に祝ってもらうんですもの。」
「そうか。残念だな。じゃ、明日。」
「ええ。ごめんなさい。」

地位も家庭もある男が自分のために予定を合わせてくれる。そんなことが、私のプライドをくすぐるのだ。私は、携帯をしまうと、若い恋人との約束の場所に向かう。

--

「逢いたかったよ。」
中年の男は、オフィスでは決して見せないような気弱な顔で、私に微笑む。

「私もよ。」
私は、コートを脱ぎながら、男に抱きついてみせる。

男は、まず、ジュエリーの小箱を取り出し、私に渡す。

「お誕生日おめでとう。残りは、帰る前に渡すよ。」
「ありがとう。」

男がくれた指輪を、ホテルの薄暗い照明にかざしてみる。

「無理言ってごめんね。」
私は、小首をかしげて、甘えたような声を出して。

「いいんだよ。きみのわがままが嬉しいから。」
男は、私を抱き締める。

私は、なぜか、吐き気がする。今日で最後だから。もう少し我慢しよう。そう言い聞かせて、男のなすがままになる。

「きみが、最近、ちょっと僕のことを怒ってるんじゃないかって思ってね。」
「そんなこと、ないよ。」
「ならいいんだが。だから、今年は、もっと一緒にいる時間を取ろうと思うんだ。」
「無理しないで。ねえ。私、あなたのおうちのこと、全然考えてなくてわがまま言ってたから。気を付けるようにするわ。」
「いいんだ。僕の家のことは。」
「それにね。私、再来月からアメリカに行くのよ。留学するの。だから、もう。」
「なんだって?」
男は、いきなり、私の服を脱がせる手を止める。

「一人で行くのか?」
「ええ。もちろん。勉強が目的よ。」
「で、もう、僕とは終わりにしようと?」
「ええ。最初から、その約束だったじゃない。あなたはお仕事も家庭もあるし、私は、勉強しなくちゃ。」

男は、黙り込む。

それから、口を開く。

「行かさないよ。」
「そんな。無理言わないで。」
「無理じゃない。僕ら、愛し合ってるんだろう?」
「いいえ。愛じゃない。」
「きみは、愛というものが分かってないよ。」

私は体を引こうとするが、男はかまわず私の手首を引き寄せ、私の体を強く押さえる。

「僕が悪かったよ。きみに不自由な思いをさせたからね。」

いいえ。いいえ。

だけれども、私は、ふらふらになっても、尚、解放してもらえず、男の力に翻弄される。くたびれた中年男だと思っていたのに、どこにこんなエネルギーがあるのだろう?

私は、悲鳴をあげ、「助けて。」と言ったのを覚えている。

--

男が口移しで水を飲ませてくれる。

「ここは?」
「僕達の部屋だ。」
「仕事、行かなくていいの?」
「ああ。行かなくていいんだ。もう、ずっと一緒だ。」

私の手首は、ベッドに手錠で繋がれている。

「帰りたいわ。」
「ここが家だ。」

男は、やさしく私の髪をなで続ける。

与えても与えても、奪っても奪っても、尚、足らないと騒ぐ愛の傲慢。

男はとっくに食われてしまっていた。

私は、それを甘く見過ぎていた。

もう逃げる術はない、と、目を閉じる。


2002年02月14日(木) どうしてかしらね。誰かの心に刻まれた思い出は、本当だと思えるの。忘れたくても忘れられない記憶だけがね。

僕は、その村に流れてやって来た。

僕は、その村を前から知っていたのかもしれないし、その香りに惹かれて来たのかもしれない。

彼女は、村で唯一人の薬剤師だ。医師に診てもらうには隣の村まで行かないといけないというその小さな村で、彼女は、薬草や香料や食材を組み合わせて、ちょっとした病気なら治すことができるのだ。

そうして、彼女のお得意は恋の媚薬。特に、今日は、村の娘達が彼女の店にチョコレートを買いに走る。あるいは、こっそり、男性までが。

そんな噂を聞いたから、僕は、まだ夜が明ける前、彼女の店に行く。

--

店の奥から、チョコレートや、何やらスパイスの香り。

僕は、構わず入って行く。

「ごめんなさい。まだ、店開けてないのよ。」
微笑む彼女はまばゆいばかりで、彼女こそが愛の化身のようだった。

「忙しいところ悪いんだけど、僕のために一つ薬を調合してくれないかと。」
「薬?」
「うん。」
彼女は、僕の顔をまじまじと眺め、それから何かを思い出そうとするように顔をしかめた。

「あなた、前にもこの村にいたことあるかしら?」
「どうかな。覚えてないんだ。」
「そう。じゃ、最近?」
「ああ。ニ週間ほど前に。」
「で、私のうわさを聞いて来たのね。」
「今日は、チョコレートを作るのに忙しいんだろう?」
「ええ。」
彼女が僕に出してくれた、生姜の入った温かい飲み物を一口すする。

「立ち入ったことを聞いていいかな?」
「どんなことかしら?」
「きみ自身は恋をしないの?」
「さあ。どうかしら。」
「きみは美しい。この数日この店の前にいると、恋する表情の男達が、きみの元にやって来た。きみは、どんな魔法を使ったか知らないが、男達をうまいこと追い返したよね。」
「魔法だなんて。ひどいわ。それに、私の恋なんて、随分と立ち入った質問ね。」
「すまない。」
「で、あなたの希望は何?」
「思い出し薬を。」
「何を思い出したいの?」
「この村の記憶。」
「難しいわね。私、魔法使いじゃないのよ。本当に。そんな注文、無理だわ。」

彼女は、ごめんなさいという風に微笑んで。

「そうか。邪魔したな。」
「良かったら。」
彼女が今作ったばかりの、チョコレートが差し出される。

僕は、そのほろ苦いチョコレートを口に放り込み、この味を前にも知っていたと感じる。だが、以前知っていたものよりはずっと深く包み込む、その味わい。それから、知らず知らずのうちに、僕は、彼女の手を取り、その甘い唇で彼女に口づける。

--

彼女は、若いうちから、彼女の祖母に教わり、ありとあらゆる薬草を操った。

僕は、その彼女に恋をした。

彼女も、確かに僕に恋をしていた。

だが、彼女は、薬草やスパイスを使って、人の心を操れると信じ込んでしまった。

彼女は、恋に悩む乙女達に、恋の苦しみから解放される薬を処方していた。

「ねえ。レシピは作らないのかい?」
僕は、彼女に訊ねたことがある。

「そんなもの、要らないわ。形にして残した途端、想いは薄れてしまう。私は、私の情熱で薬を作るの。私の名前がついたレシピが、私の知らないところで愛されるなんてうんざりよ。大事なものはちゃんと心に残るの。」
彼女はそんな風に笑った。確かにその笑顔を愛していたのに。

彼女は、恋に悩む女の子達に囲まれて、忙しくしていた。恋の教祖とまで言われて。その癖、僕らの恋はほったらかしだ。

すれ違って行く悲しみの中、僕は彼女の作った辛い恋の処方薬を勝手に大量に口にした。

それは、ミントの香りのチョコレートだった。

僕は、彼女への愛を忘れ、村を出ていった。

--

「ねえ。何か思い出したの?」
遠くを見つめる目つきの僕に、彼女は聞いた。

「きみ、自分のチョコレート、食べたことある?」
「ないわ。だって。」
僕は、彼女の手から、恋のチョコレートを奪って、口移しに食べさせる。

目を閉じて、ゆっくりと彼女は恋の媚薬を味わう。彼女の頬が桜色に染まって行く。

「思い出した?」
「ええ。」

彼女は、微笑んだ。

「あの時、私は、あなたがいなくなってしまったのが悲しくて、忘れ薬を飲んだのだったわ。」
「僕も、きみの忘れ薬を飲んだんだよ。」
「私、嫌な女の子だったものね。あの頃は、自分の恋ですら、操れると思ってた。随分と不幸だったの。今は違う。分かったの。そんなことできるもんじゃない。今は、人の心の奥に眠っている感情にエールを送るだけよ。」

彼女は、僕の唇の端についたチョコレートに口づける。

「きみは、昔から、記憶を信じていた。」
「ええ。そうよ。どうしてかしらね。誰かの心に刻まれた思い出は、本当だと思えるの。忘れたくても忘れられない記憶だけがね。あの頃忘れ薬を作ったのは、自分を試したかっただけなのかもしれないわ。曖昧な心の中から、本当の物が見つかるまで、いろんなことを忘れようとしていた。」

忘れたくても、忘れられなかった。

きみも、僕も。

「ねえ。味わってみて。」
今度のチョコは甘かった。しつこくなくて、軽やかで。

「食べる人の心で味が変わるのよ。みんな自分の心の中は、案外と自分じゃ分からないものだから。」
彼女は笑った。


2002年02月13日(水) それから、海岸に車を止めて、窓の外で風が音を立てるのを聞きながら、暖房の効いた車内で抱き合う。

コンビニのバイトで知り合ったその人妻との関係は、もう一年になろうとしていた。

僕の部屋で髪を洗うのが癖だった。

ずっしりと重いその洗い髪は、一見おとなしい彼女の情念が溢れ出したように、黒くつややかだった。

まだ、髪が濡れた状態で、僕の背中からそっと手を回す。僕の体に濡れた髪がまとわりつく。言わない彼女の想いが、僕にまとわりつく。

「ねえ。今夜はずっと一緒にいたいわ。」
「それは無理なんだろう?」
「ええ。でも・・・。」

彼女の、いつも言いかけてやめる癖。

「ごめんね。わがまま言った。」
「わがまま言わなかった、だろう?」
「うん。」

髪の毛から、しずくが落ちる。海から上がった人魚みたいだ。海の底でずっと暮らしていたから、白い肌。

--

「ねえ。恋人いるの?」
ショートカットで浅黒い肌がエキゾチックな、その大学の同級生の女の子は、僕が学食でコーヒーを飲んでいる向かいに座って、聞いてくる。

「いない。」
「うっそ。」
「いないって。」
「夜、付き合い悪いって評判よ。」
「本当にいないんだ。」
「ふうん・・・。じゃ、今度、夜付き合ってくれない?」
「いいよ。」

何で嘘をついたりしたんだろう。

僕のせいじゃない。僕との関係を隠したがったのは、恋人のほうだ。僕は、恋人の都合にいつも合わせてきた。軽い反逆精神。

--

赤くしなやかな車は、彼女のイメージそのもので。

派手な音を立てて、僕の傍らに止まる。

「パパに買ってもらったの。」
「へえ・・・。」
僕は、気後れして、うまい返答ができない。

「お陰で、誰も男の子達が友達になってくれないの。つまんないプライドのせいでね。」
「乗り心地、いいね。」
「でしょう?」

彼女の運転が上手いのはすぐに分かったので、僕は安心してシートに身を預ける。

「一晩中、走りたいの。ずっと遠くにね。付き合ってくれる?」
「いいよ。」

僕達は、なめらかに走る車を楽しむことで一晩を過ごした。

--

「ねえ。昨日の夜、どこかに行ってた?」
「うん。」
「私、ずっと電話してたのよ。」
「たまには僕も同級生なんかとの付き合いがあるさ。」
「そうよね。うん。そうだわね。」
彼女は微笑んだ。

僕は、少し苛立った。

「なんだかね。あなたがいつもこの部屋で待ってくれてると思い込んでて。だから、あなたがいないのってちょっとびっくりするくらい、寂しかったし不安だったの。」
「何言ってんだよ?」
大袈裟に溜息をついてみせる。

「いつも、きみの旦那がいないわずかな時間だけここに来て慌しく帰っていく癖に、随分わがままなんだな。」
僕は、後ろめたさを隠すためにわざと怒ったような声で。

頭の中では、昨晩のドライブが思わず楽しかったことを思い返している。

「ごめんね。」
彼女は涙ぐむ。

「いいよ。」
僕は乱暴に背を向ける。

少し、重い。洗い髪が。彼女のしずくが。

--

「ねえ。私達、気が合うと思わない?」
同級生の彼女と、僕は、授業で出た話題について軽い議論を楽しみ、それから喫茶店でワッフルを齧る。

「そうかな?」
「ええ。すごく。」
「それに、あなた・・・。」
「ん?」
「セックスが上手よ。」
耳を赤らめ身を寄せて、彼女がささやく。

「そうかな。」
僕は笑う。

「うん。自信持っていいと思うよ。」
「年上の人妻に教わったんだ。」
「ええ?」
「冗談だよ。」
「なんだか、あなたってそういうところが不思議なのよね。ぱっと見た感じ、真面目そうなのに。」

僕らは、笑う。

それから、海岸に車を止めて、窓の外で風が音を立てるのを聞きながら、暖房の効いた車内で抱き合う。

--

「そういうこと?」
恋人はささやくように、うなずいた。

「だから、もう。」
「そう。そうね。会わないほうがいいわ。」
「ごめん。」
「ねえ。今晩だけ。ここに泊まっていっていい?」
「いいけど?家は大丈夫?」
「うん。最後だし。これきり、わがまま言わないから。」

きみは、一度だってわがままを言わなかった。僕はそれが寂しかった。

彼女は、夜、髪を洗う。

僕は、彼女の肌を、名残りを惜しんで抱く。

朝、目を覚ますと、一筋の髪の毛が僕の首に絡み付いていて、彼女はいない。

それっきり、もう、彼女から連絡はない。

最初からいなかったみたいに。泡となって消えたみたいに。

--

僕は、次第に息切れするようになった。

情熱的な新しい恋人の、場所を選ばず求めてくるセックスやら、奇抜なわがまま。

そうして、失った恋人の黒髪を思い出す。

「逢いたいよ。」
僕は、つぶやいてみる。

僕は、僕のした仕打ちに身震いして、彼女を思い出す。携帯電話の番号は、無効になっていた。彼女と僕の繋がりは、随分とはかないものだったのだ。

--

夜。

新しい恋人の誘いを断って、僕は、部屋でウトウトと。

気付くと、頬に、しずくを垂らして洗い髪。

「戻って来たんだ?」
「ええ。あなた、呼んだでしょう?」
「うん。」
「聞こえたの。」
「きみは、素直過ぎる。」
「他に何もとりえがないもの。」

彼女は、僕の胸に頭を預ける。

しっとりと濡れた髪が、僕の体にまとわりつく。

「どこに行ってたの?」
僕は、彼女の髪についた海藻を取り除きながら、訊ねる。


2002年02月12日(火) 「私もよ。ここにはいられない。だけど、だからって、あなたを愛さなくなったとは思わないで。」

そのドラゴンは、ずっと一人で、その火を守っていた。

火吹き竜族として生まれて、そこで、その火を守るのだけが、彼の重要な仕事だった。生まれた時から一人で、誰に教えられたわけでもないが、ドラゴンは知っていた。自分がここでその役割を担っていなかったら、世界が冷え切って終わりを迎えてしまうと。

ずっと一人だった。

だが、ずっと一人だったので、「寂しい」ということを知らなかった。

その勇敢な姫が、その暗い地底の奥深く、ドラゴンの棲家にやって来るまでは。

--

金髪を無造作に切ったその姫は、少年のように元気いっぱいで、ドラゴンの棲家に飛び込んで来た。

「あんた、誰だい?」
ドラゴンは驚いて、問う。

「私?私は、世界を旅してるの。」
彼女は、それっきり、嬉しそうに火を眺めていた。

ドラゴンは、嬉しかった。ずっと一人っきりだったから、誰かとしゃべることがこんなに心震えることだと知らなかった。あんまり嬉しくて涙が出そうになった。おっと、涙が出ちゃ、大変だ。火が消えてしまう。そう思って、慌てて目をしばたいて涙を隠したから、きっと姫は知らなかっただろう。ドラゴンが嬉しく思っていること。

--

夜毎、姫はドラゴンに、世界のあちらこちらの話を聞かせる。

「ここにいて、楽しいかい?」
ドラゴンは、心配になった。こんな暗くて深い場所で、火を守っていることしか知らないドラゴンは、自分が恥ずかしかった。

「楽しいわよ。火を見ていると、心が落ち着くわ。見て。一回も、同じ形にならないで、刻々と形を変えて行ってるよね。」
姫の美しいグリーンの瞳に、炎が踊っていた。

姫の美しい肌は、どんなに気を付けてもドラゴンの鱗で傷が付いてしまう。

「いいのよ。構わないで。抱いて。」
姫は、情熱的に、ドラゴンに寄り添った。

その肌は、傷がついて血が噴き出しても、怖れなかった。ドラゴンの吐息が、たまに姫の髪の毛の端を焼いても、姫は笑っていた。

こうやって、このままの姿で愛されて、ドラゴンは嬉しかった。

--

丸一年が過ぎた。

「帰らなくちゃ。」
来た時と同じように元気に弾む声で、姫は言った。

ドラゴンは、驚いた。ずっとこのままの日々が続くと思っていたから。

「ここにはいられないのかい?」
「ええ。あなたと同じように、私も、自分の守るべき国があるの。それから、人々にあなたのことを伝えなくちゃ。」
「行くな。」
ドラゴンは、怒りのように熱い吐息をつきながら、言った。

「あなたがいらっしゃいよ。火の番人をやめて。世界は広くて楽しいわよ。」
「それは・・・。それはできない。」

どんなにか行きたかっただろう。

だが、それはできないのだ。

いっそ、火などなくなってしまえばいい。

と、我が身と、火を呪ってみせたけれども。

「私もよ。ここにはいられない。だけど、だからって、あなたを愛さなくなったとは思わないで。」

ドラゴンは、またしても、涙が出そうになった。だが、それはできない。と、こらえた。

姫は行ってしまった。

ドラゴンは、思い出すたび、自分が泣かなかったことを少し悔やむ。だが、泣くことすら許されないドラゴン。そんな自分を、姫は、少しでも心に留めておいてくれるだろうか。

--

何年もの月日が過ぎ、ドラゴンは、思い出と共に過ごす。繰り返す後悔と一緒に。

火が、ドラゴンを慰める。

ある日、少年がやって来た。

あの人とそっくりな金髪の。オレンジに燃える瞳はドラゴンそっくりで。

「やあ。」
ドラゴンは、なるたけ、そっけなく声を掛けた。

「やあ。」
少年は、めずらしそうにドラゴンを眺めた。

「きみの母さんを知っているよ。」
少年が怖がってないか心配しながら。

「分かるよ。母さんが言ってたドラゴンそのものだ。すごいよ。」
少年は、怖がりなどしなかった。

興奮して、目をキラキラさせて。そんなところも、姫そっくりで。

「おいで。」
ドラゴンは、自分の爪が傷付けないように、そっと少年の頬を撫でた。

それから、二人で寄り添って座り、火を眺めて語り合った。
「あの人の話を聞かせてくれるかい?」
「母さんは、お城でみんなを集めて、歌を歌っているよ。旅した場所の歌。」
「今でも、勇敢かい?」
「うん。すごく。みんな、勇気付けられる。」

ドラゴンは、少し迷って、それから訊ねた。
「私のこと、何か言っていたかい?」
「うん。毎日のように。あなたのこと、言わなかった日はないよ。」

ドラゴンは、また、涙が出そうになった。

「母さんは、言ってたよ。やさしい心で、火を守り、出会った者を愛してくれるって。とっても涙もろいのが玉にきずだけど、って。」

ドラゴンは、嬉しくて大笑いした。

あんまり笑ったので、大地が揺れた。


2002年02月11日(月) 彼は、私に抱きついて、意地悪な猫のように私の耳たぶを噛んでくる。私は、そんな風に愛されたのは初めてだったから。

生まれて此の方、友達などいたためしがなかった。

私が身にまとった気味の悪い雰囲気は、幼い頃から両親や姉妹を遠ざけていたから。

もう、慣れっこになっていた。

私は、醜い。黒くゴワゴワとした髪の毛は目のほうにまで垂れ下がり、普通の女の子のように微笑もうとすると頬がこわばってしまう。

--

私は、他人が見えないものを見ることができた。暗闇に潜む者達の姿を見、声を聞くことができた。随分と幼い頃は、そんなことを無邪気に両親にしゃべっていたのだと思う。両親は、それを「感受性が豊か」という言葉で片付けて嫌った。

「まったく、感じ易い子ってのは嫌だねえ。ただの暗闇さえ、化け物の棲家にしちまうんだから。」
そう、母が、誰かに電話で言っていたのを聞いたことがある。その声は、確かに怖がっていた。

私が見えるものを、見えると言わないほうがいい、というのは、その時学んだこと。

そうして、私には、もう一つ能力がある。

私自身が、無意識にその忌まわしさを感じ、封じ込めようとしている能力。

それは、人の心を操る。

ただ、少し「押す」ことができるだけだが。目をつぶり、相手の胸にそっと手を差しこむところをイメージする。それから、少し、「押す」。私が望むほうへ。

ほんの少しだけだよ。

以前は、時折、そうやって誰かの心を「押し」ていた。些細なことだ。私を突き飛ばして知らん顔した子の足を、ブランコから踏み外させたり。

だけど、怖いことだ。

私は、すぐに悟った。そうして、何より怖かったのは、その能力で愛を得ようとするかもしれないことだった。怖かった。そんなことをしたら、何よりも、誰よりもみじめになる。そう思って、私は、悲しい能力を自ら葬り去ろうとした。

彼に会うまでは。

--

私が、そこいらにいる、他人には見えない生息物の声を書き留めた、そのノートを紛失したことに気付いたのは、放課後になってからだった。

どうしよう。

私は、焦った。

クラスメートに見つかれば、ただの、寂しい人間が書いた空想として、笑い飛ばされるだけのことだと分かっていても。それは、いわば、私の友達だった。時折、私に話しかけてくるクリーチャー達のささやき。それらの言葉達は、寂しい私の宝物だった。

私は、机の中やら、音楽室、更衣室などを探し回った。

「ねえ。探してるの、これ?」
背後から声が掛かる。

私は、驚いて振り向いた。

そこに、クラスの女の子達にもてはやされている美貌の少年の姿があった。手に、赤いノートを持って。実のところ、私は彼が好きではなかった。彼を取り巻くどす黒い空気のようなものが私を疲れさせるから。

「ええ。ありがとう。」
「少し読ませてもらったんだけど。良かった?」
「読んだのなら、しょうがないわね。」
「驚いたよ。」
「え?」
「これ、全部本当のことだろう?」
「何言ってるの?」
「分かるよ。きみには、アレが見えるんだ。」

彼は、私の顔をじっと見た。私は、顔が赤らんだ。誰かに見られるのにも慣れていなかったし、私の奇妙な癖をからかわれると思ったから。

「素晴らしいよね。」
「お願い。誰にも言わないで。」
「もちろんさ。誰にも言わない。」

彼は、私を安心させるように微笑んだ。彼の周辺の空気は、相変わらず邪悪なものだったが、少なくとも、彼は今、私に対して真面目に話し掛けているのが分かった。

--

その日から、彼は、私と行動を共にすることが増えた。

クラスメートが噂している。

私は、居心地が悪かったが、同時に誇らしくもあった。彼のアドバイスに従って、髪の毛をすっきりとカットし、眉を整え、薄く化粧もするようになった。

私は、もう知っているのだ。彼の正体を。

「手に入れたいんでしょう?」
私は、訊ねたことがある。

「ああ。」
「私の能力、ね。」
「そうだよ。だけど、何よりも強い、きみの力が好きなんだよ。」
彼は、私に抱きついて、意地悪な猫のように私の耳たぶを噛んでくる。

私は、そんな風に愛されたのは初めてだったから。

--

問題は、早くに起こった。

私が授業をさぼるようになったため、私の両親が彼との付き合いを禁じ、それは教師を巻き込んでの騒動に発展した。

私は、自宅に閉じ込められ、その間、気が狂ったように彼を想った。

「どうすれば?」

私が指を差し出すと、クリーチャー達がその指にぶらさがってくる。脳みそのない、可哀想な子達。私は、それを指でひねり潰し、そのどす黒い血を唇に持って行く。

私は、決意したのだ。

--

夜中、彼を呼び出し、彼は、私の外から、窓を伝って私の部屋に忍び込む。

「会いたかったよ。」
その、瞳はキラキラと、狂気に輝いて。

「私を、あなたに捧げるわ。」

彼は、黙ってうなずく。

私は、目を閉じて、私自身の姿を思い描く。

彼への愛の力を借りて。

そのほとばしる力は、あまりにも強大で。

そう。私は、誰からも愛されなかった。愛されたかった。

だから、私は、私の愛に、この身を捧げよう。

聖なる剣を手にするのは、決して純真無垢な勇者ばかりではない。暗闇に棲む魔物でもいいのだ。剣は、剣が選んだ者の手に納まる。

--

私は、小さな鍵になった。

人の心のドアを開く。美しくて、悲しい。時折、チリンと音を立てる。私の持ち主は、人の涙を、怒りを、憎しみを、手にするのが大好きだから。

私は、そのたびに、悲しい音をチリンと立てる。

私の持ち主は、とうとう気付かなかった。その美貌があれば、鍵など使わなくても人の心など容易く操れることに。

チリン、チリン。

血に染まった手が、私を誰かの胸にそっと差し込むたびに。


2002年02月10日(日) 私は、青年の部屋に行き、一緒にビデオを見て、柔らかなセックスをし、部屋を出る間際まで笑い合っていた。簡単だったね。

湿度の高い恋だった。

私はいつもメソメソしていて、彼は、その憂鬱に眉をしかめ、私を遠ざけようとする。

「だから、なんでそんなにいつも泣くんだよ?俺、なんか悪いことした?」
男が少し苛立って、声を荒げる。

私は、黙って首を振る。
「わかんない。」

出会った頃はもうっちょっと、私もあなたも、そして恋も陽気だった。

「ああ。もう、分かった分かった。」
男は、不貞腐れたように、私の服を脱がせにかかる。

「違うよ。そういうんじゃなくて。」
「じゃ、どういうんだよ。」

男は、もう、忙しい手つきで雑に私の服を脱がせてしまうと、私の顔を素通りして、乳房に唇を付ける。

ねえ。そういうのじゃないよ。

私は、言いたい言葉が伝わらないのが悲しいくせに、男に抱かれるのが嬉しくて、言おうとした言葉は封じられたまま。

夜中、あちこちに散らばった服を拾い集め、急いで着る。

「帰るね。」
と、男の軽いイビキに向かって声を掛けると、私は、自分の軽自動車のひんやりとしたシートに腰をおろし、しばらく震えの止まらない体を抱き締める。明日が日曜日なのに、泊まって行くことはできない。男が決めたルールだった。

「いつも一緒にいたら、俺ら、自分自分のやることが見えなくなるだろう?」

--

朝、アパートの小さな部屋がエアコンで暖まるのを待って、ベッドでウトウトする。空のグラスがベッドの傍に転がっている。

頬に何か湿ったものが当たるのを感じて、そっと目を開ける。
「なあに?」
「僕だよ。」
「僕?」

目を開けると、そこにはバクがいた。本物のバクなんて初めて見たけれど、私はすぐに、「ああ、バクなんだな。」って分かった。だけど、バクって、白と黒のニ色がポピュラーなんじゃなかったっけ?そのバクは、白に、ピンクの水玉が付いていた。

それから、私は、少し顔をしかめる。
「何なの、この匂い。」
「僕の匂い。嫌い?」
「なんか、強烈ね。」

そう。強烈な、ヴァニラの匂い。むせるほどに甘ったるい香りが部屋に充満している。

「なんだか窒息しそうね。で、何しに来たの?」
「僕、ね。恋を食べるバクなんだよ。」
「恋?」
「きみ、昨日、僕を呼んだでしょう?こんなしんどい恋、誰かに食べてもらいたいわって。」
「覚えてない・・・。」
「ひどいなあ。僕、せっせとやって来たんだよ。」
「ごめんね。」

それから、その悲しげなバクの顔を見つめる。

「ねえ。たくさんの恋を食べたの?」
「うん。あっちこっちで、僕を呼ぶんだよ。」
「そう。みんな辛いのかな。」
「そうみたいだね。僕自身は恋をしたことがないから分からないけれどもさ。だから僕、いい事してると思ってるんだ。」
「それなのに、ちょっと悲しそうね。」
「うん。どうしてだろう?」
「どうしてかな。恋ってそんなものなのよ。わけもなく悲しいものなの。」
「僕、食べてあげるよ。きみのそんな悲しい顔、見たくないもの。」
「そうね。お願いしようかしら。」

私は、本当に悲しくて、自分の恋心にうんざりしていたのだと思う。丸々二年、そんなものに足を取られて来たから。

「次に目が覚めた時には、きみの恋はなくなってると思う。」

バクの声がする。

私は、夢のない眠りに落ちる。

--

目が覚めると、もう、休日は終わりかけていて、私はバクのことなど忘れていた。

私は、いつものように彼に電話しようとして、ふと、面倒になって受話器を置いた。携帯のメールさえチェックしなかった。

夜のビデオショップは、驚くほど人がたくさんいて、私は、あるDVDに目を留めた。その時、見知らぬ背の高い青年が、私の背後からそれをヒョイと手に取ってしまった。

「ちょっと、待ってよ。」
「あ、ごめん。」
青年が微笑んだ。

私達は、笑い合った。

それは、簡単だった。

私は、青年の部屋に行き、一緒にDVDを見て、柔らかなセックスをし、部屋を出る間際まで笑い合っていた。

簡単だったね。

--

私は、あまり電話を確認しなくなった。恋人の好まない服を着るようになった。爪に色を塗るのが面倒になった。残業することで誰かとの約束を破るのが苦痛でなくなった。

私は、陽気になった。

--

バクがやって来た。
「ねえ。楽しそうだね。」
「あなた、誰だっけ?」
「僕のこと忘れちゃったんだ?」
「ええ。ごめんなさい。確かに見覚えはあるんだけど。」
「僕は、恋を食べるバクだよ。」
「ああ。そうだったかしら?」
「最近、また、一人恋を食べて欲しい男に出会ったよ。」
「ふうん。」
「きみをよく知ってる人の恋だと思うんだけど?」
「私には関係ないよ。」
「そう?なら、僕食べちゃうよ。」

簡単なんだ。

パクッと一口で。

「その人、日曜日はいつも歌を作ってたよ。」
「どんな?」
「会えない恋人のために、歌う歌。」
「そう。」

私は、なぜだか、泣いていた。

ねえ。バク。あなた、何か私から取り上げたでしょう。それ、返してくれる?

「駄目だよ。もう、食べちゃった。」

いいから。

私は、手を伸ばす。

バクの体を掴もうとすると、それはホイップクリームの柔らかさ。

ストロベリーケーキは、甘い香りを放っていた。

私は、手についたクリームを舐める。

苺は、少し目の奥が痛くなりそうに酸っぱかった。

--

「久しぶり。」
私は、その部屋を訪れて、なつかしい空気を吸い込む。

「ああ。どこ行ってたんだよ。馬鹿。」
「ひどい出迎え方ね。」
「黙って行くなんて、なあ。」

恋人の顔は、どことなく変わって見えた。

「ねえ。なんか違うよ。」
「少し痩せたかな。」
「ふうん。ちょうどいいダイエットになったんだね。」
「ああ。そうだな。」
「歌、聞かせてよ。」
「なんで知ってる?」
「教えてもらったのよ。」
「そうか。」

誰から聞いた、とは問わないで、男はギターを取り上げる。

誰もがそんな風に愛せるわけではないし、誰もがそんな風に愛されるわけでもない。

照れたように、そんな恋の歌を歌い始める。


2002年02月08日(金) どこからか、筋書きが狂って来たのを感じながら。こんなに簡単に、男の情熱が見つかるとは思わなかった。

最初は、ほんの気まぐれのように思っていた。

私は、人生における「情熱」というものの消滅の過程を知りたかったのだ。

そんなことを思ったのも、父のせいかもしれない。

母は、人生に不満を抱き、おとなしい父に不満ばかり言っていた。父は、そんな母の言うことを黙って聞き、いいなりになっていた。母は、自分のいいなりになる父にますます腹を立て、ある時期は、カラオケだの旅行だのに明け暮れ、挙句、恋人を作って家を出て行ってしまった。

父は、ぼんやりとキッチンに座り、母の残した手紙を手にしていたが、その後は何事もなかったように、毎日仕事に行き、時間通りに帰って来ていた。私も、そんな父の手前、何事もなかったように大学に通い、帰宅したら夕飯を作る。そんな日々が続いた。

母に以前聞いたことがある。

父と母が出会った頃のことを。

「あの時、あんたのお父さんは、そりゃもうすごかったの。電話くれだの、ご飯食べに行こうだのって、一日と空けず私を誘ってくれたものよ。」
母は誇らしそうな顔でそう私に言うと、それから今の父に目をやり、ふと寂しそうな顔をするのだった。

母の言いたいことはよく分かる。

私だって、情熱的な恋の行く末に、あんな男が待っていたらうんざりするだろう。

母は、実際にうんざりして、そうして行ってしまった。

--

私は、母がいなくなった後、父に何度か聞こうとしたことがある。
「一体、あなたの情熱はどこに行ってしまったの?」

だが、どうしても聞くことができなかった。思春期を境に、私は常に母の側についていたために、父と対話する習慣を失ってしまっていたのだ。

--

その気まぐれが起こったのは、大学の長期休暇を利用してアルバイトに行った先で出会った男のせいだった。

私は、一瞬、ドキリとした。

後ろ姿が父にそっくりだったのだ。

主任と呼ばれ、さえないポジションにいるその男は、唯一人のアルバイトである私の面倒を見ることになっていた。

まだ、父よりはるかに若いのだが、その少し薄くなった頭髪も、ボソボソとした聞き取りにくいしゃべり方も、父にそっくりだった。どこからともなく聞こえて来た離婚の噂も、まさに父と同じ境遇を思わせた。

だから私は、急に残酷な気持ちになった。

その男の「情熱」が、どこかにあることを確かめたいと思ったのだ。

かつては、妻に結婚を申し込み、子供を愛した、その男に、情熱の残り火のようなものを見つけたかった。

それは、自分の父に対する憤りのようなものが理由だったのかもしれない。

--

社で、私の歓迎会が催された時も、彼は少し離れたところで黙って一人グラスを傾けていた。

「あれで、奥さんが出て行く前は、結構みんなと一緒に遊んでたんだけどなあ。」
社員の一人が言う。

私は、宴会も終盤を迎えた頃、そっと耳打ちした。
「この後、お時間取れませんか?」

彼は、不思議そうな顔で私を見た。

「仕事のことで相談があるんです。」
という私の言葉に、納得したようにうなずいた。

--

「話って?」
「すみません。呼び出して。特にどうというのはないんです。ただ、主任って、あんまりしゃべったりしないから、どんな方かなっと思って。」
「別に。普通の男だよ。見ての通りだ。」

それから相変わらず黙って酒を飲み続ける男に、私は苛立った。

黙ってしばらくそうしていて。

それから、ふと気付く。

彼がグラスを口に運ぶ時の、せきたてられたように急ぐ、手つきに。

「少し飲み過ぎじゃないです?」
「説教か。」
「だって、明日も仕事ですよ。」
「いいんだよ。誰も私のことを心配してくれる者がいるわけじゃない。」

その時、見た。

男の赤くなった目のふちから、悲しみがこぼれ落ちそうだった。

「私が困ります。」
私は、男の手からグラスを取り上げると、立ちあがった。

男の目が、私の目を捕えた。

--

そうやって、私は寂しい男に抱かれた。

どこからか、筋書きが狂って来たのを感じながら。こんなに簡単に、男の情熱が見つかるとは思わなかった。男の歯が、私の乳房を優しく噛む。懇願するように、私の体をきつく抱き締める。

男の愛撫は激しく、悲しみを叩きつけてくるように思えた。

私は、男の寂しさに胸打たれ、それから私自身の寂しい家庭を思った。

私達、似ている。

それは、同情なんだ、と思おうとした。彼への。自身への。

--

翌日から、彼は見違えるように精力的に仕事をこなす男になった。それは、私のせいであることを、私だけが知っていた。だが次第に、周囲も気付き始め、いろいろな噂が流れるようになった。

私は、いたたまれなくなって、アルバイトを辞めると申し出た。

男は、「そうか。」と一言いい、それから、「夜、うちに来いよ。」とだけ。

--

「私から去るのか。」
私に向かって言う、その顔は、怒りをたたえていた。

「ええ。」
「それでいいのか。私をこんなにしておいて。」
「こんなにって。」

あなたのほうがずっと年上だし、それに私を好きに抱いていたじゃないの。

「行かさないぞ。」
彼は、すでに随分と酔っていた。

それから、私の体を押し倒すと、その分厚い手の平が私の首に掛けられた。

その時、出会った頃の彼からは想像がつかないほど、彼のくたびれた表情の下にはさまざまな感情が身を潜めていたことを知る。

情熱は、月日と共に消え去ってしまうのではない。

情熱は、普段はなりを潜めていて、そうして、ある日流れこむ対象を得て激しく燃え盛るのだ。

ぼんやりとした頭で、なぜか彼の手を気持ちいいと思った。

そうして、私も、同情と呼ぶにはもっと情熱的な感情を隠し持っていたのだと気付く。


2002年02月07日(木) どうして、一人より二人が寂しいのか、僕には分かる。世界中で同じ言葉をささやけるのは、きみと僕だけ。

僕は、世界でただ一匹の特別な猟犬だ。

そう自負するにも理由がある。

僕は、世界でただ一匹、人間の言葉をしゃべることができる猟犬なのだ。世界広しと言えども、僕以外に人間の言葉をしゃべることができる犬がいるという噂は、一度も聞いたことがない。

とは言え、僕は、この事実を誰にも内緒にしている。猟犬仲間に言おうものなら、馬鹿にされ、仲間はずれにされるだろう。僕が、テレビに出て飼い主を儲けさせるのが望みなら、あるいは飼い主に打ち明けていただろうが、僕は猟犬であることが好きだった。鼻に意識を集中させ、風を切って走るのが大好きだった。だから、僕は誰にもそのことを黙っていた。実は、僕の母も人間の言葉をしゃべることができる犬だ。代々、その特技を隠し持つ家系なのだ。母とは早いうちに引き離されたが、特技は誰にも内緒にしておくのよ、と、厳しく言い渡されて育てられたのだ。

僕は、時折、ひとりきりの時こっそり、人間の言葉をつぶやいてみる。

それで満足だった。

僕は、世界で一匹だけのバイリンガルの犬だ。

--

ある日、僕は、飼い主と狩猟に出掛けた。久しぶりにいい天気だったので、風に乗る匂いもよく嗅ぎ分けることができる。狩猟日よりだった。

僕は、一匹のウサギを追い掛けていた。

真っ白なそのウサギは、しなやかに足を蹴って逃げ回ったが、僕はとうとう追い詰めた。

木の切り株に背中を押しつけて、ウサギは震えた。

「お願い。やめて。」
その時、僕は、ハッとしてウサギを見た。

「きみ、人間の言葉をしゃべることができるの?」
僕の声は、思わず弾んでいたに違いない。

ウサギは、驚いてしばらく僕の顔をじっと見ると、ゆっくりとうなずいた。
「そうよ。人間の言葉をしゃべることができるわ。」
「驚いた。僕もだよ。」

ウサギは、僕の表情を長め、それから、僕にウサギを殺す意思がないのを見てとると、にっこりと笑った。
「私も驚いたわ。私以外に人間の言葉をしゃべることができる動物がいるなんて、ねえ。それも、猟犬だなんて。」
「猟犬だなんて、なんてひどいなあ。ねえ。どうして、人間の言葉を覚えたの?」
「父さんが人間だったからよ。」
「父さん?」
「猟で殺された親の代わりに、私を育ててくれたの。父さんにも子供がいなかったから、本当に可愛がってくれて。辛抱強く人間の言葉を教えてくれた。私も素養があったのね。人間の言葉をしゃべることができるようになったのよ。」

僕は、彼女が猟犬を嫌う理由が分かった。もっとも、こうやって、追い詰める猟犬を好きなウサギもいないだろうが。そう思うと、僕は少し悲しい気分になった。

「もう行くわ。」
ウサギは、僕からあとずさった。

「行っちゃうの?」
「逃がしてくれるんでしょう?」
「もっとしゃべっていたい。」
「何言ってるの?私はウサギで、あなたは、ウサギ狩りに来た犬でしょう?勘弁してちょうだいよ。」

ウサギは、さっさと跳ねて行ってしまった。

僕は、夢のように嬉しいような、とても悲しいような気分でそこに立ち尽していた。

僕を呼ぶ、笛の音がする。

--

こういうのを人間の言葉でどう呼ぶか知っているよ。「恋わずらい」と言うのだ。

僕は、ため息ばかりつき、仲間ともふざけたりせず、憂鬱な顔で小屋に閉じこもっている。

どうして、一人より二人が寂しいのか、僕には分かる。

世界中で同じ言葉をささやけるのは、きみと僕だけ。けれども、きみは僕に愛の言葉を言ってくれない。それが、こんなに悲しいとは。寂しいとは。

僕は、所詮、鎖で繋がれた猟犬。

--

飼い主が、あんまり塞ぎ込んでいる僕を心配して、猟に連れ出してくれた。

僕は、飼い主の目を盗んで、あのウサギと出会った切り株がある場所へ行ってみる。

もちろん、彼女はいない。

僕はがっかりして、たたずむ。

突然、風下から、くすくすと小さな笑い声が聞こえる。

僕は振り向く。

ウサギが笑っている。

「追い掛けていらっしゃいよ。」

僕は、ワオワオと、思わず犬みたいな鳴き声で歓声を上げる。

僕は、追う。追う。彼女は、逃げる、逃げる。

恋の遊び。切ない遊び。

--

ある日、僕が狩猟に出なかった日。

他の犬を連れて猟に出た飼い主が機嫌良く帰って来て、ドサリと放り出した。そのウサギを見て僕は息を飲む。

あの娘だ。

なんてことだ。

僕は、人間の言葉で悲しむ。

どうして、そんな?きみは賢くて、すばしっこくて、犬なんかには捕まりっこないはずなのに。

もしかして、彼女は他の犬と僕とを間違えたのかもしれない。他の猟犬を僕だと思って、不用意に走り出したのかもしれない。

そんなことを思って、胸が潰れそうになる。

--

今日は、雨。誰も小屋から出ようとしない。

世界中で同じ言葉をささやける僕らが一人残された時、どうして悲しいか、よく分かる。もう、新しい言葉は二度と手に入らない。手元に残された言葉を反芻することしかできない。

--

犬が、どうして、深い闇に向かって遠吠えをするのかって。

それは、犬が、人間のように涙を流す能力を与えられなかったからだ。

あるいは、闇から、誰かが返事を返してくれるのを待っている。


2002年02月06日(水) ショートカットで華奢な体つきに似合わず、彼女は服の下に柔らかく弾む乳房と情熱的な心を隠し持っている。

ショートカットで華奢な体つきに似合わず、彼女は服の下に柔らかく弾む乳房と情熱的な心を隠し持っている。

彼女を抱くと、分かる。彼女は、そうやって行きずりのセックスでもしていなければ、自分の情熱に飲みこまれ溺れてしまうのだろう。

思いがけず激しくて切ない喘ぎ声に、僕は驚いた。

「私を抱いてくれる?」
と、震える睫毛で訊ねて来た時には、それに気付いていなかった。

「いいよ。」
と、僕は、他の女の子達を抱くように無造作に彼女を抱いた。

「ありがとう。」
と、彼女は僕の目を見ずに、答えた。

--

「何で、僕と寝たいの?」
「勘違いしないでね。誰でもいいの。私を愛さない人なら。」
「愛は嫌い?」
「大好きよ。大好き。」
「じゃ、なんで?」
「好きな人がいるの。でも、彼と一緒にいられない間、私は私の心を誤魔化すために、誰かと寝るの。」
「で、僕?」
「かまわない?」
「かまわないよ。愛がないのも、それなりに得意だ。」

そんな会話で始まったから、もっと冷たいセックスが待ち受けているのかと思った。彼女の、染められていない漆黒の髪のように拒絶してたたずむセックスが。

だが、予想を裏切るその情熱に、僕は驚く。

「すごいんだな。」
「やめてよ、その言い方。」
「誉めてるんだ。」
「しょうがないのよ。こうでもしてないと、私、彼のストーカーになっちゃいそうなの。」

彼女の目は相変わらず僕を見ないまま、彼女の舌が僕を捉える。僕が思わず声を上げたところで、彼女は聞いてやしないだろう。そう思うと、なぜか急に気が楽になり、僕は彼女の愛撫に身を任せる。他の女の子達を抱く時よりも、ずっとリラックスできる。彼女は、他の愛を想い描きつつ、彼女の海に僕を飲み込む。

--

僕は、彼女が恋人と会えない週末は、いつも彼女の部屋へ行くようになった。

「あの人、奥さんがいるのよ。」
「ふうん。」
「最近、妊娠したんですって。あの人、嘘吐きなの。」
「それでもきみは彼を好きなの?」
「ええ。」
ため息のように、答える。

「狭い一本橋で、向こうから彼の奥さんが来てて、こっちから私が歩いて行ってるの。避けたほうが落ちるのよ。避けなければ、彼の愛が手に入るの。」
「そんな嘘吐きの男なんか、放っておけばいいのに。」
「本当にね。どうして放っておけないのかしら。つまらない男なのに。」

彼女の部屋の窓に、雨の水滴がつき始める。彼女が流せない涙を、空が代わって流しているように。

「私ね。」
彼女は、規則正しい雨音で眠たくなった僕の耳に、ささやくように言う。

「勇気がないの。」
「勇気?」
「ええ。自分の気持ちを自分だけで抱き締めておく勇気。」
「僕だって、勇気なんかないさ。」
「ごめんね。」

謝らなくていいよ。

僕は、眠りに落ちた。

--

目を覚ますと雨はあがっていて彼女は眠っていた。肩に毛布を掛けると、僕は部屋を出た。

--

僕は、男をホテルのロビーに呼び出して、話をしている。

「で。僕はどうすればよかったのかな。」
男は、大人のしぐさで、煙草を吸う。

「もう少し、余計に彼女の愛を知ってやるべきだったと思いますよ。」
「彼女の愛?」
「気付きませんでした?」
「ああ。気付かなかったな。そんなこと、言わなかったから。」
「僕には随分と言ってましたよ。」
「だが、もう遅いだろう。彼女は、いなくなってしまった。手紙も残さずに薬を飲んで。」
「奥さんが妊娠したことに絶望したんじゃないんでしょうか。」
「妻が?」
「ええ。あなたのこと、嘘吐きだって言ってました。」
「妻は、妊娠などしてないよ。」
「え?」
男は、静かに煙草の煙を吐き出す。

「そもそも彼女は、僕のことなんか愛してなかったんだよ。」
「嘘です。彼女はあなたを・・・。」
「誰でもいいんだって言ってた。誰か好きな男がいて、その男への気持ちが処理しきれないから、他の男とも寝るんだって。」

どういうことだろう?彼女の愛していた男は、誰?週末毎に彼女と僕は寝ていた。他に男がいるとも思えない。

僕は、無意識に立ち上がり、フラフラとホテルの入り口に向かって歩く。

男の声が背後からする。
「彼女の恋は、我々がどうにもできるものじゃなかった。放っておくしかなかったんだろう。」

僕は、立ち止まる。
「でも、彼女は出口を求めて、苦しんでいた。」
「それより、きみ自身の恋をどうにかするほうが先だったと思うがね。」

僕は、振り返るわけにはいかなかった。多分、目が赤くなっているから。

誰かの恋より不可解なのは、僕自身の恋。


2002年02月05日(火) 私は、誰かに安心させてもらうことで埋めなければいけない穴がずいぶんと深いことを知る。

飛び降り自殺をする時、気をつけなければいけないこと。

それは、誰かを巻き込まないように、人気のない場所を選ぶこと。

本当に充分に気をつけた筈だったのに。

私は、もう、生きていても仕方がなかった。自分の絶望に気を取られ、フラフラとその手すりを乗り越えた時に、下を充分確かめていたかと言えば、その自信はない。

--

強い衝撃の後、私は、気を失っていたようだ。

目を開けると、少年が私を覗き込んでいた。

「あら・・・?」
私は、一瞬どこにいるか分からずに、少年を見つめる。

「うん。今度から、気をつけてね。」
「あなたに迷惑を掛けてしまった?」
「僕は、大丈夫。丈夫にできているんだよ。それより、きみは?」
「大丈夫みたい。本当にごめんなさい。」

華奢な白い肌のその少年が、私を受けとめてくれたことは分かるけれど、でも、どうやって?だが、私は疲れ切っていて、少年に部屋の場所を告げ、何とか連れ帰ってもらうと、そのまま眠り込んでしまった。

--

目を覚ますと、部屋ではお湯が沸いていて、少年がスープを作ってくれていた。

「冷蔵庫の中、何にもなかったでしょう?」
「少し、野菜なんかを分けてもらって来たから。きみは寝ていて。」
「ごめんなさいね。」
「どうして謝るの?大丈夫だよ。」

私は、その一言に、急に涙が溢れる。

なぜって、自分の貧しい部屋が恥ずかしかったから。それから、誰かに優しくしてもらうのは本当に久しぶりだったから。

--

「ねえ。あなた幾つ?」
温かいスープでようやく一息ついて、涙もおさまって、落ち着いてしゃべることができるようになったのは、随分経ってからだった。

「僕?さあ。分からない。」
「すごく若いわよね。私より。」
「それはどうかな?」
「あなたもスープ、飲まない?すごくおいしくできてるわ。」
「僕は、人間の食べ物は食べないんだ。」
「って、あなた、人間じゃないの?じゃあ、なに?」
「僕?僕は。そうだなあ。ヴァンパイアみたいなものかな。」
「みたいな?」
「うん。僕は、自分が誰か分からない。でも、きみ達とは少し違う。そうして、きみ達は、僕みたいな者のことを、ヴァンパイアとか、そんな名前で呼ぶんだよ。物心ついた時から、僕は、ずっとこの少年の体のまま、歳をとらない。この体で、何百年も生きて来たんだ。」

私は、少し混乱して、スープの残りを黙って飲む。

「ねえ。僕が人間じゃないと知ったら、きみは僕を追い出す?」
少年の瞳が、悲しそうに私を見た。

私は首を横に振った。
「あなたよりずっと恐ろしい人を知ってるわ。彼に比べたら、あなたは怖くない。」
「ありがとう。」

少年は、ホッとしたように目を閉じて微笑む。その顔は、随分と疲れているようだった。

「あなたも疲れているのね?」
「うん。」
「ここに来て、一緒に眠る?」
「ありがとう。」

私達は、姉弟のように寄り添って眠った。間近で見ると、私よりずっと年上であろうこのヴァンパイアのシワ一つない肌が悲しそうで、私は、少し胸が詰まりそうになる。

--

私は、何度も怖い夢を見た。

ここを出て行った男が、私を殴る夢。人から見えない場所をわざと選んで、殴る。

男が私の体に、残酷な印を付ける夢。

殴られても、髪の毛を引っ張られても、私は、男にすがり付いて行く。他にどこにも行く場所がない。

だが、男は出て行き。

そこで悲鳴。

暗闇が口を開けて待っている。

少年が、落ちて行く私の手を掴む。

--

「怖かったの?」
少年は、私の髪を撫でた。

「ええ。夢で良かった。」
「夢だよ。本当じゃない。怖くないよ。」
私は、誰かに安心させてもらうことで埋めなければいけない穴がずいぶんと深いことを知る。

そうやって、日々は過ぎ、私達は幸せだった。

時折、少年は、「食事に行く。」と言って出て行くのだが、その姿を見られるのが嫌だと言って、出て行く時はいつも一人だった。

--

ある夜。

少年が、いつものように食事に出て行った直後。

バタン。

と、ドアの音。

「誰?あなた?」
私が振りかえると、そこには、あの恐ろしい男が立っていた。

私は息ができなくなるほど驚いて、そこに座り込んでしまった。

「誰なんだ?あいつは。あの子供は?」
男は恐ろしい目で私をにらむ。

「戻って来たの?」
「ああ。ここは俺の家だ。いつだって戻ってくるさ。お前が、俺のいない場所でぬくぬくと眠っているのは、我慢ならない。」

男の手が私の肩を掴む。頬に熱い衝撃を感じ、強い力で抑えこまれて身動きができなくなる。

その時、少年が戻って来て。

「来ないで。」
私は、少年が殺されてしまうと思った。

「その手を離せよ。」
少年は、恐ろしい男に向かって行く。

その時、見てしまった。少年の美しい絹のような髪の毛が光の風をはらんみ、その目が男を見つめた瞬間、男の体から白っぽい固まりが少年の口に吸いこまれて行くのを。

その直後、男の体は床に崩れ落ち、みるみる崩れてその肉体は灰になった。

私は、口を開くことができないくらい怯えて、そこに立ち尽していた。

「大丈夫かい?」

私はうなずくことしかできない。

「見られてしまったね。」
少年は微笑む。

「僕は、もうここにいられない。出て行くよ。」

行かないで。

私の声は、声にならない。

「行かなくちゃいけないんだ。きみは、僕を怖がっている。僕がいけなかったんだ。一人が寂しくて。誰かのそばにいたくて、きみの寂しさに惹かれて。ずるずるるとここに居ついた。だけど、もう行かなくちゃ。」
「いやよ。」

私は、泣く。

「ねえ。僕は、どうして生きているんだろう、って思ってたよ。僕みたいな存在が、この世界で、本当に存在する意味があるんだろうか、ってね。」
彼は、出て行く。

私は、追っても意味がないことを知っている。

彼は、いつだって、風のように早く移動できるのだ。

--

私だって、いつもここに生きている意味を考えていたわ。

恐ろしい力で閉じ込められるのではなく、誰かと触れ合って喜びを感じること。それで、私がここにいていいんだって初めて感じることができたのよ。

そう言ってあげれば良かった。あの、少年の最後の悲しそうな瞳を思い出すと、そんな風にいつも思う。

大事な答えが分かる時には、いつも手遅れで。

けれども、今度会えた時にでも。


2002年02月04日(月) 私達が服を脱いで派手な音を立て始めると、クリームは、やれやれ、という顔で部屋を出て行く。

「おかえり。そろそろ、行くよ。」
私は、友達に別れの挨拶を終えて戻って来た、真っ白なフワフワ猫のクリームを追い立てて、荷物を片手にその街を後にする。

「ごめんね。今度はもう少しゆっくりできると思ったんだけどねえ。」
凍ったアスファルトの上を後ろからついて来るヒタヒタという足音に向かって、謝る。

クリームは、どうせそんなこと慣れてるよ、というように、知らん顔な表情なんだろう。

もう、それは私の癖なのだ。一つの恋愛が終わったから、次の街に行くのか。次の街に行きたくなるから、恋愛を終わらせてしまうのか。街から街へと移動するのが私の趣味だった。

生まれ育った街を離れて、もう何年が経っただろうか。

私は、移動し続けるのが好きだった。そうしていれば、退屈せずに済むし、つまらない慣習や人間関係に縛られずに、自分が変わっていくのを感じることができたから。

--

その街は、狭くて、雑多で、素敵な街だった。

私は、DJをやっているという男の子と知り合い、彼の部屋に転がり込む。

彼は、生まれてから一度も、その街を出たことがないという。

「いろんな街に行ったことがあるなんて、うらやましいな。どうだった?」
「そうねえ。面白かったわ。」
「僕、ここしか知らないんだよね。」
「いつか、よそへ行ってみたらいいわ。」
「うん。そうしよう。」
なんてことを言い合いながら。

私達が服を脱いで派手な音を立て始めると、クリームは、やれやれ、という顔で部屋を出て行く。

--

彼は、映画を撮りたいと言う。

「なんで?」
「頭の中に浮かんでくるものを、みんなに見せてやりたいんだ。」
「それって、素敵なことなの?」
「うん。すごく。でもね。僕の頭には、一瞬にしていろんなことを浮かんでくる。だけど、説明するのが追いつかない。言葉だけじゃ足らないんだ。だから、映画にして見せることができたら、どんなに幸せかな、って思う。」
彼は、楽しそうだ。

彼の瞳には、きっと、いろんな美しい男女やら私が見たこともない光景なんかがが映っている。

突然、私は、それに嫉妬してしまう。

彼は、今、まだ、何者にもなれていないかもしれないけれど、それでも、彼が今見て、憧れている美しい世界が、私以外のものであることに嫉妬してしまう。

「あれ?どうして泣いてんの?」
彼は不思議そうに訊ねる。

「うん。どうしてかな。なんだか、嫉妬。あなたの見てるものに。」
「変なの。きみみたいに、いろんなものを見て来た人が、僕の見てるものに嫉妬するなんて、さ。」

そうかな。

ねえ。私は、あなたの体に恋をしてるのかな。心に恋をしてるのかな。

そんなことを考えるのが、恋ならば、なんて楽しく、切ない。

--

彼は、最近、白ギツネのハーフコートに、網タイツ、ピカピカのブーツを履いた女の子と、よく一緒にいる。

「そろそろ、この街も終わりかな。」
私は、クリームに向かって、つぶやく。

--

今朝も、彼が軽い足取りで出て行った後、私は、クリームに言う。

「お友達にお別れを言っておいでよ。駅で待っとくから、さ。」

クリームは、黙って出て行く。

私は、駅で待つ。

手の平に息を吹きかけながら。

いつものように戻ってくる筈のクリームは、夜になっても姿を見せない。

「どうしたのかな。」

私は、明け方、駅のホームで、凍えそうな体でほとんどウトウトしているところを、彼に見つけられる。
「凍え死んじゃうよ。」

それから、彼の部屋に連れて行かれて、熱いお風呂に入れられて、指を一本一本、マッサージしてもらう。

「どこ、行こうとしてたの?」
「次の街。」
「僕にお別れも言わずに?」
「あなたは、どこに行ってたの?」
「映画に出てくれそうな女の子達としゃべってた。」
「それで?」
「頭の中だけで、映画は進んで行くんだ。」
「そう。」

私は、それから、すっかり温まって、彼の腕で眠る。

--

私は、もう、その街を出て行くのをやめた。

なぜなら、クリームは戻って来ないから。

私が出て行ったなら、クリームは私を見つけられないから、私はまだその街に残っている。

彼は、「本当に映画を撮りたいから。」と、街を出て行った。

私は、彼を待つとも、待たないとも、決めないままに、その街で。

--

ある日、私は、ひょっこり、クリームそっくりな真っ白の猫とすれ違う。後ろには、白に黒いブチの入った子猫が続いていた。

「あら?」
私は、微笑む。

そういうわけなのね?

私は、嬉しくなる。

街を取り替えなくても、景色は変わって行き、私の幸福も変わって行くのだ。


2002年02月03日(日) 悪魔は、言うことを聞いてくれた。だけど、怖くって逃げ出しだのさ。僕達の愛が怖いんだって。

今日、この子を抱いて、夫に出迎えてもらって退院して来た。

元気で、しっかりと太った、私達の赤ちゃん。

仕事で忙しく不在がちな夫の分まで、私が頑張ってこの子を育てなくては。きっと夫にそっくりな、頼もしい男性に育つでしょう。

けれども、心をよぎる一抹の不安は、何なのだろう。

--

そもそもこの出産は、夫も、主治医も反対したものだった。私は体があまり丈夫ではなく、出産にすら耐えられるかどうかと言われたのだった。

けれども、世界を忙しく飛び回る夫は不在がちで、この屋敷は私にはあまりにも広く寂しかったし、何より、夫のために元気な子供を産みたかった。仮に、私の命が儚いものならば余計に、何か証を、この人と生き愛し愛された証を残したかったのだ。

だから、妊娠が分かった時、周囲を説得して、私は産むことを決意した。

妊娠は、本当に辛かった。つわりは激しく、お腹の赤ちゃんは私の小柄な体にとっては大きく元気に育ち過ぎ、私は、その大半を、病院で安静にして過ごした。

そうして、ようやく、出産の日を迎えた。

お産は、文字通り地獄の苦しみだった。その最中、私は祈った。「私の命と引き換えでいいですからこの子を無事に世に送り出してください。」と。

産んだ直後は出血もひどく、私は、数週間我が子を手に抱くことすらかなわないままに、点滴を受け、夢の中あちらこちらとさまよった。

時折、私の手を握る夫の手が、私を現実に引き戻してくれたおかげで、何とか命を繋ぐことができた。

--

そんな幸福は、ある日、崩れ去ってしまった。

私が、育児に疲れて倒れてしまったある日、たまたま出張の合間をくぐって帰宅していた夫が三歳の息子をドライブに連れ出した。その先で事故に会い、車は大破、夫は即死、息子だけがかすり傷一つなく、助かった。

夫が、私達が食べて行くに余るほどのものを残してくれたお陰で、私達は、その後も路頭に迷うことなく、美しい屋敷で、使用人を使って生活していくことができる。

けれども。

夫が残して行ったものはあまりに多く、私は、途方に暮れてしまう。

--

今、私は、キッチンでホットケーキを食べながら幸福そうに笑いかけてくる六歳の息子を見て、なぜか憂鬱な気持ちを免れない。私が、どれだけのものを与えても満足せず、泣いたりわめいたり、あの手この手で愛情を求めてくる。私は、すっかり痩せてしまった。

「ねえ。ママ。二月はねえ。女の人が大好きな男の人にチョコレートをあげる日があるんだよね。ママ、僕にくれるでしょう?」
「ええ。もちろんよ。」
「前は、パパにもあげてたよねえ。僕、覚えてるよ。」
「そう。すごいわねえ。あなた、あんなにちっちゃかったのに。」
「もう、パパいないからねえ。ママは、僕だけにくれるんだよね。」

息子は、ニヤリと笑う。

私は、その笑顔に途方もない憎悪を感じる。

この子を。

その瞬間、強く心に思ったのだ。

夫を奪ったこの子を、私は、いつか殺すだろう。そうでないと、私もいつか殺されてしまう。

--

「ねえ、ママ。」

もう、どこにもいない筈の息子が、私の首に腕を絡めてくる。

苦しいから、離してちょうだい。

「ねえ、ママ。僕、歌を歌ってあげるから。」

低い声。耳を塞いだって、聞こえてくる声。

あっちに行って。

まとわりつかないで。

苦しいの。

息ができないの。

悪魔よ。あなたは。死んでなお、私を苦しめる。

--

誰もいない屋敷で、少年は、母親をかたどった、その人形に腕を絡める。

「ねえ。ママ、ここにいるんだろう?ママは、僕を見捨てることはできやしない。」

美しく波打つ黒髪は母譲り。

「ねえ。ママ。僕、歌を歌ってあげるから。だから、寂しくないから。」

 They rode by night and they rode by day,

  Till they came to the gates of hell.


「ねえ。ママ、僕、悪魔にお祈りしたよ。ママを連れ戻してくださいって。悪魔は、言うことを聞いてくれた。だけど、怖くって逃げ出しだのさ。僕達の愛が怖いんだって。はは。おかしいよね。」

少年は、涙を流す。

「だけど、ママ、息を引き取る間際、何を怖がっていたの?」 


2002年02月01日(金) 「世の中は全て、数字に置き換えられるのよ。全ては、プラスとマイナス。数字と記号。公式による解決。感情すらも。」

「これ、交換してもらえるかしら?」
しなびた老婆が差し出した物は、自分の骨と皮だけの指。

私は、「あんたの話を聞かせてくれる?」と言った。「この指が、あんたにとって何を意味するのかを。」

私は、交換屋。交換可能なものなら、何と何でも交換する。

この指は?

あなたにとって、体から切り落とされた肉体の価値とは?

あなたに見えるこの指と、私から見えるこの指は、違って見えるかもしれないから。私は、老婆に問う。

老婆は、静かに口を開き、自分について語り始める。

--

ここに、ある少女がいたとしてください。少し厳しい両親に育てられて、家庭や学校という枠組みの中で、まじめに生きようとしていた少女を。

彼女は、一生懸命勉強をし、両親の望む大学に入りました。けれども、大学に通っているうちに、彼女は自分が進みたい方向が、大学で教えていることとは違うものだと気付きました。服飾の仕事に就きたいと思うようになったのです。

彼女は、両親に黙って大学を辞め、服飾の勉強を始めることにしました。

そのことを知った両親は激怒し、彼女を勘当してしまったのです。

そうして、彼女はその時から初めて、世間を独り、歩いて行くこととなりました。彼女は、生きて行くために、自分の手持ちのもの、やりたいこと、これらでどうやって暮らして行けるか、考えてみました。

やりたい勉強、欲しい洋服、必要なお金、勉強をするための時間、お金を稼ぐための時間。そうやって、手持ちの札を並べてみて、彼女は、自分の体を売ってお金をもらうことを思い付きました。彼女は、自分の手持ちの物のなかで、一番いい値段で売れるものを売って生きて行くことにしたのです。

「世の中は全て、数字に置き換えられるのよ。全ては、プラスとマイナス。数字と記号。公式による解決。感情すらも。」

それが、彼女の持論でした。

彼女の公式が正しいことは、彼女の肉体が順当に彼女の望むだけのお金を生み出すことによって証明されたのでした。

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「それで?あんた、何が欲しい?」
私は、老婆に訊ねた。

「パンを。生きて行くための、ひとかけのパンを。」

私は、カビたパンをひとかけ取り出す。

「続きを。」

促されて、老婆はうなずき、しゃべり始める。

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ある日のこと、彼女が依頼を受けた場所に出向いて行ったときのこと。

ドアを開けると、そこで彼女を迎えたのは、彼女のかつての高校の頃のクラスメートでした。

「驚いたな。ひさしぶり。」
彼は、彼女をまぶしそうに見つめると、そのまま、何も言えなくなったのでした。

「元気そうね。」
彼女は、笑いかけて、それから、少し心の中で何かが動きそうになるのを振り切るように服を脱ぎ始めました。

彼のせいだわ。

そんな目で見ないでちょうだい。高校生の頃も、私を見るあなたの瞳はそんなだった。

「ねえ、いらっしゃいよ。」
「駄目だ。僕には、きみは抱けないよ。」
「ちょっと、やめてちょうだい。これは仕事なのよ。」

彼女は、立ち上がってシャワーを浴びに行きました。

その間に、彼は、財布から出した紙幣をテーブルにそっと置いて出て行ったのです。

「やだ。なによ。どうして?」

彼女は、彼が置いて行った紙幣を見て、混乱し、腹を立てたのでした。

「ねえ。どういうこと?」

なぜでしょう。彼女は、途方もない屈辱の中で、震えて、その紙幣を握り締めていました。

彼女の公式が、望まれる解答を導かなかったのは、その時が初めてで。

彼女は、その時の、怒りのようなもの、混乱のようなもの、屈辱のようなもの。そんなものをないまぜに抱え込んだまま、その後の人生を生きて行くことになったのでした。

ねえ。彼は間違っていたわよね。そのことを、私がこれから証明してあげましょう。

そうやって、彼女は、それ以後も彼女の持ち物を売り続けたのでした。

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「で?その彼女ってのが、あんたというわけだね。」
「はい。」
「その後、あんたはどうやって生きた?」

老婆は、黙って微笑み、相変わらず、切り落とされた指を差し出してくる。

「なるほど。」
私は、それを受け取り、カビたパンを投げ出す。

老婆は、それを急いでつかむと、交換所をそそくさと出て行った。

彼女の公式は、年老いた今も彼女の心を支配している。

そんな彼女には、分からなかっただろうけれど。

一つ言わせてもらえば、私は、彼女の指に対してパンを支払ったのではない。その悲しい物語に対して、パンを。本当は、カビたパンひとかけよりずっと重みのあるその悲しい物語を、私は、そのうちここにやってくるであろう三文小説家にでも売り飛ばす予定だ。


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