セクサロイドは眠らない

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2002年03月18日(月) 僕には分かる。ママはもう戻って来ない。ありったけの蝶の羽を集めて、飛んで行ってしまった。

僕は、小さなアパートで、ママとおじいちゃんの三人で暮らしていた。

ママは昼間はくたびれた顔でぼんやりと過ごし、夜になると、綺麗なドレスに着替えて丁寧にお化粧をして、出掛けて行く。僕は、ママがお化粧しているところを見るのが好きだ。息をつめて眉を描くところ。半開きの口に紅が塗られていくところ。化粧を終えたママは、別人のように活き活きとした顔になり、身のこなしも優雅になる。化粧を終えたらママは出掛けてしまうと分かっていて、僕は、ママが美しく装う姿に見惚れている。

「じゃ、行ってくるから。夜誰か来ても入れちゃだめよ。」

僕はうなずく。

僕は、長い夜をおじいちゃんと過ごす。僕はおじいちゃんが嫌いだ。半分呆けているようで、何か話し掛けられても言っている意味がよく分からないし、とにかくおじいちゃんには腹が立ってしょうがないのだ。

おじいちゃんは、目がよく見えないので、虫眼鏡を持って新聞や本を読む。おじいちゃんは、活字を読むのが大好きだ。暇があれば、虫眼鏡を新聞に近付けてかがみこんで、シワだらけの唇を動かしている。おじいちゃん、意味分かってるんだろうか?

僕は、外で一人で遊ぶのが好きだ。蝶を捕まえて羽をちぎったり、勝手に持ち出したおじいちゃんの虫眼鏡で羽をむしった後の蝶を燃やしたり。

ふと気付いて顔を上げると、おじいちゃんが僕を背後から眺めていたりして、そんな時は、なんだか腹が立って、虫眼鏡を放り出すとおじいちゃんが追い掛けてこられないほど遠くに走って行ってみたりする。

--

一度だけ、ママがいない時、男の人が訪ねて来た。優しそうな人だった。僕が小学校から帰って来ると、その人がニコニコと座っていて、おじいちゃんは相変わらず、お客さんの相手もせずに新聞を読んでいた。

「僕、何年生?」
「2年。」
「ほう。そうか、大きいなあ。」
「ママのお客さん?」
「そうだよ。待たせてもらってる。」

僕は、うなずいて、おじさんの持って来てくれたおせんべいを食べ始めた。

玄関で音がした。

ママはいきなり怒ったような顔で部屋に入って来て叫んだ。

「あんたっ。なんでこんなところまで来たのよ。あれだけ来ないでって言ったのに。」
「きみに連絡が取れなくて。店に聞いて・・・。」
「来ないでったら来ないで。」
「結婚の・・・。返事を聞かせて欲しかった。きみに会いたかった。」
「とにかく、出てってよ。」

ママは、おじさんに飛びついて、殴り始めた。

おじさんは、慌てて部屋を飛び出して行った。

「二度と来んなっ。」
ドアのところで大声で怒鳴ったママは、泣いていた。化粧もせず、乱れた髪で泣いていた。

僕は、あのおじさんがママと結婚するならいいのに、と思って見ていたが、ママはおじいちゃんと僕に、「あの男、二度と部屋にあげないでよ。」と言い捨てて、布団に潜り込んでしまった。

--

僕は、おじいちゃんが嫌いだ。おじいちゃんの虫眼鏡も大嫌いだ。

どうして、僕はこんなにおじいちゃんが嫌いなんだろう。

僕は、おじいちゃんの虫眼鏡を持って外に出る。

外で、蟻が行列を作っている。僕は、日光を集めて、蟻の行く手をさえぎる。それから、アパートの傍らに刈りとって山にしてある乾いた草を焦がしたりして、遊んでいた。

ママが呼んでる。おやつだ。

僕は、そこに虫眼鏡を放り出して、家に戻った。

ママが夕飯の支度だけしていつものように出掛けた後で、異変に気付く。妙な匂いが充満している。

「じいちゃん、火事だっ!」
僕は、おじいちゃんの手を取って、外に走り出る。

アパートの階下が燃えている。

僕達は何とか逃げ出し、アパートが燃えて行く様子をぼんやりと眺めていた。

「じいちゃん・・・。」

その時ようやく、おじいちゃんの虫眼鏡を思い出す。

--

結局、火事は、呆けたおじいちゃんがうっかり起こしたことになって、おじいちゃんは施設に入ることになった。

僕は、どうしてもおじいちゃんの。顔を見ることができない。

おじいちゃんは、ニコニコとして、僕の頭にそっと手を載せると、それからタクシーに乗って行ってしまった。

僕とママは、ママのお姉さんという人のところに転がり込んだ。

残ったママのドレスは、火事があった日着ていた一枚になってしまった。ママは、それを着て、綺麗にお化粧している。それからバッグを持つと、何も言わずに立ちあがって出て行った。

僕には分かる。ママはもう戻って来ない。ありったけの蝶の羽を集めて、飛んで行ってしまった。

僕は、そっと、ポケットに手を入れ、焼け跡から捜し出したおじいちゃんの虫眼鏡の残骸を取り出す。

おじいちゃんは、もう、虫眼鏡がないから新聞を読めない。羽をむしられた蝶のように、そこにいるしかない。

そして、僕も・・・。


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