2007年04月29日(日)  マタニティオレンジ112 「自立とは」を考える

障害者の「自立」について考える勉強会に出席する。「あなたは自立していますか」と聞かれたら、迷いなく、はい、とわたしは答える。理由は、自分で働いて稼いだお金で生活していく能力があるから。ところが、最近読んで衝撃を受けた『障害とは何か―ディスアビリティの社会理論に向けて』という本の中に「従来身辺自立と職業的自活に高い価値を置く伝統的な自立観」というくだりがあり、わたしの抱いていた自立観がまさにそれだと気づかされた。経済的に自立していること=自立だとわたしは思っていたのだけれど、職業に就かず、収入がなく、身の回りのことをこなすのに介助を必要とする人であっても、「自己決定を行うことこそが自立」である、と著者である全盲の社会学者・星加良司氏は説く。自分が何をしたいか、どうしたいか、主体的に決定し、主張し、実現できることが自立なのだと。

今日の勉強会では「欲しいことを欲しいと言い続けられること」が自立なのだという話があり、イソップ童話のすっぱいブドウの寓話が紹介された。手を伸ばしても届きそうにないブドウを、「すっぱいブドウ」だと呼ぶキツネの話。自分の欲求が達成されないとわかったとき、自分を納得させる理屈をつけて、理想と現実のギャップを埋める。それは、自分が傷つかないための呪文のようなもので、手に届かないものを「価値がない」と思い込むことによって喪失感、敗北感を味わわずに済む。最初から欲しくないと言うほうがラクなのだ。わたしたちは多かれ少なかれ、「すっぱいブドウ」を使って自分を守っている。失恋したときに、「つまらない男だった」と自分に言い聞かせたりして。「すっぱいブドウ」は障害のある人だけのものではない。ただ、障害がある人の場合は、人一倍努力しなくては手に届かないものが多いから、「すっぱいブドウ」の出番がふえ、ともすれば日常茶飯事となる。「人の手を介してもいいから自分の意思で実現する」「実現しなくても欲望を持ち続ける」ことが大事だという話を聞いて、自立とは生活の形態よりも心のありようなのだ、と思った。言葉の意味をつかもうとするとき、わたしは反対語を考えてみる。これまでは「自立⇔依存」だと思っていたけれど、我慢せずに遠慮せずに諦めずに意思を主張するという意味では「自立⇔抑圧」のほうが近いかもしれない。そして、「抑圧」の逆をたどると、「自由」や「解放」が浮かび上がる。 

自己決定という意味において、わたしは自立しているだろうか、とわが身を振り返ってみる。欲しいもの、やりたいことは見えていて、その実現に向かって手を伸ばしている。だから、自立している、と自己判断する。では、生後8か月の娘はどうだろう。今のところ彼女の欲求はおなかを満たす、おしりをきれいに保つ、遊ぶ、寝る、といったところで、一人で出来ない食事とおむつに関しては、泣いて欲求を訴え、大人の手を借りて実現にこぎつけている。けれど、決断を迫られるような局面には向き合っていないから、自己「主張」はしていても、自己「決定」しているとはいえない。

『障害とは』の本に話を戻すと、その中に小佐野さんという方の1998年の発言が紹介されている。
「自立」には二つの側面があって、その人自身がどうしたいか、ということがちゃんと実現され、保障される、という側面も大切なわけですが、もう一つの側面として、「自立」って社会的なものであって、どんな人でもその他の廻りの人との関係の中で、そこにいることに意味があるということ、そういうことが認め合えるということが「自立」なんじゃないか、と僕は思っています。
子どもを「一人前」に育てるというのは、「自立」へ導くことだと言えるかもしれない。今はまだ生存することに必死なわが子が、やがて、どう生きるかを選べるようになったとき、その意思を尊重すること、そして、わが子が生まれてきた意味を見出せるようにすること、それが、親にできるささやかなことではないだろうか。つかまり立ちをはじめて自分の足で立とうとしている娘の姿を思い浮かべながら、自分は自分、その心をよりどころに立つことの大切さを思った。

2002年04月29日(月)  宮崎あおい写真集『happy tail』にいまいまさこ雑貨


2007年04月28日(土)  三枝健起監督の新作『オリヲン座からの招待状』

映画『ジェニファ 涙石の恋』でご一緒した三枝健起監督の新作『オリヲン座からの招待状』関係者試写にお邪魔する。ジェニファと同じく製作はウィルコ、プロデューサーは佐々木亜希子さん。『鉄道員』(浅田次郎)に所収されている原作が大好きなので、とても楽しみに拝見した。原作をそのままなぞるのではなく、原作に埋もれている部分に光を当てて膨らませたような脚本になっている。その広げ方、深め方がとても好ましく、この映画を観てから原作を読み返すと、いっそう登場人物たちに思い入れできそうに思えた。

純愛映画ブームは一段落したようだけど、観ていて頭に浮かんだのは「純愛」という言葉だった。「純真」のほうがしっくりくるかもしれない。主人公の青年・留吉(『それでもボクはやってない』の加瀬亮さんが好演)の一途な恋、映画へのひたむきな思い、不器用で嘘のない生き方、どれもがもどかしいほど純粋で真摯。飽和状態の平成の世なら浮いてしまいそうだけれど、数少ない娯楽だった映画がテレビに取って代わられる頃の昭和が舞台だと、ファンタジーのような純真が現実味を帯びてくる。

『ジェニファ』でも指摘されることだけど、映像が美しい、音が美しい、その重なり合いがまた美しい。鑑賞してからひと月も経って日記を書いているが、じんわり染み入るような上原ひろみさん作曲のテーマの余韻が残っている。印象的なシーンの数々も、紙焼きを取り出すように思い出せる。宮沢りえさん演じる若き日のトヨが自転車に乗っている情景は、映画は一枚一枚のシャシンの連続だと思い起こさせるような構図の連なりに引き込まれた。そして、懐石料理や納豆やトマトやとうもろこしが登場した『ジェニファ』以上に食べものがよく出てくる。その食べものがとてもおいしそうで、作り物めいていない感じがいい。ちゃんと、登場人物たちの生活に寄り添っている実感がある。

三枝監督は実景を通して心象を描くのが上手な監督だと思っているが、この作品に登場する「ある道具」の扱い方が心に残った。人を喪うということは、ある道具を使っていた主がいなくなることであり、その役目を誰かが引き継ぐことなのだと、しみじみと感じ入った。映画の中に流れるしっとりとした時間に身をまかせ、ささやかだけれどあたたかな幸せに浸れる作品。11月に東映系で全国ロードショーとのこと。

2004年04月28日(水)  黄色い自転車
2002年04月28日(日)  日木流奈(ひき・るな)


2007年04月27日(金)  マタニティオレンジ111 「祝・出産 祈・安産」の会

今年1月1日に女の子を出産した会社時代の同期のタニヤン宅でランチ。集まったのは、わたしと昨年8月に生まれた娘のたま、昨年10月に出産したアヤさん母娘、6月に女児出産を控えたゲッシー。年が近くて気が合うので会社を辞めてからも親しくしている人たちが、去年から今年にかけて相次いで出産。偶然なのか、パソコンの電磁波のせいなのか、会社に特殊な「気」でも流れていたのか、示し合わせたかのように女の子の母親になっている。

「一年前に集まったときからのこの変わりようは、どうよ?」。四才の女の子(またしても!)の幼稚園のお迎え帰りに、お茶の時間から合流したアツヨちゃんが言った。乳飲み子を抱えた若葉マークの母親と妊婦に混じると、子育て大先輩の貫禄があるけれど、年齢を考えると、アツヨちゃんだって決して早いほうじゃない。だけど、去年の四月、今日の5人を含む元同僚8人で集まったとき、子どもがいるのは彼女だけだった。産んで働き続けるのは難しい、自分の時間をもうしばらく楽しみたい、欲しいけれど授からない……産まない理由、産めない理由はそれぞれだけど、「30代後半が8人いて、子ども一人は少ないよね」と言い合った。そのときわたしは妊娠5か月だったけれど、授り待ちの友人への遠慮もあって言い出すきっかけを逃してしまった。わたしにとっても、あの日集まったうちの半数がそれから一年余りの間に母になるとは予想外だった。「8分の1」の淋しさを感じていたアツヨちゃんは一気に「8分の5」集団の筆頭になった。35歳を過ぎて「そろそろ」とタイミングが重なったのもあるだろうけれど、これだけ続くと、妊娠がうつるというのは本当なのかもと思ってしまう。

仕事も好きなことも一通り経験してからの出産は「人生にやさしい」のだと先日見かけた出産本の宣伝コピーにあった。たしかに、年齢的に落ち着いてからはじめる育児は、じっくり子どもに集中できる気がする。集まった元同僚たちは皆、仕事のはりあいで輝いていたのとはまた違う、会社では見せたことのない充実したいい顔をしていた。

2004年04月27日(火)  二級建築士マツエ
2002年04月27日(土)  映画デビュー!「パコダテ人」東京公開初日


2007年04月26日(木)  マタニティオレンジ110 保育園のPTAはイベント盛りだくさん

今月はじめに入園式に出席した保育園のホールで、こんどは父母総会。その間、子どもは保育していてもらえる。園長先生の挨拶、先生方の紹介、保育方針の説明、お知らせが続く。「子どもは『メタボ』という言葉が好き」という栄養士さんのお話に、父兄の笑い声が起こる。「野菜食べないとメタボになりますよ」と言われると、喜んで食べてくれるのだとか。保健士さんは「少々転んだりすりむいたりは大目に見てください」。過保護にされて切り傷すり傷を経験しないまま大きくなった小学生に「切り傷すり傷の血が止まらない」現象が見られるとのこと。質疑応答では、「娘が調理に興味を示すようになったので、調理室を子どもがのぞけるように台を置いて欲しい」(検討しますという答え)「有料でもいいので紙おむつを園で処理できないか」(持ち帰りが負担になっているのは理解するが、膨大な量のゴミになるので難しい。やっている園を聞いたこともない、との答え)といった意見が出る。これまで図書館から園が借りていた本を園児に又貸ししていたのができなくなったことについては、「家でいらなくなった本を持ち寄って文庫にしては」という意見が出た。わたしも同じことを思ったので、「本の内容の吟味が難しい」ということで保留に。「うちの子は大喜びで通っています」「園も先生も大好きみたいです」といったお父さんお母さんの声が聞けて、あらためて、いい園に入れてよかったと思う。園主催の総会に続いて、父母会の総会があり、くじ引きで当たりを引いて役員になったわたしも自己紹介した。

7年前に発足した父母会は、小学校でいうPTA。子どもの頃に親がベルマークの仕分けに学校へ来たりするのを見ていたけれど、自分が親の立場で関わるようになる番がめぐってきた。役員になったおかげで、入園早々PTAの世界をどっぷり体験している。活動内容などを話し合う役員会は4月に顔合わせの1回目をやり、先週金曜日に2回目を開催。1〜2か月に一回ペースで開かれるとのこと。公民館を借りた一時間のうち、飢えた子どもたちにおやつを食べさせて黙らせるのに20分、後半20分は集中力が切れた子どもたちが机のまわりを走りはじめ、会議に割けるのは20分がいいところ。駆け足で「ハイ次」と進めて、「あとはメールで!」で解散となる。役員8人中7人の子どもが男の子で、わが家のたまは紅一点。お兄ちゃんたちのパワーに目を丸くして圧倒され、泣くことも忘れていた。いろんな子どもがいて、いろんなお母さんがいて、その中に自分がいることがなんだか不思議で面白い。少し前には想像もしなかったことをやっている。1回目の役員会は土曜日にも関わらず、全員お母さんだった。共働きなんだから、お父さんが来る家があってもいいんじゃないかと思うのだけど。

役員にはそれぞれ役職がつく。0才児クラスの親にはなるべく負担を少なく、と取り計らってくれたものの、わたしが担当することになった会計も十分に忙しい。家計簿もつけたことないのですが大丈夫でしょうか、と引継ぎのときに前年度の会計さんに聞いたら、わたしも数字は苦手だけど何とかなりましたよ、と勇気づけられる。帳簿つけより会費集めが主な役割だという。まずは郵便局へ行って通帳の住所欄を書き換える。名義は父母会のままだけど、住所欄を毎年、その年の会計の名前に書き換えていく。住所欄のスペースは残りわずか、あと何年持つやら。配布用の「会費納入のお願い」を作り、ひさびさにコピーを書いた。わたしのコピーでお金が集まるだろうか。納入率を上げるために、広告会社時代に東京ディズニーランドの広告を一緒に作っていたデザイナーのE君にPOPの制作もお願いした。万単位のファミリーを動かしているE君のクリエイティブが保育園に通用するか、お手並み拝見。

父母会の新聞も役員が交代で編集・発行する。わたしは秋に発行する号を担当することになった。それから、各クラスの父母が親睦を深める懇親会を取りまとめるのも役員の仕事。送り迎えのときに顔合わせするお母さんをつかまえ、名前と連絡先を聞いて回る。同時に場所探しを開始。子連れで大勢でゆっくりできるところ。六義園の茶室を借りられると聞いて問い合わせたり、座敷のある店をネットで調べたり。保育園に預けてなかったらこういう作業も発生していなかったわけだけど、仕事の合間の気晴らし、レジャーと思えばそれなりに楽しめる。

2002年04月26日(金)  『アクアリウムの夜』番外編:停電ホラー


2007年04月25日(水)  教え子四人とシナリオ合評会

一昨年の10月から半年間、シナリオ講座の研修科を受け持った。そのときの教え子の男の子四人が出産祝いを贈ってくれたので、内祝い代わりにわたしの家で合評会を開くことになった。四人がときどき居酒屋で合評会を開いていることは聞いていた。最初は真面目に批評していても、途中からは単なる飲み会になるというが、合評会や仲間の存在が書き続ける励みになっているのがうかがえる。独学でコンクールに応募していたわたしは、そういう同級生がいることをうらやましく、微笑ましく思う。

一週間前必着の約束に一人も遅れることなく原稿がそろってから、一週間かけて四人の作品を読んだ。講座を受け持っているときも、わたしは時間の許す限りじっくり読み込み、気づいたことやアドバイスできることをできる限り伝えるように努めた。わたしが脚本家になれたのは、結局会うことが叶わなかった新井一先生が雑誌の誌上シナリオ講座に応募したわたしの作品に目を通し、温かい励ましの言葉をくれたから。書きたいという思いがある人には、書き続け、デビューのチャンスをつかんでもらいたい。新井先生がわたしにしてくれたことを、これからの人たちに返せたらと思っている。だから、そういう機会に恵まれたときは、真剣に読む。その代わり、書く人にも真剣勝負を求める。誤字脱字には厳しい。何度も読み返し、これでどうだ、と自信たっぷりに突き出して欲しい。気の抜けた原稿は、こちらも気が入らない。

四人の原稿には、書き続けてきた時間に値する成長がうかがえた。脚本のスタイルはだいぶ整ってきたし、読みやすくなっている。でも、肝心なのは、中に何を込めるか。この物語はどこへ向かうのか、最後に何を残したいのか、そこがまだ弱い。「モチーフはいいけど、テーマとうまく絡んでない」「主人公のキャラクターが途中で変わってる」「結末に驚きがない」……。出産祝いのお礼のはずなのに、力が入って、つい言葉がきつくなってしまった。だけど、コンクールで勝ち残るには、他の作品より突き抜けた何かを発していないと、埋もれてしまう。それを見つけてほしい。

互いの作品を評する四人の言葉にも成長が見られた。わたしが見落としている作者の意図を汲みとっていたり、そういう解釈もあるのかと気づかされたり。脚本を読む眼がずいぶん肥えている。初稿は勢いで書いてしまうけれど、直しで完成度を上げていく作業が難しい。どこを削り、何を加えるか。見極めを誤ると、改訂が改悪になってしまう。プロの脚本家の場合はプロデューサーや監督とああだこうだ言いながら方針を定めていくけれど、コンクール応募時代は孤独な作業になる。そんなとき、「本を読める」仲間がいるのは、とても心強い。それぞれ仕事を持ちながら、励まし合い、書き続けている四人。この中の誰が最初にデビューしても、自分のことのように喜びを分かち合うのだろう。もちろん同時に焦りやジェラシーも感じるのだろうけれど。お土産のケーキでお茶しながらの休憩をはさんで四時間。コンクールに応募していた頃を思い出して、お礼をするつもりが、元気と刺激をもらった。

2005年04月25日(月)  美保子さんちで桃を愛でる会
2003年04月25日(金)  魔女田本「私、映画のために1億5千万円集めました」完成!
2002年04月25日(木)  田村あゆちの「ニュースカフェ」に演


2007年04月24日(火)  4000人と出会った男、大阪へ。

会社時代の同期のなかじが大阪支社に転勤となり、ひさしぶりに同期で集まる。最後の同期会は昨年の7月。大きなおなかを揺らせての参加だったけれど、そのとき、臨月のわたしのウエストといい勝負をしていたのが、なかじのメタボ腹だった。入社したときから体も声も大きな人だったけれど、近年は横幅の成長が著しい。声と体の大きさに人間の引力は比例するのか、入社研修以来、なかじの話はいつも同期を引き付け、笑わせてくれていた。その調子で、飲み屋でもわたしの本(ブレーン・ストーミング・ティーン)をすすめ回ってくれ、「何人の女の子に贈ったかわからない」と言う。

どうやらなかじの巧みな話術は女の子との会話で磨かれたものらしく、今夜の同期会で「これまでに合コンで4000人と出会った」という発言があった。平均して週1回で年約50回、それを十代後半から約20年続けているので、累計1000回。一回に4人に出会うとして、4000人になるという。年を重ねてもペースは落ちず、大阪転勤の辞令が出た数日後も合コンに出かけたところ、ずいぶん前に合コンで会った女の子と再会したのだという。「もう東京は一巡したかなと悟った」そうで、東京を離れる踏ん切りがついたのだとか。満を持して来月から大阪市場を開拓することになったなかじ、突っ込み厳しい大阪の女の子相手に百戦錬磨を続けてほしい。

2002年04月24日(水)  天才息子・西尾真人(にしお・なおと)


2007年04月23日(月)  はちみつ・亜紀ちゃんのお菓子教室でお買い物

先週の金曜日、友人のはちみつ・亜紀ちゃんのお菓子教室へ娘のたまを連れて遊びに行った。亜紀ちゃんの友だちで、わたしも五年ぐらい前に一度会ったことがあるというビーズアクセサリーデザイナーの佐和子ちゃんが、教室のスペースを使って展示会を開くという。

行ってみると、ちょうど亜紀ちゃんのお母さんとそのお友だちが、テーブルに広げたネックレスやブローチを品定め中。突然の赤ちゃん出現に、「まあかわいい」と目を細めてだっこしてくれ、歓迎モードにたまは大喜び。そこに到着した佐和子ちゃんも大の子ども好きで、「甥っ子の面倒をよく見てたの」と慣れた様子でだっこしたりあやしたり。たまは佐和子ちゃんの首からじゃらじゃらぶら下がっているビーズ(大ぶりのもので、玉に近い)のネックレスが気になってしょうがない様子で、手を伸ばしては引っ張る。「ばらばらになっちゃう」と心配するわたしに、「大丈夫。直せますから」と佐和子ちゃんは涼しい顔。子守りをおまかせして、じっくり作品を見せてもらう。見るだけのつもりが、フランスで買ったというアンティークボタンを組み合わせた指輪に一目惚れ。ハートのストーンをぶら下げたネックレスにも惹かれたのだけど、わたしの場合は引っ張られて崩壊しても直せないので、指輪を選ぶ。色はもちろんオレンジ。

亜紀ちゃんが作ってくれたシフォンケーキをいただきながら、しばしおしゃべり。研究熱心でチャレンジ精神旺盛な亜紀ちゃんは、レシピ開発にも余念がないけど、教室のあちこちにも手作りの工夫が見られて、探険しがいがある。カフェでもらう木のスプーンに色を塗ってつなげたのれんや、ワインの空き箱に取っ手をつけた引き出しなど、発想も面白いけれど、それを形にしてしまうところがすごい、えらい。

トイレの前の壁には、ハートをモチーフにしたポップなイラスト。これを描いたイラストレーターのまりまりさんにも、亜紀ちゃんの紹介で会ったことがある。人脈もユニークな亜紀ちゃん、わたしとの出会いは、ウェディングケーキを作ってもらった6年前。友人に紹介された初対面の日から、あまりに楽しい人で、離れられなくなってしまった。

2005年04月23日(土)  根津神社のつつじまつり
2004年04月23日(金)  くりぃむしちゅー初主演作『パローレ』(前田哲監督)
2002年04月23日(火)  プラネット・ハリウッド


2007年04月22日(日)  植物は記憶のスイッチ

清瀬という町に、はじめて行く。待ち合わせより三十分ほど早く着いたので、駅前から伸びる小道を歩いていると、道の両側に露店を広げ、フリーマーケットが開かれていた。「苔玉」の札が目に留まり、しゃがんで品定め。多肉植物や山野草が寄せ植えされ、花も咲いていて、なかなか凝っている。「これは三時になったら咲く花でね」この人が作者なのか、気のいいおじさんが熱心に説明してくれる。「表面が乾いてきたなって思ったら、バケツにどぼんって突っ込んで、泡がぶくぶく出てきたら引き上げてよ」。ひとつ550円、ふたつなら1000円だと言う。二つ買うと、竹を黒く塗った手作りの水切り皿もおまけしてくれる。「あと、これもあげるよ」と差し出された風車を「これはいいです」と断ると、おじさんは悲しそうな顔になった。これから打ち合わせで、風車が鞄から飛び出しちゃうから。おじさん、ごめんなさい。もっと喜んでくれる人に、おまけしてあげてください。

二つの苔玉が潰れないように、崩れないように、封筒に入れて固定。家に帰って取り出すと、球形も頂の植物たちもきれいなままだった。キッチンのシンクの前に飾る。清瀬には三時間ほどしかいなかったけれど、二つの苔玉を見ると、駅前の小道での買い物が旅先での一コマのように思い出されるだろう。

植物は、ゆかりの土地や人の記憶を連れてきてくれる。宮崎で買った、青島の軽石に入った400円の多肉植物は、一度茶色くなって枯れたばかり思ったのだが、土を入れ替えたら、以前よりも鮮やかな緑になった。枝と呼ぶのか葉と呼ぶのか、トカゲのシッポみたいな先細りの緑が元気良く前後左右に飛び出している。広い車道の真ん中にそびえていた椰子の木を連想する。神代植物公園の温室の中で長机の店を広げていたじいちゃんが適当な鉢からハサミでチョキンチョキンと何種類か見繕ってくれた多肉植物の欠片は、うまくいかなくても300円だし、と思っていたら、見事に根づき、育ち、どんどんふえている。その図太い生命力は、じいちゃんの印象に通じる。「土に挿せば伸びるから。あんたでもできる」。今日もどこかの植物園で多肉植物を切り売りしながらお客さんに憎まれ口をきいているのかな、と思い出す。会社で隣の席にいた佐々木君が退社するときにくれたパキラは、佐々木君のあだ名にちなんで「チャチャキ」と呼んでいる。パキラのチャチャキに元気がないと、人間のチャチャキ君のことが気になって、「元気?」とメールしてしまう。

2002年04月22日(月)  ワープロ


2007年04月21日(土)  マタニティオレンジ109 ご近所仲間とたま8/12才

午前中に友人ミヤケマイの個展を見た帰り、8月22日生まれの娘のたまの一日早い8/12才ケーキを求めて、銀座を奔走。まずは大好きなアンリ・シャルパンティエの銀座店へ。重厚感あふれるショーケースはステキだったけれど、ホールケーキはピンと来るものがなく、松屋へ向かうことに。と、通りの向こうにダロワイヨがあるのを思い出し、ショーケースに並んだ春の新作の中に、てんとう虫のケーキを発見。形は最高だけど、ボリュームが足りないかな、とやっぱり松屋へ。スイーツ売場をうろうろしてたら、色とりどりのプチシューが目に飛び込んだ。そうだ、これをてんとう虫のまわりに飾ろう。お店はと見ると、アンリシャルパンティエ。プチシューを8つ買ってダロワイヨへ引き返し、てんとう虫一匹とプチシューの援軍のプチガトー3つを買い、店を出て駅へ向かう途中で思い出した。「肝心のプレートを忘れた!」。急いで引き返し「たま8/12才」と書いてもらう。行ったり来たりのせいで、家に帰りついたときにはプチシューはこぞって逆立ちし、頭のクリームが箱に擦り付いてはげてしまっていた。そんな失敗話もまた、バースデーケーキのトッピングということで。


マンスリーゲストはご近所仲間のK一家と、T氏とM嬢のカップル。食欲と好奇心が旺盛で、気が合い、話が合い、集まるといつも時間を忘れてしまう大好きな人たち。ご近所仲間ではこのところ年に一人女の子がふえていて、たまは「三女」となっている。「次女」は、たまより一年早く生まれたK家のまゆたん。「カマちゃん」とたまのことを呼んで、かわいがってくれている。「長女」はロンドン在住のY家のユキちゃん。一時帰国して三姉妹そろう日が楽しみだねえと話す。親戚の子のような親しみを込めて互いの子どもの成長を楽しみあえるご近所仲間の存在は、とても心強く、ありがたい。

メニューは、毎度の魚屋てっちゃんのお刺身と、定番のまぐろとアボカドのサラダと、近所のお肉屋さん自慢のステーキと、手づくりパン。せっかくいい脂があるんだから、ガーリックライスを作ったら、とK夫人が提案し、作り方を伝授してくれる。ステーキを焼くときの脂と肉の脂身部分をにんにくとともに細かく切って塩コショウし、ごはんと炒めると、脂がたっぷり米にしみこんで、なんともおいしい。「危険だ〜」と言い合いながら、あっという間に平らげる。

たまは終始ごきげんで、愛想をふりまいていた。7か月からの一か月は、保育園に行き始めてからの成長に目を見張るものがあった。離乳食は裏ごししたものから粒々のものに。ハイハイはおしりが上がるようになり、片手ずつ上げて椅子の足やわたしの手をつかむようになった。「バアバア」「パアパア」とハ行の音を発音することが多かったのが、「マアマア」「マンマア」とマ行がふえてきた。次の月例誕生日までには「ママ」と呼んでくれるかもしれない。

2002年04月21日(日)  貧しい昼食


2007年04月20日(金)  マタニティオレンジ108 助産院で赤ちゃん同窓会 

出産した助産院で、同じ頃に出産・入院した人たちを集めた同窓会が開かれる。参加したお母さんは十名ぐらい。それぞれ赤ちゃんを連れていて、さらに、お兄ちゃんお姉ちゃん連れの方が半分ぐらいいるので、かなりにぎやか。自己紹介を聞いていると、第二子出産の人は、「一人目は病院で産んだけど、二人目は自分のやりたいように産みたい」と助産院を選んだ人が多い。わたしが「食べものがおいしいと聞いて、ここにしました」と自己紹介すると、「わたしも」という人が何人かいた。全食完食したのはわたしだけではなかった様子。皆さん、一様に「次もまたここで産みたい」と言っていた。同窓会に来るということは、満足しているあらわれだろうけれど、「いいお産」と言い切るのを聞くのは気持ちがいい。どのお母さんも、はつらつとしたいい顔をしていた。

おおらかな助産院の雰囲気は、わたしにはとても合っていて、近代的でない、どちらかといえばレトロな建物もあたたかみを感じて好きだった。ところが、現在建設中のビルに引っ越すのだという。「次に産むときは新しいビルよ」と助産師さんは声を弾ませていたけれど、わたしは母校の校舎が取り壊されて新校舎に建て替えられるような淋しさを覚えてしまう。自分が入院中に「あなたはこの部屋で生まれたのよ」と子どもを連れて遊びに来ているお母さんたちがいて、ほほえましかったのだけど、あれができないのは残念。

レトロといえば、助産院と提携している産婦人科さんのことが話題になった。助産院での出産でもしものことがあった場合に搬送されるのがその産婦人科なのだが、昭和初期で時間が止まっているような古めかしい建物で、設備も年季が入っている。とても味わいがあって落ち着くのだけれど、緊急時の搬送先として考えると、助産院のほうが設備が充実しているのではと思えてしまう。おかげで、わたしは「何が何でも助産院で産みきろう」と奮い立ったのだけど、同じように思った人もいたようだ。「新しくしたらもっと患者さん来るんじゃないって言ったんだけど、あそこの先生、儲けようっていう欲がないのよねえ」と助産師さん。何度か検診を受けたその産婦人科は、せめてこのままでいて欲しい。

2005年04月20日(水)  東京ハートブレイカーズ公演『黒くやれ』
2002年04月20日(土)  16年ぶりの再会

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