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セクサロイドは眠らない

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2001年09月30日(日) ねえ。私はそんなに難しいことを望んだかしら?こうやって、私の話を聞いてくれて、ひととき、触れ合ってくれるだけで良かったのに。

「お前にやって欲しいことはね。嘘をつくこと。ああ。人形は嘘なんかつけないわね。じゃあ、こう言って。あなたは美しい、と。それから、愛している、と。」
「かしこまりました。」
「ううん・・・。そうじゃなくて、もっとくだけた口調で。」
「わかったよ。僕のわがままなおひめさま。」
「そう。」
あまりの照れ臭い台詞に私は思わず笑うけれども、彼は真剣な顔。

幼い頃から醜かった私。恋にも縁のなかった私が、必死になって働いて手に入れた高価な人形。美しい男性の体を持ったセクサロイド。誰よりも美しい私の恋人。

「ミサキ、愛しているよ。」
ああ。私がずっと誰かから言って欲しかった言葉。おとうさまもおかあさまも、結局、私にその言葉を言ってくれたことはなかった。それくらい、私は醜い。病気のせいで、骨も曲がり、病院で一人過ごした。

やっと手に入れた、恋人。話し相手。そうして、絶対に私のもとから去らない。

--

「ねえ。海に行きたいわ。裸足で浜辺を歩きたい。」
「もう、この時期は水が冷たいよ。」
「分かってるわ。だけど、ずっと長い間、夢だったの。恋人と浜辺を歩く。それから、ポップコーンとかアイスクリームとか、食べるの。」
「じゃあ、行こう。僕がサンドイッチと飲み物を用意するから、きみはここに座ってて。」
「嬉しい!」
「きみのしたいことなら何だってかなえてあげたいよ。」
彼は私に軽く口づけて、キッチンに立つ。

車に乗りこむ。海までの道は、もう、車もほとんど通らない。

浜辺は、ひとけがなく、夏の残骸が砂浜のあちこちに埋まっている。私は、サンダルを脱いで、波が打ちつける浜辺を歩く。彼と手を繋いで。

「もう、夏も終わっちゃったのね。」
「夏は好き?」
「ずっと嫌いだったわ。海も。」
「どうして?」
「だって。私はひとりぼっちで、他の人がはしゃいでいるのを見てばっかりだったんだもの。ねえ。ずっとこうしたかったの。」
「ずっと一人で寂しかったんだね。」
「ええ。」
「もう、一人じゃない。」
「分かってるわ。あなたがいるもの。」
「そう、僕がついてる。ミサキを一人にはしないよ。愛している。きみは美しい。」

彼は、私を抱きかかえ、ピクニックシートの上に連れて行く。そうして、そうっと寝かせて、私の髪をなで、愛してくれる。

ねえ。私はそんなに難しいことを望んだかしら?こうやって、私の話を聞いてくれて、ひととき、触れ合ってくれるだけで良かったのに。誰も私に触れようとしなかった。誰も私の顔を見て話を聞いてくれなかった。それが嘘でも、本当でも、そんなことはどっちだっていい。誰かからやさしい言葉を。そうして私を賛辞する言葉を。ほんの少しでいいから掛けて欲しかっただけ。そんな私を、誰か笑うかしら。笑うなら笑えばいいわ。どうせみんなお互いに作り物の笑顔。

--

玄関のチャイムが鳴る。

「私が出るわ。誰かしら。お客なんて珍しいわね。」

ドアをあけると、そこには私の美しいいとこのチエリ。

「お久しぶり。近くに寄ったものだから。」
「え、ええ。いらっしゃい。上がってて。」

彼がティーカップを持って入ってくる。
「いらっしゃいませ。」

チエリはジロジロと彼を見る。

「へえ!なるほど。これがあなたの手に入れたっていう人形ね。」
「人形じゃないわ。」
「いいえ。みんな噂してるわ。人間の男に愛されなくて、ついには人形を買ったってね。」
「で、ここに偵察に来たってわけ?」
「やだ。そんな怖い顔しないでよ。ロボットなんて高いんでしょう?でも素敵ねえ。こんな男前のロボットなら、私もパパに頼んで買ってもらおうかしら?」
私は、不快で胃がムカムカする。

「ねえ。ロボットさん。あなた、どんな人間だって愛せるのよね。言うことを聞くのよね。どんな醜い女のセックスの相手だってできるのよね!」
チエリは突然、ゲラゲラと笑い出す。

この女はいつもそうだった。人前では病気の私の唯一の友達のふりをして、そのくせ誰も見ていないところでは私を馬鹿にして。

彼が突然、立ち上がる。

そうして、ゆっくりとチエリに手を伸ばし、チエリの喉に手を掛ける。

「おやめなさい!」
事態に気付いた私は、驚いて彼の手にしがみつくけれど、びっくりするほどの力で、チエリの喉にその指は食い込んで行く。

「愛している。きみは美しい。愛している。きみは美しい。」
彼は、その穏やかなまなざし。いつも、私に愛を語る、そのやさしい瞳。かすかに笑っているかのような、その口元。

もう、彼女は動かない。

彼は、そのやさしい微笑を浮かべた表情を私に向ける。

嘘をつかない、人形。

私に寄り添い、私の心を汲み取ってくれる。素敵な・・・。


2001年09月29日(土) 彼は、私の結い上げた髪をほどき、私のドレスを脱がさずに。ついには、私だけが何度も達する。

「あなた、誰?」
「ぼく?空からまっさかさまに堕ちた天使。だから全身傷だらけ。」
少年はくすくすと、何がおかしいのか笑い続ける。

私の庭の芝生の上で傷だらけの少年が大の字に倒れて空を見上げていた。

「ねえ。きみのところに置いてよ。」
そのキラキラと大きな瞳を私に向ける。

「いいけど。」
若くして、金持ちの夫を失った私は、莫大な遺産を継いで遊び暮らしていた。私に寄生虫のようにくっついている何人もの男達と一緒に。この際、居候が一人増えようがどうだっていいことだ。

「あなた、いくつ?」
「さあ・・・。忘れた。」
「どこから来たの?」
「空からだって言っただろう。」
「ま、いいわ。いらっしゃいな。歩ける?」
「うん。」

私は、空いた部屋に連れて行き、使用人の一人に命じて傷の手当てをさせた。

--

それからというもの、私の日々の生活は、堕天使クンを加えた事でますます狂乱ぶりを増した。

「あいつ、嫌い。」
などと私が口走ろうものなら、堕天使クンは、そいつを殴りに行くのだ。果ては、店からたたき出される始末。そんなこともおかしくてしょうがなかった。

私は、Tシャツと膝のぬけたジーンズ姿なんかで髪を金髪に染めているもんだから、誰だってお金持ちの奥様とは思わないし。

「あなたって、お金持ちらしくないね。」
堕天使クンは不思議そうに訊ねる。

「そう?きみがもっとお金持ちらしくしたいなら、何でも買っていいのよ。」
「ううん。僕はいいんだ。あなたが正装したところを見てみたい。」
「はは。私がきれいな格好を?また考えておくわ。お金以外誰も私のことを相手にしてくれなくなったらお金と遊ぶわ。今はこのボロボロの格好で充分。亡くなった夫も、私の服装については何も言わず好きにさせてくれてたわ。」

そういう堕天使くんは、お酒も飲まないし、私に指一本触れて来ない。私は、堕天使クンと遊ぶのが楽しくて、いつのまにか誰ともセックスしなくなった。いつまでもこんな風に遊び暮らしていられたらいいのに・・・。堕天使クンが現われてからというもの、私はふと悲しくなってしまうことがある。

気が付くと、私の屋敷に居候していた男達は一人もいない。荷物もそのままに、いつの間にか消え失せている。

私が不思議そうに、主人不在の部屋を訪ねると、堕天使クンがニヤリと笑う。

「彼らなら、僕が消しちゃったよ。」
「どういうこと?」
「きみとの二人の生活に邪魔なものは全部消しちゃうってことさ。」

あはは。悪い冗談。でも、その時には、もう私は。そう、恋をしていたの?

「ねえ。結婚しよう。きみには僕しかいないよ。」
「悪い子ね。他の人を追い出したりして。」
「これからだってそうさ。きみと僕を邪魔するものは全部消してあげる。」
「ねえ。」
「なあに?」
「本当に私と結婚したい?」
「うん。」
「じゃあ、ここで抱いて。」
「駄目だよ。」
「どうして?」
「どうしてもさ。」
「まさか・・・?」
「いや、違うよ。僕は時折外に出て、金で女を買う。でも、きみは特別さ。ねえ。愛しい共犯者、世界をめちゃくちゃにしてやろうよ。僕は、そんなきみに欲情する。」
「狂ってるのね。」
「ああ。狂ってるさ。最初から。」

--

私達は、結局、キチガイじみた婚礼を行う。

彼のために、破れたジーンズを脱ぎ捨てて美しく装う。彼は、私の結い上げた髪をほどき、私のドレスを脱がさずに、脚を舐めまわす。彼によって剥き出しにされた部分に、だが彼は指一本触れない。ついには、私だけが何度も達する。

「ねえ。これからどうするの?」
「さあね。きみと僕はお似合いだ。二人合わせれば、ようやく一組の羽。空を自由に飛べる。ネヴァーランドへ行って永遠にこのままで暮らすこともできる。」

そう言って、彼は私に長い口づけをする。

そう?私達のイカれた頭でこの世界に何かして見せることができるなら、こんなにワクワクすることはないわね。やれるものなら、私達以外の全ての人間を消しちゃって。


2001年09月28日(金) 不謹慎だが、僕は欲情していたのだ。死とは、なんと人の欲望を際立たせる出来事なのだろう。

僕らは、大学時代からずっと友人だった。サキと、タクミと、僕。いつも3人だったから、うまくやれたんだと思う。美しいサキと、誠実で生真面目なタクミと、陽気な僕。

最初は、僕とタクミが親しくなった。それから、サキがタクミと付き合うようになって、自然と3人で行動することが増えた。僕は、適当に恋人を作っては、別れ、結局は3人に戻る。僕は、正直に言って、サキに惚れていた。少々不安定なところもある子だが、それだからこそ、僕みたいな安定した外交的な男が似合う、と思っていたのだ。だから、サキがタクミを選んだ時は相当落ち込んだし、大学の講義も随分長く休んだ。それから、あきらめて、3人で行動することを受け入れることにした。
付き合いは、僕達が社会人になっても続いた。

タクミは、広告代理店。サキは、看護婦。そして、僕は商社へ。

僕は、ずっとこのままでいいと思っていた。サキ以外とは結婚する気はなかったから、こうやって彼らの友人としてサキと繋がっていられたら、と思っていた。だが、そのバランスは、ある出来事によって崩れた。

--

深夜、電話が鳴った。

「もしもし。」
「ああ。サキか。どうした?」
「タクミがバイクの事故で、今病院に運ばれたの。」

僕は慌てて部屋を飛び出した。病院の廊下で、サキは泣いていた。昏睡状態だ、と言う。泣きじゃくるサキを抱き締めて、僕自身泣きたい気分だった。きみがチームから抜けたら、僕達はどうなる?

--

きっちり1週間後、タクミは息を引き取った。僕らは、大学時代の友人達に連絡を取り、タクミの葬儀に参列した。黒い喪服姿のサキ。変な話だが、その時、初めて僕はサキが化粧した顔を見た気がする。

葬儀が終わって、僕はサキに声を掛けた。
「うち、寄ってく?」

サキは無言でうなずいた。

「疲れた?」
ソファでぐったりと座り込んだサキに、僕は訊ねた。
「なんだか、気が抜けちゃった。」
サキは微笑んだ。

僕は、サキの横に座って肩を抱いた。サキは少し体をこわばらせたけれど、すぐ体を僕に預けて来た。僕は、サキの喪服のワンピースを脱がせた。下着も黒だね、と僕は笑った。いやだわ、恥ずかしい、とサキも微笑んだ。友人の葬式の日に不謹慎だが、僕は葬儀の間中サキに欲情していたのだ。死とは、なんと人の欲望を際立たせる出来事なのだろう。僕は、サキの恥じらいを押しのけ、かなり乱暴にサキに押し入った。サキも、僕にしがみつき、その細い体からは想像もつかないほど動物的な呻き声をあげた。

僕らは、タクミに見られながら交わっているような気分だった。

--

そうして、僕らは、晴れて恋人どうしになった。

・・・と思っていたのは僕だけだった。

サキは、次の日、「もう、あなたには逢わない」と言ったのだ。

「どうして?」
「だって。あなたといるとタクミを思い出すもの。」
「それはだんだんに慣れて行くさ。」
「何に慣れるって言うの?タクミがいないことに?そんなことに慣れたくなんかちっともないわ。」

駄目だった。何度電話しても、サキは、タクミとの思い出にしがみつき、そこから動こうとしない。

「思い出になんか恋するなよ。僕らは生きてここにいるだろう?」
ああ。
タクミ、どうしてサキの心まで連れていっちまったんだよ?

--

ある日、サキから電話。

「ねえ。私、タクミのところへ行くわ。」
「何?一体どういうことだよ?」
「タクミがメールをくれたの。私達、繋がっているのよ。」
「おい?どういうことだよ?おい?」
そこで電話は切れた。

僕は慌ててサキのマンションに行く。ドアに鍵は掛かっていないが、だが、部屋の中にも誰もいない。開け放した窓に、カーテンが揺らめくだけだ。

電源が入ったままのパソコン。メーラーには、TAKUMIという名前のメール。いずれも古い日付。1999年?2000年?いずれも、タクミが亡くなる前の日付。1999年には、サキはまだパソコンなんか持っていなかった。

TAKUMIからの最後のメール。
「ここへおいで。僕は、すぐ近くにいるんだよ。」

ねえ。サキ、一体どこに行っちまったんだ?TAKUMIって誰だよ。

--

僕はその日から何度もサキの部屋に足を運んで、モニタを眺める。何も答えは出てこない。僕がTAKUMIなる人物に送ったメールは、いつも宛先不明で返って来る。

「思い出になんか恋するなよ。僕らは生きてここにいるだろう?」
そうやって、自分がサキに言った言葉が、今頃になって僕の胸に突き刺さる。僕は、膝を抱えて、ただ、モニタからサキが呼び掛けてくるんじゃないかと座り続ける。


2001年09月26日(水) 「もう、終わりよ。知ってるくせに。」僕が下着に滑り込ませた手を払いのけもせず、彼女は言う。

「大事なのは生きて行くことだよね。」
少年がいきなり言う。

7歳の心臓を患った少年と、主治医の僕。

「死んだら、何か違うもの。たとえば、魚なんかに生まれ変わるってママは言うんだ。でも、僕は、僕に生まれ変わりたい。カシワギレンになりたい。もう一度僕に戻って来たいよ。」
「ふうん・・・。そうなのか。僕なんか、全然違う人に生まれ変わってみたいけどね。」
「先生は、もう、なりたいものになれたからいいじゃない。」
「きみだって、なりたいものになれるよ。あっという間さ。」

少年は、急に会話を離れて窓の外を見る。

果物ナイフと皿を洗いに行っていた母親が戻って来た。疲れていて、美しい少年の母親。夫は、もう随分と長い間帰って来ないの、と、夕べささやいた声を思い出す。乾いて見えるその表情も、昨夜は芳醇に潤って、「食べ尽くして」とささやいて来た。患者の母親と寝るなんて馬鹿げているかもしれないが、その美しさ。その凛とした、漆黒の髪。生真面目な瞳。手を伸ばさずにはいられなかった。どんな言い訳も、彼女の美しさの前に無用なのだ。

「ねえ。レンくん。ママ、ちょっと先生とお話があるから1人で待っててね。」
「うん。わかった。」
「先生、ちょっといいかしら?」
「ええ。」

病室のドアを出ると、彼女はまっすぐに僕の目を覗き込みせっかちに聞いてくる。

「で?レンの具合はどうなのかしら?あなた、昨夜ははぐらかしておしまいになったわ。」
「別にはぐらかしたわけじゃない。」

言うそばから、僕は彼女の細い腰に手を回したくてどうしようもなくなる。

「あと1回手術すれば、外に出られるようになるよ。」
「ほんとう?」
「ああ。」
「なにか希望が欲しいの。はっきりとした。あてのない慰めならいらないわ。」
「分かるよ。」

思わず、彼女の額に伸ばした指を、彼女は邪険にはらう。

「今夜、行っていいかい?」
「あなたという人は。」
怒りに震える声と裏腹に、彼女の欲望が溢れ出してくるのが見てとれる。彼女の怒って見せる顔もかわいらしい。その真面目な唇をふさいでしまいたい。

「でもごめんなさい。今夜は駄目なの。」
彼女は踵を返して、病室に戻る。

--

2回目の手術が終わって、僕は疲れてソファに腰を下す。うまく行けば、少年は元気になるだろう。少々の失望を伴って、僕はその結果を歓迎する。本当は、子供なんて邪魔なんだ。それなのに、彼女の歓心を買うために、少年の治療に全力を尽くす。少年が元気になって退院すれば、多分、彼女とはそれっきりなのだろう。

レンの表情が浮かぶ。母親似の黒い髪。白い肌。少し赤過ぎる唇。
「大人になったら、みんななりたいものになれるはずじゃないの?先生も、ママも、そんなに悲しそうなのはどうして?」
「さあ。どうしてだろうな。欲しいものを急いで手に取ろうとすると、どこか間違った方向に導かれて行くのさ。大人って変だろう?」

看護婦からの内線で、患者の母親が会いたがっている、と連絡が入る。

--

「どうでしたの?」
彼女はもどかしげに聞く。

「成功でしたよ。」
僕は、短く答える。

「そう・・・。良かった。」
彼女の目が潤んで見える。

「今夜、屋上にいらして。少しお話したいの。」
「ええ。」

--

もう、屋上は肌寒い。

洗濯物のシーツがひらめく。

「私のどこが好き?」
「え?」
「私のことが好きなんでしょう?」
「ああ。その真面目なところや、やさしいところ。なんて、月並みだな。とにかく、きみが全部好きだ。」
「真面目なこと。忍耐強いこと。人の話をちゃんと聞くこと。そういうことは全部、人に踏みつけにされるためにあるのよ。」
「そんなことはない。」
「いいえ。そうなの。私、怒ってるの。分かる?」
「いや。どうして?」
「さあ。誰かの目をちゃんと見て、ちゃんと話をしようとすればするほど、その人はいつも私を傷付けて行くわ。」

彼女は、いつも怒っているのだろう。

彼女の亭主のことも、僕のことも。レンのことだけが支えなのか?

「ずっと、こんな風に会いたいんだ。」
僕は、彼女の震える肩を抱きしめて、口づける。怒りに燃えた表情の奥から炎が噴き出したように、彼女は熱い吐息を吐く。

「もう、終わりよ。知ってるくせに。」
僕が下着に滑り込ませた手を払いのけもせず、彼女は言う。

--

深夜、レンの容態が悪化した、と、連絡が入る。

僕は慌ててレンの病室に駆けつける。

「どうしてだよ?」
僕は叫ぶ。手術は成功したはずだろう?きみは、きみを離れずに済んだんだよ。カシワギレンのまま、こうやって、なりたいものになるために新しい人生を踏み出すんだっただろう?

他の医師に応援を頼み、看護婦に指示を出す。

そのそばで、のっぺりと表情を失くした彼女に気付いて、僕は足を止める。

「いつも急ぎ過ぎてしまう。どうしても手に入れたかったの。あなたを。」
彼女は僕の顔を見ないで、つぶやく。


2001年09月25日(火) それより。なあ。おまえ。そろそろ俺の子供を産んでくれ。お前にそっくりな美しい子を。

今日もピアノの音が。静かな子守唄の旋律。

私は産まれてからずっとこの部屋で暮らしている。一歩も外に出たことがない。お母様が亡くなってから、気の狂ってしまったお父様が、この部屋を出ることを許さない。

「ねえ。素敵なピアノの音色。誰が弾いているのかしら?」
一度だけ、部屋に食事を持って来た者に尋ねたことがある。

「ピアノ・・・、ですか?さあ。私には聴こえませんが?」
少し青ざめて答えると、そそくさを部屋を出て行ってしまった。

部屋の外に出たい。前みたいに、花や蝶を眺めて、お庭で過ごしたい。

悲しくて泣きそうになると、ピアノの音が静かに始まる。心を慰める音。どんな美しい心の人が弾いているのでしょう?

--

父は、私を産んで間もなく母が亡くなってしまってから、気が狂うほど嘆き、ある日、母そっくりに美しく成長した私を、母だと思い込んでしまった。そうして、体を壊してはいけないと、この部屋に閉じ込めて、一歩も外に出してくれなくなった。最初の頃は随分と泣き、反抗して、外に出ようとした私だが、最近では父の狂ってしまった瞳が悲しくて、私は母のふりをする。

--

ある夜、父が酔って私の部屋を訪ねてくる。

「まだ起きていたのかい?お前。」
「ええ。」
「体が弱いのだから、寝ていないと。」
「でも、あなた、私元気ですわ。」

それでも、いつもはやさしい父が、今日は泥酔して私を奇妙な目で見つめる。酔った父は、私のいるベッドの端に腰をおろし、もっていた酒瓶をあおる。

「そんなに飲んではいけませんわ。」
「なに。いいんだ。もう、俺の肝臓は石みたいに固くなっちまった。心臓は、ポンコツみたいにドキドキ鳴って、そのまま止まってしまうのかと思うくらいさ。
それより。なあ。おまえ。そろそろ俺の子供を産んでくれ。お前にそっくりな美しい子を。」
彼は私をベッドに押し倒す。

ドレスを脱がす手や、酒臭い息にぞっとして、私は吐き気をこらえる。目をつぶって祈る。おかあさま、助けて。もう、私にはおかあさまのふりは出来ない。私は私。あなたの娘よ。

「いやっ。いやいやいや。」
「どうしたんだい?いつも俺の言うことを良く聞くやさしいお前が。」
「私は、おかあさまじゃない。あなたの娘。」
「何を言ってるのかよく分からない。俺達に娘なんかいない。」
「いますわ。お母様はもう死んでしまった。私を産んで。」
「おまえは死んじゃいないさ。」

彼の手が、私の体を動けぬくらい強い力で抑えつける。

あ。ピアノの音。

その時静かに始まるピアノの音。

父も、顔を上げて、ピアノの音を捜す。

「どこから聞こえてくるんだね?」
「お父様にも聞こえるのね?」
「ああ。この曲は。」

父ははっとして私を見つめる。

「お前は?」
「ええ。私はあなたの娘。」
「そうだ。この曲は、お前が幼かった頃、かあさんが弾いて聞かせた子守り歌。あの頃、俺は幸せだった。この部屋で。ほら、あそこにピアノがあって。俺は小さな小さなお前を抱き、かあさんがピアノを弾いた。」

父は、突然顔を覆って泣き出す。

ピアノを弾いてくれていたのはおかあさんだったのね。

ピアノの置かれていた場所は、床が色褪せて。黒ずんだシミが広がっている。

ピアノの静かな旋律はだんだん激しい旋律へと変わってゆく。止まらない。何かを伝えようと狂おしく激しく。

どうしたの?おかあさま?


2001年09月24日(月) 「お前は俺を愛するために作られた。」と男は言う。愛してくれ、と、何度も言う。どこにも行くな、と、首に鎖をつける。

「お前は俺を愛するために作られた。」
と男は言う。

科学者としては優秀だが、顔に醜い痣があって、誰からも愛されない男。彼は、心をなぐさめるため、美しい人形である私を作った。外に一歩出れば、冷淡で感情を見せない男が、私の前では、子供のように甘えたり、泣いたり、怒って私をぶったりする。愛してくれ、と、何度も言う。どこにも行くな、と、首に鎖をつける。

--

ある日、唯一の友人が金の無心をしに訪ねてくる。貧しい小説家で、美貌の。科学者の男は馬鹿にした笑いを浮かべて、小説家を見る。

「どうだい?俺の人形。俺の言うことは何でも聞くんだよ。」
科学者は、ゲラゲラ笑いながら、小説家の前に私を連れて来る。

「すごい・・・。すごくきれいだね。」
「ああ。そこいらの女よりずっと美しい。従順だ。それに、感情に近いものが持てるんだよ。」
「感情?」
「ああ。毎日、俺に奉仕していれば、少しずつ俺を愛するようになる。」
「ふうん・・・。よく分からないな。どうすれば、人形が愛情を持てるの?」
「人間と同じさ。時間を掛けて接した対象を大切に思うようになる。優先度とか、そういった問題だよ。」
「へえ。そんなものなのかな。」
「ああ。」
「ほら、見てみろよ。」

科学者は、ニヤニヤして私の服を脱がせ、乳房を掴む。
「きれいだろう?」
「あ・・・、ああ。早く服を着せてやれよ。」
「はは。変なヤツだな。人形だよ。」
「でも、感情を持つんだろう?」
「そうだよ。何より、俺を愛する。俺が神様だ。」
「なんだか間違ってるよ。」

小説家は、首を振って眼鏡を拭く。

--

「なあ、俺は間違っているか?」
科学者は、小説家が帰って行ったあと、私の膝に頭を預けて何度も聞く。

「いいえ。間違っていませんわ。私は誰よりもあなたさまを愛します。」
科学者は、子供のように泣き出す。

--

ある日、小説家が訪ねて来る。

「もうしわけございません。ご主人様は、外出中ですわ。」
「そうか。だったら、待たせてもらうよ。金を返しに来たんだ。」

コーヒーカップを彼の前に置いて、私は彼の向かいに腰を掛ける。

「感情があるって、本当?」
「私には分かりませんわ。感情なんて、人間が名付けたものですもの。私はご主人様に従うだけです。」
「そうか。」
「どんな小説をお書きになるのですか?」
「そうだな・・・。食べるための小説。きれいで、何の変哲もない文章。」
「幸福ですか?」
「さあ。そんなことはあまり考えないようにしているよ。」
「悲しそうですわ。」
「そうかな。そうかもしれないな。僕は、まだ本当のことが書けない。」
「本当のことって?」
「恥ずかしくて、剥き出しの、僕そのもの。」
「いつか書けますわ。」
「だといいな。」

小説家は、今日は帰るよ、と私に言って部屋を出て行く。

--

ある日、科学者の部屋からちょっとしたボヤが出る。火はすぐ消し止められたが、私は顔を焦がして醜い姿になる。科学者は怒り、失望し、俺の前から姿を消せ、とどなる。

私は、言われるままに部屋を出て・・・。

どこに行けば?

小説家の部屋を訪ねる。

「やあ。おはいり。」

私は、なぜここに来たのだろう?

「今、小説を書いてたんだ。」
「どんな?」
「人形の愛について。」
「愛?」
「そう。」
「それから、ありのままの僕の物語。」

私には分かる。

私が感情を持つ人形だとすれば、その感情に名前をつけてもらうためにここに来たのだと。


2001年09月23日(日) 彼のモノが私の中にずっしりと入ってくる。急がないで、ゆっくりと。そこに嘘はないし、虚飾もない。

携帯が鳴る。

「もしもし?」
「あ。ハルカ?俺。タキザワ。」
「だれ?」
「俺だってば。どうしたんだよ、この間から。」
「すみません。あなた、誰ですか?切りますね。」

「誰だったの?」
バイト先の主任が心配そうに聞いてくる。

「分かりません。この前も掛けてきたんですけど。しつこいなあ。」
「番号変えたほうがいいんじゃない?」
「ええ。すみません。」
「ストーカーだったり?」
「やだなあ。そういうんじゃないとは思いますけど。でも、私の名前知ってるんですよ。それより、主任のほうはどうなんですか?狙ってる女の子がいるっていう話。」
「ははは。覚えてたのかぁ。なかなか誘えなくてね。ま、ぼちぼち行くわ。」
「そうですか。頑張ってくださいね。おさきです。」
「おう。おつかれっ。」

バイトの制服を脱いでいると、イクミが更衣室に入ってくる。

「ね。映画観て帰ろう?」
「いいけど。また、コウくんと一緒でしょう?私、お邪魔じゃない?」
「いいんだって。お願い。一緒に帰ってよ。コウスケって無口だから、間が持たないんだもん。」

イクミは夏の間だけのバイトで一緒になった女の子だ。もともとそんなに友達が多くない私は、活発なイクミに誘われると単純に嬉しくて、あちこち一緒に遊びに行った。そんな時、いつも一緒なのがイクミの恋人のコウスケだ。

バイト先のビルを出ると、コウスケが私に向かって頭を下げる。

--

映画館の中で、退屈なラブストーリーが続く。

私は、暗闇の中でそっとコウスケの手を握る。

彼も、私の手を柔らかく握り返す。

今だけ。今だけだから。手をほどかないで。

--

夏が終わる。一足先に、イクミがバイトの期間を終了する。なんでも、バイトで溜まったお金で海外に行くらしい。

「いろいろ、ありがとう。」
「また、帰国したら電話するから、遊ぼうよ。」
「うん。」
言葉を交わすけれど、多分、私達はもう二度と会わないだろう。

--

コウスケから電話が鳴る。

「ハルカ?今から、会える?」
「うん。」

コウスケの背中は、広い。無口な彼の言わない言葉が、彼の後ろ姿からこぼれ落ちてくる。いつだって、この背中にしがみつきたくなる。

「イクミが帰ってくるまで、でしょう?」
コウスケは、無言で、私の手首に、脇に、乳房に唇をつける。

「本当にいいんだね。」
彼の言葉に、私は黙ってうなずく。

コウスケのモノが、私の中にずっしりと入ってくる。急がないで、ゆっくりと。そこに嘘はないし、虚飾もない。ただ、彼が、彼の大きさのまま。ねえ。イクミのことなんか忘れて。私を見ていて。ねえ、今だけ、私のことを想ってくれている?

コウスケは私に背中を向けて服を着ながら、ボソリと言う。

「イクミとは別れたんだ。」
「え?」
「だから、俺達、もう隠れて会わなくていいんだよ。」

--

今日でバイトの最終日。

携帯が鳴る。
「もしもし?」
「ハルカ?俺、コウスケ。」
「だれ?」
「俺だよ。分からないの?」
「ごめんなさい。分からないわ。切ります。」

「また、イタ電?」
主任が聞いてくる。

「ええ。ほんと、困っちゃう。それより、主任、どうもお世話になりました。」
「ハルカちゃんいなくなると寂しくなるねえ。」
「うん。私も。すごくよくしてもらいましたもの。」
「また、遊びにおいでよ。」
「ええ。それより、主任、例の彼女どうなりました?」
「あ?ああ。へへ。」
主任は、急に顔がニヤける。
「デート誘ってね。それから急接近なんだよ。」
「へ〜。いつの間に???」

ずきん。

あ。胸が痛い。どうして、男の人はみんな、他の女の子を好きになっちゃうんだろう。

「ねえ。主任。」
「ん?」
「今日は、最後だから、このあと飲みに付き合ってくれません?私が奢りますから。」
「あ、ああ。いいけど?奢ってもらうのは悪いなあ。」
「いいんですよぉ。その代わり、今夜はとことん付き合ってくださいね。」

いつも、みんな、素敵な恋をして。

ねえ。

私はいつも置いてけぼり。


2001年09月22日(土) 「きみは最初からないものを愛してしまったのかもしれないよ。本当の僕なんて、どこにもいないのかもしれないよ。」

なんて美しい人だろうと思った。長く艶やかな髪を後ろで束ね、きびきびとした足取りで歩く。何の装飾品も身につけず、いつもシンプルな濃い色のワンピースを着ている。華奢だが、長くすらりと伸びた手足。ふくよかな胸に母性を感じる。希望の大学を落ちて予備校に通い始めた私は、そこの講師である彼女を見て、胸が高鳴るのを感じた。生徒にも人気で、男の子達が噂しているのもよく聞いた。

恋?馬鹿みたい。女の私が女性に恋するなんて。ああ。でも、彼女は別。男とか、女とか、そんなことは関係なく、人間としてあまりに確かに色濃くそこにいて、誰にも真似できない。

なんとか、そばにいて触れていたい。

私は、授業が終わるのを待って、彼女にちょっとした質問をするようになった。わざと難しい数学の問題を探しては、彼女に差し出す。彼女が問題を読む時の真剣な顔も、なめらかに説明するその声も。大好き、大好き、大好き。

「・・・・・。というわけ。分かったかな?」
「はい。」
「じゃ、もうお帰りなさい。」
「あの。」
「ん?」
「ちょっとだけ、付き合って欲しいんです。進路のこととか、いろいろ相談したいんで。」
「進路のことだったら、進路指導相談のほう、申し込んであげましょうか?」
「いえ。先生に聞きたいんです。」
「いいわよ。じゃ、向かいの喫茶店に行きましょう。」

私は、二人きりになれると思うと、それだけで胸がどきどきしてくる。

カプチーノの泡をスプーンでつつきながら、私は、なかなか言葉が出て来ない。
「で?どんな相談?」
「あの。」
「ん?」
「先生のこと。」
「私?」
「うん。変かもしれないけど、好きみたいなんです。」
「あら。」
「すみません。進路のことなんかじゃなくて、先生のことが気になって。」
「悪いけど、私はそちらの趣味はないし・・・。」
「ええ。分かってるんです。私だって、男の子が好きな普通の女の子です。でも、先生は違うんです。」
「おかあさんとか、お姉さんみたいに、ってこと?」

私は首を振る。そうじゃない。あなたはあなただから。誰でもないあなただから。あなたが男であっても、女であっても、私はあなたが好き。ふと見ると、彼女のカップを持つ手が小刻みに震えている。

「大丈夫ですか?」
「え?ああ。ごめんなさいね。」
「あの。冗談とか。そういうんじゃなくて。見てるだけで幸せで。それなのに先生に触れてみたくなって、時々、辛くて涙が出そうになるんです。」
「・・・ないで・・・。」
「え?」
「触らないで。私には決して。」

彼女は、苦しそうにつぶやく。そうして席を立つ。私は慌てて後を追う。

「すみません。私・・・。」
背後から声を掛ける。
「いいのよ。今日は、私ちょっと調子が悪くて。また、今度お話しましょうね。」
ゆっくり振り向いて、彼女は弱々しく微笑む。

私は、とんでもない間違いをしてしまったらしい。ごめんなさい。背後から抱き締めたい衝動を抑えて、彼女を見送る。

--

もう、数日、彼女は予備校を休んでいる。私は、彼女の授業に代理の講師がやってくるたびに、気持ちが沈んでいく。私のせい?私のせいだわ。

思い余って、彼女のアパートを訪ねる。何度も何度も、チャイムを鳴らす。祈るような思い。

長い時間が経って、ようやくドアが開く。ボサボサの髪によれよれのジャージの上下を着た彼女。いつもあんなに身奇麗にしていたのに、と、私は少々驚く。

「来てくれたんだ?」
「ええ。ごめんなさい。」
「上がる?」
「いいんですか?」
「ご覧の通り、ひどい状態だけどね。」

彼女は、お茶を煎れてくれて。私達は、黙ってソファに並んで座る。

「間違って生まれて来た。」
長い沈黙のあと、彼女が口を開く。
「間違った容れ物に入って生まれて来たんだ。」

よく分からない。何のこと?

「本当は、女じゃなくて、男に生まれたかった。ずっと自分の体を呪って来た。
ずっと苦しんで来た。
たくさんの愛を拒んで来た。
誰にも言えなくて、ただ、男の体を取り戻すためだけに、必死で生活して来た。
女性のことも愛した。
だけど、この体が邪魔をするんだよ。この体を鏡で見るたびに吐き気がする。」
「あの・・・。私には良く分からないけれど。それでも先生が好きです。」
「そう。ありがとう。」
私は、冷たく震える彼女、いや、彼の手をそっと握る。

彼は、その手をそっと振り払う。
「これは、僕の本当の体じゃない。」

「とても疲れた。寝て起きたら、元通りの、男の体に戻っていたらどんなにいいかと思いながら、いつも目覚めてはガッカリするんだ。」
彼は、つぶやいて、私の肩に頭を預けて、目を閉じる。私も、愛する人の鼓動を聞いて、ようやく安らかな気持ちになり、まどろむ。

夢の中で、彼は男の肉体で、力強く私を抱き締める。彼の唇が、私の唇を包む。平たく筋肉のある胸と、たくましく勃起したペニスを、私は愛撫する。彼も、また、私の体を、そう、とても大切なもののようにそっと。彼の女性の体を知り尽くした繊細な指が、私の敏感な部分をいつくしむ。

--

「そろそろ帰りなさい。日が暮れてきた。」
彼は、私を起こす。

アパートの外は、夕日が。

真っ赤に燃えて、泣いているように。

「もう、会えないんですね。」
彼はうなずく。

「本当の僕になって、きみに会いに行くよ。」
「本当に?」
「ああ。本当の体を取り戻して。」
「それまで、信じていていいんですか?」
彼は、黙って私の目を見る。

「きみは最初からないものを愛してしまったのかもしれないよ。本当の僕なんて、どこにもいないのかもしれないよ。」
地面に目を落として、彼は言う。

「それでも、恋してしまったから。どうしても。恋せずにはいられなかったから。」
私は、泣いている顔を見られるのが悲しくて、両手で顔を覆う。

「もう行こう。」
彼は、私の肩にそっと手を触れると、私に背を向ける。

彼の美しい黒髪が揺れるのを目の奥に焼きつけて、私も、自分が帰る道を振り返らずに歩き出す。


2001年09月21日(金) 何度も何度もキスをしてくる。これから?これからどうなるの?服を脱ぐ?ねえ。待って。お願い。

2時間目の授業が始まる前、ノリコがそっと耳にささやいた。

「昨日、やっちゃった。」
「え?」
「うん。彼と。」
ノリコは、嬉しそうに笑っている。

「良かったじゃん。で?どうだった?」
「う〜んっと。そんな気持ちいいもんじゃないよ。」

チャイムが鳴る。

「あとで聞いてねっ。」
「うん。」

中学の頃からずっと一緒のクラスで、高校に入っても親友であるノリコとは、初体験を済ませることが結構大きな関心事だった。

うらやましい?ええ。うらやましい。
こわい?ええ。こわい。

セックスってそんなにすてきかな?あの興奮より、もっとドキドキするかな?

--

「ただいま。」
返事はない。

ママからの留守電。今日は仕事で遅くなる・・・、か・・・。

パパとママが離婚してから、私はますますママとは会話しなくなった。空想好きで気の弱いパパと、想像力のかけらもない気の強いママ。ママはいつも仕事が忙しく家ではいつも疲れていた。だから、私はパパと過ごす時間のほうがずっと長かった。

子供の頃、パパといつもやっていた遊びを思い出す。

パパが目隠ししてくれる。

そうやって始まる空想ごっこ。

「ミイヤは、さて、今日は何になる?」
「んーっと。鳥さんになります。」
「じゃ、ミイヤは可愛い鳥さんだ。空は広くて、ミイヤは、その中をいろんなところに遊びに行きます。あ。雨だ。大きな黒い黒い雲が近付いてくるよ。どうする?ミイヤ?」
「えっとね。雨は、ミイヤのそばでは、綿菓子になります。ぴんく色のふわふわした綿菓子です。」
「それは素敵だ。」
「ミイヤは、それを食べたら、お腹が空きません。」

パパは、目隠しした私を膝に乗せて。時には、抱き上げてくるくる回って。時にはキャンディをそっと口に入れてくれて。そっとほっぺにキスしてくれて。

そんな時、急に帰って来たママは、私とパパがはしゃいでるのを見ると、ふん、と鼻を鳴らして、自室にこもってしまう。

ママも一緒に遊べばいいのに。

ママは疲れてるんだよ。邪魔しちゃいけないよ。

今思えば、パパは、ママと一緒に遊びたくなかったんだろうな。パパは私といる時だけが幸せそうだった。長い長い話し合いの末、うちを出て行くことになったパパは、ものすごく悲しそうな顔をして私を抱き締めた。その時、中学生になっていた私は、まだ、時折パパと空想遊びをしていた。奇妙な親子だったかもしれないけれど、私は目隠しして空想遊びをする時、なんだかドキドキして、不思議に興奮していたのだ。

だけど、パパに最後に抱き締められた時。目隠しなんかせず、玄関口で、目を少し赤くしたパパに抱き締められた時。悪いけど、パパなんかに抱き締められるのはちょっと気持ち悪いと思った。だから、私は泣かずに、少々の荷物を積んだトラックに乗り込んだパパを見送った。

--

「今日、うち来る?」
シンジが私に言う。

「え?シンジのお母さんは?」
「いないんだ。ばあちゃんち行って遅くなるって。だから来いよ。」
「うん。」

とうとう。かな?

シンジの部屋は、男の子の匂いがして、私はドキリとする。シンジは、部屋に入るなり、抱きすくめてくる。私をベッドに座らせると、シンジは、何度も何度もキスをしてくる。これから?これからどうなるの?服を脱ぐ?ねえ。待って。お願い。

「いいんだろ?」
「ええ。でも。」
「でも?」
「怖い。」
「大丈夫。」
「お願いがあるの。」
「なに?」
「あのね。目隠しして。」
「目隠し?」

シンジは、少し驚いた顔で私を見る。

ええ。そうよ。目隠しせずに抱き合うなんて、ソックスはいたままセックスするよりもっと恥ずかしい気がするの。だから、お願い。


2001年09月20日(木) 彼が腰を動かしながら、私にそうささやく。切ない想いが募って、喘ぎ声が悲しく響くけれど、あなたにはその悲しみが聞こえていない。

久しぶりに彼に会ったのは、仕事の打ち合わせでクライアントのところに行った、その席でだった。彼は私を覚えていなかった。そう。大学の時、憧れて見つめていただけだから。彼にふさわしい年上の、美しく、理知的な恋人を連れていて、私はその素敵なカップルをただ遠くから眺めていただけだったのだ。そんな完璧に見える関係だったが、年上の恋人の卒業とともにあっさりと解消してしまった事に、まだ恋をあまり知らない私は驚いたものだった。

一度だけ、一足先に卒業して福祉関係の仕事についた、その彼の恋人と電話で話をしたことがある。
「どうして、あんな素敵な人と別れたんですか?」
彼女は、私の質問を少々笑い飛ばしながら答えた。
「社会には、彼よりいい男はいっぱいいるわよ。」

打ち合わせが終わって、ミーティングルームを出たところで、私は彼に追い付いた。

「あの。XX大にいらっしゃったXXさんですよね。」

彼はにっこり笑って、私に興味を持った。それから、近くの喫茶店で、私は自己紹介をした。

彼と寝るまでの時間は短かった。つまりは、彼は、やってくる女の子達を無造作にリストに加えて行くのだ。私は彼に恋をして、彼の部屋に通い、料理を作り、ベッドにもぐりこんだ。だが、そんなものは、彼にとって特別な女性であることを意味するものではない。彼はそれを隠さなかったし、私は、そんな彼をとがめなかった。抱いて欲しがったのは私だから。彼の心を求めるのは無理だと分かっていたから。

彼は、その時、別の女の子を追いかけていた。私や、たくさんのリストの中の女の子達と寝ながら、違う女の子に身を焦がすゲームをしていた。彼は、それらの全てを一切隠すことなく、私を抱く。

時折、彼が、「おいで」と言ってくれる日は、夕飯の材料を抱えて彼の部屋へ行く。そうして、束の間の恋人のふりをする。愛されないみじめさを精一杯隠して、彼のゲームの成果を聞く。

もう、何度彼に抱かれただろう。

「最近、なんかお前の声、色っぽくなったよな。」
彼が腰を動かしながら、私にそうささやく。

切ない想いがつのって、喘ぎ声が悲しく響くけれど、あなたにはその悲しみが聞こえていない。

--

夜、彼の部屋を出て、夏の終わりのひんやりとした空気を吸う。

「じゃあね。」
私は、いつも、またね、とは言わない。
「ああ。じゃあな。」
彼も微笑む。
「少し、涼しくなったね。」
「うん。帰って行くのが俺だったら良かったのにな。夜道を帰るのは寂しいだろう?」
「ううん。」

彼の台詞に苦笑しながら、夜道を行く。さっきまで誰かがいた部屋に戻るよりは、誰もいない夜道を一人で帰るほうがよっぽど寂しくないのに。

あなたに私の心が分かる筈もない。あなたはいつだって、誰かを待っていたことはない。ヒラヒラと、花の間を舞うばかりの蝶のように。

--

夏の終わりというより、秋の始まり。

私と彼は、車を走らせて海に行った。もう、ひとけのない浜辺で、砂浜に腰を下してアイスクリームを舐めた。

「俺達って寂しいよな。」
と、彼は言った。

そう。あなたは他の女の子を想い、私はあなたを想っている。私の想いを知っている男から「寂しいよな」なんて言われる私は、なんて寂しいんだろう。

海は、誰も来なくても、夏の間と同じように規則正しく打ち寄せている。きっと海の中は、私を取り巻く空気よりずっと暖かい。彼の体が海に沈んで行くことを思う。彼の重たい体は静かに静かに水中を下りて行き、たくさんの魚達が彼の体をついばむ。もう、群を成す魚に、彼の体は見えなくなる。魚が散って、そこには彼はもういない。骨さえない。何もない。何もなかった。

「そろそろ行こうか。」
スカートの砂をはらいながら、私は、彼より先に立ち上がる。

夏は終わった。


2001年09月19日(水) ああ。だが、その瞬間。僕は興奮して、背筋がぞくぞくしたよ。下半身が熱くなり、その興奮はいつまでも体に残った。

僕は、もう随分長いこと寝たきりですっかり退屈している。5歳の時、手足の筋肉がちょっとずつ萎えていく病気になってから、もう10年が経った。まだ、手は動くから、自分で本を読んだり、絵を描いたり。でも、手だって、少しずつ動きが鈍くなっているのが分かる。そのうち、手足がダラリとした人形みたいになっちゃうんだ。怖いかって?ああ。怖い。自分で自分の欲望を満たすことすらできない。どんなに怖くたって、自分の足で逃げ出すことすらできないんだ。そうやって、何年も掛けて僕は死んで行く。

僕の世話は、ドールがする。メイド型のロボットだ。僕は、この人形を見るとイライラする。人形でさえ、僕なんかよりずっと自由だ。10年前に僕の世話をするために連れて来られてから、10年。僕は、随分とこの人形にひどい言葉を投げつけて来た。それでも、人形だから。何も感じない人形だから。僕が気に掛けることですら、ない。

庭に猫が迷い込んだ。まだ、産まれて間がないのだろうか。小さな声で「ミウ、ミウ」と鳴いている。

僕は、ドールに言う。

「あの猫、連れて来てくれないかな?」
「はい。ご主人さま。」

ドールは、間もなくその小さな震える生き物を抱えてくる。ドールに命じて、ミルクと、毛布を持ってこさせる。ダンボールに入れた子猫はブルブルと震えて警戒している。

--

それから、僕は、子猫と遊ぶようになった。いや。本当のところはいじめてるんだ。猫の足を押さえて動けなくする遊びをしているうちに、猫の足が折れてしまい動けなくなってしまった。可哀想に。これは、僕だ。動けなくなった僕。

なんて、嘘。

僕は、可哀想だなんてこれっぽちも思わなかった。ああ。だが、その瞬間。猫がギャッと悲鳴をあげた瞬間。僕は興奮して、背筋がぞくぞくしたよ。動かぬ下半身が熱くなり、その興奮はいつまでも体に残った。

--

僕は、ドールを呼ぶ。

「ご用は何ですか?」
「この猫、殺してくれないかな。」
「コロス?」
「ああ。ナイフで、切り刻んで欲しい。猫が苦しむのを見てみたいんだよ。」
「できませんわ。」
「どうして?」
「ドールは、命を奪ってはいけません。そう作られているのです。」
「だけど、これは命令だよ。」
「ドールは、命を奪ってはいけません。」
「言うことを聞かないやつだな。お前なんかスクラップにしてやる。」

僕は、イライラして、猫を捨ててくるように命ずる。こんな猫、外に放り出したらあっという間に死んでしまうのに。

ドールは、子猫を抱えて、静かに部屋を出て行く。

--

それから数日、僕は気がふさいで、何もできない。誰とも口をきかない。僕はどこかに行きたい。僕が本当の僕になれる世界へ。

「お食事をおもちしました。」
「ねえ。」
「はい。ご主人様。」
「僕をこのナイフで切ってみてくれないか?」
「ドールは人を傷付けることはできません。」
「ちょっとだけなんだよ。」
「ドールは人を傷付けることはできません。」
「命令だよ。」
「ドールは人を傷付けることはできません。」

僕は泣き出す。こうやって少しずつ死んで行くのを待つばかりなんていやだ。切り刻んで。僕を殺して。僕は、どうせ痛みなんか感じやしない。ただの人形同然なんだ。

「ドールは人を傷付けることはできません。」

うるさい。うるさい。うるさい。

--

僕は、ママを呼ぶ。

「ねえ。あのドール、もう古いだろう。ちっとも言うことを聞かないんだ。だから新しいのを買ってちょうだいよ。新しいのは、絶対、僕の言うことに服従するやつにして。おねがいだよ。言うことを聞かない人形にはうんざりだ。」


2001年09月18日(火) 女の乳房を掴む。肩に歯をくいこませる。女はうめく。たわわで美しい乳房が体に踊る。

その素晴らしい庭園には、鯉がおり、美しい白銀の背中を見せて流線を描く。

私がその屋敷に連れてこられたのは、そこの主人の花嫁として所望されたからだと聞いた。屋敷の主人は、鯉を飼うのが道楽で、彼が育てた鯉は幾つのもの品評会で賞を取るほど素晴らしい。

小さな村で、両親を亡くし、老いた祖母と暮らしている、15になろうかという私の噂をどこでどう聞きつけたか、その屋敷の者が私を迎えに来た。村の者は厄介払いができるとほっとして私を送り出した。

主人はやさしい人だった。ただ、美しい着物を着せてくれ、栄養のあるものを食べさせてくれ、よく干されたあたたかい布団で寝かせてくれた。花嫁になるまでの日々は好きなように過ごしなさいと、そう言い渡されただけだった。

私は、主人がどんな人か知らないまま、やさしくてあたたかくて大きな、その人の花嫁となって抱かれる日を夢みて、毎日のんびりと過ごした。

--

ある日のこと、私は主人に呼ばれて、庭に出る。

「ごらん。あの鯉が私の自慢の鯉だよ。」
「きれいです。」
「そうだ。あれは、私が手がけた中でも一番の鯉だ。」

主人は、目を細め、その鯉の姿を飽きずに一心に見つめる。鯉も時折、主人のほうに向かい合っては、尻尾をひるがえし、その白銀の体をきらめかせて池の中を軽やかに泳ぐ。まるで、こちらにいらっしゃいよ、と誘ってくるように、何度もこちらのほうを見る。

随分長い時間が経った。主人はまだ飽きずに見ている。

「あの。旦那様。」

はっと我に返り、主人は、私のほうを見る。
「ああ。すまない。実は、お前に、この鯉の世話を頼みたいのだ。餌をやってくれればいい。日に一度。早朝に。餌は、屋敷の者に用意させるから。」
「はい。」
「もう、自分の部屋に下がっていなさい。」
「はい。」

最後にその鯉を見た時、鯉は銀ではなく深紅に見えた。血が広がっているのかと思った。はっとした瞬間、また元の色に戻る。

--

鯉の餌は、器に入れて置かれていた。

血に浸かった肉片だった。私は、驚いて鼻をつまみ、肉を池に放りこみ、屋敷に逃げ戻る。

「あれはなんですか?」
後で聞くと、主人は、
「ああ。イノシシの肉だよ。」
「イノシシの肉なんか、鯉が食べるんですか?」
「ああ。あれはわがままで貪欲なタチでね。」

--

ある夜。

池の水音が聞こえて目が覚める。

私は、部屋を出て、庭のほうに目を凝らす。

そこに、水に濡れそぼった女。美しい黒髪。白く透き通るような裸身。体中の水滴が、月の光りにキラキラと輝く。主人の部屋のふすまがそっと開き、女は入って行く。私は慌てて、主人の部屋の前まで行き、細く開いたふすまから中を覗く。

「ああ。私の女。ようやく満月の夜が来た。」
「ええ。私も待ちくたびれましたわ。」
「さあ。私に体を見せておくれ。」
「はい。」
「また、美しくなった。幾人もの女達の血がお前を美しくする。」
「はやく、あの愛らしい花嫁の体も食べとうございますわ。」
「はは。待て待て。」

主人は、濡れた女の体の水滴をふき取ろうともせず、女の乳房を掴む。肩に歯をくいこませる。女はうめく。華奢な体に不自然なくらいたわわで美しい乳房が体に踊る。

私は、食べられてしまう。早く逃げようにも、私は腰が抜けてそこから動かない。ただ、主人と、その不思議な女との狂態から目を離すことができない。

まぶたの裏で、キラキラと、水滴が?うろこの銀が?踊る。はねる。私は意識を失う。

--

目が覚めると、布団に寝かされており、主人がそばに座っていた。

「気がついたか。」
「はい。」
「見たのだな。」
「ええ。」
「素晴らしいだろう?」
「え?」
「あの女さ。」
「怖いです。」
「そうか。」
「ええ。とても。だって、あれは人間ではありません。」
「そうだな。」
「私も食べられるのですか?」
「ああ。あれに所望されて、お前はあれの体内に入る。」
「嫌です。」
「どうしてだ?」

主人は信じられぬという顔で私を見つめる。

「あれは、素晴らしい。永遠の命。この世のものでない美貌。私もあれに望まれてあれに食われてみたい。だが、あれは若くて美しい女の体にしか興味がない。私は望まれぬ人間だ。なんとひどいことだろう。私は、このまま老いてゆく。あの美しい鯉に取りこまれて永遠にいられるのなら、何と素晴らしいことか知れぬのに。」

主人は、悲しそうに体を震わせる。

ここを出たところで、身寄りのない私にどんな人生が待っているのだろう。

私は、きらめく白銀の尻尾を思い出し、泣き咽ぶ主人の血管の浮いた手に、そっと手を重ねる。


2001年09月17日(月) 彼の手が、私の乳房をすくい上げる。重さを確かめるように、手の平で包む。

離婚した女が働ける場所など、そうない。駅前の小さな弁当屋での仕事にやっとありついて、一ヶ月が経とうとしている。昼のラッシュも終わって、店の人足も途絶えた頃、ふと見ると店先に一人の青年。ああ。また来たのね。いつもこの時間に来る。近くの大学の学生だろうか。背が高く、鼻梁の通った、美貌の。

「いらっしゃい。今日は何にしましょう?」
「あなたのおすすめで。」
「おすすめなんてないわ。じゃ、日替わりでいいわね。」
「あなたの選んでくれたものなら。」

最近の学生は、こんな上手なこともスラスラ言えるのね。と苦笑する。

「お店、いつ終わるの?」
「え?」
「お店、終わる時間に迎えに来てもいいかな?」

あら。やだ。本当に口説くつもり?

「はい。日替わり。ありがとうございました。」
私は、彼の問い掛けを無視して、弁当の入った袋を渡す。

--

小さなアパートの部屋に戻ると、夫の両親の元に置いて来た息子の写真を眺める。もう8歳になっていた。なんでこんなことになっちゃったんだろう。あの時は、魔が差したとしか思えない。パートに出た先の上司と体の関係ができて、それに溺れ、戻れなくなってしまった。

家を追い出されて、初めて、それは恋なんかではなく、ただ肉の欲に過ぎなかったのだと気付く。愛しい息子と引き換えにするには、あまりにもみっともなくくだらない関係だった。

失ったものは戻らない。

私は、足を引きずるように、一歩、一歩、ようやく生きている。

--

店の仕事を終えると、彼が待っていた。

「あら。いつもの。」
「仕事が終わるのを待たせてもらってたんだ。」

普通に考えれば見ず知らずの人間に付きまとわれるなんてかなり気味の悪いことなのに。彼の美しさに気持ちがときめくのを抑えられない。

「学生さんなの?医学部?」
「よく分かるね。」
「なんとなくね。あなたって、お医者様になるのが似合ってるわ。」
「そうかなあ。本当は、オヤジに、早く帰って来て跡を継げって怒られてるんだけどね。」

それから、喫茶店でおしゃべりして。とりとめのないおしゃべり。知性も教養もない私が、彼に話して聞かせるほどのものは何もない。彼は聞き上手で、私は、おかげで、言葉がなめらかに飛び出してくる。

そうやって、ただおしゃべりするだけの関係。

それでも、そんな日々が続けば、それを拠り所に生きて行くようになる。仕事が終わる時間が近付くと、店の外の彼の姿を探す。

ただ、「どうして?」とは聞けない。なんで、私を?と。時折、大学に続く通りを美しく若い女子学生と一緒に歩く彼を見掛けると、心が痛む。

--

「ねえ。僕の部屋に来ない?」
彼は、しばらくの沈黙のあと、思い切ったように私に切り出す。

「え?」
「ずっと思ってた。こうやっておしゃべりするだけじゃ嫌だなって。」
「行ってもいいの?」
「うん。来てくれると嬉しい。」

誓って言うが、三ヶ月の間、私と彼は、ただおしゃべりするだけの関係だった。私はそれでいいと思っていたし、彼もそれでいいのだと思っていた。

「今夜迎えに行くから。」
「ええ。」

--

「お金持ちなのね。」
私は、彼の豪奢なマンションの部屋に驚く。

「金持ちなのはオヤジさ。僕は、何も稼いではいないよ。」
彼は、自嘲的に笑い、グラスを差し出す。
私は、グラスの琥珀色と、彼の美しさに酔う。

「眠たくなったわ。」
「疲れてるんだろう?こっちにおいで。」

彼の手が、私の服を脱がせている。私は、ぼんやりとして、もう体が動かない。

「恥ずかしいわ。」
「そんなこと、ない。きれいだ。」
「子供を産んで、すっかり崩れちゃったのよ。」
「恥ずかしがらないで。全部、きみだ。きみの美しい心そのものだよ。」

彼の手が、私の乳房をすくい上げる。重さを確かめるように、手の平で包む。

「ねえ。私・・・。」
「しっ。黙って。」
彼は、死体のように、もう動けなくなった私を浴室に連れて行く。

「なあに?」
「痛くしないから。きれいなまま、凍らせてあげる。」
彼の手にはメスが握られ、悲しい顔で私の体を見下ろしている。

「ちょっと、何をするの?」
私は驚いて、体を動かそうとするが、うまく動かせない。

「ねえ。ママ、ずっと僕のそばにいてくれるよね?どこにもいかないで。僕を愛する心のまま、ここにいてくれるよね。」
彼は、私の首に胸に頬ずりする。

ああ。そうだったの?私は、その時、ほっとして彼の手に身を委ねる。

彼の手が、私の体にメスを入れる。

私は、もう、傷みも感じなくて、ぼんやりと眠たくなる。

これからは、彼の元にずっといられるのだと、安堵する。


2001年09月16日(日) 「夏と冬、どっちの季節に恋に落ちることが多い?」彼は、私のとまどう体に、何の迷いもなくまっすぐに入って来る。

「退屈したんですか?」
知人の披露宴を抜け出してロビーで煙草を吸っていると、彼が声を掛けて来た。
「ええ。ちょっとね。」
私は曖昧に笑い、煙草をもみ消した。42歳の独身でくたびれた女であるところの私は、その美しい青年に声を掛けられて妙に照れてしまったのだ。

「僕も、退屈して抜け出して来ちゃった。」
「そうなの?素敵な式だわ。」
「本当にそう思ってる?」
「ううん。早く終わらないかなって。どこかで飲みなおしたいなあって思ってたのよ。」
「僕も。」

私と彼は笑った。そうして、私は、新婦が姪であること、彼は、新郎が自分の知人であることなどを打ち明けた。それから、式場を出て、彼が小腹が空いたと言うので、居酒屋へ行った。私は、始終煙草を吸い、彼は、旺盛な食欲を見せた。そうして、他愛のないことをしゃべり、私は笑いに笑った。何も考えることなく、こんなに誰かと楽しい時間を過ごしたのは久しぶりだった。

実際のところ、なぜ、彼のような若い男が私になぞ興味を持ったのか不可解だった。そうして、暖かい店を出て、冷たい風が吹く歩道を並んで歩いた。

「夏と冬、どっちの季節に恋に落ちることが多い?」
突然、彼が聞いてきた。
「さあ。どっちかしら。夏・・・、かな。夜遊びするから。」
「僕は冬だな。ほら、こんなことができるだろう。」
そう言って、彼は、私の冷たくなった手を握り、彼のコートのポケットに入れた。

私達は、無言で指を絡め、それからホテルに行った。

--

「私なんかでいいの?」
私が問いかける言葉を唇でふさいで、彼の指が、私の黒いドレスのジッパーを下す。

もちろん、それまでも彼ほど若い男と寝たことがないわけでもなく、私は、彼のことを、そういった若い男達と同じだと考えようとするのだが、彼のどこかしらやさしい愛撫が私を無防備にさせる。

「きみが好きになったんだ。」
「私のどこが?」
「煙草を吸う仕草。子供みたいに笑うところ。その、危ういところ。」
彼は、私のとまどう体に、何の迷いもなくまっすぐに入って来る。私は、張り巡らせた城壁をあっさりと崩されて、彼の肉体の前に完全降伏する。

「声を出していいから。全てを僕にゆだねて。」
彼の声はどこから聞こえてくるのだろう。どこかとても遠いところで。彼は、大丈夫だよ、おいで、と言う。私は、突き上げられて、何度も何度も昇りつめてしまう。

--

それは、恋なのだろうか?

25歳の彼に、私は心を明け渡すことができない。彼もまた、私のかたくなな心を無理矢理こじ開けることはしない。

ポツリポツリと交わされるメールの中で、彼が結婚していることを知る。

それでも、私のことが好きだと言いきる彼をどこまで信じればいいだろう?信じられない心で、彼に内緒で幾人もの男と寝る。それらは、ただ、数でしかない。若い恋人を持つ不安を打ち消そうと、ただ、数だけを増やして行く。

--

ある日、長年の友人であるところの男性にプロポーズされ、私はとまどう。

そうして、若い恋人に伝える。

結局、私は、試したかったのだと思う。彼の心を。私が結婚するとなれば、何か感じてくれるだろうか。その短い電話で、彼は、「そう。おめでとう」とだけ告げて、電話は切れる。

もう電話は掛かってこない。
私は、恋の終わりを知る。

--

私は夢を見る。

彼は翼をつけて空を軽やかに舞っている。私は、地面からそれを見上げるばかり。彼が手を差し伸べるけれど、私の体はそこから全く動かない。

そうやって、次の瞬間、彼の翼はバラバラになる。白い羽が舞い散る。もう、彼はいない。あたり一面羽が雪のように降りしきる。

--

一通の手紙を受け取った。

「さようなら。」と。

「恋の苦しみのない世界に行く。」と。

「僕だけが知っていた恋が、確かにそこにあった。」と。

「幸せだった。」と。

私は、男の純情っぷりにあきれながら、その手紙を破り捨てる。
ベランダから小さくちぎった破片を風に乗せる。

羽のように舞う紙屑を見つめて、私は泣く。


2001年09月14日(金) 会ってきみを抱きたい。きみを抱いた記憶を想うと、僕の体は熱くなって夜も眠れない。

「ねえ。あなた。起きて。起きてったら。」
「ん・・・?なんだ?」
「眠れなくて。」

私は、連日、急に入院してしまった部長の担当物件まで抱え込んでくたくただった。ふと見ると妻は泣いている。

「どうしたんだ?いったい?」
「ねえ。あなた、今日遅くなったのだって、誰かと会ってたんでしょう?」
「何言ってるんだ?仕事だって言ってるだろう?」
「嘘よ。」
「嘘じゃない。仕事だ。電話でもそう伝えたろう。今、部長が入院して大変な時なんだよ。」
「本当に?」
「ああ。本当だ。頼むから職場に何度も電話するのはやめてくれないか。」

妻は激しく泣き出す。

私はうんざりして、夫婦の寝室を出て隣室のソファで寝ることにする。妻のすすり泣く声がいつまでも聞こえてくる。

半年くらい前からだろうか。妻は、私が浮気をしているんじゃないかと疑い、しつこく責めるようになった。誓ってもいいが、私は、結婚して以来浮気などしていない。子供を流産したショックからだろう、と、妻のかかりつけの医師は言う。私が仕事に追われているのも悪いのだ。高層マンションの17階の部屋で、妻は、たった一人で過ごしているうちにどこか心のバランスを崩してしまった。

--

今日は結婚記念日だ。妻が先日買ってくれた新しいネクタイを締める。今日は少し仕事を早めに切り上げて一緒に食事にでも行けば妻も喜ぶだろう。何より、妻は一人でいるのが良くないのだ。何か趣味でも持ってくれればいいのだが。

階下に下りると、妻が奇妙な顔をして、私をじっと見る。

「どうした?」
「そのネクタイ・・・。」
「ああ。きみが買ってくれたヤツだよ。素敵だ。秋物のスーツにぴったりだよ。」
「そのネクタイ。どうして?どうして今日に限って新しいネクタイをするの?」
「おい、忘れたのかい?今日は結婚記念日だろう?」
「ねえ。どうして新しいのなんかするの?誰かと会うんでしょう?」
「何言ってるんだよ。」
「ひどい・・・。」
「おい。聞けよ。今日は、きみと私が結婚した記念日だ。だから、きみと食事にでも行こうと思って。」
「もう、言い訳はうんざりだわ。」
「何言ってるんだよ?」

妻は、また泣き出す。私も、さすがにカッとなって声を荒げる。やってもいない罪を責められるのは、こっちだってうんざりだ。

「いい加減にしてくれ。私だって男だ。たまにはそんなことがあってもしょうがないだろう。そんなことでいちいち大騒ぎするな。」

「やっぱり・・・。やっぱり、そうだったのね・・・。」
妻の目に絶望の色が浮かぶ。

それから、急に窓に走り寄り、開け放たれた窓からベランダの手すりを乗り越えてしまった。

「おいっ。キミエっ!」

一体どういうことだ?

何がきみをそこまで追い詰めた?

僕は、しばらくボンヤリとそこに立ち尽くしていた。

どれくらいの時間が経ったろう。電話が鳴り響いている。私は、フラフラと電話の側に行き受話器を取る。

「もしもし?キミエ?」
やさしい男の声。妻の名を親しげに呼んでいる。

「キミエ、まだ怒ってるかい?本当にごめん。きみが僕に会いたくないのは分かってる。だけど、僕にはきみしかいないんだよ。きみと会えないと寂しくておかしくなりそうだ。お願いだから、もう一度会ってくれないだろうか?会ってきみを抱きたい。きみを抱いた記憶を想うと、僕の体は熱くなって夜も眠れない。妻とは離婚する。お腹の子供だって、始末させるから。だから。お願いだよ。キミエ?キミエ、聞いてる?」

この男は何を言っているのだろう?

妻は、私のいない昼間、どのように過ごしていたのだろう?

私は、妻のことを何も知ってはいなかったのだ。

私は黙って受話器を置く。

遠くで救急車のサイレンが鳴る。

ドアの外も騒がしくなって来た。

私は、ネクタイを緩め、ソファに腰を下した。


2001年09月13日(木) ねえ。入って来て。私を壊して。あなたのあたたかいものを私に注いで。そうして、本当の人間にして。

最初に彼に会った時から、彼だと思った。

彼もそう思ったはずだ。

私は美しいから。そうして、陶器の人形作家である彼が創り出す人形のように繊細だから。

そうして、私達は会った瞬間から惹かれ合った。

彼の指が、私の絹糸のような、柔らかく、細い髪の毛を梳く。

「きれいだ。」
「ええ。」
「きみは、僕が思い描いていた理想の女だ。」
「私も、あなたが大好き。あなたに愛されるために生まれて来たのよ。」

そうやって出会った私達だけれども、彼には長年付き合っている女性がいて。

その女は醜い。むっちりと体全体に肉がつき、胸もお尻も大きい。髪の毛は黒々と、赤い口紅をしっかり塗った口は大きく、生命力のかたまりのような女。彼が好きなのはそんな女じゃない。はかなくて、繊細なのが彼の理想の女なのだ。そう、まさに私のように。

それなのに、彼は女と別れようとしない。そうして、彼女に申し訳ないからと、私を抱こうともしない。

「ごめんよ。本当は、彼女なんかより、きみのほうがずっと素敵なのに。あの女は、僕の保護者気取りで困っちゃうんだ。」
「いいのよ。私、ずっと待っているわ。」

そう。指すら触れ合わない恋。

彼だって苦悩しているのだ。

--

その日も、彼のアトリエを訪ねる。

ドアの隙間からのぞくと、絡み合うあの女と彼。女は、豚のように鼻を鳴らして、彼を食べてしまいそうな勢いでのしかかっている。

それから、彼女の声ばかりが響くおしゃべりをひとしきり交わしたあと、彼女は彼の洗濯物を抱えて帰って行く。

私は、涙に濡れた目で、彼のアトリエに入って行く。

「見てたのか。」
「ええ。ごめんなさい。」
「すまない。」
「いいえ。いいの。」
「あの女は、勝手にここに来て・・・。」
「ねえ。私を抱いて。」

私は、泣きながら服を脱ぐ。

「やめなさい。僕なんかのために、そんなこと。」
「いいえ。私は、あなたに愛してもらわないと生きている意味がないの。陸に上がった人魚姫のように、泡になってしまうわ。」

彼は、私の細い肩を抱き締める。そうして、じっと私の裸の背中をさする。

「きみの体は冷たいね。」
「ええ。あたためて。」

彼は、そうっと、私のひたいに口づける。

「きみの中に入ったら壊れそうだ。」
「ねえ。入って来て。私を壊して。あなたのあたたかいものを私に注いで。そうして、本当の人間にして。」

だが、だめなのだ。

彼は勃起しない。

「ごめん。きみの事、嫌いじゃないんだが。なんというか。きみには何かが足らない。生きている証というか。」
「あの女には、それがあるの?」
「ああ。」
「ねえ。お願いだから私のことを愛していると言って。」
「ごめんよ。」

私は、悲鳴をあげて、その場にこなごなに砕け散る。

--

男は、足元に散らばる陶器の破片を拾いあげた。

自分の創る人形に何が足らないのか分かった気がした。

そうして、新しい人形のデザインは、今までよりもっと力強く、あたたかいものになるだろうと思った。


2001年09月12日(水) 私は、言われるままに、鎖のついた足枷を自分の足につける。

その、私がメイドとして連れて来られた時、その屋敷は随分荒れていた。屋敷の主人は、頑固で、偏屈で、横暴なので、使用人は長続きしなかった。

「お前みたいな人形に、私の世話が出来るというのか?」
「はい。ご主人様。」
「みんな、そうやって最初は返事だけはいいのだがな。私がちょっと怒鳴ると、すぐ暇を取って逃げ出してしまうんだよ。」
「私は、一生お仕えしますわ。」
「当たり前だ。」

ご主人様は、私の顔をしげしげと眺める。

「お前は、亡くなった妻に似ている。妻も、お前のように従順で、美しかった。」
「ありがとうございます。」
「だが、ある日、私を置いて逃げようとした。お前は逃げないだろうな。」
「私は、一生貴方様にお仕えするのが仕事ですわ。」
「分かった。下がっていい。」
「はい。」

私は、その古ぼけた屋敷に元の美しさを取り戻そうと、掃除をし、庭の雑草をむしる。屋敷には、ご主人様と、食事を作る老婆と、私だけだ。老婆は、何を聞いても一言もしゃべらない。

「ご主人様、お茶が入りましたわ。」

ある夜、ご主人様の部屋を訪ねると、ご主人様はいない。その書棚をずらしたところにある隠し扉から、地下への階段が続く。私は、ご主人様を探して、地下に下りる。

「ご主人様?」

目をギラギラとさせたご主人様が振り向く。

その地下の部屋には古ぼけたベッドの上の白骨死体。長いこと封じ込まれていた異臭。床を這う鎖。

「なぜ、ここに来た?」
「貴方様を探して。」
「早く出て行け。」
「かしこまりました。」

--

もう、随分長い年月が過ぎた。

老婆は、ある日、静かに眠ったように死んでいた。私は、主人に言われて、庭に穴を掘り、老婆を埋めた。

「もう、お前と二人きりになってしまったな。」
「はい。ご主人様。」
「お前に頼みがある。」
「はい。ご主人様。」
「私が、もし、病気になったりしたら、あの、地下の部屋に連れて下りてくれないか。」
「はい。ご主人様。」

--

ある夜、ご主人様は、急に胸を押さえて、床にくずおれる。

意識はあるが、体が自由に動かないご主人様を抱えて、私は地下に下りる。

そのベッドの白骨の側にご主人様を横たえる。

呂律の回らない舌で、私に命ずる。
「その、足枷をはめろ。」

私は、言われるままに、鎖のついた足枷を自分の足につける。

「お前は、決してここを出るな。私の側にずっといるんだ。」
「はい。ご主人様。」
「頼む。どこにもいかないでくれ。」
「はい。ご主人様。」

ここには、水も食べ物もない。

ご主人様は、衰弱して、ある日、動かなくなる。

私は、ご主人様と奥様が並んで眠るベッドの側で、鎖に繋がれたまま、座り続ける。

ご主人様の肉体が朽ちて行くのを眺めながら。

何ヶ月も。何年も。


2001年09月11日(火) 言わないと、やめちゃうよ?ね。気持ちいいんでしょう。

なんなんだ?

これは一体?

とにもかくにも、彼女がこの変なお遊びにとりつかれて、僕はかなりうんざりしている。どんなお遊びかって?僕を、犬のように扱う遊びさ。はは。なんて馬鹿げた遊びなんだ。今のところ、かなりうんざりしているし、腹の立つ遊びでもある。彼女の可愛さに免じて許しちゃうんだけどね。

--

「ねーねー。カズくん。」
「んー?」
「お手!」
「おい。やめろって。」
「あー。怒ってるー。」
「もう、いいじゃないか。その遊びは。」
「だって〜。私、犬好きなんだもん。ねえねえ。犬になって〜」
「いやだったら。」
「・・・。ごめんね。」
「いいよ。」
「本当にごめん。カズくん見てたら、何だか、昔飼ってたうちの犬思い出しちゃうんだもん。」

--

セックスの時だって。

彼女は僕にまたがって言う。

「ねえ。カズくん。気持ち良かったら、ワンワンって言って。」
「何だよ。それ。」

彼女は、僕のモノに添えた手をゆっくり動かしながら、上目づかいに僕を見る。

「ねえ?」
「ヤだって。」

彼女の舌が、僕の首筋から乳首を這う。手の動きは、規則正しく僕の快楽を突いてくる。

「ねえったら。」
「ああ・・・・。」
「気持ちいいでしょう?」

彼女の手の動きが、僕の感覚に寸分たがわずぴったりと寄りそうので、僕は逃げられない。

「ねえ。ワンって言って。」
彼女の声が耳元でささやく。

「ねえ。ワンって。」
「おい・・・。」
「言わないと、やめちゃうよ?ね。気持ちいいんでしょう。」
「分かったって。・・・・。ワン。」

彼女は、ものすごく嬉しそうに笑い出す。

僕は、その途端、もう我慢できずに、僕の体から溢れ出したものを彼女の手の平に吐き出す。

「ねえ。ワンワンちゃん。すごく良かったわ。」
「ワン。」

彼女は、にっこり笑って、首輪を取り出す。

おい。そんなものいつ用意してたんだよ?
ワンワン。

僕の首にカチャリと音をさせて、首輪をつけ、ベッドの手すりに繋いでしまう。

おい。やめろ。
ワンワン。

しゃべろうとするが、声は出ない。ただ、犬の鳴き声がどこから響いてくる。

「ねえ。ワンワンちゃん。あたし、ちょっと出掛けてくるね。ここでお利口にして待っててね。」

彼女は部屋を出て行く。

おい。待てよ。待てったら。

ワンワンワン。


2001年09月10日(月) 美しい肢体が絡み合う。口づける。二人の華奢な指が、お互いの体をまさぐる。愛撫する。交わる。

雨上がりの道。ざっと通った雨のせいで、空の向こうに虹が見える。虹のふもとを掘ると宝物が出てくるって言うよな。僕はそんなことを考えながら、虹の出ている方角にあてもなく車を走らせる。

迷い込んだのは、小さな街。観光地として新しく作られた街だろうか。レンガの歩道、きれいに壁が塗られた家々。車を停めて、街を散策する。

ふと、足を止めた、ある店。

「いらっしゃい。」
美しい女主人が、微笑んで出迎える。店の中は、暖かく、光に包まれている。ぼぅっと暖かく光る物が入った小ビンが棚にたくさん並んでいる。

「ここは、何の店?」
「虹を売ってるんですよ。虹のかけらを。」
「虹のかけら?」
「ええ。あなたも、虹を探して、この街に来られたのでしょう?」

よく見ると、カウンターの奥に、少年。女主人に似て、美しく、黒いウェイブのある髪の毛。角度によって虹のように色を変える瞳。

「ご挨拶なさい。」
女主人は少年に言う。少年は、黙って僕に頭を下げる。

「虹のかけらって、どうやって使うもの?」
「恋人の贈り物。生まれてきた娘への贈り物。幸せを運んでくるお守り。」

虹のかけらの揺れる光が店の中で踊り、僕は催眠術をかけられたようにそこから動けなくなる。

「もう、外は暗くなりましたけれど、お泊りの所はお決まりですか?」
女主人の声にはっとして、店の外を見ると真っ暗だ。

「いつの間に?」
「随分と長く、ぼんやりなさってましたわ。」
「もう、帰らなくては。」
「無理ですよ。ここまでの道は暗くて、夜は危険です。よろしければ、お泊りになって行って。」

僕達は、客間の乾いたシーツの上にもつれ込む。女主人の華奢な体は、それでも、燃えるように熱くて、僕は、店に足を踏み入れた時から恋をしていたのだと気付いた。

--

僕は、街の宿に部屋を借りて、昼は、その美しい町並みをスケッチし、夜になると虹の店を訪ねる。

ある夜、いつもより早い時刻に、僕は店を訪ねる。だが、店の入り口には鍵が掛かっていて。

ウィンドウ越しに中を見ると、そこに彼女と、息子。虹の光の中で。二人とも服を着ていない。美しい肢体が絡み合う。口づける。二人の華奢な指が、お互いの体をまさぐる。愛撫する。交わる。少年は、彼女に入って行く。どんどん入って、そうして、彼女の腹部が膨らんで、少年を取り込んでしまう。巨大に膨れ上がった腹を、彼女はいとおしそうに撫でる。それから、彼女の絶叫と共に、少年が彼女の体を割って出てくる。

全ては、揺れる光の幻影かもしれない。

僕は、宿の部屋に戻って吐き続ける。

--

翌朝、彼女は、いつものように輝く瞳で僕を見つめる。

「昨日、いらしてたわね。」
「気付いてたのか。」
「ええ。」
「あれは、一体何だ?」
「見たままの通りよ。」
「なんておぞましい。」
「なぜ?息子は私だし、私は息子よ?親子ってそんなものじゃないかしら?」

僕は、吐き気をこらえて、店を飛び出す。

それでも、彼女に会いたい。彼女と一緒にいたい。彼女だけが欲しい。息子など要らぬ。

--

その夜、遅く、店の鍵を預かっている僕は、息子の部屋に忍んで行く。

ナイフで、少年の体を、何度も何度も刺す。

それから、宿へ逃げ帰る。

僕は狂ってしまった。部屋に転がった虹の小ビンの炎はいまにも消えそうに儚く揺らめく。

--

血のような朝焼けの中、まだ人気のない早朝の街。

僕は、店を訪ねる。

そこは、血の海。女主人は静かに横たわる。

僕は慌てて駆け寄る。

彼女は微笑む。

「言ったじゃない。息子は私だって・・・。」

ビンの中の虹の光は消えていく。彼女は、次第に冷たくなっていく。街そのものが、形を失っていく。

虹のふもとには誰も辿り着けない筈だったのに。

と、僕は、荒地に伏して涙を流す。


2001年09月09日(日) 僕は、幸福に突き動かされて、激しく彼女の中に。もっと奥に。もっと深く。

上司に付き合って少し遅い帰宅をした僕のアパートの部屋の前に、何か置かれている。よく見ると、小さな鳥がうずくまっているのだ。羽を怪我して、動けなくなっているようだ。

可哀想に。

僕は、鳥をそっと抱き上げて、部屋に入った。羽を消毒してやる。抵抗する元気もないのか、僕に体を預けている。

--

「クミコさん?」

土曜日の夜、軽く友人と飲んで別れた後、夜の繁華街をフラフラしていると、職場の先輩のクミコさんとバッタリ出くわしたのだ。よく見れば、目が真っ赤で、手にはハンカチが握られている。

「あら。」
クミコさんは、僕に気付くと、無理に笑顔を作った。

「恥ずかしいところ見つかっちゃったな。」
2歳年上のクミコさんは、困ったように立ち尽くして。

「どっか、飲みに行きませんか?あ、いや、迷惑じゃなかったら。」
「え?あ、うん。そうしよっか。」

クミコさんと、こうやってプライベートで飲みに行くのは初めてだな。と、思いながら、僕は、ちょっと胸が高鳴る。とびきり美人というわけではないけれど、いつもひたむきに仕事に取り組む、素敵な先輩だったから。

席に着くと、僕は、何を離し掛けていいのか分からなくて、クミコさんが口を開くのを待った。

「恋人とね、別れたのよ。」
「え?」
「不倫だったの。馬鹿みたいでしょう?私、自分がもっとしっかりした人間だと思ってた。あんなつまんない男に引っ掛かるなんて思ってなかった。それなのに、気付いたらはまってて。結婚してもらえるって信じてて。本当に馬鹿だわ。」
「その男のこと、本当に好きだったんだ?」
「そんなこと、分からないわ。寂しかっただけなのかもしれない。」

彼女は、また、泣き出しそうに顔を歪める。

--

クミコさんを送って部屋に戻ると、カゴの中でじっとしている鳥に声を掛ける。

「やあ。どうだい?怪我の具合は。
僕は、今夜、少々酔っている。素敵な人と飲んで来たんだ。」

--

それから、僕とクミコさんは、電話を掛け合って長く話をするようになった。

そうして、休日、公園で初めてのデート。

「こんなデートができるとは思ってなかったわ。」
カジュアルな服装に、ほとんど化粧気のない、幼く見える彼女。

「あの人と付き合っていた頃は、いつも会うのは夜だったの。ちょっと大人っぽいスーツ着て。あの人がくれた香水をつけて。電話を待つばかりだった。誰にも見られないように、すぐホテルに行って。」

僕は、彼女を抱き寄せる。腰に手を回して、そっと口づけする。

「ねえ、私の部屋に来ない?」

--

女性らしい装飾が何もない、仕事の資料が少々散らかっている部屋。

「お茶、いれるね。」
台所に行こうとする彼女の手首を掴んでそっと引き寄せると、僕は、彼女の唇に何度も何度も、キスをする。

「汗、かいてるわ。」
「かまわないよ。」
汗ばんだ首筋に、激しく音を立てている心臓に、僕は口づけする。彼女は僕にしがみつく。僕は我慢できずに、彼女の中に割って入る。

「あいつと比べて、どう?」
「馬鹿なこと聞かないで。あなたのほうがずっといい。普通の恋がこんなに幸せだとは思わなかったわ。」

僕は、幸福に突き動かされて、激しく彼女の中に。もっと奥に。もっと深く。

「ねえ・・・。」
「ん?」
「好きよ・・・。」

彼女と僕の声が混ざる。

--

鳥は、すっかり回復して、餌を食べている。

「元気になったみたいだね。僕?僕も幸福さ。」

--

僕とクミコは、さっきから沈黙をはさんで向かい合っている。

「2年すれば、帰ってくるわ。」
「分かってるけどさ。僕達、始まったばかりなのに。」
「ごめんなさい。でも、上司にも推薦してもらったし。海外に行けるチャンスなんて、もう最後かもしれない。男性のあなたには分からないでしょうけど。同期のMさんは、結婚しているっていう理由で、推薦してもらえなかったのよ。」
「どうしても、行きたいの?」
「ええ。」

--

鳥カゴの中で、鳥が暴れている。外に飛び出したくて。

--

彼女は行ってしまった。

そうして、予想通り1通の手紙。

自分の力を試したいからと。いつ戻れるか分からないからと。

僕は、鳥を、カゴから出す。

ベランダにそっと置くと、鳥は、僕を見て。

カゴで暴れたせいで新しい傷がついた羽。

傷付くことを怖れない鳥は、ひととき羽を休めて、また飛んで行く。


2001年09月07日(金) 白く華奢な体に、赤い筋が走り、血が流れ出す。

その屋敷の美しい庭で、美しく微笑む娘と、その娘をいとおしそうに眺める父親。絵に描いたような美貌と、ありあまる財産を所有している父娘。僕は、ごくりとツバを飲みこんで、塀の格子の間からその娘の華奢な腕に、すんなりと伸びた首の上の小さな愛らしい顔に、じっと見惚れる。

あら。

という表情をして、娘がこちらを見たので、慌てて僕は、屋敷の塀を離れ、自分の安アパートの部屋に戻る。

彼女の顔。

こんなだったろうか。

幾枚も、幾枚も、彼女の顔をスケッチをしてみるけれど、記憶にある彼女の顔はうまく描けない。

寝室に散乱する、人形の頭。腕。脚。僕はそのうち一つの腕に、頬を預けて、彼女の華奢な腕を思い出す。ドレスをめくりあげて剥き出しにした腿に、唇を滑らせる想像をする。

そうだ。彼女の首を切り落として、あの素晴らしい屋敷の暖炉の上に置いてみるのはどうだろう?そうして、彼女の美しく残酷な瞳が見下ろしている、その柔らかな絨毯の上で、僕は彼女の肉体と戯れる。

脚や手が、僕を欲情させる。あの華奢な腕を、ぽっきりと肩から折り取って、その細い指が僕の体を這うところを想像すると、僕は、たまらず、自分の固くなったものを握りしめる。あんなに素敵な腕に出会ったのは初めてだ。あの腕に口づけすることができたら、僕はその場で死んでもかまわない。

いつの間にか、欲望は、涙に変わって、静かに流れ出していた。

なんておかしな人なの?

娘の声が聞こえた気がした。

そう。僕は、きっとおかしいんだ。まともな肉体には欲情することすらできない。

--

鞭の音が響く。

苦痛の呻き声が響く。

娘の白く華奢な体に、赤い筋が走り、血が流れ出す。

激しい苦痛の叫び声のあとに、快楽のすすり泣き。

父の手が、娘の、みみず腫れの走った小さく柔らかな乳房を乱暴に掴む。父がその乳房の傷口を舐めると、娘は、ますます身もだえして、体をくねらす。この、長く滑らかな喉もとに、父は舌を這わせる。

「ねえ。おとうさま。」
喘ぎ声の中で娘が言う。

「ん。なんだ?」
「あの、若者。あの、いつも塀の外から私を見ている。あの人、素敵だわ。あの人の目を見た?どこかに行ったまんま、そこから出られなくなったような目をしている。とっても素敵。」
「なんだ。気に入ったのか?」
「ええ。」
「はは。しょうがないな。」
「ね。今度屋敷にお招きしてもいい?」
「お前の好きにしなさい。」

娘はうっとりと、微笑む。

今まで、何人ものお友達が、この屋敷に遊びに来てくれて。死ぬまで私の相手をしてくれたわ。

彼とは飛びきり素敵な遊びができそうな気がするけれど、どうかしら?


2001年09月06日(木) 痛くて。痛いのだけど、声が出なくて。体の一部がギリギリと音を立てて。

「ねえ。ママ。」
「なあに?」
「僕のパパはどこにいるの?」
「さあ。どこかしら。」
「僕にはどうしてパパがいないの?」
「パパはね。ママを愛する資格がなかったの。ママみたいな素敵な女性を愛するには資格がいるのよ。だから、パパはおうちを出て行ったの。」

5歳のユウは、私に抱かれたいと、手を伸ばしてくる。私はユウを抱こうとするのだが、胃のあたりがムカムカして、うまく抱き締めてやれない。ユウの幼い体温を感じると、反射的に背を向けてしまう。

--

私は、歌を歌いながら、クッキーの型を抜く。

「ねえ。ママ。ママったら。」

うるさくて、耳をふさぐ。ママはクッキーを作っているのよ。黙っていてちょうだい。

ほうらできた。

「ユウくん、できたよ。」
「うわあ。おいしそう!」

手を出そうとするユウに、なぜか急に腹が立ち、手をピシャリと叩く。

ユウは、火がついたように泣き出す。

その泣き声を聞くと、ホッとして、私は、クッキーを口に入れる。

「おいしいわ。ユウくん。食べてごらん?」
私が微笑むので、ユウは、涙で汚れた顔で私の顔をうかがうと、そっとクッキーを口にする。

「どう?おいしい?」
ユウはこっくりとうなずく。

「もっと、食べなさい。」
「うん。」
「ほら。もっともっともっと。」
「うん。」

私は、ニコニコして、ユウの食べる顔を見つめる。

ユウが幸福そうだと、なぜか急にイライラして、握ったこぶしが震えてくるのを、抑える。

「ママ、もう僕、いらない。」
「まあ。ダメじゃない。残ってるわ。」
「もう、僕、お腹いっぱいだもの。」
「ママ、あなたのために作ったのに。どうしてユウはママの言うことがいつも聞けないのかしら?」

我慢できなくて、ユウの頭を、腕を、お腹を。なんで?ユウ。ママの言うことがどうして聞けないの?ママはいつもあなたのことを。とっても素敵なクッキー。おいしいのに。おいしいのに。おいしいのに。

--

両親が親戚の法事で出掛けている間、家で一人留守番をしていたら、男が来た。男は、うちに入って来て、冷蔵庫を開けて、ビールを飲んでいた。私は、その姿をじっと見ていた。背後でテレビの音がしていた。

それから、男は、私のほうを向いた。手には包丁を握っていたから、私は声も出せなくて。包丁が私の腕をかすめて、血が一筋。私は、もうそれだけで体の力が抜けてしまった。私は、その時、自分が人形になったみたいに思ったのだ。コロリとそこに横たわって。男は乱暴に私の服を剥ぎ取ると、力まかせに入って来て。私は痛くて。痛いのだけど、声が出なくて。体の一部がギリギリと音を立てて。体の中で音を立てて何かが壊れて。

そのあとの事はよく覚えていない。気がついたら、ユウと二人で暮らしていた。

--

「ねえ。ユウ。ごめんね。ママちょっとぼんやりして・・・。ユウ?」

人形?

目の前に横たわる、子供の姿のお人形。

そう言えば、お人形と暮らしていたのだわ。

私は、そのずっしりと重い人形を抱き上げる。

抱き締める。

頬ずりする。

こうやって、抱き締めたいとずっと思っていた、私のお人形。


2001年09月05日(水) お前は、恋をしないから、この気持ちは分からないだろうけれどね。

私は、ドール。

ご主人様にお仕えして、もう10年。彼が15の時にこの屋敷に来た。内気で友達を作ることができない彼のために、私は、親友であり、亡くなった彼のお母様の代わりであり、優しい姉であり、もちろん性のお相手も。

そう。彼のことは何もかも、私がお世話して来た。

花を育て、小鳥を飼う、やさしいご主人様。人としゃべるのが苦手でいつも部屋で読書をしていらっしゃる。たまに、私を部屋に読んで、新しい詩集を朗読してくださることもある。

「見てごらん。」
「何をですか?ご主人様。」
「花がきれいに咲いたろう?花は物も言わないし、耳も持たないように見えるけれど、話し掛けたらちゃんと応えるんだよ。ほら。嬉しそうに揺れているだろう?」
「ええ。素敵ですわ。」
「お前も素敵だよ。僕にはもったいないくらい美しいし、やさしい。」
「私は人形ですわ。あなたさまにお仕えするだけの人形ですわ。」

--

ご主人様と私だけの静かな生活は、ある日、急に終わりを告げる。

ご主人様が丹精込めて育てた花園の噂を聞きつけたある裕福な家の奥様が、屋敷を訪ねて来たのだ。美しいけれど、化粧の濃い、高慢そうな女。最初はご主人様も女の事を嫌っていたはずなのに。気付いてみれば、今まで見たこともないような笑顔で女を出迎えている。そうして、花の話や、詩の話。

それから、部屋に入り、内から鍵を掛ける。

笑い声が、次第に甘いささやきに変わる。低く気だるい声が部屋の外まで聞こえてくる。そうして、互いをむさぼる愛の嬌声。

--

夜、私はご主人様に話しかける。

「最近、とても幸福そうですわ。」
「分かるかい?不思議なくらいさ。僕は、ずっと一人で生きて来た。これからもずっとそうだと思っていた。だけど、あの奥様に会ってから、人としゃべる楽しさを知ることが出来た。」
「楽しいんですね。」
「そうさ。これはお前だから言うけれどね。僕は恋をしてしまったかもしれない。おかしいだろう?他人の妻に恋をする男というわけさ。お前は、恋をしないから、この気持ちは分からないだろうけれどね。そりゃ、素敵なものさ。そうして、辛くもある。人形のお前から見たら、さぞかし滑稽だろうな。人間の気持ちなんてものは!」

そう。私は、ドール。恋も愛も知らない。

だが、どうしたことか、私の体内の歯車がきしむ。

体の中の何かが悲しい音を立てている。

これは、なに?

--

ご主人様に頼まれて例の奥様を迎えるためのお菓子を買いに、街に出る。

ふと、聞き慣れた声。あの奥様だわ。恰幅のいい男と歩いている。

「もうすぐ、あの男の屋敷を手に入れられそうよ。それにあの庭!うっとりするくらい綺麗なの。あそこが私達の物になったら、あのお庭は私の好きにさせて欲しいわ。」

私は、買い物もせずに急いで屋敷に戻る。

「どうした?」
「街であの奥様を見かけました。」
「そうか。」
「このお屋敷のことを、誰かに話してました。」
「そうなんだよ。彼女、家を出てここで暮らすってさ。夫とは別れるって。」
「違いますわ。」
「何が違うんだい?」
「違いますわ。」
「言ってごらん?何が違うんだい?僕は、もうあの人無しでは生きていけないんだよ。お前と一緒の日々は楽しかった。だけど、寂しかった。人形では、本当には心も体も満たされなかったというわけさ。」

あの女に会ってから、彼は、私のことを「人形」と言うことが増えた。

「お前は、人形だから、僕の寂しさも、恋する心も分からないだろう?」

また、歯車がきしむ。その音が私を突き動かす。

私の手は、ご主人様の喉にかかる。私の手が彼の首を絞める。次第に力がこもって止まらない。
「おい。どうしたんだよ。おい。一体・・・」

ご主人様は人形のようにぐったりと動かなくなる。

人形は、人間を決して傷付けてはならない。製造された時からそうプログラミングされていた。人形は、恋をしない。感情なんてそもそもインプットされていない。

だけど、体の中で何かが音を立てて。それは何と不快で悲しい音だろう。

ご主人様、何か命令してください。この音が鳴り止むように。


2001年09月04日(火) 特に変わった技巧も甘く耳あたりのいい言葉もないのに何度も何度も達する

随分と暗く長いトンネルだった。バスの窓の外は、闇。吸い込まれるような闇。闇を見ていると、とてつもなく不安で、叫びそうになるのを抑えて、視線をバスに戻す。バスの中の照明と運転手の背中に少し安堵する。

バスに乗っているのは私一人。

「ねえ。運転手さん。」
「なんですか?」
「どこまで行くの?」
「あなたの行きたがっているところです。」
「こんな暗い場所を毎日走るなんて、本当に嫌な仕事ね。」
「そうでもないですよ。いつもこんな暗闇を走っているわけではないですから。」

唐突にトンネルは終わり、急に明るい場所に出た。

バスは止まる。

「着きましたよ。帰りのバスに乗り遅れないようになさってくださいね。では。」

背後には、もう、バスはない。トンネルもない。

--

「やあ。」
彼が出迎えている。

ああ。

私は、安堵して、泣きそうになる。

「どうしてた?」
私は訊ねる。

「普通だよ。普通に日々は過ぎて行く。僕は何も変わらない。」
「私、変わった?」

彼は、目を細めて、しばらく考えるように私を見る。

「いや。変わってない。でも、少し痩せたかな?」
「ええ。少しね。あなたが亡くなってから、私、本当に毎日泣いて暮らしたから。」
彼は何も言わず、そっと私と手を繋ぐ。

「幽霊でも、手は冷たくないのね?」
彼は大笑いする。
「ひどいなあ。足だってあるだろう?」

彼は、生前住んでいたのと同じアパートの一室に私を招き入れる。

「お茶、飲む?」
「ええ。」
私は、何もかも変わらないその部屋を見て、微笑む。彼と私が嬉しそうに笑っている写真もそのまま。

「ねえ。私、結婚するかもしれない。」
「・・・。そうか。おめでとう。」
「ごめんなさいね。」
「しょうがないよ。きみは生きていて、僕は死んでいるんだもの。」

彼の分厚い手が、私の髪をかきあげる。長い静かな口づけ。私は自分で服を脱ぐ。彼も、もそもそとズボンを脱ぎ、服を丁寧にたたみ始める。セックスの時、どんなに気持ちが高まっていても、急に後ろを向いて服をたたむ、その癖を思い出して、私は泣きそうな笑いそうな気持ちになる。

「お待たせ。」
私達はまた笑う。

彼との、肌に馴染んだセックスは不思議なくらい心地良く、私はとても素直な気持ちになれて、特に変わった技巧も、せわしない体位の変化も、甘く耳あたりのいい言葉もないのに何度も何度も達する。

行為のあと、彼の腕枕で体を休める私に、彼はぽつりと言う。
「死んだ人間とセックスするのは、初めて?」
私は、彼の胸に顔をつけて、笑い、笑い声はいつのまにかすすり泣きに変わってしまった。
「泣かないで。ここでこうやっていて、僕はとても幸福なんだよ。」
「ええ。分かってる。」
「そろそろ、バスが来る。」
「ええ。」

私は、涙を拭いて、服を着る。

--

もう、バスは来ていた。

「じゃあね。」
彼は、私の背中をそっと押す。

「もう、大丈夫だから。」
私は彼に微笑む。

バスに乗り込んで、手を振る。バスのエンジンがかかると、もうそこはトンネルの中。

「無事、お戻りになりましたね。」
「ええ。少し危なかったけどね。」
「いや。安心しました。」
「ねえ。トンネルの中、明るいわね。」
トンネルの中は乳白色の壁で出来ていて、トンネルの彼方に外の光が見える。

「もうすぐ着きますよ。」
「そうね。
 ねえ、運転手さん?」
「なんでしょう。」
「いろんなことが分かったの。彼が幸福だったこととか。最後の日も。そうして、今も。」
「そうですか。安心しました。
 ま、私のこの仕事も、そう悪い仕事じゃないってことです。」

--

「着きましたよ。」

私の部屋のベッドの上で、その声に目覚める。

何の夢を見ていたのかしら。

思いだそうと顔をしかめながら。
でも、今日は、迷わず婚約者にいい返事ができる予感で、気持ちが高鳴る。


2001年09月03日(月) ねえ。不思議よね。あれとセックスってとっても似ているわ。

男達が顔を真っ赤にして酒を飲んで騒いでいる。私は、結婚のことを聞かれるたびに曖昧に笑ってごまかしながら酌をして回る。

祖母の葬儀で久しぶりに田舎に帰った。葬儀は滞りなく終わり、夜の宴会が始まった。イトコのマサキも来ていた。酒の飲めないマサキは叔父達の突っ込みにヘラヘラと笑うばかりである。

マサキが「俺、ちょっと便所」と言って座敷を出たので、私も後から座敷を出る。

用を済ませて出て来たマサキは、私が立っているのを見てぎょっとする。

「ねえ。外に出ない?」
「あ、ああ。でも、大丈夫かな。戻らなくて。」
「いいって。みんな酔っぱらっててあたし達のことなんか気にしてないって。」

外に出て、離れのおばあちゃんの部屋に入る。

「おい。やめとこうよ。ばあちゃん、ここで死んだんだろ?縁起悪いよ。」
「いいから。」

私はもう我慢できなくなって、マサキのネクタイをほどき始める。

「おい。アキちゃん・・・。それ、まずいって。」
「いいのよ。おばあちゃんも見ててくれるわ。ねえ。したいのよ。」

私は、服を脱ぎ、マサキの上に乗る。彼のものを手でそっと握ると、マサキも、その時にはもうすっかりその気になって、私の乳房を掴んでくる。私も、彼も、無言で動く。

「アキちゃん、どうしたんだよ。すごいよ。」
激しい動きに、お互い、あっという間に達する。

「アキちゃんとこんなことできるなんて夢みたいだ。アキちゃん、きれいになったもんな。俺、嬉しいよ。ほんと。なあ。アキちゃん。アキちゃん?」

私は、男がうるさくなって、さっさと服を着ると祖母の部屋を後にする。

--

東京に帰って、しばらく経ったある日。マサキから電話が入る。

「俺、ちょっと用があって東京来たんだけど、アキちゃんとこ寄っていい?」
「何しに?」
「何しに、って。いいじゃないか。イトコ同士なんだし。話くらいしてもさあ。」
私は、ため息をついて電話を切る。

夜、形ばかりの手土産を持って、マサキが来る。

「お酒、飲む?」
「いや、俺飲めないから。」
「いいから、少しぐらい付き合ってよ。そうでないなら帰って。」
私は、彼にグラスを渡す。彼は、顔をしかめて、一口二口、飲む。

「なあ。そんなことよりさあ。」
「なに?」
マサキは、私の腰に手を回してくる。

「やめてよ。」
「なんでだよ。この前の夜、俺達、楽しくやっただろう?」
「あれは、あの時だけよ。」
「そう冷たいこと言わないでよ。」

だが、マサキの手から力が抜ける。

「あれ、俺どうしたんだろ。」
「お酒のせいじゃない?」
私は笑う。

--

安心しなさい。苦痛はないようにするから。

マサキは、もう声も出せない。

あたし、小さい頃、母を亡くしてるでしょう?あれね。パパの出張中に起こったことなの。ママね。心臓弱くて。あの日も、発作で倒れたの。私、わざと病院に電話しなかった。それから、ママはあのまま固くなって。あの晩から、パパが帰ってくるまでの間、私は、ママの死体と添い寝したり。ママの体を動かして遊んでたの。おばあちゃんのお葬式の日も、ね。我慢できなかったの。誰かが死ぬと、不思議なくらい興奮しちゃう。

ねえ。不思議よね。

死ぬって、セックスととっても似ているわ。

あなたもそう思わない?


2001年09月02日(日) 僕は、僕のために流された涙がいとおしく、彼女の恥らう肉体を愛撫する。


病院のベッドで、絵を書く、その人。

長く編んだ髪の毛を垂らし、子供のような幼い絵を書き、僕に見せてにっこりと笑う。

「この、え、どうお?」
と、子供のように聞いてくる。

僕は、悲しくなって、彼女の手を握る。

--

僕は、年上の人妻に恋をしていて、それはもう、随分と長い歳月だった。だが、僕にも大学の頃知り合った恋人がいて、その恋人とも別れられないまま、ズルズルと付き合っていた。

美しい、どこかの男と一緒に暮らしている、その人。僕は、初めて会った時から彼女に恋をして、その姿、育ちの良さ、一途でまっすぐな性格。何もかもを愛した。

彼女との恋は、平坦ではなく、別れの危機はしょっちゅう訪れた。僕は彼女の夫に、彼女は僕の恋人に、激しく嫉妬した。僕も、彼女も、捨てられないものを抱えたまま、今いる場所を動こうとせず、そうして、互いのずるさをむさぼり合った。

「ねえ。」
僕に抱かれながら、彼女が話し掛ける。

「なに?」
「私なんかで、ごめんね。」
「なんで?」
「あなたの素敵な恋人みたいに、若く、美しくない。」
「何を言っているの?」
「ごめんね。」

彼女の目から一筋の涙。僕は、僕のために流された涙がいとおしく、彼女の恥らう肉体を愛撫する。

--

ある時など、彼女と会えない日々が続き、僕はかなりまいっていた。彼女の娘が怪我をした、と言うのだ。病院の公衆電話から、深夜電話をしてくる彼女に、僕は会えない辛さからさんざんわがままを言った。

途端に、彼女の言葉が途切れる。

僕は焦る。

「もしもし?」

しばしの沈黙のあと、彼女の声。
「ごめんなさい。」
そうして電話が切れた。

僕は、何を言っているのだろう。なぜ、大好きな人を追い詰めてしまうのだろう。それから、酒を飲んで考える。彼女のずるさを。僕のずるさを。

--

彼女の娘が退院して、彼女に久しぶりに会えるというので、僕はその日の朝からたとえようもなく幸福だった。

その日僕の部屋を訪ねて来た彼女は、どこか奇妙で、目が虚ろだった。

疲れているのだと思った。

「大丈夫?」
「ええ。」
「実は、僕、打ち明けたいことがあるんだ。」
「なあに?嫌な話ならよしてちょうだい。おねがい。」
「いや。いい話。僕ね。実は恋人と別れたんだよ。」

彼女は、目を見開く。
「どういうこと?」
「僕、きみがいいんだ。だから、恋人との関係は終わりにした。長いことごめん。でも、会えない間思ってたんだ。僕にはきみが一番大事だと。」

「どうして?なんでそんなこと?」
あまり喜ばない彼女に、僕の心はしぼむ。

彼女は突然、泣き出す。

「私、あなたの恋人に嫉妬していた。ずっとコンプレックスを抱えて。つらくて。ダイエットもしたし、若く見える洋服も買った。髪の色だって染めたし、あなたの興味がありそうなことは何でも調べた。でも、子供がいて、若くもなく、生活に疲れている女だもの。どうしたって、あなたの恋人には勝てないと。」
「そんなこと気にしなくたって良かったのに。きみは僕の女神だ。きみは誰にもコンプレックスなんか持たなくていいんだよ。」
「あなた、分かってないわ。コンプレックスも感じない相手と、どうやって恋ができるの?セックスができるの?」

僕には、彼女が何を言っているのか理解できなかった。

恋人と別れたのがまずかったのだろうか?

彼女は、泣き止まない。

--

夜中、帰りたがらない彼女が眠りについたのを見守っていると、誰かが来る。

ドアを開けると、数人の警官の姿。

娘を殺した女を捜している彼ら。

僕がうなずくと、彼らは僕の部屋に上がりこみ、彼女を揺すって起こそうとするが、彼女はいつまでもいつまでも、死んだように眠り続けている。


2001年09月01日(土) 彼の、その、固くなったものに貫かれながら、視線を感じる。

その富豪の花嫁になった時、私はまだ16歳で、何も知らぬまま、ただ、所望されて屋敷に入った。夫は、50歳を過ぎていて、私は、恋も分からぬまま彼に抱かれた。

まだ、ほんの子供で、実家を想っては泣き、友達と遊びたいと言っては泣いていた。だが、夫は決して、私を屋敷の外には出してくれなかった。夫はたくさんの人形や、挿絵の入った本をあてがい、子供のように可愛がってはくれるものの、私は、いつもどこか不満をくすぶらせていた。恋というものがどういうものか分からなくても、体の内側からふと突き上げてくるもの悲しい気分にとらわれ、見知らぬ誰かを夢想して、じりじりとすることはしょっちゅうだった。

17歳になった時、私の遊び相手に、と、夫はドールを買い与えてくれた。メイドとして連れてこられたその美しいドールは、私の話し相手になってくれたし、本を読んでくれた。私は、姉のようにドールを慕った。

「ねえ。」
「なんですか?奥様。」
「恋ってなあに?本に載っていたわ。恋って何なのかしら?」
「誰かを想う心ですわ。」
「ねえ。あなたは恋をしたことがある?」
「ありません。ドールは恋をしません。」
「ねえ。恋って何かしら?私にも、いつかすることはできるかしら?」
「奥様は旦那さまに恋をなさっていますわ。」

違う。違う。私は、夫になど恋をしていない。いくら、私が子供だからといっても、それくらいは分かる。

--

そうやって、子供の心のまま、私はその屋敷に閉じ込められ、10年が過ぎて行った。私は、見た目ばかりは分別のある女の顔になり、ドールは相変わらず美しい少女の姿のままだった。

出入りの家具屋の跡継ぎの青年が老いた彼の父の代わりに挨拶に来たのは、その秋のことだった。

その青年の姿に、私は胸が高鳴った。

「ねえ。ベッドが欲しいの。今のは、寝ている時もきしんで、うるさいわ。」
「好きにしたらよかろう。」

夫の許しが出ると、私は、すぐさま家具屋の青年を呼び、ベッドのことをあれこれ訊ねた。

そうして。

初めて手にした恋に私は夢中になった。夫の留守中に新しいベッドで、私は服を脱いだ。青年は、美しく張りつめた肌で、私の体を抱いた。彼の不器用で思いやりの少ないセックスですら、夫のそれにくらべると新鮮で、私はすぐさまそれに溺れた。

何度も。何度も。

ドールが見ている。その、冷たい目で。彼と私が交わるところをじっと。私は、家具屋の青年の、その、固くなったものに貫かれながら、ドールの視線を感じる。

--

「奥様。」
「え?なあに?」
「私、奥様より、美しいですわ。」
「突然、何を言うの?」
「奥様はこのまま老いて行きます。私は、ずっと美しいままですわ。」
「当たり前じゃない?」
「奥様は何もお知りになりません。」
「なんのこと?」
「家具屋のあの青年が、奥様からもらったお金で、若い美しい恋人にプレゼントを買ってあげていることも。」
「なあに?どういうこと?」
「奥様は、何もお知りにならない、ということです。」

私は、頭に血がのぼり、ドールが口にしたことの意味を考える。

「旦那さまだって、私のほうがいいとおっしゃいます。奥様はどんどん老いて、そうして私は美しい。」

何を言っているの?

なんで、突然、そんな。

私は、そばにあった椅子を掴むと、自分でもびっくりするくらいの力で、ドールを打ち据える。ガツン、ガツンと音がして、ドールの体が壊れて行く。私は、自分でも気付かないまま、涙を流しながら。

「奥様、あなたは何も知らない。知らない。知ら・・ない・・・。シラ・・・。」

--

ドアの隙間から妻の姿を見ていた夫は、静かにそこを立ち去る。

彼は、もう、自分が長くないことを知っている。

その目は、ドールのそれのように、空虚だ。


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