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セクサロイドは眠らない

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2002年01月31日(木) 人が見えるたった一握りのこと、手の平の中のものだけで満足ならば、絵に空色の絵の具を塗るだけで、全ては事足りてしまう。

仕事と称しても、尚、苦痛な時間。

何とかやり過ごして、帰宅する。

自分の父親のような年齢の男達の退屈な酒に付き合うだけで、自分が数時間のうちにあっという間に擦り切れてしまうのを感じる。これが仕事だと言い聞かせても、なんのなぐさめにもならない。

怒りのような苛立ちのようなものが、自分の体の中にいっぱいになって、夜遅く電話を掛けて来た恋人にさえ、声を荒げて応対してしまう。この男とも、そろそろ別れ時。男が、結婚していることが嫌なわけではない。むしろ、穏やかな声、きりそろえられた爪の広く優しい手、常に私を庇護する大人として接してくれた優秀な愛人、それらのことに感謝すればきりがない。だが、その男の背後にある、大人のいやらしさ、のようなものが急にクローズアップされたその瞬間、私は、どうしようもなく、彼とのことを終わりにしたくなったのだった。

彼に、別れる理由を何と説明しようか。

あなたの大人な部分がどうしようもなく嫌なの、とでも?

そのやさしさは計算されていて、私を傷付けないことは、同時に男自身を傷付けないことでもあった。そんな、バランスの取り方の上手さが、その夜、どうしようもなく嫌だったのだ。

昨日までは気付かないふりをして、そのやさしさに甘えることができていた。だが、今日は、もう駄目。彼の計算が見えた瞬間、私の恋は終わった。

--

そこそこの規模の会社で、女性にしては稀なほど高い地位をもらい、あと足らない物は「愛」と言った具合。しかも、厄介なことに「愛」がなくては、自分がみるみるうちに水分を失った花のようにしおれて行くのを感じてしまう。

打ち合わせの席に来た、その日初めて見た、Webデザイナーと称する男の助手の青年に、私は、その日、触れてみたいと激しく思った。彼の危うさと同時に感じられる強さが、気に入った。

「十分ほど休憩を取りましょう。」
その合図で、煙草を吸いに男達が散ってしまった後、彼が一人残ったのを見計らって、私は電話番号を書いたメモを彼の手に滑りこませる。

その瞬間、私は恥ずかしかった。会社という、力関係が物を言う場所で、力のある女が男に何かを命ずるのは、本当に恥ずかしい。だが、その時声を掛けなければ後悔すると思った。

青年は、少し微笑んで、メモを素早くしまった。

その、三分ほどの間に交わされたことで、私は始まりを予感した。

--

張りつめた美しい皮膚が私から離れたと思うと、
「ねえ、見てくれる?」
と、ベッドを降りて、彼は、何やら取り出したのであった。

「なんなの?」
「僕が描いたイラスト。」
「へえ。」
「今はさ、つまんない仕事してるけど、いつかは、僕、自分の名前で仕事が取れるようになりたいんだ。」
「素敵じゃない?」

その、どれもが、美しい景色のように見えて、それらの景色はよく見れば、どれも生命のようであった。空は悲しい顔をして大地を見ていたし、海は荒れ狂いながら何かを叫んでいた。

「人が見えないものが見えるのね。」
私は、彼が描いたものを返しながら、感想を言った。

「ずっと向こうにあるものを見てみたいんだよ。例えば、空や、海が大好きな人っていっぱいいるんだけどさ。みんな、青くて綺麗な空や海だけを見て、その広さに憧れてる。だけど、海は、深く潜れば暗くて恐ろしい。空だって、そうだ。青空が優しいなんて嘘だ。人が見えるたった一握りのこと、手の平の中のものだけで満足ならば、絵に空色の絵の具を塗るだけで、全ては事足りてしまう。」
「分かるわ。」
「みんな、どうして、たった少しのことだけ手に掴んで、それで喜べるんだろうな。」

彼の情熱は、私の胸を突いたし、そんな風に何かを語る男性とはしばらく会ってなかったので、私は幸福になる。

だが、私は、それを恋とは呼ばないようにしていた。恋人というより、愛人、というほうが相応しいだろう。私は、彼との将来の生活を夢見ない。きっと、彼もそうだ。私は、もう、恋に自分の生き方を振りまわされたくなかった。

選ぶのは、私。決めるのも、私。

そうやって、私自身、かつて私を抱いた男が知らず知らずにやっていたのと同じ計算を始めていたのに気付いていない。

--

彼の腕で眠る。浅い眠りを繰り返し、私は、彼の傍で熟睡してしまわないように気をつける。

携帯電話が鳴っている。

彼が、私からそっと体を離すのを感じる。

彼、携帯電話なんか持たない主義じゃなかったかしら?

彼の声が聞こえる。約束した相手を安心させようとするような、柔らかな声で。いつもの、子供のような言いっぱなしの言い方ではなくて、抑制の効いた、大人の声。

私は眠っているふりをする。聞こえていないふりをする。私は、私の目に見える部分だけの、一握りの彼を愛しているのだから。

--

好き勝手な方向に乱れた髪が、彼の顔に掛かって美しい。

あれから眠れなかった私は、早めに起きて朝食を作ろうとする。

そうやって握った包丁。

どうしようもなく力がこもる。

力が入りすぎて、手は、血を失って、みるみる白くなる。

おかしいわね。恋じゃないのに。私は何をしようとしているのだろう。

振り返れば彼の無防備な喉仏が上下している。

どうしても、そこから目が離せない。


2002年01月30日(水) 「何が欲しい?何だったら、受け取ってくれる?」きみは、何が欲しいの?どうすれば、僕に気を留めてくれる?

ある時点から、僕は、彼女達に謝ることをやめてしまった。

最初のうち、僕は、それらのことに胸を痛め、嘘を吐き、笑顔でごまかそうとした。だが、ある時点で、そのことをあきらめることにしたのだ。それは、僕が決めたことではないと思うようにして、随分と気楽になった。

女の子達はなぜか、僕を見るとニッコリと笑い、それから、僕の手を取って、「行きましょう。」と言うのだ。

僕が、彼女の部屋を訪れると、彼女は食事を与えてくれて、服を脱ぐ。

僕は、そうやってただ、波に揺られて、どこに進むか分からない木の葉のように、あちらこちらへと漂って行く。

そうして、日々は過ぎ。

ある日、目の前の相手は、突然泣き始める。

「どうしたの?」
と、訊ねる。

「私のこと、嫌いになったの?」
「そんなことはない。好きだよ。」
「嘘吐き。」

そうだ。嘘吐きだ。その時には、僕はもう、他の女の子に手を取られており、その子に目を奪われている。

そういう宿命なのだ。女の子達が僕の元にやってくると、僕は愛さずにはいられない。だが、僕自身は、傷付くことに疲れて、とっくの昔に、傷付くのを放棄してしまった。

--

「ねえ。聞いてる?」

その眼鏡の女の子は、僕にしきりに話し掛けて来ていたのに、なぜか僕は気付かなかった。

「え?何?」
「あなたのお友達にね、この本を返してもらいたいの。」
「ああ。」

それから、僕は、いつもの癖で、女の子達にとってこの上なく魅惑的に見える微笑を浮かべて見せた。

彼女は、それに気付かない顔。

「あなたのこと、知ってるわ。」
「僕のこと?」
「有名だもの。」
「知らなかったな。悪い噂かい?」
「いいえ。でも、素晴らしくもないわね。女たらし。プレイボーイ。浮気性。」
「ひどいな。」
「名誉でしょう?」

彼女は、皮肉な顔で笑って見せる。そして、つぶやく。
「冬薔薇の、一年前の痛みかな。戯れのトゲ、触れる指先。」
「それ、何?」
「ね、お願いよ。必ず、彼に本を返して。」

彼女は、あっという間に去ってしまう。

そう。

さしずめ、雪の精のように。一瞬で、午後の陽射しに溶けたように思えた。

--

「あの子、誰さ。この本を返して来た女の子だよ。」
「大学の時の後輩だよ。」
「ただの?」
「ああ。」
「可愛い子だね。」
「そうかい?きみにとっちゃ、誰だって女の子は可愛いんだろう?」
「そうかもしれないけど。だけど、あの子は格別に可愛かった。」
「よせよ。」
「何が?」
「あの子に手を出すのは。」
「いやだな。そんな風に見えるか?」

僕は笑って見せるが、もう、心は彼女のことばかり。

あの子は、どうして僕に興味がなかったのかな。僕の笑顔は、もう効力を失ってしまったのだろうか?僕の魔法が効かなかったのは、あの子が初めてだ。

--

僕は、その時の同棲相手に、何となく訊ねてみる。
「この前、買ってあげたピアスは?」
「あ。あれ?ごめんね。失くしちゃったの。」
「ひどいな。」
「だって。あんな小さな物、すぐ失くしちゃうわ。」
「そうなんだ?」
「ごめん。本当にごめん。」
「いいけどさ。」
「だって、あなた、今までそんなこと一度も聞いてくれたことなかったのに。」

僕は、ぼんやりと考える。彼女、何が欲しいだろう?指輪だろうか。ピアスだろうか。靴だろうか。

--

彼女は、あきれた顔で、眼鏡のブリッジを押さえながら、僕の顔を見つめた。

「何が欲しい?何だったら、受け取ってくれる?」
僕は、しきりに彼女に訊ねていた。

きみは、何が欲しいの?どうすれば、僕に気を留めてくれる?

「何も要らないの。」
「指輪は?」
「いらないって。」
「ピアスは?」
僕は、彼女の耳の穴を、目で確かめてから、そう言った。

「どんなものでも、私の心は手に入らないわよ。だけど、そうね。ピアスなら、いいかもしれない。安い物でいいわ。失くしても、気付かない物にしてちょうだい。どこに行ったかも分からないものにしてちょうだい。簡単に買えて、簡単に忘れられるものにしてちょうだい。」

よく見れば、彼女は、眼鏡の奥に、涙を溜めていた。

「あの本で、最後だったの。」
彼女が、言う。

「最後?」
「彼に返すもの。彼が残して行ったもの。」
「そうだったのか。」
「もう、会う口実さえなくなっちゃった。」
彼女は、背を向けて歩き始める。

僕は、指がチクリと痛んだ気がして、指を唇にそっと持って行く。

戯れの恋が、知らぬ間に体の中でうずき始める。


2002年01月29日(火) 彼に抱かれると、干し草の香りがした。ああ。分かった。あなたこそが、はぐれた子馬なのね。

私は、童話作家だ。

冬とは言っても、思いがけず暖かな陽射しの午後、私は公園のベンチで書きかけの童話の最後を仕上げていた。
私の頬に、柔らかいマフラーの毛糸があたって、私は驚いて顔をあげる。

「ごめんよ。読ませてもらってたら、夢中になっちゃって。」
彼は、笑った。陽に焼けたような、小麦の肌。自然の茶色の髪。

「いやだ。全然気付かなかった。」
私は、照れて笑った。

「いいかい?」
彼は、手にしていたスケッチブックを取り出すと、サラサラと手を動かし始める。繊細な、柔らかい草。風を感じさせる子馬のタテガミ。

そう!そう!こんな感じ。

ああ。どうして、この人には、風が分かるのかしら。風を捕まえ、こうやって絵にして見せられるのかしら?私は、思いがけない出会いに涙さえこぼれそうなほどに感動してしまった。

その童話は、子馬の話だった。その子馬は、誰よりも走るのが早かった。だから、誰も付いて行けないのだ。子馬は走る。風そのものにならんばかりの勢いで。だが、子馬は気付いていない。あんまり遠くまで走り過ぎて、父さんも母さんも、兄さんも姉さんも、友達も。もう、誰にも来ることができない場所まで来てしまったことを。子馬が、そのことに少しでも気付いたなら、足が鈍ることだろう。だが、気付かなかった。走ることの喜びに心奪われて、別れも、悲しみも、遠いところに置いて来てしまっていた。

「ねえ、あなた、どこからいらしたの?」
「僕?僕は。」
彼は、何かを思い出そうとする目をして、それからニッコリと笑った。
「僕は、思い出せないんだ。過ぎてしまったことを。」
「まあ。」
「僕、どこに行けばいいんだろう?」
「うちにいらっしゃる?」
「いいのかな?」
「ええ。できれば、絵本を手伝って欲しいの。」
「喜んで。」

そうして、彼はうちにやって来る。

--

ねえ。どうして、あなたには私の描きたい世界が分かるの?

私は、彼の茶色の髪を、指でかき回す。

「どうしてかな?」
瞳までが茶色を帯びた、その眼差しが、私を見つめる。

彼に抱かれると、干し草の香りがした。

ああ。分かった。あなたこそが、はぐれた子馬なのね。

私は、彼の運んで来た風を、胸の奥まで深く吸い込んだ。

--

絵本が完成したのは、それから三ヶ月が経った頃だった。私達は、風と戯れるのに夢中で、本当にどこかに行ってしまうところだったが、その絵本が、私を現実に引き止めてくれたのだった。

「今日、あなたと私の、世界で一番素敵な作品を出版社に届けてくるわ。」
私は、あまりの嬉しさに、胸がつまりそうだった。

「気を付けて。」
彼は、相変わらず、草の香りのするセーターで、私を抱き締めてくれた。

「じゃ、待ってて。今日はお祝いよ。」
私は、走り出す。早く帰って来て、あなたと乾杯を。

「いいですね。素晴らしい出来ですよ。」
編集者は、満面の笑みで、私達の作品を迎えてくれた。

良かった。

あなたの笑顔だけが恋しくて、家路を急ぐ。

だが、私が急いで帰って来た時、部屋は空っぽで。

「どこ?ねえ。どこに行ってしまったの?」
私は、彼の痕跡を探すが、本当は分かっている。彼は、もう行ってしまったことを。通り過ぎてしまった風が、私にサヨウナラと告げる。

ねえ。もう独りになりたくないよ。やっと、独りじゃなくなったのに。

私は、その場にしゃがみ込んで、泣く。

--

訪ねて来たその女性は、私の顔を見て、うなずく。

腕には、丸々と太った、ピンク色のほっぺたの赤ちゃんが抱かれている。

「彼、やっぱり行ってしまったのね?」
「ええ。」
「その絵本は?」
「これ?」

私達の、素晴らしい作品。

絵本は、あまりにも素敵に自由で、そうして少し寂しかった。

「この本、彼があなたに残してくれたものなのね。」
「ええ。ええ。」
少し、声が詰まるけれども、泣いたら駄目なのだった。

「この子もよ。彼が私に残してくれた。」

分かるわ。彼にそっくりな、茶色の髪と、瞳。

--

それから、私達は、赤ちゃんに交互に絵本を読んで聞かせる。

「この子、この絵本大好きね。」

幸福そうな笑顔に、私達もつられて笑う。

私達は、寂しくなかった。

それどころか、彼がどこかで子馬になって走っているのが嬉しいと思えるのだった。


2002年01月28日(月) 悲しい終焉に向かって、一歩一歩、苦痛をこらえて年齢を重ねていかねばならないのだろうか。

ああ。もう、何もかも嫌になった。

そんな感情は、ある日突然、堰を切ったように溢れ出し、抑えられなくなった。

妻が出て行ってから、僕の時間は止まり、進むべき道は消え去り、生きることが途方もなく億劫になった。

誰かを傷付けたいと思い、世間を憎んだ。

そう。僕は、どうしようもない人間に成り下がった。

--

その、独り暮しの老婆の家に忍び込んだのも、そんな気持ちからだった。仕事さえ失っていた僕は、その日飲む酒を買うだけの小銭が欲しかっただけなのだ。

誰もいないと思っていた家の中で、突然、話し声が聞こえて、僕は飛び上がるほど驚き、慌てて身を隠した。それが、その家に住む老婆の声であることは、すぐ気付いた。

「はい、はい、お茶ね。」
その声は、彼女しかいない筈の家の中に大きく響いた。

老婆は、ゆっくり立ち上がると、急須に湯を入れ、湯のみを二つ並べた。

ボケてるのかな?

どうやら気付かれていないようだ、と安堵した僕は、少し胸が痛むのを感じながら、その光景を眺めていた。誰も彼女の傍にいてやらないままに、彼女は、もう亡くなってしまった連れ合いの分であろうか。二つの湯のみの一つを、キッチンのテーブルの、向かい側の席に差し出す。

「今日は、少し寒いわねえ。」

「そう。忙しいみたいよ。仕事がねえ。あの子も、立派になったもんだから。なかなかこちらにも戻ってこれないのじゃないかしら?」
彼女は、しきりに、独り言を言っている。

「そりゃ、そうだけれどもね。でも、あの子を責めたりしないでくださいよ。あの子は、今が一番大切な時なんだから、しょうがないですよ。ええ。」
しわくちゃな顔が、何度もうなずく。

僕は、もう何年も連絡を取っていない、田舎の母を思い出す。父さんは腰を痛めて以来あまり外に出なくなった、と、寂しい便りが来たが、僕はその返事を出せないままだ。仕事が決まったら。何とか先が見えたら。その時は、連絡を取ろうと思いながら、日々は過ぎた。

「そうねえ。もうすぐ、中学生になるんじゃないかしらね?まあ、あんな小さかったと思ったら、年賀状じゃ、随分と大きかったものね。」
彼女は、奥に引っ込んだかと思うと、一枚のハガキを持って戻って来て、にこにこと微笑みながら、向かいの席に向かって差し出している。

それにしても、彼女は、失った思い出と対話しているのだろうか。

歳を取ると、誰でも、一番いい時の思い出にしがみつき、そこで夢を見ているのか。そこでは、まだ、亭主は生きており、息子は立派な勤め口を得て働き、孫達は健やかに育っているのだ。だが、今や、誰も彼女の傍にいてやらない。歳を取るというのは、何と悲しいことだろう。そうやって、人は、悲しい終焉に向かって、一歩一歩、苦痛をこらえて年齢を重ねていかねばならないのだろうか。

どうしようもなく悲しい気分になって、僕は、その家を去ろうとする。

そっとあとずさったその瞬間、僕の肘が当たってひっくり返った花瓶が派手な音を立てて割れた。

しまった。

と、思った。婆さんに見つかっちまった。

ヒヤっとして、キッチンをそっと覗いたが、相変わらず、彼女はゆっくりと湯のみを口に運んでいる。

そうか。耳が遠いのだ。

そう言えば、老婆は、耳が遠くなった者らしく大きな声でしゃべる。玄関口にあった黒板は、多分、会話さえ不自由になった彼女が来訪者とやり取りするために使うものだろう。

安堵したその時、僕には見えた。老婆に向かい合って微笑む老人の姿。

目をこすったが、確かに、その亡霊は、彼女の言葉に相槌を打ち、しきりに返事を返しているようにも見える。

そう。

もう、聞こえなくなってしまった老婆の耳に唯一響くのは、亡霊が心に直接語りかける言葉なのだ。

と、その時、僕は気付く。

少し震える指で花瓶のカケラを拾い集め、急いで謝罪の言葉を玄関の黒板に記す。

歳を取るのは、そんなに悪いことじゃないよ。目が薄くなり、耳が遠くなり、そんな風にしてようやく見えるようになるものも、聞こえるようになるものも、あるのさ。と、老人の声がする。

「若い人はねえ。急ぎすぎますものねえ。私は、今のままで幸せですよ。」
老婆が答える。

また、いつか、花瓶の弁償ができる日が来たら、僕は、この家を訪れよう。

冷たい風が僕を覚醒させるのを感じて歩く。


2002年01月26日(土) きみの唇を、首筋を、隅々を全て知っているよ、と、彼の指が慣れた動きでわたしの苛立つ肌をなだめるから。

「結婚、したいの。」
男の背中に向かってつぶやいてみる。

「僕らの関係じゃ、結婚なんて無理だろ。」
男は背を向けたまま、答える。

「離婚、するんでしょう?」
「ああ。いずれは、ね。だが、今すぐにはどうやったって結婚は無理だろう。」

ひた隠しにして来た関係は、どこまで行っても陽の当たる場所に出ないのだ。

暗い忌まわしい事件が私達を結びつけて、私達は、その暗い結び目を解けずにこうやって一緒にいる。

--

私が勤めている幼稚園で、園児が肩からカバンを掛けたまま滑り台を滑ろうとして、カバンが引っ掛かったため首を吊った状態になり、亡くなった事故があった。その子供の担任が私だった。私は、不注意から取り返しのつかないことが起こってしまったことを詫びに何度もその園児の家を訪れた。

そこで、亡くなった園児の父親である彼と会った。

「妻は、きみと会いたくないと言ってるんだよ。」
私が訪ねると、彼が対応するようになった。

「当然ですわ。私のせいで大事なお子さんを。」
「だが、きみを責めたって、もうあの子は帰って来ないのに。きみは充分に償った。あとは、僕らの責任だよ。あの子の死を受けとめていく作業は、僕らの仕事だ。」

子供の母親と勤め先から責められ続けくたくたになった神経に、その一言が柔らかく響いて、私は事故以来初めて泣いた。

--

「こんな仕事、もう嫌だわ。もうすぐ、年長児が卒園して行くわ。そうして、また、新しい子供達を迎える。その繰り返し。同じところを、グルグルと回り続けている気がする。そうして、どこにも行けないのよ。」

結婚。

ねえ。結婚したいよ。

「同じところを回っているように見えるけど、きっとそれは螺旋階段みたいに、少しずつきみをどこかに運んでくれる筈だよ。」
「だとしたら、その階段は下りの階段じゃないかしら。一年目は希望に満ちていたわ。二年目は、一年目よりいろんなことが上手くやれるようになった。でも、四年目には女ばかりの職場の揉め事にうんざりして。五年目で恋人と別れて。」

六年目で、一人の子を失って、その父親と寝るようになった。どんどん悪くなる。

早く、この、どこまでも沈んで行く階段から逃れたい。

「きみは、物事を悪く捉え過ぎだよ。」
「あなたは?」
「僕?前にも言っただろう。我が子を失ったことは、乗り越えて行かなくちゃいけない。だが、妻には無理なんだ。泣いてばかりで、少しおかしくなってしまった。悲しみを抱え込んで、そのせいでどこにも行けない。」

結局、男は妻と別れると言いながら、それはいつまで経っても実行されない。最初のうちこそ、男の言葉に希望を見出し、どこかに行けると信じて耳を傾けてきたのに、今やそれは、ぐずぐずと同じ場所にとどまるための方便だということが分かるようになって来た。

結婚したいの。

口にすれば、男はいら立つようになったから、私はその言葉を飲み込む。

「そんな風に結婚を焦るきみは、醜いよ。」
と、男が言うから。

そうして、「急がなくても僕らは大丈夫だよ。」と言いながら。

きみの唇を、首筋を、隅々を全て知っているよ、と、彼の指が慣れた動きでわたしの苛立つ肌をなだめるから。

結婚したいの。

私は、その言葉を飲み込むが、あの黒い固まりがまた体の奥で抑えられなくなるのではと怖くなる。

--

あの日、あの子はいきなり私に向かって言ったのだ。

「ねえ。先生。いきおくれる、ってなあに?」
「いきおくれる?」
「うん。僕のママが言ってた。先生のこと、行き遅れって。ねえ。どういう意味?」
子供の声は、しつこくまとわり付く。

あの時はどうにもならなかった。

黒い固まりが、急に体から噴き出すのを抑えられなかった。

気が付いたら、黄色いカバンの紐を握っていた。


2002年01月24日(木) だって、きみが「抱いて」と言えば、こんなにも迷い、どうしていいか分からなくなる。

その少女に気付いたのは、ある日の満員電車の中だった。

某有名女子高校の制服を着た彼女が、しきりに身をよじらせているのを見て、ピンと来た。そばにいる中年を睨み付けて、耳元でささやいた。
「あんたの勤め先、知ってんだけどね。」

中年は、慌ててぎゅう詰めの人をかき分けてどこか行ってしまった。

電車を降りたところで、彼女が僕に声を掛けて来た。

「あの。ありがとうございます。」
「ああ。いいんだ。」
僕は、照れ臭くて、その場を早く離れようとした。

「待って。」
「ん?」
「携帯の番号とか、何か、あなたに連絡が取れる方法、教えてください。」

その、黒く長い睫毛が、僕に向かって揺らめいた。

「いいけど。」
僕は、ポケットから携帯を取り出した。

--

日曜日の午後の遊園地。僕らは、ベンチに並んで座って、紙コップに入ったカフェオレを飲んでいる。

「僕みたいなおじさんといて、楽しいわけ?」
「うん。とっても。それに、あなた、おじさんじゃないわ。」
「もう、おじさんだよ。」
「ううん。そんなことない。少なくとも、こないだ、電車の中で私のお尻を触ってたみたいな変なオヤジじゃないもん。」
「そうか。」
「うん。」

目の前の子供の手を離れて、赤い風船が舞い上がって行く。僕らは、それを目で追いながら、会話する。

「ねえ。聞いてもいいですか?」
彼女は、うつむいて、顔に落ちてくるストレートの黒髪を引っ張りながら、僕に言う。

「何を?」
「結婚、してるんですか?」
「いや。してない。でも。」
「でも?」
「離婚した。」
「ふうん。」
「失望した?」
「ほっとした。」

彼女はふふっと小さく笑った。

安心、か。

一度も結婚してない男と、結婚してから離婚してしまった男じゃ、同じ独身であっても随分違うもんだということを、彼女はまだ知らない。

僕らは陽が暮れるまで、遊園地で乗り物にも乗らず、ただ、おしゃべりをしていた。

それが、僕らの初デート。

--

心のどこかで、分厚い壁ができていて、僕は、いつも彼女を子供扱いしたし、彼女はそのたびに膨れっ面をしていた。だが、それでも充分に楽しかった。僕は、彼女を大事にしたかった。もう、随分といろんな人間関係を駄目にして来たから、それ以上失敗したくなかったのだ。それに、彼女みたいな女の子との交際をどうすれば、自分自身に納得させられるのかも、思い付かなかった。僕なんかに、彼女と付き合う資格はない。

迷ってばかりの日々が続く。

--

その日、制服姿の彼女は、どうしても帰りたがらず、僕は途方に暮れていた。もう、時計は午後の11時を回っていた。

「いい加減に帰りなさい。」
僕は、父親みたいな言い方で、彼女を説得しにかかった。

「一緒にいたいの。」
彼女は、すねたような口調で、そう言った。

「駄目だ。」
「どうして?」
「きみは、まだ高校生だ。」
「じゃ、卒業したら、もっといてくれるの?」
「多分。」
「それじゃ、いや。今、一緒にいたい。」

チラチラと舞っていた雪は雨に変わる。

「行こう。風邪をひくよ。」
「いや。」

そうやって、もみあっているうちに、僕らは、雨に降り込められてどうしようもなくなって、近くのラブホテルに飛び込む。

「濡れた服を乾かそう。」
僕は、服を脱ぎ始める。

「抱いて。」
彼女がポツリと言う。

僕は、首を振る。

「どうして?」
「まだ、駄目だ。」
「私のこと、嫌い?」
「そういうんじゃない。」

僕らは、背を向け合ったまま、服を脱いで、布団にもぐり込む。

「最後に恋愛したの、いつ?」
彼女が、急に訊ねる。

「さあ。いつだったかな。」
僕は、考えるが思い出せない。

最後に女を抱いたのは、半年前。仕事で知り合った人妻と、数ヶ月関係を続けて、そろそろヤバいかなと思った時点で、彼女と別れた。だが、それは、恋じゃない。

「今は?恋してる?私と。」
「多分。」

しているよ。だって、きみが「抱いて」と言えば、こんなにも迷い、どうしていいか分からなくなる。だが、それさえもうまく言えない。僕は、いつも、水溜りに足を突っ込まないように、用心深く歩く癖が付いてしまったから。

「それでも、抱いてくれないのね。」
「ああ。」

僕は、彼女の手をそっと握る。

「ごめんよ。もう、失敗したくないんだ。」
僕は、彼女に言い訳しているのか、自分に言い訳しているのか、分からない。

突然、布団を飛び出した彼女は、生乾きの服を着始める。

「どうした?」
「帰るの。」
「まだ、雨がひどい。」
「いいの。ここにいるよりずっとマシだもの。」

彼女は、僕の目を見て言う。

「大人になれば泣かずに済むと思ってたけど、それは強くなることじゃなくて、臆病になって行くことなんだって、あなたを見てて分かったの。」
彼女は、そう言い捨てて、部屋を出て行く。

彼女は、制服を脱いでしまえば、どこかの知らない女だった。その、怒りを帯びた目は、離婚した妻にも、半年前に別れた女にもそっくりだった。

だから、制服を脱がせたくなかったのだ。


2002年01月23日(水) その黒い影のような生き物は、道行く人々に飛びつくと、耳の穴や鼻の穴から、その人の体内に入って行くのだ。

彼女が少し他の人間と違うことに気付いたのは、往来を歩く彼女そのものが、ぽっかりと暗い穴のようだったからだ。

目を凝らして見れば、彼女は普通の人のようでもあり、むしろ、肌は抜けるように白く美しかった。だが、その美しさは光りを発する美しさではなかった。更によく見れば、彼女の周りを、チラチラと黒い影が踊っている。

あれは、なんだろう?

僕は、彼女から目が離せない。

彼女の長く体を覆う服のポケットから。手の平から。黒い小さな影が飛び出してくる。そうして、その黒い影のような生き物は、道行く人々に飛びつくと、耳の穴や鼻の穴から、その人の体内に入って行くのだ。

あ。

僕は、それに気付いて、思わず小さな声を上げた。

その瞬間、彼女が振り向く。

そうして、にっこりと笑う。

「坊やには、見えるのね?」
近寄って、僕にだけ聞こえるようにささやく。

僕は、驚きのあまりうなずくしかできない。

--

母さんは、いつだって「正しき人」だ。誰よりも、自分でそう言っている。そうして、いつも背筋を伸ばし、相手の目をきちんと見て、言葉を常に最後まではっきりと言い切る。

僕は、母さんを、他の誰よりも尊敬していたが、同時に、嫌ってもいた。

他人の非を責めることすらしない、その潔さが、父さんや、僕に、とても居心地の悪い思いをさせるのだ。

僕は、一つ一つの事柄に宿る善・悪の評価が、その実ひどく不安定だと知っていた。何より僕自身が、友達や父さんといる時には善良でまっとうな子供であると思えるのに、母さんの前に出た途端にとても薄汚く醜い人間に転落するのを感じた。そのことに気付き、いつかこの家を出てやると決意してから、僕という子供はようやく少し、息をゆっくりと吸い込むことができるようになったのだ。

僕は、いい。

だけど、父さんは?あの、正しき母さんを捨ててどこかに行くなんて、誰にだってできないだろう。

だから。

父さんが、何とか息をする場所を捜し求めたことを、僕は決して責めない。

母さんは、父さんが、時折、その安らぎの場所に行くのを見逃さなかった。

--

「いらっしゃいな。」
その、黒い影を操る、美しい人はそうやって僕にささやいた。

僕は、うなずき、黙って付いて行った。

彼女の、高い塀に囲まれた、その屋敷に。

「一人で暮らしているの?」
僕は、訊ねた。

「ええ。まあ。ね。」
彼女は、曖昧に笑った。

不思議なのは、その庭で、何もない。ただ、黒っぽい土が敷き詰められたその庭を、僕は窓越しに眺めながら、出されたお茶を飲む。

「変な庭だって思ってるんでしょう?」
「はい。」
「あそこではね。あるものを育てるの。」
「あるもの?」
「ええ。」
「ねえ、魔が差す、って言葉、知ってる?」
「はい。」
「人は、どんなに気を付けていても、突然、不意を突かれて、思わぬことをするものよねえ。」

彼女に連れられて、僕らは庭に出る。

その庭の土をじっと見つめていると、何かが土の中でうごめいているのが見える。

「ねえ。見えるでしょう?」
「あれ、何ですか?」
「魔、よ。」
彼女は、クスクスと笑う。

その、土の下でうごめいている何かは、次第に膨らんで来て、ぽっこりと顔を出す。目も鼻もない、その黒い影のような小動物に、彼女は手を差し伸べる。それらは、彼女の手を伝って、彼女の長く体を覆うドレスにもぐり込む。黒い影は次々と土から顔を出す。その、邪悪な黒に、僕は目を奪われる。人の心を不安にさせる、黒。

「人の心にね。偲び込んで、一瞬、その人の心を惑わすの。」
「そんな。」
「私のせいじゃないのよ。彼らは、寄生する主を探しているし、彼らを呼びこむ人間の心には、彼らが入り込み易い、深い暗闇を持っているものなの。互いに惹き合うのよ。」

僕は、あることを思い付き、彼女に頼んでみる。
「ねえ。その、魔、ってのを僕に一匹くれない?」
「いいわよ。役目を終えると、憑り付いた人の体内から出て行くわ。」

僕は、それを洋服のポケットにそっと入れる。

--

「随分遅かったじゃない?」
母さんは、僕を見るなり、言う。

「うん。ごめんなさい。」
「ポケットから手を出しなさい。それから、洗面所で手を洗った後は、消毒も忘れないで。すぐ、お夕飯よ。」
「パパは?」
「今日も遅いわ。」

その瞬間、それは、スルスルと僕のポケットから飛び出して、あっという間に母さんの背を駆け上ると、母さんの耳の穴にスルリと滑り込んだ。

それっきり、僕は、その小さな黒い生き物のことを忘れていた。

--

夜中に、何かの物音が響く。

僕は慌てて階下に降りて、両親の寝室を覗く。

母さんの足元に父さんが倒れていて、どす黒い液体が広がっている。

しばらく立ち尽くしていた母さんは、ようやく、自分のやったことに気付いたかのように、悲鳴を上げる。

その途端、母さんの耳からも、鼻からも、口からも、溢れ出すようにたくさんの黒い影が流れ出す。

黒い影達のうち、ある者は床の血を舐め、ある者はドアの隙間から走り出て、僕の足元をすり抜けて行く。

それらは、キーキーと、いやらしい泣き声を立てるので、僕は思わず耳をふさぐ。

瞬間、僕の耳からも一匹。


2002年01月22日(火) 彼女は、青年の上にまたがり、死につつある顔を残酷に見つめる。白い指が、その青年の肌を味わうようになぞる。

その美しい娘を前に、青年は、憔悴した顔で懇願している。

「どうすればいい?」
「じゃあ、何か面白い話をしてよ。」
「面白い?」
「私のまだ知らない世界の話なんかを。」

青年が口を開きかけるのを制するように、彼女は、その真っ黒に輝く眼で青年を見つめる。

「もう誰かが本に書いたこと繰り返すのなんて、いやよ。」
「そんな・・・。」
「誰も知らないこと、あなただけが語れる言葉で私を楽しませて。」
「無理だ。幼い頃から、世界を旅して回ったというきみが知らない世界を、僕が知っている筈がない。」
「あら。あなたって役立たずねえ。あなたの吐く息は、もう、いやらしい死の臭いしかしないっていうのに。」

青年は、震える手で、その傲慢で美しい肢体に手を伸ばす。

「あら。あなた、泣いてるのね。」
「きみは、残酷だ。僕は、勉強しなくちゃならない。いい大学に入ったのはそのためだ。きみを一日中喜ばせてあげるわけにはいかない。」
「言ってる意味が分からないわ。勉強も、好きなだけなさればいいわ。一つだけ言っておくと、あなた、自分の意志でここに来てるのよ。勉強だって、私を抱くことだって、あなたの好きなようにすればいいのよ。だけど、私の何であれ、奪うばかりなら、どっかに行ってちょうだい。」

「それは無理だ。僕は、もう、どこにも行けない。」
青年は、ただ、ふらふらと彼女にすがりつく。

「困った人ね。」
彼女は、青年の上にまたがり、死につつある顔を残酷に見つめる。白い指が、その青年の肌を味わうようになぞる。

そうして、将来を期待される若者が、また一人、消息を絶つ。

--

音楽家は、まさに、汗水垂らして、娘のために音を奏でる。

一日中、食事もとらずに、奏でる。

娘は、その音色に包まれて、ベッドの上で果物を食べながら寝そべる。

もう、音楽家は、まさに倒れようとしている。

「ちょっと待って。」
娘は、鋭い視線で、音楽家をにらむ。

「その音は、もう既にどこかで聞いたことがあるわ。」
娘は怒って、手にしたリンゴを投げ付ける。

「ちょっと待ってくれよ。完全に新しいものだけできみを楽しませる事は無理だ。」
音楽家は、疲労と空腹で黒ずんだ顔を、娘に向ける。

「じゃあ、もうどこかに行ってちょうだい。」
「私はきみのために、音楽を聞かせ続けた。挙句が、その台詞か。」

音楽家は、立ちあがってヨロヨロと娘に近付こうとして。

そうして、その瞬間、とうとう命尽きて倒れる。

娘は、味を見るまでもないとばかりに、顔をしかめ、音楽家に向かって、その美しい顔を変形させる。

--

「また、お前の仕業か。」
「ええ。」
「まったく。どうして、ここにとどまって、手に入るだけのものを手に入れるだけじゃ、満足しないのだ?」
「だって。」

その巨大なオス蜘蛛に、更に、それより大きなメス蜘蛛が絡みついている。

「お前は、可哀想な子だ。本当に、哀れだ。」
「どうして、そんなことおっしゃるの?パパ。」
「お前の母親も、お前に食われてしまった。そうして、お前は、その貪欲さのあまり、次々と、お前を愛してくれる者を食ってしまう。一箇所にとどまれば、そこいらにあるものを根こそぎ食ってしまう。だから、私達は、どこかにとどまることもできずに、世界を転々としなければならない。」
「それが生きることではなくって?」

よく見れば、オス蜘蛛は、メス蜘蛛に食べられている。

「お前は、私がいなくなったって悲しむことすらしないのだろうな。」
「何をおっしゃるの?パパ。パパがいなくなったら、私、泣くわ。」
「たとえ泣いたとしても、その悲しみすら、食っちまって、お前は、巨大になるのだ。」

もう、オス蜘蛛は、体の大半を失い、言葉も途絶えがち。

「ほんとうに・・・、可哀想な、私の娘よ・・・。」
「でも、姉さん達の中では、パパは私を一番愛してくれたわ。」
「何もかもを、食べてしまって、何もなくなったら、お前も死ぬ日が来るのだよ。」

メス蜘蛛は、最後の一飲みで、オス蜘蛛を腹に納めると、満足そうにつぶやく。

「ね。パパ。大丈夫よ。」

夢見るように。

「ねえ。あたしは、蜘蛛よ。この広い広い天に向かって、糸を吐いて、新しい宇宙を作るわ。そうして、それを食べるわ。」

メス蜘蛛は、キラキラと銀色に輝く糸を、抑えきれず広げてみせる。

もうそばには、誰も見ていてくれる者もいないのに。

たとえようもなく、美しい銀の織物が悲しく光る。


2002年01月21日(月) 僕は、彼女が歩くリズムに合わせて左右に揺れるお尻を眺めながら、もう少しアルコールが欲しいと思った。

子供の頃、僕がいつも思っていたこと。

「大人にはなりたくない。」

友達は、早く大人になりたがっていた。大人になれば素敵なことが待ってる。こんな街は出て行ける。酒だって飲める。なんて言っていた。

僕は、自分の父は母を見ていて、そんなに楽しい人生が待っているとはどうにも思えなかった。どう頑張ったって、所詮、父や母の血をひいている僕が、楽しい人生なんか送れっこないと。そうして、僕は、大人になり、やはり自分が想像していたとおりの退屈な人生しか送れていない。唯一、酒が飲める、という点に関しては、友人の意見に賛成するが。

夕飯のしたくをする妻に
「ちょっと出て来る。」
と、声を掛ける。

「どこに行くの?」
「飲んでくる。」

妻は、ふん、と鼻を鳴らした。

妻を見ていても分かる。大人というものは、まったく、トンネルの行き止まりみたいに、暗くて、憂鬱なものなのだ。

--

薄暗い酒場で、僕同様この街を出て行けなかった友達と酒を飲んで、馬鹿話をした。

僕が飼っていた犬の話になった。

「そう言えば、あの犬。結局どうなったんだっけ?」
僕は思い出せないで、記憶の旅に出る。

--

三歳の頃、僕は、誕生日に犬をもらった。狩猟用で、かしこく、あまり大型にならない種類の犬だった。病気をしたため狩猟には使えないと判断されて、父の友人を介して、僕の誕生日プレゼントになったのだ。犬は、病気のせいだろうか。その後も、あまり大きくならなかった。そうして、十二歳になるまで、僕と一緒に遊び、僕の部屋で眠った。ずっと一緒だった。

十二の誕生日の朝、犬は、口から少し白い泡をふいて、固くなっていた。

僕は、泣いた。

一人っ子だった僕には、犬が弟だったから。

父は、犬を処分するように、僕に言った。

僕は、首を振った。

「また、新しいのを買えばいいじゃないか。」
父は、腹を立てて、部屋を出て行った。

僕は、犬を大型のタオルにくるんで、リュックに入れて、家を出た。小柄な犬だったが、それでも背負うとずっしりと重く、僕の肩に食い込んで来た。

随分と歩いて、夜更けに辿り着いた宿に、なけなしの小遣いをはたいて泊まった。宿を切り盛りしている女は、僕を不審な目で眺めたが、僕は知らん顔していた。

夜、部屋で一人で、どこに行けばいいのだろう、と考えてみた。僕に行くあてなんかなかった。何で家を出たのかも分からなかった。だが、大人のやり方に反抗したかったのだ。

固いベッドのシーツの上に、犬の死体と横たわった。家を出てしまった僕は、この犬と同じくらい、地球上でどこにも行き場のない存在に思えた。

そうして眠りに落ちて。

多分、あのあと宿屋から知らせを受けた父が駆け付けて来て、僕を起こして殴った。そこまでは覚えている。

それから、犬は、どうなったっけ?

犬がどうなったかは思い出せない。

多分、父に命ぜられて、庭に穴かなんか掘って埋めたんだろう。

--

可愛い女の子が一人隣に座って来た。僕は彼女に酒を奢り、くだらないおしゃべりをした。

「二人でどっか行く?」
と聞いたが、彼女は、愛らしく笑って首を振った。

待っていた連れが店に来たらしく、腰を上げて行ってしまった。

僕は、彼女が歩くリズムに合わせて左右に揺れるお尻を眺めながら、もう少しアルコールが欲しいと思った。

--

随分と帰宅が遅くなり、冷めかけたスープが投げ出された食卓に着く。スープの中の肉は、すっかり固い。妻は、キッチンのテーブルに背を向けて編物をしている。

「これ、何のスープだ?」
僕は、奇妙な味がなんだったかを思いだそうとしながら、妻に訊ねる。

「犬の肉よ。」
妻は向こうを向いたまま、答える。


2002年01月20日(日) それは、男が女を抱く前の、ほんの一時の逡巡が成せる行いであったと気付いても。

恋人と会うために、マニキュアを塗る。

失敗しないように、息を詰めて。

痛いほどに張り詰めた心を抱えてマニキュアを塗る時間が、私にはとても大切だ。

初めて彼と指をそっと絡めた日に、「きれいな爪だね。」と、いつまでもいつまでも、私の手の平を表にしたり、裏にしたりして飽きずに眺めていた、その記憶が、私の大切な習慣を支えている。それは、男が女を抱く前の、ほんの一時の逡巡が成せる行いであったと気付いても。

何年もの日々、彼を想い、爪を塗る。その繰り返しだった、私の日々。どうしてこんなにも、慣れることなく、恋は痛みを伴うのだろう。

--

彼の姿を見つけると、抑えられず、笑顔がこぼれてしまう。

彼も、ゆっくりと微笑む。

「もう、何年、だったかな?」
彼が急に訊ねる。

「七年よ。」
「そんなになるか?」
「ええ。」
そうよ。私は、いつもそうやって数えて来た。

その日のデートでは、彼は、いつになく、いろいろなことを思い出すような目をして、独り言のようにしゃべってばかりなので、私は急に不安になる。

「ねえ、あなた?」
「なに?」
「今日は、おかしいわ。」
「そうか。おかしいか。」
「ええ。」

海岸に止めた車の中で、私達は、お互いの目を見ずに。

「前から、言おうと思ってた。」
「お別れですか?」
「ああ。」

私は、泣き出す。

前もこんなことがあって、結局、私は、泣いて泣いて。彼はそれに折れた形で。だから、今回も、そんな風に私の涙で彼の唇をふさいでしまえば何とかなるかもと、心のどこかで思っていたのかもしれない。

だが、今日は違っていた。あの時は彼は、私の涙に慌てて、私が泣き止むまで抱いていてくれたが、今日は違う。もう、抱いてくれない。だから分かる。彼は、本当に決意したのだと。

「もう、きみの保護者役は、私には荷が重いようだ。少し疲れてしまった。すまない。」

頭の中で、次に言う台詞を考える。

もう、無理に電話してって言いませんから。奥さんのこと、気にしたりしませんから。今夜は泊まって、なんて、駄々をこねたりしませんから。お願いだから。お願いだから・・・。

でも、もう、何を言っても無駄なのだ。

だから、「部屋まで送ってくださる?」と、だけ。

--

それでも日々は過ぎる。仕事に行けば、時間はつぶれる。

そんな風に思いながらマニキュアを塗ろうとして、指が止まる。

何のために、爪を染めるのだっけ?

もう意味がないわ、と、除光液で色を落とす。

今日は天気がいいから、春色が増えたデパートにでも出掛けて、洋服でも買おうかしら。と、外に出てみる。あの人が好んだのは、シンプルで、清潔さを感じさせるデザイン。と思いながら選ぼうとして。ああ。もう、そんなことにこだわらなくていいんだわ、と、苦笑して。それから、何も買いたいものがないことに気付いて、立ち尽す。

あの人に会ったら教えてあげよう、と読んだ本をメモに取る習慣も、会った数を記した手帳と一緒に、捨てる。

たかだか、漢字にすれば一文字で綴れてしまうその感情は、手の平に納まっている分量しかないと思ったのに、捨てようとした途端、私の目の前の何もかもを連れて行こうとするのだ。いつの間に、私はこんなにも多くのことを恋に委ねてしまっていたのだろう。

愛は、少しずつ少しずつ歳月をかけて、そうして、今やすっかり肌に馴染んでいて、脱ぎ捨てるには多くの血が流れるから。服のように簡単に脱ぐわけにはいかないのだった。

--

夕暮れに、おかっぱ頭の5〜6歳の女の子が、母親が急ぐ足取りに遅れまいと、一生懸命追って歩くのを、なぜか足を止めて、目で追う。

そういえば、遠い昔、幼い頃には、こんな風に無邪気にほとばしらせるのが「愛」だった。

せめて今頃、彼が手放したものの重さに身悶えしていてくれればいいのに、と。私と同じくらい、夕暮れが心に迫っていればいいのに、と。

思いながら、遠ざかる愛の後ろ姿を見送る。


2002年01月18日(金) やさしい顔だけ見せていて欲しかったか。だが、この残忍さも、俺だ。どうして、この残忍さを見過ごして、俺を愛していたと言えるのだ?

百獣の王のライオンは、小説を書くライオンでもあった。

だが、しかし、小説を書くことは、他の動物達には秘密である。知られれば、王の威厳に傷がつくかもしれないと怖れているのだ。それくらいに、ライオンの書く小説はやさしく、胸を打つものであった。動物達の評判もまずまずだった。

そういうわけで、ライオンは二つの意味で孤独だった。一つは、強い者として動物達を統治する立場としての孤独、もう一つは、自分が書いた物について語り合えない孤独。

どちらも、逃れられない孤独として、ライオンは、その宿命の中で生きていた。

唯一、ライオンに仕えているキツネは、内密にライオンに頼まれて小説の出版を代行していたため、ライオンの心を多少なりとも垣間見ることはあったが、それでも、ライオンの孤独を100%理解することはできなかった。

--

ある日、ライオンが木陰で昼寝をしていると、美しいウサギの娘が友人と通りかかった会話が耳に飛び込んで来た。ウサギの娘は、ライオンが書いた小説について、夢中でしゃべっていた。

「本当に素晴らしいの。私、あの小説を書いた人はとても孤独で、寂しさに苦しんでいるのだと思うわ。ああ。その寂しさを少しでも癒してあげられるものならば、私は、あの小説を書いた人のそばについていてあげたいの。」

ライオンは、飛びあがるほどに嬉かった。涙ぐんですら、いた。ライオンの孤独について語る言葉を聞いたのは、それが初めてだったから。

ライオンは、時をうかがい、ウサギの娘に姿を現した。

ウサギはびっくりしたようだが、ライオンが真剣なまなざしで姿を現した理由を語ると、黙ってうなずいた。そうして、その日から、強いライオンの後を追い掛けるように寄り添うウサギの姿が見られたが、動物達は何も言わなかった。それでも、草原の風に乗って、ライオンとウサギの噂話は、ライオン達の耳に入って来た。

--

ライオンは幸福だった。

ウサギは、やさしく、美しく、ライオンの孤独を理解しようとしてくれた。

「聞いてごらんなさいな。みんなが噂しているわよ。」
「私は、お前みたいに耳が良くないからな。どんな噂だ?教えておくれ。」
「恐ろしいライオンが、ウサギに骨抜きになってるって。失望している者すら、いるわ。」
「ははは。言わせておけ。」

ライオンは、ウサギに口づける。

ウサギは、もう、ライオンのするどい牙も怖くはない。

ウサギも、また、幸福だった。

強い者に守られている幸福。それから、誰かの孤独を癒しているという自己満足。

ウサギは、春の草原の中で跳ね回っているのが大好きだった。

--

だが、ライオンは、そのうち、病気のようにげっそりと痩せてしまった。

「どうなさったの?」
ウサギは、心配して訊ねる。

「どうしたのだろう。」
ライオンは、不安を振り払うように、答える。

風の声が聞こえる。

そんな暖かい草原で寝そべっていずに、崖っぷちで大声で吼えてごらん、と。

振り払っても振り払っても、しつこいくらいに、風は俺を誘ってくる。

そう言えば、最近は小説も書いていない。

一体、どうしてしまったのだ?

「ねえ、あなた、少しお疲れ?」
「馬鹿な。お前と、こうやって寝そべってばかりの私がどうして疲れるというのだ?」

ライオンがウサギに大声を出したのはその時が初めてで、ウサギは驚いてライオンを見つめる。ライオンは、そのウサギのおびえた目に何かを思い出せそうな気がした。

ウサギは、後ずさる。

ライオンは、ウサギの恐怖のせいで、忘れていた孤独を思い出す。

「そうだ。」
残忍な瞳が光る。

「どうなさるおつもり?」
ウサギの声は震える。

「私は、いつまでもここにいてはいけない。」
ライオンは、本来の自分に戻るためにも、憑りつかれたように、自分の体内からの声に耳を傾ける。

「あなた・・・。やっぱり、どんなにやさしい小説を書こうとも、本性は変わらないんだわ。」
「どんな本性だ?」
「残忍で、血を好む。」
「ほう。」

やさしい顔だけ見せていて欲しかったか。

だが、この残忍さも、俺だ。

どうして、この残忍さを見過ごして、俺を愛していたと言えるのだ?

「こっちにおいで。」
ライオンは、牙を剥いて、言う。ウサギはもう、身動きできない。

ライオンは、ウサギの首を、おさえる。首の骨の折れる音がして、赤い目の中に震えるものは動かなくなった。

ライオンは、ウサギを食らう。

ライオンは、体も心もすっかり飢えていた事に気付く。

残忍、とか、やさしさ、とか。って一体何なのだ?飢えを満たすために、動き続けるだけの話ではないか。それが生きるということだという、それだけだ。

--

たまたまそこを通りかかったキツネには、ライオンがこの上なく悲しそうにも見えたし、この上なく幸福そうにも見えた。キツネは、何となく嬉しくなって、そのことを動物達に伝えに走った。


2002年01月17日(木) 一つの愛に出会ってしまった。いろんなものが音を立てて壊れて行く音を聞きながら、私を自分を止められない。

「ねえ。」
小さな女の子が、仕事帰りの私に話し掛けてくる。もう辺りは暗い。迷子になったのだろうか?

「どうしたの?」
「これ。あげる。」
「これ、なあに?」
「天使の卵。」
「天使の卵?」

シルクのような肌触りのその柔らかい布で包まれたそれは、布越しに触ると、幾つかの球形のようなものだったが、大きさに比べて羽のように軽かった。

「人に見られないように大事にしてたら、そのうち、卵から天使が生まれてくるよ。」
「本当に、天使?」
「うん。」
「ねえ、こんなものどこで・・・?」

もう、女の子はいない。暗闇に溶けるように、見えなくなってしまった。

私は、天使の卵、と呼ばれる、ゴルフボールより少し大きい白いものを三個、小さなダンボールにタオルを敷いて、その上に置いてみた。小さな女の子が言うことなど笑い飛ばしてしまえば良かったのかもしれないが、私は、その時、そんなものを信じたい気分だったのだ。

--

私の憂鬱の原因は、二つあった。

一つは、付き合ってから三年が経とうとしている同僚教師からのプロポーズ。もう一つは、新学期から私が担任することになった、少々問題の多い生徒。

恋人であるその男も私と同じ高校で教師をしていて、人望も厚く、世間一般に言わせれば結婚には何の問題もない男だろう。それまでは、彼の指示で交際をひた隠しにして来たと思ったら、急に「結婚しよう。仕事は辞めてくれ。」と言われた。せっかちな恋人は、返事を急げ、と言う。

もう一つの問題は、親が離婚して、父親が海外に滞在していることが多いせいで、学校を休んだり、授業進行を妨げるような行動が目立つ少年が、三学期になって他校からやって来たことにある。

私は、ようやく慣れてきた仕事が面白くてしょうがないのだが、こんな悩みを相談すれば、恋人は、これは好都合とばかりに、私に仕事を辞めるように説得してくるだろう。

--

私は、夜になると、箱を開けて、その白い卵をそっと指で触ってみる。指で押すと殻は柔らかく、暖かく、息さえしているように思える。

「本当に、天使が生まれて来るのかしら?」
私は、想像すると、楽しくなる。

けれども、私は、天使をどうやって育てるのかを聞き忘れていた。

--

もう、他の生徒が帰ってしまった教室で、私は、彼を見つける。

「どうしたの?まだ帰らないの?」

いつもなら、私を茶化すか、顔をそむけてしまう少年は、力なく私に微笑んでみせる。
「お腹、空いちゃって。」
「昼、ちゃんと食べたんでしょう?」

彼は首を振る。
「今月の分、おやじが振り込んでくれてないんだ。」

彼は、いつもは違う表情の中に隠している子供のような顔を見せてくる。

「しょうがない。先生がラーメンでも奢ってあげるわ。」
「本当にっ?」
「ええ。」

しょうがない。飢えた子供を見過ごすわけにいかない。

私は、心でつぶやきながら、彼を車に乗せる。

彼の素顔は天使のように美しい、とその時初めて気付く。

--

「結婚のことなんだけど、返事させて。」
「ああ。」

私と恋人は、喫茶店で向かい合って座っている。

「お断り、します。」
「そうか。随分と待たせてくれたな。」
「ごめんなさい。」

恋人は、怒ったように、無言だ。

「噂を聞いた。」
「え?」
「きみと、きみのクラスの問題児が、教師と生徒以上の関係なんじゃないか、ってね。」
「誰が言ってたの?」
「いろんな人間が噂してるよ。それについて、きみに何も聞くつもりはないけれど。だが、僕は、もう、きみを守ってやれない。守ってやる義務もない。」

彼は、伝票を持って、立ち上がる。

彼は、私の顔を見て、最後に言う。

「きみの美しさ。外見も心も。そんなものに惹かれてた。あの噂が本当だとしたら、僕は、心底きみを軽蔑するよ。」

--

私は、涙に濡れて、部屋に戻る。

今更、どうしようもない。一つの愛に出会ってしまった。いろんなものが音を立てて壊れて行く音を聞きながら、私を自分を止められない。

部屋の隅の箱から、カサカサと音がする。笑い声のようなものが、時折響いてくる。

私は、天使の卵を入れておいた箱を空ける。

そこには、愛らしい、童話に出てくるような天使が、生まれ立ての表情で微笑みかけてくる。

私は、そうっと手を伸ばす。

「いたっ。」
慌てて手を引っ込める。

私の手から一筋の血が流れる。天使の羽は、刃物のようにするどく、私を傷付けて来た。

天使達は、箱から飛び出して、そこいらを飛び回る。

「キャッ。キャッ。」
と笑う。

私は、思わず、耳をふさぐ。

天使の顔は、あの、卵をくれた女の子にも、恋人の顔にも、少年の顔にも似ていた。

天使の羽が、ヒュンヒュンと、腕や顔に触れるたびに、私の体から血が流れる。

だが、天使の羽は、真っ白で。

清らかで。正しくて。無邪気に真っ白で。

決して、血に染まらない。


2002年01月16日(水) 彼と会うと、忘れていた形の恋を思い出す。ああ。恋って、こんな色や匂いを持っていた、と思い出す。

いつになく酒量が多い私を見て、
「またぁ?」
と、馬鹿にしたように、娘が笑う。

「うるさい。あっち行きなさいっての。」
私は、少々乱暴に空になったグラスを満たす。

あと1時間したら、Kは仕事から帰ってくる筈だから電話をしよう。

私は、その1時間をやり過ごすために、更に酒を注ぐ。

「ママ、また、Kのとこ電話するつもりでしょ。」
「うるさい。」
「フラれた時だけ、Kのこと利用するの、やめたら。」
「う・る・さ・い。」

年頃の娘というのは、母親がどんな形であれ恋をするのが気に入らないらしい。

それにしても、なんでだろ。

なんでかなあ。

私は、あれからずっと、一人の男を忘れようとやっきになって。何年掛けて、こんなことになっちゃったんだろう。刻まれた恋は、消えるどころか、歳月によって、なお、深く鮮やかになって行く。

--

「何で泣くの?」
別れ際になると、グズグズ泣く私に、彼は、いつもそうやって困っていた。

「分かんない。」
私自身、なぜか分からないけれど、なんの不安もない筈の恋を泣いてばかりいた。多分、私は、いつか来るであろう二人の別れのために、泣いてばかりいた。

そんな予想は当たって、やっぱり、私達は別れた。

なんで別れたんだっけ。思い出せない。多分、私がいろんなことに耐えられなくなったのだと思う。

それから、私達は、友達になった。

本来、私の中では男女の関係に、「友達」なんて言葉が当てはまったためしがない。激しく愛し合うか、憎しみ合うか、存在すら忘れ去るか。

だけど、彼とは、「友達」でも何でもいい。何か、関係を示す言葉をつけて、私はホッと安心したのを覚えている。

私達が「友達」になってから数年して、彼は結婚した。更にその一年後に、私も結婚した。それから、彼は離婚して、私も離婚した。

悲しいけれど、彼の離婚に私が関与した部分はカケラもないし、私の離婚にも彼は無縁だ。

そうして再会した。

--

もう、お互いに、「好き。」だとも言いそびれて。お互いに他に恋人も作って。それでも、私達は、時折、一つのベッドで眠る。

彼と会うと、忘れていた形の恋を思い出す。ああ。恋って、こんな色や匂いを持っていた、と思い出す。彼と一緒にいると、彼がいる場所がとても懐かしくてしょうがなくなって、私は、やっぱり、別れ際に泣く。ここを手放したら、私は一生、こんな風に懐かしい場所を失ってしまう、という感じに。

「馬鹿だな。泣かなくてもいいじゃない。そういうとこ、ちっとも変わってないよね。」
Kが、笑って、手を握ってくれる。

「いつでも、電話してくればいいんだしさ。」
そう。彼はいつだって暖かく受け入れてくれる。

だけど、決して。「愛してる。」とか「結婚しよう。」とか、そんなことを言ってくれない男。

私は、彼の手のぬくもりを感じる。

彼は、世界だ。

手に入らないから悲しいのではなくて、いつかその世界は消えてしまわないかと、そんなことが悲しいのだ。

--

「ねー。ママー。」
「なによ。」
「ねえ、あたしのパパってどんな人よ。」
「もう忘れちゃったよ。」
本当に、忘れたいくらいつまんない男だったんだもの。でも、唯一、娘という贈り物をくれた男。

「まさか、Kじゃないんでしょー?」
「違うわよ。」
「じゃさ。私、Kと恋愛してもいいんだ?」
「駄目。絶対。そんなことしたら、あんたを殺す。」
「っわ。こわーい。冗談だって。ママって、かわいいの。」

娘が笑い出す。

心配しなくてもさ、私は、それなりに幸せだから。

ねえ。今のままで大丈夫だよ。

グラスが空になったら、今日は、電話もせずに。この歳で、年下の子との恋は随分と疲れたもの。そんな風に言い訳しながら、このままウトウトと居眠りをしてしまおう。

そうしたら、きっと娘が肩に毛布を掛けてくれるだろう。

それもいつものこと。


2002年01月14日(月) 「ねえ、あんたはどうして一緒に連れてってもらえなかったの?」と、犬に聞いてみるが、犬は、知らぬ顔。

男が、とうとう逃げてしまった。

私の知らないところへ。

ある日、訪ねて行くと、部屋はもぬけの殻で、彼の飼っていた室内犬が一匹、どうしたもんやらという顔でダラリと寝そべっていただけだった。

男は、本当に行ってしまった。

もう、帰って来ないつもりなのだ。追い掛けて来て欲しいなら、何かしら痕跡を残して行くものだが、そんなものは一切なかった。携帯電話も、持たずに行ったのだ。

そう。さんざん付きまとった。愛してよ、とせがんだ。だから、逃げ出すのは無理もなかったのかもしれない。

だが、本当のところは、逃げ出す筈がないとずっと信じていた。彼は、不器用な性質で、子供みたいだった。私にしか分からない繰り言を、私だけが聞かされていた。他の誰も、私のようには彼を理解できないと分かっていたから。

--

仕方なく、その犬を連れて帰る。

考え様によっては、私のために捨てられてしまった犬。

お腹を空かせた犬は、帰りのホームセンターで買ったドッグフードをガツガツと食べ散らかす。マナーの悪さも飼い主の男そっくりだ。

あの日、彼が、友達にもらったと嬉しそうにその犬を見せてくれた時、私は、
「まったく、自分一人の世話もできない男が、どうやって犬の面倒を見られるって言うのよ?」
と、怒ったものだった。

--

夜中に、犬がそっと私の布団の中に入ろうとするから、私は布団の端を持ち上げてやる。

甘え下手なくせに、一人が嫌いで、誰かに寄り添わずにいられなかった男にそっくりな、犬。

そう。

あの人の、そんな寂しがり屋のところを知っていたのは、私だけの筈だった。

今頃、どうしているんだろう?

--

私は、仕事も休み、ぼんやりと過ごす。食事も、あまり欲しくない。

私がいないと駄目だと思っていたら、案外と平気で逃げて行ったのは男のほうで。こんな駄目男そのうち捨ててやる、と思っていたら、捨てられたのは私のほうで。

「ねえ、あんたはどうして一緒に連れてってもらえなかったの?」
と、犬に聞いてみるが、犬は、知らぬ顔。

--

ハサミを取り出す。

大きくて、よく切れるハサミ。

私は、そのハサミで、犬を切ろうと思う。

「おいで。」
と呼ぶと、犬は、素直にやって来た。

ハサミの刃をキラリと光らせて、私は、犬の肛門からハサミを差し込む。

チョキチョキ。チョキチョキ。

犬の皮を、左右に2枚、ペロリと剥がす。

チョキチョキ。チョキチョキ。

犬の胃は、食べたばかりのドッグフードでいっぱいだ。

チョキチョキ。チョキチョキ。

犬の脳にハサミを入れる。

犬の記憶が絵巻物のように、広がる。

煙草の匂いのしみついた、指先が、餌入れを差し出して、犬の名前を呼ぶ。

その声に混ざって、女の声が。

指の記憶。男の指とは違う指が、犬の腹を撫でている。

チョキチョキ。チョキチョキ。

そう。そんな風に、女がいたのね。私以外に、あなたを理解してくれる女が。

私は、犬の記憶も切り刻む。細かく。細かく。

--

もう、犬だけは目と鼻先だけになる。

犬は、クウンと鼻を鳴らす。

私は、その濡れた鼻に、自分の鼻を押し当てて、

「ごめんね。」

それから、チョキチョキ。チョキチョキ。

目も、鼻も切り刻む。

「あの人と一緒にいたのはとっても長い歳月だったのよ。だから、あの人なしでもやって行けるかどうか、知りたかったの。」

もう、切り刻むものは、何もない。

私の涙くらいしか。


2002年01月13日(日) 「ねえ。お願い。ちゃんと。いつだって、今しかないんだから。時間も、愛も、ふんだんにあるとは思わないで。」

彼女が、フラリとこの街にやって来て僕の部屋に住みついたのは、多分、ほんの偶然。

よくよく覗きこむと、ほんの少し灰色を帯びたその瞳は、どこか異国の血が混じっているのかもしれないが、彼女は何も言わないし、僕も聞かない。

僕は、恋をした。

彼女を見た、最初の瞬間から。

彼女は、
「世界中を旅して来たの。」
と、少し疲れたような表情で僕を見上げた。

「ホコリだらけの服を干している間、眠る場所が欲しいの。」
と言うので、
「なら、僕んちに、来る?」
と、僕は、ごく自然にそう言った。

彼女は、
「そう、ありがとう。」
と、気がなさそうに返事をして僕の部屋で服を着替えると、洗濯機が回っている間に、コトンと眠りに落ちた。
--

彼女は、女の子にしては本当に持ち物が少なかった。着替えが三組ほどで、あとは、地図が一冊。どこで手に入れて来たの?と聞きたくなるような年代物の地図で、とても旅の役に立ちそうになかったが、彼女はそれを日がな一日、楽しそうに眺めていた。

それから、僕に向かって話し掛ける。
「世界を侵略した男達は、行く先々で一番の美女を愛人にするのよ。」

僕は、彼女が何を言いたいのか分からず、生返事をしながら、彼女のトレーナーを脱がせる。

彼女の言葉の一つ一つがあまりにも甘美で、僕はそれに溺れそうになりながら、彼女を侵略したくてどうしようもなくなるのだ。彼女が、世界そのものに思えて。

「美女達は、強い男を拒む勇気がなかったのかしら。それとも、本当に、その男達に魂を奪われるほど恋してしまったのかしら?そんなに美しい女性が、みんな従順とも思えないのだけれど。」

僕は彼女の唇を、むさぼる。

彼女は、いきなりくるりと体をひるがえすと、僕の上に乗って、僕の上半身に体重を掛ける。

そうして、ひどくまじめな顔をして、僕に言う。

「ちゃんと聞いて。」
「ああ。聞いてるよ。」
「ねえ。お願い。ちゃんと。いつだって、今しかないんだから。時間も、愛も、ふんだんにあるとは思わないで。」
「ごめん。」

彼女が真剣なのを知って、僕は反省する。

「男は、美貌の愛人を侵略して我が物にすると、次の土地を求めて行ってしまうの。そうして、残された女達は自殺するの。愛を信じた結果が、それよ。」
「ひどい話だね。」
僕は、ため息をついてみせる。

「そうやって、美女の血で綴られて、ようやく、恋は歴史に刻まれるの。私は、そういうのは嫌だけど。女が一人で遠くへ行くことができなかった時代は、そうやって、異国の風を運んでくる男と寝るしかなかったのね。」

--

彼女は、少しずつ、言葉を出さなくなる。体も動かさなくなる。頭の中だけはくるくる動いているようで、その灰色の瞳は、どこかとても遠くを見ている。

「行くわ。」
ある日、突然、その一言が僕に向けられる。

「ねえ。次はどこに行くの?」
「もう、道があるところには行き尽くしたの。道という道を全て歩いた後は、道がない場所を歩いて、ここまで来たのよ。」
「で?」
「海。」
「海?」
「ええ。道がない場所に行きたいから、海。」
「きみがいないと寂しくなる。」

彼女は、僕の言葉に返事しない。もう、どうだって良くなっているのだ。

彼女は、地図に描かれた場所に倦み、何もない場所へ行こうとしている。

--

彼女は、もう、ほとんど声を失っている。

小さな声で、僕に告げる。
「海に連れて行ってくれる?」
「もちろん。」

僕の車は、海岸沿いの道を行く。

「ごめんね。」
「いいんだ。どこかに向かっていないと、きみは死んじゃうんだろう?どこまでも道は終わることなく、きみが遠くへと行くことができますように。」
「ありがとう。」

ふと、思う。彼女は、幾度、こうやって誰かを置き去りにするたびに、謝ってきたのだろうか。

その岸壁は、風が強く、僕らの会話も吹き飛ばされてしまいそうだ。

抱擁を交わす。

「ねえ。むこうを向いていて。お願い。」
それが彼女の、最後の僕への思いやり。

「うん。」
僕は、彼女の姿を瞳に焼き付けて、ゆっくりと彼女に背を向ける。

「さよなら。」
ささやくような声が聞こえて、少し長い時間を経た後、

パシャッ。

と、音がした。

ああ。

彼女は、きっと魚になったのだ。

僕は、海を覗き込むことはできなかった。あんまり悲しくて。だが、海を見ても、何も見えなかっただろう。

「さよなら。道なき道を行く人よ。」

そうして、車に乗りこんだ。

--

帰り道、空に舞っているカモメさえ、彼女に思えて。

彼女は、そんな風に思われるのは嫌がるだろうが、それは、ほんとうに、ひどく寂しそうだ。


2002年01月12日(土) 答えようとする私の喉元から、虫がせり上がって来て、私の唇を乗っ取る。私の貪欲な唇は、彼の唇を味わおうと、ぬらぬらと光る。

芋虫のような奇妙な虫が、私の体に住みついた。

そのことで、私はちょっと困っている。

虫は、飢えると活動を始めて、「何か食べさせてちょうだい。」と騒ぎ出す。そんな時、普段は白っぽい虫の体は赤味を帯びてくる。私の肌はとても白いので、皮膚の下で虫がうごめくと、虫の赤が透けて私の肌も桜色に染まる。

虫は、とても気まぐれで、体も不定形なので、私は、その輪郭を掴みかねて、ただ困惑するのみだ。

「ねえ。出てってくれない?」
私は、訊ねてみる。

「いやよ。」
彼女(多分)、は、わがままに答える。

「あなたのせいで、私は尻拭いが大変なのよ。」
「知らないわ。第一、本当に追い出そうと思うのなら、私はいつだって出てってあげるわよ。あなた、本当は、私がいなくなると困るんじゃない?」

虫はクスクスと笑う。

--

私は、ある企業の受け付け嬢をしていて、普段、取り澄ました顔でお客様を出迎えるのだが、虫が騒ぎ出すと本当に困ってしまう。虫は面食いで、気に入った男が入ってくるとうごうごとその体を激しくよじらせて、騒ぐのだ。

ねえ。お腹すいた。

待ちなさい。

私は、昨年からうちの会社に出入りしている、色の浅黒い営業の男を応接室に通す。

「こちらで少々お待ちください。」

彼は、私の手首をそっと掴んで、
「年末のあの約束、本当に?」
と、声をひそめてくる。

私は、無言でうなずくと、男の手をそっと振り払う。

「あとで、メールするよ。」
男の声が、背後からささやく。

ドアを閉じて、私はため息をつく。

あなたが、年末にあんなに騒ぐから、私は、あの男と会わなくてはいけなくなったわ。

私は、体の中の虫に文句を言うが、彼女は知らぬ顔で眠っているふりをする。

--

「こんな店で良かったかな。」
男は、メニューを見ながら、どんどんと注文して行く。

私は、その左手の指輪を眺めながら、冷たい日本酒をどんどん体内に流し込む。

既婚かどうかは、ともあれ、この男、なかなかいいわね。スラリと高い背の、その男の気持ちのよいしぐさに見惚れる。

「きみから誘いが来るなんて思わなかったからさあ。」
男は、心底嬉しそうにしゃべっている。

「ごめんなさいね。厚かましいお誘いをして。」
「いや。いいんだ。」

男は、よく食べる。私は、運が良ければ体内の虫を眠らせることができるのではないかと、アルコールを流し込む。

だが、男が
「そろそろ、出ようか。」
と言ったところで、虫は活動を始める。

「飲み過ぎたんじゃない?体がピンク色になってるよ。」
「ええ。私、飲んだら、すぐに出ちゃうんですよ。恥ずかしい。」

その瞬間、虫があんまりにも激しく動くので、私はビクリとして、よろける。

「大丈夫?相当酔ってるんだね。」
男は心配そうに、私の肩を抱く。

大丈夫です。大丈夫です。

何度言ったところで、私は、相当酔って危なっかしいように見えただろう。

--

ほどなく、男と二人きりの場所で、私は、男の腕の中にいる。

「きみが飲み過ぎないように、僕がちゃんと気をつけてあげていれば良かったね。」

答えようとする私の喉元から、虫がせり上がって来て、私の唇を乗っ取る。

私の貪欲な唇は、彼の唇を味わおうと、ぬらぬらと光る。

彼は、吸い込まれるように顔を落としてくる。

「すごいね。」

ええ。すごいわ。虫が。私の体を。

虫は、音を立てて、男の唇を、首筋を、体のそこかしこを味わう。私は、ただ、虫のやることに身を任せる。虫は、私の体を完全に乗っ取って、私の体を我が物のように扱う。私は、全身で男を味わう。それはもう、止められないほどの勢いを持つ。

「美味しい・・・。」
虫がつぶやく。

--

最近、本当に困っている。

どうやら、虫は、もうすでに私の一部と融合してしまっているようなのだ。

私は、心の中まで、虫に汚染されている。

その男の、長い指の、銀に光る指輪を外してしまいたくてどうしようもない気分になりながら、自らの意志で男の体にまたがる。


2002年01月10日(木) そう。それでいい。人間と比べたらあまりに異形なこの私は、悲しみよりも笑いに向いている。

私は、その目的のために作られた人形。

人形だからと言って、何が起こってもガラスの瞳であなたを見つめているだけではない。

たとえば、予想外のパラメータが与えられれば予想不可能な動作を起こす。

--

その男が、黙ってナイロンでできた私の髪の毛を撫で、強く抱き締めた。そのことが私には分からなかった。一晩中、そうやって。それまで、私は、服を脱ぎ脚を開くことしかできなかったが、男はそれを望まなかった。その晩も、その次の晩も、そのまた次の晩も。男は、私を固く抱き締めた。

何も言わないで、ただじっと。

男は、そうやって明け方帰って行く。

「抱いて行かないの?」
私は、訊ねる。

「ああ。勘違いするから。砂漠の中で、あっという間に砂に埋もれてしまうみたいに、本当に大事なものはすぐに分からなくなるから。僕は、とても不器用なんだ。」
「そう。」

本当に大事なものってなあに、と聞くことができずに、私は男が帰って行くのを見送る。

ホントウニダイジナモノ・・・

ホントウニダイジナモノ・・・

私は、それを理解しようとするが、データ不足のため、解答を導く出すことができない。

それまでは、ただ、男達が部屋に来て、私は仕組まれた笑顔で出迎えて、彼らの望むことをしているだけで良かった。ある日、突然、私は、その男のせいで、「本当に大事なもの」になってみたくなった。

「妻を亡くしたんだ。」
男は、打ち明けるように、つぶやく。

「失くした後で分かるんだよな。彼女と一緒にいる時間が、かけがえなくて、大事なものだった、って。失くした後じゃ遅いのに。もっと、たくさんしゃべっておけば良かったって。なんでだろうな。取り返しのつかないことをしたって思うと、苦しくてしょうがない。」

どうやって、彼女は、そんなにもあなたの「大事なもの」になることができたの?

私は、彼に「愛」という言葉を教わる。

--

私は、人間になりたかった。

人間のように愛されたかった。

私は、他の男を受け入れるのをやめた。

そのためだけに作られた人形は、その目的を果たさなくなったらスクラップ同然なのだ。

私は、もう、存在の意味などないのだろうか。

「誰かに愛されたら、それが生きて行く理由になるよ。」
耳元で、誰かが教えてくれた。

じゃあ、愛されなかったら?

その時は、本当に、ただのスクラップ。

--

ある晩、男は、何かに気付いたように私の目を見つめる。ガラスの目を見つめる。

「おいで。」
と、声を掛けてくれる。

私は、名前を呼ばれた犬のように、彼の膝に頭を乗せる。

彼は、私の髪の毛を撫でながら、
「すまなかった。」
と、謝る。

「どうして?」
「あれほど、妻の死を後悔しながら、またしても僕は目の前の誰かを愛することを怠っていた。」

でも、私は、スクラップ同然の、ただの人形よ。

「変だな。お前は人間じゃないのに。この皮膚の下に血が流れているのが見えるんだよ。」

それから、男は、私を仰向けにして、そっと体重を掛けて来る。

男は微笑んでいた。

そう。それでいい。人間と比べたらあまりに異形なこの私は、悲しみよりも笑いに向いている。

こうやって、人間のように交わることを繰り返せば、それはいつしか、本物の「愛」なるのだろうか?

ピノキオのように、本物の人間になることができるのだろうか?

それとも、願い叶わず、人魚姫のように、海の泡となって消えて行くのだろうか?

うまくすれば、老人に寄り添って一生を終える犬くらいには、愛されるかもしれない。


2002年01月09日(水) 酔ってしまえば、少しは楽に眠れるのにと思っても、体のどこもかしこも覚醒してしまって、少しも曖昧じゃいられない。

「雪が降って来たわ。早く帰んなきゃ、ここに閉じ込められちゃうわよ。」
店の女は、そう告げる。

雪か。

途端に、店から一歩も出たくなくなる。

「もう一杯もらえるかな?」
「飲み過ぎよ。」
「アル中なんだ。」
「ったく。どうして、世の中こんなにアル中が多いのかしらね。何が、ご不満?」
「好きな女がいたんだ。」
「で?」
「その女に電話しようと思って、毎晩、電話の受話器を取り上げる。急におじけづいて、ビールを一缶空けてからにしようと思いなおす。酒を飲めば、女に断られたって平気だって思えてな。」
「で、電話したら駄目だったって?」
「いや。そういう時に限って酔わないから、もう一缶、もう一缶。そのうち、ウィスキーのボトルを空けても酔わなくなる。」
「気付いたら、電話もしないうちにアル中になってたの?」
「ああ。」
「男って、全く。」
「そうだな。」
「女も一緒だけどね。」
店の女は、こちらの帰りたくない気持ちを察して、それ以上何も言わない。

雪が降っているから、酔えない。酔ってしまえば、少しは楽に眠れるのにと思っても、体のどこもかしこも覚醒してしまって、少しも曖昧じゃいられない。

--

肉の薄い、華奢な女だった。

手の先も、足の先も、どこもかしこも冷たくて、そのくせ抱くと、その体の中は驚くほど熱い女だった。

私達の息子も、彼女にそっくりだった。白い肌。茶色の細い髪。少しつり上がったような切れ長の目。薄い唇。

何も言わない女だったから、それに甘えて、私は家に帰らなくなった。女が嫌いだったわけじゃない。ただ、甘えてしまっていたのだ。

そうして、ある激しい雪の夜。

女は肺炎を起こしてあっけなく亡くなった。

部屋の中でじっとしているような女だったのに、どうして肺炎を起こしたりしたのだろう。

息子は、言う。

「ママ、パパが帰るのをじっと外で待っていたんだよ。僕、窓から見ていたもの。」

だが、実際には、彼女は外で雪に凍えてなくなったのではない筈なのだ。

「そのうち、雪が、ママを連れて行っちゃったんだ。」

息子の顔は無表情で、我が子ながらぞっとしたのを覚えている。

--

私が、息子の母親にと選んだ女は、前の女とは違って、色が浅黒く、手も、足も、大ぶりで。年中温かい手の平をしていた。息子のこともなにくれとなく可愛がってくれたが、息子は、どこかしら醒めた表情でそれを受けとめていた。

やさしい女だった。なつかない義理の息子に、毎晩歌を歌ってくれていた。

--

今年も、激しい雪が突如として降り始め、強風の中で狂ったようにぐるぐると舞っている。

「パパ!雪だよ。」
息子が叫ぶ。

「外に出たら駄目だ。ママだって、それで風邪をひいて、死んじゃったんだろう。」
私は、思わず息子を怒鳴る。

だが、息子は、玄関を開け放って外に飛び出した。

「待てよっ。」
追うが、間に合わない。

あたり一面が白くかすんでいる中に、小さな体が見えた。

近付こうとするが、吹雪が私と息子を隔てている。

その、雪の一片一片が、女の意志を持っていて息子を包み込もうとするように。

「パパ?パパ?ほら、ママだ。」
息子は、天に向かって両手を上げている。

近付こうとしても、視界がかすみ、そのうち、息子は雪の中に掻き消えてしまう。

--

雪にまみれ玄関で立ち尽くす私に、
「どうなさったの?」と、
色の黒いその女は、驚いて駆け寄る。

「息子は、溶けてしまった。熱い雪が。ここまで戻って来て息子を溶かしてしまったんだよ。」
私は、放心してつぶやく。

--

それから何年経っても。

あの日、雪が奪った何もかもが、もう二度と戻って来ない。冷たくて白い小さな指を思い出す。何もかもを包む温かい手の平さえ、あの瞬間、ひんやりとした氷を握ったように引っ込められた。

溶けてしまわぬうちに、どうして手を差し出してやらなかったのか。


2002年01月08日(火) 彼は、それから重い扉を開けるように、口を開く。「あの頃、僕は、きみ以外の誰とでも寝ていた。」

理想の、完璧にして永遠な「一対」など、あるのだろうか。
そんなものが本当にはないのなら、なぜ、人は、運命などと名付けて、まだ見ぬ「その人」を求めてさまようのだろう。
そんな疑問が頭を離れない。

けれども、私の体は、そんな疑問を振り払うかのように、男を求める。

どこか、上の空で求める。

ほんの少しやさしい言葉があればいい。頭をなでてくれて、その時だけ、ぎゅっと抱き締めてくれる胸があればいい。その胸に顔をうずめるから、顔は見えなくていい。たった一握りの、それだけのやさしさと引き換えに、私は体を明け渡す。

私だって、最初からそんな風ではなかった筈だ。少しずつ、波が打ち寄せるたびに砂の城を削って行くように、「信じる心」を削られて、私は、そんな風に人生に折り合いをつけることを学んだ。

--

大学時代の恋人に出会ったのは、そんな「割りきり方」を覚えてしまって、そのやり方で当分は生きていける、そんな確信を持った頃だった。彼は、付き合っている頃、決して私を抱こうとしなかった。手を繋いでくれた。いつまでもおしゃべりしていた。泣いた時だけ、抱き締めておでこにキスをしてくれた。だけど、決して抱こうとしなかった。

「久しぶり。」
私が笑い掛けると、彼は、
「ああ・・・。」
と、照れたように笑った。

私は、彼の目を正面から見ることができるくらいに大人になっていた。

「結婚は?」
「まだだよ。」
「恋人は?」
「いない。きみは?」
「そうね。私も、特定の人はいないわ。」

以前なら息が詰まるほど苦しかった彼との逢瀬も、余裕で笑って見せることができるほどに、私は大人になったのだと思った。

居酒屋をニ軒も三軒もはしごして、二人ともべろべろになって。

彼は、
「うち、来る?」
と、そっと聞いて来た。

「うん。」
胸がドキリとする。

だが、やはり彼は私を抱こうとしなかった。

「ねえ、あの時・・・。」
「ん?」
「どうして私を抱いてくれなかったの?」
「さあ。どうしてだろう。」
「あの頃、みんな、もっと自由にセックスしてたわ。」

彼は、濃い酒をどんどんと流し込む。
「飲み過ぎよ。」
「中途半端に飲むのが一番良くないんだ。無責任な行動すら取れないくらいにたくさん飲んだほうがいいんだよ。」

彼は、それから重い扉を開けるように、口を開く。
「あの頃、僕は、きみ以外の誰とでも寝ていた。」

私は、激しく打ちのめされる。

「私のことはどうして抱いてくれなかったの?」
それは、悔しさとも、悲しさともつかなかった。

「どうしてなんだろう?きみとの関係があんまり大事だったから・・・。なんて、理由になるかな。」
「そうなの。それで?今は?」
「きみと別れてから、誰とでもは寝なくなった。」

彼は、更にグラスを空ける。

私は、彼を慰めるように、つぶやく。
「ねえ。大人になるって、もっと簡単だと思ってた。でも、随分と大変だよね。」

それから、私は、彼を誘うが、彼は私の手をそっと外す。

「ねえ。何を信じてるの?」
私は、彼がかたくなに信じているものを壊したくて、問う。

「私なんか、とっくに信じているものを奪われて、今では誰とでも寝るわ。」
「そうだな。何を信じているんだろう。でもさ。例えば、大人になることが、信じているものを一つ一つ壊されて、何も信じなくなることだとしても。逆に、何も信じていないって言い張ってる子供が、大人になってもどうしても捨てられずにいるものがあるって気付いた時に、さ。それを、信じる、と呼んでもいいんじゃないかなって思うわけ。」

そんなことに気付く前に、もう、とっくに、たくさんのものが壊れてしまった。

--

私は、寒い夜道を帰る。

手がかじかんでアパートの鍵がなかなか掴めない。

いきなり、私を背後から抱きすくめる男がいて、私は悲鳴をあげそうになる。

「お前のことがまた抱きたくてさあ。また遊ぼうよ。」
たしか、以前寝た男。もう、顔も忘れかけていた男が、乱暴に私の唇をふさごうとする。

いつもなら笑いながら、そんな男を受け入れていただろう。

だけど、今は。どうしたことか、私は男を押しのける。

その時、「やめろよ。」と声がする。

泥酔していたから部屋に置いて来た筈の男は、怖いくらいに私を見つめる。

私の目から、途端に涙が溢れ出す。涙なんて、そんなもの、随分と長い間流していなかった。もう、泣き方さえ忘れたと思っていた。

顔も忘れた男は、何やら捨てゼリフを吐いて去って行く。

私は、泣きじゃくる。泣きじゃくる。どうしても止まらない。

泣かないように笑い方を覚えようとして失敗した女の子のようにいつまでも泣いて。


2002年01月07日(月) その芋虫を、そっと撫でながら、彼女はしゃべり続ける。それはぞっとするくらい気味悪くうごめいていた。

成長の過程で、誰しも、一時期憧れる女性に巡り会うのではないだろうか。

私にとって、一番、鮮烈な印象を与えたその人は、少し歳の離れた兄の奥さんとなったミチヨさんという人であった。

決して美人ではないのに、あふれんばかりの美しさがにじみ出ているような人に、私は初めて出会った。声が美しい人であった。たたずまいの正しい人であった。「凛とした」という言い方は、選ばれた人にしか使えない言葉であるだろうが、まさに、「凛とした」という言葉がぴったりくるような、そんな生き方をする人であった。

大学に行くために家を出ていた私は、帰省した時には、必ず、実家の近くに住む兄の家を訪ねて、彼女と、話しこんだ。大勢の兄弟姉妹の間で育ったという彼女は、姉らしく私にさまざまなアドバイスをしてくれて、私の深いツボの底でグズグズしているような性格を、ぐいっと押し上げてくれるのだ。

たとえば、ミチヨさんは、こんな話をしてくれた。

「私ね。あの人とお見合いで会ったのだけれど。顔がこんなでしょう。だから、彼も、最初はしぶったみたいでね。」
「ひどい。そんなことを、兄が?」
「そうなの。お義母さんにね、『写真よりひどい顔だったら、俺、断るからな。』なんて言ったらしいわ。」
「それで?」
「どこを気に入ってくださったんでしょうね。お見合いの別れ際にね、私が彼の乗った車を見えなくなるまで見送ってたのね。それが良かったとか、何とか、言ってたわ。」
ミチヨさんは、笑いながらお茶を煎れてくれた。

実際、彼女の容姿など、会った人はすぐ見えなくなってしまう。その内面の美しさが、容姿がどうであったかを忘れさせてしまうのだ。後には、彼女の暖かい声だけが耳に残る。

--

それから、私はいつしか結婚し、子供を産む時を迎えた。私は、常にミチヨさんという女性を目標に、彼女に心のどこかで頼って来た気がする。

だが、いつしか、お互いに子育てに追われて、兄夫婦の家への出入りから遠ざかっていた、ある日。ふと、思い立って、ミチヨさんを訪ねる。

「あら、いらっしゃい。」
そう、この笑顔だ。

私は、安堵に包まれる。

「今日、ご主人は?」
と、聞かれて。
「ゴルフです。半分仕事みたいなものだけど、土日はいつもいないの。」
「そう、えらいわね。」
「何が?」
「お釈迦様が手の平で転がしているようなものね。」
「私が主人を?」
「ええ。えらいわ。あなた。」
「そんなこと。考えてもなかったです。」

それはそんなにえらいことなのだろうか。そのミチヨさんの声の寂しさに、私は、なぜか激しく驚く。兄は、のんびりとした性格で、それこそ、ミチヨさんというお釈迦様の手の平で機嫌良く居眠りしているような男なのだ。

--

その頃からだろうか。

彼女と会うたびに、何かがどんどんと変わって行くように思い始めたのは。あるいは、私が大人になってしまって、夫婦とは、家族とは、そんな風に絵に描いたように正しく在るわけにはいかないと知ってしまったからかもしれない。

姑の愚痴。

子供へのしつけの厳しさ。

彼女の正しさが、彼女を苦悩させている。

--

「お義姉さん?」
その日、甥の進学祝を持って訪ねた私は、放心する彼女に驚く。

「電話がね。ナンバーディスプレイに変えたのだけど。夜、向こうで泣き声がするの。きっと、あの人の浮気相手だわ。」

それから、疲れた目で、私に笑顔を作ろうとする。もはや、彼女は背筋を伸ばす元気もない。

彼女は、手の平に芋虫を載せていた。その芋虫を、そっと撫でながら、彼女はしゃべり続ける。それはぞっとするくらい気味悪くうごめいていた。

どこかで似たようなものを見たことがある。

それは、私の心にも、誰かの心にも、飼われている一匹。

だけど、彼女のそれは、とてつもなく大きく。

彼女が自らの刃で付けた傷から血を吸いとって、どんどんと膨れ上がって行くように見えたのだった。


2002年01月04日(金) 「なんと、美しい脚。」舌が、その手に入れたばかりのなめらかな白い肌を這う。その瞬間。

美しい人魚姫は、海底で幾多の人魚の男達の求愛を退けていた。

そうして、夢見ていた。

人間の男のことを。

二本の足を持ち、自在に陸を歩き回る人間に憧れ、ため息をついた。

お姉さん達は、そんな人魚姫を馬鹿にしていたけれども。

--

静かなはずの海底ですらざわざわと落ちつかない、ある嵐の日。

人魚姫は、とても興奮して、海面から顔を出し、その黒い雲が覆い被さり、雨を海面に激しく叩きつけてくるのを、海に浮いた全てのものをもてあそぶのを、じっと見ていた。その船は、もう、意志を奪われ、ただ、あちらへこちらへと激しく揺さぶられ、やがてひっくり返ったかと思うと、乗員も、荷物も、放り出してしまった。

あっ。

人魚姫は、慌てて、近くまで泳いで行く。

そこに一人の美しい若者の姿。青ざめた顔は、死んでいるようで。ゆらゆらと沈んで行く。

なんと、美しい御方。急いでそばに行き、抱き留める。

人魚姫は、その若者を浜辺まで連れて行き、嵐が過ぎ去るまでの間、介抱を続けた。

「おねがい。その瞳を開いて。私を見て。」

人魚姫の必死の祈りは聞き届けられたのか、やがて、その若者はゆっくりと瞳を開く。

「ここは?」
「・・・の海岸よ。」
「きみは?」
「人魚姫。」
「あなたが伝説の?なんと、美しいのだろう。」

若者は、姫を見つめ、感動したように、指でそっと姫の輪郭をなぞる。

「これを、お礼に。」
若者は、紋章のついた美しい絹の巾着を人魚姫に渡す。

人の声がする。人魚姫は、慌てて若者に口づけて、その場を去る。浜に出て来た漁師に若者を託すため。

--

姉達は、笑う。人間に恋したって?

人魚姫は、魔法使いを探しに行く。

あの人に会えるならば、どんな犠牲も構わない。

魔法使いは、冷たい目で、じっと人魚姫を見つめる。愚かなことを望むものだと言わんばかりに。

「お願いです。人間にして。二本の足を手に入れることができたら、私は何でも差し出します。」
「ふむ。」

魔法使いは、値踏みするように、人魚姫を長い時間眺め、それから、重い口を開く。

「その、美しい声。鈴を転がすような、美しい声。その声さえあれば、人間の男などいくらでも惑わすことができる、その声をおくれ。」
「はい。」

人魚姫は、そうして、言葉を失い、人間になる薬を手に入れた。

--

それから、浜辺まで行き、薬を一息に飲み干す。

手に、紋章入りの巾着を握り。

そうして、人魚姫は、無事に若者、いや、その国の王子と出会うこととなる。

「お前は、いつぞやの?」
王子は、好色な微笑みで、姫を抱き寄せる。

覚えていてくれたのですね。うれしゅうございます。

言葉は、奪われたまま。

「驚いたな。人間の娘になって、私を追ってくるとは。」
王子の、その目に宿るのは、好奇の光。

「なんと、美しい脚。」
王子の舌が、その手に入れたばかりのなめらかな白い肌を這う。

王子が、その人魚姫の脚を分け入って、そっと体重を乗せて来た、その瞬間。

なぜか、人魚姫は、取り返しのつかないことをしたという想いに打ちのめされる。

悲しみが涙となって溢れ出す。

どうして、私は、尻尾を捨てて、こんなところまで来てしまったのでしょう?なぜ、あのキラキラ光る鱗に包まれた、人魚の誇りを捨てて。

無性に悲しくなり、声にならない涙を流す。失ってからでは、もう遅い。

王子は、そんなことに構わずに、人魚姫の脚を無造作に撫でまわす。


2002年01月03日(木) 「だけど、その時にはもう遅かったの。その道が、地獄に続く一本道であろうと、私は進むしかなかったの。」

「花があったの。きれいな。甘い香りの。手に取ってみたいと思ったの。だから、その花を摘んだわ。」

女は、夢見るように、語り始める。

「だけどね。その先を見たら、また、きれいな花があるの。だから、一歩踏み出して、その花に近寄って。また手に取って。最初は夢中だったわ。何も考えずに、花を追い掛けていた。蝶のようにね。そうして、どんどんと、森の奥深くに入っていって。その頃には、もう、戻る道が分からなくなってたの。」
「それから?」
「それから。花を手折る手元に、血のしずくが落ちて来て、初めて気付いたの。ああ。誰かが、泣いてるってね。」

女の目は、どこか遠くを見つめていて、その表情は、まだ、夢から醒めていないのだろうかと思わせる。が、小刻みに震える手が、彼女の正気を教えてくれる。

「だけど、その時にはもう遅かったの。その道が、地獄に続く一本道であろうと、私は進むしかなかったの。」

--

女は思い出す。

あの辛い日々。

男の妻から携帯に何度も電話が入り、私は、そのたびに携帯の番号を変えた。なのに、なぜ、男の妻は、変えても変えても、私の電話番号を探し当てるのだろう。

男は、もしかして、妻に教えているのかもしれない。

そうして、言うのだ。
「あの女、しつこくて困るよ。」

妄想が膨らみ、私は怯える。

だが、実際に会えば、男は限りなく誠実な顔で私を見つめる。

「どうしたらいいのだろう。」
と、二人でため息をつく時、一人ではないことに安堵する。

「もうちょっと待ってくれないかな。妻には、ちゃんと話しをするから。」
男は私を抱き締めて、言う。

男は絶対に家庭を捨てないよ。

友達の忠告が頭をよぎる。

私は、それを振り払うように、男に口づける。

--

「誰かが泣いていると知って、それできみは平気だったのか?」
女に問う。

「平気じゃなかったわ。だけど、なぜかしらね。私のほうが勝っていると思ったのよ。そうして、私と彼だけが、同じものを見ることができていたの。」
「同じもの?」
「ええ。同じものよ。だまし絵の森に、急に動物達が見えて、鳴き声が響き始めるるように、ね。私と彼だけは、そこにある、誰も気付かないものを見て、聞いていたの。」
「じゃあ、なぜ、彼を殺したのだ?」
「さあね。多分、あなたには一生分からないわ。」

女は、くすくす笑う。

「恋をした時ね。そこに、世界が出現したの。道があったわ。目の前に道があったから、進むしかなかったの。さっきも言ったように、花が咲いていたわ。それから、気がつくと、甘い匂いのする花は途中からなくなったの。あとは、暗闇が続いていた。悲しい泣き声が響くのだけど、それが誰の泣き声か分からない。それでも、進むしかないの。もう、元の場所には戻れないから。そうして、地下に続く扉があって、そこを開けたの。石段を下りて行くと、石のテーブルがあった。」
「で?」
「でね。肉切り包丁があって、彼が祭壇の上で眠っていたの。」
「だから、殺したと?」
「ええ。そうするしかなかったのよ。彼も、望んでいたの。」

女は、最後の煙草を取り出すと、火を点けようとするが、手先が震えてうまく点けられない。

「ねえ。あなたには分からないのよ。そこに道があったら、踏み出さずにはいられないの。あなたなんかには分からないわ。」
「そんなもんかね。」
少々腹立たしくなって、私は言う。

「そんな恋、したことある?」
「ないな。」

彼女の瞳が見ている世界を、ついうっかり覗いてしまわないように、目をそらして答える。

--

花を。花を渡したかったの。彼に。

手にいっぱいの花を。

あんまりしっかり握り締めて、それは、そのうち、手の中でボロボロになって来たけれど、決して、手放してはいけないもの。その恋が、私一人の妄想でなかった証に、誰かに見せないといけなかったのだ。

--

「そろそろ行かなくちゃいけないんでしょう?刑事さん。」

ああ。そろそろ行こう。

女は、寒くはないのに、震えてどうしようもない腕に、ドライフラワーの花束をしっかりと抱えて歩き出す。私も、思わず、寒さが感染して、垢じみたコートの前をしっかりとかき合わせ、彼女の背をそっと押す。


2002年01月01日(火) 「どうしよう。ねえ。恋をしたら、どうしたらいい?」ある日、誰かに聞いてみたくてどうしようもなくなった。

お正月は、そう好きじゃない。

家庭持ちの男に恋している女なら、誰だってそうだろう。

ただ、じっと自分の気持ちを抱き締めているしかない時。

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一人で生きて行くことを決めたから。だからかしら。人より多く恋をして来た。みじめに見えないように。寂しく見えないように。肩肘張って見えないように。恋をたくさんしてきたつもりだった。

だけど、そんなものの多くは恋ではなかったと気付いたのは、それこそが恋だと確信した瞬間だった。

「どうしよう。ねえ。恋をしたら、どうしたらいい?」
ある日、誰かに聞いてみたくてどうしようもなくなった。誰でもいいから、問い掛けてみたいと切望した。

そんな衝動のせいで、それが恋だと分かった。そんなことで、オロオロするほどに、私は恋に不慣れだったのだと知り、愕然とする。

「ねえ。ほんとうに。どうしましょうか。」
だけど、そんな問い掛けをするほどには、私は友人と呼べる人もいなかったのだと、また気付く。

誰か、友達を作っておけば良かった。打ち明け話をする友達を。

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大晦日。男のことを想う。今頃、家族と、正月の買い物でもしているだろうか。大掃除をしているだろうか。家族と笑い合っているだろうか。

分かっていた。

かけてはいけない電話を掛けるために、受話器を取る。

時間は、午前三時を回っていただろうか。

指が覚えたナンバーを押す。

男は、すぐ出た。

「もしもし。会いたいの。今すぐ。ねえ。お願い。電話しちゃ駄目だって分かってて・・・。」
「すぐ行くよ。すぐ行くから、待っていなさい。」

意外にも、男はやさしい声。

ごめんなさい。

会える、と知った安堵から、涙が出そうになる。

--

「ごめんなさい。」
私は、謝る。

男は、黙っている。

「ねえ。怒ってる?お正月から、電話したりして?」
「もちろん。ちょっとばかり怒ってる。」
「ごめんね。我慢できなかったの。」
「仕方ない。」

男は、私の手を軽く握って離すと、車を発進させた。

小一時間は、車を走らせていただろうか。

車を停めて、男は、降りる。私も、慌てて降りる。

「僕も。」
「え?」
「僕も、会いたかった。」

男は、私の前を歩く。私は、後を追う。

少し、薄明るくなった空の下、神社へと続く石段を、黙って登る。

「本当に?」
私は、遅れないように、一生懸命後を追いながら、訊ねる。
「ああ。」

私は、安堵から、男の腕にすがりついて。あれやこれやと、話し掛ける。黙っていたら、暗闇に、彼が見えなくなりそうで、話し掛ける。

彼は、急に、

しっ。

と、私の唇に人差し指を当てる。

明け方の風の音が、耳をかすめる。木々が、ザワザワと音を立てる。

それから、石段を上がり切ったところで、私達は腰を下ろす。

向こうの街並みが光りに染まっている。

日の出は、風の音、木々の声を伴って、静かに明けて行く。

じっと、黙って。

見過ごさないように、聞き逃さないように、息を潜めて。

長い、けれども、退屈でない時間。

それから、あたりがすっかり明るくなった頃に、私達は、立ち上がる。

帰り道、無言のまま。

私のマンションの前に車を停めて、彼は言った。
「ゆっくりがいいんだ。その代わり、長く恋をさせてくれないかな。僕のわがままだけれども。」

私は、うなずく。

急ぐばかりに、いろんなものを聞き逃し、取りこぼす。そんな恋は嫌なんだと。彼は、その時言った。それにきみに分けてあげられるスペースはとても少ないんだ、と、そんなことも言う、正直な男だった。

彼が、その日、奥さんに何と言い訳したか、私は知らない。

--

それから、一年。

恋は続いている。

静かに。

ひっそりと。

今年のお正月は、一人きりで。

私は、孤独から多くを聞き取る。

たとえば。

鳥は、大空を一人で飛ぶだろう。それは、泣いているように見えるけれど。ただ、遠くに憧れて飛んでいるのかもしれない。というようなこと。


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