セクサロイドは眠らない

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2004年10月19日(火) 覚えていることを無理矢理忘れることはできない。一番良かった日のことを、来る日も来る日も思い出してしまうんだ。

「どうして袋をかぶってるの?」
私は、訊ねます。

すっぽりと頭からかぶった紙袋に、二つの丸い穴。

「顔を見られたくないんだ。」
その人は言います。

私は、ノートに書きます。
「顔を見られたくないから、袋をかぶっている。」
と。

「僕が怖くないかい?」
今度は、その人が私に訊きます。

私は、首を振る。

怖くありません。その人が部屋に入ってくると、ホッとします。

「何か欲しいものは?」
その人は、重ねて訊ねます。

私は、考えるけれど、思い浮かびません。それで、ノートを開いて、自分が書いたことを辿ります。アイスクリーム、と書いてありました。だから、言います。
「アイスクリーム。」
「そうか。アイスクリームが欲しいのだね?」
「分からない。」
「今度、持ってくるよ。」

その人が、なぜここにいるのか。私がなぜこの部屋にいるのか。私にはさっぱり分かりません。きっと、ここは私の部屋です。私はこの部屋にいるととても落ち着くからです。でも、その人は、なぜ来るのかしら?きっと、先生です。子供の頃もこういうことがあった。お腹が痛くて続けて休んだことがあったのです。そうしたら、担任の先生が訪ねて来ました。私は、先生に怒られるのかと思って、そっと、母と先生がしゃべっているのを盗み聞きしたんです。そうしたら、先生は、いじめとか、喧嘩とか、そういうことを言ってました。母が呼ぶ声がして、私は慌てて布団に飛び込みました。母は、先生が話をしたがっていると言いました。私は、先生のところに言って、お腹が痛いのだと言いました。先生は、ミチコちゃんのことを、何か言いました。無理なことを言われたことはないかとか。私は黙って首を振りました。ミチコちゃんは嫌いだったけど、先生に言うのはもっと怖かったからです。

先生としばらく話をした後で、先生は、何でもいいから困ったことがあったら先生に言うように、と言い、それから帰って行きました。

私は、先生を見送った後、またお腹が痛くなったみたいで、夕飯も食べられずに寝ていたのでした。

だから、先生です。きっと。

「先生。」
と、私は呼んでみました。

「僕は、先生なのかい?」
と、その人は言いました。

そう言われて、私は、急に分からなくなりました。
「先生ではないのですか?」
「いや。先生だ。僕は先生だよ。」

私は安心しました。

それから、先生とするならば勉強がいいでしょう、ということで、ノートを探しました。

私のノートは、私の手の中にありました。

ノートには、アイスクリームと書かれていました。

あれ。なんだっけ?

アイスクリームがどうしたのだろう。

私は、アイスクリームが欲しいのかしら。ならば、この人は、アイスクリームを持ってくるお店の人だ。そう思いました。

私は、
「牛乳。」
と、言いました。

「牛乳が欲しいのかい?」
と、その人は訊きました。

私は、いつも、母に言われて牛乳を買いに行っていたのです。

だから、お店では牛乳を買います。

お金を探しました。母に言われて、いつもしっかり握りしめていたのに。ポケットを探してもどこを探しても、お金がありません。私は、泣き出しそうになりながら、ポケットや、ノートの間を探しました。

「どうしたの?」
その人が言うから、お金のことを言おうかどうしようか、迷いました。お金のことを言ったら、お店の人だったら怒るかもしれないからです。

でも、その人はやさしい人でした。

お金を探していても、とがめる様子もなく、じっと私がお金を出す間待ってくれていました。

困った私は、机の引き出しを探し出しました。私のお財布はそこにありました。お財布の中には、500円玉が一個だけありました。

これで足りるかどうか分からなくて、私は、その人の顔を見ました。

その人は、袋をかぶっていました。だから、この人はきっと、お芝居の人です。

今から、私を笑わせてくれるのだと思いました。

ですが、その人は、特別には面白いことはしませんでした。

手の平には、500円玉があります。どうしたのでしょう?このお金は。

私は、財布にお金をしまうと、机に入れました。お金は机の引き出しの、右から二番目にしまうことになっているのです。親戚からもらうお年玉も、母から貰うお小遣いも、いつもここにしまうことになっています。私は、財布をしまいました。その人が見ていても平気です。その人は、お金を盗ったりしないのです。私には分かります。

私は、ふいに泣きたくなります。その人は、お父さんかもしれません。お父さんは、私が幼い頃に亡くなりました。だから、ここにいる筈はありません。ですが、お父さんにも思えます。袋の下は骸骨です。きっとそう。

私は、お父さんに抱き締めて欲しくなりました。

気が付くと、私は、震えていました。

「寒い?」
と、その人は言います。

寒いわけではないのに、私は震えています。

だから、
「寒くないよ。」
と言いました。

「じゃあ、なんで震えてるの?」
その人は、重ねて訊きます。

「分からない。」
私は、言います。

ただ、その人に抱き締めて欲しいのです。

でも、その人は、お父さんではないかもしれません。お父さんでもない人に抱き締めてもらうのはいけないことかもしれません。若い男の人だったら、なおさらいけません。

私は、とても怖くなって、泣き出しました。

「どうしたの?」
その人は訊きました。

私は、泣いています。泣いて泣いて泣いて。

--

「どうして袋をかぶってるの?」
私は、訊ねます。

すっぽりと頭からかぶった紙袋に、二つの丸い穴。

「昨日も、訊かれたね。」
と、その人は言います。

私は、覚えてないわ、と言います。

でも、ノートには、
「顔を見られたくないから、袋をかぶっている。」
と、書かれてあります。

「顔を見られたくないのね。」
私は、言います。

その人はうなずきます。

「どうして顔を見られたくないの?」
私は、訊きました。

男の人は言いました。
「あるところに、男と女がいました。会った瞬間から恋に落ちました。二人はたくさんの思い出を作る約束をしました。なのに、女の人は病気にかかりました。それはとても哀しい病気でした。つい今あったことも、忘れてしまう病気です。」

私は、言いました。
「病気なのね。可哀想に。」
「そうでもないんだよ。忘れるということはね。嫌なことも忘れてしまうからね。でも、覚えているほうが辛いんだ。覚えていることを無理矢理忘れることはできない。一番良かった日のことを、来る日も来る日も思い出してしまうんだ。」

その人は、うつむいて泣いているみたいでした。

私は、言いました。
「袋男さん。」

その人は顔を上げました。

「僕が?袋男かい?」
「ええ。」

私は、そういって笑い、ノートに書きました。
「袋男さん。」

私達は声に出して読みました。
「袋男さん。」

「何のお話だったかしら?」
私は、言いました。

「ああ。病気の女の人の話だ。」
「男の人の話じゃなかったかしら?」
「男の人の話でもある。」
「男の人は、何の病気なの?」
「忘れられていたら、どうしようって思って、苦しくて眠れない病気だ。」
「忘れられていたら、どうしよう・・・。」
「そうだ。愛する人から忘れられてしまったら、彼は、辛くて死んでしまうだろう。だから、怖くて顔を隠す男の人の話だ。」
「愛する人から、忘れられてしまったら。」
私は、考えました。

「そうしたら、新しく名前をつければいいんじゃないかしら。」
私は、言いました。

とても素晴らしい思いつきだと思いました。

「袋男さん。」
私は、言いました。

「袋を取ったら、何と呼べばいいのかしら?」
とも、言いました。

袋男は、答えました。

「きみが呼びたいように。」
「私が、呼びたいように?」

袋男さんは、袋に指をかけ、ビリビリ破き始めました。

中から出て来たのは。

名前は分からないけれど、とても、気持ちのいい顔でした。
「私、あなたの顔、知ってるわ。」

そう言って、手を伸ばしました。

その手を、彼はそっと握ってくれました。

袋男さん。

私は、彼のことをそう呼びます。袋なんかかぶっていないのに。どうして、この人は袋男さんなのでしょう。それは、きっと、その人がそう呼ばれてとても嬉しそうだからなのだと思います。


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