浅間日記

2014年01月30日(木) 12月の旅人と私

苺を食べたい人は座って!と子どもを諭しながら、
来週の末には送れると思います、と仕事先に電話しながら、
頭の中は大瀧詠一さんを失った悲しさばかり考えている。


大瀧詠一さんの突然の訃報から一か月が過ぎた。

同じ時代を作った音楽の仲間であれば、
失った悲しみはさぞやと思っていたところ、
松本隆さんが葬儀の後で、このように記していた。

「眠るような顔のそばに花を置きながら、ぼくの言葉と君の旋律は、こうして毛細血管でつながってると思いました。だから片方が肉体を失えば、残された方は心臓を素手でもぎ取られた気がします。北へ還る十二月の旅人よ。ぼくらが灰になって消滅しても、残した作品たちは永遠に不死だね。なぜ謎のように『十二月』という単語が詩の中にでてくるのか、やっとわかったよ。苦く美しい青春をありがとう」

言葉と旋律は、毛細血管でつながっている。

そうか、松本さんと大瀧さんは、
言葉と旋律を通じて、毛細血管でつながっていたのだ。

なんという関わりだろう。

2008年01月30日(水) 連邦と政府
2007年01月30日(火) 女難大臣
2006年01月30日(月) 
2004年01月30日(金) 抽選12万名様に裁判体験



2014年01月29日(水) 買って嬉しい花いちもんめ

住まいづくりは、必定、
色々と買物をしなければならない。

最近の製品は、色々と使用に制限が多い。

風呂でもストーブでも給湯器でも、
そうした仕様になっている。

勝手にお湯が出る。
量や温度は決められている。
変なチャイム音や人工音声が勝手に鳴る。

使う人の細かい判断や操作の入り込む余地がないのである。

もちろん諸々の設定を変えればよいのだが、
それには役所へ許可申請するぐらい面倒な操作が必要だ。

情報端末は、さらに息苦しい。

黎明期のパーソナルコンピュータがもっていた自由な空気は失われ、
今や、人の行動を監視するための機能ばかりが優先されている。

サービス産業も同様だ。

契約書の下には甲と乙の関係が顔をのぞかせ、
ケチなサービスと引き換えに、利用者を従わせるための指示が羅列されている。



プリセットされている条件で、
暮らしの自由が絡めとられていく。



かつて買い物は、夢や希望だった。

消費行動は自由の一種であり、未来だった。

戦争ですっかりむしり取られた
「普通に生活する権利−選択と可能性−」を買い戻す行為でもあった。

ホテルやレストラン、美容院で丁寧なサービスを受けることで、
人間として尊重されていることを確認した。

そうだからこそ、デパートも輝いていた。



もう、消費行動で自由は手に入らない。尊厳も保たれない。

それどころか、金を出して何かを買えば買うほど、
私達の暮らしは縛りを受け、豊かさを失っていく。




ではどうすれば、
私達は生活の選択と可能性、
未来への夢や希望を手に入れることができるか。

簡単だ。

必要なものは顔の見える関係から買い付けること。

頭と手足を使ってよく働いて、
一人になってよく考えて、家族や友人と一緒に過ごし、
そして選挙にいくことだ。

2012年01月29日(日) 
2010年01月29日(金) 金で解決するのなら
2008年01月29日(火) 越冬辛抱
2007年01月29日(月) 
2005年01月29日(土) sugarな話
2004年01月29日(木) イマジン銃社会



2014年01月25日(土) 幸福の追求か あるいは楽しさか

「しあわせなふくろう」という絵本。

オランダの民話である。

ふるくて、くずれかかった いしのかべの なかに、
ふくろうの ふうふが すんでいました。

二わのふくろうは くるとしも くるとしも、
とてもしあわせに くらしていました。

すぐちかくには、ひゃくしょうやが あって、
いろいろなとりたちが、かわれていました。

このとりたちの かんがえるのは、
たべるのと のむことばかり。



始まりはこんな感じ。
チェレスチーノ・ピヤッチ氏の描くふくろうや鳥たちの姿が美しい。
はっきりしたラインは、いかにもオランダの作家らしいと思う。

鶏やガチョウやアヒルは、食べることと飲むことしか興味がなく、
腹いっぱいになると、互いに争い始めるのである。

ある時、どうしてあのふくろうの夫婦はケンカをしないのだろうか?と
疑問に思った鳥たちは、フクロウ夫婦に教えを乞いに行く。

フクロウは、静かに語りだす。

私たちは、季節ごとにうつろう自然の中で
自然とともに生きる喜びを感じている。
−ここのところの文章と絵が、また実に美しいんである−

そうだから、しあわせで、やすらかな気持ちでいっぱいなのだ、と。

鳥たちは呆れ、馬鹿馬鹿しい!と一蹴する。

そんなことより、見せびらかしたり、食べたり飲んだり、
争っている方がいい!と、帰っていく。

鳥たちがやかましく帰って行った後、ふくろうの夫婦は
「そっとからだをよせあって、おおきなめだまをぱちぱちさせる」と、
再び幸せな物思いに戻っていく。

こんな話だ。



一回目は、ふくろう万歳、と思いながら読んだ。
二回目も、ふくろうでありたい、と思った。

三回目に、でも、もしも誰かに「鳥で何が悪い!」と言われたら、
それはそう思ってしまうかもしれないな。と思った。

五臓六腑にしみわたるものをワイワイと喰らい、
自分達はまったく馬鹿だね、と言いながら、

時に自慢したり、人をやっかんだり、
泣いたり笑ったりケンカするのが、人間というものだ。

幸福というほどの上品さや深みはないが、
−それに私も聖人君子を気取りたいのであるがー

悲しいかな、多分そっちのほうが楽しいだろうなあ、と思ってしまうのである。

2011年01月25日(火) 無視される駅
2009年01月25日(日) 危機と免疫
2007年01月25日(木) 
2006年01月25日(水) 
2004年01月25日(日) 国民総ガス抜き表現者



2014年01月22日(水)

寒もピークであるが、年々寒さに鈍くなっている。
これは「慣れ」などではなくて、老化現象に他ならない。

寒さだけではなく、何もかもが茫洋としている。
もちろん、良い傾向だと思っている。



ちょっとした原稿をチェックする。

附帯決議だの附則というのは、日本の文化だなあとつくづく思う。
肝心なことを表ではなくて、こういうところにチョコチョコと記すのである。

色々な法律の附則だの国会の附帯決議を集めると、
政治や社会の駆け引きが見えてくるだろう。
時代や政権を検証する好材料なのだ。

2008年01月22日(火) 小さい選択とその行く末
2007年01月22日(月) 
2004年01月22日(木) 老害図書



2014年01月21日(火)

いじめに関するいくつかのニュース。

いじめと虐待は、数ある報道の中でもとりわけ、
受け止める側に劇薬のような反応をよぶ。

痛ましく、正面から向き合うにはつらいショッキングな出来事。
「悪いのは誰か」をはっきりさせないと神経がもたない。
一般化してはいけない特異なケースを、「最近の傾向」と勘違いする。

報道する側は、その効果をちゃんとわかっている。
社会のしくみを変えるためのコンセンサスづくりには、もってこいなのだ。

2010年01月21日(木) 変則の自由
2009年01月21日(水) 群集への高度順化
2007年01月21日(日) 11人の中の私
2005年01月21日(金) 英語の時間



2014年01月20日(月) ご乱心行為

末の息子はせわしなく動き回る。

気持ちが次のことへ次のことへと目まぐるしく向かうから、
追いつくのが大変だ。

そして、親に自分を見ていてほしい!というサインに反応しなかったりすると、
殿ご乱心、みたいなことになる、という構造になっている。

ファンヒーターのスイッチをペカペカ押す。
食器棚の食器を運び出す。
籠にしまってあるYの服を、片っ端から放り出す。



この手のことは、だいたい大人が悪いのである。そう思っている。

子どもに向き合う時間を確保して、
ご乱心行為については、ヒロが早く利口になりますように、と祈るほかない。

よくある傾向だが、犬や猫を躾けるように、
ダメ!などといちいち怖く言っても無駄である。

無駄であるばかりでなく、育ちに悪いとさえ思っている。

子どもは、自分の気持ちが受け入れられなかったばかりでなく、
大好きな父や母が自分に怒りの感情をぶつけている、としか思わないからだ。

2011年01月20日(木) 寒中暖あり
2010年01月20日(水) 光の記憶の在るところ
2008年01月20日(日) 
2007年01月20日(土) チキンハートクライマー
2006年01月20日(金) 茶番劇場の後継者
2005年01月20日(木) マッチポンプ日記
2004年01月20日(火) 芥川賞と私



2014年01月18日(土)

寒中であるが、太陽の輝きは力強くなり、
春が近いことを知らせている。

向こうのほうで、槌音が聞こえる。
ああ、Iさんが仕事を始めたな、と思いながらPCに向かう。




この冬の間に、家を普請している。

地縁のないこの土地に住まいを確保するということは、
ある時点で重要な選択を迫られる。

つまり、借家ぐらしを続けるか、新たに購入するか、
その土地を離れるか、ということだ。

見渡してみると、よそから移り住んだ若い夫婦はだいたい、
家族が増える頃を境に、家を建てたり、
アパートから一軒家に移り住んだりしている。

わが身も例外ではないのだが、
理屈ばかり言っている貧乏なキリギリスは、大金の必要にとことん弱い。

家の問題は進むも地獄、戻るも地獄とここ数年頭を悩ませていたのであるが、
色々あって、春には無事に決着しそうなのである。

あまりにほっとしたので、安心しすぎて
自分は完成前に急にポックリいってしまうんじゃないかとさえ思っている。

2011年01月18日(火) 考えるばねと青春時代の自覚
2007年01月18日(木) 金権政治参加
2006年01月18日(水) 悪貨が駆逐するもの
2005年01月18日(火) 悲嘆エレベータ
2004年01月18日(日) コインロッカーベイビーズ



2014年01月15日(水) そのつぶやきにいちいち耳をかしてはいけない

電車の中で子どもを泣かす親が不快、という
社会に迷惑をかけまくった男のつぶやき。

これに色々な背後霊がついて、巷ではそれこそ、
泣いている子どもをそっちのけに、どろっとした議論をしている。



少子化社会で本当に心配なのは少親化社会になることだ、と
もう先から、吾輩は申し上げてきた。
世の中から親心が消える、と。

このことは、その構造上の問題の一端が、表れたにすぎない。
これからますます、この傾向は強くなるであろうと吾輩は推察する。

そうだから、子どもの虐待や少子化を痛ましいことだと本気で臨む御仁は、
いちいちツイッターやなんかであまり騒がないことが望ましい。
議論するのならば、それなりのところに「出るところに出て」やるのがよい。

吾輩は、そのように思う次第である。



2014年01月09日(木)

医療機関に患者の情報提供を義務づけ、
がんに関する全国規模のデータベースを整備する
などとした「がん登録推進法」が、衆議院本会議で、
可決され、成立した、というニュース。昨年12月のことだ。



国家による個人情報の収集を
「なんだか気持ち悪い」と感じるのはどうしてだろうか。

これまでの人生で、霞が関の人から無理矢理なにかを強制されたことはない。
嫌な感じがすることはあったけれど。

だからきっと、この気持ち悪さは思い過ごしなのだろう。

でもこの、もやもやする不快さをどうしようもない。

2011年01月09日(日) 
2008年01月09日(水) 
2006年01月09日(月) 犬の報い
2005年01月09日(日) 真正正月



2014年01月08日(水) さらば大瀧詠一

謹賀新年。
とはいえ、松の内ももう過ぎた。

家の中が静かになって、ようやく
昨年末、12月30日に急逝した大滝詠一さんのことを考える。

青春の時期に爽やかな風のように出会い、
それからは当たり前のように自分の周りに存在していた。
彼の創った世界に入って心を遊ばせることが好きだった。

大滝詠一氏の音楽に限らないが、
ずっとあるものだと信じて疑わなかった音楽のほとんどは、
当代限りのかりそめである、という危機感のようなものを、
最近痛いほど感じる。

大滝詠一さんと同時代に音楽を創り上げた細野晴臣さんも、
山下達郎さんも、少し若いが佐野元春さんも、
年齢的にはもうおじいちゃんだ。忌野さんは既に鬼籍に入っている。

自分の好きな音楽だけではない。
うざったく思っていたフォークミュージックも、
自分とはあまり関係ないなあと思うロックも、
庭先に繁茂する夏草のように、
時代が変われば世の中から跡形もなく消えるだろう。

誰も聴かないし、誰も歌わないものになるのだ。



翻って考える。

じゃあ、何百年も続く音楽というのは、一体何なのか。
どんな仕組みが、それを「伝統枠」にするのだろうか。

ふとロンドンオリンピックの開会式を思い出す。

何故あんなロックコンサートみたいな開会式なんだろう、と思っていた。
元日に肉じゃがを食べるようなものだ、と。

あれはきっと、多分、−意識的にせよそうでないにせよ−
放っておけば消えていく英国ロックを、
伝統に昇華させるための儀式だ。

時代の波頭にのった人が存命しているうちに、
誰にでも手に入る当たり前の音楽であるうちに、
百年先を見据えてその作業を周到にやっておくのだ。

現に、ビートルズもエルトンジョンも、
時代を超えたクラシックとして「成長」しつつある。


ああ、やはり「伝統」は英国だ。

伝統を作り出すことが英国の伝統なのだ。

2011年01月08日(土) 他意のない素朴な作業
2010年01月08日(金) 初めに射られる二本目の矢
2009年01月08日(木) 深く根を張って生きる その2
2008年01月08日(火) 自治再考
2005年01月08日(土) 「ダメ」と「よし」の深呼吸


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