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2024年03月28日(木)
KNOWER JAPAN TOUR FT. SAM WILKES, PAUL CORNISH, CHIQUITA MAGIC and THOM GILL

KNOWER JAPAN TOUR FT. SAM WILKES, PAUL CORNISH, CHIQUITA MAGIC and THOM GILL@LIQUIDROOM ebisu


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Genevieve Artadi(vo)
Louis Cole(drums, vo)
Chiquita Magic a.k.a. Isis Giraldo(keys)
Paul Cornish(keys)
Sam Wilkes(b)
Thom Gill(g)
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?(tb)メンバー紹介あったんだけど聴きとれず調査中。大田垣“OTG”正信さんではなかった
Melraw(as)
Satoru Takeshima(fl)
Tomoaki Baba(ts)
Yusuke Sase(tp)
Yu Kuga(bs)
Kosuke Toho(tu)
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KNOWERとしての来日はなんと2018年以来、6年ぶり。ルイスはソロでもサンダーキャットのサポートでも某Clown Coreでも来日しており、ジェネヴィーヴもほぼ一緒に来ているのでえっ6年? と思ったけど、そんなになるか。あとバンドセットとなるとKNOWERとルイスソロはメンバーが被っているし、ルイスがソロで発表している曲もKNOWERでやったりするので、どっちがどっちだったか判らなくなる。

2018年の来日では3日で3セット、厳密にはルイスソロKNOWERバンドセットKNOWERデュオセットで観た。あと行けなかったけどBLUE NOTEにも出たし、スペシャルイベントもあった。この期間の祭りの様子はtwilogをご覧になって頂ければ…こういうノリのログってやっぱり残しておくのだいじね……。

『Life』がユニバーサルジャズから出たこともあり、このときの来日ではジャズ層へのアピールが強かったように思う。リリース時も「ジャズレーベルから出すんだ」という声を聴いた憶えがあります。今のジャズとオルタナ(か?)両方にリーチするbeatinkの展開は、リスナーと相性いいというかニーズと合致したんじゃなかろうか。ユニバーサルには感謝してますけども!

という訳で大盛り上がりでありました。サポートアクトのTenors ln Chaos(陸悠(ts)、西口明(ts,ss)、馬場智章(ts)、David Bryant(pf)、須川崇志(b)、小田桐和寛(ds))から熱気がすごくて、幕間にはAustin Peraltaの遺作『Endless Planets』が流れる。2012年に亡くなったオースティンのことはサンダーキャットの「A Message for Austin / Praise the Lord / Enter the Void」から知りました。常に彼はルイスやサンダーキャットの心のなかにいて、その功績を今のリスナーに伝え続けようとしているのだなあとしみじみする。

それにしても毎回違うセットで来るなあ。今回は一昨年のルイスのツアー(LOUIS COLE BIG BAND)、昨年のフジに続き日本選抜ホーン隊が参加。事前告知はなかったので、初日はうれしい驚きのツイートを結構見ました。各ソロ場面では「馬場ー!」「佐瀬!」「メルロー!」と、野太い声や黄色い声が飛んでいて、それを演奏し乍ら嬉しそうに眺めるルイスが印象的。何度もメンバー紹介をしてくれた(なのにtbのひとが誰か聴き逃している自分の耳ダメ過ぎる)。

これらビッグバンド編成用にアレンジされた楽曲含め、とにかく演奏陣がキレッキレ。すげー! すげー! とずっといって終わった。ルイスのヴォーカル曲は今回なく、ドラミングもソロのときとニュアンスを変えて叩く。人力でこんなん叩くんかいという高速、低速、手数多し、足数多し。とにかく打数が多い。変則も自在。メンツが変わっても、日々行動を共にしているバンドのように阿吽の呼吸で演奏がキマる。流石本番が練習、練習が本番の、演奏が日常であるプレイヤー揃い。強い! ルイスとサムの鬼グルーヴボトムは無論のこと、ポールのソロもチキータマジックの音色チョイスと手弾きリフもトムのリフもすごかった。すごかったばっかり(語彙)。

PAは序盤バランスが悪く、ジェネの繊細な高音ヴォーカルが聴こえん! バンドの地音がデカいので(楽器数の多さもあるし、そのうえホーン7本きたらもう)PAがうまくやらんといくらジェネの声が通るといっても! とヤキモキしたけど進むにつれよくなった。ジェネは本人曰く「ウシ!」の衣裳に途中迄ヘッドフォン装着。モニターがわりだったのかイヤーマフだったのか判らないけどピッチは鬼正確。アッパーな曲も多いけど、バラードでの切ない歌声には涙涙。これデュオで聴いたときにも思ったな…走馬灯が見えるというか……(危ない)。

「愛してる、Guys」。数年で状況が大きく変わったことをルイスも実感しているようで、MCで何度もオーディエンス、スタッフ、共演者に感謝を伝えていた。以前は自分でセッティングからしてたのに……とか、このへんちゃんと聞きとれなかったんだけど、訳してくれた方がいたのでリンク張らせてください(シェア有難うございます)。↓



そういえばルイス、シンバルをスタンドに固定せずそのままのせてて(フェルトもナットもなしで)曲によっておきかえるよね。よく落ちないな。

会場の規模が大きくなってもDIYスピリットは健在。スクリーンに映し出される背景映像はPC画面直結でマウスの動きもそのまま見え(微笑)、リアルタイムで撮るライヴ映像はKaz Skellingtonが撮影していたとのこと。6年前、Kazさんは「前回ここ(同じ月見ル)に彼らを呼んだとき、こんなにひとはいなかった。そして今夜ここにいたひとたち、きっと自慢になるよ。自慢にしていい」といった。初来日から彼らと一緒に歩んでいるズッ友だよ(泣)!

ここで突然の思い出アルバム。



コロナ下の2020年、Second Sky配信フェスに出演したKNOWERは、あの家のリビングでふたりきりのパフォーマンスを見せてくれた。外出もろくに出来ない時期、食い入るようにPC画面を観ていたなあなんて思い出す。2021年辺りから各々のソロワークが忙しくなり、KNOWERは活動休止状態になった。もう日本でライヴは観られないかもと思っていたので、新譜が出たのことには正直驚いた。『KNOWER FOREVER』というタイトルには不安になったし、お互いプライヴェートに変化があったようだけど、ルイスとジェネはやっぱり替えがきかない相棒同士だなあと思った。これからも、また会えるのを待っています(まだ日本にいるけど)!

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Setlist(setlist.fmより)

01. The Abyss
02. Do Hot Girls Like Chords
03. Around
04. I'm the President
05. Real Nice Moment
06. Same Smile, Different Face
07. It Will Get Real
08. Things About You
09. Nightmare
10. Different Lives
11. Hanging On
12. Crash the Car
13. It's All Nothing Until It's Everything
encore
14. Overtime

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・BEATINK.COM / KNOWER / ようやく時代が彼らに追いついた!ノウワー東京公演のライブレポ
レポ出るの早い! 一箇所だけいっときたい、ホーンは7人でした!


自分がいた位置からはトムの姿は全く見えず、音だけを聴いていましたがよかったなー。Sam Wilkes Quintetで観たときからまたイメージが変わりました。この辺の人脈底なしだなー、追っていくといい音楽が聴けるの間違いなし



2024年03月24日(日)
『美しき仕事 4Kレストア版』先行上映+クレール・ドゥニ監督アフタートーク

『美しき仕事 4Kレストア版』先行上映@ル・シネマ 渋谷宮下


2002年に東京日仏学院で観て以来。その後何度か自主上映されていますが、ずっと英語字幕のみだったのです。この度遂に日本語字幕がつき、5月から一般公開が決定。何故今になって? と嬉しい驚き。4Kレストア版がつくられたタイミングでということかな?

当時はドニ・ラヴァン演じるガルーはゲイなのかな? と思っていたけど、一方的に好意を寄せている女性がいるという描写があったので、その辺りはどうとも解釈出来るようになっていたんだな。そこ以外はなんとか内容の理解は出来ていたか……と安堵しつつ、初見当時は英語字幕を読むのに必死であまり観ていられなかった(…)映像の美しさも堪能。とはいえ、アルジェリア戦争についての台詞はピンと来ていなかったことが今回解った。先週『愛と哀しみのボレロ』を観ていたおかげで繋がった、という感じ。日本で暮らしていると、WW2後といえば朝鮮戦争(特需)とベトナム、イラン・イラク、そして湾岸戦争辺りが歴史の印象として残っており、いかに自分の国がアメリカの影響下にあるかを改めて思い知らされた気分でもありました(自分がそういう環境にいただけかも知れないが)。欧州に注意が行ったのはベルリンの壁崩壊からチェコスロバキアのビロード革命、ルーマニア革命といった1989年あたりからだな。チャウシェスク大統領の処刑映像が普通にボカシなしで地上波で流れていた時代です。戦争がない状態(間接的に加担していることはあれど)が78年続いている、日本という国の稀有についても考えました。

とはいえフランスも、今作が撮られた当時(1998年)は大規模な戦争が起こっていない時期。いつ実戦に駆り出されるかも判らず、ジブチで日々訓練に励む外人部隊の様子は牧歌的ですらあります。ジブチの太陽の下、殆どいつも半裸で、厳しい規律と上官の命令に従い同じ動作を繰り返す彼ら。そのなかで渦巻く羨望と嫉妬。部隊の訓練と、現地のひとびとが働く様子はどちらもダンスのように流麗な所作だが、果たして「美しい」のはどちらなのだろう。男たちが髭を剃り、洗濯をし、服を干す。アイロンをかける。ベッドメイクをする。そうした生活における動作のひとつひとつも丁寧で美しい。規律から放逐されたガルーが、クラブで踊るダンスはとても自由に見える。果たしてその自由は彼にとって福音だったのだろうか。

アフタートークでは、その辺りの話も聞けました。『横浜フランス映画祭 2024』で来日していたクレール・ドゥニ監督が来場してくれたのです。いやーお元気、御歳77とは思えない。エレガンスの中にも芯のあるパワフルな方でした。公開から時間が経った今だからこそ話しておきたいことがあったのでしょう、質問がある前から話す話す。逆に「皆さん疲れてませんか?」なんてこっちが気遣われる始末。

以下印象に残ったところをおぼえがき。記憶で起こしているのでそのままではありません。順序が前後しているところや、散らばっていた議題をまとめた箇所もあります。

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・外人部隊について説明しますね。彼らは前科があるとか、理由があって他の仕事に就けなかったひとたち等で編成されています。部隊で成果をあげれば人生をやり直せる、新しい人生が開けるかもしれない、といった事情を抱えています。過去や出自が白紙になる。フランス語を話せない人物もいる。部隊では、仏語話者とそうでない者がペアを組んで行動します。厳しい規律のなか集団で生活することで、部隊がひとつの家族のようなコミュニティになっていきます。彼らを異国の地で生きるストレンジャーとして撮りたかった

・彼らが自由に行動出来るのは夜、現地のクラブやバーに行ったとき。表向きは普通のお店ですが、その裏には娼館があり、エチオピアやソマリアからやってきた女性たちが体を売って暮らしています。そういう現実があります

・幼少の頃、フランスの植民地だったジブチで暮らしていました(ジブチがフランスから独立したのは1977年)。そのときに見た塩湖や火山といった美しい風景を撮りたかった。壊れた飛行機がそのまま野ざらしになっていて、その中に鳩が住んでいる。これも実際にあった風景です。当時映画界ではデジタル撮影への移行が進んでいました。予算の関係もありデジタルで撮ることにしましたが、連日気温50℃を越す撮影地でデジタルカメラが壊れてしまった。結果フィルムで撮ることになりました。16mmの方が予算には優しかったのですが、風景と人物を適切な距離で、同じ画面に入れて撮りたかったので35mmで撮りました。風景と俳優を適切な距離で撮る、私はそれが演出だと思っています

・原題の『Beau Travail』はメルヴィル未完の小説『Billy Budd, Sailor』からとりました。水兵の仕事の美しさが書かれています。帆を揚げたり降ろしたり、戦争の準備でもありますので、動作は素早く、滑らかに行われなければなりません

・兵士たちの訓練の動作は振付師を呼び、事前に屋内でリハをしました。撮影する段階になって初めて音楽をかけた状態で動いてもらいました

・ラストシーンは時系列を入れ替えました。本当は、ドニ演じるガルーが踊っているのは帰国する前のクラブです。その後マルセイユで自室のベッドを整え、銃を手に横たわります。それではあまりにも寂しい結末になるのではないかと、編集段階でダンスシーンを最後にしたのです

・(Q:同じ役者を何度も起用する理由)小津安二郎もそうだったでしょう? 好きな俳優には何度でも自分の映画に出てもらいたいものです

・(Q:ドニ・ラヴァンのキャスティングは当初違ったと聞きましたが)いいえ、そんなことはありませんよ。彼が演じることを前提に脚本を書きました

・戦争が身近にある今だったら、こんな風には撮れなかったし、今こうした映画は撮りません

・(Q:「美しき仕事」というタイトルだが、自分には兵士たちの身体や訓練の様子が美しいと思えなかった。織物をつくったり、放牧した家畜を追ったりする現地のひとたちこそ美しく見えた。そして、規律から離れたガルーが踊るラストシーンを美しいと感じた)戦争が美しいものとは思っていません。しかし、いつか戦争が起こるときのため準備はしておかないといけない。肉食的でもある男性の身体を、シンプルに、弱いものとして撮りたかったのです。今はこうした映画は撮りません。あなたは映画がお好きですか? 移動して一緒にコーヒーでも飲んでお話ししたいけど、私はこれから帰って荷物をまとめ、明日6時にホテルを出なければなりません。ここにいる誰かから私の電話番号を訊いて、連絡してください。メールでもいいですよ。フランスに来ることがあれば、是非連絡してください

この最後の質問が緊張感あるもので、そのうえ通訳を介すため結論に辿り着く迄何度もやりとりがあり、話題がどちらに転がるか判らないからすごいスリリングだった……辛抱強く話を聞き、エスプリを効かせた返答をした監督の度量に舌を巻きました。「今だったら撮らない」と何度も繰り返しいっていたのが印象的。

最後に壇上のポスターと並んで写真撮影の予定だった(らしい)のですが、トークが終わるとスタスタと客席へ降りていってしまいました。慌ててスタッフが駆け寄りましたが、再びステージに上がることはなく、その場で撮影が始まりました。ポスターの横で撮られたくなかったのかな……とちょっと邪推してしまった(そこ迄深刻ではないかな)。この映画に思うところがあるのは確かなようです。

今作に戦意高揚のメッセージはないと思いますが、兵士たちを「美しい」といわれることに抵抗があり、それでも軍を持たずにはいられない各国の状況を憂いているのであろうことは感じられました。そういう意味でも今また観られてよかったし、監督の言葉を聴けてよかったです。

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・美しき仕事 4Kレストア版┃横浜フランス映画祭 2024 (Festival du film français de Yokohama 2024)

・渋谷TOEIがル・シネマ 渋谷宮下になってから初めて行きました。ロビーがお洒落になってた。駅から近いのいいですね

・ところで「日仏学院」の名称、何故「アンスティチュ・フランセ東京」になってまた「日仏学院」に戻ったりしているのか。一度や二度ではないような……今どっちなのか分からなくなる〜。何故?



2024年03月20日(水)
『愛と哀しみのボレロ』

午前十時の映画祭13『愛と哀しみのボレロ』@TOHOシネマズ新宿 スクリーン1


「人生には二つか三つの物語しかない。しかし、それは何度も繰り返されるのだ。その度ごとに初めてのような残酷さで…」。原題『Les Uns Et Les Autres』(直訳すると「片方ともう片方」。「互いに」とでも意訳出来るか)から、『愛と哀しみのボレロ』という邦題はどうやって生まれたのだろう。同じフレーズが何度も繰り返され、しかしそれは決して同じではない。人生も同じ。1981年、クロード・ルルーシュ監督作品。

『午前十時の映画祭13』のラインナップにこのタイトルを見つけ、「来年の3月……忘れそう!」とリマインダーに即入力したのは昨年初春。いやあ待った。やっと観られた。朝イチで184分…寝るかも……と思ってたけどそんな暇などなくあっという間、そしてもはや戦前の今観ると、思うところがてんこ盛り。人類はほんっと同じこと繰り返すなー! でも人間逞しいなー! 人生一度きり! つらい! 素晴らしい! の目白押し。人生は激動、芸術は不滅。

初見は『ゴールデン洋画劇場』で、多分半分くらいカットされてたんじゃなかろうか。これでジョルジュ・ドンという存在を知りました。何せこどもの頃のこと、モデルとなった実在の人物の知識など殆どなく、インターネットというものはまだ存在せず、鑑賞後気軽に背景を調べることも出来ず。それでも宮崎の片田舎でこの作品を知ることが出来たのは、毎週良質の映画を放映してくれた地上波のテレビあってこそ。ゴールデン洋画劇場と月曜ロードショーには足を向けて眠れません(日曜洋画劇場と水曜ロードショーは宮崎ではやってなかった)。

1930年代から現代(1980年代当時)のパリ、ニューヨーク、モスクワ、ベルリンを生きた、2世代4家族の物語。ひとりの役者が複数の役柄を演じる仕掛けがあり、ところどころで非業の死を遂げた人物が生き返ったかのような錯覚も起こる。収容所で死んだユダヤ人が、戦後ラビの扮装で凱旋パレードに加わるシーンなんて一瞬「生きてた!?」と驚き、直後「いや、それはない…でも生まれかわりがあるならば……」なんて妄想して涙ぐんだり。そういうとこ『海のオーロラ』っぽい(世代)。

それなりに知識を得た大人になって改めて観ると、そうだーフランスってドイツ占領下の時代があったんだよなあとか、WW2後はアルジェリア戦争があったんだよなあと我に返る。日本のWW2というとやはり太平洋戦争に偏りがちだし、戦後は朝鮮戦争とか、アメリカの影響でベトナム戦争とかを連想しがち。全世界で戦争が起こっていない日なんて、1日でもあるんだろうか。ないだろうな。

ヘルベルト・フォン・カラヤン、グレン・ミラー、ルドルフ・ヌレエフ、エディット・ピアフといった実在の芸術家たちをモデルにした人物は、戦争により人生を狂わされる。戦争により芸術を奪われ、あるいは戦争において芸術に救われる。音楽はいつでもどこでも流れる。死の収容所でも、生還のパレードでも。そんななか、映画作家は「こうあったかもしれない」人生をフィクションで描く。1944年に亡くなった(というかM.I.A.なんだよね……)グレン・ミラーの凱旋演奏なんてなあ…こうだったらよかったのにって思うじゃん……(涙)。カラヤンがほぼ無観客のホールで公演することになったシーンは史実なのだが(戦後裕福になったユダヤ人がチケットを買い占めた上で会場に足を運ばなかった)、今観ると初見時とは違う感情──ガザ紛争におけるイスラエル人の執拗さを連想する──が湧き上がる。まあカラヤンは「たまたまヒトラーの前で演奏した」なんてもんじゃない人物ではあったのだが。不朽の名作はこうして時代ごとに違う顔を見せる。

名作を繰り返し観る意義というところでは、『ボヘミアン・ラプソディ』と最後の展開が似てるなあと思ったのは今観たからこそだったなあ。いろいろいろいろあったけどチャリティのショウで大団円! そのテレビ中継を世界各国で見守る家族! 生きてればなんとかなる! でも人は死ぬんです! ていう。当時の赤十字における世間の信頼感というか敬意にも感じ入りました。赤十字も国境なき医師団も効力を発揮出来ていない現実を今突きつけられてるからね…ジュネーブ条約どこ行ったって感じだもんね……。といえば90年代当時観た『映像の世紀』で、あっこれ『〜ボレロ』で観た! と思った「ナチと寝た女として丸刈りにされ市中引き回される人物」とも再会して再びどんよりした。

それにしてもドンの亡命シーンが格好良すぎた。あんな華麗に…なあ……。ヌレエフの伝記映画『ホワイト・クロウ』とイメージがダブるなあ、当時の東側の芸術家ってこういう風に亡命するのが常(というのもなんだが)だったのかなあなんて思ったのだが、正にヌレエフがモデルだったんですね。当方ヌレエフを知ったのが90年代だったもので、ドンが演じるバレエダンサーが彼だと気付いたのは今回の鑑賞後でした(恥)。順序がバラバラになっている。ちなみに『ホワイト・クロウ』の監督はレイフ・ファインズなのですが、彼には三世代の人物をひとりで演じた『太陽の雫』という主演作があります。20世紀の100年、ふたつの世界大戦を生き抜いたハンガリー系ユダヤ人一族の物語。こちらも今観ると新しい発見がありそう。

クラシック、ジャズ、ポップス、スタンダード。絶え間なく鳴り響く音楽にも、時代を厳しく美しく捉えた映像にも釘付け。場内はほぼ満席。年齢層は高く、しかしトイレに立つひとは少なく、スマホを開くひとなど皆無。最高の劇場鑑賞でした。終映後近くの席のひとが「あの指揮者の人、ともだちのお兄ちゃんにそっくりでもう気になって!」といっててクスリ。こういう見ず知らずの他人の感想を漏れ聞くのも楽しい。定期的に劇場で観たいな。

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Kaoriさんとやりとりしてて、そうだー当時の映画って絶対演奏してないとか唄ってないのが丸わかりのもの多かったなあと懐かしくなったりもしました。エッフェル塔の上と下で演奏と歌は合わないだろうとか、ツッコミどころも多いんだけどドラマの力に押し切られるんですよね。こういう体験だいじ。エンドロールの赤十字ヘリの空撮とかもう笑顔で観た

・赤十字マークの意義と使用について┃日本赤十字社
紛争地域等でこの「赤十字マーク」を掲げている病院や救護員などには、絶対に攻撃を加えてはなりません。これは国際的な取り決め(ジュネーブ条約)によって厳格に定められています。
今読むと虚しいしつらい。戦争しないのがいちばんなのよ。平和を祈り、芸術を捧げる反戦映画でもありました



2024年03月16日(土)
赤堀雅秋プロデュース『ボイラーマン』

赤堀雅秋プロデュース『ボイラーマン』@本多劇場


メンヘラ、DV、クレーマー、ストーカー、カルト。名前をつけるのはカンタン。名前がついたことで当事者が安心する側面があるというのも事実。しかしそこには、確実に零れおちてしまうものがある。

ボイラーマンはその名の通り、がんじがらめで一触即発の関係性を沸騰させる。だが、その沸騰に永続性はなく、怒りも悲しみもやがて冷める。湯冷ましを飲んだあとのような安らいだ顔で、彼らは元の場所に帰っていく。しかしボイラーマンは帰らない。帰る場所がないのかもしれない。

実食、カラオケシーンがなく、ガストがバーミヤンに。普段は配役表に氏名と年齢迄明記するところ、今回は役に名前がついておらず、属性のみ。ちょっと書き方を変えたかもしれない。しかしワンシチュエーション、(ほぼ)リアルタイムな時間の流れは確固とした赤堀作品のそれだ。属性だけになった登場人物の中に、観客は自分を見る。少しずつ、全員の性質に思い当たる節がある。作家の老いは観客の老いでもあり、作家の五感は観客の記憶を呼び覚ます。夜中の散歩、住宅街に流れる音、遠くから聴こえる赤ちゃんの声、お風呂の匂い、愛すべきちいさなものとこと。

赤堀さんは「名前をつけられない感覚」を丁寧に、執拗に腑分けしていく。それはゴミの分類にも似ている。燃えるものと燃やせるものの違い、リサイクル出来るものとそうでないもの、プラスチックの本体にちょっとだけ金属が含まれているもの。いくらでも分けることが出来る。多様性という言葉の奥で、無数に蠢く多様をひとつひとつゴミ袋から出していく。分けろ分けろと責める人物と、分けられないけどゴミは片付けるのが当たり前、という人物が一緒にゴミを拾うさまを描く。誰もが優しく弱く、そして頑固。

さらっと流した「放火の犯人」の属性も、あの台詞をそのままテキストでSNSに流したら炎上するだろうなと思い、同時にそのあとの「合わなかったんだろうね、かわいそうに」といった警官の言葉とそのニュアンスを聴けば、決して差別的な意味合いではないのだと理解出来る。問題に対して怒ることと、問題に付随するものを排除することは違うと示す。

彼女は男に殴られて死ぬかも知れない。ストーカーはやがて事件を起こすかも知れない。老人は宗教団体に尻の毛まで抜かれて打ち捨てられるかも知れない。実際、赤堀作品には「結果」迄を書いたものもある。しかし今回は、問題を前にして、どうすることも出来ず立ち尽くすボイラーマンを登場させる。沸騰はさせる。しかしそこ迄しか出来ない。そう書くことで作家自身も傷ついている。簡単に片付けられるものなど、書いてどうなるとものごとを見つめ続ける。表出しやすい悪意と、少しの善性。それは誰にでもあり、誰にでも見出せる。と書く。最後に残るのは、ちいさなちいさな、決して消えることのない光。

舞台装置(池田ともゆき)が白眉。入場してまず目に入る舞台の全景、思わず夜空を見上げたくなる縦の空間使いは、うれしい劇世界へのファーストコンタクト。建物の質感、公衆電話の灯、ゴミ集積所の汚れ具合も、ここで何が起こるんだ? と、開演の時間迄観客に想像の時間を提供してくれる。衣裳(坂東智代)も絶妙。「パパッと化粧して、パパッと着替えてくる」の塩梅が見事。トレンチコート姿の田中哲司、喪服姿の安達祐実といったキャッチーなスタイリングも素敵で、演出家が見たかったであろうものがしかと具現化され、観客に届けられた印象。

会話に次ぐ会話、正面を向かず、なんならずっと俯いている登場人物たち。演者への負荷と信頼感。観たいものがそこにある、好きものにはたまらない会話劇。ボイラーマンは関わったひとを沸騰させ、自身は蒸発しつつある。あなたの街、私の街にもボイラーマンがやってくる日がくるかも。心のすみで待っている。

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・赤堀雅秋プロデュース『ボイラーマン』│田中哲司×安達祐実×でんでん×赤堀雅秋 合同取材会レポート┃ローチケ演劇宣言!
田中 役者の存在だけで場を持たせなきゃいけない分、負担は結構かかると思います。
田中 赤堀くんの登場人物って余裕のない人が多いんです。
そうそう、そういうのが大好きなひとにはたまらない芝居でした。流石田中さん、赤堀現場を知り尽くしている

『日本対俺』のときに発売された『赤堀雅秋カレンダー』が半額以下で売られており、そして売り切れておらず、涙を誘いました(笑)。いやあ、卓上仕様だったら買ったよ、卓上なら……。グラビアアイドルとして(??)ポスターサイズは譲れなかったのだろうが……



2024年03月09日(土)
Q『弱法師』

Q / 市原佐都子『弱法師』@スパイラルホール


人間も肉体という容器に入ってるだけなんだなあとしみじみしつつ、では、その肉体の中身って何だろう? と延々悶々と考える。なのになんだか清々しい思い。3月とは思えない冷たい強風を浴び乍ら帰る道の、なんて気持ちいいこと。

首を長くして待っていた。ドイツでの世界演劇祭、高知、豊岡公演を経て、ようやく東京初上演。

交通誘導員で夜勤続きの夫。通行人や車から非人道的な扱いを受け、「俺は人形、俺は人形」と自分に言い聞かせ乍ら働いている。家では妻が待っている。こどもを望むふたりは、夫が帰宅する朝、せっせと生殖行為に励む。果たして美しい男の子が生まれる。やがて妻は亡くなり、家には継母がやってくる。虐待を受け、捨てられた子どもはある人物と出会い、その容姿を活かした仕事に就くことになるが……。

さて、この家族。全員文字通りの人形である。夫は所謂「安全太郎」、誘導員の事故死が多発したことを受け開発された人形。妻はラブドール、着脱可能のオナホールを夫に洗ってもらう。子どもはマネキン。そりゃ美しい。「僕ってね・・・・・・、どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」というあの名台詞が当然に聴こえる。上演形態は文楽。従来のそれと違うところは、一体の人形をひとりの人形遣いが全身で操るところ。ときにはひとりの人形遣いが、一度に2〜3人の人形を操る場面もある。引糸の設計も独特で、特に頭部は人形遣いの頭部と人形の頭部が繋がれており、首の動きが同期している。これは相当演者に負担がかかる筈。大崎晃伸、中西星羅、畑中良太の献身に瞠目。

人形遣いの行動が観客の意識から消えないよう、定期的にシグナルが入るような演出が施されている。人形を間に挟んではいるものの、生殖行為の動きは人間同士の営みに映る。終盤の父と息子の再会で、見えない筈の人形遣いの表情が、映像によってクローズアップになる。観客は人形を通して背後の人間を見る。見てしまう。人形にピタリとくっついている夫の顔、妻の顔。しかしその顔すら、人形によっては着脱可能だ。美しい子どもが働くマッサージ店の従業員たちは、皆自分が美しいと思うものを、文字通り「盛る」ことに熱中している。それは「物量的に盛る」ことで、大きな目や胸がかわいいと思えば目玉や乳房をいくつも貼り付けるし、長い腕脚が美しいと思えば、腕や脚を何本も胴体にくっつける。なんならカワイイ+カワイイで乳首を眼球に付け替える。ルッキズムへの批評は、こんな形で顕れる。

心身ともに暴力を受ける交通誘導員。恐らく古くなったが故寿命を迎え(廃棄され)るラブドール。虐待の果てに捨てられるマネキン。弱き小さなものたちは、苦痛を消すために自らを人形だと思い込む。その離人の図式が、そのまま人形に落とし込まれる。心を殺すことが身の安全を図ることだとしたら、人形の心はどこにあるのだろう。対して人間を人間たらしめる根拠は心なのだろうか? 便宜上魂といってもいいだろう。しかし、人形に魂がないと果たしていえるのか。

このように観客は、人間と人形を一体化させ、笑ったり嘆いたりと忙しい。首を吊る誘導員を見て悲しみ、悼もうとする。ところがそこで、劇作家は強烈な台詞をお見舞いする──「文楽気取りかよ!」。人形はいつまでも、いつまでも死ぬことが出来ない。対して人間は死ぬことが出来るのだ……そのことに安堵してしまう。生きるものへのクィアな視点は、こうしてどこまでも追究されていく。

人間の業を徹底して謡いあげる、原サチコと西原鶴真による義太夫が素晴らしかった。徹底して残酷、徹底して滑稽。唸る西原の琵琶とノイズ、鈴を転がすような声で唄い、笑う原。世界はこんなにも美しく、そして醜い。『毛美子不毛話』ではダンスミュージックとカラオケ、『バッコスの信女 ─ ホルスタインの雌』では合唱隊、『妖精の問題 デラックス』ではバンド演奏ときて今回は薩摩琵琶とノイズ/エレクトロニックミュージック、そして“KAWAII”アニメ声とオペラティックな歌唱。Qの音楽にはいつもシビれる。

人間は「危険な領域を」「飼い慣らす」ことが出来る。飼い慣らせなければ身を滅ぼす。だからひとは演劇を共有する。『Madama Butterfly』の日本上演も待っています。

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・Q / 市原佐都子「弱法師」┃シアターコモンズ'24

・アーティスト・インタビュー:西原鶴真(鶴田流薩摩琵琶奏者)┃Performing Arts Network Japan
身体が筒状になり、正座して地に着いている身体と天空の世界がバーンと繋がり、身体は空っぽな状態で誰かに何かをやらされている感じになるのがベストです。
琵琶という楽器は、あのボディで何百年も生きて、いろんな人の手に渡り継がれて、お坊さんが使って霊を鎮めてきたような歴史を背負っている。
ここにも「身体という容器」。物語についての解釈と技術の関係についての話も興味深い。
西原鶴真さん、どこかで観てる筈…なんだったか……と調べてみたら、『武満徹トリビュート〜映画音楽を中心に〜』で「耳無し芳一の話」を田中泯さん、飴屋法水さんとやった方だった。タトゥーは「7年前ぐらい前から入れ始め」た(2020年時点)そうで、道理で同じ人物だと気付かなかったわけだ。
ぬいぐるみを改造した楽器やエフェクター満載の卓は、昨年のFRUEで観たAngel Bat Dawidの「自分の部屋」のよう。そこから繰り出されるのは琵琶の音と声だけでなく、電動シェーバーで頭を剃る音もリアルタイムで使用。そのためかちょっと髪が虎刈り気味でした

・それにしても、観た芝居直近の4本中3本に生首(概念)が出てきている。なんなの



2024年03月02日(土)
はえぎわ×彩の国さいたま芸術劇場 ワークショップから生まれた演劇『マクベス』

はえぎわ×彩の国さいたま芸術劇場 ワークショップから生まれた演劇『マクベス』@彩の国さいたま芸術劇場 小ホール


シェイクスピア作品をわかりやすく、親しみやすいものとして上演するプロダクションといえば、山崎清介演出の『子供のためのシェイクスピアカンパニー』(現イエローヘルメッツ)という優れたカンパニーがありますね。はえぎわ×さい芸もこれをシリーズ化してほしいなあと思った次第。

約17ヶ月の大規模改修工事を経て、彩の国さいたま芸術劇場が3月1日にリニューアルオープン。今作『マクベス』は2月に東京芸術劇場でも上演されましたが、これはもうさい芸で観たい! と開館を待っていたのでした。ウキウキ気分で与野本町へ。

さい芸の小ホールは座席後方からの入場になるので、舞台美術の第一印象は俯瞰になる。まず目に入ったのは、(おそらくチェス盤を模した)グリッドがひかれた床面と、その上に整然と並べられた椅子、両サイドに雑然と置かれたさまざまな小道具。……この椅子、『2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」』で使われてたやつだろー! とエモも極まる。東京公演を観たジェンヌによるとスタッフさんからの提案だったそう。『たかが世界の終わり』のときにも思ったけど、保管というものはアートにとって重要なものだと感じ入りましたね! 財産よこれ! 同時に劇場のプロダクションカラーにもなる。だいじ! ラストシーン、あの首が浮いてるように見えるシーツもさい芸の財産ですね! てか『カリギュラ』ってもう10年前か…時が経つのは早いもので……。

閑話休題。張り切ってチケットをとったためか、自分の席は最前センターブロック。この視界は今しか観られない、としばらく最後列の通路をうろうろする。俯瞰の席で観ても面白かっただろうなあ。さい芸の小ホールはすり鉢状で最前列と最後列の段差がとても大きい。芸劇シアターイーストの座席段差とはかなり違うので、見え方は多少違ったかも。両方観てみればよかったかな。

という訳で最前列。目の前に撮影用のカメラが設置されている。観劇の障壁には全くならない位置だったが、これがなんとも気になる。というのも、目立たないようにとカメラは黒い布で覆われており、それがフードを被ったマント姿のちいさないきものに見えたのだ。あのーあれよ、スターウォーズのジャワみたいな感じよ。破滅していく人物を、舞台と観客の間に陣取って見つめる妖怪。なんともいえない不思議な効果。たまたまだけどね。

開演前のアナウンスがバグっている。10分前と開演直前。「なります」を「なるま…なります」などといったりしている。一度目は単にいい間違えたんだな、と思ったが、二度目となると「んん?」と思う。うしろのひとも「また間違えてる」と話している。ところが、具体的には忘れてしまったが、暗転寸前に「明らかに意図的であろう」いい間違えをした。携帯の電源を切る等の諸注意を観客が聞き流せないようにするためか、劇世界への入口を開けたと宣言するためか、妙なインパクトがあった。開演15分前あたりから、ステージには出演者の出入りが始まる。魔女3人が行ったり来たり。観客の注意を惹くように、置かれている数々の小道具をいじって音を出す。いちばん使われていたのは、らせん状の木琴に木のボールを落として音を出す知育玩具(カラコロツリーみたいなやつ)。踊るようにグリッドを行き来する魔女は、ときおり観客をふいと見渡す。ドキリとする。

椅子はさまざまなものに姿を変える。寝台、玉座、森の木々。グリッドはバミリの役割も果たしているのか、システマティックかつスムーズに配置を変えられる。小道具の見立ても効果的で、ひとりの役者が父子──バンクォーとフリーアンス──の会話をひとりで演じ、絵に描かれているこどもに巻かれていたキツネのえりまき(マフラーよりえりまきといいたい)を父が巻いた瞬間、その父がこどもに変身し死んでいく。魔女を演じていた役者が帽子を被るとマクダフのこどもになり、死んでいく。少人数の演者が複数の役を演じる際の工夫がエモを呼ぶこの鮮やかさ。こういうのに弱いのよ…泣いちゃう。

附け打ち等の歌舞伎的な演出もあり、それを観ているうちにふと思う。シェイクスピア作品、所謂「幕見」が出来るのではないか。「ダンカン暗殺の場」「マルカム説得の場」「大詰 バーナムの森」のように、各々のストーリーと台詞のどこを切っても名場面になるのだ。全体像を知っておく必要はあるが、それでもあらゆる場面に勘所があり、見応えがある。そして勘所をおさえてなお、台詞が長い(笑)。マクダフの妻子が亡くなったことを告げるやりとりがなんでこうもまどろっこしいのよ、辛い知らせなので遠回しにいいたいというのは判るけど、と思ったりもするが、それら修飾語で彩られた名台詞の数々を歌のように聴き、名調子の数々を堪能出来る。「人生は歩く影法師 哀れな役者だ」と大見得を切るマクベスには「待ってました!」と大向こうを飛ばしたくもなる。シェイクスピアが活躍した時代は日本でいうと安土桃山時代、歌舞伎の誕生は江戸時代のはじめとのこと。こんな妄想もありかな。

翻案には通し上演を俯瞰で見る鳥の目と、取捨選択の判断力が必要なのだと気付かせてくれた今回のホンと構成だった。そして冒頭のツイートにも書いたように、台詞を「云える」役者を揃えたことも、今回の上演を心地よく観られたことの要因。時代がかったいいまわしと現代口語を行き来し、血なまぐさい11世紀と現在を繋げる。多くのひとが殺され、こどもも容赦なく無残に殺され、死が見世物になる時代。それは決して過去の話ではないことを知らせてくれる。ラストシーンのマクベスの「首」と、カーテンコール後の魔女たちの「片付け」は、殺戮は今後も繰り返されるということを暗示するようで恐ろしかった。流れる多くの血は水で表される。染み込ませる素材の効果か、透明な筈の水が墨汁のようにどす黒く拡がる。印象的な美術。途中流れた加川良「教訓1」が沁みた。最後の「歓喜の歌」日本語カヴァーはどなたなのかな?

翻訳台詞を現代に聴かせる内田健司のマクベスを観られてうれしかった。囁き声も、張った声も、遠く迄届く。ものいわぬときの逡巡も恍惚も、目の輝きひとつで見せてくれる。長いあいだ観ていきたい役者。コメディエンヌの印象が強かった川上友里は、悪事にも破滅にもまっしぐらの一途なマクベス夫人像。そこにある思いは野心というより、ひたすらマクベスを成り上がらせたい気持ちが先に立つよう。バンクォーとフリーアンスを演じたからくり人形のような山本圭祐、魔女とマクダフの息子を演じた菊池明明の声の力。個人的に贔屓のキャラクター、マクダフを演じた町田水城は、時折脱力するようなユーモアを見せる人物像で魅力的。

紅林美帆による衣裳が美しくかつ機能的。特に茂手木桜子のドレスが素晴らしく、彼女の身体能力をより魅力的に見せてくれるものになっていた。常態はノースリーブ、ドレープの効いたふわりとした漆黒のドレス。魔女が摺り足で歩くとロシアの舞踊「ベリョースカ」のような、引力を感じさせない動きに見える。ふわり、ふわりと風に舞う落ち葉のように舞台上を移動する。四つん這いになり、暗黒舞踏のように足を床面から離さず体幹を裏返す動きをすると(諸星大二郎のヒルコのよう。今回喩えばかりですみませんね……)ドレスの裾がめくれあがる。そこで初めてペチパンツを履いていたことがわかる。転じてマクダフ夫人を演じるときは、シックなデザインが映える。

茂手木さんの魔女は獣のような仕草をしても下品にならず、マクベスを遠くに見やり乍ら猫の声色と仕草を見せる姿もかわいらしかった。異界の際から、愚かな人間の営みを見つめているよう。なんでもワークショップの段階では3人の魔女をひとりで演じたそう。今回も魔女チームの象徴ともいえるはたらきを見せていた。そしてマクダフ夫人役がまたよかった。「筋肉あっても死ぬの!」には大笑いしてしまった、なんて愛しいマクダフの妻。名前がほしい。

スコットランドは日本の東北なのだろうかなどと思う(秋田は日本のグラスゴーが刷り込みの人)。一応説明しておくと、「秋田は日本のグラスゴー」というのは90年代のUKと日本の音楽シーンが地方によって似通っていると一部でいわれておりまして……ってこれ誰がいいだしたんだっけ? USハードコアの流れが何故か北海道で勃興したことにも通じており、風土から生まれる音楽というものは(以下長くなるので割愛)。

しかしそれなら上村聡演じるロスだけが東北弁だったのは何故なんだろうかという疑問も湧く。階級とか身分の差を表していたのだろうか……なんて、ダラダラ考える帰り道のなんて楽しいことよ。このカンパニーで他のシェイクスピア作品も観てみたい! 密かに待っています。

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・はえぎわ×彩の国さいたま芸術劇場「マクベス」稽古場レポート / ノゾエ征爾インタビュー┃ステージナタリー
また本で読んでいくと「あ、とても素敵な言葉だな」と思うんですけど、それをいざ俳優の身体を通して、音として聞いてみると、頭に入ってきづらいところが多々あって、そこも難しいなと。でも取り組んでいくうちに、あの特有な言い回しが作り手としてはとても楽しくなってきて、ともすると、自己満のような悦に入ってしまいそうになるので、気をつけないといけないなと思っています。
謡いすぎず説明にせず、台詞の肝を観客の頭に届けるスキルはやはり必要なもの

・杏、ギター弾き語り動画公開「一人ひとりが今、できることを」┃cinemacafe.net
2020年、コロナ禍のステイホーム中に杏さんが発表した「教訓1」のカヴァー。私もこれでこの曲を知りました

・それにしても先月の『すし屋』からの首ネタ、つらい(笑)。見世物的な処刑ってほんとバラエティに富んでいて人間てホント残酷ねーと思う。ちなみに今迄でいちばんヒィイイイとなった処刑方法は、『藪原検校』のお蕎麦いっぱい食べさせて宙吊りにして腹切るやつですね〜ヒー





久しぶりのさい芸がうれしくていっぱい写真撮っちゃった。そうそうカフェは現金不可でした。Suica使えてよかった、多めにチャージしといてよかった。チャージだけのため戻るには、与野本町駅は微妙に遠いのでな……


劇場近くの中学校沿いに設置されている、『彩の国シェイクスピア・シリーズ』出演者の手形レリーフとサインとも再会。ニコニコと眺め乍ら歩いていたら、ある箇所で違和感が。えーとこんなのなかったよな、と一瞬考え、はたと気付く。ここ、四代目猿之助のレリーフがあった場所だ。うーーーーーん