セクサロイドは眠らない

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2002年01月23日(水) その黒い影のような生き物は、道行く人々に飛びつくと、耳の穴や鼻の穴から、その人の体内に入って行くのだ。

彼女が少し他の人間と違うことに気付いたのは、往来を歩く彼女そのものが、ぽっかりと暗い穴のようだったからだ。

目を凝らして見れば、彼女は普通の人のようでもあり、むしろ、肌は抜けるように白く美しかった。だが、その美しさは光りを発する美しさではなかった。更によく見れば、彼女の周りを、チラチラと黒い影が踊っている。

あれは、なんだろう?

僕は、彼女から目が離せない。

彼女の長く体を覆う服のポケットから。手の平から。黒い小さな影が飛び出してくる。そうして、その黒い影のような生き物は、道行く人々に飛びつくと、耳の穴や鼻の穴から、その人の体内に入って行くのだ。

あ。

僕は、それに気付いて、思わず小さな声を上げた。

その瞬間、彼女が振り向く。

そうして、にっこりと笑う。

「坊やには、見えるのね?」
近寄って、僕にだけ聞こえるようにささやく。

僕は、驚きのあまりうなずくしかできない。

--

母さんは、いつだって「正しき人」だ。誰よりも、自分でそう言っている。そうして、いつも背筋を伸ばし、相手の目をきちんと見て、言葉を常に最後まではっきりと言い切る。

僕は、母さんを、他の誰よりも尊敬していたが、同時に、嫌ってもいた。

他人の非を責めることすらしない、その潔さが、父さんや、僕に、とても居心地の悪い思いをさせるのだ。

僕は、一つ一つの事柄に宿る善・悪の評価が、その実ひどく不安定だと知っていた。何より僕自身が、友達や父さんといる時には善良でまっとうな子供であると思えるのに、母さんの前に出た途端にとても薄汚く醜い人間に転落するのを感じた。そのことに気付き、いつかこの家を出てやると決意してから、僕という子供はようやく少し、息をゆっくりと吸い込むことができるようになったのだ。

僕は、いい。

だけど、父さんは?あの、正しき母さんを捨ててどこかに行くなんて、誰にだってできないだろう。

だから。

父さんが、何とか息をする場所を捜し求めたことを、僕は決して責めない。

母さんは、父さんが、時折、その安らぎの場所に行くのを見逃さなかった。

--

「いらっしゃいな。」
その、黒い影を操る、美しい人はそうやって僕にささやいた。

僕は、うなずき、黙って付いて行った。

彼女の、高い塀に囲まれた、その屋敷に。

「一人で暮らしているの?」
僕は、訊ねた。

「ええ。まあ。ね。」
彼女は、曖昧に笑った。

不思議なのは、その庭で、何もない。ただ、黒っぽい土が敷き詰められたその庭を、僕は窓越しに眺めながら、出されたお茶を飲む。

「変な庭だって思ってるんでしょう?」
「はい。」
「あそこではね。あるものを育てるの。」
「あるもの?」
「ええ。」
「ねえ、魔が差す、って言葉、知ってる?」
「はい。」
「人は、どんなに気を付けていても、突然、不意を突かれて、思わぬことをするものよねえ。」

彼女に連れられて、僕らは庭に出る。

その庭の土をじっと見つめていると、何かが土の中でうごめいているのが見える。

「ねえ。見えるでしょう?」
「あれ、何ですか?」
「魔、よ。」
彼女は、クスクスと笑う。

その、土の下でうごめいている何かは、次第に膨らんで来て、ぽっこりと顔を出す。目も鼻もない、その黒い影のような小動物に、彼女は手を差し伸べる。それらは、彼女の手を伝って、彼女の長く体を覆うドレスにもぐり込む。黒い影は次々と土から顔を出す。その、邪悪な黒に、僕は目を奪われる。人の心を不安にさせる、黒。

「人の心にね。偲び込んで、一瞬、その人の心を惑わすの。」
「そんな。」
「私のせいじゃないのよ。彼らは、寄生する主を探しているし、彼らを呼びこむ人間の心には、彼らが入り込み易い、深い暗闇を持っているものなの。互いに惹き合うのよ。」

僕は、あることを思い付き、彼女に頼んでみる。
「ねえ。その、魔、ってのを僕に一匹くれない?」
「いいわよ。役目を終えると、憑り付いた人の体内から出て行くわ。」

僕は、それを洋服のポケットにそっと入れる。

--

「随分遅かったじゃない?」
母さんは、僕を見るなり、言う。

「うん。ごめんなさい。」
「ポケットから手を出しなさい。それから、洗面所で手を洗った後は、消毒も忘れないで。すぐ、お夕飯よ。」
「パパは?」
「今日も遅いわ。」

その瞬間、それは、スルスルと僕のポケットから飛び出して、あっという間に母さんの背を駆け上ると、母さんの耳の穴にスルリと滑り込んだ。

それっきり、僕は、その小さな黒い生き物のことを忘れていた。

--

夜中に、何かの物音が響く。

僕は慌てて階下に降りて、両親の寝室を覗く。

母さんの足元に父さんが倒れていて、どす黒い液体が広がっている。

しばらく立ち尽くしていた母さんは、ようやく、自分のやったことに気付いたかのように、悲鳴を上げる。

その途端、母さんの耳からも、鼻からも、口からも、溢れ出すようにたくさんの黒い影が流れ出す。

黒い影達のうち、ある者は床の血を舐め、ある者はドアの隙間から走り出て、僕の足元をすり抜けて行く。

それらは、キーキーと、いやらしい泣き声を立てるので、僕は思わず耳をふさぐ。

瞬間、僕の耳からも一匹。


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