セクサロイドは眠らない

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2002年03月11日(月) 雑踏の中に、彼女を見かけた。春色のニットを羽織った彼女。うつむいた顔は泣いているように見えた。

部屋を激しくノックする音がする。

女の子は、面倒臭そうに僕のトレーナーを羽織り、玄関に向かう。

「ねえ、お客さんよ。」
「僕に?」
「うん。」
女の子は、あくびを一つして、またベッドに潜り込んでしまう。

そこにいた女性は、グレーのスーツを着込み、顎で切り揃えたボブの髪。知らない女だった。
「ヤマノイさんですね?」
と、問い掛けてきた。

「ええ。そうですが?」
「奥様に頼まれて来ました。」

やっぱり・・・。
「はあ・・・。」
「ゆっくりお話できる場所、あります?」
「じゃ、ちょっと出ましょう。このマンション出たところに、すぐ喫茶店がありますから。」

--

「で?」
「今日は奥様の代理人ということで参りました。」
「こんなところまで追い掛けてくるなんて思わなかったな。どうして分かったの?」
「私、私立探偵のようなこともしていますから。」
「まいったな。」
「単刀直入に用件を言います。別れて欲しいそうです。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。」

僕は、慌てる。なぜだろう。妻は決して僕と離婚するなどとは言わない女かと思っていた。今までだって、似たようなことは何度かあったが、そのたびに、「あなたの病気みたいなものよね。」とため息をついただけで終わっていたのに。

「奥様から伝言です。読みます。『今まであなたに振り回されてばかりだったけど、それは間違いと気付きました。これからは、自分で自分の幸せを掴もうと思います。さようなら。』
以上です。」

僕は、混乱して、どう答えていいか分からない。

「あんたの差し金か。あんただろう。彼女に離婚を勧めたのは。」
「まさか。」
「ちょっと待ってくれよ。僕は、別れたくない。そう伝えてくれ。」
「今日で何日目ですか?」
「は?」
「今日で、家を空けられてから何日ですか?」
「さあ。知らない。」
「二十三日目です。奥様は、連絡もなしに帰って来ないあなたを待ってたんですよ。」
「ああ。だが。離婚はしたくない。どうしたらいいだろう?」
「ゆっくり考えてください。また、明日伺います。」
「ちょっと待ってよ。」
「それから、私の連絡先。何かありましたら、いつでも電話してください。」

僕は、彼女が伝票を持ってレジに向かうのをぼんやり眺めていた。ここのコーヒー代も経費だろうか、とか、彼女の脚はなんて綺麗なんだろう、とか、そんなどうでもいいことを考えていた。

手元には何の肩書きも刷られていない、名刺が一枚。

--

次の日は、仕事帰りに彼女と会った。

「そんなに簡単には決められないよ。」
「でも、奥様は急いでおられます。」
「きみ、結婚してるの?」
「私のことは関係ありません。」
「結婚してたら分かるだろう?結婚は、一日や二日で解消できるもんじゃない。」
「私は、ただ、奥様に頼まれて事を進めているだけです。」
「酒でも飲まない?」
「私は飲みませんけど、ヤマノイさんが欲しいなら、どうぞ。」
「じゃ、ビールでも飲もうかな。」

別に、彼女や妻を困らせようというつもりはないが、本当にどうしていいか分からないのだ。
「僕は、どうしたいのだろう?」
彼女に聞いてみる。

「分かりませんわ。」
「僕は、いずれ妻のところに戻りたいと思ってる。」
「それは、恋なんですの?」
「恋?どうだろう。」

恋とはまた、ひどく甘ったるい言葉だ。

「探偵さんなんだから、僕の気持ちを推理してよ。」
僕は、笑った。

「また、明日来ます。」
彼女は、席を立つ。

--

僕は、そうやってのらりくらりと逃げ回った挙句、ついに、離婚届に判を押した。

「これで、きみもようやく依頼主に顔が立つというわけだ。」
「これから、どうしますの?あの女性と結婚なさるの?」
「まさか。結婚を考えるような女じゃないよ。もう、あそこは出るよ。狭いところだけど、部屋を借りた。」
「残念な結果ですわね。」
「残念?」
「ええ。」
「どうせ、これが仕事だろう?」
「ですけれど、結婚が駄目になるなんて悲しいですわ。」

彼女が伝票を取り上げようとする手首を、慌てて僕は掴む。

彼女は、驚いて僕を見る。

「いろいろ迷惑掛けたし。今日は僕が払うよ。」
「すみません。」

もう、彼女と会うことはない。

僕は、彼女の後ろ姿を見送った。

--

空っぽの日曜日。

僕は、ぼんやりと、ショウウィンドウを見て回る。雑踏の中に、彼女を見かけた。グレーのスーツじゃなくて、春色のニットを羽織った彼女。うつむいた顔は泣いているように見えた。

泣くような女性じゃない筈なのに。

僕は、声を掛けようとして、ためらう。

もう、会う理由はない。

--

部屋で、彼女の名刺をいじくった挙句、僕は電話をする。

「はい。」
彼女の声。

「僕だけど。ヤマノイ。」
「ああ。」
「今日、きみを見掛けた。」
「そうですか。」
「きみに依頼があるのだけれど。」
「なんでしょう?」
「恋の依頼。」
「そういったことは・・・。」
「頼むよ。ひどく入り組んでいて、どうしていいか分からない。この前みたいに力を貸してよ。」
「明日、伺います。」

--

彼女は、もう、グレーのスーツは着ない。

「僕の依頼。聞いてくれるんだろうか?」
「今回はご自分で解決なさったほうがいいですね。私が手を貸すことじゃありませんわ。」
「残念だな。」
「ねえ。凶悪犯罪者が無罪放免になったら八割の確率で同じ犯罪を繰り返すって、ご存知でした?」
彼女は、少し意地悪く微笑む。

「それ、僕のこと?」
そうだ。僕は、代償を払わず、人の心を略奪して踏みにじって来た。

「もう行きますわ。」
「待ってよ。手がかりは?手がかりだけでも。」
「あの日の涙。」

彼女は、伝票を僕の前に押し出すと、立ち上がる。

いつか、僕はそれを探し当てることはできるだろうか。

僕は、手錠を掛けられたくて泣きたい気分だった。


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