セクサロイドは眠らない

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2004年10月27日(水) ねえ。先輩、大したことないんです。死ぬのって、悲しいことじゃない。この一年、僕はちょっとずつ死んでいたんです。

「おかえり。」
「ああ。ただいま。」
「遅かったね。」
「うん。」
「あ・・・。あの。」
「ああ。いいよ。」
「ごめん。」
「いいんだ。」

僕は、カップ麺を取り出して、湯を注ぐ。

「ほんと、ごめん。」
「いいって。飯は、食べる者が自分で作ればいいのさ。それより、ね。今日も会社で嫌なことばっかりだったんだ。きみの笑顔のことばかり思って我慢してた。だからさ。笑っててくれたらいいんだ。そこで。」
「ん・・・。」

僕がズルズルと麺をすするそばで、彼女は訊ねる。
「おいしい?」
「そうでもない。やっぱ、飽きちゃうんだよな。」
「でもさ。おいしそうに食べるよね。」
「そうかあ?」
「うん。初めてご飯一緒に食べた時から、ずっと思ってた。」
「いつも腹すかせてるだけだろ。」
「あはは。そうかも。」

彼女は、帰宅の遅い僕を、いつもこうやって待っている。そして、嬉しそうにニコニコと僕が食事を取るのを眺めるのだ。

彼女が食事を取らなくなってからどれくらいが経ったっけ?

そりゃ、一緒に食べたいさ。一人の食事は寂しいものだ。

そう言って彼女を困らせたこともある。

だが、今は違う。そばにいて笑顔を見せてくれればそれでいいんだと。本当に心の底から思うのさ。

彼女は、食事をしない。もう、食べなくなってから一年が経つ。

--

朝の光がまぶしい。

「おはよう。」
彼女が微笑んでいる。

「ああ。おはよう。」
僕は、枕元にある時計を探す。

「7時過ぎたところよ。」
「ん・・・。起きるかな。」
「昨日、遅かったのにね。」
「うん。仕方ないさ。納期が迫ってるんだ。」
「今日も遅くなるの?」
「ああ。そうだな。」
「体、壊しちゃうよね。」
「大丈夫さ。」

急いで顔を洗い、服を着替える。

「朝は食べないの?」
「うん。要らない。」
「別に、合わせてくれなくていいのよ。」
「違うよ。本当に要らないんだって。」

僕は、コーヒーを一口だけ飲み、上着を抱える。
「じゃあ、行ってくる。」
「うん。頑張ってね。」

彼女は笑って手を振る。

僕は、疲れた体に鞭打って職場に向かう。

彼女は、寝ない。もう寝なくなってから一年が経つ。

--

「今日、終わってから一杯やらないか。」
「ああ・・・。えと。すいません。」
「なんだ。またかよ。」
「すいません。」
「んー。駄目だ、駄目だ。今日は絶対に付き合え。」

僕は、先輩に逆らう気力もない。
「分かりましたよ。」
「よし。奢りだ。しっかり食え。お前、最近痩せてきたぞ。」
「ダイエットですよ。」
「嘘つけ。」

ああ。仕方ないな。早く帰りたいというのに。

--

ビールのジョッキが運ばれて来たのを早速、一息で飲み干して先輩は言った。
「おい。本気だぞ。本気でお前のこと心配してるんだからな。」
「分かってますって。」
「いや。お前は分かってないよ。俺がどれだけお前のこと気にしてるか。」

あれやこれやと皿が並び始める。
「おい。少しは食えよ。」
「いや。食欲ないんで。」
「食欲ないって、そりゃ、体に悪いぞ。」
「平気ですって。」

先輩は、途中から焼酎に切り替えている。こりゃ、今夜は当分帰らせてもらえそうにないな。僕は小さくため息をつく。

散々飲んで足元がふらつく先輩を抱えて、僕は店を出る。

「ちょっと飲み過ぎですよ。」
「うるさい。お前こそ、もっと飲め。」

僕らは一緒にフラつきながら、タクシー乗り場に向かう。

「あのな。」
酒臭い息が近付く。

そして、こればかりは真顔で言うのだ。
「チアキのことな。もう、忘れろよ。」

僕は、答えずに先輩をタクシーに押し込む。

あの頃。結婚前の先輩とチアキと僕は、三人いつも一緒に笑ってた。経理部のマドンナのチアキとゴールインした時、先輩、本当に喜んでくれたっけ。

--

「おかえり。」
「遅くなってごめん。」
「いいの。」
「先輩につかまっちゃってさ。」
「いいの。本当に。」

僕は、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを一息に飲む。

「幸せかい?」
僕は、彼女に訊ねる。

「なんなの?唐突に。」
「答えてくれよ。」
「ええ・・・。幸せよ。多分、前よりももっと。」
「僕も、そうなれるかな?きみみたいに。」
「なれるわよ。きっと。」
「だといい。」
「辛いの?」
「ああ。そうだな。辛いな。時々、胸を掻きむしりたくなるほど、辛いさ。」
「可哀想に。」

彼女は、そっと僕に手を回す。

その手はひんやりと、火照った僕の体の熱を冷ます。

--

「大変だ!」
「救急車、呼べ。早く!」
「おい。大丈夫か?しっかりしろ。」

周囲が騒がしい。

手を動かそうとするが、首から下が上手く動かない。

どうやら、仕事中にドジったらしい。僕の体は地面に叩きつけられた。

「おい。しっかりしろ。おいっ。」
先輩の声も聞こえる。

「大丈夫ですよ。」
答えているつもりなのに、先輩には届いてないみたいだ。

僕の体はどこかに運ばれている。早く帰らなくちゃいけないのに。

大勢の人の声が飛び交っている。

--

「今夜が峠です。」
医師らしい男の声が聞こえる。

「何とか助けてやってください。」
「我々もやれることはやりました。ご家族へ連絡は?」
「あの。こいつの女房、一年前に亡くなっちまって。」
「他のご親族は?」
「それが、いないんで。俺がまあ、代わりってことで。」

先輩と僕だけが病室に残されたようだ。

僕の目は閉じられたまま。

「なあ。まさか、お前、チアキの後を追おうってんじゃないだろうなあ?おい。しっかりしろよ。」

気がつけば、彼女がそばにいた。目は見えていなくても、彼女の姿だけは見える。
「遅いよ。迎えに来たよ。」
「あ。うん・・・。ごめんな。また先輩につかまって。」

彼女の手が、僕の手を掴む。そっと。冷たい手。チアキの。

その手を取ると、僕の体もすっと軽くなって、起き上がることができた。

「おい。しっかりしろって。なあ。ちょっと。看護婦さん。容態がおかしいみたいです。」
先輩が大声を上げている。

僕は、チアキの手に導かれるままに、今まさに、病室を出ようとしている。

先輩。大丈夫ですって。ねえ。先輩、大したことないんです。死ぬのって、悲しいことじゃない。この一年、僕はちょっとずつ死んでいたんです。

「ねえ。早く行きましょう。」
チアキの声。

先輩、すいません。

その時、先輩の叫ぶ声が響く。
「チアキ、連れて行くなあっ!」

その瞬間、僕の体は急に重くなり、チアキの手を離れ引き戻され、痛みの感覚が体に戻り、頬に涙が伝う・・・。


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