セクサロイドは眠らない

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2002年08月05日(月) いろんなことを考えるのが面倒だった。空っぽの僕の人生にとって、腕一本の価値はひどく軽かった。

目が覚めると、そこは病院だった。

しばらくの間、自分の身に何が起こったのか判然としないまま、ぼんやりとしていた。

「お気づきになられたんですね。」
看護婦がやって来て、僕の手首を取って脈を測っている。

「ここは病院ですね。」
「ええ。もうすぐしたら、ご家族の方が来られると思います。」
「事故・・・、ですよね。」
「そうです。」

その時にはもう分かっていた。僕の左腕の肘から下が無い事に。

「あとで先生が来て詳しい説明をしくださいますから。」

--

思い起こす。

あれは、深夜のことだった。僕は、車でバイパスを走っていたのだ。その時、中央分離帯を乗り越えて大型トラックが迫って来た。

全ては一瞬の事だった。

避け難い事故だった。

--

夜、母がやって来た。父が亡くなって、今は、近所のスーパーの鮮魚コーナーで働いている。

「こんな体になっちゃったら、お嫁さんも来てくれないわねえ。」
と、涙ぐんでいる。

「左手なのが、せめてもの救いだよ。」
僕は何とか笑って見せようとする。

「事故したほうのトラックのね。会社から入院費とか全部出して下さるから。」
「ああ。」
「あっちの運転手は、かすり傷だって。」
「ふうん。」
「ま、まだ、お子さんも小さいって言うからね。それはそれで良かったんじゃないかって思ってね。タカちゃんにも、あんまり責めないであげて欲しいし。」

母がしきりにあれこれ言うが、僕は、まだ、傷のせいか疲労していて、ウトウトしながら聞いている。

別に、守らなくてはいけない家族がいるわけでも、結婚を約束している恋人がいるわけでも、一生を賭けてやりたい仕事があるわけでもない。だから、もう、いろんなことを考えるのが面倒だった。空っぽの僕の人生にとって、腕一本の価値はひどく軽かった。

大丈夫。責めないよ。

--

刑事は、形ばかりの果物カゴを持って、僕のそばに座っている。

テレビに出て来る刑事のようにくたびれた格好をしているわけでもなく、普通の中年だった。

「まだ、何かあるんですか?もう、警察には全部お話しましたが。」
「ああ。いえね。ちょっと気になってることがあるんで。」
「気になること?」
「いえ、まあ。別に、私一人が気にしていることでしてね。」
「単純な事故処理じゃ済まないんですか?」
「いえ。そういうんでもないんですよ。」

何とも歯切れの悪い言い方だ。

「じゃ、何です?」
言い方に少々力がこもる。

「いえ、ね。あなたの腕なんですが。」
「腕?」
「ええ。左の腕、ね。ないんですよね。どこを探しても。」
「そんなもの、いつも探すんですか?」
「ええ。まあ。」

僕は、ダンプの下敷きになって、車体の隙間でかろうじて命を取りとめたと聞かされている。

「でも、今になって腕が見つかったところで、僕の腕がくっつくわけでもないんでしょう?」
「そりゃあ、まあ、そうなんですがね。ちょっと気になりますよね。」
「お気遣いは嬉しいんですが、もう戻って来ないものを気にしてもしょうがありませんし。」
「確かに。確かに。」

刑事は、立ち上がる。
「いや、失礼しました。」

刑事が立ち去った後、嫌な後味が残る。

妙な男だった。

--

が、しばらくして、また、その刑事はやって来た。

「や。加減はどうですか?」
「熱が下がらないんですよね。」
「そりゃ、いけませんな。」

刑事は、汗を拭き拭き、座っている。

「もう、全部終わったと思うんですが。」
僕は、言う。

トラックを運転していた男が、顔色の悪い妻と小さな女の子を連れて謝罪に来た時の事を思い出しながら。あれじゃ、責めように責められない。居眠りだった、と言う。もちろん、そのことは悪い事だ。だが、妻のお腹に二人目ができて金が要りようだったんで、なんて言われたら、何と答えたらいいのだろう。

「おたくの左腕、なんですがね。」
「またですか。」
「事故の時、誰か見かけたとか、そういう記憶ないですかね。」
「誰かって。腕を持って行くような人間をですか?」
「ええ。まあ、そんなとこです。」
「見ているわけないです。僕は、トラックがぶつかりそうになったところから記憶が途切れてますから。」
「そうですよね。」

男は、尚も執拗に、僕の口から手がかりが飛び出さないかと、待ち受けているようだ。

「悪いですが、刑事さん。僕は、被害者です。自分の事故の傷から回復するのに精一杯なんです。もう、どうでもいい捜査でこれ以上わずらわせないで欲しい。」

刑事は、うなずく。

その顔には、絶望が滲み出ていて。
「分かってます。」

刑事はゆっくり立ち上がる。

「訊かせてもらえませんか?」
僕は、その背中に声を掛ける。

刑事は、振り向く。

それから、右足側のスラックスの裾を引っ張り上げる。

チラリと見えたそれは、義足のようだった。

そういえば、刑事は、始終、足を引きずっていた。

「これ、ね。持って行った女を捜してるんですよ。私の足。」
「誰なんです?」
「私が昔付き合っていた女です。妙な女でね。人間の体に抱いていた興味は、尋常じゃなかった。だが、私は、その女が好きでね。この女になら殺されてもいい、と思ってましたがね。結局、逃げられましたわ。その時、足、一本、持ってかれてね。」
「まだ、見つからないんですね。」
「ええ。そうですわ。ですから、迷惑と知っていてもね。おたくさんのように、事故で体の一部失くしたとなったら、何か手がかりはないかと思ってね。」
「そうですか。」
「いや。失礼しました。もう、来ません。」

その、不自然な足の音と一緒に、刑事は去って行った。

奇妙な話ではあるが、その刑事の話を、僕は信じた。足と一緒に、その魂まで持って逃げられた、男の話を。

憐れなようでもあり、少しうらやましくもあるのだった。


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