セクサロイドは眠らない

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2002年07月31日(水) 動けない私に、水を口移しで飲ませて、汗を拭いてくれる男は、この上なくやさしい恋人にしか見えなかった。

「女が俺に惚れたら、すぐ分かる。そういう女は、大概、身の上話を始めるから。」
最初に、二人で会った時だったか。彼がそんな事を言った。

なるほど。

とか。

そんなことを思った。

自信満々で、エネルギッシュな男だった。

そんな自信過剰な男、ごめんだわ、と笑う人はいるかもしれない。だが、実際にそんな男に口説かれてみるといい。熱情にに溢れる言葉をささやいてくる男は、とても少ない。男が自分で言うように、本当にモテるのだろう。私も、ほどなく彼の勢いに巻き込まれる。

困った事は、私が結婚している事で。

そのことを打ち明けた時は、彼は驚いた顔をした。
「俺、結婚してる女には手を出さないことにしてるんだ。」
と、悲しそうに告白した。

「だけど、もう遅いよ。」
って、私を抱き締めて来て。

その時は、私ももう、引き返せなくなっていた。

--

夫は、寡黙な人で、いつも本を読んでいるような人で。私は、最初から、そんな夫が好きでしょうがなかったのに。ちょっとしたことを訊ねると、何でも教えてくれる、大人なところが。

いつの間に、気持ちがずれていったのかは分からないが、気が付くと、私は、夫の寡黙さを嫌い、いつも寂しがってばかりいるようになっていた。

そんな時に、気持ちを素直にぶつけてくる男がいたのだから、しょうがない。と、私は思った。どこの女が、抗えるだろう。

恋人は、私を誘っては、星空のきれいな夜の小道を、自分が幼い頃遊んだという海岸を、私に見せた。

私は、とまどいながらも、何もかも見せてくれる恋人がいとおしくて可愛くて、彼に呼び出されるままに、週に二度三度と夜、会いに行くようになった。

--

恋人の行為はだんだんエスカレートしていく。

多分、早々に何かが狂い始め、だが、私はそれを恋の熱情と勘違いしていた。

夜、急に、ひと気のないところに車を止めて、「今、ここで抱きたい。」と言い出したり。自分の知人に運転させている車の後部座席で、いきなり私の腿に手を置いて来た理した男の好色は、平凡な主婦にしてはスリリングな体験で、そういった一つ一つを、困惑しながら受け入れて行った事で、私達の遊びは加熱していった。

会えば、恋人は、私を一度や二度抱くだけでは足らずに、何度も何度も、私がぐったりして動けなくなるまで抱いて、それはどこかおかしいのだけれど、私にはどこがおかしいのか分からない。動けない私に、水を口移しで飲ませて、汗を拭いてくれる男は、この上なくやさしい恋人にしか見えなかった。

--

だが、夏が終わる頃には、恋の証だと思っていた行為が一つ一つ狂気を帯びて来て、次第に私は怖くなった。

「お前に手を出す男がいたら、半殺しにしてやるから。」
そんな恐ろしい言葉が恋人の口から飛び出すようになって、ようやく、私は、彼が私とは離れた随分遠いところにいることに気付いて、身震いする。

「別れたい。」と私が言った時、恋人は、私の頬を打って、「駄目だ。」と言った。

その頃には、会うたびに、酒を飲むようになっていて。

もう、私を抱くことすらできなくなっていて。

私は酔った恋人を置いて逃げ出す。

--

その夜、私は、10歳も年老いてしまった気分で、帰宅する。

寝室を別にして、と頼んだ時、夫は何も言わずにうなずいて。夜、夫が何時に寝るのかも、知らないで。

その夫が、キッチンで、眼鏡をかけて、本を読んでいる。

「起きてたの?」
「ああ。」
「遅くなってしまったわ。」
「早く寝なさい。明日も仕事だろう?」
「ええ。でも、少しいただくわ。」

夫は、グラスをもう一つ出して、ブランデーを注いでくれる。

「このところ、帰宅が遅いね。」
「ええ。ごめんなさい。」
「いや。きみも大人だから、私がとやかく言うことではない。」
「あなたって、いつもそうやって落ち着いてらして。」
「いや。そうじゃない。そんなじゃない。ただ、下手なんだろう。」
「下手?」
「誰かに、必要な時に必要な言葉を言ってあげることが。」

私は、手の中でぬくもるブランデーを口に含んで、夫の読んでいた本を取り上げる。難しくて、よく分からない文章が並んでいる。

「ねえ。いつも、本を読んでるのね。」
「うん。」
「面白い?」
「まあ、ね。」
「どれくらい?」
「そうだな。できれば、自分が本になりたいぐらいだ。」
「本に?」
「ああ。そうやって、人に寄り添う。そこにいることで時折、誰かを励ます。」

私をとがめているような顔でもなく、ただ、淡々とそんなことを言って。

私は、ふいに涙が溢れる。
「全部、終わったの。」

夫は、私の言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、黙って私が泣き止むのを待ってくれている。


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