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セクサロイドは眠らない

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2003年10月31日(金) あの人は傷だらけ。あんたは傷は治すことはできないけれど、流れる血を隠す事はできる。

母にやさしくされた記憶はあまりない。母は、昔も今も、変わらず冷たい人だ。むろん、それは生きていくため。そして、また、僕も。

母にやさしくされた記憶が一つだけある。

僕は、怪我をして激しく泣いていた。大した怪我じゃない。ただナイフかなにかで指をざっくりと切ってしまい、その出血の多さに動揺していたのだ。母は、無言ではあったが、僕の指を根元でしばり、傷口の血をぬぐい、ガーゼを当てた。その手際の良さに僕はすっかり痛いのを忘れ、真っ白な包帯がくるくると巻かれるのをじっと見ていた。

「泣き止んだね。」
母は微笑んだように見えた。

僕は黙ってうなずいて、その白い包帯の清潔さに見とれた。怪我が包帯で覆われただけで、僕はホッと安心して、また、先ほどまでの遊びの続きを始めたっけ。

しばらくは、その包帯のせいで、周囲に気を遣ってもらったのも嬉しかったっけ。

--

僕は、その屋敷の使用人の息子として生まれた。父は運転手をし、母はお嬢様の世話をしていた。

僕も、物心ついた頃からお嬢様の遊び相手として借り出された。普通なら使用人の子供が遊び相手になるなんて許されなかった筈が、なぜか僕は許された。その理由が、小学校を終える頃には分かった。

僕は、とても美しかったのだ。

お嬢様も美しかった。知らない人が見たら、僕らは似合いのカップルに見えたかもしれない。

お嬢様は美しいものが好きだった。だから、僕なのだ。選ばれたのだ。

--

僕達が仕えている家は異常だった。憎しみや蔑み。悲しみや怒り。そういった感情が複雑に絡み合い、家族同士傷付け合っていた。家の主人とその妻は、それぞれが外に恋人を作り、互いを憎み合っていた。長男は金にものを言わせ、夜な夜な遊びまわっていた。そんな家族の中で育てられたお嬢様が正気を保てるわけがない。家庭教師と寝たり、猫や犬をいじめたりすることに何の疑問も抱いていなかった。僕も、時には彼女のベッドの相手をさせられる事もあった。だが、僕らの間には愛情の通い合う事は決してなかった。

--

これでも幼い頃には、そんな生き方を強いる母に反発もしたのだ。だが、母は静かな声で言い放った。
「お嬢様の包帯におなり。あの人は傷だらけ。あんたは傷は治すことはできないけれど、流れる血を隠す事はできる。」

その意味が、僕にはよく分からなかったけれど、僕は自分の立場だけはわきまえていた。お嬢様のそばに寄り添っても恥ずかしくないように着飾り、男達から彼女を守るために体を鍛えた。

「この家で起こることは、見て見ぬふりをしなさい。全てはあなたとはかかわり合いのないこと。」
母がそう口にする理由が、僕にはよく分かっていた。

使用人の娘は犯され、男達は鞭で打たれていた。

しかし、お嬢様は残虐な一面を見せる一方でひどく心が弱く、時に薬をたくさん飲んで僕にしがみついて眠る事もあった。怯えて泣き叫ぶ夜、僕が彼女の体を抱き締めた。

--

もう一度言う。僕は、決してお嬢様に惚れていたわけじゃない。僕は使用人だ。僕の役目は、彼女の傷を覆い隠し、流れる血を止めること。

--

そんな僕が、18になった時だった。屋敷に新しい使用人が来た。何も知らずに微笑む少女も、一週間と待たず暗い目の中に何も映さなくなるだろう。

だが、僕の予想ははずれた。

彼女は、決して笑顔を忘れず、お嬢様に仕える僕にまで敬意を表した。

僕は、恋に落ちた。

--

初めての恋に僕は夢中だった。

そうして、とうとう、ある夜。

その夜は、お嬢様に呼ばれていたにも関わらず、僕はすっかり忘れていた。いや。心のどこかでは分かっていたのだ。だが、そんなことはどうでも良かった。この一夜のためなら、明日鞭に打たれることなど何でもない。すきま風の入るその部屋で、互いを暖めていた。何度もむさぼるようにキスをして、僕はその震える体を包んだ。

彼女と僕は薄い布団の中で絡み合い、笑い合った。

そう。笑い。それが全てだった。

--

彼女と一夜を過ごしている間、僕は嫌な夢を見た。誰かが苦しむ声。転がり回ってうめく声。

僕は、あまり眠れぬ夜を過ごし、朝早くにお嬢様の部屋を訪ねた。彼女の事を完全に忘れ去っていたのは初めてだった。

そこには既に母がいた。身動きもせず。

部屋は、真っ赤だった。お嬢様のの体は傷だらけ。おびただしい血が流れ、ベッドと床を染めていた。

「ああ。なんてことだ。」
僕は、分かったのだ。僕のせいだと。昨夜は、誰もこの部屋に入らなかった。彼女一人で僕を待って、待って・・・。

母はつぶやく。
「だから言ったでしょ。あんた、包帯だって。あんたがいなきゃこの可哀想な女は、むき出しの傷から血が流れて失血死するんだったのに。」


2003年10月30日(木) あの情熱がどこかに行ってしまったのだと言う。誰かが持って行ってしまったみたいだと。

「あんた、あたしの歌をどうした?」
私は、少年を問い詰める。

「知らないよ。」
少年は、最初はそんな事を言っていた。

「あたしは、あんたの事を知らない。だけど、昨日知り合って、一緒に旅をさせてくれって言うし、あたしが探してる村を知ってるみたいだから、あんたを信じた。なのに裏切ったんだね。」
そういうと、途端に少年は泣き出した。

「僕の村に持って帰りたかったんだ。」
「なんで?あたしが作ったばかりの歌。まだ、生まれたばかりの赤ちゃんだ。それをあんたが持って帰ってどうするの?ね。正直に教えてちょうだい。」

少年は涙をぬぐい、ポツリポツリとしゃべり出した。

--

最初は、作家をしている友人が電話をして来たことから始まった。すばらしい物語が浮かんだのに、それを書こうとした矢先、きれいさっぱり盗まれたと。書こうとする熱い心と一緒に消え失せたと。

私はそれを笑い飛ばした。本当は、そんな構想なんてどこにも無かったんじゃないの?ってね。

次に、画家をしている友人が私の部屋に飛び込んで来た。南米を旅行して来たばかりの友人は、溢れんばかりの創作意欲に燃えていた筈だったのに、酒瓶を持って荒れ狂い、あの情熱がどこかに行ってしまったのだと言う。誰かが持って行ってしまったみたいだと。

それでおかしいと思った。私は、歌を歌う。歌が満ちて来た時、心は膨らみ、それを表現せずにはいられなくなる。その気持ちは歌を世に出すまではおさまらないものなのに。

嘆き、荒れる友人達のために、私は旅に出た。私達の中の何かを盗んだ奴を探しに。

--

昨夜、宿の食堂で出会った少年は、私の行きたい村の出だった。連れて行ってくれるというから信じた。

少年は、私に話してくれた。

彼の小さな村は何もない。貧しい村だ。だが、村の人達は希望に満ちていた。歌を歌って踊り、物語を語る人の周りに子供達が集まり、木の実で染めた美しい布を売って暮らす。

だが、ある日、「物語を紡ぐ心」を村の人達が失くし始めたそうだ。

だから、少年が、村の外から物語を持って来る事になったんだと。

彼のポケットは、あたしの歌や、友人達の絵や物語でいっぱいだった。

--

「何があったの?」
「分からない。」
「盗みは良くない。」
「分かってるけどどうしようもなかったんだ。」
「でも、あんたどうすんの?手ぶらじゃ帰るわけにいかないね。」
「悪いのは僕だから。」
「ううん。誰かがあんた達の村を駄目にした。そいつと闘わなきゃね。」
「どうやって?」
「分からない。だけど、あたしあんたと一緒に行くわ。」
「本当?」
「ああ。このままじゃ、村の人達は、次々と盗みを働くようになるからね。」

私は、少年と歩いた。私がちょっとした歌を歌うと、少年は下手くそながらも澄んだ声で合わせて来た。

「へえ。あんた、歌えるんだ?」
「うん。僕ら子供はね。でも、大人は駄目なんだ。」

--

村は、私が思っていたものと全然違っていた。人々は美しい衣装。値の張る宝石。下品な笑い声。

「あんたの言ってたのと違うね。」
「こんなんじゃなかった。僕が村を出る前よりひどくなってる。」

少年の顔は青ざめていたから、本当だと分かった。

私は、少年の家に泊めてもらった。少年の母親は青白い顔で私をにらんだが、画家だと知ると途端に親切になった。芸術を大事にする心だけは、まだ、わずかだが残っていたようだ。

夜中、私は目を覚ます。泣き声ともうめき声ともつかない声。

「ねえ。起きて。」
少年を起こし、夜道を案内させる。

洞窟の中から聞こえてくるその声は、私をぞっとさせた。

その深い場所に入ると、女がいた。

「あんた、誰?」

女は目の醒めるような美貌。私の前に宝石を投げて寄越す。

「要らない。こんなもの。それより。あなたね。村の人の心をおかしくしたのは。」
「そうよ。」
「何でそんなことを?」
「彼らが要らないって言ったのよ。欲しいものと引き換えに私に喜んで差し出したわ。金や銀。ダイヤにルビー。男達には私自身。」
「お金で買えないものを買った罪は重いよ。」

私は、歌を。

唯一の武器である、歌を歌った。

その歌は、こんな歌だった。

--

娘の歌。

ある美しい娘が恋をした。彼女は、村の外から来た裕福な男と、長く付き合った。だが、男は国に妻子を残していたから、時々しか村に来る事ができなかった。

娘は、全身全霊を賭けて男を愛していたから、一緒になってと迫った。

男は、次に来た時に必ずと約束した。国に帰って妻に話をして来ると。

娘は男が帰って来るのを毎日待った。だが、しかし、男は帰って来なかった。娘は男を待ったまま、何も食べず何も飲まず、とうとう死んだ。

--

男の歌。

男は、退屈していた。妻と子供と、膨大な財産。だが、退屈していた。

ある村に行った。そこは何もない村だったが、娘達の歌声が美しく、その中の一人と恋に落ちた。娘が夜な夜な聞かせてくれる物語を男は気に入った。

だが、いつまでもそこにはいられない。

男は、一度国に戻るよと言った。娘は一緒になってよと迫った。

男は必ず戻って来ると約束し、心が引き裂かれるような悲しみを振り切って、村を出た。

--

娘の歌。

娘は鬼になった。希望が物語を生み、愛が歌を生むのを憎んだ。

男の歌。

娘が病気になったせいで、その夜村に戻る事ができなくなった男は、手紙を書いた。手紙は、船で運ばれている途中、嵐に会い、気まぐれな波がそれをどこかに持って行ってしまった。

--

美しい女は泣いていた。
「信じてれば良かったのね。ただ、それだけが必要だったのね。」

あたしは言う。
「その男は、女を愛していた。女が心から生み出す美しい言葉達を。」

叫び声と共に、女は灰になって、飛び散った。

--

村の金銀宝石も、灰になってなくなった。人々は元に戻り、私は村の宴に招かれた。

少年が訊く。
「あの女の人のこと知ってたの?」
「ううん。」
「じゃあ、どうして?」
「歌は出会いによって生まれるの。あの日、私の歌は彼女と出会って、命を持った。そういう風な歌があることが、あの瞬間、私には分かったの。」

村はまた、物語を紡ぎ始めた。

少年は、歌手になりたいと言う。

「その前にもっと練習しなくちゃね。」
とあたしは笑う。


2003年10月29日(水) つまり、肉体を交換するってこと。正気の沙汰じゃないってのは分かってるんだけどね。

「ねえ。お願いがあるんだけどさ。」

この姉が僕に頼みごとなど、ろくなことではない。

「何さ?」
「来週からインドに行くんだけど。」
「インド?」
「うん。」
「どれくらい?」
「一ヶ月から三ヶ月くらいの間。」
「もう今度で最後にしてくれよな。」
「分かった。さんきゅ。」

こんなこと、人には言えないけどさ。僕の姉は、ちょっと危険が伴うような場所に旅行に行く時なんかは僕の体を借りることにしてるんだ。つまり、肉体を交換するってこと。正気の沙汰じゃないってのは分かってるんだけどね。

一方の僕は、大の出不精。海外なんかに行きたがる人の気が知れない。

姉は言う。
「もうね。知らない場所があるってだけで、行きたくてどうしようもなくなるの。私、自分が男だったら絶対に冒険家になってたと思うわ。」

そんなことで僕の貧弱な肉体を酷使しないでくれよ。

だが、僕は、姉にめっぽう弱い。なぜだかは知らない。身勝手で気まぐれで、弟をいじめるのが趣味みたいな奴なんだけどね。

「いいさ。ちゃんと無事に返してくれよ。僕の肉体なんだから。」
「分かった。恩に着る。」

姉は最高の笑顔を見せる。

この顔に弱いんだ。

「あ。あとさ。もう一個だけお願い。」
「何?」
「あのね。カズヤのことなんだけどさ。ちょっとケアしといてくれるかな?」
「えー?自分の彼氏だろ?何で俺が・・・。」
「お願いよ。今度のインド行きは内緒なの。あんまりしょっちゅう行くと心配掛けちゃうから。」
「でも、俺、そういう趣味ないよ。」
「いいの。来月あたしの誕生日じゃん?そんときだけでいいから。他は手が掛かるような奴じゃないから。」
「ったく。」

--

姉は満面の笑みで旅立って行き、僕はその間姉の肉体で暮らす。こういうのは今までにもあったが、今回みたいに長い期間は初めてだ。

姉の誕生日が来週に迫ったある日、案の定、カズヤからメールが入る。
「店、予約したから。」

本来なら、男とデートなんてうんざりだが、僕はちょっとだけカズヤという男に興味があった。姉みたいな女と付き合うなんてどんな奴だろう?しかも、すぐ別れると思っていたら、もう八年近くにもなる。僕には信じられない。そりゃ、顔はちょっと可愛いけどさ。あの猛獣のような姉と付き合う男がいるという事実はなかなか受け入れられるものじゃない。

「了解。じゃ、仕事終わったら電話ちょうだい。」
僕は、姉の携帯で返事を書く。

--

カズヤはちょっぴりめかし込んでいた。僕も、普段姉が着ないワンピースを着てみる。別に女装趣味がなくたって、一度くらいはこういう格好してみたいもんな。

カズヤは、少しびっくりしたみたいに言う。
「なんか、ちょっと雰囲気が違うね。」
「うん。たまにはね。」
「すごい素敵だ。」
「ありがとう。」

何だかカズヤは緊張してるみたいだ。
「緊張してるの?」
「うん。まあ、ね。会うの久しぶりだし。」

僕はちょっと可笑しくなって、こいついい奴だな、と思った。どんなに姉にほったらかされてても忠実な犬みたいに姉を待っているにちがいない。

「ねえ。ここ、何が美味しいの?」
わざと、ちょっと甘えた口調で僕は言う。

--

「ごちそうさま。」
カズヤに誘われて、カズヤの部屋でくつろぐ。

身の危険を感じたら、帰ろう。僕はそう決めている。男と変な関係になる趣味はない。

「もうちょっと飲む?」
「うん。ビールくれる?」
「ビール?珍しいな。きみがビール飲むなんて。」
「たまにはね。」

カズヤの本の趣味。部屋の趣味。さっぱりとして気持ちのいいものだった。男の僕から見ても、無駄がなく、センスがいいのが分かる。姉貴もなかなかのものだ。

カズヤがさっきから迷っている風なのを感じて、僕は問う。
「落ち着かないけど、どうしたの?」
「あ。いや。うん。今日、どうしても言おうと思ってたことがあって。」
「何?」
「ええっと。その。」
「何よ?」
「結婚。」
「え?」
「結婚しないか?」
「ええー??」
「すぐに返事しなくていいから。」
「・・・。」
「考えてくれるだけでいいんだ。」

こんな大事な事、僕が聞いちゃっていんだろうか?

「ずっと考えてた。」
「・・・。」
「僕にはきみしかいないと思ってる。」
「ちょ、ちょっと待って。なんであたしなの?」

僕は、思う。そうだよ。結婚に一番不向きな女だぜ。

「なんでって。そうだな。君の良さを知ってるから。」
「どんな?あたしなんか、ただのわがままな女だよ。」
「知ってるんだよ。」
「何を?」
「きみが誰より怖がりだってこと。」
「怖がり?」
「ああ。怖がり。きみがいつだって強気な態度を取るのは本当は怖がってるからってこと。僕を拒むのも、本当は怖いからだってこと。誰かと愛し合えば、いつか、その相手がいなくなるのが怖くなるって言ってただろう?何かを所有してしまえば、それを失くすのが怖いって。」
「そんなこと言ったっけ?」
「ああ。」
「覚えてない。」
「いいさ。僕に言えるのは、きみがそういう一面を持っていることを僕は知ってるってことだけ。」
「行きたいと思ったら、仕事も家庭も放り出してどこにでも行っちゃう女だよ?」
「知ってる。行かずにはいられないんだろう?だからこそ、帰る場所が必要だよ。人は戻る場所があるから、旅立てるんだ。」
「そんなことで結婚する理由になるの?」
「いつまでも、弟さんに頼ってはいられないだろ?」

僕は、なぜかその時泣いていた。

「きみが泣くなんて。」
カズヤは、そっと僕の肩に手を回した。

僕は嫌じゃなかった。男に抱かれる趣味はないけれど。

カズヤは、だが、僕がそのまま眠ってしまうまで、ただじっと肩を抱いていただけだった。決して無理に抱こうとしなかった。カズヤの心臓の音が響いて、僕はただ、心が安らぐ。

--

次の日、カズヤが眠っている時間に起き出して、僕は自分の部屋に戻った。なんだか、これ以上カズヤの傍にいるのが怖かった。

僕は、僕だけど、姉だった。幼い子供のように怯え、求めていた。あんな風に包まれたら、その中にいるのが怖くてしょうがなくなるに決まってる。

僕は、その日から、カズヤに抱かれる夢を見ながら眠った。姉さん、早く帰って来てよ。

--

姉は旅立ってから二ヶ月後、元気な顔で戻って来た。僕の元に戻って来た僕の肉体はとても元気そうだった。

「最初の一週間はずっと下痢しててさあ。」
なんて笑う姉を見て、僕は何だか泣きたいような、変な気分だった。

「どうしたの?」
「プロポーズされた。」
「あんたが?」
「まさか。姉さんだよ。カズヤさんに。」
「ふうん。」
「まだ返事してないから。返事してあげてよ。ね。どうすんの?」
「分かんない。急だし。」

姉は少しまじめな顔になり、
「じゃあね。」
と言って荷物を抱え、出て行ってしまった。

--

まさか。

と思っていたのに、姉は彼と結婚する、と電話してきた。僕の胸はキリリと痛んだ。

それから、一度だけ。僕はカズヤと会った。僕のほうの家族とカズヤで一緒に食事をしよう、という事で呼ばれたのだ。

カズヤは、あの日と同じ目をして、僕を見た。
「こういうこと言ったら失礼かもしれないですけど、顔はあんまりお姉さんとは似てないですね。」
「そうかもしれません。」
「だけど、性格は似てる。」
「え?そうですか?全然違いますよ。」
「そうかな。僕が知ってる彼女ときみは、びっくりするぐらい似てる。」
「それなら、やっぱり姉弟だからでしょうね。」

僕は、彼の視線を受け止めるのが辛くて、窓の外に目をやる。

「ユキエさんが結婚を承諾してくれるとは思わなかった。」
「姉はあなたを信頼してましたから。」
「どうかな。だけど、何となくきみの存在が関係してると思ってるんです。」
「まさか。姉はいつだって自分で何でも決める。」

僕らは、別れ際、握手を交わした。

僕は一瞬、また泣き出すかと思った。彼の手はそれぐらい大きくて温かかった。

僕は、姉の結婚式には出席しなかった。前から誘いがあった知人との共同事業に参加するためにドイツに越すことにしたのだ。

--

電話で姉は、
「寂しいわ。」
と言った。

「姉貴らしくないなあ。そんな弱音。」
「そうかしら。」

姉のお腹には、新しい生命が宿っていた。最近の姉はどことは言えないが変わったと思う。多分、怖がらなくなった。いや。それは正確じゃないかな。怖がってもいいんだって、分かったってことか。彼が。僕が。彼女を愛する全てが、彼女を支えていること。

「子供の名前ね。もう決めてるの。彼が決めたのよ。」
「なんて?」
「ヨシノリ。あなたのヨシキっていう名前から一文字もらったの。」
「ねえ。一つだけ教えてくれよ。」
「なあに?」
「どうして、カズヤさんとの結婚に踏み切ったの?あんなに自由に生きるって言ってたのにさ。」
「嫉妬かな。」
「嫉妬?」
「ええ。」
「まさか。カズヤさんは姉貴にぞっこんだったよ。」
「弟にね。嫉妬したの。馬鹿みたいでしょ?誰にも内緒よ。」

姉は照れくさそうに笑って、電話を切った。

--

いつか。

いつか、僕は、可愛らしい花嫁をもらうだろう。

姉に負けないぐらい幸福な家庭を築き、それから、子供も。

そうして、父としてこんなことを訊かれるかもしれない。
「ねえ。上手に人を愛するってどういうこと?」

僕は何て答えるだろう?

愛することで、僕が素敵に変わり、愛されることで、相手が素敵に変わる。そんなことかもしれないよって、言うだろう。


2003年10月27日(月) 私は、五つの時に母にこの、はずれない仮面をかぶせられた。誰も仮面と気付かない仮面。

「驚いたな。まさかきみが・・・。」

彼と会ったのは何年ぶりだろうか。私は無理に微笑もうとするが上手くいかない。

彼はしばらく私から目を離せずに、まぶしいものを見るように目を細めた。一言も発しないままに、私達はたくさんの会話を交わしたように感じた。

「あなた。」
背後から女性の声がする。

「妻と一緒なんだ。妻の叔母の墓参りに来てて。」
「あなた、遅れるわよ。」
尚もその女性は彼を呼ぶ。

男は慌てて妻の元に戻り、私はその場に立って彼らを見送る。

--

「私、彼と結婚するわ。」
その、まだ少女と言ってもおかしくないような若い女が私に言う。

「彼がそう言ったの?」
「いいえ。まだよ。でも、彼の心は決まっている筈。」
「彼が好きなのね?」
「ええ。」
「私もよ。」
「嘘。」
「どうして疑うの?」
「どうしてって。あなたは冷たいわ。彼がそう言ったの。取り乱したところを見た事がないって。」
「じゃあ、あなたは?温かいの?彼に何をしてあげられるの?」
「少なくとも、彼の心を思って泣くことはできるわ。あなたはたしかに美しいかもしれない。だけど、みんな噂してるわ。あなたが、そのしわ一つない美貌を守るために、泣くことも笑うこともしないって。」
「噂が何だっていうのかしら。噂なんか何の足しにもなりゃしないのに。」
「ともかく。私、彼を信じてるの。」
「そう。」

私は、挑むような女の目を見返した。愛は、闘いの中にあるのだろうか?愛は人々の噂の中に?それとも、美しい涙の中?

「帰るわ。あなた、まるで人形みたいに冷たい。」
「そうね。お帰りになるといいわ。」

彼女は、帽子を取り上げると、大きな音を立ててドアを閉め、去って行った。

私は小さく溜め息をついて、ソファに腰を下ろす。足元に、犬のランドが寄って来て腰を下ろす。
「あんたも大変だね。」
ランドは言う。

「いいのよ。」
「本当に損な性分だ。」
「犬に言われたくはないわ。」

私はグラスのブランデーを飲み干す。

「ねえ。今度あの女が来たらさ・・・。」
「お黙り。」

ランドは、立ち上がりすごすごと部屋を出て行く。全くうるさい犬。実家から連れて来たその犬は、おしゃべりがひどいが故に魔法で犬にされた家臣だ。

私は、もう、フラフラになるまで酒を飲み、ソファの上にうつぶせになって、仮面を剥がし踊る夢を見る。

--

「風邪、引くよ。」
ランドが起こしに来る。

「あの人は?」
「今夜も遅いみたいだ。この調子なら、また、明日の朝のお帰りだろうよ。」
「そう。」

私はノロノロと立ち上がり、夫婦の寝室に向かう。

ランドは、部屋の外まで一緒に来て、私がベッドに倒れこむのを見届けると立ち去ろうとした。

「待って。一緒に寝てよ。」
「いいのかい?俺、おしゃべりだぜ。」
「いいの。一人きりじゃ、このベッド広過ぎるもの。」
「分かったよ。付き合うよ。」

私は、手のひらにブランデーを垂らす。ランドはそれを舐めて、ニヤリと笑う。

「ねえ。ひどいもんよね。あんたは、犬にされて。私は、この外せない仮面を永久にかぶってなきゃならない。」
「でも、俺、あんたの仮面、好きだな。」
「私もあんたの間抜け面が好きよ。」

私は、五つの時に母にこの、はずれない仮面をかぶせられた。誰も仮面と気付かない仮面。だけど、この仮面のせいで、私は五つの時から泣くことができなくなった。母はしょっちゅう私に言った。男の人の前で泣いちゃ駄目よ。泣いたって何にもならない。負けるだけ。ねえ。あなたは泣かない女になりなさい。そうして、たくさんの男を泣かせなさい。

父に捨てられて泣いてばかりの母にかぶせられたこの仮面のせいで、確かに私は泣かなかった。何とか私の泣いた顔を見たいと、多くの男達が闘志を燃やした。

--

「すまない。」
そう言って夫が出て行く時も、もちろん私は泣かなかった。

「一つだけ教えて。」
「なんだ?」
「原因は私のせい?」
「いや。きみのせいじゃない。」
「じゃあ、何が悪かったの。」
「僕のせいだ。彼女の涙に抗えなかった。」
「私も泣くことができれば良かった。」
「きみのその誇り高き横顔を愛していた。だが、僕も愛されたかったのさ。僕はきみみたいに強くない。」

私は何も言わなかった。彼は鞄一つ下げただけで、出て行ってしまった。

--

「ねえ。死んでしまいたいわ。」
「縁起でもないこと言うなよ。」
「夫が出て行った夜に死んだら、少しは私だって可哀想と思ってもらえるんじゃないかしら?」
「可哀想って思われたってしょうがないよ。人生は、笑った方が勝ちなんだから。」
「だって、しょうがないじゃない?笑う事も泣く事もできなのに。生きてたってしょうがない。」
「まあ、待ってくれよ。僕、いろいろ調べたんだよ。それで分かったのさ。きみの仮面の外し方。」
「どうやって外すの?」
「涙草って草があるんだ。それを煎じて飲めばいい。」
「それはどこにあるの?」
「遠い遠いところ。僕が取って来てやるよ。」
「いつまで待てばいい?」
「信じてて。」

ランドはそう言い残して出て行った。

--

三月が過ぎ、私は、顔だけではなく、心まで硬くこわばってしまっていた。

「ただいま。」
その痩せた犬は、確かにランドだった。

口に咥えた草は、随分としおれてしまっていた。

「これが涙草?」
「ああ。」

私はそれを両手で受け取った。

ランドは、にっこりと笑った。

「ねえ。誰か。この犬を洗って綺麗にしてやって。」

ランプの明かりの下で、涙草のお茶を一口。二口。

「おいしい。」
私は、顔が奇妙に歪む。

「それを笑うって言うんだぜ。」

頬が温かい。そっと手をやると、濡れていた。

「泣いてるよ。あんた、泣いてる。」
「ああ。これが、泣くってことなのね。」
「どうだい?」
「変な感じ。悲しいのに、甘い感じ。」
「綺麗だよ。とっても。」
「私が?」
「馬鹿だな。あんたの涙だよ。」

私は、笑い、そうして、ランドの首にすがりついて、更に泣き笑いする。

--

朝起きた時、ランドは冷たくなっていた。

硬くなった体には、たくさんの傷がついていて、彼の旅が激しいものだと初めて知った。

私は、泣いた。昨日の涙よりずっとしょっぱい涙をたくさん流した。心がキリキリと痛んだ。

--

ランドの墓に花束を置き、立ち上がる。

また、涙が出て来る。

私は、幼い日の分まで、今になって涙を流しているのだろうか?

「驚いたな。まさかきみが・・・。」
その初老の男は、かつての私の夫だった。

まさかきみが泣くなんて。って思ったのね。

私は、やさしい涙で、彼とその妻を見送る。

私が大人になってから初めて流した涙は、最初甘く、二度目はとてもしょっぱかった。その二つの涙が、私のそばにあった愛に気付かせてくれた。いつか、一緒のお墓に入るまで、待っていて。

ランド。


2003年10月24日(金) 急だったから。まだ、ぐったりとして起き上がれない私の上にその大きな体が迫って来たから。私は悲鳴を上げた。

私は、まだ何も信じられずに、保険会社から届いた用紙に記されたゼロの数を数えている。

海外出張から戻ってくるはずの兄は戻らず、兄の命は五千万という金額となって私の手元に届いた。

「どうして・・・?」
何度も何度も考えるけれど、すぐ分からなくなってしまう。五年前、父と母が乗っていた車が対抗車線から飛び出して来た車と正面衝突した。今度は兄。何でこんなことになるんだろう?

兄と借りている小さなアパートは、もう、私の居場所ではなくなってしまった。

--

部屋にいると大声で泣き叫んでしまうから。安いアパートの壁は、私の狂った泣き声を食い止めることはできないから。

私は外に出て、歩いた。あてもなく歩いた。

しあわせ、という文字が目に飛び込んだ。

「しあわせ。」
声に出して読んだ。

私は、幸せを売るというその店に入った。

「いらっしゃい。」
頭の禿げ上がったおじさんがいた。

「あの。幸せって。」
「ああ。そうね。しあわせ不動産っていうんだよ。うちはね。儲けは関係ないの。住まいがその人の求めるものであれば幸せになれるっていう、そういうあれよ。」
「私の希望する家もあるかしら?」
「あるよ。」
「予算は五千万あるんです。」
「それなら充分だ。言ってごらん。住みたい家を。」
「木造で。小さな庭があって。」
「ふんふん。」
「お便所は和式がいいです。それから、庭に犬小屋があって。その犬小屋は、父さんが作ったんです。中に毛布が敷いてあって。雑種の犬がいて。」
「いいよ。続けて。」
「平屋で。子供部屋は一つだけ。」

私は、とりとめもなくそんな話をした。

「家の主は、毎朝同じ時間に出て、夕方五時半には家に戻って来て、犬の散歩をさせるんです。妻は、夕飯の支度を済ませていて、犬の散歩の時は一緒に出かけるんです。それで、毎日会った事を話すの。」
「ん。分かりました。あなたの欲しい家ね。」
「五千万で足りますか?」
「足りますよ。充分。」
「いつ、その家に入れますか?」
「すぐにでも用意できるよ。」

分かってもらえた。

私は、泣き出すかと思った。

--

小さな家だった。最初から分かっていた。間取りも。住む人も。私と、夫。初めて家に入る時、私は、
「ただいま。」
と言ってみた。

「おかえり。疲れたろう?」
夫が微笑んでいた。

庭では犬がうるさく吠えていた。

「大丈夫。」

私は買い物籠を置き、
「ぺスの散歩に行かなくちゃね。」
と言った。

「ああ。待ってんだよ。」
「行きましょう。」

それから、私と夫は、話をしながら、ぺスの散歩に出かける。話は他愛のないこと。野菜が少し高かったとか、お隣から頂き物をしたとか。そういうこと。夫は、仕事でまた問題を抱え込んだらしい。だけど、彼は有能だからすぐ解決してしまうだろう。

家に戻ると、質素な食事。私は少しだけ夫が飲むビールを分けてもらう。

「幸せね。」
私は、言う。

「ああ。幸せだ。」
夫は答える。

--

「いってらっしゃい。」
夫が会社に行ってしまうと、私はソファで少し体を休める。

あれから一ヶ月。そろそろ不動産屋にお金を持って行かなくちゃ。

下ろして来た札束を紙袋に詰めて、私は家を出た。

「どうも。お久しぶりです。」
「もっと早く来なくちゃいけなかったんですけど。」
「いいんですよ。あたしのほうはね。で?お客さんの方はどうです?家、気に入りましたか?お客さんが望んだ家でなかったら大変ですからね。なんせうちは、しあわせ不動産だ。」
「そのことなら、大丈夫です。望んだ通りのおうちね。夫も、犬も。」
「なら安心しました。」
「もう会う事、ありませんね。」
「ええ。」

私は、なぜか、不動産屋で長居をするのが嫌で、お金を渡してしまうと、急いで不動産屋を後にして足早に家に向かった。

--

「おかえりなさい。」
今日も夫が無事帰って来た事に安堵する。

「ただいま。」
「さきにお風呂になさる?」
「いや。食事をもらおうかな。」
「じゃあ、私、ちょっとお酒いただいていい?」
「ああ。いいとも。」

母もこうして、父のお酒をもらって。あんまり飲めないのに、顔を赤くして嬉しそうだったっけ。

私は、不動産屋に行ったこと。それから、生垣のキンモクセイの花が、オレンジ色の絨毯みたいで美しいこと。そんな事をしゃべって、少しお酒を飲み過ぎてしまった。

気付くと、夫に布団に寝かされていた。

「ごめんなさい。私・・・。」
「ああ、気付いたかい?」

急だったから。

まだ、ぐったりとして起き上がれない私の上にその大きな体が迫って来たから。

私は悲鳴を上げた。
「いやっ。やめて。」

夫は驚いて私の顔を見る。
「夫婦だから。」

私は、それでもただただ、いやいや、と叫んで泣いていた。

--

「どうしたら良かったのだろう?」
夫は私の顔から目を離さない。

その真っ直ぐな瞳が受け止められず、私は窓の外を見たまま。

「こんなこと、望んでなかったの。ただ、一緒にいて。犬の散歩をしたり。おしゃべりをしたり。」
「だが、僕らは夫婦だ。」
「ええ。でも、嫌なの。」
「どうしたらいいの?僕はきみにとって、どうであればいいんだ?」
「あなたは?何のためにここにいるの?」
「中年の男が来た。そうして、札束を置いて、僕の時間を買い取った。僕は、言われるままに、この小さな家に来て、きみに出会った。」
「お金が欲しかったの?」
「いいや。違う。幸福になりたかった。たった一人で孤独だったから。」
「私もよ。」
「どうすれば良かったんだい?僕はきみに金で買われたようなものだ。何でも言うことを聞くよ。」
「一緒にいてくれれば良かったの。父と、母と、兄と。四人で暮らしたこの家で、前みたいに一緒にいられたら良かった。」

それから、私は、アルバムを取り出す。何時間も、何時間も、夫に、私が失ったもののことを話す。

何時間経ったろうか。

私も彼もすっかり疲れていた。

私は、もう、声も枯れてしまって。夫がゆっくりと立ち上がるのを見ていた。

「何をするの?」
ようやく声を絞り出す。

彼は静かな顔で。だが、するどい目で。私を見つめ、カーテンのところまで行き、ポケットからライターを取り出す。

「やめて!」
だが、しかし、彼はゆっくりと火をつけた。

--

三十分だろうか。一時間だろうか。消防車のサイレンが鳴る。

私と彼は、黙って火を見ている。

その木造の小さな家が燃えるのは随分と早かった。

「私の家。」
「何もなくなってしまえば、ここに新しい家が建てられる。」
「うん。」
「僕は、きみの父親でも兄さんでもなかった。」
「うん・・・。」

燃えさかる火で頬が熱い。

「ねえ。あなた、これからどうするの?」
「さあ。どうしようかな。」
「まだ、一緒にいてくれる?」
「いいけど。僕は、放火魔だぜ。」

私は彼の手をそっと握る。

彼も握り返して来る。

隣にいる男は、私の父でも、兄でもなく、燃えてしまった家は私が育った家じゃなかった。

私は、男を知らなかった。知らない男だからこそ、抱いて欲しいと思った。


2003年10月22日(水) 「ああ。そうだね。またこうやって話が出来たらいいかなって思ったんだ。」「その時ちゃんと言えば良かったなあって思って。」

カタンカタン。

午前10時。

僕の事務所のドアの外で、今日も音がする。

下の階にある「施設」の子が、ビルの廊下を上から下まで掃いているのだ。箒がドアに当たる音がカタンカタンとするわけ。

僕はその音に励まされながら、午前中の仕事を昼までには終えてしまおうと、腕まくりをする。

5階建てのあまり大きくないビル。スギムラビル、という、オーナーの名がついた古いビルは、景気が悪くなったために保険会社が手放したものだった。2階には、スギムラ夫妻が住んでいる。僕が借りているのは4階の部屋で、3階には「施設」があった。

「施設」の人のことはあまり詳しくは知らない。

朝、僕が出勤してくる頃に、スギムラ夫妻の飼い犬を散歩させていたり、ビルの廊下や階段を綺麗にしたりしているのは、名前は知らないけど、多分、「施設」の子だ。あるいは、ビルの入り口付近に割り箸やタオルがぎっしり詰まったダンボールが幾つも重ねられているのは「施設」の子がやる「作業」に関係しているものなんだろう。

施設の子といったって、実際には皆、大人だ。若く見える人も、随分な年齢に見える人もいた。

--

カタンカタン。

僕は、一息ついて、外に缶コーヒーを買いに出ようと思った。

ちょうどドアの外に人がいたのに気付かず、勢いよくドアを開けると、
「きゃっ。」
と、ドアの陰から小さな悲鳴が聞こえた。

「ご、ごめん。大丈夫?」
慌てる僕に向かってうなずく女の子。

小柄で、長い髪を三つ編みにしていて、眼鏡を掛けていた。

「痛かったろう?」
「大丈夫です。」
「聞こえてたのにな。うっかりしてたな。」

高校出たてくらいかな。

僕は、急いで外の自販機で缶コーヒーを二つ買うと、階段を駆け上がり、さっきの女の子に向かって一つを手渡した。

「あ。すみません。」
「いいよ。いつも掃いてもらってるお礼。」

女の子はコクリとうなずいて、早速嬉しそうに缶に唇をつけた。よく見たら、もう随分と涼しい季節だというのに鼻の頭に汗をかいている。

「きみを見るのは初めてだなあ。下の子だろう?」
「はい。」
「いつから?」
「一年ぐらい前。」
「毎日来てるの?」
「ほとんど。でも、体が弱いから、冬は休んじゃうことが多いです。」
「そうか。僕はここの事務所にいるんだ。いつもきみが綺麗にしてくれるから助かってる。」
「いつもじゃないです。交代ですから。」
「そっか。でも、ありがとう。」

笑ってうなずく女の子。

「すっかり邪魔しちゃったね。」
僕は、彼女の手から空の缶を受け取ると、
「じゃ、またね。」
と言って部屋に戻った。

僕は、以前事務所で雇っていた女の子の事を思い出した。
「私、掃除やお茶汲みをするために入ったんじゃありません。パソコンを使うのが仕事ですから。」

そこまできっぱり言われて、僕は、仕方なく自分で自分のお茶を入れることにしたんだっけ。

その日の夕方、仕事を終えて帰ろうとするところに今朝の女の子がやって来た。

「あの。」
「ああ。どうも。」
「私。あの。」
「うん。何?」
「あの。今日でここ辞めるんです。」
「そっか。せっかく知り合ったのにね。」
「またね、って言ったから。」
「ああ。そうだね。またこうやって話が出来たらいいかなって思ったんだ。」
「その時ちゃんと言えば良かったなあって思って。」
「それで待っててくれたんだ?」
「はい。」

そこに、
「まあまあ。」
と、スギムラ夫人の声が響いた。

「ここにいたのね。今おうちから電話があって、心配されてたからね。探しに来たのよ。」
「すみません。」
「ちゃんと連絡しないと、みんな心配するからね。」
「はい。」

スギムラ夫人は、女の子の肩に手を回し、
「じゃあ、ごめんなさいね。」
と慌てて彼女を連れて行ってしまった。

僕は、じゃあまた、と、小さく呟いた。

何となく。

じゃあ、またね。また、会えるよね。って言いたかったから。

--

冬が来て、寒くなって。僕はその日遅くまで残業していた。

カタンカタン。

あれ?

カタンカタン。

箒の音。

僕は、そっとドアを開けた。

彼女がいた。
「来ちゃった。」
「うん。待ってた。」

僕は彼女を招き入れた。

「どこ行ってるの?」
「おじさんちのペンション。」
「そっか。そこ、手伝ってんだ。」
「はい。」
「楽しい?」
「掃除とか。掃除ぐらいしか出来ないから、掃除させてもらってます。」
「うん。それはいい。掃除、丁寧だしね。きみ。」
「ここに来る前は会社にいたんだけど。辞めたから。」
「そっか。」
「またね、って言ったでしょ?あの時。」
「ああ。うん。そうだね。」
「だから、来たの。」
「待ってたよ。」
「スギムラのおばさんには仕事見つかったからって言ったんだけど、本当は、違うんです。仕事じゃなくて、ただのお掃除。」
「そんなことないよ。仕事だよ。立派な。」
「私・・・。」
「ん?」
「またね、って言ってもらったから。」
「うん。」
「じゃあ。お仕事邪魔してごめんなさい。」
「もっとゆっくりしてったらいいのに。」
「もう行かなくちゃ。」

女の子は慌てて立ち上がると、急いで部屋の入り口まで行って、それからクルリとこっちを向いて、
「またね。」
と言って、ドアを出て行ってしまった。

「送るよ。」
って、慌てて追ったけれど、ドアを開けると、もう、彼女はどこにもいなかった。

--

冬が過ぎて。

春が来て。

「施設」の子は、増えたり減ったり。新しく入って来る子もいれば、すぐいなくなる子もいて。

そうだ。

彼女のことをスギムラ夫人に聞いた。

冬に肺炎になって、亡くなったそうだ。体が弱かったから、って言ってた。ちょうどあの晩だったんだ。僕のところに来た、あの晩。

僕は、結局、景気がなかなか回復しないもんだから、事務所を借りている余裕がなくなって、そのビルを出る事にした。

「寂しくなるわ。」
スギムラ夫人は、言った。

「また、来ます。」
「ええ。そうして。いつでも。お茶でも飲みにいらっしゃいな。」

--

僕は、自分の小さなアパートの部屋にこもって、カタカタとパソコンのキーボードに向かって仕事をしている。

時折、痛くなった腰を伸ばし、気分転換にアパートの周囲を掃除する。

最初のうちは奇妙な顔をしてすれ違っていた人達も、最近ではみんな声を掛けてくれるようになった。

多分、いろんな事を器用にこなす人よりは、鼻の頭に汗を浮かべて一生懸命掃除する女の子が一人この世からいなくなったほうが、世界にとってはずっとずっと大きな損失だったんじゃないかな、と思いながら、僕は掃除をする。

時々、カタン、と、僕が箒をアパートのドアにぶつける音にも、もう、みんな慣れたんじゃないだろうか。カタン。僕は、こういう風にして、あなたたちの生活の中にいる。


2003年10月20日(月) 美香は、さっきから私に寄りかかって胸の膨らみを押し付けて来る。私はというと、恥ずかしい事に、

若い女が好きなのだ。それは、責められるべきことかもしれないが、若い女の持つ何かが私の奥を刺激する。最初の妻と離婚してからは、付き合う女は皆、若い女だった。自身は、五十を目前に老いを感じる事が増えて来たのだが。

今朝もそんな事を考えながら食事を終える。ヨリコは、茶碗を置いた私の前に黙って熱い煎茶を出す。タイミングをよく心得ている。ヨリコは、若くはない。美人でもない。最初の妻が連れて来て、そのまま置いていった女だ。ヨリコには女としての興味は全く湧かない私だが、身の回りの事をしてくれる者がいないと困るので、そのままうちに残ってもらっている。

「ごちそうさま。」
箸を置くと、ヨリコはすぐさま片付けに掛かる。

私は、
「タクシーを呼んでおいてくれ。」
と告げて、自室に入る。

若い女だからと、無理に自分まで若作りをする事もない。そう考えながらも、今から会う女が以前にくれた、少々地味に過ぎるネクタイを胸元に当ててみた結果、もう少し明るい色のものに変える事にした。

自然に若い女と知り合いになれるのは私の才能と言ってもいいだろう。友人に、どうすればそんな風に知り合えるのかと訊かれても、返事に困ってしまう。ただ、何となく。だ。口で伝えられるものではない。女性の人と今ひと時楽しい時間が過ごせればいい、と、それぐらいの気持ちで話し掛けるのだ。間違ってもしつこく口説いたりしてはいけない。私のようにそこそこ金があって、しかも礼儀正しく女性に接する男というのは、女性のほうも好ましく思うのだろう。帰る頃には、自分から「また電話してよ。」と言って番号を教えてくれたりするのだ。

--

「もう。ちっともメールくれないんだから。」
隣で美香が拗ねている。

「メールねえ。使い方がちっとも覚えられなくてねえ。」
「うそ。うちのパパでも、最近じゃメル友ができたとかって自慢してるよ。」
「分かった分かった。だけど、美香が電話くれる時は絶対出るだろう?それで充分じゃないか。」
「充分じゃないよ。女の子はね。メールとかくれるのが嬉しいものなの。」
「はは。そうか。じゃあ、頑張って覚えるかな。」

美香は、さっきから私に寄りかかって胸の膨らみを押し付けて来る。私はというと、恥ずかしい事に、11時を回ろうかという時間になると疲れて来て、そろそろ引き上げたくなる。

そっと腕を外そうとすると、美香が、
「やだっ。」
と、しがみついてくる。

「おいおい。どうしたのかな?」
「もっと一緒にいたいんだもん。」
「しょうがないお嬢さんだなあ。家に帰らなくちゃいけないんだろう?」
「今日は、泊まってく。」
「泊まってくったって。仕方がない。うちに来るか?」

コクリとうなずく美香の体を抱えると、私はタクシーを止める。

やれやれ。

別に、うちに泊まるのは構わない。それは全然構わないのだが。

--

翌朝、ヨリコが朝食の支度をしたそばで、まぶたの腫れた美香がふてくされたように味噌汁をすすっている。

タクシーで会社の前まで送って行った別れ際、
「てっきり一人で住んでるのかと思ってたから。」
と、恨めしい顔で言うから。

「一人じゃ何かと不便なんだよ。お嫁さんに来てくれる人でもいないことにはね。」
「なら、美香がお嫁になってあげる。」
「はは。嬉しいなあ。」

私は、美香の頭を撫でて、
「仕事頑張って来なさい。」
と、優しく言ってやる。

--

そう。

あの娘も。この娘も。時には、もっと落ち着いた女性にも。

私は女には不自由しなかった。

そろそろ、身を固めてもいいか。そう思い始めたのは、美香から数えて何番目の子だろうか。秋から冬に変わる季節だった。外でステーキを食べるより、家で鍋をつついていたくなったから。

目の前の女にプロポーズした。

早紀、という名だったか。

早紀は、
「本当に?」
と、私の目を覗き込んだ。

「ああ。本当だとも。」
私は、用意してあった指輪を取り出した。

「嬉しい。」
早紀は、涙ぐんでいた。

おいおい。泣くなよ。いつもは勝気な事ばっかり言ってるお前が泣くかよ。そう思いながら、早紀の美しい涙に見とれた。そうだ。私は、本当に女が好きだった。彼女達が、華やかに笑い、泣き、怒るのを見ているだけで、体の内から活力が湧いて来た。

「ねえ。一つだけお願いがあるの。」
「ん?なんだ。」
「あの人に出てってもらって。」
「あの人って?」
「ヨリコさんよ。」
「ああ。ヨリコさんねえ。」
「二人で住みたいの。あの人がいたら、私、落ち着かなくて。」
「そうは言っても、早紀。お前、ご飯作れないだろう。掃除だって苦手じゃないか。」
「練習する。練習するから。」
「分かった。考えておくよ。」

--

翌週、私は、ホテルの部屋で、早紀から突き返された指輪をぼんやりと眺めていた。

早紀の香りがまだ残っている。早紀の叫び声も、耳にこびりついて離れない。

「何よ。あんな女。あんな、どこにでもいる女。代わりなんか幾らだっているのに。でも、私は、世界で一人よ。あなたをこんな風に愛してあげられる若くてきれいな女は私だけなのに。なのに、あの女を追い出さないのね?」

私は、人差し指の中ほどまでしか入らない指輪をくるくる回しながら、ああ、と答える。

ああ。そうだね。ヨリコのような、一度見たら忘れてしまいそうな顔の女は、どこにだっているかもしれない。

だがね。若くて美しくて野心家で料理の出来ない女は、もっともっと多いんだよ。

そんな言葉を最後まで聞かず、早紀は飛び出して行ってしまった。

よっぽど頭に血が上ったんだなあ。

--

私は、帰宅して、ヨリコの焼いた秋刀魚をつつく。

ヨリコが、ふと、しゃがれた声で言う。
「あの。私、いつここを出て行く事になるんでしょうか?」

私は箸を止めて、答える。
「出て行かなくていいさ。」
「だって、結婚なさるんでしょう?」
「結婚?ああ。お前にも言ったんだっけ?」
「はい。」
「結婚は、やめた。」
「やめたんですか?」
「ああ。やめた。」
「どうして?」

さあ。どうしてかな。

私は、たっぷりの大根おろしに箸を入れながら、思う。

ヨリコの指は、案外と白く、細い。さっきの指輪、案外無駄にしなくて済むかもなあ。新しいものを欲しがる女じゃないし。それより何より、ヨリコがずっとうちにいてくれるなら、何よりじゃないか。

ヨリコは不思議そうな顔で私を見ている。

私は、なぜか一人笑えて、ニコニコとヨリコの顔を見返す。


2003年10月18日(土) 私の体は、役に立つだろうか?私の体は、彼の歓心を得るためにあっさりと彼の前に差し出された。

今日は花でも買って帰ろうか。

そんな事を考えるのも、あの花屋の新しい店員のせいだった。

この前の日曜日、知人が声楽のリサイタルをするから、というので、普段は立ち寄らない花屋に足を向けたのだった。その青年は、私が迷っていると、少し首を傾げながら、手早く鮮やかな色の花を選び、あっという間に花束を作ってしまった。そうしてニッコリと差し出すその花束を受け取って初めて、私は青年が言葉をしゃべることができない事に気付いたのだった。

花の値段は、思ったよりもずっと高かった。だが、その青年が、もの言わぬ唇に笑みを浮かべて差し出した花束を、誰が断る事ができるだろう。

私は、彼から笑顔で花束を手渡された瞬間、恋に落ちたのだった。

--

花に過剰な意味を持たせるからいけないのだ。花は、花だ。ただ、部屋に飾ればいい。習慣にしてしまえばいい。いつも花を飾る生活をしていたならば、花が枯れるたび、青年に会いにゆけるではないか。

私は、青年が差し出す、少し値段の張る花束を買うために、足しげくその花屋に通った。

ある日の夕方。

青年は、私に気付くと、ああ、という表情でうなずいた。私はそれが、馴染みの客だけに見せる親しみの態度だと感じ、激しい喜びに包まれた。

その日、花を受け取る時、私は思わず彼の手を握り締めた。

彼は驚いたようだったが、すぐにいつものあの笑顔。無垢で輝くような笑顔で、私の手を握り返した。

心が通じ合ったと思った。

次の日も。その次の日も。

私は店に通った。

そうして、ある日、とうとう、彼が店での仕事を終えるのを待って、彼を私の部屋へと誘った。

彼を私のものにしなくちゃ。私だけのものに。こんなに美しくて無防備なものが何からも守られずにいるのは危険だもの。

そのためには何をすればいいのか、私には分からなかった。

私の体は、役に立つだろうか?

私の体は、彼の歓心を得るためにあっさりと彼の前に差し出された。

彼は、思ったよりずっと手際良く私の体を操り、私は、新たな彼の一面を見てほんの少し怖くなる。

だが、彼の無言の愛撫は、激しい情熱のように思えた。

--

いつまでも火照りの冷めない私の横で、彼はあっという間に眠ってしまった。まるで、言葉がないということは、思考もしないということかのように。

私はその子供のようにあどけない顔に口づけて、一晩中眠れないのだった。

--

彼より仕事が早く終わる日は、必ず彼が仕事を終えるのを待って一緒に帰った。帰る間ずっと、私がその日の出来事をしゃべる。それが幸せだった。彼はどうなんだろう?私といて幸せだろうか?

言葉がないのは不安だった。道行く恋人達がどうしてあんなに夢中になって語り合うのか、分かる。そうしなければ、愛がどこにあるのか見えないから。声を聞きたい。そうして、言葉で愛されたい。私は、ただ、そう願った。

--

ある日のこと。

店に、黒い服の女が立っていた。昔は美しかっただろうその顔には深い深い皺が刻まれていた。

女は何やら彼に向かって悪態をつき、彼は何を言われてもいつもの微笑を浮かべていた。

女は私に気付くと、足早にそこを去った。

「誰だったの?」

彼は、知らないという顔で、私の方を見なかった。

--

それからも時折彼の周りに姿を見せる、彼の昔の女にちがいないと思い、その女を、私は「魔女」と、心の中で呼んだ。

「ねえ。どこか旅行に行かない?あんな女の来ないところ。」
私は、彼に言った。

二人だけの世界に、ずっといたかった。彼以外の誰もいない場所でゆっくりしていたかった。

その時、ドアチャイムが鳴った。

「誰かしら?」

ドアを開けると、そこに魔女がいた。

「ちょっといいかしら?」
「こんなところまで押しかけてきたの?」
「悪いと思ったけどね。」
「あなた、一体誰?」
「私?私はね。あの子の母親よ。」

そう、魔女が言うと、拗ねたような顔の彼は、部屋を出て行ってしまった。

「もう、彼は立派な大人です。私達に構わないで。」
「ええ。ええ。そうね。」
「私、あなたが嫌い。」
「それは残念ね。あなたの母親になれるかもしれないところだったのに。」
「私、彼と私の間に割り込んでくるものは何もかも嫌い。」
「そりゃ、まあ。よくぞ息子にそこまで惚れ込んでくださったわねえ。」
「ねえ。帰って。お願い。ここは私達の部屋よ。」
「分かったわ。あなた、昔の私にそっくり。」
「やめてっ。そんな魔女みたいな顔で言わないで。」
「魔女ですって?あははは。おかしな娘さんね。でも、そうね。私があの子の声を奪ったのよ。」
「ひどい・・・。」
「あの子、今だってしゃべろうと思えばしゃべることができるの。」
「嘘。」
「嘘じゃないわ。」
「ねえ。お願い。だったら、あの人に声を返してあげて。」

そう。たった一言、愛していると。そう言って欲しい。

「そんなこと言われてもねえ。」
「ねえ。お願い。」
「分かったわ。そこまで言うなら。」
「それからもう、私達の前には現われないで。」

魔女は、、ドアを開け、そこで立ち尽くしている我が子に何事かささやいた。

「催眠術をかけてたのよ。あんまりひどかったんですもの。でも、本当にこれで良かったのね。絶対、この魔法だけは解くまいと思ってたのに。私は母親だから何だって受け止めるつもりだったけれど。他人に迷惑を掛けることだけは許せなかったの。あなたはどうかしら?」

魔女はそう耳元でささやくと、風に髪を乱して行ってしまった。

彼は、今、いつもの微笑みを浮かべている。

「ねえ。お願い。私の名前、呼んで。」
私はかすれた声で、懇願する。その時をずっと夢見ていた。彼の声が私の名前を呼び、愛しているとささやくシーンを。

だが、彼の美しい唇からこぼれ落ちた言葉は、ただ、
「いやだよ。」
と、一言。耳を覆いたくなるような、冷たく不愉快な声だった。

「あんたなんか、愛してないさ。」
彼は、ゲラゲラと笑った。

「どうして?あなた、どうかしたの?」
「どうもしやしないさ。これが、僕。そうだ。あんたいいセンスしてるよ。あの女、魔女さ。僕の声を奪ったんだ。あの女のことも、僕は一度だって愛さなかった。だから、腹いせに声を奪ったのさ。だが、今ようやく僕の声が戻って来た。」

ゲラゲラゲラゲラ。

ただ、醜い声は、それから醜い言葉を次々と吐き出し続ける。

どうして天使の微笑みなんて思ったんだろう。

それから、あの女は、本当に魔女だったのかもしれない。私のただ一つの願いを叶えるため。それとも、私を不幸にするために、現われた。


2003年10月16日(木) 「ええ。あなたがうらやましいですよ。こんな不景気にウサギをやるってのはいい考えです。」

ため息をつきながら見上げるには、空はあまりにも青く高い。

私は、公園のベンチでどこに行くあてもなく冷えた缶コーヒーを握りしめていた。会社へは、「免許の更新があるから」という理由を言って休みを取っている。だが、免許の更新など行く気はなかった。免許なんてなければいいのだ、と、何となく思った。会社の営業車に乗らずに済むから。もちろん、それが馬鹿馬鹿しい考えだとは分かっている。免許がなければ、歩いて。電話で。メールで。どんな方法だって、物を売る事はできるのだから。

さっきから三十分ほどしか経っていない。今日一日は長い。どうやて過ごしたものかとぼんやり考えるが、何も思いつかない。趣味らしい趣味もなく愚鈍に仕事を続けてきたせいで、時間の潰し方さえ知らないのだ。

どうしよう。

「おや。珍しいね。」
突然、誰かに話し掛けられる。

私はびっくりしてベンチの隣に視線をやると、そこにはウサギが座っていた。

「やあ。」
「・・・。」
「僕は、ウサギだよ。で、きみは、○○社の営業部の人だろう?」
「ええ。よく知ってますね。」
「うん。」
「で、ウサギさんは、今日はどうしてここに?」
「きみが話し相手を欲しそうにしてたから。」
「話し相手、ですか。」
「うん。話し相手。こういう時は、誰かと話すのが一番いいんだ。孤独を感じなくて済むし、時間を潰す事ができる。」
「それもそうですねえ。でも、私は口下手なんですよ。仕事以外に話題もなくてね。」
「じゃあ、仕事の事を話題にしたらいい。」
「仕事の事って言われても。」
「今日は行かなくていいのかい?」
「ええ。今日はサボっちゃおうかと思いましてね。今の会社に入ってから二十四年。初めてのサボりですわ。」
「僕なんか人生をサボり出してからもう随分経つけどね。」
「仕事は何をされてるんですか?」
「仕事?してないよ。だって、ウサギだもの。仕事をしているウサギって、きみ、見たことある?」
「ないですけど。」
「だろう?」

ウサギは、足をぶらぶらさせて気楽そうだ。

「あの。ご家族は?」
「いないよ。」
「そうですか。じゃあ、家族を食べさせる心配なんてのもしなくていいですね。」
「ああ。そうだねえ。」
「うらやましいですよ。」
「何で?きみは、気に入った仕事と、大事な家族がある。素晴らしいことじゃないか。」
「そうでもないですよ。大事なものってのは、少しずつ少しずつ重くなって、自分の足腰が弱った時には支えきれなくなってしまうんです。」
「ふうん。弱気だな。」
「もう限界ですよ。ボーナスは今年はなしでしょうね。今でさえ、貯金を少しずつ切り崩してるっていうのに。」
「かあちゃんに怒られるってか。」
「ええ。でも、妻も心配してくれててね。夜も眠れないみたいなんです。」
「かあちゃん、働いてるの?」
「いえ。どうせ働いてもろくな給料もらえるところがないって。」
「そりゃ駄目だな。人間、暇だから余計な心配するんだよ。ちゃんと言ってやれよ。自分の食べるニンジンくらい自分で育てろってね。」
「ニンジン?」
「うん。ニンジン。」

そういって、ウサギは手にもったニンジンをカリカリと食べる。

「それ、あなたが育てたニンジンですか?」
「いいや。ウサギは、ニンジンは育てない。これ常識。」
「はあ。」
「で?何でボーナスが出ないんだい?」
「営業成績がさっぱりでしてね。若い者は、メールやら、パソコンを使ったプレゼンやら、上手いことやってましてね。それに比べて私は、どうもねえ。」
「仕事、辞めたいのかい?」
「それも考えたんですが、仕事を辞めたところでこのご時世でしょう?再就職も難しいでしょうね。」
「あれも無理。これも無理、か。」
「ええ。あなたがうらやましいですよ。こんな不景気にウサギをやるってのはいい考えです。」
「だろう?」
「ええ。」
「きみもやってみる?」
「私でもやれるんですか?」
「うん。手始めに、そうだな。そのカシミヤのマフラーね。それ、こっちに寄越しなよ。」
「え?これですか?」
「ああ。ウサギはマフラーなんかしないからなあ。」
「それもそうですね。」

私は、ウサギに、首に巻いていたマフラーを手渡す。

「手入れがいいね。」
「もう随分長いこと、大事に使ってるんです。」
「じゃあ、次は、コートだ。」
「いや。これを脱ぐとちょっと寒いでしょう?」
「何言ってるんだよ。コート着てるウサギはいないって。」
「分かりました。」
「ふうん。これもなかなかなものだな。」
「十年前に買ったんです。」
「大事に着てたんだねえ。」
「ええ。」
「じゃ、次は靴だ。」
「靴、ですか。」
「うん。靴だ。」
「大事に履いてくださいよ。」
「分かってるって。あんたが毎晩きちんと手入れしてるのは知ってるよ。」
「ええ。靴は営業マンの命ですからね。」
「じゃあ、ますます不要なものってわけだ。で、だな。足が軽くなったところで、こうやって足をぶらぶらさせてみな。」
「こう・・・、ですか?」
「ああ。そうだ。うん。もっと軽やかに。何にも考えずに頭を空っぽにするんだよ。」
「やってみます。」

ウサギがやるほどに簡単にはいかなかったが、それでもコートと靴から解放された体は随分と軽かったから。

ぶらぶら。ぶらぶら。

ぶらぶら。ぶらぶら。

ふと隣を見ると、白髪の紳士がそこでにこやかに微笑んでいる。品のいいコートに身を包み、きっちりと巻かれたマフラーが暖かそうだ。手には、いい感じに古びた鞄が下げられている。

「ちょ、ちょっと。それは私のですよ。」
「もう、僕がもらったよ。きみはウサギだ。こういったものは必要ないからね。」
「待ってくださいよ。そればっかりは、あなたにあげるわけには行きません。」
「じゃあ、何を捨てるんだね。奥さんかい?もうすぐローンを払い終わる、あの家かい?それとも、つまらない仕事?」
「まだ捨てるとは・・・。」
「じゃあ、死んでも離さないことだな。」
「ええ。ええ。死んでも離しやしませんよ。」

私は、小さなウサギの体で、相手に飛び掛り、コートをマフラーを、剥ぎ取る。

「はは。まだ、そんなファイトがあるんだな。」

ウサギの声が高らかに響く。

やっと全てを取り戻して、私は、髪の乱れを直し、ハンカチを取り出して靴を拭く。

「身だしなみは営業マンの命。」
隣でウサギが楽しそうに笑っている。

「からかったんですね。」
「まあね。」
「恥ずかしながら、私は何一つ手放せないみたいです。」
「ああ。分かってるよ。」
「どうやったって、あなたにはなれない。あなたはこんな私を見て、未練がましい男だと思うでしょうねえ。」
「思わないよ。あんたは、関わった物全てを大事にする男だ。そういう男が今の時代に営業やってるってのは、さぞかしお客も安心だろうねえ。」
「そうでしょうか。」
「ああ。そうだよ。今日は、これから会社に行きなよ。あんた、会社が好きなんだろう?」

ウサギは、ピョンとベンチを飛び降りると、そのまま跳ねてどこかに行ってしまった。

私は、手にしたままの空き缶をゴミ入れに放り込むと、携帯電話を取り出す。

「ああ。私だ。どうかね?え?何?」
「それが。どうしても富永さんじゃないと駄目ってお客がいて。」
「どうして?」
「『いつものを頼む』って、それだけ言われて、僕が聞き返したらえらく怒り出しまして。すみません。」
「ああ。木田の社長さんね。すぐフォロー入れとくわ。」
「頼みます。引き継ぎがちゃんとできてなくて申し訳ないです。」
「昼には会社に行くから。」
「分かりました。すみません。お休みのところ。」
「いいんだ。」

結局のところ。大切なものが多いってのは、こうやって振り回されるって事だな。

公園内の「ふれあい広場」ではウサギの親子がニンジンを食べている。たまにはあの囲いから外に出たくもなったりするのだろう。

私は、内ポケットに携帯電話をしまうと、会社に向かって歩き出す。


2003年10月15日(水) 彼を見るまなざしは、誘っているようにも、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。

今日、私の15の誕生日だ。

彼が仕事から帰ってくるのを待って、私は食事のためのドレスに着替える。滅多な事では外に出ないから、普段はジーンズばかり穿いているのだが、月に一度だけきちんとした格好をして夕食を取るのが私達の習慣だった。

彼は、いつも、同じ時刻にきちんと帰って来る。

「おかえりなさい。」
「ああ。ただいま。」
「どう?」
「うん。なかなかいい。だが靴はこの前買ったもののほうがいいな。」
「もったいなくて。」
「いいから。今日は外に出るんだよ。」
「外?」
「ああ。外だ。」

外、と言われて、私はほんの少し緊張する。彼と家の中で夕食を食べるとばかり思っていたから。

「早くしなさい。」
「ええ。」

私は慌てて靴を取りに部屋に行く。彼は時間にうるさい。

「うん。それでいい。」
彼は満足そうに微笑むと、私の方にそっと肘を向けて来る。私はその腕に、私の手をからめる。

「どこへ行くの?」
「素敵なところだ。」
「うちで食べるんだとばかり思ってたから。」
「今日は特別だからね。きみは今日、15になった。そして、来年は16になる。」

車が止まったのは、何の看板も出ていない店の前。

「今日は、きみは何も言わなくていい。ここにいる人達にはきみの事は説明してあるから、彼らも何も訊かないだろう。」
「彼ら?」
「ああ。僕の友人達だ。」

私は、心臓がドキドキする。いつも、彼の知人が来る時は私は部屋に入っていなさいと言われるから。

今日が特別、という事の意味が少し分かる。彼は私を自分の友人に紹介してもいいと思っているのだ。

ドアが開かれる。

私は、思わず彼の腕を強く掴む。

「大丈夫だよ。」
彼がささやく。

私は拍手で出迎えられる。赤い絨毯が鮮やかだ。

「これはこれは。」
「可愛らしいね。」
「なかなか見事だ。」
「さぞかし時間が・・・。」

ささやく声が聞こえる。こういう時、周囲に視線を散らすのははしたないことだと彼に教えられているから、私はあごを引いて、足元より少し先の絨毯に視線を落とす。私達は、大勢の男女をかき分けて進む。

「すぐ二人きりになれるから。」
そう耳元でささやかれて、私はうなずく。

彼は、大勢の人々と握手を交わし、軽い挨拶をしながら奥の部屋へと進む。

と、一人の美しい女性が彼の手を握ったまま離さない。

「おい。今日は駄目だよ。」
「あら。冷たいのね。」
「ああ。今日はきみの相手をする日じゃない。」
「分かってるわ。」
「じゃ、離してくれ。」
「この子があなたのペ・・・。」

彼は少し不機嫌そうに女の手を振り解くと、足を早めた。強い香水が離れても尚追ってくる。この香り、どこかで・・・。

私達が案内されたのは、小さな部屋。二人分の食事の用意がされている。

「ここはどこ?」
「クラブだよ。来年、きみは正式にデビューするんだ。」
「・・・。」
「さあ。グラスを取りなさい。」

私のグラスに、シャンパンが注がれる。あれこれ訊くのはみっともない事だと言われているから、私はそれ以上訊かない。

「素敵な場所ね。みんなとっても綺麗。」
「ああ。だが、きみも来年には、正式にここの仲間になるんだからね。」

私はうなずく。ここが、その場所だったのだ。私が今日まで彼から受けて来た教育は、ここで恥ずかしくない振る舞いをするため。心のどこかで焦がれていた場所がここだったのだ。

先ほどの女を思い出す。美しかった。彼を見るまなざしは、誘っているようにも、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。彼とはどういう関係なんだろう。私は、ふいに苦しくなってグラスを置く。

「どうしたの?」
「さっきの女の人のことを考えていたの。そうしたら、なんだか変な気持ちになってしまって。」
「はは。おませさんだね。」
「なあに?」
「きみは嫉妬しているのさ。彼女にね。」
「そうなの?」
「ああ。だが、心配しなくていい。きみは、いずれ彼女より綺麗になるのだから。」

「本当に?私みたいな痩せっぽちの女の子が彼女みたいに?」

「ああ。そうだ。きみは僕が見つけた。輝く宝石となるはずの原石なのだから。」

彼の心地良い声に、私は安心して。

「あまり飲み過ぎるんじゃないよ。」
「ええ。」

--

食事が終わると、彼はまた、来た時と同じように大勢の男女をかき分けて、店の外に出る。

「もう帰るの?」
「ああ。今日はね。来年の今夜、きみは正式にここのメンバーになれる。そうしたら、朝まで騒ぐがいい。皆がきみを歓迎するだろう。」
「楽しみ・・・。」

私は、少しだけ未来の幸福を見せられて、胸の中の何かが膨らむのを感じる。

「今日は早く帰っておやすみ。夜更かしは肌に悪い。」
「ええ。」

私達の家に一歩踏み込むと、そこはいつもの場所。私が15年間の人生のほとんどを過ごしてきた場所。私は、彼におやすみを言って、ベッドに入る。

目を閉じると、この先の未来は幸福な色とりどりの夢となって、私に押し寄せて来た。

その時だった。

ドアを激しくノックする音。

何かが割れる音。

「何なの?」
私は叫ぶ。

彼が大声で何か言っている。

「どこにいるの?」

私の部屋のドアが突然開いて、男達が入って来る。

私は悲鳴を上げる。

私は男達の脇をすり抜けて、彼を探す。彼は額から血を流していた。しがみつく私に小さく、
「誰も信じるな。」
と、一言言うと。彼は手に持った拳銃を自分の頭に向けた。

待って。お願い。どうしようとしてるの?

鋭い音がする。彼の体がドサリと音を立てる。

--

白い部屋で、テレビが一日中点いている。

テレビに映っている小さな女の子の写真は、幼い頃の私だそうだ。

「12年もの間監禁されていた少女は、いまだに怯えていて、監禁当時の様子を一言もしゃべろうとしません。少女が再び元通りの明るい笑顔を見せる日は、果たして来るのでしょうか?」
女が大写しになって、何か言っている。

嘘ばっかり。

私の両親だと名乗る人達は、一週間に一度ここを訪ねて来る。だがしかし、何をしゃべればいいのか。彼らも戸惑っているようで、「元気か」とか「ちゃんと食べているか」とか、そんな事を言うとそそくさと帰って行ってしまう。

テレビに映っている彼の写真も、何だか奇妙だ。名前も私が呼んでいた名前ではないから、別人なのだろう。

彼はどうして一人で行ってしまったのだろう?どうして私を一人置いて?

「ペットという言葉を聞いた事があるか?」

「どこかに、人間をペットとして育てる事を楽しむ集まりがあるというが、きみもペットと呼ばれていたのではないか?」

「大人が大勢集まる場所で何か変な事を強要されなかったかい?」

知りません。知りません。知りません。

私は、あと一年したら彼のお嫁さんになる筈だったんです。私の美しい未来を返してください。こんな薄汚い部屋から、私を外に出してください。


2003年10月11日(土) それからもう一つ。寝室が別なことが、私には寂しかった。私はそんなに魅力がないのだろうか?

深夜のファミレスで、友人と向かい合って冷めたコーヒーをすする。また、一つの恋が終わったの、と電話があって呼び出されたのだ。私はいつも聞き役。

「だからね。結婚してる女が恋愛したってメリットなんかないのよ。バッグやら靴やらは亭主に買ってもらえばいいじゃないかっていう考えですもの。金が掛からない便利な女よ。結婚も迫らないしね。」
友人は、派手な音を立てて鼻をかむ。

「よく分かってるじゃない。」
私は言う。

「ええ。ええ。前も同じような事言ったものね。そうよ。私って馬鹿なのよね。懲りないの。」
「好きになっちゃったらしょうがないもの、でしょ?」
「そう。ある日、私の周りの景色が変わるの。」

恋多き女。そういったらどんな女を連想するだろうか。だが、目の前にいるのは私に似たりよったりの平凡な女。亭主は海外に単身赴任で行ったきり。

「あなたも、相変わらず?」
「ええ。相変わらず。一人よ。」

結婚も恋愛もせずに四十年。料理教室で料理を教えている。仕事柄、接するほとんどが女性だからか。ともかく、恋愛というものに巡り合うチャンスがないままに今日まで来てしまった。

「ありがとう。あなたに話したら落ち着いたわ。」
いつものようにひとしきり泣いたあとはケロリとしている。もちろん、コーヒーは彼女の奢りだ。

「送るわ。すっかり遅くまで引き止めちゃったから。」
「ううん。いいの。歩いて帰りたいから。」
「そう。じゃあね。」
派手な外車は、勢い良く走り去る。

一人で帰りたかったのには理由があった。

途中、辺りに人がいないのを確認して、私はそっとバッグから一掴みの煮干を取り出し、道端に置く。

最近見かける美しい猫が見つけてくれるといいんだけれど。ここいらの野良猫とは違う、どこか気品のある猫なのだ。

それから、足早に家路に向かう。他人から見たら、私は寂しい女だろうか?自分ではよく分からない。ずっと一人でいた女には、本当の寂しさがどういうものか分からないのだ。

--

「猫、好きなんですか?」
声を掛けてきたのは中年の男だった。こざっぱりした服装。少し焼けた素肌に丁寧に撫で付けられた白髪が、生活の余裕を感じさせる。

「見てたんですか?」
「ええ。まあ。実はここ、私の家なんですよ。」

猫に煮干を置いた塀越しに、この辺りでもかなりの広さを誇る敷地が広がっている。

「ごめんなさい。」
私は、男が怒っているのかと思って慌てて謝った。

「いいんです。私も猫は好きですからね。」
目じりの皺が、何とも言えず魅力的だった。

「あの。これからお教室があるんで。」
「先生ですか?」
「料理を教えてるんです。」
「ほう。お上手なんですか?」
「亡くなった母に仕込まれたものですから。他に取り柄もないし。」
「いや。あなたの作ったものはさぞかしおいしいでしょう。煮干と言えど、なかなかいいものを使ってらっしゃるみたいだし。」

私は顔が赤らむのを感じ、軽く会釈をして急いでその場を立ち去った。

--

それがきっかけで、私はその中年男性と毎日のように言葉を交わすようになった。

男は、歳を取ってからできた一人娘と二人で暮らしている事などを話し、突然にこう申し出た。
「どうです?お金なら必要なだけ払いますから、うちに来て娘と私に手料理を振舞ってくれませんか?娘も母親の作った食事というものに憧れていますから。」

私は、即座にうなずいた。お金はいいんです。食べてもらうのが嬉しいのですから。そう答えて、天にも昇る気持ちで帰宅した。

「馬鹿ねえ。それが恋ってもんじゃない。」
電話口で女友達が笑った。

--

私が男と結婚したのは、ごく自然の成り行きだった。

食べる事にはうるさくてね。そういう男のために料理を作る事が私の幸福だった。

ただ、気がかりは娘の事だった。甘やかされたのだろう。気まぐれで、気分屋だった。突然甘えてくるかと思うと、次の瞬間にはふてくされて自室にこもってしまう。

「今はちょっと難しい時期でね。」
「分かりますわ。私じゃ、母親代わりというのも無理がありますもの。」
「すまないね。」
「いいんです。」

それからもう一つ。寝室が別なことが、私には寂しかった。結婚しても、ただの一度も体を求められた事がなかった。私はそんなに魅力がないのだろうか?それとも、彼もそれなりの歳だし、そんなことを求めるほうがおかしいのだろうか?

私にできる事。料理を作って彼を喜ばせる事。それだけに専念しよう。

そう自分に言い聞かせながら、私は、三人で住むには広すぎる家の中で、なぜだか結婚する前よりずっと孤独だった。

--

夜、寒くて眠れない私は、毛布を取りに階下に降りた。すると、普段眠る時は内側から鍵が掛かっているはずの夫の部屋のドアが細く開き、中から話し声が響いて来る。

私は、そっとドアのそばに寄った。

「ねえ。パパ。あの人、いつまで置いておくの?」
「いつまでって。せっかく見つけたんだ。ずっといて欲しいと思ってるよ。」
「あの人、陰気なんですもの。私の事も、絶対に嫌ってるわ。」
「おいしい料理のためだ。我慢しなさい。」
「もう。パパったら、お料理のためなら、他の事はどうだって良くなるんだから。」
「ああ。全くだ。世の人間の男は、金だ、女だ、とあれこれ追い掛け回して大変そうだがな。私は、食べる事さえ満たされればいいんだよ。お前だって、すっかり舌が人間の食事に慣らされてるだろう?今更、キャットフードなんか食べたくないに決まってるさ。」

それからもう、彼らの話し声は、まるで猫の鳴き声のようにしか聞こえないのだった。ベッドの上に、いつか見た、美しい銀の毛並みの猫がいて、傍にはふわふわの白い毛に覆われた可愛らしい猫がいた。

人に言ったら笑われるかもしれないが、その時の私ときたら、夫が私を抱かない理由が分かったせいで、妙にほっとしていたりしたのだった。

私は最初から、あの美しい猫に恋をしていたのかもしれない。それから、今度わがままな子猫が生意気言ったら、首根っこ掴んでキャットフードを食べさせてやろう。そんな事を思ったりした。


2003年10月09日(木) ああ。悲しい。僕には分かる。悲しみの表し方を知らない人ほど悲しい存在はない。

夜、一人歩きをするのはそう嫌ではなかった。その日も、一日黙って仕事をして帰宅する途中だった。

「ってー。」
その黒い影が、ゆらりと動いた。

男だ。若い男だ。近寄らないほうがいい。何かトラブルかもしれない。だが、私の足はそこから動こうとしなかった。何が起こったのか知りたかった。

どうやら、ジーンズの右足がびっしょりと血で濡れているようだ。

「あの・・・。大丈夫ですか?」
私は思わず訊ねた。

「ああ。すみません。」

くるりとこちらを向いた顔を見て、私は息を飲んだ。

目のない男だった。

「そうだ。さっき外れたんだっけ。」
男は苦笑するように唇を歪めた。

聞いた事がある。どこか山奥の貧しい村。生まれつき目のない人々の村。水のせいなのか、空気のせいなのか。ただ、目がないのを補うように、さまざまな感覚が発達していて、日常生活は私達と同じように送れるという。

「サングラス。犬が飛び掛って来てね。揉みあってるうちにサングラスがどこかに行っちゃったみたいだ。変でしょ。僕の顔。目さえ隠せば、普通の人と変わらないのにね。」
「うちに来ませんか?止血だけでもしなくちゃ。」
「ああ。でも迷惑じゃ?」
「怪我人は放っておけないわ。」
「じゃあ、肩貸してもらえませんか?」
「ええ。どうぞ。」

まるで目が見えるかのように、男の手がすっと私の肩に伸びて来た。私は、ほんの少し身を固くした。

「僕が怖い?」
「ちょっとびっくりしただけです。」
「犬は正直だね。僕を見るなり飛び掛って来た。普通の人間じゃないと思ったんだろうね。」

男の背はすらりと高く、体つきもたくましかった。私の胸の鼓動が激しくなった。

「きみの事、当てようか。」
「え?」
「きみは・・・、そうだな。すごく優しい人だ。」
「そんなこと・・・。」
「分かるよ。僕らは、その人に近寄っただけで、その人の鼓動が聞こえ、体温が伝わって来るからね。僕に敵意を持っているか、好意を持っているかも分かるんだよ。」
「続けてください。」
「そうだな。それから。うーん。こう言ったら失礼かもしれないけどもね。とっても悲しい人だ。」
「悲しい?」
「ああ。悲しい。僕には分かる。悲しみの表し方を知らない人ほど悲しい存在はない。きみは、涙を出さずに泣き、歯を食いしばらずに苦悩する。そんな人だ。」
「・・・。」
「怒らないで。」
「怒ってないですけど。」

私は、古ぼけたアパートの前に立った。

「とても狭いの。」
「構わないよ。」

男性を部屋に上げるのは初めてだった。部屋はみすぼらしく、普通の人になら恥ずかしくて見せられない状態だった。だが、それより何より、私は私の顔を見られない事で、すっかり安心しきっていた。

だって、私はとても醜かったから。

--

「いい部屋だ。」
「見えるんですか?」
私はどきっとして男を振り返った。茶色の柔らかい髪。がっしりした顎。太く逞しい首が続き、その下にある体がとても美しい物であることは容易に想像がついた。

「いや。見えないよ。だけど、住んでいる人が几帳面だという事が分かる。気配を感じるんだ。」
「見えなくて良かったわ。」
「見えなくて残念だ。」

私達は笑い合い、それから、慌てて
「足。足、見せてください。」
と私は叫んだ。

ジーンズを脱ぐのが辛そうだったが、傷は思ったより浅く、血もすっかり止まっていた。私は震える指で男の足に包帯を巻いた。それから私の兄が残して行った衣類を着せた。

「ありがとう。」
「あの。お茶でも入れますね。」
「いいよ。それよりここにいてよ。」
「え?」
「ね。いいだろう?僕、昨日故郷から出て来たばかりなんだ。こっちの世界が僕にとってどんなに怖いところか。きみには想像できないだろうね。」
「何となく分かります。目が見えてたって、居心地がいい場所とは言えないわ。」
「でも、勇気を出して良かった。きみに会えたから。」

男の髪の毛が私の首に触れた。私の鼓動は、もう、どうにも隠せない音を立てて鳴り響いていた。

「こうして君に触れていたいだけだよ。暖かい君に。君だって、僕といて暖かいだろう?」
「ええ・・・。」

26年間生きていて、一度たりとも幸福だったと思った事がなかった私にとって、その夜は奇跡だった。

--

「いつまでも君に世話になっているわけにもいかない。そろそろ仕事を探さなきゃ。」
「駄目。行かないで。」

私は懇願し、彼は優しくうなずいた。私は恐れていた。彼の柔らかな声は、女性なら誰もが好ましく思う声だった。

「ねえ。ずっと一人だったの。もう私を一人にしないで。」
「分かってるよ。」

もう、自分が醜い事は気にならなかった。私は突き上げて来る幸福に酔いしれていた。

--

「赤ちゃんが出来たの。」
そう告げた時、彼は何とも言えない表情をした。

「産みたいわ。駄目?」
「い、いや・・・。その。嬉しいよ。ああ。何てうっかりしてたんだ。そうだ。愛し合えば当然の事だよな。」

彼と私は、それから話し合った。彼の仕事をどうするか。そうして、出た結論は、彼の故郷に帰るというものだった。

「大丈夫かい?」
「ええ。あなたが育った場所だもの。それに、私、もう東京にはうんざりなの。」
「僕の母と姉に紹介するよ。」
「楽しみだわ。」
「大事にしておくれ。僕達の赤ちゃんを。」
「ええ。」

--

彼の故郷は、彼の言う通りの貧しいところだった。彼は村ではちょっとした人気者だった。だが、村人達は彼が私を紹介するとほんの少し顔をこわばらせて、形ばかりの歓迎の言葉を述べるのだった。

「ねえ。私、嫌われてる?」
「なんで?」
「だって、みんな私を遠ざけているわ。」
「そりゃ、そうだよ。僕だって、この村を出ればそんな扱いを受ける。怖いんだ。みんな。いいかい?違うって事は、決して悪い事じゃない。だけど、みんな自分達と違う存在は怖いんだ。だから遠巻きに見る。」
「そのうち馴染めるかしら?」
「もちろん。多分、子供が生まれたらみんな喜ぶよ。この村は子供が少ないからね。」

私の体は日増しに膨らみ、私は子供が生まれる事だけに集中する事にした。

そんなある日。

彼は、言った。
「働きに出るよ。この村を出て、稼いでくる。」
「そんな。何かあてはあるの?」
「ないさ。ないけど。きみと生まれてくる子供のためだ。」

彼はそう言い残して、ある秋の初めの日、家を出た。

--

私は以前から彼の姉が気の毒そうな顔で私を見るのを感じていた。

「ねえ。どうしてそんな顔で私を見るの?」
彼女ははっとして私の方を向いて。

それから、ぽつりと言った。
「弟は今頃、誰かと一緒にいるわ。」
「どういう意味ですか?」
「誰か女の人と。」
「それ、どういう意味?」
「あの子の悪い癖よ。村の女の子だけじゃ足らずに、村を出てあちこち好き勝手にしてるわ。女の子と仲良くなる才能は天才的ね。」

私には、分からなかった。目のない女がこちらに向いて何を言っているのか。

「何でそんな事、私に言うんですか?」
「あなたが可哀想だから。」
「目の見えないあなたたちより?」
「ええ。そうよ。あなたは可哀想。子供が出来てしまって弟も慌てたのね。」
「帰って来ます。あの人は絶対。」
「ええ。帰って来るでしょうね。でも、病気みたいなものよ。また出て行くわ。」

私は、急にお腹を抱えてうずくまる。

「ちょっとっ。大丈夫?」
女の声がする。何かが足を伝わって流れるのを感じる。

意識が遠のいて行く。

--

私はどこかに寝かされていた。

子供は?

子供はどうでしたか?

目はありましたか?

あの人に似てましたか?

訊こうとするが、声にならない。彼のお姉さんがやさしく私の髪を撫でている。村の女達が周りに集まっている。何かを失っている者だけが私達の仲間になれるのよと言っているように。


2003年10月06日(月) 落ち着かないものね。涙なんて、全く凶器だ。最初からこっちの負けが決まってる。

ねえ。夫婦ってそんなものじゃないか。いつも、その時だけの耳障りのいい言葉を掛けるなんてわけにはいかないんだよ。時には泣かせることもあるだろう。笑ってばかりじゃいられない。

きみは、僕のことをよく、「冷たい」と表現した。確かにきみが望むような形では、僕はきみを愛さなかった。

ひどい。冷たい。

そうやって抱き付いてくるきみを、僕は抱き返さなかった。

だからといって、僕がきみを愛さなかったとは思わなかったろう?

でも、そんなあなたが好きなの。

最後に小さく言って、勝手に僕の布団に丸まって眠るのがきみだった。僕は、明け方にはきみに布団を取られて、寒さで目が覚めて、仕方なくコーヒーでもと、布団を出る。

早いのね。

と、きみ。ゆっくりの朝にばつが悪そうに、背後から僕の体に腕を回す。

よくある夫婦だ。夫婦って、そんなものだ。

--

きみの足音。すぐ分かる。少し足を引きずるようにして。きっと、長過ぎるトレーナーの中にすっぽり手のひらまで入れて、子供っぽい感じだ。僕からはきみの顔は見えないけれど、空気で分かる。今にも泣き出しそうなきみの顔が思い浮かぶ。僕はかすかに苛立つ。

泣くなよ。

僕の唇がかすかに歪んだのを、きみは見逃さなかっただろう。

「だって。」
そう言うなり、わっと泣き出す。

泣かれるのは嫌いだ。泣かれると、いつも僕は不機嫌になる。

「だって私、不安で・・・。」

ああ。ああ。分かったよ。

ひとしきり泣いて終わると、ようやくゆっくりと立ち上がり、
「明日、仕事早いから。」
と言い訳のようにつぶやいて、足音が遠ざかって行く。

僕はおかしくて大笑いしそうだ。胸元が湿っているのは、彼女の自己満足の涙のせい。泣くだけ泣いて済んだらケロリとして自分のベッドで熟睡するんだろう。驚くほど寝つきがいい彼女。不眠症の僕のそばで憎いくらいに眠りをむさぼっていたっけな。

--

次の日も。彼女は泣くだけ泣いて。

僕は、ただ、泣いている彼女のそばにいるしかできない。

苛立ちが唇から漏れる。

--

次の日も。次の日も。次の日も。

--

それから・・・。

彼女は少しずつ泣かなくなった。強くなったというよりも、あきらめ。そうだ。泣いて見せればどうにかなると思っていたが、どうにもならないと分かったからか。

以前の僕は、泣いてみせる彼女に結局根負けして、謝ったりしてたっけな。彼女にせがまれて、荒っぽいキスだってしてやっていた。

でも、今の僕は何もしてやらないって事が分かったんだろう。

傍にいるだけでいいの。

とりとめのない話をしながら、そんな事をつぶやいた。もう、二人の話はしない。きみはきみの話ばかり。編んでいるのは、自分自身のカーディガン。だって、あなたは着たくないでしょ?そう言いながら、自分自身のカーディガン。

--

もう、何日、何ヶ月、経ったか。

彼女はもう、すっかり泣かなくなった。

--

その日、いつもよりずっと早い時間に彼女はやって来た。

話し掛ける言葉も言い訳めいていて、ひっきりなしだ。あきらかに興奮している。

それからプッツリと言葉を出さなくなり。

「行くわね。」
と、やけに低い声。

ああ。

僕は、きみが去るのを拒まない。

--

季節は変わったのだろうか?

もう、僕には季節はどうだってよくなっている。

彼女が来なくなってから、日にちも、季節も、なくなった。

泣かれるのには辟易だから、好都合だ。泣かれたら、なんかさ、僕が悪いみたいで落ち着かないものね。涙なんて、全く凶器だ。最初からこっちの負けが決まってる。

--

「奥様、どうしたのかしらね。最近。」
「私、この前見ちゃった。男の人と歩いてたの。」
「うそ!可愛い顔して、やるわねえ。」
「そりゃ、ご主人のお見舞いって言ってもね。この状態は耐えられないでしょ。」
「しっ。」

無神経な看護婦どもめ。目は見えなくても。体もろくに動かせなくても。耳と意識はしっかりしている。そう。彼女はそれを知っていて、恐れるように僕に、あの日、「行くわね」と言った。

ああ。どうしてだ?傍にいるだけではどうして足らなかった。抱き返す腕が欲しかったか?甘いささやきが欲しかったか?

僕が僕でいるだけでは、どうして駄目だったか?

僕は、愛をせがむきみを抱き返さなかった事で、どうしようもなく深く暗い場所からどこにも行けない。


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