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セクサロイドは眠らない

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2002年07月31日(水) 動けない私に、水を口移しで飲ませて、汗を拭いてくれる男は、この上なくやさしい恋人にしか見えなかった。

「女が俺に惚れたら、すぐ分かる。そういう女は、大概、身の上話を始めるから。」
最初に、二人で会った時だったか。彼がそんな事を言った。

なるほど。

とか。

そんなことを思った。

自信満々で、エネルギッシュな男だった。

そんな自信過剰な男、ごめんだわ、と笑う人はいるかもしれない。だが、実際にそんな男に口説かれてみるといい。熱情にに溢れる言葉をささやいてくる男は、とても少ない。男が自分で言うように、本当にモテるのだろう。私も、ほどなく彼の勢いに巻き込まれる。

困った事は、私が結婚している事で。

そのことを打ち明けた時は、彼は驚いた顔をした。
「俺、結婚してる女には手を出さないことにしてるんだ。」
と、悲しそうに告白した。

「だけど、もう遅いよ。」
って、私を抱き締めて来て。

その時は、私ももう、引き返せなくなっていた。

--

夫は、寡黙な人で、いつも本を読んでいるような人で。私は、最初から、そんな夫が好きでしょうがなかったのに。ちょっとしたことを訊ねると、何でも教えてくれる、大人なところが。

いつの間に、気持ちがずれていったのかは分からないが、気が付くと、私は、夫の寡黙さを嫌い、いつも寂しがってばかりいるようになっていた。

そんな時に、気持ちを素直にぶつけてくる男がいたのだから、しょうがない。と、私は思った。どこの女が、抗えるだろう。

恋人は、私を誘っては、星空のきれいな夜の小道を、自分が幼い頃遊んだという海岸を、私に見せた。

私は、とまどいながらも、何もかも見せてくれる恋人がいとおしくて可愛くて、彼に呼び出されるままに、週に二度三度と夜、会いに行くようになった。

--

恋人の行為はだんだんエスカレートしていく。

多分、早々に何かが狂い始め、だが、私はそれを恋の熱情と勘違いしていた。

夜、急に、ひと気のないところに車を止めて、「今、ここで抱きたい。」と言い出したり。自分の知人に運転させている車の後部座席で、いきなり私の腿に手を置いて来た理した男の好色は、平凡な主婦にしてはスリリングな体験で、そういった一つ一つを、困惑しながら受け入れて行った事で、私達の遊びは加熱していった。

会えば、恋人は、私を一度や二度抱くだけでは足らずに、何度も何度も、私がぐったりして動けなくなるまで抱いて、それはどこかおかしいのだけれど、私にはどこがおかしいのか分からない。動けない私に、水を口移しで飲ませて、汗を拭いてくれる男は、この上なくやさしい恋人にしか見えなかった。

--

だが、夏が終わる頃には、恋の証だと思っていた行為が一つ一つ狂気を帯びて来て、次第に私は怖くなった。

「お前に手を出す男がいたら、半殺しにしてやるから。」
そんな恐ろしい言葉が恋人の口から飛び出すようになって、ようやく、私は、彼が私とは離れた随分遠いところにいることに気付いて、身震いする。

「別れたい。」と私が言った時、恋人は、私の頬を打って、「駄目だ。」と言った。

その頃には、会うたびに、酒を飲むようになっていて。

もう、私を抱くことすらできなくなっていて。

私は酔った恋人を置いて逃げ出す。

--

その夜、私は、10歳も年老いてしまった気分で、帰宅する。

寝室を別にして、と頼んだ時、夫は何も言わずにうなずいて。夜、夫が何時に寝るのかも、知らないで。

その夫が、キッチンで、眼鏡をかけて、本を読んでいる。

「起きてたの?」
「ああ。」
「遅くなってしまったわ。」
「早く寝なさい。明日も仕事だろう?」
「ええ。でも、少しいただくわ。」

夫は、グラスをもう一つ出して、ブランデーを注いでくれる。

「このところ、帰宅が遅いね。」
「ええ。ごめんなさい。」
「いや。きみも大人だから、私がとやかく言うことではない。」
「あなたって、いつもそうやって落ち着いてらして。」
「いや。そうじゃない。そんなじゃない。ただ、下手なんだろう。」
「下手?」
「誰かに、必要な時に必要な言葉を言ってあげることが。」

私は、手の中でぬくもるブランデーを口に含んで、夫の読んでいた本を取り上げる。難しくて、よく分からない文章が並んでいる。

「ねえ。いつも、本を読んでるのね。」
「うん。」
「面白い?」
「まあ、ね。」
「どれくらい?」
「そうだな。できれば、自分が本になりたいぐらいだ。」
「本に?」
「ああ。そうやって、人に寄り添う。そこにいることで時折、誰かを励ます。」

私をとがめているような顔でもなく、ただ、淡々とそんなことを言って。

私は、ふいに涙が溢れる。
「全部、終わったの。」

夫は、私の言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、黙って私が泣き止むのを待ってくれている。


2002年07月30日(火) ねえ。ささやかなものです。私の欲しいのは。夫と、コウと。いつまでも、三人で。それだけなの。

「できた人は、先生に見せてちょうだいね。」
サクラ組では、園児達が一心にクレヨンを持つ手を動かしている。

しばらくすると、
「先生、できたよー。」
と、あちらでもこちらでも声が上がり、絵を見てもらって満足した子供は、次々と園庭に飛び出して行くのだが、一人だけいつまでも書いている子がいる。

「コウくん、できたかな・・・?」
保育士がそっと声を掛ける。

その男の子は、泣きそうになりながら、顔を歪ませて、いろいろな色をどんどん重ねて、挙句、何が何やらさっぱり分からない絵ができあがってしまった。

「コウくん、これ、なあに?」
「みず。」
「水?」
「うん。だけど、うまく描けないよ。全然うまくいかないよ。こんなんじゃないんだよ。」

男の子は、わっと泣いて、それから、部屋を飛び出して行ってしまった。

保育士は慌てて追い掛けるのだが、男の子の姿はどこにも見えない。

急いで、他の職員を呼んで、手分けをして探す。

いない。

まただ。あの子はいつも、職員を困らせる。もう、何度目だろう。

--

「はい。すぐ迎えに行きます。はい。申し訳ございません。」
私は、ほうっと溜め息をついて受話器を置く。

まただ。

コウが。

また、幼稚園で問題を起こしたみたい。

何が悪いんだろう。私の育て方の何かが間違っているのだろうか。

そんなことを思いながら、ハンドルを切る。

小雨が降り出した。このあたりは、雨が多い。

「すみません。ご迷惑掛けまして。」
「いえ。こちらこそ、お呼び立てしまして。」
「あの、コウは?」
「サクラ組でお昼寝してますよ。」
「で?どこで見つかったんですか?」
「裏の小川で、ずっと水の流れを見つめてました。」
「そうですか。」
「それでね、お母さん。我々も、だんだんとコウくんがクラスに馴染めなくなってるんで、困ってるんです。」
「ええ・・・。分かります。」
「おうちではどうですか?」
「うちでも。そりゃ、難しい子とは思いますけれど。でも、決して、周りを困らせようと思ってるわけじゃないんです。」
「もちろん、そう思いますが。」

ふっくらした顔をこちらに向けて、園長は何かを言い迷っていた。

「あの。もう少し、様子を見ていただけませんか?他のお子さんの迷惑になるのは分かっているのですが。あの子、根はいい子なんです。」
「分かってます。」

帰り道では、もう、雨が上がっていて、町中がキラリと光っていた。大きな虹が、町を見下ろしていた。私は、それをみて、なぜか体をすくませる。

お願い。

コウは、私の大事な子供なの。

誰も、どこにも連れて行かないで。

私は、誰にともなく、祈る。

ハンドルを握り締める手が白くなる。

--

「ねえ。ママ。これ、何色?」
「水色よ。」
「嘘だ。ママ、これ、水色じゃないよ。水は、もっと違うんだ。僕、お水、うまく描けないよ。」

昔から、こうだった。

そうね。お水は、もっといろんな色からできているわね。

私は、コウに付き合って、何時間も一緒に絵を描く相手をしたものだった。

でも、最後には結局、コウはクレヨンを投げ出して、泣いて、手がつけられなくなる。

そんなコウのこだわりも、親にしてみたら、普通の子供より優れて見えて、誇らしかったものだ。だが、幼稚園に入ってからは、ことごとく、みんなと合わせられない事が問題となり、私と夫は、頭を悩ませるようになった。

夫が、深夜に帰宅する。疲れているようだ。

「何か変わったことは?コウは?」
と、問われて、私は、
「今日は大丈夫だったわ。」
と、嘘の返事を。

夫は、安心したように笑って。

一緒の布団に入っても、一分と経たないうちに寝息が聞こえて来る。

ねえ。ささやかなものです。私の欲しいのは。夫と、コウと。いつまでも、三人で。それだけなの。

--

長い雨が、やまず、降り続いていた。

コウは、空を見上げて。

また、クレヨンで絵を。

「ねえ。ママ。いろんな色を全部合わせると、何色?」
「そうね。ねずみ色かな。」
「違うよ。ママ、うそつき。」
「あら。そう。ごめんなさい。」
「ねえ。パパは?」
「パパは、遠くへお仕事で行ってるのよ。」
「ふうん。」

その日、コウはどことなく不安そうだった。落ちつかず、いろいろな色を重ねて。

「コウ、もう、絵を描くのやめて、おやつにしない?」
私がそう言っても、知らん顔して。

「ねえ。コウ。どうしたの?」
私は、お昼も食べないコウに心配して、声を掛ける。

「ねえ。ママ。僕、ママのために綺麗な絵、描きたいんだ。」
「うん。」
「だけど、いつもうまくいかない。」
「充分よ。ママはコウが描いた絵が大好き。」
「ママ、また嘘言ってる。僕の絵、本当にきれいだって思ってないくせに。」
「そんなこと、ない。ほら。ここのところに、ママの好きなピンク色。ここには、パパの好きな緑色があるもの。」
コウの塗りたくった絵を指して、私は、言う。

コウは、顔を上げて、少し嬉しそうな顔をして。それから。
「もっと、ママの好きな絵を描きたかったんだ。」
と、つぶやいて。

ねえ。コウ。そんな言い方しないで。ママ、この絵も、大好きよ。そう言おうとした、その時、雨が上がった。唐突に。

それから、太陽の陽射しがパッと、差しこんで来て。

コウは、ふらりと立ち上がる。

外に出て行くコウを、私は慌てて呼びとめるけれど。

コウは、空に手を差し伸べている。

虹が、見下ろしていた。

ああ。見つけてしまったのね。

私は、慌ててコウを抱き止めようとするけれど。

その大きな虹の手は、コウをフワリと抱き上げて。

「コウ!」
私は、叫んでいたけれど。

--

あの日、雨が多いこの町で。

子供ができずに悩んでいた時のこと。

大きな大きな虹が掛かって。

赤ちゃんが泣いていた。

私は、その子を抱き上げて。コウと名付けた。

分かっていたのだけれど。いつかは迎えが来る事は。だけど、私は、コウを愛していた。どこにもやりたくなかった。

--

コウが行ってしまってからしばらくして、私は、結婚して始めて身ごもった。

生まれた子供は、可愛い女の赤ちゃんで、ナナコと名づけた。

ナナコは虹が大好きで。

この町では、よく雨が降る。そうして、虹も、よく掛かる。

一年前は頼りなかった虹も、最近じゃ随分と立派になって。私達を見下ろしている。

ナナコは、
「にいちゃ、にいちゃ・・・。」
と、虹を見てはしゃぐ。

その虹は、いろんな色を持っていて、太陽の光を浴びて、さまざまな色を見せてくれる。コウ、綺麗な絵。お母さん、大好きだよ。私は、空に向かって、言う。


2002年07月29日(月) 多分、ほっとしたのだと思う。これ以上は待てないというギリギリでクロが戻って来てくれたこと。僕だって、疑っていた。

僕は、ウサギのシロ。

旅をしている。

バッタのホップと一緒に。

どこにって?

この世の果てにあるという泉に向かって。

泉には、三つある。一つは、病気を治す泉。もう一つは、記憶を消す泉。最後の一つは、どこにでも好きな場所に行くことのできる泉。

ホップは、僕に言う。宇宙に行きたいんだ、ってね。そのために、泉の水を飲むんだって。宇宙に始めて行くことができたバッタになりたいんだって。僕は、あはは、と笑う。なんて、壮大で素敵な夢なんだろう。ホップも、得意気に笑う。こんな小さい体で精一杯跳んだって、行ける場所は知れているからね。って。

そして、僕は、病気を治したいと思っている。僕は、目が見えないから。泉は、遠い遠い場所にあって、とても辿り着くことはできないよって村のみんなが心配したけれど、僕はどうしても目を治したかった。その旅の途中、僕はホップにあった。ホップは、僕がきみの目になるよ、と言ってくれた。代わりに、僕を肩に乗せておくれとも。確かに、僕には目が必要だった。だから、僕らは、二人で旅をすることになった。

旅は楽しかった。

疲れた夜は焚き火の前で、お互いに泉の水を飲むことができた時の事を語り合った。

長い旅には、希望が必要だった。

--

僕は、その敏感な耳で聞き分けることができた。僕らの後を付けてくる足音。

「誰かが僕らの後を追ってくる。」
僕は、ホップに言った。

ホップは、間もなく僕に教えてくれた。
「黒いウサギが一匹、きみの後を追い掛けて来る。」
って。

僕は、警戒しつつ、速度を変えずに旅を続けた。

どうした?

何の目的があって?

そうして、三日三晩、緊張が続いた後で、黒いウサギはついに話し掛けて来た。
「きみ達、泉の水を飲みに行くんだろう?」
って。

僕はうなずいた。

「悪いけど、立ち聞きしたんだ。」
黒いウサギは、そう言った。

「でさ。もし、そのう、良かったら、僕も一緒に連れて行ってくれないかな。」
とも、言った。

僕は、友人に相談してから返事するよ、と言った。

ホップと僕は、ごそごそ相談して、それから、返事を告げた。
「いいよ。一緒に行こう。仲間は多いほうが心強い。」
「本当に?ありがとう。」

僕らは、そうして、三人組になった。

黒いウサギはクロと名乗った。僕は、目が見えなかったけれど、クロの事は見失わなかった。だって、クロはとてもひどい匂いがしたから。何ヶ月も、体を洗ってないふうだった。

だけど、それを指摘したらクロは傷付くと思ったから、僕は何も言わなかった。

そうして、二人から三人になった僕らは、前よりはギクシャクしながら旅を続ける事になったのだった。

「ねえ。きみは、どの泉の水を望んでいるの?」
僕は、ある日、何気なくそう聞いた。

「僕は、記憶をなくす泉を。」
「記憶を?忘れたい事があるの?」
「ああ。そうさ。」
「ねえ。どんな?」

クロは、黙ってしまった。

僕は、余計なことを聞いてしまったようだ。

しばらく、僕らは黙って歩き続けた。

それから、日が暮れたので、僕らはその日眠る場所を決めて、寝床を作った。

「おやすみ。」
僕がそう言った時、クロは言った。
「ねえ。記憶をなくしたいって言ったことだけどさ。」
「うん。」
「きみにはそんな事ってある?」
「僕?うーん。そうだな。ないかな。」
「そうか。きみは幸せにここまで生きてこれたんだな。」
「それは違うけどさ。嫌なことだって、そりゃ・・・。」

そうだ。僕の母さんが死んだ日。僕の目が見えなくなった日。血の涙を流した日なら、僕にだってあった。

だけどさ。そういうの、全部忘れたいかって聞かれたら、僕は違うと答えるだろう。それでも、楽しい日々もあったから。

--

ある日、休息の時間。クロがその場を離れたタイミングでホップが僕にささやく。
「なあ。クロの事だけど。あんまり信用しないほうがいい。」
「なんで?」
「あいつの顔。見てたら分かるよ。きみには見えてないだろうから、言うんだけどさ。この旅は、きみがリーダーだ。きみが決めろよ。」

もちろん、僕は取り合わなかった。

それからニ、三日してからだった。泉の場所の地図と共に、クロがいなくなったのは。

「やっぱり。僕が言った通りだった。」
ホップはくやしがり、それに、少し怒ってるみたいだった。

「ここで、待とう。」
と、僕は言った。

「あいつ、帰って来やしないよ。」
「待とうよ。どうせ、地図がなくちゃ、僕らもどこにも行けないし。」

一週間、待った。

クロが姿を現した。

「ごめんよ。」
クロが、言う。

「クロ。お前・・・。」
ホップが言うのを制して、僕は、立ちあがった。
「ちょっと遅れた。さあ、行こう。」

変だな。僕は、感動していた。多分、ほっとしたのだと思う。これ以上は待てないというギリギリでクロが戻って来てくれたこと。僕だって、疑っていた。その僕の気持ちのあり様を試したかのように、クロが戻って来た。

そうやって、また、旅は続く。

--

ついに、その泉。

「やった、やったー。」
ホップが僕の周りを跳ねている。

「さ。きみが一番に水を飲むといい。」
ホップが、僕に言った。

僕はうなずいた。

目が、治りますように。

僕は、一口。

体の中を水が巡り、僕の閉じた瞳が光を感じたので、そっと開く。

そこには、旅の仲間の心配そうな顔。

「見える。見えるよ。」
僕は急いで言った。

二人は、心底嬉しそうな顔をして見せた。

僕も、笑って応えた。

「次は、きみだ。」
僕は、クロのほうを見た。

「僕?」
「ああ。記憶をなくしたいんだろう?」
「うん・・・。」
「ただし、気をつけたほうがいい。この水を飲むと、本当に何もかもがなくなるらしい。悪い思い出だけじゃなくて、いい思い出も。それでも、きみは水を飲む?」
「・・・。」

クロは、じっと、泉を見ていた。いい思い出と悪い思い出を天秤に掛けているのだろうか。しばらく、ピクリともしなかった。

それから、目をつぶって、言った。

「いや。飲まない。」
「そう。」

僕は、クロを抱き締めた。

全部の思い出を抱き締めて行くことを決意したクロを、思い出ごと抱き締めた。

「こっちにおいでよ。」
僕は、小川に行って、それから、ゆっくりクロの体を洗った。中から綺麗な白い毛が少しずつ現われた。

「クロ、きみって・・。」
ホップが驚いて声を上げる。

綺麗になったクロは、白い毛並みの可愛らしいウサギだった。
「そうだよ。女の子さ。」

「そのままが、いい。」
僕は言った。

「何も知らない癖に。」
クロは、泣いていた。

「ぼくはきみの事を知らないけど、きみの過去の何かが、きみをとても傷付けたことは分かるよ。女の子の姿でいるのが苦痛なぐらい傷付けた事。」

「シロ、きみは最初からクロが女だって知ってたのかい?」
ホップが叫ぶ。

「うん。目が見えないほうがね、いろんなものをたくさん感じることもある。クロに触ったらさ、わざと体を汚してゴワゴワしてるのを感じた。クロの声は、本当は透き通った声なのに、わざと潰していることも。」
「全部忘れたかったよ。新しいパパがうちに来て、私にしたこと全部。男になりたいって思った。そうしたら、こんな嫌な思いをしなくて、普通の女の子のままでいられたのに・・・。」
クロは、ワーワー泣いた。

僕は、女の子になったクロを、泣き止むまで抱き締めていた。

ようやく涙が止まったクロは、しゃくりあげながら。
「だけど、旅の思い出は、忘れたくなかったんだ。」
と、言った。

ホップが拍手した。

僕は、ホップに向き直って言った。
「さて、ホップ。きみは、宇宙に行くのかい?きみは本当に、良くしてくれた。きみがいなくちゃ、僕らはここに三人でいなかっただろう。」
「いや。シロのおかげさ。」

ホップは、照れ臭そうに笑って。
「僕、行き先を変える事にした。きみたちを見てて、さ。」
「僕と、クロを?」
「うん。僕は、僕を愛してくれる素敵な子がたくさんいる場所に、行くよ。」
「そうか。」
「ずっと、バッタなんか嫌だと思ってたんだ。クロみたいにさ。自分が嫌だったんだよね。だけど、さ。きみ達見てたら、なんか急にバッタでいたくなった。バッタの女の子と、バッタ的に暮らしたくなったんだ。」
そう言うと、ホップは、水を一口。

そうして、
「じゃあな。」
と、声だけが残って。

ホップの姿は消えてしまった。

「なんだか、慌しかったね。」
クロが笑った。

ホップにも、ホップなりの傷があったのだ。僕は、旅の仲間達が傷を抱えながら、それでも乗り越えていく決意をしたことを嬉しく思った。

「これからどうする?」
僕が聞いた。

「シロと一緒に行く。」
「僕と?」
「うん。」
「なら、きみの名前、考えなくちゃね。クロっていうのは似合わない。」
「新しい名前、つけてよ。新しい私になれるように。」
「そうだね。」

--

真っ白な毛をしたウサギが二匹。ふざけながら、笑いながら。そこからの旅は、ちっとも長くなかった。むしろ、時間は消え、お互いだけが残った。


2002年07月27日(土) あんな夫にでも、帰って来た時には美しい自分を見せたいと、私は、今でも毎晩、腰まである長い髪の手入れを怠らない。

「もう、随分になるわねえ。」
荒れた庭に目をやりながら、義母がつぶやく。

いつものことだ。

「あっという間ですわ。アヤコも、もう、来年には小学校ですもの。」
「あんな息子でも、私にとっては可愛い子だったんですよ。」
「分かってますわ。お義父さまとお義母さまが、ここに住んでいていいっておっしゃってくださったから、私とアヤコも路頭に迷わずに済んだんですし。」
「そりゃ、そうよ。ノリユキがいなくなっても、あなたが可愛い娘なのに変わりはないし、アヤコだって、そりゃもう、私達の宝ですもの。」

そうして、涙ぐんでハンカチで目頭を押さえるのも、いつものこと。

「あなたが、ノリユキの事恨まないでいてくれるのが、私達にとって一番嬉しいことなんですよ。」
「不思議ですわ。今となっては、ノリユキさんのいいところばかり思い出してしまって。」
「アヤコが大きくなったところを見たら、さぞ喜ぶでしょうねえ。あの子、子煩悩だったから。」
「ええ。」

私も、ふと、胸がいっぱいになる。

--

夫がいなくなってから、もう、七年が経つ。もともと、子供が生まれてからは、外に女を作り、しょっちゅう家を空けていたから、最初は、また女のところだろうと思って放っておいたのだが、一ヶ月も家を空けたままとなるとおかしいということで、警察に、失踪として届けた。

ただ、成人の男であるし、不審な事件が起こったという通報もないので、結局のところ、警察も形ばかりの捜査で終わらせてしまった。

私は、生まれたばかりのアヤコと取り残されたわけだが、内心はほっとしていた。家にいれば、酒を飲んで、私の髪の毛を掴んで引きずりまわす事もあったから。

そう。私の美しい髪。

結婚前は、いつも私の髪を撫でて、「きれいだね。」と言ってくれた。長い髪がいいよ、と言うから、私は髪を切らずに、その豊かな髪を日々ブラッシングする。やはり、そこは女だと思う。あんな夫にでも、帰って来た時には美しい自分を見せたいと、私は、今でも毎晩、腰まである長い髪の手入れを怠らない。

--

「あ。おばあちゃん。来てるの?」
アヤコの声が玄関でする。

幼稚園から帰って来たのだ。

「あら。アヤちゃん。おかえり。」
義母は、顔をほころばせて、アヤコを迎える。

「おばあちゃん、あのね。アヤコね。幼稚園のプールで、ワニさん泳ぎしたんだよ。上手にできたよ。」
「まあ、そうなの?アヤちゃんはなんでも上手ねえ。」

孫見たさに、週に一度は我が家を訪れてお茶を飲んで行くけれど、私はそれを疎ましいと思ったことはない。夫がいなくなった今、アヤコの成長の様子を一緒に見守り、喜びを分かち合えるのは、義母だけだから。

「さ。アヤちゃん、お着替えね。」
私は、義母にまとわりついて離れないアヤコに、声を掛ける。

--

「ねえ。アヤちゃん、夏休み、ね。また、富山のおばあちゃんのところに行こうか。」
「やだ。富山のおばあちゃん、遠くだから、やだ。」
「そんなこと言わないで、ね。」
「アヤコ、こっちにおばあちゃんがいるから、いいよ。」
「でも、富山のおばあちゃんも寂しがってるから。」
「じゃあ、アサガオはどうするの?」

アヤコが心配しているのは、幼稚園から持って帰ったアサガオだ。

「お水やらないと、枯れちゃうよ。」
「大丈夫よ。」
「だめだめ。」

私は、少し困ってしまう。

私の母は、義母より高齢で、性格も大人しいせいで、活発なアヤコの相手をするとすぐ疲れてしまう。そのため、アヤコがなかなかなつかないのだ。

「ね。アヤちゃん。富山行くなら、アヤちゃんが欲しがってたおもちゃ買ってあげるから。」
「ほんと?」
「ええ。ほんと。」
「じゃあ、行ってもいいかなあ。」

なぜだろう。夏は、この家を離れたい。私は、いつもそんな気分で、夏になると、アヤコを連れて実家に帰る。

おもちゃを餌に子供の気持ちを操るのは良くないと思っていても、私は、とにかくどうしようもなくここが嫌になるのだ。他の季節はそうでもないのに。夏は。多分、あの人の記憶がたくさんあるから。新婚当初、まだ、夫が家にいてくれた頃、私達はよく一緒に風呂に入った。夫は私の髪をいつも丁寧に洗ってくれて。私は幸福で・・・。

そんな記憶のせいだろうか。

--

「アヤちゃん、行くよ。」

タクシーが到着したので、私は、アヤコを呼ぶ。

アサガオに水をやると言って、庭に回ったアヤコがなかなか戻って来ないので、私はイライラして、アヤコを何度も呼ぶ。

富山のおばあちゃんが、おいしいもの用意して待ってくれてるよ。

だが、アヤコは、なかなか来ない。

私は、しびれを切らして、庭に回る。

水をやっているはずのアヤコは、アサガオのそばにしゃがみ込んでいる。

「アヤちゃん、早く早く。」
「ねえ・・・。ねえ、ママ。お水やってたらね。アサガオじゃないものが生えて来たよ。」
「アサガオじゃないもの?」

その白い物は、アサガオのそばからにょっきりと飛び出していて。

よく見れば、白骨化した人間の手の・・・。

長い髪の毛が絡んでいて。

そう。女の長い髪の毛。

「ねえ。ママ。ママ?」

それは、まるで、深い土中から、長い髪をたぐりよせて地上まで這い上がって来たようにも見えて・・・。

そう。思い出した。あれは夏の日だった。私は、酔って帰って来たあの人を誘ったのだ。ねえ。髪を洗ってよと。私が上機嫌だったものだから、あの人も、意外な顔をして。それから、湯船にあの人を押し込んだ時、あの人の手が私の髪を掴んだところまでは覚えている。あの人はひどく酔っていたから、それでも、すぐ動かなくなって。それで、どうしたんだっけ・・・?

「ねえ。ママったら。」
アヤコがしきりに、私を呼んでいる。

そうだ。だから、夏は嫌いなんだ。

大嫌いなんだ。


2002年07月26日(金) どうしてそんな事、言うんだろう。僕は、そこまでは考えてなかったのに、こんな風に赤くなったら図星みたいですごく嫌だった。

「姉ちゃん、行っちゃったなあ。」
「ほんと、あの子は、言い出したと思ったらすぐ行動に移しちゃうからねえ。」

僕とアコは、新幹線のホームでそんなことを言い合った。

アコは、僕の五歳上の姉の友人で、僕の姉とは大の親友だったので、僕には姉が二人いるようなものだった。アコは、でも、姉よりは美人だし、やさしいので、僕はアコが本当の姉ちゃんだったらいいのに、なんて、よく思ってたものだ。一方のアコは、一人っ子なので、僕を本当に弟みたいに可愛がってくれた。

僕の姉は、大学生だが、かねてから留学したいと言って、ずっとバイトに励んでいた。そうして、今日、本当に行ってしまった。

「寂しいんでしょ。」
アコは、笑った。

「まさか。」
口ではそう言ってるけど、僕の目からは勝手に涙がこぼれてしまった。

「まったく、タッちゃんは昔から泣き虫なんだから。」
「ん・・・。」
「ね。タッちゃん。あたしがお姉ちゃんになってあげるから。だから泣かないでよ。」

高校生のくせに、姉がいなくなったぐらいで泣いてる自分が恥かしかったので、僕は返事をせずにアコを置いて、どんどん改札のほうに向かって歩き出した。

「あ。ちょっと待ってよ。」
アコが追い掛けて来る。

多分、僕は大人になりかけていて、アコがまぶしくて、そのくせ、弟扱いされるのが恥かしくて、だんだん素直になれない年頃に差し掛かっていた。

--

「よお。一緒に帰ろうぜ。」
と、声を掛けて来たのは、三年で評判の悪いニシザキだった。

「なあ。こないだ、お前、駅の近く歩いてたろ。」
「うん。」
「一緒にいた女。あれ誰だよ。」
「知り合い。」
「すげえ美人だったよなあ。」
「まあ。」
「なあ。紹介してくれよ。タツヤくーん。」
「駄目だよ。」
「なんで。いいじゃん。その代わり、お前にはちょっかい出さないようにするからさあ。」
「だから、駄目って。」
「なんだよ。」

ニシザキを怒らせるのは怖かった。だけど、アコだけは守らないといけなかったから、僕は徹底的にニシザキに抵抗した。

結果、ボコボコにされた。

だけど、最後に、道でのびていた僕に、ニシザキはニヤッと笑って手を貸してくれたから。ちゃんと話がついたのだと思った。

--

「上がるねー。」
いつもみたいに、アコが遊びに来た。アコの家は近所で、姉がいなくなった今も勝手に出入りするから、僕としては鬱陶しい。

アコは、僕の顔を見るなり、
「どうしたのよ。喧嘩?」
って、叫んだから。

僕は、
「うるさいなあ。」
と、ちょっとむくれた顔で言った。

「もう。あんたって、ほんと駄目なんだから。誰にやられたのよ。」
「言わない。アコには関係ない。男同士の話だから、アコには口挟まれたくないよ。」
そういう僕に、アコはクスリと笑った。

「なんだよ。」
「なんかさあ。タッちゃんも大きくなったなあ、って思って。」
「うるさいよ。」

笑うアコの顔は、ドキッとするぐらい可愛かった。僕は、その顔に見惚れていた。誰にも触らせたくないと思った。

僕は、そっと、アコの髪に手を触れた。

「なに?」
「あ。いや、綺麗な髪だと思って。」
「変なタッちゃんね。」
「ごめん。」
「ね。タッちゃんの考えてる事、当ててみようか。」
「なに?」
「今、私にキスしたいと思ったでしょ。」
「そんな事考えてねーよ。」

否定したけど、僕は耳まで真っ赤になってしまった。

アコはどうしてそんな事、言うんだろう。僕は、そこまでは考えてなかったのに、こんな風に赤くなったら図星みたいですごく嫌だった。

アコは、ふふ、と笑った。

「女の子にキスするのには、資格が要るのよ。」
「資格?」
「うん。」

そう言ってアコは帰ってしまった。

アコにキスする資格?そんなもの、一生手に入りそうにない。

僕は、アコに一生勝てない。アコは、なんでも知ってる。僕は、いつも戸惑っていて、格好悪い。どうやったって勝てない。

--

それから、二年。僕は、大学に入り、アコはOLになった。

あの日以来、僕達はあまり顔を合わせなくなった。

もう、僕達は大人になったから。

そうして、僕は、新人歓迎コンパの帰り、繁華街をフラフラと酔って歩いていて、偶然、アコを見掛けた。

一緒にいた男は、アコの恋人と呼ぶにはずっと年上で、高価なスーツを着ていた。アコの腰に手を回して、アコの耳元でしきりになにやらささやいていた。

僕は、見てはいけないものを見てしまったと思った。

アコも僕に気付いたようだったが、僕らは知らん顔して通り過ぎた。

僕は、その夜、眠れなかった。

僕の憧れだったアコは、いつのまにか、つまらない男に抱かれるような女になってしまった。僕だって、その頃にはもう、恋人がいたから、恋愛について、少しは分かっているつもりだったけど。

--

そうして、更に数年が過ぎ、僕も大学を出て就職をした。

相変わらず、アコとは会わなかった。

姉は、あの時出て行ったきり、スペインだの、イタリアだのと、飛び回っていて、帰って来ない。

僕達は、みんな大人になって、自分の生活を笑ったり泣いたりするのに忙し過ぎた。

そんなある日。

僕は、残業ですっかり遅くなって駅に向かう道で、泣いているアコを見掛けた。

そばには、あの男がいた。

まだ、続いてたんだ・・・。

と思った。

男の腕で笑っていたアコも嫌だったけど、男のために泣いているアコを見るのはもっと嫌だった。

男は、しきりになにか言ってアコをなだめようとしていたようだが、アコは泣きながら首を振ってばかりだった。

僕は、目を閉じて、足早にそこを離れた。

--

次の日曜日、母も出かけてしまったので、僕は一人家にいて、ゴロゴロしていた。誰か来たみたいなので、玄関を開けると、アコが立っていた。

「ちょっといい?」
「ああ。珍しいね。」
「うん。」
「あ。俺の部屋に来る?」
「いい?」
「いいよ。なんだよ。前は遠慮なんかしないで入って来てたくせに。」

アコは、僕の部屋を見渡して、
「変わらないね。」
と言った。

「僕は、変わらないよ。」
「そんなことない。すごく変わったよ。男っぽくなった。」
「そう?」
「ねえ。彼女、いるの?」
「いるよ。もう、長いなあ。五年目かな。」
「ふうん・・・。」

それから、少し沈黙があって。

僕は、麦茶を取りに行って。

アコは、麦茶を一口飲んで、ふうって息を吐いて。

「何度も見られちゃったね。」
と、言った。

「ああ。」
「でもね。別れたよ。やっと。」
「そう・・・。」
「タッちゃんのお陰。」
「僕の?」
「うん。なんだかね。タッちゃんに見られて、すごく恥かしくて。変だけど、タッちゃんに胸張って会えないのって、なんだか間違ってるって思って。」
「そっか。」
「だから・・・。」
「うん。分かってる。こうやって話できるの、すごい嬉しい。」

ん・・・。

アコは小さくうなずいた。

僕は、アコの顔を引き寄せて、それから、そっと口づけた。

それは、恋人同士のキスじゃなかった。励ましのキス。いたわりのキス。再会の喜びのキス。

アコにもそれは分かったみたいで。

僕らは、顔を離して、照れ笑いした。

「前、アコが、キスするには資格が要るって言ってただろ?」
「そんな事、言ったっけ?」
「うん。あれから、ずっと考えてた。」

そうだ。キスにはいろんなキスがあって。

僕らの今日のキスは、お互いの関係をどこかに持って行くようなキスじゃなかった。

多分、アコのことは、これからもずっと好きだけど。

今のまま、ずっと姉の友人としてのアコと付き合って行きたかったから。

そう。僕は、そんなキスができるぐらいには、ちょっとだけ大人になっていた。

「こんどさ、イタリア行かない?」
帰り際、アコが言った。

「イタリア?」
「うん。ユミコが、こないだ電話して来て、おいでよってさ。いい男がいっぱいいるからって。」
「そうだな。」

それで、また、僕と、姉貴と、アコと、三人で笑ったりできたら最高だ、と僕は思った。


2002年07月25日(木) 唇は、赤く艶やかだった。これも、今までに見たどの珊瑚のよりも美しかった。生きて動いているものって、きれいだな。

そこは海の底の深い深い場所だった。

薄暗く、視力を持たない魚ばかりが多く泳いでいる場所だった。

そこに住む竜は、一日眠ったように過ごしていた。普通の海蛇の子供として生まれたはずなのに、海の汚染のせいか醜く育ってしまった巨大なその生き物は、誰にも愛されず、浅い場所を追われて、その深い場所まで辿り着いた。

寂しくはなかった。

むしろ、いじめられるくらいなら一人きりになれる場所が欲しかった。

竜は満足していた。

陽が昇るのを見ず、誰とも会わなければ、時間など存在しなくなる。

ただ、うつらうつらと過ごす。

--

人魚の姫がそこに迷い込んで来た時は、だから、竜は、驚き、少し怯えた。

長い事、誰とも言葉を交わしていなかったので、言葉すら忘れかけていた。

「良かった。誰か住んでいるのね。」
「おまえは?」
「私は、人魚の姫よ。」
「どうして、こんな暗い深い場所に一人で来た?」
「退屈だったから、家を出て、誰も知らない場所をずっと旅していたの。」
「ここは暗くて危険だ。早く出てったほうがいい。」
「あら。大丈夫よ。だって、あなたはいい人ですもの。」
「いい人?」
「ええ。分かるわ。」

竜は、そんなことを言われたのは初めてだったので、驚いて黙りこんでしまった。

姫は、竜のきれいに掃除された棲家を見て、珍しそうにいろいろなものを手に取ってみたり。それから、急に飛び出して行ってなかなか帰って来ないから、竜はとても心配して待っていた。

「ただいま。」
「駄目じゃないか。勝手に泳ぎ回ったら。」
「だって。じっとしていられないわ。」
「何とかしなくちゃ、な。」
「何を?」
「お前を、浅い場所まで連れ戻してやらないと。」
「そんなの、嫌よ。パパになんて怒られるか知れないし。隣の国の馬鹿息子と結婚されられるし。私は、絶対に帰らないから。」

それから、姫は、竜の棲家に寝床を作り始めた。

竜は、あきらめてその様子を見ていた。薄暗い部屋で、姫の体だけがぽうっと明るくて、白く輝いていた。確か、これくらい美しいものを見たことがある。そうだ。真珠だ。母さんにもらった真珠。いや、真珠より美しい。姫の唇は、赤く艶やかだった。これも、今までに見たどの珊瑚のよりも美しかった。

生きて動いているものって、きれいだな。

竜はそんな事を思った。

その日から、姫は竜と暮らし始め、深海を探索し、竜に楽しい話をして聞かせた。

「俺が怖くない?」
「どうして?そんなにやさしい声なのに。」
「俺が、気持ち悪くない?」
「素敵だと思う。そのいかめしい顔に似合わず、心のやさしいところ。なんだかね。すぐ怒って、相手に威張ってみせてたパパより、あなたのほうがずっと強いなって思うわ。」

竜は、嬉しかった。

母親にすら、そんな事を言ってもらった記憶がなかったから。

それから、時折、遊び疲れた姫が、竜の腕で眠ると、竜は心がいっぱいになる気がした。楽しいのだけれど、不安な感じ。今までに持った事のない感情。

--

「私、そろそろ行くわ。」
「どこに?」
「違う場所。人間も住む場所。」
「人間は、やめておいたほうがいい。危険だ。」
「あら。そうかしら。人間って、私達と同じような顔をしているっていう噂よ。だから、きっと大丈夫。」

それ以上、竜に何が言えただろう。

竜は、海の上のことをまるで知らなかったのだから。

竜は、黙って、姫が出て行く準備を手伝ってやった。それから、綺麗な真珠を一粒。

「いいの?」
「ああ。きみにぴったりだ。」
「嬉しい!」

姫は、竜の頬に口づけた。

竜は、言葉が詰まって何も言えなかった。

竜は、姫みたいに、何でも正直に言えるのがうらやましかった。

今、彼女に「好きだ。」と、「また戻って来ておくれ。」と、言えたなら、どんなに素晴らしいだろう。いや。もっといろんな事。自分が、追われるようにしてこんな場所まで来たことすら、言うことはできなかった。

「じゃあ、行くわね。」

そう言って笑う姫の頬にそっと自分の頬を触れ合わせて「さよなら。」って言うのが精一杯だった。

姫は、行ってしまった。

--

竜は、まどろむ。

海の底の、その場所で、全ては、元に戻ったかのように見えた。

だが、唯一違うのは、竜が、姫の夢を見るようになったこと。

夢の中で、竜は、姫に「好きだ。」と言うことができた。姫は笑って、「そう。そんな風に言って欲しかったの。」と言った。「誰だって、言葉が欲しいものよ。」とも。

そんな夢を、日がな一日。

竜は知らなかった。姫が、人間に捕らえられて、見世物にされ、挙句、人魚の肉は不老不死の肉だと言う者の腹におさまってしまった事。

人魚姫が手にしていた、それは美しい真珠は、けれども、彼女が最後に浜辺で抵抗した時に海に投げ戻され、静かに静かに、海の中を漂って。無言のメッセージはいつしか竜に届くかもしれないと、そんな風に姫が最後に思った事。

そんなことも知らないで。

竜は幸福だった。

誰にも邪魔されず、素敵な夢を見続けた。


2002年07月24日(水) 私は毎回、そんな風にわがままを言ってみる。決まりきった答えが、私を安心させ、ほんの少し傷つける。

「もう、行く?」
裸のままベッドでうとうとしていた男が、訊ねる。

「そろそろ、子供が学校から帰って来るから。」
「ああ。」

バスルームの鏡で、髪を整える。少し白髪が目立ち始めたから、また、染めに行かなくては、と思う。あの人だって、お腹が出て。私達、まるでくたびれた中年カップルだわ。

「もう少し一緒にいたい。」
と、私が言う言葉に、
「駄目だよ。きみは僕の恋人でいる前に、息子の母親なんだから。」
と、やさしく答える。

返事は分かっていて、私は毎回、そんな風にわがままを言ってみる。決まりきった答えが、私を安心させ、ほんの少し傷つける。

「じゃ。」
私は軽くキスをする。

「ああ。」
男は起き上がって、玄関まで送ってくれる。

--

自転車に乗って帰りながら、思う。

この街が好きだ。

この街を出て、結婚して、離婚して、この街に戻って来た。幼馴染の男と再開して、彼も一人だということを知って。それから、彼の仕事が休みの日は、こうやって過ごして。

多分、私は恵まれている。恋人がいて、息子がいて、自由がある。

男が訊ねた事がある。
「なんで、離婚したの?」
「革命、だったのよ。」
「革命?」
「ええ。うちは、姑がうるさくてね。だけど、歳の離れた夫と姑に仕える事が結婚だって、ずっと思ってから。でね。ある日なにげなく、花柄のワンピースを見つけたの。」
「ワンピース?」
「うん。すごく素敵で、大胆で、胸元をきれいに見せてくれるワンピース。着てみたら、自分にびっくりするほどぴったりだったの。」
「で、買って帰った?」
「うん。買ってから、馬鹿みたいって思ったわ。だって、その頃の私って、ワンピースを着たところで、どこにも行く場所がなかったし。」
「で?」
「次の日の午後、姑がいない隙に、着て出たの。すごく素敵だったのよ。道行く人がみんな私を見てウィンクしてるように見えた。それから、夫の知人と出会って、お茶を飲んだの。」
「お茶だけ?」
「もちろん。それだけの事がね。すごく楽しかった。だけど、狭い町だったし、そんなことはすぐバレてね。姑にも夫にもすごく怒られた。あの時、私が謝っていれば、今でも私はあの町にいたと思うの。だけど、私にとっては、私がワンピースを着た、その日が革命だったのよ。」
「そのワンピース、見てみたいな。」
「夫にズタズタにされちゃったの。でも、いいの。離婚してからの私は、いつも、ワンピースを着ているようなものだから。」

彼は、私に口づけて、目を閉じた。

それは、革命の成功を祝ってくれたキスのように思えた。

--

今日は、息子の友達が来る。初めてなのだ。息子は、この街になかなか馴染まない。まだ、一度も友達を連れて来ないのが、私の唯一の気掛かりだった。もともと無愛想な子だが、話せばやさしいところがあるし、勉強も良くできる。

私は、息子の帰る時間に合わせて、クッキーを焼く準備をする。

その時、玄関で音がするから。

「おかえり。」
と、私は飛び出して行く。

「ただいま。友達、連れて来たんだ。」
「まあ、いらっしゃい。あら、二人なの?」
「うん。」

そばかすだらけの少年が二人、息子の後ろに立っている。

そのうちの一人が、前に進み出て挨拶をする。
「はじめまして。僕、友人のビーです。」
それから、もう一人のほうを向いて、続けて言う。
「それから、こちらが僕の父のエーです。」
「あら。おとうさま?」
「ええ。こんな外見ですが、僕の父です。」

それから、後の少年が前に進み出て、言った。
「はじめまして。私が、ビーの父のエーです。」

私は、戸惑いながら、息子を見た。息子は平然としていた。まあ、いいわ。何でも起こり得るのがこの街だから。

「さ、上がってちょうだい。」
「お邪魔します。」

二人の、甲高い声の少年は、神妙な顔で息子の部屋に行く。

私は深い息をついて、クッキーの種を伸ばし始める。

二階では、キーキーと喧嘩するような声や、笑い声が聞こえた。

多少奇妙ではあるが、息子の友人だ。間違いはないだろう。

クッキーが焼けると、私は、息子と、その友人を呼んだ。

三人は、多分、模型の機関車を巡って何やらしきりに会話しながらテーブルについた。エーとビーはよく似ていて、私にはどっちがどっちか分からなくなりそうだったが、どうやら、息子の友人のビーのほうが、落ち着き払っているほうで、その父親のエーは、落ちつき無く、キーキーと口を挟むほうだった。

だが、私は、見ているだけで混乱して、うっかり、ビーのほうに、
「おとうさま、もう少し、クッキーいかが?」
と、話し掛けてしまった。

途端に、エーがひっくり返って顔を真っ赤にして喚き出した。

何を言っているのか分からないが、多分、僕はエーであって、父親だ、という事。

私はオロオロして、見ているしかなかった。

が、しばらくすると、エーは落ちつきを取り戻し、何事もなかったかのように、三人での談笑がまた始まった。

そんな調子だったので、息子の友人達が帰る頃には、私はもうすっかり疲れてしまっていた。

「おじゃましました。息子さんの母上がこんな素晴らしい方としって、私達もとても気持ち良く過ごせましたよ。」
最後の最後に、エーは、父親らしい笑みを浮かべて。だが、相変わらずのキーキー声で、私に言った。

「私も、息子に素敵なお友達ができた事、嬉しく思いますわ。」

それから、私達は握手して別れた。

--

私がキッチンで洗い物をしているそばで、息子が黙ってクッキーの残りを食べている。

「ママ、今日は、友達をもてなしてくれて、ありがとう。」
と、少し照れ臭そうに、言う。

「また、連れてらっしゃい。」
「うん。でも・・・。」
「でも?」
「ママ、ちょっと疲れただろう?」
「そりゃ、誰とだって、初対面は疲れるわ。」
私は、マグカップに煮詰まったコーヒーを注いで、息子の前に座る。

「お友達とお友達のおとうさまは、いつもああやって一緒にいるの?」
「うん。大概は。」
「なんていうかしら。余計な事かもしれないけど、それって、お互いがとっても傷つくんじゃないかしら?」
「だけどさ。エーは、ビーと一緒にいなかったら、誰がエーの事を、パパって呼ぶんだい?」
「それもそうね。」
「だから、エーはビーと一緒にいるし、ビーはエーと一緒にいるんだ。」

よく、分からないけれど。

でも、息子がそういうのだから、きっと正しい。

私は、頭が良くないからうまいこと理解できないけれど、息子が、そんな二人を友達にしたのは、ちゃんとした事のようにも思えた。

部屋に戻ろうと立ち上がったところで、息子は言った。
「今度、ママの友達も連れて来てよ。」
「会いたい?」
「多分・・・。」
「じゃあ、そのうち呼ぶわ。お夕飯、一緒に食べましょう。」

私は少し嬉しくなってそう答えると、仕事に出掛けるために、立ち上がる。

私は息子がいるために、息子は私がいるために、ちょっとずつ傷ついてはいるけれど。だからって、離れる理由にはならないし。むしろ、愛する理由になっている。

そんな事を思いながら、夕暮れの街を、自転車で走る。


2002年07月23日(火) 「わからない。」と言うと、「正直なのね。」と、笑って。それから、少し崩れかけた乳房を毛布で隠して、僕にサヨナラって言う。

最後に死ぬ時は、幸福そうに笑っていたらいい。そんな、青空。

--

僕は、ずっと信じていた。「僕だけのきみ」「きみだけの僕」。運命のその人に出会えることを、ずっと信じていた。だから、その相手と、いつか巡り会うまで、僕は誰とも、何かを約束することなく生きて行こうと誓っていた。

僕は、ちょっと女の子にもてる。だから、本当は、その誓いを守るのは、わりと大変だった。

たとえば、女の子と寝る。女の子は、
「ねえ、明日も会える?」
って、訊く。

僕は、
「わからない。」
と、答える。

女の子は、遊びだったのね、と泣き出す。

僕は、女の子を抱き締めて、「遊びじゃないよ。」と慰めるけど、決してそれ以上の事は言えない。だって、きみじゃないもの、って思う。

そうやって、約束しない、というのは、結構辛い。やってみるといい。その時だけの口当たりのいい言葉を言わないというのは、男としては案外と辛い。いつも、自分ばかりが相手を傷付けている気分になる。実際そうなんだろうけど。

そうして、結局、僕は、約束を欲しがらない、少し年上の人妻とばかり付き合うようになる。

彼女達は、快楽に対して正直で、そうして、僕に誓いの言葉を言わせない。

「明日も来る?」
って言うから、
「わからない。」
と言うと、
「正直なのね。」
と、笑って。それから、少し崩れかけた乳房を毛布で隠して、僕にサヨナラって言う。

--

そうして、世間は、僕に対してあきれて見せ、僕も僕自身にあきれ始めた頃に。

その人に出会う。

長い髪。白い肌。道端にしゃがみ込んで、じっと、舌を出してハァハァと喘ぐ子犬を見ている女の子を見つける。

「どうしたの?」
「犬。助けてあげて。」
「いいけど。」
「多分、暑いせいよ。お水飲ませてあげて。」
「うん。」

僕は、答えながらも、女の子から目が離せない。体全体の色が薄く、今にも夏の陽射しに消え入りそうに見えたから。

「きみも、気分悪そうだよ。うちに来る?」
「ええ。あなたが構わなければ。」

僕は犬を抱き上げ、歩き始める。彼女は黙って僕の後を歩く。

エアコンをつけた部屋で、彼女は少し落ちついたような顔で、僕が犬に水をやっている様子を見ている。

僕は、さっきからドキドキしていた。彼女だ。僕の運命の人は。だけど、どうやって切り出せば?会った日にいきなり、「きみは僕の運命の人ですね。」なんて言うのは、やっぱり変だろう。

「ねえ。名前、聞いてもいい?」
「ユキンコ。」
「ユキンコ?」
「変?雪の子供を、人はそう呼ぶのでしょう?」
「きみは、雪の子供なの?」
「さあ。雪女とも言うのかもしれない。」

彼女のユーモアのセンスは、良くわからないけど。僕は、曖昧に笑って見せる。

「ねえ。笑わないで。私、本当に雪女なんだから。」
「じゃ、夏の陽射しに溶けたりするわけ?」
「そうじゃなくて。触った物が全部凍っちゃうの。だから、さっき、子犬を見つけたけど、抱くことができなかったのよ。」
「ふうん。」
「信じてないわね?」
彼女は、そう言って、花瓶に生けてある花に指を触れる。その瞬間、花は凍ってハラハラと崩れた。

「ね?」
「すごい・・・。」
「昨日、山からおりて来たの。」
「何しに?」
「笑わない?」
「笑わない。」
「運命の相手を探しに。」

僕は、笑い出す。彼女も、つられて笑う。

それから、僕達は、一緒に暮らし始めた。

--

「最近、付き合いが悪いのね。」
と友人達に言われても、僕は、黙って笑っている。

ユキンコは、僕の部屋で今日も僕の帰りを待っているから。

僕達は、抱き合えない。まだ、口づけを交わした事もない。だけど、幸福だった。

僕らは、時折、こんな会話をする。
「ねえ。あなたが先に死んだら、私、あなたを氷漬けにして、いつまでもそばに置いて眺めるわ。」
「へえ・・・。ちょっとぞっとするな。」
「だって、ようやく会えたんですもの。ずっと、あなたを探してたのよ。」
「じゃ、きみが先に死んだら、どうして欲しい?」
「私は、きっと先に死んだりしないわ。私達のような雪女が死ぬなんて、想像できない。」
「でも、いつか、死ぬ。」
「あなたは?私が死ぬ時は、どうしたい?」
「わからない。ただ、最後、死ぬ時にきみが幸福な顔をしていたら、素敵だと思う。」

そんな事を言うのも、どこか、僕らは終わりを見ているカップルだったからだろうし。だからこそ、今の幸福を強く意識していた。

--

今年の夏は、暑い。

さすがにユキンコは、暑さでぐったりしている。一歩も外に出ずに、エアコンを最強にして、部屋でうずくまって、僕の帰りを待っている。少しずつ、元気を失い、僕との愛以外は、いろんなものに興味を失くしていっている。

僕は、心配で、何とかしてやりたいと思う。

「ねえ。僕、夏のボーナスが結構残ってるんだ。だから、旅行しないか?」
「旅行?」
「きみの故郷に。」

ユキンコの顔が、パッと嬉しそうに輝く。

「いいの?」
「ああ。当たり前だよ。」
「嬉しい。」

僕も、嬉しい。ユキンコが元気を取り戻してくれて、嬉しい。

「ね。行こう。」
「今、すぐ?」
「うん。」
「わかった。じゃ、今から行こう。」

そうだ。僕らは、愛を先延ばしする必要はない。

僕は、ユキンコの笑顔を見られるなら、今すぐ、地獄巡りにだって行ってやる。

僕らは、暑い暑い夏の陽の下に飛び出す。

暑い。確かに、とても。確か、ラジオはこの夏最高の暑さだと言っていた。気温30度を超すとも。ユキンコだって、これじゃ、故郷が恋しくなるだろう。

だが、暑いにも関わらず、ユキンコは、最高の笑顔を浮かべていた。

「あ。そうだ。待ってて。」
僕は、家に戻ると、カメラを取って来る。

僕はきみを氷漬けにはできないけど、この小さな箱できみの笑顔を永遠に残せる。

僕は、その笑顔を取っておこうと思った。

そうして、
「お待たせ。」
と、ユキンコのほうに向き直ったけれど。

そこには誰もいない。

ユキンコの麦わら帽子が落ちているだけ。

いなくなった?

僕は、慌てて、辺りを探す。ふざけて隠れているなら、出て来ておくれ。だけど、誰の返事もしない。

ユキンコがいた場所から、蒸気が立ち昇り、一瞬虹が見えたように思ったけれど。

それも、幻かもしれない。

やっぱり、暑いの駄目だったんだね。

でも、僕の中に最後に僕の心に刻まれた笑顔は、最高で。

最後に、きみが笑ってたらいい。

それだけで、いい。


2002年07月22日(月) 新婚らしく、妻は寂しがって甘えて来るので、僕も可愛くて、夜、めずらしく頑張ってみたりした。

ろくに手入れされなかった庭は、夏の間に雑草が伸びまくってひどい状態だった。それはまるで、僕らの結婚生活みたいだ。かつては、あんなに妻に愛されていた庭なのに、それは打ち捨てられた子犬のように悲しくこちらを見つめている。

僕は、溜め息をつきながら窓を閉める。

妻は、来週出て行く。

もう、さして話し合う事もないので、今ではほとんど会話もない。二階の妻の部屋からは、荷造りの音がゴトゴトと響いて来る。

--

誰が悪いって。多分、僕が悪いのだろう。妻以外の女に恋をしたのだから。大概の男は、浮気の一つや二つ、何とかなると思って始める。だが、恋のやり方は、男と女じゃ随分違う。僕が考えているより、いつも頭一つ女のほうが余計に考えているらしい。

ここまで来るのに一年掛かった。最初は、妻も別れたくないと泣いたし、僕だって、離婚せずに済むものならそうしたいと思っていた。妻の両親にも、泣かれた。だが、事態が進み始めたのは、離婚のゴタゴタのさなかに妻が仕事を始めた頃からだった。思いのほか仕事が楽しかったのか、僕と明け方まで話し合ってお互いヘトヘトになっている日でさえ、妻は仕事に行った。僕はそんな妻を見て、どこか面白くなかったのだろう。イライラした顔を見せていたと思う。妻は、そんな僕におかまいなしに、勤務時間を延ばし、食事も作らなくなった。

「どうせ、恋人のところで食べてくるんでしょう?」
妻はそう言って笑った。

僕は、何も言葉を返せなかった。

一方の恋人のリエは、僕と一緒に暮らせる事を夢見ている。

妻になにがしかの慰謝料を払ったらすっからかんになるため、妻が出て行った後の家に入ってもらうことになる。だが、せめて、カーテンやら食器やらは新しくしたいということで、休日のたびに、僕はリエの買い物に付き合ってやった。

--

「じゃ、お元気で。」
「ああ。きみもな。」

それが、我々の夫婦としての最後の会話だった。

久しぶりに見てみれば、庭も随分とすっきり手入れされていた。雑草はきれいに刈り取られて、そこはガランと何もない場所になっていた。あれだけ、花を愛し、庭を愛していた妻の気持ちを思うと、胸が痛む。

妻の軽自動車が音を立てて走り去ると、僕は、部屋に戻って、空っぽになった妻の部屋に寝転んで、天井を見つめる。

--

翌月、リエが越して来た。せめて、近所の目を考えて半年待ってくれと頼んだが、もう待てない、と言うのだ。「もう、さんざん待ったわ。」と言って泣くから、僕は、彼女を抱き締めて「じゃあ、おいで。」と言うしかなかった。

リエは、またたく間に、家の中を自分の趣味で飾り立てた。トイレに行けば、花柄のトイレットペーパーが待ち構えているような、そんな家に。

そうだ。前の妻の痕跡を消そうと必死になっているみたいだった。

最初の頃は、些細な喧嘩が絶えなかった。ちょっとした、やり方の問題で、いちいちリエは傷付く。僕が、前の妻との間で自然に役割分担していたのに忠実に、ゴミ収集日の前日にゴミを出す準備を始めると、そこで急に泣き出す。「そんな事、私がやるのに。」と言われて初めて、僕はリエがそんな事にさえ前の妻の影を見つけてしまうのかと驚く。

リエは、最初から二人でルールを決めて行きたがった。

僕は精一杯合わせた。

それでも、時折、いろんなことが気に障るようで、最初の年、僕らの生活の中で、リエはよく泣いた。

--

それから、春が来て。

もう、トイレットペーパーは、無地のシングルペーパーになった頃。

僕らは、ようやく、落ち着き始めていた。

そんなある日、僕が二週間程の出張に出ることになった。

それでも、まだ一年経っていない新婚らしく、妻は寂しがって甘えて来るので、僕も可愛くて、夜、めずらしく頑張ってみたりした。

朝、玄関で交わすキスも、昨夜の余韻が残っていたせいで、少し長いものだった。

「じゃ。行って来るよ。」
「うん。」

家を離れてホテルに泊まるのも、たまにはいいもので。僕は、仕事が終わると、同僚と深夜まで飲んで、ホテルのベッドに倒れ込む。そんな自堕落な夜を楽しんだりもした。

そんなある日。

リエからホテルに電話があった。

リエが電話の向こうで泣き叫んでいる。

「どうした?」
僕は、驚いて飛び起きる。

「ねえ。あなた、花が。」
「花?」
「お庭に。」
「落ちついて話しなさい。」

よく聞けば、僕の不在の間に、庭一面に黄色のチューリップが咲き始めたと言う。

なんだ、そんな事か、と僕は笑う。

黄色は、前の妻が好きだった色だ。

「だからよ。だから、我慢できないのよ。あの人、最初から分かってて、花を植えて出てったのよ。なんてことなの。あなたから、お金もらっただけじゃ足らなくて、私達の生活をめちゃくちゃにしようと企んでたのよ。」

まさか。大袈裟な。

笑い飛ばすには、電話の向こうの声はあまりにも真剣で。

僕は、電話のこちら側で、必死になだめるふりをする。

出て行った女が時間を掛けて残そうとしたメッセージも、目の前の女の狂わんばかりの嫉妬も。

僕にはどちらも可愛らしくて。

さて、帰ったらひと騒動だと思いながら、口先だけの言葉を吐き続ける。


2002年07月20日(土) そういうことだ。ドールは見かけでは判断できない。どんな悪魔にも、天使や羊の皮をかぶせられるのだ。

緊急の呼び出しがかかる。

雨は本降りではないが、遠方からの雷の音が時折混じる。

僕は、慌てて夜の街に向かう。

人の存在を脅かすドールを狩るのが、僕らの仕事。「ドール狩り」は、常に急を要する仕事だった。だが、今日は、一仕事終えて帰って来たばかりだった。そんなスタッフまで呼び出されるとは、相当に危険なドールが街を徘徊しているのだろう。

僕は、世間を騒がせている一連の連続殺人事件を思い出す。

そういった、危険なドールは、時折、コンピュータウィルスのように、一部の異常者によって、街に放たれる。相当の緊張の中に、妙な心地良さを感じながら、僕は体の中をアドレナリンが駆け巡るのを感じる。

--

リーダーによって配られた、その手配写真に写っていたのは、美しい女のドール。長いプラチナブロンドがいつも犯行現場に残されており、それが手がかりとなったらしい。

グリーンの瞳。

小さくすぼまった、濡れた唇。

写真のドールは、男の心をそそるような顔つきだったが、その目だけは笑っていなかった。表情さえ、作り物。

珍しい型のドールだ。滅多に見ない。この表情は、さぞかしマニア受けするだろう。このドールの作者の好みがはっきり現われている。

僕は想像する。

そのドールが、僕らドール狩りスタッフの手に追い詰められたところで、「お願い・・・。助けて・・・。」とか弱く懇願するところを。この手のドールには、危機を察知すると助けを求めるようにプログラムされている者も多い。それがあまりに上手く仕込まれていると、新人の中には、一瞬ドールを撃つ手が止まる者もいる。そうやって、逆に命を失う者も多いのだ。

そう。僕の親友も、こんな雨の日に。

そういうことだ。ドールは見かけでは判断できない。どんな悪魔にも、天使や羊の皮をかぶせられるのだ。

僕は、写真を見ることで、憎悪を募らせ、集中力を高めて行く。

警察犬が思考とは無関係に敵を追い詰めて行くように、僕は、ただ、写真を見て、僕の目下の敵を意識に刷り込む。

--

僕らは、ありとあらゆる場所を探し回った。

写真のドールによって殺害された人間の数は、92人。だが、実際のところはもっと多い筈だ。命を奪われたのは、全員女性。どんな意図があって、ドールの作り主は、この殺人鬼を作り出したのだろう。だが、作り主のプロファイリングは僕の仕事ではない。僕は、今、現に行われ続けている殺戮を止める事だ。

その時、小さな小さな悲鳴。

僕は、慌ててそちらに向かう。

路地の奥で、僕はそのドールを見つけた。

追い詰められているのは、小さな少女。そばに、ホームレスであろう女性の死体。

僕は、慌てて、ドールの足めがけて、銃を発射する。

ドールは、膝から下を粉々にされて、がっくりと崩れ、倒れる。

少女は、恐怖のあまり意味不明の言葉を発して、母親を指差している。多分、助けてくれとか、そんな事。僕は取り敢えず、仲間に連絡を取り、少女の保護と被害者の死体の回収を依頼する。

そうして、その天使の顔をした殺人鬼に向き直る。

ドールは、何の表情もない目で、僕を見ている。

まだ、危険だ。

ドールの作り主は、ドールが捕獲された場合に自分の素性がばれるのを怖れて、自爆するように作っている場合が多い。多分、このドールも・・・。

僕は、そっと近寄りながら、彼女に話し掛ける。

なぜだろう。ドールに話し掛けた事など、今まで一度もなかったのに。

僕は、興味を抑えられなかった。

それほどまでに魅惑的な顔の殺人兵器を作り出した、どこかの誰かへの興味。

「きみは、どうして人を殺す?」
「人間になりたいから。」
「人間に?」
「とうさまが、言ったから。」
「殺せと?」
「ええ。あと1人なの。あと1人で、100人なの。100人殺したら、私は人間になれる。」
「人間になれると、言われたのか?」
「ええ。とうさまは、人間の女が嫌いなの。だから、私に殺せって言った。私が、とうさまのお嫁さんになってあげると言ったら、人間になったら、お嫁さんにすると言った。おまえが100人殺したら人間になれる。そうしたら、私を愛してくれると言った。」
「きみは、99人を殺したのか。」
「ええ。あと1人。あなたでちょうど100人目よ。」
「きみのとうさんというヤツは、今、どこにいる?」
「いないわ。いなくなった。どこかに行ってしまった。私がいつまでも人間にならないから、行ってしまった。」
「きみは、頭のいいドールだ。とうさんがどこに行ったか、どこに行きそうか、何か思い出せないかな。」
「その前に、あなたを殺す。」

ドールの目が光ったその時、一瞬早く、僕はドールの頭を撃ち抜く。

「あと1人・・・。あなたで・・・。」

バラバラになったドールの残骸の中で、ドールの唇がゆっくりと動き続ける。

雨が降っていて良かった、とその時思った。知らぬ間に、頬を伝う涙。

その破片を拾い集める。

美しかった。生きてないものとは思えないほど、僕の心を揺さぶるドールだった。いつも、その無垢なる存在は、人間によって汚される。

僕は、そのプラチナブロンドの髪をひと房、ポケットに入れて。

ドールの目は、死など見ていなかった。

ただ、一つの生に憧れていただけだった。

一方の僕は、正義の名の元に殺戮を繰り返す者。

「お前のそんなとこが、いつか命取りになるぞ。」
同僚は忠告するけれど、僕は、いつも一仕事終えた後と同じく、胸の前で十字を切って、心の中で短い言葉を捧げる。せめてこうでもしていなくては、いつか僕の心が機械になってしまいそうだから。

それから、後ろを向くと、震える少女を抱き上げて、雨の中、仲間の到着を待つ。


2002年07月19日(金) 変わらない手順。なつかしい喘ぎ声。胸元のほくろも小さな耳たぶも同じ。だけど、彼女は少しだけ上の空。

携帯電話が鳴ったので、ディスプレイを見る。

なつかしい名前。

何ヶ月ぶりだろうか。ずっと前に別れた女の子。

「どうしたの?」
「ねえ。今夜、暇?」
「ああ。少し遅い時間なら、大丈夫だけど?」
「会いたいの。」
「いいよ。」

僕は、突然どうしたの、とも聞かず。彼女も何も言わない。

「どうして別れたの?すごくお似合いだったのに。」
と、時々、僕らのことを知っている人が訊ねるたびに。

「さあ。どうしてだろう。よくわからないけど、ふられたんだよね。」
僕は、曖昧に笑うのだった。

本当は、もうちょっと理由を知っている。僕と付き合ってると疲れるんだって。今まで付き合った女の子達はみんな口を揃えてそう言ったものだ。そうかな?そんなに疲れるかな?だって、いつだって女の子に合わせて来た。女の子がディズニーシーに行きたいと言えば連れて行ったし、まだ帰りたくないと車でゴネたら朝まで腕枕してあげたし。女の子が観たいといえば、アクション映画じゃなくて、恋愛映画選んだし。

そういうのが、良くないんだって。

何考えてるか、分からないんだって。

女の子は、いつの間にか、一人相撲を取っている気分になってしまうって。

彼女達の何人かは、浮気もした。

その事が僕にばれた時は、さすがに僕だって見過ごせなかったから。

「どうしてそんなことしたの?」
と訊いた。

すると女の子達は泣きながら、
「あなたが悪いのよ。」
って言う。

「浮気したのはきみなのに、どうして僕が悪いの?」
って訊ねたら、
「だって、あなたといると寂しいの。寂しくてどうしようもなくなるの。」
なんて言われて。

結局、僕のせいみたいだから、僕は彼女を責められなくて、そうして、結局は終わりを迎える。

その繰り返し。

--

ラウンジのスツールに腰掛けている彼女は、背中の開いた服を着ていて、とてもセクシーだ。艶やかな髪は、計算されたボリュームで、やわらかくうねって肩に落ちている。

「早いね。」
「うん。」
「いきなりだから、驚いたよ。」
「ごめんなさいね。なんだか、ね。急にどうしても会いたくなって。」
「いいんだ。嬉しいから。」
「ごめんね。私から別れるって言っておきながら、都合良過ぎるよね。」
「まさか。僕を思い出してくれるだけで嬉しいよ。」

彼女は、顔を伏せて。
「やっぱり、変わってない。そういうとこ。」
と言う。

「そういうとこって?」
「耳障りのいい事ばかり言うところ。」

僕は、少し傷付く。

僕も、彼女も、そこではあまり飲まなかった。ただ、彼女はとりとめのない話を。ぐるぐると。思い出す。彼女が、僕に言いたいことが言えない時、空いたグラスを両手の中でくるくると回す癖。

随分と迷った挙句、
「行きましょう。」
と、彼女は突然立ち上がった。

それから、僕らは、以前付き合っていた頃と同じように、ホテルの一室で抱き合った。

変わらない手順。なつかしい喘ぎ声。胸元のほくろも小さな耳たぶも同じ。だけど、彼女は少しだけ上の空。

「ねえ。私、結婚するの。」
「うん。」
「知ってたの?」
「いや。今、初めて聞いたよ。」
「全然驚かないのね。」
「何となく、分かってたんだと思う。」
「そっか・・・。」
「寂しくなるよ。」
「嘘ばっかり。もっと驚いてくれるかと思った。ショックで取り乱してくれたらいいのに、とか、ちょっと思ってたの。だけど、あなたは、やっぱりそういう人なのよね。」
「・・・。」
「ねえ。今、恋人いるの?」
「いるよ。」
「だけど、私が呼んだらこうやって来てくれるんだ?」
「そうだね。」
「彼女に悪いと思わないの?」
「どうかな。少し悪いかもしれない。」
「彼女に言う?今夜の事。」
「訊かれた言うかもしれない。でも、多分、言わない。」

僕は、彼女のほっそりした体を、指でなぞる。

「ねえ。私が結婚するって聞いて、勿体無いと思った?」
「そりゃ、そうだ。男は、誰だって昔の恋人が結婚するとなったら、穏やかじゃないと思うよ。」
「だけど、さらってはくれないのね。」
「さらって欲しいの?」
「ちょっとだけ。」
「正直だなあ。」
「ええ。多分、今は幸福だから正直になれるのよ。見栄を張る必要もないし。あなたと付き合ってる時、私、みっともなかった。精一杯背伸びして、見栄張って。そうじゃないと、自分がみじめでみじめでしょうがなかったの。」
「そうだったんだ?」

僕は、今日彼女が僕を呼び出した理由を知っている。

女の子は、結婚を目前に控えて、ちょっとだけ不安なのだ。

多分、彼女の恋人は彼女の事を一途に愛する男なのだろう。だからこそ、少しだけよそ見をしたくなるようだ。

「ねえ。本当に本当に大好きだったのよ。」
「知ってたよ。」
「ひどいわね。」
「でも、今は幸福なんだろう?」
「うん。多分。」

僕は知っている。この感じ。

「そろそろ、帰るわ。」
彼女が時計を気にして、下着を着け始める。多分、恋人が夜電話をしてくるのだろう。

「ああ。」
僕も慌てて、服を着る。

--

「じゃあ、ね。」
「うん。元気で。」

僕は、最後に口づけを。それは、彼女が幸福になるための一歩を後押しする口づけ。

一瞬、激しい後悔が、押し寄せる。

今、きみをさらったなら、きみは僕の元へ来てくれるとでも?

もちろん、その台詞は、今言うには遅過ぎる。そんな言葉を口にする妄想を飲み込んで、僕は、きみがタクシーに乗り込むのを見届ける。


2002年07月18日(木) こういうこと初めてなの、ずっと好きだったの、と震える体を僕はそっと抱き締めた。僕らは、そこで幸福だった。

その最中、僕ら四人はカラオケをしていた。

そこに集まっていたのは、同じ会社の同僚達。美しい男と、美しい女。そして、平凡な女と、平凡な男であるところの僕。

美しい男であるサトルは、なぜか入社した頃から僕に興味を持ち、いろいろと話し掛けてくるようになった。そうして、美しい女であるところのアサコと、平凡な女であるところのヒロミを連れて僕のところに遊びに来たというわけ。

ここは、シェルター。二ヶ月前に亡くなった親父は、借金と一緒に道楽で作ったシェルターを残してくれた。三年は充分に暮らせるだけの食料や燃料。それから、カラオケルーム。

その事をふと、サトルに漏らしたところ、サトルは大いに興味を持ったのだ。

二人の女は、当然、サトルの美貌に釘付けだろう。僕は、サトルのおこぼれに預かれたら光栄というわけだ。

はしゃぐ三人を見ながら、僕はボンヤリと水割りを。そう、昼間から水割りを。

その時だ。激しい振動と、地響き。

「何?ねえ。何なのよ。」
アサコが悲鳴を上げる。

「外、見てくるよ。」
サトルが立ち上がる。

「まあ、待てって。」
僕も急いでグラスを置くと、奥のコントロールルームに行く。

そうして、万事休すという顔で、皆のところに戻る。
「外には出るな。空気汚染が激しい。」

「何が起こったの?」
ヒロミが泣きそうな声で聞く。

僕は首を振る。
「分からない。」

サトルはイライラと歩き回る。

「まあ、落ち着けよ。」
「これが落ち着いていられるかよ。」
「とにかく、ここで一年ぐらいは何とか暮らせるからさあ。」
「じゃ、その後は?助かるかどうか分からないのに、ここでわずかな希望を持って生きていけと?」
「じゃあ、ここを出て行けばいい。」

アサコが慌てて取り成す。
「ね。ここはイチロウさんの言うことを信じたほうがいいんじゃない?」

サトルは、不機嫌な顔で、座り込む。

「こういう時は、精神的な消耗が一番怖いんだ。だから、無駄な争いは避けたい。一つ言っておけば、このシェルターの細部まで知っているのは僕だ。僕に何かあったら、きみ達は非常に困る事になると思う。」
「おいおい、脅しかよ。」

普段は気のいいサトルだが、こういう局面では自己本意な行動が目立つのは困ったものだ。

「私、イチロウさんがリーダーでいいと思うわ。」
アサコがすかさず言う。さすが。どちらに付いたほうが自分に有利か見抜く事ができるのは、こういった女の得意技だ。

「ヒロミさんは?」
僕は問う。

「それでいいと思う。」
静かな返事。

サトルは、部屋を出て行った。隣のベッドルームに行ったのだろう。

--

外の情報が何も分からないままに、一夜が過ぎ、その次も。また、その次も。

次第に苛立ちが募って来る。

娯楽といっても、テレビもラジオも、ましてやインターネットもない。

親父が残したのは、囲碁の本やら、釣りの本ばかりだった。

「俺、出るよ。ここ。どうせ、ここで死ぬか、外出て死ぬかの違いだろ。だったら、外に出る。」
サトルが言い出した時は、皆がホッとした顔をした。

サトルの子供っぽい言動は、我慢の限界を超えていたし、サトルが出て安全なら、その事を我々に伝えに戻ってくれるだろうし。

サトルは、そうして、出て行った。

「ね。帰って来るかしら?」
「さあね。」
我々は、サトルが戻って来る事を待ち続けた。だが、結局一週間しても二週間しても、サトルは戻って来なかった。

「あいつ、裏切ったのね。」
アサコが叫ぶ。

「分からないだろう。出た途端死んじゃったかも。外の汚染は、まだ相当激しいみたいだから。」
そんな事を言ってなだめる僕のそばで、ヒロミは黙って、紙に日付を刻み、日々の記録を書き付けている。

サトルが出て行った今、今度はアサコの苛立ちが気になり始めた。僕が無関心を装う。美しい女のプライドを傷付けるのは簡単だ。その美しさを無視すればいい。

「ねえ。イチロウさん。今夜お話したい事があるの。」
アサコは、ついに痺れを切らして色仕掛けで迫って来た。

僕は、耐えた。もちろん、僕は普通の男だ。こんな狭いところで女性二人と暮らしていたら、何も感じないほうがおかしい。だが、僕はいろんな事が怖かったのだ。バランスが崩れること。ヒロミの眼鏡の奥の静かな眼差し。ここを出た後の、僕の運命。

結局、今度はアサコが出て行くと言い出した。

「仕方ないね。」
僕は、相変わらず興味の薄い声で、返事をした。

そうして、アサコは出て行った。

--

「二人きりになってしまった。」
僕は、ヒロミに向かって言った。

「ええ。」
「きみも出て行きたいかい?」
「いいえ。あの二人ほど、人生に対して希望を持ってるわけじゃないから。むしろ、ここのほうが居心地いいぐらいよ。」

僕は、ヒロミの言葉にハッとする。

そうだ。僕が平静でいられるのは、ここの居心地の良さのせいかもしれない。少なくとも、ここにいれば、僕は平凡な男である事を恥じることなく生きていられる。むしろ、他の人間をコントロールできる立場にあるのだ。

ヒロミは、僕を見る。

僕もヒロミを見る。

「ねえ。抱いて。」
ヒロミが、初めて、その瞳に隠した感情をあらわにした。僕は、うなずいて。

その、母親の体内のように狭い空間で、僕らは初めて交わった。

「私で、いい?」
ヒロミは、恥かしそうに言った。

「きみがいい。とても綺麗だ。」
他に比べる対象がいないその場所で、僕らは、お互いを最高に美しいと認め合って。

こういうこと初めてなの、ずっと好きだったの、と震える体を僕はそっと抱き締めた。

僕らは、そこで幸福だった。このまま、二人で手に手を取って、あと何ヶ月したら訪れるかもしれない死を待つ事が、僕には少しも怖くなかったのだ。

だが、そんな日は、あっさりと終わりを告げた。

シェルターは外からこじ開けられ、誰かが世界が核に汚染されていない事を告げるために僕らのシェルターに侵入して来たのだ。そうだ。まったくもって、それは侵入だった。

僕らは、事情を聞き、世界が無事である事を。地震のせいで、空気汚染を測るメーターが壊れてしまった事を、知った。

「助かったのね。」
ヒロミが喜びのあまり涙ぐんでいる。

なあ。ヒロミ。いいのか?僕ら、こここそが幸せになれる場所じゃなかったのか?

僕は、なぜかむしょうに腹が立ち、それから、そこを出る事への恐怖が襲って来た。

「駄目だ。出たくない。」
「何言ってるのよ。イチロウさん。」
「ここを出てしまったら、僕は平凡な男だ。きみもきっと去ってしまう。だから、僕はここに残る。」
「そんなの、嫌よ。お願い。一緒に行きましょう。」

全く情けない事だが、僕は足がすくんで動けなかった。駄目だ。絶対に。核爆発も起こってなかったのに、シェルターで震えていた人間を、きっと他人は笑うだろう。

「そんなに平凡が怖い?」
ヒロミが問う。

「ね。私の目を見て。私の目、誰が映ってる?ねえ。私の目は、世界中を映す事はできないの。今、目の前にいる人しか。そうじゃない?」
「・・・。」
「それに、あなただってそうよ。ここを出たら、幾らでも美しい人に会えるもの。私を捨てないと言える保証がどこにあるかしら?」

そうだ。僕は、心のシェルターにこもって。そうして、怖がっていて。

僕は、ヒロミの手を取る。

--

それから数年後。

僕とヒロミは結婚して、可愛い赤ちゃんを。

結局、つまらない心配は必要なかった。僕は、ヒロミを。ヒロミは、僕を。それは、どこに行っても変わらない真実だったのだ。

時折、僕は夢を。

ヒロミが、僕を置いてシェルターから出て行く夢を。

僕は、悲鳴を上げて。

そうして、飛び起きて、そこにいるヒロミを見て、抱き締める。

「ねえ。私達、誰もがシェルターの中で、外の様子も分からずに震えているのは同じだと思うの。」
彼女は、そうささやく。

僕は彼女の強さを愛する。

「大きくなったら、息子とシェルターを作ろうと思うんだ。」
僕は、冗談混じりに言う。

「素敵じゃない。できれば、今度は、カラオケなんか要らないから、インターネットに接続できるようにしてね。」
彼女は笑う。

息子は、きょとんとして。そして、僕らを交互に見ながら一緒になって嬉しそうに笑う。


2002年07月17日(水) いろんな噂聞くから、てっきり私への気持ちも遊びだと思ってたのに、こんなところまで追い掛けてくるなんて、何考えてるんだか。

「あーあ。今日、家に帰りたくないなあ。」
「どうしたのよ?」
「うん。なんだかさ。昨日もちょっとやっちゃって。」
「え?喧嘩?」
「そうそう。新しい母親と。」
「そうなんだー。あっちも、さ。財産目当てか何か分からないけど、もうちょっとあたしらに気を使えってのよねえ。」
「いやまあ。ね。そんなにひどいわけじゃないけどね。つまんない事よ。化粧が濃いってさ。マスカラ、ちょっと付け過ぎじゃないの?って、さ。」
「ふうん。」
「あなたは若いんだから素肌が一番魅力的よ。とかさぁ。ほんとにうるさいんだから。」
「あ。でも、それ当たってんじゃない?所詮はあたしらの若さに太刀打ちできないってことでしょう。」
「ま、言えてるけどね。」
私は、かぐや姫と顔を見合わせて笑う。

授業のチャイムが鳴る。

「じゃ、今日一緒に帰ろうね。」
と、かぐや姫は、隣の教室へと消える。

私は白雪姫。目下の憂鬱は、新しいママ。そりゃ、確かに美人だしさ。性格もまあまあだけど。にしてもさあ。パパは何が良くてあんな女を選んだの?死んだママの事、忘れちゃったの?あの女の事、どうしても「お母さん。」って呼べなくて。私は、城に帰って、あの女の顔を見る事を考えただけで憂鬱になってしまう。

--

「ただいまー。」

「おかえりなさい。」
継母は、今日も、馬鹿みたいにニコニコして、私を出迎える。

そういうのも、なんだかイラつく。だって、さ。一応、一国の王妃ともあろうものが、娘の帰宅のお出迎えってのも、どうかと思うよね。

私は、継母を無視して、自分の部屋へまっすぐに行く。

ちぇ。どうせ、あの人だって私の事嫌ってるくせに。なんで、そんな風に笑顔が作れるのかな。それに、さ。あの肌。びっくりするぐらいスベスベで。歳幾つだよって感じ。

私は鏡を取り上げて、出来かけのニキビをつつきながら、つぶやく。
「ねえ。鏡さん。私のほうがぜーったい綺麗だよね。」

--

夕食の時間。

パパも一緒の席で、継母が急に口を開く。
「ねえ。白雪ちゃん。この前の電話の事だけどね。」
「・・・。」
「なんていうか。私としては、ちょっと感じ悪いかなって思ったのよ。だって、お名前聞いても、答えないんですもの。」
「・・・。」
「あのね。誤解しないで欲しいの。電話がいけないって言ってるんじゃないのよ。」
「だったら、携帯買ってよ。友達、みんな持ってるんだからさあ。自分だけ、恥かしいよ。最近じゃ、よその星だって繋がるヤツが出てるのに。」
「そういう事じゃないでしょう?」

継母の声が少し震えている。

パパは、黙って。心配そうに私と継母を交互に眺めている。まったく、パパもこの女には骨抜きなんだから。間違っても、娘の私の肩なんか持ちゃしない。

「とにかく。今度の誕生日、携帯買ってよね。パパ。」
私は、ナプキンをテーブルに叩きつけると、席を立って、部屋を出て行った。

やっぱり。

誰も追い掛けて来ない。

なんだかくやしくて、涙が出る。どこまで人を馬鹿にしたらいいんだろう。父親なら、たまには娘の味方をしてくれたっていいものを。あの女が来てからというもの、パパもすっかり変わってしまった。

私は夜、城をこっそり抜け出す。もう、何年もここで暮らして来たのだもの。家臣に見つからずに抜け出すのなんて、簡単だ。

もう帰るつもりはなかった。

私は、森に入る。森を抜ければ、隣の国だから。

--

すっかり疲れてしまった。夕飯をろくに食べてないので、お腹もペコペコ。私は森の中でうずくまり、そのまま、動けなくなってしまった。

--

「ハイホーハイホー」
声がする。

私が目を開けると、そこに可愛らしい木こりがいる。

「綺麗なお姫さま、スープをどうぞ。」
私は森の小人達に助けられて、この小屋に来たらしい。

私は恥かしいぐらいにガツガツとスープやパンを口に詰め込んだ。

それから、また眠った。

小人達の会話が聞こえる。
「尊氏さまが・・・」とか、「お姫さまなら我々の活動の宣伝灯に・・・」とか。

次の日、私は、小屋の掃除を命ぜられた。そんな事はしたくないと反抗したのだが、一番年取った小人が、「ここではみな等しく働き、みな等しく与えられるのです。」なんて言うから、しぶしぶ従った。

堅いベッドにも慣れない。

だけど、森を抜けようとするのは死を意味する、と小人が脅すから、私はそこから動けない。

--

ある日、小人がみな出払っている時に、黒づくめの衣装を着た老婆が林檎を売りに来た。

「まあ、おいしそう。」
「白雪姫さん、林檎、好きでしょう?」
「あら。どうして知ってるの?」
私は、林檎を買って。

小人がいないうちに急いで頬張る。ここではみな、等しく分かち合うのがルールだから、自分だけ食べたとなったら何を言われるか分からない。

あんまり急いで食べたので、私は林檎を喉に詰まらせて、息ができなくなて・・・。

倒れたところまでは覚えている。

--

誰かが私を揺すっている。

そうして、喉から何かがポロリと取れる感触がして、私は目を開く。

「良かった。気付いたんだね。」
「やだ。あんたは。」
「ああ。きみのママに聞いて、ここを知ったんだよ。」
「なんでママがここを知ってるのよ?」

この前から、しきりに城に電話して来ていた王子だ。夕飯の時、継母との揉め事の原因になったのも彼からの電話だ。ちょっと遊んで風でさ。いろんな噂聞くから、てっきり私への気持ちも遊びだと思ってたのに、こんなところまで追い掛けてくるなんて、何考えてるんだか。

背後で継母の声が聞こえる。
「ごめんなさいね。後をつけさせてもらったの。で、白雪ちゃんが好きな林檎を差し入れたくて。なのに、こんなことになるなんて。」

少女みたいにめそめそと泣くから、私は、まいったなあ、と思う。

「ねえ。こういう時、王子は姫にキスするものじゃなくって?」
私は、王子に向かって言う。

王子は驚いて、それから頬を染めて、私を抱き抱える。

私は、王子の首に手を回し、自分から接吻に行く。

「まあ。最近の若い人達は。」
継母が驚いたように叫ぶから。

「はは。いいじゃないか。若い者は若い者で。」
パパがなだめている。

「パパ、ママ、私、彼とデートしてから城に帰るわね。」
そう言って、王子の馬に乗って。

「あなた・・・。白雪ちゃんが、ママって言ってくれたわ・・・。」
なんて、継母が声を詰まらせる。

おやまあ。また、泣いてるよ。

本当に、パパはあの人のどこが気に入ったんだか。

「ねえ。あなた。いいわね。若いって。」
「そうだな。うちの娘は最高に可愛いしな。」
「あら。ちょっと妬けるわね。」
「はは。馬鹿だな。娘は娘、きみはきみさ。」
「ねえ、あなた。世界で一番美しいのは、誰?」
「それは、お前に決まってるだろう?」

「ね。行こうよ。いちゃついてるおじさんとおばさんは放っておいてさ。」
私はあきれ顔で王子に言う。


2002年07月16日(火) 「私ね。愛される事だけじゃなくて、愛する勇気も知ってるから、自由なのよ。」と、僕に微笑んでみせるから、僕はちょっと安心して。

チクタク、チクタク。

振り子時計が時を刻む音が鳴り響く部屋で。

気が付くと、僕は、汗だくになってウサギの着ぐるみをゴソゴソと脱いでいる。

チクタク、チクタク。

目の前に年老いたウサギが一匹いる。老眼鏡を掛けていて、何やらひっきりなしに書いたり、スタンプを押したりしている。そうして、できた手紙の束をとんとんとそろえて、輪ゴムで留めると、
「はい。次。」
と言って、僕のほうに放り投げる。

「すいません。ちょっと休ませてください。」
僕は、荒い息のままで答える。

「駄目だ。」
老ウサギは、こちらをジロリと睨む。

「時間がない。」
そう言われて、僕はシブシブ立ち上がり、手紙の束を拾うと、肩から掛けたカバンに入れて部屋を出る。

「おい。そのままの格好はまずいぞ。」

そう言われて、僕は、慌てて、ウサギの着ぐるみを着て、それから再び部屋を出る。

--

暑い。

倒れそうだ。

それなのに、僕は何でこんなところでウサギの着ぐるみを着て、歩いてるんだ。

僕は、一通手紙を取り出す。

おじいちゃんから孫に当てたらしき手紙。

僕は、孫ウサギのところへ急ぐ。思い出したのだ。孫ウサギが入院していること。孫ウサギは、喘息で入院していて、今日の野球の試合にも出られないのだった。もっとも、試合といっても、レギュラーにはなれない。いつも、肝心なところで発作を起こしてしまうから。たとえば、ここでどうしても打たないと、という場面で打席に立つと、コンコンと咳が出て。そうして止まらなくなってしまう。

だから、それなりには足も早い孫ウサギなのに、いつまで経ってもベンチで仲間を応援するばかり。

そして、とうとう、今日が試合という時に大きな発作を起こしてしまい、昨晩から入院しているのだ。

僕が病室に入って行くと、孫ウサギが顔を上げる。手には、点滴の管が繋がっている。

「やあ。」
僕は、手を上げて、ニッコリとしてみせる。ま、このウサギの着ぐるみは、いつだって激しくニッコリしているので、僕が着ぐるみの下でどんな表情をしていても、いつだって結果的に笑っているわけだけど。

孫ウサギは、不審そうに僕を見ている。

「僕は、郵便屋だ。」

孫ウサギはうなずく。

「おじいさんウサギからの手紙を運んで来たよ。」

孫ウサギは僕から手紙を受け取る。それから、不器用に封を切る。

孫ウサギは、それをじっと読んでいた。随分と長い時間掛けて、じっと。

僕は、その手紙に何と書いてあるか気になってしょうがない。

孫ウサギは、何度も何度も読み返した後、顔を上げて、
「ありがとう。」
と、小さな声でつぶやいた。

「どういたしまして。」
僕は、そう言うと、立ち上がる。

「おじいちゃんには、明日返事書くって言っておいて。」
「ああ。分かった。」
「おじいちゃんは、足が悪いんだ。だから・・・。」
「うん。伝えておくよ。きみが心配してたって。」
「ありがとう。」
「お母さんは?」
「ママは、また夕方来るって。僕が一晩中咳込んでたから、すっかり疲れちゃったみたい。家に帰って少し休んで来る筈だよ。」
「そうか。」
「うち、パパがいないから。」
「うん。」
「ママ、仕事もしてるし。」
「そりゃ、大変だ。」

ベッドに広がる折り紙。12色のサインペン。スケッチブック。

「絵は好き?」
「うん。」

僕は、病室を出る。何となく、胸がつまる気がして、僕は小さく息を吐く。お互いを思いやる気持ちが、おじいさんと孫と母親の間をゆっくりと流れているのを感じたから。

--

次の手紙は、少し寂しい顔をしたウサギの元へ。美しい赤い目が素敵だ。僕から手紙を受け取ると、
「待ってたの。」
と、微笑む。

封を切ると、そこには異国の美しい「しおり」が一枚。手紙も何も入っていない。

「ね。素敵でしょう?」
僕に見せて、本当に嬉しそうに笑うから。

「素敵ですね。」
と、答えずにはいられない。

「毎年ね。こうやって送ってくれるの。ね。ちょっと見てくれる?」
そう言って、取り出したアルバムには、異国の絵ハガキや、あれこれが。

最初のうちこそ、頻繁に送られて来たようだが、最近では一年に一度ほど。それがもう、六年分も。

「何度も何度も見るのよ。」
「手紙はないんですね。」
「ええ。あの人、手紙は苦手みたいね。」
「ちょっと寂しいな。」
「何も書かれてないから、いいのよ。でもいいの。あの人が私のためにこれを選んで、封筒に入れるところを想像してみるだけで、幸福なの。後の364日のあの人の事を想像する楽しみも。」
「寂しくないんですか?」
「そうねえ。寂しいけれど、私には待つ喜びがあるわ。」

それから、美しいウサギは、宝石箱から出したぶ厚い手紙の束を。

「これを。運んでちょうだい。」
その手紙の束は、受け取った者の心を少し重くするだろう。

「いつも、ごめんなさいね。」
「いいんです。」

美しいウサギは、玄関まで僕を見送ってくれる。

いや。見送っているのは、僕ではなくて、手紙の束達。

私の代わりに、あの人の元へ届いてちょうだいという願い。

ずっと待つ勇気は、どこから?と、訊ね掛けて。言えない言葉を飲み込む。

「私ね。愛される事だけじゃなくて、愛する勇気も知ってるから、自由なのよ。」
と、僕に微笑んでみせるから、僕はちょっと安心して。

愛する勇気って、何だろう。

そんな事を思いながら次の配達先に。

--

「ご苦労。」
部屋に戻ると、老ウサギが老眼鏡越しに僕を見る。

僕は、空のカバンを下すと、腰掛ける。

「何やら、いい顔をしておるな。」
僕はまだ、ウサギの着ぐるみを着たままなのに。老ウサギは、そんな僕を見て、ニヤリと笑う。

「ええ。まあ。」

老ウサギはすぐまた、視線を机に戻すと、せっせと何やらサインしたり、スタンプを押したり。

「休む暇はないぞ。あいつらは、組織的に動いておる。こっちは、手作業だ。だが、この際、勝ち目について考えてはいけない。考える暇があったら、働け。」

僕はうなずく。

--

「ねえ。すごい汗よ。」
僕は、その声で目を覚ます。

「エアコン、買いなさいよ。この部屋、ひどいわ。」
タンクトップすがたの彼女が、むくれた顔で言う。

「よくこんな部屋で寝るわね。」
と、窓を開けながら、彼女は言う。

僕はボンヤリとした顔で。

「いつも、ありがとう。」
なんて間抜けな声で言う僕に、

「何言ってるのよ。」
と、笑う彼女。

「ねえ。誰かが誰かを想う気持ちは、いつも、地球の上をぐるぐる回ってるんだ。」

僕は、僕で、目の前の幸福が嬉しくて、彼女の手を引き寄せると、その柔らかな体を抱き締める。

「ほんと、おかしいわよ。あなた。」
「おかしいかな。」

目を閉じる。

老ウサギがトントンと、スタンプを押す音。急がないと、あいつらがやって来て、僕らの言えない言葉を食べてしまうから。だから・・・。

僕は彼女に口づける。


2002年07月13日(土) むしろ、ささやくような声に変わって。いい雰囲気だ。ねえ。このまま。と、僕は、ユキのスカートに手を入れて・・・。

僕とユキは、付き合って一年半だ。

半年目から同棲を始めて、今のところうまくいっていると思う。そんなに大きな喧嘩も、まだ、ないし。僕は、割と料理が好きだから、食事は僕の担当で。そんなところも、うまくいっている要因かもしれない。

そんな時、彼女から急に持ち出された話。

彼女の友達が住んでいる場所を追い出されたので、一ヶ月ほど居候させてあげたい、とのこと。

「なんだって?」
「だからさあ。お願いよ。」
「そうは言っても。なあ。うち、狭いだろ。」
「そうなんだけど。ね。お願い。」

ユキは、真剣な顔で僕にせがむ。

僕は困惑するけれど。

そういうところも彼女の良い所なんだけどね。誰のことだって絶対にないがしろにしたりしない。どんな小さな子供としゃべる時でも、きちんと目を合わせて、本当に大切な人と話をしているような表情で会話する。そういう人だから、みんな彼女を好きになるのだ。

「ま、いいけどさあ・・・。その友達っていう人に寝てもらう部屋、一つ空けないとね。」
「それは私がやるから。」
「じゃ、いいよ。」

僕は、半分あきらめた口調で言う。

「ありがとう。」
ユキは心の底から嬉しそうな顔をする。

この笑顔が見たくて、僕を含め、彼女の周囲にいる人間は彼女に手を貸したくなるのだ。もちろん、彼女から得るものはもっと大きいけれどね。

--

明日、到着するという。

僕は、不安な気持ち。小さな黒雲が、僕の心に宿る。

三という数字が良くないんだよね。きっと。三人てのが、良くない。

考えてもみてよ。一人は、あとの二人の心配をしないといけなくなる。

たとえば、僕は、女二人の画策を不安に思うかもしれない。ユキは、僕と友人の女性の浮気を心配しなくてはいけなくなるかもしれない。その友人の女性は、はなから僕らカップルの事を考えてくれているかどうか分からないけれどもね。

そんな僕の不安を見抜いたように、ユキは微笑む。
「ね。信じてるわ。」

僕は曖昧に笑い返す。

信じてるわ。

か・・・。

--

友人のチエという女の子は、やたらに大きな荷物と一緒に到着した。

「お世話になります。ごめんね。」
僕と彼女に頭を下げた彼女は、照れ笑いのような顔を浮かべていた。

「待ってたのよ。すごい荷物ね。」
彼女は微笑んで、チエのために用意した部屋へ招く。

「うわ。素敵な部屋。いいの?」
「ええ。いいのよ。その代わり、一ヶ月したら出てってもらうからね。」
「うん。それまでに部屋探すからさ。」

そうして、僕達三人の落ち着きのない共同生活が始まった。

--

チエという女の子は。なんていうかな。だらしない子だった。冷蔵庫から出したものは出しっ放しでキッチンのテーブルに置かれたままになってるし。時々、バスルームに下着を置きっ放しにしてるから、そのたびに僕はユキに頼んで片付けてもらわなければならなかった。

僕は、次第にストレスを溜めるようになっていたが、そんな僕を見て、ユキは
「子供がいると思えばいいのよ。大きな子供がね。」
と、笑っていた。

「そりゃ無理な相談だよ。」
僕は、くさくさして答える。

「悪いと思ってるわ。」
「いいけどさ。」
僕は、キッチンで洗い物をしているユキを背後から抱き締める。それから、そっとユキの太腿に手を滑らせて、ゆっくりと撫でる。

「やだ。チエが帰って来たらどうするのよ。」
「大丈夫だよ。」
「駄目ったら。」
「もう、随分こういう事してないだろう?」
「しょうがないじゃない。一ヶ月だけの辛抱よ。お願い。」

彼女の声は、それでも、そんなに不愉快そうじゃなくて、むしろ、ささやくような声に変わって。いい雰囲気だ。ねえ。このまま。と、僕は、ユキのスカートに手を入れて・・・。

その時、玄関のほうで派手な音がするから、僕らは慌てて飛び出した。

そこにはチエが、いて。
「あはは。転んじゃった。」
って、笑ってたから。

僕は、せっかくのムードをぶち壊しにされて、気分を害してしまったのだけれども。チエの目が赤くなって、泣いている風に見えたから、とがめることもできないで。僕の欲情は、行き場を失って宙に浮く。

チエは、慌てて自分の部屋に飛び込む。

僕らは苦笑して顔を合わせる。そうだ。大きな子供、だよね。

--

ユキは、その日遅くなると言った。職場の飲み会があるのだ。

僕は、一人、キッチンでワインを飲みながら軽く食べられるものを作る。キュウリとチーズを重ねてスティックに刺したりとか、そんな簡単なものばかりだけど。

その時、チエが相当に泥酔して帰って来た。

「お水、もらうね。」
と、言うので。

僕は、グラスに注いだ水を渡す。

「ありがとう。」
チエはゴクゴクと音を立てて。僕は、チエの唇からこぼれた水滴が、彼女の喉を伝わって落ちるのになぜか見惚れていた。

チエはキッチンの椅子に座って、僕が酒のつまみを作るところをボンヤリ見てる。

「ね。上手ね。」
「そうじゃない。丁寧なだけだよ。やってることは簡単なことだもの。」
「私には無理だな。見ての通り、大雑把な人間だしね。」
「やってみようとしないだけだろ?」
「そうかも。」
「それより、さ。最近、ちょっと飲み過ぎじゃないかな。」
「そう?」
「いや。あまりきみの事に口挟むの良くないとは思うんだけどね。」
「気になるよね。飲んだくれが家にいたら。」
「心配してるんだよ。」
「心配?」
「そりゃ、そうだろ。一緒にいる時間が長ければ、お互い、いろいろ気になるもんだし。」
僕は、食べ物の乗った皿をテーブルに運ぶと、座って。ワインを注ぎ足す。

「心配・・・、かあ。」
その言葉を確かめるように、彼女は繰り返して。

それから、ふいに泣き出すから。

僕はとまどって、目をそらす。

「誰も心配してくれてないと思ってた。世界でたった一人ぼっちだと思ってたの。」
「なんでそんな風に?ユキだって・・・。」
「そうだけど。だけど、あなたにはユキがいて、ユキにはあなたがいるじゃない?私は一人なんだもの。たった一人。あなた達のそばにいて、余計一人なんだもの。」

彼女の泣き方は、本当に大きな子供のようで。涙をポロポロこぼして、しゃくりあげて泣くから。

僕はつい手を伸ばさずにいられない。

「泣くなよ。泣かれると困るんだよね。」
僕は、チエを胸に抱いて。

チエは、僕の胸に顔をうずめたまま、ワーワーと大声で泣いて。

すごく長い時間そうしていた。随分と落ち着いたのか、チエは、顔を上げると、僕に照れ笑いを見せて。僕は彼女の唇に軽いキスを。しょっぱい涙の味がした。それは、なんて説明すればいいのかな。泣いた子供の口に、飴玉を入れてあげる母親の気持ちに似ているのかもしれない。

その時。

キッチンのドアがカタリと音を立てた。

僕らは顔を上げて、そちらを見た。

ユキが立っていた。

「ひどい・・・。」
その顔は青ざめていて。

違うんだ。

そう答えようとした時には、もう、ユキは背を向けて、走り去るところだった。

--

「もう、行くの?」
「ええ。三時に運送屋が来るのよ。」
「寂しくなる。」
「私も。」
「でも、どうにもならないんだろう?」
「ええ。どうにもならないの。ごめんなさいね。一旦失ったものは、私にはどうしようもなかったの。でも、あなたを責めてるんじゃないわ。」

ユキは、立ち上がる。

僕は、もう、それ以上言う言葉もなくて。

「じゃあな。きみなら、大丈夫だ。」
「あなたも。」

そう。僕らは、大人だもの。

だけど。

ああ。何が悪かったのだろう。

そうだ。

辿ってみれば、「信じてるの。」ときみが言った時。

僕は、信じるなよ、と言ってみれば良かった。

だって、愛は、信じるものじゃなくて、そこに湖のようにあって。

ほんの小さな小石を投げ込んだだけでも、波紋が広がるほどに揺らめき易いのだから。

僕らは愛を試しちゃいけなかった。


2002年07月12日(金) あなたと別れるのは悲しいけど。でも、多分、もう駄目。私は、行ったら行ったきりで、戻る道を忘れちゃうのよ。

サエコは夢見るような顔つきで。

向かい合ってランチを食べている友人がからかう。
「誰よ。教えなさいよ。」

サエコは、ふふ、と笑って。
「だめよ。」

「あ。もしかして、妻子持ち?」
「まあ、ね。」
「やめときなさいよ。面倒なことになるわよ。」
「駄目よ。もう、始まっちゃったんだもの。」

そう。今更、どうやったらやめられるというんだろう。時速300kmで走っている新幹線から飛び降りるようなものじゃない。そんなことしたら、あたし死んじゃうわ。

だからって?いいの?

うーん。分からない。

サエコは、鏡に向かって口紅を引き直す。

--

「ただいま。」
「おかえり。早いのね。」
生まれて間がない息子を抱いて、妻が玄関まで出迎える。

「ああ。会議がなかったんでね。」
「そう。お夕飯、すぐに食べるでしょう?」
「そうだな。」
「カイくん、パパにおかえりーって。」

良かった。妻は気付いてない。僕は、その事実に安堵して、上着を脱ぐ。

暖かい家庭。

そうして、僕は、胸がチクリと痛むのだけれど。箸を動かしながらも、サエコの何気ない言葉を頭の中で反芻していたりする。

「・・・ね?」
「ん?」
まずい。妻が何か言っていたのだが、上の空だった。

「やあね。夏季休暇の事よ。そろそろ予約取らなくちゃね。って言ったの。」
「ああ。そうか。そうだなあ。」
「カイも、初めてのお出かけになるでしょう?だから、赤ちゃんでも泊まれるところを予約したほうがいいと思うの。」
「そうか。」
「ね。予定通り休めるんでしょう?」
「うん・・・。多分。ああ。でも、無理かな。」
「なんだ。そうなの?」
「いや。まだ、分からないって。」
「いいわよ。とりあえず、キャンセルするにしても予約取っておくわね。」
「頼むよ。」

ああ。そうか。夏季休暇か。家族で旅行となると、サエコとも連絡が取れない。それはなんだか、嫌だな。

と思う一方で。

あまりに聞き分けがいい妻に申し訳なく思う。

--

始まってしまったのは、妻がお産で入院している時だ。それが一番いけない。

僕は、たまたまその日は仕事で遅くなるので、見舞いのほうは妻の両親に頼んで、僕は残業していた。

その時、同じフロアのサエコと、一服しながらしゃべったんだ。それがとても楽しくて、仕事が終わってから、一杯飲もうかっていう話になって。

それで。

楽しかった。笑ってばかりいた。話題が豊富な彼女に全部委ねて、僕は気持ち良く酔っているだけで良くて。

「ねえ。奥さんってどんな人?」
「うーん。冷静な人だよ。余計なことは言わなくて、だけど、やることはちゃんとやるってタイプかな。家の事は安心して任せてられる。」
「ふうん。そういうのって、ずるい。」
「ずるい?」
「うん。まかせっきりのあなたも、言わない彼女もずるいよ。」
「そうかもしれないけど。とにかく彼女は素敵な人だよ。」
「つまんないの。結局、私以外の女の人が愛されてるんだわ。」
そういって、彼女は笑って、僕の肩に手を回して、口づけて来る。

それから、彼女の部屋に行って。

頭では分かっていたのだけど。良くないと分かっていたのだけど。

--

妻は、旅行の用意をしている。

僕は、「ちょっと出てくる。」と言って、サエコに電話をかけに出る。

妻は、微笑んで僕を送り出す。

何も知らない、妻。薄汚れた、僕。

--

あっけない終わりだった。

一年続いた後、サエコは会社を辞め、海外へ行くと言い出したのだ。

「なんでだよ?それでいいの?僕、きみが望むなら、離婚して・・・。」
「違うのよ。」
「じゃ、何?僕達、離れられるの?」
「だから。抑えられないの。もっといろんなところを見たいって思って。年に一回、旅行とか行くぐらいじゃ駄目なのね。いろんな国へ行って、内側から触れてみたいの。」
「分かったよ。じゃあ、帰って来たら、連絡して。」
「ううん。それも無理。きっと私のことだから、あなたを忘れちゃう。」

なんだ?それ?

なんで忘れられるわけ?

肌を合わせている間も、ずっともっと、肌の奥の、お互いにしか触れない場所で触れ合おうと。いつもそんな風にきみを抱いてきたのに。

「ごめんね。分からない。私ってこういう人間だから。そりゃ、あなたと別れるのは悲しいけど。でも、多分、もう駄目。私は、行ったら行ったきりで、戻る道を忘れちゃうのよ。」

分からないけど。

そんなもの、分かりたくもないけれど。

でも、いつも、片道切符だけ持って慌てて電車に飛び乗るような女の子だと分かっているから、僕はあきらめて。

最後のキスは、きみの心に近寄り過ぎないように、そっとおでこに。

--

「どうしたの?」
聞かれて、僕は、初めて自分が泣いていることに気付いた。

「あれ。どうしたんだろうな。」
僕は、泣いている自分にうろたえて。

「なんだろう。おかしいな。」
妻の冷ややかな視線なんか、どうでも良くて。

その時、妻が微笑んだのを、僕は見た。

「やっと戻って来てくれたんだ。」
妻は、確かにそうつぶやいた。

勝ち誇ったように輝いた顔を見て、僕はその事に気付く。

「まさか。ずっと知ってた?」
「ええ。」
「それで、きみは?」
「あなた、絶対戻ってくると思って。ね。こんなことでめちゃくちゃにはさせないようにって。私、ずっと、ここを守って来たの。」

妻は、本当に嬉しそうだった。

そして、僕は、妻の喜びを憎悪する。

男の都合のいい考えと分かっていても。僕は、妻が何も知らないと思っていたから。そうして、家庭に戻った時、何事もなかったように再開できると思っていたから。だけど、きみが知っている以上、僕ら夫婦は元通りじゃない。

「そうか。知ってて、黙ってたんだな。僕が振られるのを待ってたわけだ。」
僕は皮肉を込めて言う。

「そうよ。それがどうして悪いの?私、ずっと耐えてたわ。あなたが戻るのを待って。私のどこが悪いっていうの?悪いのはあの女じゃない?いつだって、私が大事に守って来たものを、あっという間に奪っておいて、平気でいるんだから。」
その時、初めて妻が大声を。

そうだ。

大声で怒ればいい。

人は、笑うこととか、泣くこととか、大声で怒鳴ることとか。そんなことがいっぱいできるんだから。そんなことを教えてくれたのも、サエコだった。

「きみの一番いけないところは、計算ずくなところだよ。明日の幸福のために、今を浪費している。」
そんな言葉で妻を責めるのはひどく残酷だと分かっていても。

感情のままに生きていたサエコが、僕の本当に欲しいものだった。もちろん、それは最初から手に入らないもので。だから、熱に浮かされたように欲しくてしょうがなかったのだ。


2002年07月11日(木) 彼女の、体。何もかもに心を奪われた。男達がヨダレを垂らさんばかりに目を見張ったと同時に、女達が殺気立った。

その街にある日フラリとやってきた女は、とても美しく、街中の男の目を引いた。

長い、腰まであるブロンドをなびかせて、グリーンの瞳で涼しげな視線を投げ掛けながら、ゆっくりと歩いてやって来た彼女には、男も女も目を留めずにはいられなかった。

僕も。

息を飲んで。

彼女の、瞳。

彼女の、体。

何もかもに心を奪われた。

男達がヨダレを垂らさんばかりに目を見張ったと同時に、女達が殺気立った。

--

女は、街の中に店を出した。

「酒と食事の店」

男達は集うようになり、女達の子供を叱る声が響くようになった。

--

最初に女にアプローチしたのは、赤毛の青年だった。

街中が、女と赤毛の様子を、息を飲んで見守った。

赤毛は、気のいい青年だった。街の女の子からは、ちょっとした頼まれ事を何でも引き受けてくれる、からかいがいのある青年という評価を得ていた。

だが、青年は、女のところに通うようになってから、街の女の子には見向きもしなくなった。陽気な赤毛とそばかすは、笑顔を返さなくなった。夢遊病者のようにフラフラと歩く姿を、皆が目撃した。

それでも、青年は女の元に通う。

そうして、時々は、天国に行って来たかのように軽やかな足取りで歩いている事もあって。だが、その麻薬の効果は短い。だんだんと効き目がなくなる。禁断症状は激しくなる一方で。

街の男達は、そんな姿にぞっとしながらも、自分はそうはなるまいと思いながら、酒を飲んだ。

そうして、ついには、赤毛は捨てられた。

ゴミくずのようにポイと。

街で雨に打たれて立ち尽くす彼に、僕は声を掛けようと思った。その時、街で一番地味でおとなしい娘が傘を差し掛けた。

赤毛は驚いて彼女を見て。

初めて人間の女性に出会ったかのように安堵の笑みを浮かべて。

それから、二人は手を繋いで雨の中、消えて行った。

--

次にブロンドの美女に引っ掛かったのは、酒屋のオヤジだった。

最初は、商売あがったりだ、とボヤいて、店に乗り込んで行った筈だった。

街中が、オヤジの怒鳴り声が今響くか、今響くか、と待っていたが、オヤジは大声を出すどころか、そのまま数時間出て来ないで、やっと出て来たと思ったら、放心状態で、すっかり頭が変になったように見えた。

酒屋の女房は、オヤジに負けず劣らず偏屈で怒りっぽいので、これは騒動があるぞと思っていた。案の定、激しく食器を投げ合う音が随分と響いていたが。

そのうち静かになった。

皆がびっくりしたのは、翌日だった。酒屋の女房が化粧をして出て来たもんだから。

「どうしたっていうの?」
酒屋の女房の友達の、魚屋の女房が訊ねた。

「どうしたって、ま、たまにはいいかと思ってね。」
そう言って、恥らう姿に、一同またまた驚いたけれども。

そのうち、街の女達はこぞって美しく装うようになった。

「あんな余所者に、うちのを盗られたらたまらないからね。」
それが、女達の言い分だった。

--

そうやって、今では、あんなに賑わっていた「酒と食事の店」の男の客足も随分と減って。それから、少しずつ、今度は女性達で賑わうようになってきた。

「そのすべすべの肌はどうやって手入れしてるの?」
とか、
「あの人のハートをとろかせるお料理を教えてちょうだい。」
とか。

そんな事を、女主人をつかまえては訊ねる姿を多く見掛けるようになった。

--

そうして。

夏も終わった、早朝。

僕は、その美しい人が、店の看板を下し、大きなトランクを持って、街を出て行こうとする姿を見つけて、慌てて駆け寄った。
「待ってよ。」

彼女は、サングラス越しに、僕を見ると微笑んで。
「いつも、店の外から中を眺めていたわね。」
と。

「ようやく声を掛けてくれたのね。」
と微笑む彼女。

「恥かしかったんだよ。僕なんか相手にしてもらえないと思って。」
「でも、今日、勇気を出してくれたのね。最高のさよならだわ。」
「行っちゃうの?」
「ええ。」
「みんな、あなたにはこの街にいて欲しいと思ってるよ。」
「そうかしら。」
「そうだよ。」

僕は、つい大きな声になる。

「あのね。私は、スパイスみたいなものなのよ。一振りあれば充分なの。ぐずぐずしてたら、刺激のある香りは飛んじゃって、気が抜けちゃうのよ。」
「だから、行っちゃうの?」

彼女は黙ってうなずく。

「見てごらん。街のみんな。幸せそうだ。きみのおかげだよ。だから、きみも素敵なパートナーを見つけて。」
「だめよ。私は、スパイシーな生き方しかできないんですもの。」
「じゃあ、僕は?僕はまだ、きみを味わってないのに。」
「おませさんね。坊やは。また、あなたが学校を出て、立派な大人になる頃に戻ってくるから。だけど、今はまだ、私はあなたには早過ぎるわ。」

彼女は来た時と同じようにブロンドをなびかせて。

僕は、彼女の姿を忘れないようにと、瞳に焼き付けて。

それは、僕がそれまでに出会った人の中では最高に格好良くて。自分も早く大人になりたいと。そんな風に思うに充分だった。


2002年07月10日(水) 夜が明けて、彼女が僕にもたれかかって眠り始めた時。その、ヨレて固まったマスカラに口づけて、僕は、部屋を出る。

僕は、まったくもってヒツジらしいヒツジで。

仕事は「ひつじ保育園」の保育士だ。

と、他人に言うと、
「まあ、お子さんが好きなのねえ。」
とか、
「素敵なお仕事ね。」
とか、大体そんな風に言われる。

僕も、そう言われてまんざらでもないわけだが、時には反論したくなることもある。

給料安いしさ。仕事きついしさ。子供のうんち、しっこ、片付けて回るの大変だしさ。

とかね。

だけど、基本的には、僕は子供が好きなんだろう。だから、なんのかのと言って、もう三年続いている。

--

ある日の事。

朝、子供達を出迎える時間になって、僕はいつものように保育園の門の外に立つ。

母親と離れるのが悲しくて泣いている子を、抱っこしたり。

「先生おはよーっ!!」
って、思いきり大きな声で挨拶してくる子のほっぺに付いたご飯粒を取るのとかも僕の仕事。

「おはよう。」
「おはよう。」
そんな言葉が飛び交う朝の風景で、僕は一人の女のオオカミを見かけた。僕は、ドキリとして。子供達を狙うオオカミだったら、すぐさま追い払わなくては。

そう思って身構えた僕だったけれど。

そのオオカミは、よく見れば、とても美しい毛並みのオオカミで。しばらく子供達を眺めていた後、僕の視線に気付いたのか、そそくさと立ち去った。

その横顔に、キラリと光って見えたのは、涙かもしれない。

僕は、その涙にドキリとして。

--

久しぶりに仲間と飲み過ぎた夜の街で。

僕は、酔っぱらって友達と別れて、謝ってオオカミがたむろする酒場街に迷い込んでしまった。

やばい!

僕がそんなことに気付いたのは、フラフラした足取りでよろけた拍子にオオカミにぶつかってしまったから。

ギロリと睨むその瞳に身がすくんだ、その時に。

「ごめんなさいね。」
と、僕の腕を取った女がいた。

「なんだ、ねえさんの連れか。」
ぶつかって来たオオカミは、彼女を見ると表情を緩めて。

「兄さん、気を付けなよ。ただでさえも、その真っ白な巻き毛は目立つんだからな。」
と笑って、去って行った。

「何やってんの。危ないじゃないの。」
「すいません。」
「それに随分と酔って。しょうがないわね。あたしの店で休んで行きなさいよ。」

僕は、手を引かれるままに、彼女について行く。

「さ。この隅に、ね。大人しくしてるのよ。今、お水持ってくるから。」
その女の横顔を見て、僕は思い出す。

「あんたは・・・。」
そうだ。「ひつじ保育園」にいた、あのオオカミ。

「あら。しょうがないわね。バレちゃったか。今朝は迷惑掛けたわね。」
そう言って、仕事に戻る彼女の尻尾は、素晴らしくフサフサで。僕は、そのオオカミに恋をした。

--

オオカミの街には二度と入るなと。

そんな風に言われたのに、来てしまった。僕は、彼女の住むアパートの前でドキドキして待つ。

手には花束。

そんなもの、と、鼻で笑われるかもしれないが、僕には精一杯の事だから。だから、もう、夜が更けて、オオカミ達の遠吠えが聞こえて来ても、僕はじっと我慢して待っていた。

ようやく明け方になって、彼女が戻ってくるヒールの音。

僕は、ホッとして、彼女の前に飛び出す。

「ひっ。」
と声を上げて、それから、僕だと気付いて笑い出す彼女。

「なんだ、びっくりするじゃない。」
「ごめん。」
「いくらあたしの肝がすわってるって言ってもね。夜道はやっぱり怖いからさあ。ま、とにかくあがんなさいよ。」
僕はてっきり彼女に怒られるかと思ってたけど、そうじゃなくて、嬉しくなった。

「にしても、一体何よ?この花は?」
「プレゼント。」
「馬鹿ねえ。この部屋見てよ。花瓶もないのに、どうしろっていうの?」

彼女は、あきれたように花束を受け取ると、それでも、花びらに顔をうずめて、クンクンと嗅いで。その顔はすごく嬉しそうだったから、僕も、やっぱり嬉しかった。

そうして、彼女がグラスを出して来て。

乾杯、って。

それで、明け方までしゃべった。彼女が疲れて仕事から帰ったんだったてことに気付いたのは、夜が明けて、彼女が僕にもたれかかって眠り始めた時。その、ヨレて固まったマスカラに口づけて、僕は、部屋を出る。

その日は、保育園の運動会の練習があったので、僕は昼間、暑いグランドで倒れそうになりながら。

それでも心がいっぱいになるほど、幸福だった。

--

「ねえ。今度の夏は海に行かないか。」
僕は、彼女を抱き締めてささやく。

「馬鹿ねえ。私が一体幾つだと思ってんの?もう、水着着るような年齢じゃないし。それに、みんなが何て思うかしら?オオカミとヒツジが海に行ったら。」
そんな会話をしていると、僕は彼女に拒絶されているようで、とても悲しい。

外見なんかどうでもいいじゃないか、と思う。

僕ら、こうやってずっと隠れて付き合わないといけないの?

「子供みたいなこと言わないで。」
少しむくれた僕を見て、彼女が口づける。

「ねえ。以前、ひつじ保育園できみを見かけた時。」
「ええ。あの時は、迷惑掛けたわね。」
「きみ、あの時泣いてた?」
「泣く?私が?まさか。」
彼女は笑うけれど。

彼女の部屋で笑っている、子供のオオカミの写真は、一体、誰?とも聞けないでいる。

--

そんな付き合い。

ねえ。笑うかな。

彼女のほうが、腕っぷしもずっと強いのに、僕はなぜか彼女を守らなくちゃって思ってた。

ねえ。好きだよ。大好きだよ。

--

「ねえ。僕達、こうなってから随分になる。」
「そうね。」
「ねえ。結婚しない?僕、きみに可愛い子供を産んで欲しいんだ。」
「子供?」
「うん。」

彼女は、僕が背中から回した手をそっとふりほどく。

「ごめんね。子供なんて要らないわ。」
「だって。あの写真。保育園で見せた涙。ねえ。きみ、本当は子供好きなんだろう?」
「悪いけど。帰ってくれない?」
「嫌だ。帰らない。きみが本当の気持ちを言ってくれるまでは。」

彼女は溜め息をついて、何も言わない。

僕は、駄々っこみたいだ。

そうして、二人共無言のまま、夜が明けて。

「帰るよ。」
僕は、仕方なく立ち上がる。

--

僕は、今日は、指輪と花束を持って、彼女のところに行く。

ちゃんとプロポーズしてからだ。

この前は急ぎ過ぎたから、彼女だって気持ちの準備が出来てなかっただろうし。第一、子供の事まで言うなんて早過ぎた。

トントン。

僕がノックした途端、出て来たのは、恐ろしい顔の男のオオカミ。

「こいつか?」

「ええ。」
奥から、彼女の声。

その途端、僕の喉に走る痛み。

何が起こっているのだろう?

花束が足元に散る。指輪の箱が転がって行く。

熱いよ。ねえ。僕の首から流れ出るものは、何て熱い。

何か言おうとするけれど、僕の喉はヒューヒュー鳴って。

僕の手を、誰かがやさしく握っている。

「ねえ。あんたね、余計な事言い過ぎだったのよ。」
その声は、ひどく冷たい。

「あたしはね、いろんなことをやっとの事で置き去りにして来たの。もう、二度と戻りたくないの。それを、あんたが全部思い出させようとするから。だから、こうするしかなかったの。」

僕は答えられずに、うなずくだけ。

目の前がかすんでいく向こうで、彼女の指に僕が持って来た指輪がキラリと光ったから。だから、本当はちょっと嬉しくなって、目を閉じる。


2002年07月09日(火) その一言で、僕は完全にたがが外れたようになってしまった。彼女が悲鳴を上げた気がするけれど。

大学に入って初めて付き合った女の子の事を、僕はよく覚えていない。

覚えていない、というのは、本当は正しくないのだけれども。

耳。

彼女は、耳。

随分と変な言い方なのだけれども。

とても綺麗な子だった。黒い真っ直ぐな髪が肩まで落ちていて。無口な子だった。

きっかけは何だったのか分からない。多分、学祭の準備とかで、サークルボックスで二人きりになった時が多かったから、とか。そんな感じでいつの間にか付き合い始めたのだと思う。

初めて抱き合った時は、僕も初めてで、どうしていいか分からず。ただ、不器用に彼女の体を撫で回していただけだった。僕は、彼女の長い髪を手で梳いて。その耳に口づけようとした時。僕ははっと息を飲んだ。

耳たぶが奇妙に変形していたから。

「変・・・、でしょう?」
彼女は、僕の手が止まった事に気付いて、そう言った。

「いや。素敵だ。」
僕は、なぜかその耳にひどく欲情して、耳たぶをそっと口に含んだ。

彼女がかすかに喘いだ。

僕は、耳たぶを舌で転がしながら、もう、それだけで頭がおかしくなりそうなぐらいに興奮していた。

「ねえ・・・。」
「ん?」
「お願い・・・。耳を。」
「耳?いいの?耳が?」
「噛んで。」

その一言で、僕は完全にたがが外れたようになってしまった。彼女が悲鳴を上げた気がするけれど。僕は、彼女の耳に歯を立てる。

人の耳って、案外固いんだ。

そんなことを思いながら。

舌で、歯で、彼女の耳を味わいながら。

僕は、彼女の悲鳴と同時に達していた。

--

それが最初のセックスで。

それからも、僕は彼女の耳を見ると、どうしようもない感覚に襲われる。「何か」を我慢できなくなる感じ。彼女をめちゃくちゃにしたくなる衝動。

--

ああ。何であの頃、気付かなかったのだろう。

いろんな事。

彼女の事。

彼女の耳の向こうにある、悲しみとか。

だけど、僕の前にはいつも彼女の耳があって。奇妙な形の耳たぶ。僕は、そこから先、彼女に踏み込めなくなって。

ただ、セックスを。

彼女だって、それを望んでいた筈だ。それは、若さゆえの、身勝手な解釈なんだろうか?

--

僕は、三年ばかり付き合って、その後、彼女と別れた。

付き合い始めた時と同じように、別れた理由が思い出せない。なんだったのだろう?些細な喧嘩?ダメだ。思い出せない。

それから、数年して、僕は社会人となり、新しい恋人を作った。今度の恋人は、ショートカットで、とても魅力的な耳をしていた。彼女がこんな素敵な耳をしていなければ、きっと、僕は彼女に気付かず通り過ぎていたであろう程の、凛とした耳。

「素敵な耳だ。」
と、僕は彼女を初めて口説いた夜に、言った。

「あら。ありがとう。実はね。ちょっとコンプレックスだったの。随分と目立つ耳でしょう?ピアスだって、恥ずかしくて付けられないのよ。」
「そのままがいい。ピアスなんかしないほうが、ずっと。耳そのものが素敵な装飾だ。」

僕は、その夜、彼女を抱いて、耳に優しく口づける。素晴らしい耳に敬意すら抱いて。

けれども、噛んだりはしなかった。

そういう類の耳ではなかったのだ。

そう。違う魅力。全く違う。

--

僕と彼女は、皆に祝福されて、結婚した。

僕は、すっかり幸福で。

彼女は、仕事を辞め、いつも僕の帰りを待ってくれる存在となった。本当に本当に幸福だった。

その幸福は、僕らの可愛い赤ちゃんが彼女のお腹に宿って、さらに増した。

「ねえ。私、髪、伸ばそうかしら?」
彼女が、赤ちゃんの靴下を編みながら、そんなことを言う。

「駄目だよ。絶対に、駄目。きみのその耳を隠したりしたら、僕、浮気するからね。」
「まあ。嫌な人。」
そんなことも、幸福の絶頂では、他愛ない冗談。

僕らは、産まれてくる赤ちゃんを思いながら、毎晩手を繋いで眠った。

--

そうして、待ちに待った、その日。

僕は、仕事中に電話を受けて、病院まで掛け付けた。

「おめでとうございます。女の赤ちゃんですよ。」
看護婦さんが笑いかけてくれる。

僕は、妻のそばに寝かせられている赤ちゃんを覗き込む。

そうして。

その素晴らしい耳を。

そう。

耳だ。

これは?

この耳は?

これは、妻譲りの耳じゃない。

この耳は、あの女の子の。あの耳だ。名前すら、もう忘れていた。

僕は、驚いて後ずさる。

「私の耳と似なくて良かったわ。」
妻がそんなことを言っている。

僕は、ろくに返事もできない。

つまらない妄想だよ、と思いながら。

もちろん、目の前の耳たぶは、ふっくらと張っていて、奇形なんかじゃない。きれいな、つややかな。そう、口に含みたくなるような。

思い出したんだ。

あの日。

大学三年の夏。

あんなにあの子が嫌がったのに、僕は、彼女の家を探し当てて。海に誘いたかったんだ。免許を取って、父親の車を借りて。だから、びっくりさせてやろうと。

あの子の家では、父親が出て来て。

「上がって待っててください。」
と言った。

父親は、酒でドロリとした目をして。

それから、僕にニヤリとして言った。
「うちの娘ね。耳がいいでしょう。耳が。誘ってくるんですよね。ね。あんたもそう思うでしょう?」

狂ってる・・・?

僕は、背筋がぞっとして。

それから、家を飛び出して。どこをどう走ったか。それっきり、僕は、あの子に会おうとしなかった。僕は、彼女を一方的に捨ててしまったのだ。

彼女の悲しみが。彼女の耳が。

追い駆けて来たのだと、その瞬間。


2002年07月08日(月) 「取り敢えず、眠って。明日のことは明日が教えてくれるから。」彼は、私のおでこに唇を付けて、それから、楽しそうに目を閉じて。

「もう、片付けはいいからさ。こっちにおいでよ。」
彼の声が背後から。

「うん。もうちょっと洗っちゃってからね。」
私は、彼の台所に溜まった食器を、一つ一つ丁寧に洗う。

彼の一人暮しの男性の部屋らしい乱雑さも、私にとっては好ましくて。それを細々と片付けたりするのが嬉しくてたまらない。

「終わった?」
彼が訊ねて、こちらに手を差し伸べる。

「うん。」
私は、その手を取って自分の肩に回すと、彼に寄りそう。

--

「ねえ。私達、この先どうなるのかな。」
私は、彼の胸で訊ねる。

「さあ。先の事は考えたことないんだよ。悪いけど。」
「このままじゃ、不安なんだもの。」

「今、きみが好きっていうだけじゃ駄目なの?」
彼は、そんな風に言って、私の髪を撫でる。

「ごめんね。時々、いろんな事が不安になるの。で、夜、眠れなくなるの。」
「そっか。」
「あなたは、違うのよね。」
「うん。どうだろう。先の事を考えてもしょうがないっていうのを学んだのはさあ。先輩と登山してた頃かな。」
「登山?」
「それでさ。まだ、初心者だった僕のために、簡単なルートに連れてってくれたんだよね。で、下りる途中にね。岩肌につかまってるところで、日が暮れて来たんで、ビバーグしようってことになったんだよ。」
「ビバーグって?」
「緊急露営。テントとか張らずに、夜を明かすことだよ。」
「それで?」
「雨が降り出したんだ。で、僕は、このまま雨に濡れて夜を過ごしたら、明日の朝には疲労してしまうんじゃないかって、心配で眠れなかったんだよ。でも、先輩は言うわけ。疲労するかどうかなんて、明日の朝にならないと誰にも分からないじゃないか。だったら寝て疲労回復したほうがいいってね。そうして、眠れない僕の横でスースー寝息がし始めるんだよね。」

私は、いつも、彼があまりにも健やかな寝息を立てて眠ってしまうことを思い出す。そんな時、私はいつも彼に置いてきぼりをくらったみたいで、少し寂しくなるのだった。

「取り敢えず、眠って。明日のことは明日が教えてくれるから。」
彼は、私のおでこに唇を付けて、それから、楽しそうに目を閉じて。

なんだかはぐらかされた気分にならないでもないけれど、私は、彼のそんな風に楽観的なところも、そんな風にいろんなことを教えてくれるところも、大好きで。

子供みたいに、つまらないことまで質問したりしてしまう。

そうして、私は、私自身がとても飢えていたことに気付かされる。

--

彼、というのは、夫の弟だ。

真面目な夫に比べると、数ヶ月働いては、ふらりと海外に行って戻ってくる。

「まったくしょうがないヤツでね。」
夫は、最初に弟の事を、そんな風に説明した。

夫の母親が亡くなった葬儀の席で、借り物のスーツを窮屈そうに着ている、大人になりそこなったように落ち着きない男性が夫の弟だと分かって、なんだか私は嬉しくなってしまったのを覚えている。

一方の夫は、真面目で穏やかな人だった。

結婚してこのかた、一度も私に対して声を荒げたことはない。

私は、満足していた筈なのだ。この結婚生活にも、夫にも。

なのに、彼が現われてから、それまでの満足がいかに脆いものか知らされた。

その頃には、もう、仕事が忙しい、と深夜にならなければ帰って来ない夫の目を盗んで、私は、夫の弟と会う。夫とは、会話も途絶えてしまい、何かあれば、紙に書いてやり取りする状態で。

私は、こんなことを続けていられないと分かっていても、もう、どうにもならなかった。

--

たとえば、夫と会う前に、彼に出会っていたら?

そんなことだって、何度となく考えたけれど。結局、出て来る答は、「夫と会っていなければ、彼とも会っていなかっただろう。」ということで。

それならば、せめて、彼と会えただけでも、運命を呪う気にはならない。

--

ある夜、いつになく早い時間に夫が帰宅して来て。

「早いのね。」
私は、なぜか、不安で胸がいっぱいになる。

「ああ。たまにはね。きみと話をしたほうがいいんじゃないかって思ってね。」
その声は、とんでもなく冷ややかで、私は、ますます怖くなる。

「何を?」
「そうだな。いろんなこと。昼間のきみ。誰と会って、何をしているか。」

私は、心臓をぎゅっと掴まれたように、声が出ない。

「悪いがね。調べさせてもらった。」
「どうして・・・?」
「なぜだろう。先日、母の残したもののことで、弟の所を訪ねたんだがね。そこで見たものが、なぜか僕には引っ掛かってね。何が問題なのか、最初は全然分からなかったんだよ。だけど、帰ってしばらくしてから気付いたんだ。」
「何を?」
「いやもう。本当に些細なことさ。洗ったグラスの並べ方とか。そんなものがね。きみを思い出させたんだよ。変だよなあ。そういうところですぐきみを連想しちゃうのが、夫婦なんだよなって、笑っちゃったよ。」

今更、どう弁解しても無理そうだ。夫が握っている封筒には、多分、それなりの場所に依頼して調べた結果が入っているのだろう。

私は、その後の事はあまり覚えていない。いつもは無口な夫が、興奮してしゃべり続けている。何か言えば、ますます激昂して。

知らなかった。

何も。

ずっと一緒に暮らしていて、何も分かってなかった。

こんな風に怒る人だったんだ。

裏で調べるような人だったんだ。

あざけるような笑い顔ができる人だったんだ。

もちろん、自分が悪い事は分かっていて。私は夫を嫌悪している自分に気付く。

「これから、これを持って、あいつのところに行くから。」
「それで・・・?どうするの?」
「それなりの責任を取ってもらう。」
「責任って?」
「あいつのバイト先に、バラしてやる。金ももらう。なんせ、人の妻を寝取ったんだからな。」
「やめて。」

私は、その時初めて、泣いて、彼にしがみつく。

「やめないよ。」
彼は、私の手を振り払って、部屋を出て行こうとする。

「ねえ。一つ教えてよ。」
私は、夫に向かって叫ぶ。
「ねえ。私のこと愛してるから、怒るの?」

「愛?」
夫は、鼻を鳴らして、笑う。
「愛なんかじゃないよ。怒り、かな。この怒りについては、誰かが責任を取るべきだよ。正確に言えば、きみとあいつと、二人でね。」

そう言って、夫は出て行く。

私は、残されて、泣く。

ただ、一人残された時間。夫と彼の会話を考えても、どうにもならない。

私達は、どうなるんだろう。私達三人は。

ふと、緊急露営、という言葉が頭に浮かぶ。

何も考えずに眠って、明日が運んでくる結論を待てば。

そう思っても、夜は果てしなく長い。


2002年07月06日(土) 私は、まだ、笑い続けてる、しゃべり続けてるまんまで、彼の唇を受けて。彼が服を脱がせる手も、気持ち良くて、

私と彼は、その酒場で会って、最初から意気投合して、朝まで飲んだ。ずっと笑ってて、何をしゃべったかよく覚えてない。ただ、笑って笑って、気持ち良くて。このまま、こんな風に波に身を任せていられたら気持ちいいなあと思った。

朝になって、店を出て、それから彼は
「どうする?」
って聞いた。

私は、
「あんたんち、行ってもいい?」
って言った。

「こいよ。」
と言って、男は私の手を握って。それから、二人で彼の家まで行って。

彼の部屋は、男性にしては割と片付いていて。女がいるのかなと思ったけど、私も彼も死ぬほど眠たかったので、彼のベッドで夕方まで眠り続けた。

夕暮れに目が覚めると、キッチンのほうから、ジャッジャッという音といい匂いがするから、覗いたら、彼がチャーハン作ってくれてて、私は嬉しくなった途端、おなかがキュルキュル鳴った。

「おう。起きたか。待っててな。」
彼は、そう言って、豪快にフライパンを揺すった。

チャーハンはめちゃくちゃおいしくて。私はおかわりまでして、食べた。
「ね。すごい。おいしいね。」

「俺、これしか作れないんだよね。」
彼は、嬉しそうに、そう答えた。

すごく気持ちいい一日で。私は、食べるだけ食べると、また、彼の部屋で眠った。

翌朝、私は、
「仕事だから、帰るね。」
と言った。

「ああ。また来いよ。この前の店でもいいし。」
「チャーハン、ごちそうさま。じゃね。」

私は、なんだか嬉しくて、ピョンピョンと跳ねるみたいにして、駅まで出た。

--

彼とは、そんな感じで、月に一度か二度、泊まって。いつも、飲んで笑って眠ってたから、彼とセックスしたのは、ようやく、知り合ってからニヶ月が経とうというところだった。

そんな前触れもなく、その日も、私は彼の部屋で笑ってて。私が作った料理とかつまんでて。

そんな感じで笑ってる、そのまんまの雰囲気で、彼が私の肩に手を回してくるから、私は、まだ、笑い続けてる、しゃべり続けてるまんまで、彼の唇を受けて。彼が服を脱がせる手も、気持ち良くて、緊張するよりはむしろ、すごくリラックスしてて。

私達のセックスは、そのまんま、私達の会話みたいな感じだった。

明確な最初と終わりはなくて。

気持ちいいと思うことを、お互いにやって。

それから、彼の腕で、また眠って。

初めて抱かれた日の翌日、前回と同じように、「バイバイ」って、彼のアパートを出て。

彼は、
「また来いよ。」
とか、同じ風に言うから。

少し寂しいような。自由なような。

「俺の女」、とか、そんな風に言うような人じゃないんだな、って、そんなことを思いながら。

--

私は、その店で彼を待っていた。

女性が、私の前に座った。
「あたし、誰か分かる?」

私は、びっくりして首を振った。

「私ね。あの男の前の恋人よ。」
「そう・・・。」
「ね。もう、あの人と寝たの?」
「答えたくない。」
「いいわ。だけどさ。辛くなるよ。このまんま、あの男と付き合ってたら。」

私は、少し不愉快になる。

「あら。やめてよ。あなたが心配なだけなのに。別に、未練なんか残してないわ。」
女は、濃い酒を幾杯も飲んで、煙草を吸い続ける。

「お酒も、煙草も、ね。あいつと付き合ってから増えたの。だんだんと、自分の気分をごまかすために、たくさん必要になっちゃった。」
そう言って。荒れた肌で微笑んだ。

私は、可哀想になって、
「まだ、好きなのね。」
と言った。

「そうかもね。なんでだろう。絶対に、私の事なんか好きになってくれなかったらでしょうね。」
「彼は、好きな人としか付き合わない人よ。」
「そんなことないわ。このまんま付き合ってても、彼は、絶対に結婚しようとも、他の男とベタベタするなとも、煙草やめろとも言ってくれないから。だから、結局、私が彼のそばにいられなくなっちゃった。」

もちろん、彼はそんな事は言わないだろう。そういう男じゃないから。

「あなたは、平気?彼のことだから、付き合おうとも、好きだとも、ちゃんと言わなかったでしょう。」
彼女は、訊ねる。

「さあ。そんなこと、ちゃんと考えたことなかった。」
私は、答えて。

彼女の気持ちが分からないでもなかったけれど。

そんな風に好きになられて、そんな風に去って行かれた彼を、可哀想とも思った。

「そろそろ、行くわ。このこと、彼には内緒ね。」
彼女は立ち上がる。

「ねえ、あなたなら・・・。あなたなら、彼を変えられるかもね。」
そう言って、微笑んで。

あんなに美しい人なのに、自分で、自分の肌を荒らして。

--

「誰かと飲んでた?」
「え?」
「このグラス。お前のじゃないよな。こんなに口紅がついてる。」
「ああ。知らない人と。」
「昔、こんな色の口紅を好んでいた女がいた。」
「恋人?」
「恋人・・・。だったかな。ま、振られたんだけどさ。」

彼は、寂しそうに笑う。

ほら、やっぱり。

「ね。行こう。」
「どこに?」
「あなたの部屋。」
「ああ。」

私達は、そこで、いつものように抱き合って。笑い合って。

私は、この幸福を変えようとか、どうにかしようとか、思わない。

--

私は、彼の子供を身ごもった。

その事を告げると、彼は照れたような困ったような顔をして。

それから、
「結婚しよう。」
と言った。

私は、にっこり笑ってうなずいて。涙をちょっとだけ。

--

今では、私達は、いつも三人で笑い合っている。

二人の頃と変わったのは、彼が「俺達」という言葉で未来を語るようになったこと。

道で、あの女性と会った。
「ねえ。この前あなた達を見かけたわ。」

彼女は、相変わらず綺麗で、悲しそうで。

「声掛けてくれたら良かったのに。」

彼女は悲しそうに首を振って。
「私はあの人を変えられなかったけど、あなたは変えることができたのね。」
と、言った。

違うよ。

私、変えようとは思わなかった。

一緒に変わっていきたかった。

それに。

何より、あの人が、誰かに愛の言葉を言えるようになったとしたら、それはこの子のせいだわ。この子の笑顔が、彼の心から溢れる愛の言葉を。

そんなことを、彼女にも伝えたいと思った時には、もう、彼女は去っていたのだけれど。

でも、いつか、あの人も私達みたいに笑う日が来ますように。

そんな風に彼女の幸福を願えるのも、今が幸福だからなのね、と思ったり。


2002年07月05日(金) その時ふと、夫の帰宅が最近遅いことやら、疲れているのを理由にほとんど抱いてくれなくなったことを思い出す。

私は幸福だった。素晴らしい人と結婚出来て。

やさしくて、人望があって、背も高い。仕事もできるし、スポーツだって万能だ。

そんな人と結婚できて夢のようだった。

唯一、不満があるとすれば、彼の兄だった。

陰気で、夫とさして年齢が変わらないのに、幼い頃に大病を患ったとかで、随分と老けて見える。少し背の曲がった小柄な男に、見上げるような目で話し掛けられるとぞっとするのだった。

だが、夫は、やさしい人なのだ。そんな兄を慕い、大事に思っている。老いた両親と一緒に暮らしていることにも感謝している。だから、私も、夫の前で夫の兄の悪口など決して言えるものではなかった。

--

今日も、夫が仕事に出掛けたのを見計らうようにして、義兄が訪ねて来る。

「あら。お兄さん。」
「ああ。ヤスエさん。ちょっといいかな。」
「え・・・。ええ。」
「これ、ね。うちの母から。佃煮を作ったから、持って行ってくれって言われてね。」
「まあ、いつもすみません。」

私は、お茶を出して、受け取った器を冷蔵庫にしまう。すると、もう、お互いに話すこともなくて、沈黙してしまう。私は、同じ部屋に義兄がいると思うだけで、身震いするほどに気味が悪い。背を向けていても、じっとりと視線が貼り付いているようで、落ち着かない。

当たり障りのない会話を二言三言続けた後で、義兄が
「じゃあ。」
と立ち上がるまで、イライラして時間が過ぎるのを待つ。

--

「ねえ。あなた。」
疲れて帰って来ている夫に、私は我慢できずに話し掛ける。

「なんだ?」
「お兄さんのことなんですけど。」
「どうしたの?」
「今日も、佃煮持って来てくださったんですけどね。」
「ああ。お袋の手製だろ。うまいぞ。」
「あの。たびたび足を運んでくださるのも申し訳ないと思って。」
「いいじゃないか。あんな体だろ?滅多に出掛けることもなかったんだよ。最近じゃ、随分元気が出たみたいだってお袋も喜んでるしさ。」

夫は、とことん明るい笑顔で、私に言って。それから、私の背後から腕を回して来て、「な。僕の一人の兄弟なんだよ。」と言われたら、私は黙ってうなずくしかない。

「おいでよ。」
夫が、ベッドに誘ってくる。

私は、その話はもう終わったのだと悟って、仕方なく寝室に向かう。

--

翌週も、また、義兄が訪ねて来た。

今度は、蘭の鉢植えを持って。

「これ。」
「まあ。綺麗。お兄さんが育ててらっしゃるの?」
「ええ。まあね。趣味と言ったら、これぐらいのものです。」

それから、小一時間ほど。蘭の手入れの説明やら、花の自慢話をすると、義兄は帰って行った。

私は、溜め息をついて。それでも、ピンク色の愛らしい花に罪はない。

--

夫は、帰宅が遅くなるから先に寝ておくように、と電話をして来る。

最近、仕事が忙しいので、ろくに会話をしていない。

寂しくて涙が出そうになる。

--

私は、何かどす黒い夢を。私は、泣き叫んでいる。

どうして、こんなことを?

と。誰かに向かって。

そこで、目を覚ます。

夫の心配そうな顔。
「どうしたの?怖い夢?」

汗びっしょりの私は、首を振る。
「覚えてないの。」
「そう?随分うなされていた。」

なんだったのだろう。

--

次の夜も。

また次の夜も。

私が悲鳴を上げて起きるから。

夫は心配して、夢の内容を記録して、ちゃんと専門の場所に相談しに行こう、と言う。

私は、うなずく。

--

次の夜。

そこは、知らない女の部屋。私は、ただ、そこに、体はなくて。だけど、部屋の様子が手に取るように見える。女は、ふっくらとした体つきで。顔は見えない。何やら手料理のようなものを並べている。

そこに夫が入って来る。

女はいそいそと、夫の手から上着を受け取り、ハンガーに掛ける。

夫と女は、笑いながら、女と向かい合って座る。

私はその瞬間叫ぶ。
「ひどいわ。いつも遅いって言って、こんな女のところに寄っていたのね。どうして、こんなことを?」

その瞬間、目が覚める。

夫が私の手を握っている。
「どんな夢だった?」

私は、首を振る。
「覚えてないの。」

「そうか・・・。」
夫は、心配そうに私を見ている。

私は、その時ふと、夫の帰宅が最近遅いことやら、疲れているのを理由にほとんど抱いてくれなくなったことを思い出す。

なんて嫌な想像。嫌な夢。私、どうかしてる。

私は夫に寄り添って眠る。

--

相変わらず、義兄は、週に一度はやって来る。
「蘭は、どうかと思いましてね。」

ああ。そうか。蘭の鉢植えは、うちを訪ねる口実なのね。と、私は意地悪く思う。
「枯れてませんわ。大丈夫。」
「ならいいんですがね。あれは、それなりに難しい花でして。」
「この前聞いたとおりにしてますから。」
「なら、いいんですけど。」
「寝室においてるんですが、持って来ましょうか?」

寝室に入られてはかなわないと、私は、慌てて言う。

「いや。結構。結構。大丈夫ですよ。ちゃんと分かる。花が泣いてたらね。ここの花は喜んでる風だ。分かります。」
そう言って、義兄は、そそくさと帰って行った。

--

その夜も、夫の帰宅は遅く、私は嫌な夢を。

夫が、女の肩に手を回し、胸に顔をうずめている夢を。

夢の中で、私の声は夫に届かないのだ。私は、泣いて。だけど、夫は笑っている。その女と。

そうして、誰もいない我が家へ戻る。

義兄が、いつの間にかキッチンにちょこんと座っている。
「申し訳ない。あれは、ああいう男なんです。」

泣いている私に、義兄はそう声を掛けて。私は、不思議と、義兄のことが嫌ではなかった。むしろ、この広い家で一人きりでいるのが嫌で、義兄のそばで泣いていた。しなびた腕が私の腕をさすっている。蘭の花の香りがあたり一面、立ち昇る。

--

夫が、その日のうちに帰って来ることは、ほとんどなくなった。

私は、夜、誘われるように眠りに落ちては夢を見る。

女と夫が。

振り返る女を見て、私はまた、驚く。

その女は、夫の母親だった。

私はぞっとして。

倒れそうになった瞬間、誰かに支えられる。義兄の腕だ。義兄の腕は、小柄な体に似合わず力強くて。私は、腕にしがみついて泣く。

その瞬間、夫が私を揺すっているので、目が覚める。

私は、目覚めてもまだ、泣いていて。

夫は、私を抱き締めて。

「あの花よ。あの蘭の花。あれを壊しちゃって。」
「何言ってるんだよ。」
「ねえ。お願い。」
「分かった。」

夫が、部屋の外で鉢を壊す音を聞いて。私はまだ、放心状態で。

夫が戻って来て、言う。
「きみの言うとおりにしたよ。」

私は、涙が止まらずに。
「あなた、ごめんなさい。もう、我慢できないの。許して。」
「何言ってるんだよ。夢のせいだよ。何もかも。」
「お兄さんが怖い。この夢だって。」
「馬鹿だな。」
「助けて。あなたしかいないのに。ねえ。どこかに引っ越しましょうよ。お兄さんが来ない遠くに。」
「落ち着けよ。大体、あの兄を嫌うなんておかしいよ。兄さんは、僕にとってかけがえのない人なんだよ。兄さんは、きみを愛してる。」
「どういうこと?」
「僕は、きみを、兄さんと共有してもいいと思ってるんだ。だから、最近じゃ、兄さんに頼まれて、遅く帰宅して。」
「なに?何言ってるのか分からない。あなた達、狂ってるの?どうして、私を誰かと共有なんてできるわけ?」
「落ち着けよ。落ち着けったら。」

私は、何か薬を飲まされて、意識が朦朧として来る。

夫が誰かと電話をしている。
「ああ。大丈夫。鉢?ああ。無事だ。花は無事だよ。」

そうか。まだ、蘭は無事なんだ。これはまだ、全部蘭が見せる夢の中で。

目が覚めたら、私はきっと、健全で明るい素敵な夫に抱かれて目覚めるのだわ。

そんなことを思いつつ、眠りに引き込まれる。


2002年07月03日(水) 「私は、もう、子供も産めないの。」「欲しかったの?」「そりゃ、ね。恋人とも別れることになっちゃったし。」

僕は、ある日突然に皮膚病にかかった。

体中が痒いのである。

最初は、虫さされかな、と思い、仕事中にボリボリと掻いていたのだが、掻けば掻くだけ、なおも痒くなり、止まらなくなる。そうして、気付けば、血がにじむほどに掻いてしまっている。

これではとても仕事に集中できない。

困って、近所の医者に見てもらう。

「うーん。とりあえず、ステロイド剤出しておきますから。」
と言われて、はっきりした病名ももらえず帰宅する。

だが、塗り薬など役に立たない。

酒を飲んでも、風呂に入っても、体中が赤くなり痒くなるようになった。眠っている間も掻きむしっているのだろう。朝になると、パジャマやシーツにべっとりと血がついていることがあった。

今度は別の医者に行く。

「かゆみ止め、出しておきますから。」
と言う。

「あの。原因は?」
「よく分からないですねえ。アレルギー反応も出てませんしね。ま、気長に治しましょう。」

それでは困るのだ。

まだ、そんなに目立つわけではないが、体のあちこちにかさぶたが出来、仕事に集中できなくなり、始終イライラするようになった。

ついには、仕事を休みがちになった。

夜、電話が掛かって来ても、出られない。多分、恋人だからだろう。何度も何度も。イライラして、ジャックを抜く。携帯の電源も切る。

たかが、痒いぐらいで、と、周囲の理解を得られないのも辛い。

病院を転々とする。

たいした診察はしてもらえず、寝る時服用するかゆみ止めと、塗り薬をもらうぐらいだ。

一体どうしたんだろう。

深夜、いろんな病気の子供のドキュメンタリー番組を見て涙ぐむ。それは、子供が可哀想だからではない。あんな風に親身になって一緒に治療に励んでくれる親のような存在が僕にはいないから。

僕は、深夜、暗い気持ちで一人ひざを抱える。

まったくの健康体なのに、皮膚一枚が、僕の人生を台無しにするのだ。

--

その薬局は、どうやら、漢方薬やら、いろいろなものを扱っているらしい。

「これはいけませんね。」
白衣を着た男が言う。

僕は、はっとして、男を見る。
「原因、分かるんですか?」
「原因までは分かりませんが、いい薬があるんですよ。」

男は黒いビンに入った塗り薬を取り出す。

「僕みたいな人間、他にいるんですか?」
「そりゃあもう。いますよ。大人は大変ですからね。仕事をしていかないと食べていかれない。体が痒いのなんのって、いちいち有給を消化するわけにもいかない。」
「そう。そうなんですよ。」
「ですが、あなたみたいな人は確実にいます。ですから、この薬、ね。よおく、塗ってくださいね。皮膚の表面から少し入ったところに吸収されることで効果が出ますからね。」
「ありがとうございます。」

僕は頭を下げる。

僕は、その薬局で、まずは親身になって話を聞いてもらえたことが何より嬉しかったのだ。

早速、帰宅して薬を塗る。ヒリヒリとした痛みがあるが、逆にそれは、効果があるように思われて嬉しくなり、せっせと塗る。

僕は、かゆみから少しずつ解放されて行くのを感じた。

--

町を歩いていると、一人の女性が。はっと顔を上げて、僕の腕を見る。

「ねえ。あなた。」
彼女の表情に驚いて、僕は足を止める。

「はい?」
「その腕。」
「ええ。そうなんです。治療中でね。」

すっかり黒ずんでしまった、その腕。皮膚は、いろいろなものを感じなくなっている。

「ねえ。時間、ある?ちょっとお話したいの。」
「いいですけど。」

僕は、投げやりに答える。

「うちに来てもらえると一番いいのだけど。ああ。どうしよう。」
「いいですよ。どこにでも付き合います。」

僕は、本当にもう、いろんなものを失っていたから。あの薬を塗り続けた僕の皮膚の一部は、黒く固くなって。すっかり死んでしまっていた。会社も辞めた。恋人とも別れた。

あの薬局を探したけれども、もう、どこにもなかった。

薬の箱に書いてある電話番号は、使われていないものだった。

なんてことだろう。

だが、取り敢えず、かゆみから解放されただけでも良かったのか。

--

「ねえ。どこまでやられているの。見せて。」
彼女は、僕の腕を。それから、シャツを脱ぐように言って、体全体を。

「ああ・・・。ひどい。」
彼女は、はらはらと涙を。

「ねえ。見てくれる?」
彼女はそう言って、服を脱ぎ始める。

すっかり服を脱いだ彼女の、服に覆われていた部分の皮膚は真っ黒で。
「ね。私もよ。私も、こんな姿に。」
「どうして・・・?」
「あの薬のせいよ。あの薬は、皮膚の表面を焼いてしまうの。だけど、あのかゆみは、虫のせいなのよ。虫がね。皮膚の下で動くからかゆいの。あの薬での治療は間違いだったのよ。もっとも、皮膚の大半が薬でやられたら、虫は逃げ出しちゃうんだけどね。」

僕は、彼女のすっかり固くなった、銅像のような胸に触る。

「ねえ。何も感じないの。」
彼女は、つぶやく。

「可哀想に。」
「あなたこそ。」
「ずっと一人で?」
「いいえ。薬の成分を調べて。それから、同じような被害にあった人を探しているのよ。」
「他にも多いの?」
「多いわ。可哀想なのは、子供ね。それから、顔がやられちゃった女性とか。」
「ひどいものだな・・・。全然知らなかったよ。」
「私は、もう、子供も産めないの。」
「欲しかったの?」
「そりゃ、ね。恋人とも別れることになっちゃったし。」
「僕も、恋人と別れた。」
「そう・・・。」

だけど、そんなことで、僕らは抱き合ったりしなかった。

彼女は、多分この先ずっと、同じ被害を受けた人々のために闘うのだろう。

だけど、僕は?

そんなことをして、失ったものは戻らない。人の冷たい視線で受けた傷も癒えない。

「一緒に、やらない?」
彼女の誘いに首を振って。

僕は、家に向かう。

--

「ただいま。」
「お帰り、父さん。」

その、全身真っ黒の子供は、にっこりと笑って。目がきらきらして。

「遅くなってごめんよ。」
僕はその子を抱き締める。

この家で、誰にも邪魔されずに生きて行きたい。

あの日、雨の中で見つけた子供と一緒に。子供がどこから来たのかは分からない。だけど、僕らは、地球上の唯二人の人間のように見つけ合って、一緒に暮らすことにしたのだから。

今更、どこかの誰かへの怒りを糧に、何かをしようとは思わない。

欲しいのは、平穏で、偏見のない、日々。


2002年07月01日(月) おじいちゃんは、村でたった一人になった時、寂しくてロビンを作った。そして、息子のように可愛がった。

僕は、その村の最後の住人だった。

僕のおじいちゃんが亡くなってからは、僕一人がその村に住んでいた。みなしごだった僕は、五年前にその村に迷い込んで、おじいちゃんに養子にしてもらった。おじいちゃんは、その時、その村のたった一人の住人だったのだ。

おじいちゃんがいなくなってしまって、おじいちゃんの娘という人が訪ねて来たことがあった。その人は、おじいちゃんの持ち物をてきぱきとした手つきで整理した後で、僕に、「町で暮らすなら、学校に通わせてあげるわ。」と言った。悪い人ではなさそうだったけれど、僕はその村を出たくなかったから断った。

「そう?何かあったらいつでも言っていらっしゃいね。」
と、その人は僕に言って、幾らかのお金を置いて帰って行った。

この村では、お金は要らない。なんでも、時給自足だもの。

だけど、唯一。この村に一本だけ立っている電信柱から引いている電気代を払いに、僕は毎月町に出なくてはならない。この村に電気を引いたのも、おじいちゃんの仕事だったらしい。

この村の電気は、町の人みたいに、電話やテレビやトースターに使われるのではなかった。

電気を使う必要があるのは、唯一「ロビン」だけだった。

ロビンは、おじいちゃんが発明したロボットで、不恰好な、金属の寄せ集めだったけれど、僕の唯一の友達だった。ロビンは、「話し相手ロボット」だった。

おじいちゃんは、村でたった一人になった時、寂しくてロビンを作った。そして、息子のように可愛がった。そこへ僕が来た。だから、正確には、ロビンは友達ではなくて僕のお兄さんだった。

僕は、朝、ロビンに起こされる。

「おはよう。今日は、湿度が高いから、午後、ひと雨来そうだよ。」
ロビンの声で僕は飛び起きて、それから、今日は洗濯はできないなあ、なんて思う。

ロビンは物知りだった。

僕が知らない町のこととか。

世界的旅行家というガリバーという人の話を聞かせてもらうのが一番楽しかった。僕も、大きくなったら、ロビンと一緒に旅をする。その前に、僕は、ロビンがコードで電気と繋がっていなくても動くことができるように、ロビンを改造しなくては。そのために僕は、おじいちゃんが残していったたくさんの本で勉強している。

「ねえ。ロビン。そろそろ電気代を払いに行かなくちゃいけないんだ。だから、また、留守を守っててね。」
「分かった。気をつけて行っておいで。町は危険だからね。」

町は危険だからね。

おじいちゃんの口癖だった。

僕は、
「分かってるよ。」
と、ロビンを安心させて。

村で取れる葦を編んで作った籠を売って、そのお金で電気代を払う。

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その週は、町に着いて用事を済ませたところで、大雨に見舞われた。僕は、いつも泊めてもらう、おじいちゃんの娘の知り合いという人のところで足止めをくらった。川が浸水して危ないから、というのだ。僕は、ロビンが心配してやしないかと気掛かりだが、どうしようもない。

そうして、丸一週間、そこで寝泊りする。いつもなら三日で帰るものだから。

僕は、礼もそこそこに、急いで家路につく。

町の人には、ロビンのことは内緒だ。おじいちゃんにも言われているから。ロボットを、まるで人間のように扱うなんて、きっと町の人間は馬鹿にするからね。だけど、おじいちゃんは言っていた。対話すれば、そこに命は必ず生まれるのさ。

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「ロビン、ただいま!」
僕は、元気よくドアを開ける。

返事がない。

僕は不安になる。

怒ってる・・・、のかな。前もこんなことがあった。夜、日が暮れるまで、野苺を取りに行って帰らなかったから。案外と心配症なんだよね。

僕は、ロビンを探して。

それから、奥の部屋でめちゃくちゃに壊されたロビンを見つける。

誰かが、この家に入ったんだ。僕は、この村に来てから、鍵を掛ける習慣というものがなかったから。よく見れば、食べ物を置いておいた場所も幾らか荒らされている。

僕は、しゃがみ込んで。

それから、ロビンの残骸を一つ一つ拾う。

なんてことだ・・・。

きっと、ロビンは、侵入者にも、いつものようにひとなつっこく話し掛けただろう。もしかしたら、僕と間違えていたかもしれない。

僕は、泣く。

これじゃ、直せない。

僕は、声を出して。
「ロビン、お帰りって言ってよ・・・。」

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本当に独りぼっちになった僕は、それでも、村を出て行かない。

出て行こうと思った日もあったのだ。屋根裏の、おじいちゃんの残した本を持って出ようと整理していて。そこで、僕は、電球を見つける。

明かりが点くか試してみた。

それは、ほわっと、暗闇で光って。

僕はそれを見て、また、泣いてしまった。

ロビンがいると思ったのだ。

ロビンは、村で一本だけの電信柱から命をもらっていたんだった。

僕は、寂しくなると、電球をともして、話し掛ける。ロビンと話していたみたいに。それから、本を読む。いつか、新しいロビンを作るために。


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